2005年11月05日

自民党憲法改正草案批判 6

引き続き「自民憲法改正草案・日本国憲法逐条対照」を見て、第3章「国民の権利及び義務」の中で、文言が変えられている部分のロジックを検討してみようと思う。前回の12条の部分でもちょっと触れたが、「公共の福祉」という言葉が「公益及び公の秩序」と書き換えられている部分を考えてみようと思う。まずは、それが書き換えられている条項を引用しておこう。


 現憲法
 第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

 改正草案
 (国民の責務)
第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、保持しなければならない。国民は、これを濫用してはならないのであって、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚しつつ、常に公益及び公の秩序に反しないように自由を享受し、権利を行使する責務を負う。


 現憲法
 第13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

 改正草案
 (個人の尊重等)
第十三条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。


改正草案のこの二つの条文を見ると、「国民の責務」「個人の尊重等」という表題がつけられている。これは、個人と国家との役割分担という観点から言うと、非常に重要な条項の一つになるのではないかと思う。「公共の福祉」という言葉と「公益及び公の秩序」という言葉の概念を細かく検討してみたいと思う。

「公共の福祉」は辞書的な意味では「社会全体に共通する幸福・利益」というふうに解釈される。しかし、これは単に言葉を言い換えただけで、概念としてはハッキリしていない。「社会全体」とは何を指すのか、「幸福」や「利益」の具体像は何なのかという問題が明らかにならないと概念としてはハッキリしないからだ。そこで、この言葉を「公共」と「福祉」に分けて、それぞれで概念を作るように考えてみよう。辞書で調べると、「公共」という言葉は、

「社会一般。おおやけ。また、社会全体あるいは国や公共団体がそれにかかわること。「―の建物」」

と説明されている。社会というものをどう捉えるかという難しさはあるものの、ここから帰結されることは、「公共」といわれるものは、国家に関わるものだけではなく、もっと広い範囲のものを含むと言うことだ。「あるいは」という言葉でつながれているところから、ロジックとしてそのような結論を出すことが出来る。

公共性を持っていると考えられるものを具体的に想像してみようと思う。今TBSと楽天の問題が語られているが、以前のフジテレビとライブドアの問題の時にも、放送の公共性というものが語られた。放送は、なぜ公共性を持つと考えられているのだろうか。

それは非常に多くの人に影響を与えるという事実からもたらされているのではないだろうか。放送というものが、単に個人的な趣味で、個人の楽しみとして提出されているだけなら、それはあまり公共性を持っていると言えなくなる。個人を越えた、社会全体への影響を持つからこそ公共性を持つと言えるのではないだろうか。

だから、テレビが、単に個人の楽しみを満足させるだけの低俗な感情を刺激するだけの番組に終始しているのなら、それはまったく公共性を持たないと言っていいのではないか。テレビの公共性というのは、例えば報道における公共性を持つ情報を知らせる、つまり誰もが知っているべきで、知っていることによって利益を得るという情報を知らせることが、公共性を担保することになるだろう。

個人を越える社会全体への影響というものが、公共という言葉の概念を作る際に必要な要素だろう。そのような観点で他のものを見てみると、例えば道路や鉄道などの交通機関については、これは個人の利益を越えた、社会全体の利益に関わってくる。だから、公共性を持つものと言えるだろう。個人の都合で鉄道の駅を設置するなどと言うことが起きたら、それは著しく公共性に反することになるだろう。

郵便事業の持つ公共性はどうだろうか。個人の都合で郵便を出すことにある種の差別があっても仕方がないと言えるだろうか。国民の誰もが、同じようにその利益を受けるべきだと考えるなら、郵便事業には公共性があるのである。しかし、受益者負担でかまわない、資本主義の経済原理に従って安くなったり高くなったりする、私益に関わるものだと考えるなら、郵便事業の公共性を否定することになるだろう。

公共性の本質的概念は、社会一般という国民の大多数の利益になるということだと考えられる。そうすると、これに国家がかかわると言うことはどういうことなのだろうか。公共性があるという判断がまず最初にあって、公共性があるものは、個人的な私益の問題ではないのだから、国家が扱うべき問題なのだと考えるのが、国家が関わると言うことなのではないだろうか。

つまり、国家が関わることによって公共性が発生するのではなく、公共性が元々存在するからこそ国家が関わるという行為が生じるのだ。公共性の存在こそが最初であって、その結果として国家が関わるのだ。だから、間違えた判断の元では、公共性がないにもかかわらず国家が関わってしまうこともあるだろう。

