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[19770] 北郷一刀の遠い道のり【恋姫無双】
Name: ユアサ◆763d16ae ID:e092b2c1
Date: 2010/06/23 03:21

古代中国思想史、用語解説

●北衡一刀

 北衡(紀元???~紀元228年)は、蜀王朝の初代宰相である。名は「一刀」とも「可厨都」とも書かれる。
 有力な学説では、「一刀」が正しい名で、「可厨都」は名前の誤読を避けるための当て字とされている。しかし、その発音が「ka-tyuu-to」か「ka-tyuu-tsu」なのかは意見が分かれており、少数だが「ka-zu-to」と読むのではないかと主張する学者もいる。
 「一刀」=「可厨都」という珍しい名から漢民族の出自ではないとするのが一般的である。当時異民族が国政に携わることは極めて異例なことであった。一刀を登用し、宰相に任命した蜀王劉備の人柄を語るとき、劉備が一刀のもとを三度訪問し、仕官するよう懇願した物語がよく用いられる。
 
 一刀は、当時の儒教思想に縛られずに様々な改革を行ったとされる。古代中国の思想家のなかで最重要の地位のひとつを占めるその改革思想は、後世に深い影響を与えることになった。
 北衡一刀の思想は社会主義、キリスト教に類似している。そのため原始キリスト教の影響を受けているのではないかと唱える学者もいるが、中国にキリスト教が伝えられたのは唐の時代とするのが定説であり、一刀がキリスト教の影響を受けたかどうかは想像の域を脱していない。
 おくり名の「北衡」の「衡」の字は、公平で平等という意味をもつ。北衡の平等主義的、博愛主義的施政がいかに民に受け入れられたかを示すおくり名といえる。

 蜀の正史には北衡一刀(ほくこう・かちゅうと、かちゅうつ、かずと)と書かれているが、近年、「北郷一刀」と書かれた竹簡も見つかっている。この竹簡は、書かれている内容から蜀王朝以前の三国時代のものとみなされており、「北郷一刀」が正しい名なのではないかと主張する学者も出てきている。

(北衡一刀の詳細な思想については、879~927頁を参照すべし)
 


  一日目:砂漠での道中、おかしな子供


1.

 ――おかしな小僧がいる。

 邑に向って砂漠を横断しているとき、「コ」という賊は、砂漠の砂のなかに黒い豆粒を遠くに見つけた。
 最初は何かの死体だと思って気にもしていなかったが、歩みに従って徐々に黒い豆粒に近づいていくと、それが人間の頭であることが分かった。
 自分の進行方向、大体300尺ほど先のところで、ひとりの人間が、なんの荷物もなしに呆然と立ちすくんでいるのである。

 そもそもが珍しい、と「コ」は思った。砂漠は普通、一人で横断しないからである。獣に襲われるかもしれないし、野盗に出会うかもしれない。砂漠を安全に横断するには、それなりの準備をしなければならないのである。

 ――無用心だな。連れを殺されたか。荷物を奪われたか。

 「コ」は、追いはぎでもしようかと思った。
 砂漠を横断することの恐ろしさを、おれもひとつ教えてやろうと思った。

 彼は腰の刀をちらりと見た。
 野盗の群れに入ったばかりの虎は、人を斬ったことがまだなかった。自分が斬らずとも、他のやつらが斬ったし、また脅せばなんとかなる場面にしかあわなかったのである。
 彼は出来れば人を斬りたくなかった。とくに女子供を、動物のように切断することに、彼は抵抗を覚えていた。

「一人斬ったら、十人斬っても百人斬ってもおんなじだよ。まずは斬れ。一人でも斬りゃあ、そうすりゃ俺たちとおんなじさ」

 彼の仲間はそう言って「コ」を勇気づけた。
 しかし、「コ」はまだ人を斬れていなかったのである。

 ――いまが、斬るときかもしれない。

 そう思い、刀の柄をそっと右手で握る。
 無意識に息をひそめ、食い入るように、眼をじっと正面のか弱い獲物に向けた。忍び足で、野生の動物のように、彼は一歩一歩ゆっくり、自信たっぷりに歩いていった。

 200尺、100尺。豆粒のような人間が、次第に大きくなっていく。そして、人間の姿がよく分かるころになって、「コ」は、自分の殺意に緊張と恐れが混じっていくのを感じていた。
 つまり、

 ――おかしな小僧だ。

 そう思ったのである。
 目の前の少年が、見たことのない、得たいの知れない着物を着ているのである。首から腰まで白いぴったりした布を羽織っており、腰から足首までは黒い布を、まるで遊牧民族の衣装のようなものを履いている。
 こんな着物は見たことがなかった。この中華大陸のものでさえないように、「コ」には思えた。

(仙人か?)

 「コ」はそう思った。
 仙人が子供のフリをするというのも、よく聞く話である。
 たしかに、水がなければ一日で死んでしまう、そんな厳しい砂漠のまんなかに、子供がいることがすでにおかしい。それに、あの奇妙な服装。

 ――ちぇっ、儒子めが。

 彼は内心毒づいたが、儒子は儒子でも、野盗集団の下っ端にすぎない自分の手には、少し余る小僧のように思えた。

 だが、「コ」は歩みを止めなかった。彼はより慎重に、いつでも斬りかかれる姿勢で不気味な子供に歩みよった。
 すると、いつしか子供のほうが嬉しそうに自分のほうに歩みよってくるのに気づいて、「コ」はふと立ち止まった。

 ――恐くないのか。

 一見して片手でひねる殺せるような子供である。
 その子供が、強面の自分に嬉々として歩み寄ってくる理由が分からなかった。
 「コ」は意味もなく恐れたが、刀の柄からは手を離さず、注意深く子供の挙動を見守った。

「すみません」

 少年が近くに来て、口を開いた。
 思わず、「コ」は警戒心を解いて、ほうと唸った。
 少年の容姿があまりに美しかったからである。

 白い上衣は水面のようにきらきら光を反射していて、砂漠を歩いていたというのに砂埃ひとつ付いていない。
 少年の体格はほとんど労働したことのないように細く、歯は白く、背筋はぴんと伸びていた。全体的に、すらりとしている。

