水道の歴史
1 琉球の先人達
沖縄では古来から水を得るために苦労した歴史があります。
沖縄は我が国唯一の亜熱帯性の地域で、年間降雨量は約2,300mmで全国平均からみると比較的多いのですが、ほとんどの島が地形的な条件から大きな河川がなく、また降雨量も梅雨期と台風期に集中するなど、生活用水に恵まれない地域でした。
琉球の先史時代(貝塚時代)は、日本では縄文から奈良、平安時代に当たりますが、この頃の琉球列島はまだ採貝、狩猟時代で人々は湧き水を求めて移動し、そこに集落を形成していました。そのため、沖縄の多くの貝塚が海岸の崖地状の湧き水のある場所に発見されています。糸満市米須海岸の米須貝塚と「スーガー(潮川)」、玉城村百名海岸の百名貝塚と「浜川、受水走水」などその例です。この他にも、沖縄本島のみならず宮古島、八重山、久米島、伊平屋島、伊是名島等、多くの例が見られます。
琉球諸島
グスク時代
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しかし、狩猟社会から農耕社会へ移行した中世の「古琉球の時代」になると、集落は海岸から平地、斜面地、やがて丘陵地へ移っていきます。ちょうど琉球史で「グスク時代」(12〜15世紀頃)と呼ばれている時代の始まりです。この頃になると、人々は石灰岩の洞窟や谷川などに水源を求めて歩きました。また泉や川から水を引く工夫や、井戸を掘ることが始まり、このような谷川、湧水、井戸などは後に「村ガー」と呼ばれるようになりました。
14、15世紀の三山鼎立時代を経て、1429年琉球は尚巴志により統一され、一つの国家としての形態を整えることとなります。その頃、人口の増加で村落が拡大するに伴い、井戸の築造技術の発達が可能になったと考えられています。先史時代から井戸は発見されていませんが、古琉球の時代から戦後まで多くの井戸が築造されているのもこれを裏付けする要因となるでしょう。
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チチンガー(大里城趾) |
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古琉球の井戸は小型の石積堀下井戸や泉を若干掘り下げた井戸が多く見られていますが、近世に入ると石積みの掘り抜き井戸が登場しました。
琉球王朝時代、琉球は中国との交易で栄えました。中国からの冊封使が到来したとき、施設の飲料水に困り、首里城の瑞泉の水を毎日使節団の宿舎である天使館まで運んだと伝えられています。
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瑞泉(首里城 龍樋) |
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水道の出現
沖縄で水道らしいものが現れたのは、1883年(明治16年)〜1884年(明治17年)頃であるといわれています。明治になり、廃藩置県後地方あるいは鹿児島などからの移住者により那覇の人口が増加しました。当時の那覇は生活用水のほとんどを天水に頼っている状況であり、水の確保が大きな問題でした。そこで、琉球王朝時代からの船舶の補給用に利用されていたという「落平樋川(ウティンダヒージャー)」(現在の山下町に位置した)という湧き水の水を土管で引き、一般に給水したのが水道の始まりとされています。この水道は水質の問題や水運搬業者との競合等でほどなく廃止に至ります。近代的な水道の始まりは、昭和8年の那覇市による水道事業の開始を待たなければなりませんでした。
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落平の湧水から水を運ぶ伝馬船
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2 沖縄県における近代水道の始まり
沖縄における近代水道の始まりは、昭和8年の那覇市の水道事業創設に遡ることができます。那覇市は古来から飲料水に乏しい地域で、水道ができる以前は天水(雨水)、井戸水、湧き水が水の源でした。中でも埋立によって町が形成された那覇市は、その地形的条件から地下水にも恵まれず、生活用水の確保というのが大きな問題でした。明治30年以来、何度か水道建設の取り組みがなされましたが、結局、水源や財政の問題、第1次世界大戦の影響等により、実現することなく昭和に至ります。
昭和の初め、近郊の浦添村、宜野湾村に有望な水源が発見され、那覇市の水道創設が一気に具体化しました。そして、長年の願いであった水道布設計画が、ついに昭和3年12月、総工費85万3,950円、計画給水人口6万人、1日最大給水量4,980m3、一日平均給水量3,360m3、一人一日最大給水量83リットル、一人一日平均給水量56リットルとする案が市会により可決されました。
