きょうのコラム「時鐘」 2010年6月25日

 「北國文芸」六月賞受賞作に、楽しい作品があった。「いつもながら狢(むじな)の餌と知りつつも西瓜(すいか)の苗を植えるとするか」(七尾・高橋悦子さん)

せっかくのスイカの苗がムジナに荒らされる。「楽しい作」というのは失礼だろうが、作者はムジナの悪さを憎んではいない。無駄な畑仕事に挑む自分を笑ってもいない。それも暮らしを楽しむひととき、という心のゆとりや優しさが伝わる

損得勘定に縛られるだけでは窮屈である。無駄を味わう余裕も大切である。そうと分かっていても、ダメを承知で宝くじ売り場に並ぶくらいが関の山という身には、実にうらやましい心境の歌である

「いつもながら」の選挙が始まった。票田や草票という言葉があるように、出馬した面々に、われらの顔は苗に見えるようである。苗ならば、花も実もある政治の姿が本望である。あたら、タヌキやムジナの餌で終わってほしくはない

そう願うが、同じ穴のムジナのたとえもある。顔を変えても、同じ穴から走り出た姿が目に付く選挙のように映る。いつも以上に見極めが大事。化かされることも、ないではないのである。