 「コ」は、貴族というにふさわしい人間を目の前にして、はじめて畏れ多いという感情を理解した。

「すみません、ここはどこですか」
「……。××の○△砂漠、……」

 「コ」の言葉を聞いて、少年、北郷一刀はわずかに眉根を寄せて、悲しそうな表情をつくった。
 そして、今度は違う質問をした。

「この辺りに村か町はありませんか」
「……」

 「コ」は指で方角を指し示してから、小さなかすれ声で、「あちらに」と言った。
 言いながら、「コ」は、どういうわけか不思議な気持ちを抱いた。
 自分の指先には太陽が輝いている。
 そして自分の目の前には得たいの知れない仙人か貴人がたたずんでいる。

 「コ」は、ふと今この瞬間に何かの啓示を受けた気がした。
 指先の白い太陽をみつめて、それから白い少年に眼を戻す。
 すると、自分にとっての太陽はこの者なのではないかという気がしてくるのである。
 敬虔な宗教的感情が、「コ」のなかで電撃的に起こった。これは天からの遣いである、と「コ」は断定的に思った。


 「コ」の指に従って、一刀が後ろを振り向いた。真っ白な太陽が砂漠のうえ、そして青空のうえに光っている。
 一刀は無言になり、呆然とそちらを見つめた。

「すみませんが、おれを、そこまで連れていってもらえませんか」

 困ったように微笑して、一刀が言う。もう「コ」は指差ししていなかった。一刀は念入りに太陽の方角を指差した。

「あっちですよね」

 そんなふうに一刀は言う。
 一刀の指先には太陽がある。
 「コ」は、「そこまで」「あっち」という一刀の言葉、そしてその指の指し示す方向に深い含蓄を感じた。それで「村まで」なのか「あの太陽の下まで」なのかわからず、混乱したが、そのどちらかであることを納得したうえで、力強く頷いた。

「仰せのままに」

 無学な「コ」にとって、これが精一杯の言葉だった。
 自分の敬意を表すために、「コ」は、自分が知っている一番丁寧な言葉を使った、勇気を出して言ってみたのである。

 一刀は不思議そうな顔つきをした。しかし、すぐに目の前の男に負けないぐらい丁寧に頭を下げると、

「ありがとうございます。助かりました」

 そう言って、微笑する。

 「コ」はその笑みに感動した。
 貴人が自分のような下賎なものに頭を下げ、優しい言葉をかけてくれたということに、はげしい感動を覚えたのである。
 「コ」は、かつて思いやりのこもった感謝の言葉を誰からも聞いたことがなかったし、また、そのような柔和な振舞いを、誰からも受けたことがなかった。

 ――天よ。

 「コ」は天を仰ぎ見た。
 真っ青な空がそこにはあった。その色に、「コ」は天の意思をみた気がした。




2.

 話せば話すだけ、不思議な少年だった。
 砂漠の道中、皮袋から水を飲みつつ人懐っこく語りかけてくる子供の名は、「ほんごうかずと」と言うらしかった。

「ほんごうかずと?」

 「ほんごうかずと」という音は聞いたことのない響きだった。
 一刀はしゃがんで、「コ」からもらった杖をつかって、砂漠に自分の名を書いた。

「北郷一刀。こう書きます」

 一刀はそう言って、にっこり笑った。
 しかし「コ」には読めなかった。「コ」は、文字の読み書きができなかったし、読み書きなどする機会もなかったのである。

「これが、ほんごうかずと……?」
 
 一刀の正面に座り、しげしげと複雑に交差しあう線を観察する。
 不思議なものだった。この線がどうして「ほんごうかずと」という音をなすのか、彼にとってはあまりにも不思議だった。

「そうです。これが『ほん』、これが『ごう』、これが『かず』、これが『と』」

 一刀は丁寧に一文字ずつ読み方を指摘した。
 その言葉に、ふんふんと「コ」は興味深そうに相槌を打った。

「おれは、読み書きができんのです」

 砂漠の上の、北郷一刀という文字を見つめながら、「コ」が言う。
 
「……みんなそうなのですか」
「はい。うちの邑の者は、ほとんどそうです」
「ここは何という国でしたか?」

 意を決したように、一刀が尋ねる。
 すると「コ」は目の上に手でひさしを作り、陽光を避けて、思いにふけった。しばらくうめいてから、

「カン……」

 と自信なさげに言った。

「カン」

 一刀は繰り返した。
 首をひねり、手を顎にあてて考えこむ一刀の姿をじっと見つめて、「コ」はこう切り出した。

「ほんごうかずと様。おれに字を教えてくれんですか。おれの名を書いてくれませんか」
「はい、もちろんです」

 コという音だから……と一刀は呟いて、こう地面に書いた。

 ――虎。

 一刀が書いた字は、躍動感あふれる字だった。
 楷書というよりは行書、草書のたぐいであり、虎の勇ましい姿を象徴的に描くものであった。

「これが、おれですか。これがコですか」

 虎はじっと自分を表す文字を凝視した。
 頭でその線をなぞり、その跳ねるような勇ましい線の調子に胸を奮わせた。

「コは、虎です。動物でもっとも強靭な種のひとつ、虎です」

 ふと、砂漠の文字から眼を離して、虎は一刀を見上げた。まだ儒子にすぎない、幼さの残っている一刀が、背伸びをしていた。
 自分よりも一回り以上小さい、文字を知っている無邪気な子供。
 
 ――この方は、どこの貴人だろうか。

 虎はそう思ったが、口には出さなかった。
 どこの貴人だろうと虎には関係なかった。ただ、一刀は虎が「そこ」まで案内する貴人であり、虎にとっては命にかえても守るべき太陽であった。

 虎の視線に気づいたのか、一刀が恥ずかしそうに微笑んだ。
 そして、虎の腰の刀を指して、

「それが、おれですよ」

 と、笑った。

「これが?」

 虎が刀を持ち上げる。

「はい。『一刀』は、一本のかたなという意味です」
「……」

 虎は自分の刀をしげしげと見つめて、つぎに地面のうえの『一刀』という字を見た。

「これが……」

 世界が広がった気がした。
 この世のものはただ空間に存在しているだけでなく、文字として物体から離れて存在しているということを、虎は実感した。
 「虎」という文字がトラであり、自分であった。
 「刀」という文字が、かたなであり、目の前の子供だった。

 虎は、自分が大きくなった気がした。
 自分は自分だけでなく、自分は肉体から離れて、空間を超えて、この文字になるのである。
 虎はそれが嬉しかった。みじめな野盗という境遇からはなれて、この立派な文字と一体となれることに、虎は感動した。

 そして、いろいろな文字を聞いてくる虎の様子が一刀には微笑ましく思えたらしく、教師のような口ぶりで、自分よりも年齢が10は高いであろう虎に文字を教え込むのだった。
 


3.