だから、国家事業だからといって、そのことだけで公共性が証明されるわけではないと言うのが、公共性の概念の正しい理解なのだと思う。公共性の判断は、あくまでも社会全体の利益という、国民一人一人に関わることなのだ。つまり、極めて民主主義的な概念だと言うことになる。

「福祉」という言葉は、辞書によれば「公的配慮によって社会の成員が等しく受けることのできる安定した生活環境」と定義されている。この定義を加味して「公共の福祉」というものを考えると、その概念は、

 ・個人的な利益を越えた、社会全体の利益として捉えることが出来る
 ・誰にも利益となることなので、それを受けることに差別がついてはならない
 ・公の機関によって、その利益の享受が安定して得られなければならない

このようなものとして捉えたとき、個人の権利である基本的人権が、このことに反しない限りでは完全に自由にされなければならないというのが現憲法の理念だろうと思う。民主主義を基礎とする憲法としてはまったく妥当な判断だ。

それでは、自民党の改正草案のように、「常に公益及び公の秩序に反しないように」という制限は、概念的にはどのように理解したらいいだろうか。「公益」というのは「公」の「利益」のことだ。では、「公」とは何なのか。それは、社会一般のこと、つまり国民の一人一人が集まった集合体のことを指すのだろうか。

僕は、そうではないような気がする。これは、国家の機関という極めて限定されたものを指す言葉なのだと思う。つまり、「公益」とは、国家にとっての「利益」、言い換えれば国家権力にとっての「利益」なのだと思う。国家権力にとっての利益は、国民の大部分の利益としての公共性を持つだろうか。これは、対立するものも出てくるに違いない。

それは、国家権力を実際に動かす人間が、抽象的な一般人ではなく、具体的な生きている人間であることに由来して、ロジックとして「私的」な性格を逃れることが出来ないことから帰結されると思う。個人的、具体的な性格から、どうしても私的な利益が生じてしまい、本当に客観的な意味での公共性を持つことが出来ないからだ。

だから、判断としては公共性を上位に置いて、公共性に反しない限りで国家の判断を認めると言うことが必要だろう。国家の判断の方を上位に置けば、その判断が間違えていたときに、公共性に反する国家の判断が憲法によって正当化されてしまう恐れがある。改正草案は、国家の判断の方を公共性よりも上位に置くと言うことで、ある意味での役割分担の意識を出しているが、憲法が、国家の暴走を防止する規範であるという原則から言えば、暴走を食い止めることが出来なくなるような欠陥を持っているものとして批判されなければならないだろう。

「公の秩序」という言い方に関して言えば、この場合の「公」は国家機関ではないと受け取った方がいいだろう。むしろ世間一般に認められている常識的な秩序を指していると解釈した方がいいと思う。つまり、現状追認と言うことが「公の秩序」に込められた意識だと僕は解釈している。

具体的な例で考えると、成田空港建設に際して、建設予定地を没収された人たちの権利は、現憲法と改正憲法ではどのように考えられるだろうか。現憲法においては、成田空港建設の是非というものが、公共の福祉に当たるかどうかが争点になる。公共の福祉に当たると判断されれば、基本的人権が制限されるのもやむをえないと言うことになる。しかし、それが公共の福祉に当たらないと判断されれば、たとえ国家が進めようとする事業であっても、基本的人権の方が守られるべきだという判断になる。

憲法違反であるかどうかは、国家の事業であるかどうかではなく、空港建設という事業そのものの性格が公共性を持つかどうかに依存する。反対運動の正当性も担保されるのだと僕は考える。

しかし、改正憲法の下でこのことを考えると、空港建設という国益、すなわち「公益」が優先されることになり、そのためには権利が制限されるのもやむをえないと言うことになる。しかも、反対運動が、常識的な秩序を破壊するような過激なものになれば、ますますそのような制限を受けることの正当性が確保されるようになる。

成田空港建設に公共性があるかどうかは非常に難しい問題だと思う。だからこそ激しい反対運動も起きるのだと思う。このような反対運動の正当性を持たせた憲法の方が民主主義的なのか、国家にたてつくようなものはどんどん取り締まれるような改正憲法の方が、より便利だと考えるのか、それは判断する人間の思想や立場に大きく関わってくるだろう。

僕は、たとえ国家権力の意向に逆らおうとも、それまでの常識的な秩序に反するような行動を取ろうとも、公共性を深く考えて行動するような国民を守るための憲法でなければならないと考える。そうでなければ、誰も公共性など守ろうとしなくなるだろう。日本という国が、堕落した非民主的な国にならないようにするためにも、自民党の改正草案には批判的にならざるを得ないと僕は思う。

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