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空襲で灰じんに帰した那覇市街(昭和19年)
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この計画案に基づき、後原川、牧港川等10の水源工事、導水管布設、牧港ポンプ場、泊浄水場、送水管の布設等の工事を行い、昭和8年9月1日、市内3,000戸への給水が始まり、本県で最初の水道が誕生しました。これは明治20年(1887年)、我が国で最初の近代水道の給水を開始した横浜市の水道に遅れること45年後の事でした。 このように紆余曲折を経て実現した那覇市の水道事業でしたが、やがて昭和12年の日中戦争を境に戦時体制による資材不足等、拡大が困難な時期を迎えることになります。そして昭和19年10月10日の大空襲で那覇市は焦土と化し、水道施設もことごとく破壊され沖縄で最初の近代水道もついにその幕を閉じました。これにより、戦後までの約7年間、水道の空白時代が続きました。
また、那覇市の他、名護市でも昭和10年頃水道が建設されましたが、これも第2次世界大戦でほどなく破壊されてしまいました。
3 戦後の水道
泊浄水場(那覇市)
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1945年(昭和20年)4月1日の米軍の沖縄上陸に始まった熾烈な地上戦は、6月にほぼ終結、米国による沖縄統治が始まりました。1949年(昭和24年)11月、シーツ少将の米国軍政長官への就任を契機に、米軍政も本格化します。基地建設に拍車がかかる一方で、沖縄住民に対しては生活向上を重視する政策が打ち出されました。水道についても、米国統治機関である沖縄民政府が、市町村に補助金を出して簡易水道の布設を奨励し、これが戦後、沖縄の水道事業の幕開けとなりました。
1951年(昭和26年)10月、那覇市において戦後初めての簡易水道の建設が始まり、水道給水を再開、つづいて那覇市と合併する旧真和志市でも1955年(昭和30年)1月、簡易水道を開始しました。
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しかし、那覇市が水道給水を再開した1951年は記録的な干ばつのあった年でもあり、もともと水源の脆弱な簡易水道が市民の水の需要を満たすことは困難な状況でした。よって軍水道からの分水が行われましたが、水問題を抜本的に解決するには至りませんでした。那覇市の本格的な事業の再開は、1954年(昭和29年)、米軍に接収されていた泊浄水場が返還されてからとなります。
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一方、沖縄各地で水道の整備が図られるようになったのは、琉球政府が設立された1952年(昭和27年)以降の事でした。
琉球政府の水道施設に対する助成金制度や、米国民政府の補助等によって、水道が徐々に普及します。1955年(昭和30年)以降は各地で簡易水道が次々と創設されました。
他方米軍は、1950年(昭和25年)、陸、海、空、海兵の四軍にあった水道を統合し、米軍施設のみを対象とした全島統合上水道(Integrated Island Water System)を設立しました。そして余剰水を基地周辺の市町村へ分水していましたが、復興の発展に伴う人口の増加、都市への集中が激しくなり、1950年後半に入ると住民地域の水不足が深刻な問題になってきました。おりしも1958年(昭和33年)に記録的な干ばつに見舞われ、広域的な水道施設の建設が急務となりました。やがて全島統合上水道を基に、民間地域を対象とした広域水道構想が検討され、「琉球水道公社」の設立が具体的になっていきました。
4 琉球水道公社の設立 〜ガロンとともに〜
当時の沖縄の状況は、1952年(昭和27年)2月民政府布告第13号により琉球政府が設立されました。また、1957年6月5日には高等弁務官制をしくなど、米国は琉球統治の体制を確立しました。これに伴い諸布令に基づき金融、電力、水道等の公益機関が誕生することになりました。
琉球水道公社は、高等弁務官布令第8号により、1958年9月4日、「琉球住民の需要と利益、産業の発展その他の用途に必要な水の集取、処理、送水、配水及び販売にあたる施設の取得、維持及び運営するため」(琉球水道公社定款第1条)、琉球列島米国民政府の付属機関として設立されました。
この頃水道については、1954年(昭和29年)泊浄水場の返還に伴い本格的に水道事業を再開した那覇市を除いては、局所的に簡易水道が見られるだけで、ほとんどの地域住民が飲用水を井戸、天水、樋泉等に依存している状況でした。