 虎が火を見つめながら、ぽつりと聞いた。

「先生、火はどういうわけで燃えるんですか」
「火はね、情熱だ。生命を燃やしつくす情熱だ。だから、燃え尽きると、死んでしまうんだ」
「……情熱ってなんですか、先生」
「情熱……。情熱は……何がなんでもやり遂げてやるという心かな。だから、それが消えると死んでしまうんだ」
「なるほど、火は、情熱……」

 夜になると、ふたりは火を起こし、野宿の準備をした。
 日が沈むと、すぐに寒くなってくる。虎の毛布をかぶりながら、一刀は干し肉を食べた。虎は毛布のかわりに、一刀の上着を汚さないよう気をつけながら羽織っている。

 空は満面の星空である。
 一刀は星空を見つめて、嘆息した。綺麗だと思った。
 焚き火の向こうに座る虎も、一刀と一緒に空を眺めた。
 星がある。
 聞けば、この子供はいきなり自分の故郷からこの場所に飛ばされてきたと言う。あの星のさらに上の天から、目の前の少年は降り立ったのかもしれない。
 それぐらい、高貴で、博識であり、自分たちとは別種の存在のように思えた。北郷一刀自身、別世界から来たように思っている節がある。

「町まで、あとどのくらいかかるんですか?」

 一刀が言う。

「あと半日もすれば、つきます」
「半日……まだ、そんなにあるんだ」
「お疲れですか」

 虎は一刀の体調を見極めるように、じっと見つめた。

「いや、そんなことはないけど……。おれの国では、徒歩であんまり移動しないんだ。久しぶりにこんなに歩いたよ」
「先生の国はどんな国なんですか」
「いい国だよ。たぶん。食べ物に飢えることはなかった」
「……」

 虎は手にもっている干し肉を見つめて、首をふる。

「おれんところは、駄目です。飢えてます」
「そう……。どうしてかな」

 一刀が曖昧な微笑を浮かべてたずねる。
 すると、虎は沈黙してしまった。
 彼にはその理由がわからなかった。どうして自分たちが飢えているのか、よくよく考えてみると不思議なことだった。
 しかし、どういうわけか飢えて、自分は野盗となって略奪していた。今も、黄巾党とかいう連中の情報を仕入れるために、野盗から派遣されている。

「きっと、お上が悪いんです。上の連中がしっかりせんから、おれたちが飢えるんです」
「そう……上の連中が」

 ひとつ間をおいてから、北郷一刀は言った。

「上が悪ければ、上を倒すというのは、どうだろう」

 言って、子供のように無邪気に一刀は笑った。

「先生、それができれば苦労せんです」

 そういいながらも、虎は一刀の不穏な発言を少し恐ろしく思った。目の前の子供なら、天の国の魔法を使ってすぐさまそれを為してしまうような気がした。
 しかし、それは恐ろしいことかもしれない。国が別世界の住人にのっとられるというのは、恐ろしいことかもしれない。
 一刀は内心を探るような視線で虎を見ている。

「それじゃあ、自分が役人になって、国を立て直すというのはどうかな」
「それもおれには無理です。馬鹿ですから」
「虎は馬鹿じゃないよ。むしろ、頭がいい」

 一刀は虎の言葉を遮るように言った。
 その口調は強く、虎はなんだか気恥ずかしく思った。自分が馬鹿であるのは自分がよく分かっているからである。

「先生、おれは馬鹿なもんで。なんせ、盗賊やってるんですから」
「盗賊?」
「そうです。さっきだって、先生をぶっ殺そうと思って、近づいてったんです」
「そうだったんだ。全然分からなかった」

 一刀はちょっと驚いたふうに言った。

「たしかに、盗賊はよくない。奪ったり、殺したりはよくない」
「しかし、そうせんと、おれは飢え死にしてたかもしれません」

 それを聞くと、一刀は沈黙した。
 辺りは静かだった。
 獣の遠吠えがどこかから聞こえてくる。
 時々突風がふき、黄砂が飛んだ。
 暗くて色がよくわからなかったけれど、一刀の羽織っている毛布も黄色く濁っているらしかった。

 しばらくして、沈黙に耐えかねるように虎が言う。

「妹を煮て食っちまったのは、悪かったと思っとりますけど」
「そう……」

 一刀は毛布にくるまりなおして、言う。

「ねえ、虎。なぜ、この世に苦難があると思う?」
「そんなのわかりっこないです」
「なぜ、この世に悪があると思う?」
「わかりません」
「じゃあ、苦難や悪をなくせると思う?」

 一刀の眼が、怪しく光っている。
 その不気味な瞳に、虎は少しためらった。

「……。少しは」
「はっは!!」

 一刀は快活に笑った。
 子供らしい笑い声が、砂漠に小さく響いた。

「虎、それはすごいことだ……。観念の問題を解決できるというのはすごいことだ。おれは今まで一度も観念の問題を解決できたためしがないんだ。苦難や悪という概念を、ほんの一握りでも解決できるなんて、ひとつも思ったためしがないんだ……」

 一刀は、ブツブツつぶやきながらぐるりと辺りを見回し、最後に星空をよく凝視した。

「なんで、星が不規則に散らばっているか知ってる?」
「いえ、知りません……。天の主がそうしたんでは……」

 虎は、もうなんだか恐ろしかった。目の前の少年は、やはり自分の理解の及ばない、奇妙な子供である。

「それはね。宇宙が有限だからだよ! この天は、無限にみえて、実は死にもするんだ。だから虎、きみはもしかすると、正しいよ……」

 一刀は立ち上がった。虎は一刀を見上げる。
 一刀の顔は、炎に照らされて紅潮している。
 そして、いつもと同じように、曖昧に微笑していた。
 その微笑が、虎には恐ろしいほど神々しくみえた。

