時間帯のせいか、プールには誰もいない。
「……ここ、かな」
窓際に程近い場所を選ぶと、近くのテーブルに預かってきた新聞を置いた。
広いプールの上で、水面が跳ねるようにキラキラ光っている。
「きれい……」
その眩しい光に、心が踊るようだ。
水の匂いを胸いっぱいに吸い込んで、きらめきの中へと飛び込もうとした瞬間。
ビョルッ!ビュルビュルビュルッ!!
「……っ!?」
無数の触手が私に襲い掛かってきた!
「ッ……はぁっ!」
驚きを抑えて、一瞬で気持ちを切り替える。
指先を揃え、私を絡め取ろうとする触手に手刀を振り下ろした。
ザンッ!
醜い体液をぶち撒けながら、触手の1本が水面に沈んでいく。
その様子を見て、他の触手が怯んだ。
「あぁ」
きれいだった水面が、触手の体液に汚れていく。
とても残念になるのと同時に、小さな怒りが私の中で渦巻いた。
「……せっかく、きれいだったのに」
ぎゅっと拳を握り締める。
(今日は、式神は呼べない)
召喚用の道具ならロッカーにあるが、そこまで戻っている余裕はない。
こうしている間にも、ヌラヌラした表面を持つ触手の先端は、私の隙を狙っている。
「……おまえ達なんか」
ぷつっと髪を1本引き抜いて、腕を振った。
≪気≫を通した髪が、頑丈なワイヤーへと質を変える。
「すぐ、倒す」
裸足でタンッと床を蹴り、ワイヤーを空に舞わせた。
ザンッ、ザンッ、ザンッ!
ぺちっと床に溜まった水を跳ね上げて着地する時には
すでに何本もの触手が切断されている。
ビュルビュルビュル、ニュルンッ。
「……………」
だけど周囲はすでに、さっきの数倍の触手が現われていた。
これぐらいなら、何体来ても敵じゃない。
だけど1つだけ気になる事があった。
(菊花は……?)
すぐに行くと言ったのに、菊花の姿が見えない。
―――以前に、菊花が1人だけ捕らえられた時がまざまざと甦る。
あの時は偶然にも、一緒に戦ってくれる退魔師がいた。
(だけど、また、菊花が捕らえられたら……)
ゾッとした。
適温に保たれたはずのプールサイドが、やけに寒く感じられる。
「菊花っ!」
嫌な予感を振り払いたくて、ワイヤーで触手を切り刻む。
ザンッ、ザシュッ、ザュッ、ブシュッ!
切られた触手は、タコの足のようにもがき、やがて動かなくなった。
「菊花っ、菊花ぁっ!!」
不安は1秒ごとに膨らんでいく。
めちゃくちゃに触手を断ち切っているのに、更衣室へ向かおうとしているのに
群れ成す触手が私の足を止めていた。
(菊花、無事なの……?)
祈るようにワイヤーを払い、触手を切断する重みを手に受ける。
焦りばかりが募るせいで 私は気付けなかった。
ニュルル……。
「ひっ……!?」
細く、しかし頑丈な触手が、私の足首に巻き付いた!
「っ!!」
そのまま片足が空中に持ち上げられ、逆さ釣りにされる。
「これぐらいでっ……!」
ワイヤーをしならせて触手を細切れにしようとした。
ビョルルルルッ!
「くっ、あっ!」
ワイヤーに触手が絡み付く。
「うぅぅ、これぐら…いっ……」
腕に力を込めて触手を振り払おうとするけど
捨て身でワイヤーを抑えかかっている触手を、どうしても断ち切れない。
ビュルッ、ニュルニュルニュルッ!!
「ああぁぁっ!!」
私が抵抗できないと気付いたのか、一斉に触手が襲い掛かる。
「はっ、あっ、んっ、くぁぁっ」
ワイヤーを覆う触手が重い。
(う、腕が、痺れ…る……)
手が震える。
(……は、はずれ、ちゃ…うぅ……)
握り締めていた手から……ワイヤーが、外れた。
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