琉球政府の助成金制度や米国民政府の補助等によって、水道が徐々に普及し始め、1960年(昭和35年)頃には、那覇市、コザ市、名護町、本部町、宜野湾村、平良市、石垣市、大浜町の8の市町村水道があり、この他局所的な簡易水道をあわせると約200の水道施設が、琉球列島の人口の約40%に水を供給していました。しかし、依然として四割にしか達しませんでした。
日本復帰前の沖縄は、米国統治下で経済も法制度も米国の影響を色濃く受け、日本本土から隔絶された状況が長く続きました。水道もその例にもれず、インチ単位のパイプ等、米国製の資材で水道施設が建設され、水量の単位もガロンが使われました。復帰前に建設された石川浄水場(その後拡張された)などは、その外観からしていかにもアメリカ式なデザインで他県では見られない独特な趣があり、施設に残る英語のプレートも当時の状況を彷彿させるものがあります。
1940年代後半に建設されたコザ浄水場(復帰前はタイベース浄水場と呼んだ)は当時の米国の最先端の水道技術が注がれた浄水場で、歴史的に貴重な施設でしたが、北谷浄水場の完成に伴い、平成5年度にその姿を消すことになりました。
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コザ浄水場
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復帰後は、全て日本式へと移行し、米国製の資材の入手が難しくなったため、時折不便な事もありました。
また、大きな変化としては単位が変わり、復帰後は水量、水位、薬品使用量、管圧等、すべて換算表をにらみ、ガロンをm3に、フィートをmに換算しながら作業をするという事も見受けられました。
「世がわり」を迎えてさまざまな変化、苦労がありました。この困難を乗り越えて、沖縄の水道事業も、ガロンとともに歩んできた時代からm3の時代へと歩み始めたのでした。
新生沖縄県の誕生
昭和47年5月15日、戦後27年間米国の施政権下にあった沖縄が日本に復帰し、新生沖縄県が誕生しました。沖縄の復帰に伴う特別措置に関する条例により水道用水供給事業及び工業用水道事業が設置され、公営企業管理者が置かれるとともに管理者の権限に属する事務を処理させるため、企業局が置かれました。また、水道法の適用に伴い水道用水供給事業の認可を受けました。
沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律
(昭和46年12月31日交付法律第129号)
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第6章 |
法人の権利義務の承継等(琉球水道公社) |
第36条 |
琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との協定第6条1項の規定により政府に移転し、または政府が引き継いだ琉球水道公社の財産その他の権利及び義務は、政令で定めるものを除きこの法律の施行の時において沖縄県が承継する。 |
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復帰に際し、日本国の法律の適用に伴う条例等の整備、職員の身分引継等種々の問題を克服し沖縄県水道用水供給事業が発足しましたが、通貨切り替えに伴う水道料金の問題、米軍基地への給水形態をめぐる問題の解決は多くの困難が伴いました。
通貨切り替えに伴い、沖縄県は水道料金を1ドル360円に換算し、水道事業者への料金を1立方メートル20円85銭とする料金条例を可決しましたが、主要な受水団体が308円、または305円で読み替えた事もあり、昭和47年9月9日条例改正を行い、5月15日に遡って、308円換算した1立方メートル17円84銭を適用することとし整合を図りました。
米軍基地への給水形態については、米軍が復帰直前の5月10日、琉球水道公社との間で1,000ガロン当たり21.94セントで契約を締結し、復帰後も企業局からの直接給水を主張しました。県は国内法に基づき市町村による給水を求め、この問題は日米合同委員会で協議されることになりました。協議は難航しましたが、昭和48年3月8日には、日米両政府との合意が成立し、米軍もそれぞれの市町村の条例に基づき契約すること、それぞれの市町村が水道事業者としての責務を引き継ぐまでの間、暫定的に企業局からの直接給水を受けること等が決定されました。平成元年10月金武町の水道事業開始に伴い、米軍への直接給水は企業局から金武町へ引き継がれました。
復帰により米国による水道施設の建設、運営は日本の補助制度の下で沖縄県が進めることになりました。第1次沖縄振興開発計画の中で、水資源の開発、水道施設の整備拡充が主要な課題として位置づけられ、多目的ダム負担金について十分の十、その他水源開発施設、水道施設については十分の九から十分の七.五の国庫補助を得て新生沖縄県の水道事業の建設が開始されました。
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