 ――まるで王のようだ。

 と、虎は思った。
 しかし一刀が劉備のもと世に現れ、王の補佐として名声を獲得するのは、十数年先のことである。





●悪という概念との対立(『古代中国思想史』879頁から)

 北衡一刀は「悪」という概念についてキリスト教に類似する立場を取った。「悪」概念の物語化である。
 北衡一刀の時代では、春秋思想に従って、人間の悪という問題に関しては性悪説をとる向きがあった。すなわち人間は生まれながらにして悪であり、その本質は悪であるという理解である。そのために法律や教育が必要であった。
 しかし、北衡一刀にとって「悪」は外から入り込んできた敵であった。それはキリスト教のサタン、悪魔のように人間を誘惑するものであり、神――すなわち善への離反を促すものであった。そして人間は、本質的に善なのである。
 北衡一刀は、この思想のもと、キリスト教同様の「堕落」という物語を取る。人間は、いつからか存在として堕落してしまっているのである。
 では、いつ、なぜ、堕落してしまったのか。この問題を北衡一刀は取り組んでいない。ただ、その問題にわずかに触れるものとして、以下のような手記が残されている。

「私がこの世界に生まれ落ちることを神は意図したが、意図しないものがあった。その意図しなかった領域が虚無的なるものという空間であり、存在である。この虚無的なるものは『無』ではない。虚無に引き摺り下ろさんとする神秘的な力である。
(中略)
 彼に出会ったとき、彼が『妹を食った』と告白したとき、私はこの虚無的なるものの姿を見た気がする。そして私たちの勝利は、この虚無的なるものを恐れる必要がないことを確証することであると、そのとき私は思ったのである。虚無的なるものは消滅しない。悪や苦難もまた消滅しない。しかしながら、われわれは、それに勝利するのである。われわれは、断固、勝利せねばならない」



ーーーー

 次回二日目:虐殺の邑にて。

ーーーー


 あとがき

 最初と最後は適当な記述なので、突っ込まれると痛いです!



[19770] 北郷一刀の遠い道のり 二日目
Name: ユアサ◆763d16ae ID:e092b2c1
Date: 2010/06/24 02:54
 ――『北郷一刀と劉備桃香』23頁から引用

 北郷一刀という名が史料に登場するのは三国鼎立以降のことであるが、かといって北郷一刀が政治や戦争から離れて暮らしていたかといえば、当然そうはならない。
 後漢末期、全国的に勃発した黄巾の乱の影響を受けていたことは疑いようもないし、北郷一刀が民衆のひとりとして凄惨な虐殺を目の前にしていたことは想像に難くない。
 ひとつの史料に、北郷一刀は魏の宮廷で料理人として雇われていたというものがある。そこで曹操華琳に対する激しい憎悪を抱き、在野に下ったとする説もある。
 この説は、あきらかに伝説的であり、物語的であるが、魏に対する凄惨な報復戦争を蜀王劉備のもとで仕掛けることからみても、なるほどと思わせるところがある。
 しかしそれ以前の北郷一刀の行動は史料に残っておらず、作者は想像するしかない。だが、たしかに北郷一刀はいくつかの虐殺を目の前にしていたはずである。登場するにはやや早いように思うが、もしかすると腹心である虎刀もそこに居たのかもしれない。





 二日目:虐殺の邑にて。





1.

 北郷一刀と虎は、日の出のすこし前に起き上がった。
 砂漠の朝である。
 虎はからだに積もった砂を払い落としながら、北郷一刀がいまだ自分のかたわらにいることを確認した。
 北郷一刀は、虎を真似て、自分のからだをはたいている。

 四方をめぐる茫漠とした地平線は、紫色に染まっている。大気が、濃い紫から、白光の混じった青色に移ろっていく。いまにも日が昇りそうだった。
 一刀は、日の出に向って立ちすくんだ。

 ――綺麗な朝だ。

 一刀は宇宙の色彩を知った気がした。
 いままで見たことのない鮮やかな色彩は、自分がなぜいまここに居るのかを教えているような気がした。

 ――おれの出来ることはなんだろう。

 一刀はそう思う。自分は力も知識も足りない高校生だった。その自分が、この国の人たちのために何ができるのだろう。
 しかし、一刀にとって、いまは生きるときであった。
 生きねばならない。生きなければ、自分がここに来た意味がないように一刀は思う。

「先生、これ、ありがとうございます」

 虎は一刀の白い上衣を綺麗に整え、彼の手に返した。

「こちらこそ、毛布ありがとうございました」
 
 そう言って、一刀は毛布を丁寧に畳み、丸めて、荷袋に押し込んだ。

 薄い紫色の景色のなかで、虎は一刀の姿を後ろから観察した。
 丈夫で厚い構造をした白い上衣の下にも、金属のように光沢のある薄い白布を一刀は着込んでいた。
 前は紐で結んでいるのではなく、小さな円状の物体を、いくつも穴にひっかけて留めているようだった。
 腰の帯は、黒い革で作られているようだった。銀か何かの金属がそこにも使われており、庶民には到底手の届かない代物に見える。

 ――珍しいお人だ。

 虎はその衣装を見て、ますます自分のなかに崇敬の気持ちが湧き上がってくるのを感じた。
 どこで手に入れたのか、それは少なくとも中華大陸ではないように思う。
 中華の外にある蛮族にも決して作れないであろう精巧なそれは、間違いなく北郷一刀が天から降った存在であることをあかしするものだった。

「先生は、まるではじめて朝を迎えるようですね」

 虎は、一刀と同じ方角を眺めて、後ろから声をかけた。
 いつしか一刀は、また日の出を眺めて、立ちすくんでいたのである。

 虎から見ても、たしかに、紫のけぶる景色は玄妙で、美しい。
 地平線は白く輝き、そこから上空にむかうにつれて、青みを増していく。
 中天は、ほとんど暗闇に近い青である。
 見慣れているはずの景色の美しさに、虎は目を細める。

「こんなに綺麗な日の出は、見たことがない」

 一刀は虎に振り向いて、笑った。
 野卑な集団ではなかなかみられない、子供のような純粋な笑みだった。
 虎は意識せずに微笑んで、うなずいた。

「町まで、あと半日でしたか?」
「太陽があそこに行くまでには、着きます」

 そう言って、虎は南方を指差す。虎の記憶が正しければ、あと3刻ほどで着く距離であった。
 一刀は視線を上げ、南の空を見つめた。隆起する砂漠の向こうに、東西に延びる大きな山脈がみえる。
 そしてもう一度、今まで向いていた東を見つめた。東には、生まれたてのまばゆい太陽がある。
 
 ――日本はどっちだろう。

 一刀はそう思った。そして、日本はおそらく東方にあると彼は考える。日の出の先に、日本列島はあるに違いない。
 そこでは、もしかすると聖フランチェスカ学園の日常が一刀を待っているかもしれないし、もしかすると、目の前の男のような原始的な生活が、そこでも営まれているのかもしれない。
 しかし、それはそれでいいように一刀は思う。

 ――このまま帰れないのなら、いつかおれの知らない日本に行ってみたい。

 そうは思うものの、しかし虎がゆっくり歩き出す先は南西の方角だった。向う先に太陽はなかった。しかし、寄る辺のない自分を助けてくれた、頼もしい大きな背がある。
 一刀は故郷が遠のくものを感じながら、太陽をうしろにして、親鳥に従う小鳥のように男の背に向って歩いていった。



2.

 道すがら、一刀は石板に字を書いて虎に教えた。
 この国で漢字が通用するか一刀には分からなかったが、虎がどうしても知りたいとせがんだので、一刀は自分の知る文字を教えることにしたのだ。

 ――学ぶことに、きっと意味がある。

 一刀としてはそう思う。
 というのも、虎の学ぶ姿勢は一刀が驚くほど迫力があったからである。たとえこの文字が使えなくとも、虎の内面にとっては意味ある神聖な文字となるのだろう。

「『石』があの石ころ、『木』――これが、砂漠にはないけど、あの、地面から生えている木です」

 一刀は虎から小型の刃物を借りて、石板にガリガリと文字を書き刻んだ。一刀が書いた文字の横に、虎が見よう見まねで練習していく。

「――先生、字のほかに、学問も教えてくれんですか」

 休憩中にふと、思いついたように、虎が切り出した。
 10の文字を一刀から学んだ虎は、頭の中でそれらを反復していた。石板はもう荷の中に仕舞ってある。

 もうだいぶ日が中天に近づいていた。
 本来の足ならば目的の邑についてもよい頃だったが、学びながらの歩みはゆっくりとしたものだった。

 虎は知識を覚えるのに貪欲だった。
 いままで知らなかった、自分の想像以上の世界があることを知って、虎は興奮していた。

 ――この世はきっと、文字で出来ている。

 虎は目の前の景色を眺めながら、そう想像する。考えただけで、虎の胸は踊った。

 ――おそらく、文字を知らなければこの世が分からない。

 文字を知らなかったから、おれは馬鹿だったのだ。盗賊になどなってしまったのだ。悪人になってしまったのだ、と虎は思うのである。

「先生、文字のほかに、学問も知りたいです」

 重い荷物をぐいと背負いなおして、虎は一刀の表情をうかがった。

「学問……。学問か。虎は、どんな学問を学びたい?」

 一刀が、汗を腕でぬぐいながら、少し困ったような顔でたずねる。

「なんでもです。先生が知っていることなら、なんでもいいです」

 虎の答えを聞くと、一刀は腕組みをして、難しい顔をした。
 虎は、その表情にすこし狼狽した。
 彼は急いで一刀に言った。

「まだ早いっていうんなら、いいです」
「そんなことないよ。ただ、何から話せばいいのか……」

 日はじりじり地面を焦がしていき、足元の砂粒は灼熱を帯びていく。
 ふと、額の汗をぬぐうとき、虎は自分たちの進行方向を仰ぎ見た。いつの間にか、陽炎の向こうに城壁がある。小さな山脈のような城壁が、幻影のように揺らめいている。

 ――もうすぐか。

 そのことが、すこし虎には憂鬱だった。
 彼は邑に着いたら、自分の務めを果たさねばならなかった。

「虎は、神様って知ってる?」
「神様……」

 虎はそう呟いて、少し考えてから、首を横にふった。
 一刀の顔をうかがうと、彼は汗で鼻の下を輝かせていたものの、いかにも楽しそうに振舞っていた。
 薄い手のひらで顔をあおぎ、暑いね、と言う。そして、こう続ける。

「この世界のすべてを創造した存在だよ」
「すべて――。おれもですか、そんな馬鹿な」

 虎が言った。

「そう、虎もだ。そしておれも。人間を含めて、すべての存在は、今と同じような形で神様に造られた。これを創造論というんだ」
「そうぞうろん……」
「造られた存在に優劣はない。男も女も、王様も貧民も、実を言うとみんな、平等なんだよ」
「……平等」

 一刀は微笑んだ。
 しかし、虎には「平等」という言葉が分からなかった。
 怪訝そうな虎の表情を見て取ったのか、一刀はこう言った。

「平等っていうのは、こういう字を書くんです」

 一刀は石版をまた虎から借り受けると、『平等』と字を刻んだ。

「『平』は、たいら。まったいら。デコボコがなくって、みんなの身長が同じ」

 虎の表情を確認しながら、一刀は言う。
 虎は、熱心に石版に書かれた字を見つめている。

「『等』は、みんな、中身が同じってこと。背の高さも、中身も、みんな実を言うとおんなじなんだ。それを指して、平等というんだよ」

 虎は、眉根を寄せて一刀を見上げた。
 一刀の言うことが、虎には理解できなかった。

「先生、馬鹿をいっちゃいけません。先生とおれとじゃあ、背も違うし、頭のなかみも全然違いますぜ」

 それを聞いて、一刀はおかしそうに笑った。
 虎は首をかしげて、困ったように顔を引きつらせる。

「おれたちは、文字の話をしているんだよ。この空間を超越したところの話をしているんだ」

 そう言って、一刀は天を指差す。
 虎は一刀の指の先を見上げた。晴天には、わずかに、白い雲が西から東に漂っている。
 虎の視線は、白い雲をゆっくり追いかけた。雲は、蛇のようなものから、犬の顔のようなものに形を変えた。

 風が強い。
 黄砂が眼に入らないよう、反射的に虎は瞼を閉じた。
 そしてもう一度雲を見上げると、すでに雲は消滅していた。

「おれたちは、天の話をしているんだよ」

 一刀の言葉。
 その言葉を聞いた瞬間、虎ははっとした。

「先生は、空からおれたちをみているんですか」

 弾かれたように言った虎の言葉に、一刀は驚いたふうだった。
 虎をじいっと見つめる。それから、やや逡巡した後、かすかに頷いた。
 一刀の言葉ではなく、その頷きこそが、虎には衝撃的であったのかもしれない。

 ――天からの視線。

 虎は、もう一度空を見上げた。確かに、あの青い空の上から地上を見下ろしたら、何もかもが同じかもしれない。

 精神こそが生きる力である。そして精神とは、肉体から離れたところにある、文字そのもの、天そのものである。
 このときから、虎の精神は肉体から脱し、遠い雲の上に乗って、この世の真理を見つけようと羽ばたきはじめた。



3.

 口をぽっかり開けている城門には、地名を示すであろう漢字が大きく書かれている。
 虎はその漢字の形が自分の目的地のそれであることを認識して、満足した。一刀は、どこまでも両手を伸ばしている城壁を興味深そうに眺め、そして門をくぐった。

「大きな門だね」

 一刀は驚いていたが、虎にとってはそれが一般的であった。
 
 ――先生は、この国について何も知らない。

 その確信が深まるにつれて、虎のなかでますます一刀が神格化されていく。
 虎は、自分が目の前の少年を守らねばならないことをよく承知していた。どうして天から地に降りてきたのか分からなかったが、虎は一刀のもっているであろう天命を守り通さねばならないのである。

 門をくぐると、幅が30尺はあるであろう大通りがまっすぐ引かれている。その道は石で舗装されており、馬車の車輪のあとのような窪みがいくつかあった。
 大通りの左右には、瓦の軒が連なっている。
 住居かもしれなかったし、なにかの店かもしれない。

「この道をまっすぐ行くと、邑の領主さんのところに行くんです。まあ、行ったことなんてありませんが」

 一刀を案内しながら、虎は、

 ――静かだな。

 と不思議に思って、辺りを観察した。
 人はまばらにいるものの、不自然なほど活気がなかった。

「ちょっと、きょうは静かですね」
「そうなんだ。虎はここに来たことがあるの?」
「はい、何度か」

 言葉を交わしながらも、一刀は物珍しそうに辺りをあちこち見回している。放っておくと、ふらりとどこかに行ってしまいそうだった。
 
「先生、ここは黄巾党っていうヤバいやつらの勢力が大きいんです。勝手にどこかに行かんでくださいね」
「黄巾党」

 そう繰り返して、一刀は、不意に眼を見開いた。そして虎をまじまじと見つめる。
 その表情は虎にとってはじめて見るものであったので、虎はすこし不安を感じた。

「先生、黄巾党ってご存知なんですか。あいつら、やっぱりやばいんですか」
「いや……。黄巾党の字を確認したいんだけど」

 二人の間で、すでに石版は欠かせない道具となっている。
 通りの隅に二人は腰を降ろした。
 一刀は虎が石版を用意するのを待って、往来を眺めていた。
 人々のざわめきはほとんどない。
 ただ、砂漠と同じように、どこからか時々獣の鳴き声が聞こえる。
 にわとりや猫、犬の鳴き声である。かすかに、糞のにおいもする。
 動物がいるということは、きっと人間もどこかにいるのだろう、と一刀は思う。

「先生、どうぞ」
「ありがとう」

 虎から石版を借りて、『黄巾党』と文字を削る。

「こういう字なのかな、その黄巾党は」 
「わかりゃしませんが、たぶん、そうです」
「それじゃあ、黄巾党の首領は張角っていうやつかな」
「知りません」

 虎は頭をかいて、口を濁した。
 一刀は、自分の書いた文字をひたと見つめて、沈黙した。そして何事かを呟いた。

「もしかして、カンって、漢のことか」
「なんです?」

 聞き取れなかった虎が、一刀の口元に耳を寄せると、

「ねえ、あそこの店は何を売ってるの」

 一刀は話をそらした。
 一刀たちの正面では、古びた小さな露店で、肉饅頭らしきものが売られている。3つ、湯気を立てた蒸篭が露店の脇に置かれていた。
 饅頭の蒸された匂いが辺りに漂っている。

「饅頭みたいです。食いますか?」
「ちょっと欲しいな」

 一刀は眼を輝かせた。
 その表情をみると、虎もなんだか嬉しくなって、一緒に饅頭を食べることにした。
 
 ――子供のようだな。

 一刀をみて、虎は思う。
 貴人のような美しい姿をしているにもかかわらず、美味い、美味い、といって饅頭を飲み込む一刀の様子が虎にはいかにも微笑ましかった。
 昨夜の異常な雰囲気は、いまとなっては跡形もないように虎には思える。

「ねえ、みんな、おれのこと不気味がってない?」

 饅頭を食べながら虎の馴染みの宿にむかっていると、一刀が言った。

「そうですね……」

 虎は住人が不審そうな眼つきで一刀を盗み見ているのに気がついた。
 通りにはほとんど人がいなかったが、家のなかには人の気配がある。
 大通りから、大地が露出している砂っぽい小道に入ると、人の視線を強く感じるようになる。
 家の薄暗い影から、おそらく一刀のことを見ているのである。

 ――まずいな。

 一刀が官憲に眼をつけられたらまずい。
 そうなると、一刀が身に着けている珍しい装飾品は、おそらくすべて徴収されるに違いなかった。悪ければ、不審な人物として拷問されるかもしれない。

「まず、服を買いましょうか」

 虎は、宿に入る前に、服屋を探すことにした。
 一刀は新しい服を着ると、

「似合ってる?」

 くるりと回ってみせ、無邪気そうに虎に微笑んだ。



4.

 時折、爆発するように怒号が飛ぶ。
 そのたびに威勢のいい者が足を踏み鳴らし、3本足の鼎を卓に打ち付け、酒だ、酒だ、と亭主に怒鳴りつける。

 夜の酒場は、昼間よりもだいぶ活気があった。

 虎は横目でむっと喧騒をにらみつけ、鼎に酒をなみなみと注いでは、ナツメの実を食いつぶしていた。
 一刀は虎と同じ卓―― 一番奥の壁際の卓に座っていたが、ナツメの実しか食べていなかった。じいっと、興味深そうに、客の挙動を眺めている。
 
 狭い店舗内に、ぎゅうぎゅうと卓は10ほど詰められていた。そのうちの半数ほどが、年配の男たちによって占められている。
 彼らのほとんどがならず物のようで、いわゆる無頼漢といった身なりをしていた。何かの印のような刺青が二の腕に刻み付けられているのを、上半身裸の者から一刀は見てとった。

「先生、おれは先生の言うとおり盗賊をやめます。だが、最後の仕事として、黄巾党の情報を仕入れなくちゃならんのです」

 虎は、店に入ってからしばらく無言であったが、顔を一刀に近づけて言った。

「うん」

 客の様子から眼を離さず、一刀がうなずいた。
 皿からナツメを取って、パクリ、と一刀は口に入れた。もぐもぐと顎を動かす。
 虎には、一刀が聞いているかどうかよく分からなかった。酒場の熱気が一刀をおかしくさせているのか、少年はどうもぼんやりしているのである。
 
「とにかく」

 と虎は言った。

「先生はここで待っててください。ちょいと、あっちの親父にひとつ聞いてきますから」
「うん。黄巾党には、おれも興味がある」

 そのとき、ようやく一刀は虎を見た。
 虎の頬は、やや赤く上気しているようだった。
 赤くなると、虎の形相は鬼のように恐ろしく見える。
 一刀より二回り以上大きい身体もあって、虎の雰囲気は地獄の鬼そのものである。
 不思議に一刀は微笑していた。

「じゃ、待っててください」

 一刀の微笑を見て、自然と虎の顔にも笑みがこぼれる。
 あらためて、不思議な子だ、と虎は思う。

 ――この子は、冷めているのか、それとも夢を見ているのか。

 一刀の心情が虎には掴めない。
 しかし、一刀が自分を照らしてくれる太陽であることを、彼は知っている。
 一刀の心情は、彼にはそれほど関係がなかった。
 彼は一刀を守り、一刀の望む道へ可能な限り導くだけである。

「おい」

 虎は、店主の前に胸を張って進み出ると、脅しつけるように横柄に言った。

「おい店主、酒だ」

 そう言って、鼎を手近の古びた卓に打ち付ける。
 鈍器で人を殴りつけたような音があたりに聞こえ、一瞬、ぴたりと喧騒がやんだが、すぐにもとの喧騒にもどっていく。

「はいはい、よろしゅうございますよ」

 虎が突き出す鼎に、慣れた様子で店主が酒を注ぐ。
 注ぎ終わると、虎はすぐに一気にあおった。
 もう一度、鼎を突き出して言う。

「酒だ」
「大きなお客様には、この鼎はすこしばかり小さすぎるみたいですねえ」

 笑みを浮かべて、店主はなみなみと酒を注いだ。
 その酒をふたたび一気にかっ食らうと、虎は五銖銭をばらりと
財布からばらまき、快活に笑った。

「おれぁ、同業でねぇ。はっは、黄巾党ってやつらについて、教えてくんねぇか」

 店主は虎の眼をじっと見つめ、困ったように微笑していたが、卓にばらまかれた五銖銭をすでに懐にいれていた。

「大きなお客様、口には気をつけておくんなさい。黄巾党は、わたくしども民衆で組織されてもいるんですよ」
「どこのどいつが黄巾か分からねぇってことかい、店主。そいつぁ頼もしいことじゃねぇか! で、どうなんだい。やつらの羽振りはよ。なかなか威勢がいいみてぇだし、相当いいんじゃないかい。おらぁ興味があるんだ、金も好きだが、黄巾党の信心によ!」

 途中、ちらり、と一瞬だけ店主は別の客のほうをみた。

 ――やつらか。

 虎は店主の視線を追わなかったが、店主の視線の先の男を頭のなかで見た。
 
 ――丸刈りの、刺青の卓。

 虎は腹のなかで笑った。黄巾党といっても、ちょいと脅せば泣き出しそうなやつらじゃねえか、と虎は思った。

「大きなお客様。ええ、ええ。黄巾党はたいそう羽振りがよいみたいですよ。聞くところによれば、稼ぎは平等にわけるそうです。張角様のご命令で蜂起したはいいものの、なかなか、はあ、いまはお忙しいようでございます……」
「張角っていうのかい、黄巾の頭は」

 虎は驚いて言った。
 張角というのは、一刀が聞いてきた名だからである。
 思わず虎は一刀に振り返った。
 一刀はナツメを口に入れながら、虎のほうをじっと見ていた。
 虎と眼が合うと、にっこり笑って手を振ってくる。
 その笑みに、虎は意味もわからずぎくりとした。

「……店主。おれんとこの邑はよ、黄巾様にこれから組しようっていう連中が結構いるんだけどよ、この邑じゃあ何人ぐらい参加してるんだい」

 目立たないようにと一刀に手で合図してから、虎は店主に向き直った。

「はあ、わたくしにはとんと分かりませんが、百といったところかと」
「百? 思ったよりずいぶん少ねぇんだな。この邑には何人ぐらい人がいるんだい」
「はあ……。少し前は千数百はおりましたが、いまはもう、千は切っているんじゃないかというぐらいでして」
「そいつらに殺されたんかい?」

 虎がにやりと笑った。
 しかし、その質問には店主は答えなかった。

「じゃあよ、黄巾はよそに手を出したりするかい? おれの邑はよ、ここから五日ほどのところにあってよ、民衆は黄巾のこと気にしてんだ」

 それにも店主は答えなかった。
 しばらく虎は酒をその場で飲んでいたが、店主が何も言わないのであきらめた。

「これも持ってけ」

 虎がもう一掴み五銖銭を手渡すと、店主の顔がほころんだ。

「おありがとうございます」

 卓に戻ると、ナツメの実はすべてなくなっていた。
 腹をさすりながら、ぼんやりした顔で一刀が尋ねてくる。

「何かわかった?」
「先生が言ったとおり、張角ってやつが首領でした」

 一刀は驚いたようだった。
 少しうつむいてから、ふたたび尋ねる。

「もう蜂起したの?」
「はい、してるようです」

 一刀はそれきり黙って、手を頭にやって何か考え出した。
 それにならって、虎も黙る。
 喧騒は変わらず店内に響いている。
 人の怒号、器を叩く音、酒をあおる喉の音……。
 息を潜めていると、虎には、一刀の心音さえ聞こえてくるようだった。

「魏に行こう」

 虎の眼をひたりと見つめ、一刀が言った。

「魏……」

 聞いたことはあるが、行ったことも想像したこともない地域であった。
 虎は何も言わず、一刀の次の言葉を待った。

「魏は強い。そのうち天下を取るはずだ。とにかく、一番危機から遠いところだと思う」

 一刀は、それを言ったあと、不意に目を見開いた。

「危機から遠いって、おれは」

 うつむき、一刀は自分の言ったことばを小声で繰り返す。
 その様子に、虎は意味もわからず悲しくなった。
 それで、虎は一刀の細い肩に手をおき、言った。

「おれは、先生の言葉に従います。先生はおれが守ります。約束したとおり、先生を天上の太陽まで連れていきますよ」

 虎は言いながら笑った。
 言っていることの意味が、自分にもわからなかったからである。

 ――天の太陽のもとまで。

 それを言ってしまった自分自身に、虎はなにか狂気のようなものを感じた。
 そして、その荒唐無稽な話をなんのためらいもなく言ってのけたということが、あまりにおかしくて、虎にはそれが実現するようにも思えた。
 
「先生の太陽は、いま、魏に輝いているんですよ。さっそく魏にむかいましょうや」 

 一刀が顔を上げる。

「そうか……ありがとう」

 と言ったとき、一刀の顔は、もういつもと同じだった。
 不思議な笑みをうかべている。



5.

 深夜、一刀は馬のいななきを聞いて目を覚ました。
 虎はすでに寝台から身体を起こしていて、窓から外を覗き込んでいた。
 夜闇に閉ざされているはずの外の風景は、炎の色に染まって赤かった。すぐ近くから、耳をつんざくような群集の悲鳴が聞こえる。

「先生、行きましょう」

 と虎が小声で言った。

「黄巾党」

 一刀が立ち上がって言う。

「そうみたいです」

 急いで荷物をまとめる虎の背にむかって、一刀はゆっくり発言する。

「虎、どう思う?」
「何がですか」

 振り向くと同時に、虎は驚いた。
 一刀が熱病患者のような、うるんだ瞳を虎に向けているのである。

 ――あのときの目だ。

 虎は昨夜の一刀の狂態を思い返した。

「罪を犯した人間を、虎はどうする。いま、すぐ目の前で残忍な殺人が行われているんだ。人が苦しんでいる。虎は彼らをどうしたい」
「……先生。おれにはなんにもわからんです」

 虎は混乱して頭をふった。
 急がなければ、黄巾の連中がいまにも襲ってくるかもしれない。
 そうなると、自分が刀を振るわなければならない。
 しかし、自分は人を斬ったことがなかった。

「おれは彼らをゆるしたいと思っている。どうやっても、おれは彼らをゆるしたいと思う。そのために、虎は、どうすればいいと思う……?」

 夢遊病者のように、一刀が虚空を凝視して言った。
 ちょうどそのとき、宿に押し入る者の怒声と、女の金切り声があがった。
 宿屋の主人が、懇願するようになにかわめいている。

 もう猶予はなかった。
 虎は、呟いている一刀を脇に抱えて、外に飛び出した。

「砂漠を横切って……」

 そこまで一刀の声は聞こえたが、あとは虎の耳に入らなかった。
 虎は、全身がぶるぶる異常に震えるのを感じ取り、自分が生死の境に立っていることに今さら気づいた。

 ――主よ。

 彼はそう心の中で叫んだ。
 刀を右手にもって、主を左脇に抱えて、息絶える人間の絶叫がうずまく階下に急いだ。

 
 虎に抱きかかえられた一刀は、虎の肉体のはげしい脈動をからだに感じながらも、静かに虎に話しかけていた。

「……砂漠を横切っていて、足が石に突き当たったとき、どうしてこの石がそこにあるのか、おれはあんまり考えなかった。実際、その石は永遠にそこにあるのかもしれなかった。しかし、もしおれの目の前に死体が転がっていたら、おれは、この死体がどこからやって来て、なぜここに落ちているのか、出来る限り知ろうとするだろう。どうして、おれはそうなんだろう。どうして、死体と石の違いで、おれはそんなに異なる答えを求めてしまうのだろう。……すべては構築されているのだ。ねえ、虎。おれはそう思うよ。すべては構築されていて、人間の死体という目の前の物体の意味は、きっと石ころと繋がっているんだ……」 







 古代中国思想史、用語解説

●虎刀

 虎刀(紀元156?~紀元212年)は、蜀王朝の宰相北衡一刀の弟子。渾名は赤鬼で、怪力を誇っていた。
 魏で奴隷として働いていたとき、当時料理人であった北衡に出会い、解放されたとする伝説がある。
 正史には「虎刀」と書かれているが、「虎」と記述される竹簡もある。このことから、「虎」から「虎刀」に改名したのではないかとされている。
 三国時代末期、魏との戦争で戦死。



ーーー

 次回三日目:劉備桃香との邂逅。

ーーー



 あとがき

 文体と雰囲気を一話と同じようにするのに苦労しました。
 気分が変わると、なかなか同じように書けませんよね。
 最初と最後の文章は一話と同様適当です!

 北郷一刀は原作と同じ高校生です。
 虎というオリキャラは20代後半の設定です。
 北郷一刀の表情は、なんだか子供っぽいという設定。


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