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【コラム 私は見た!】

<特別寄稿>どんな力士の時代なのか

2010年6月23日

 途方もない化け物が大相撲にとりついている。次から次に繰り出す魔の手で人を脅しにかけ、われわれ相撲ファンは、結果や途中経過を知らされるだけで、呆気にとられるばかりで、事が動いていく。

 ごく平たくいえば、大相撲はどうなってしまったのだろう。そして、どうなっていくというのだろう。一日も早く正常なリズムを取り戻してほしいのだが、そして、無理な処理方法が、将来に禍根を残さないように祈るばかりなのだが。

 そんなことを考えていると、今度の賭博事件ではないが、大相撲の危機として報じられた大きな事件があったことを思い出す。といっても、相撲界の改革を目標に掲げたいわゆる「天龍」事件は、いってみれば、大相撲の大道にかかわる“陽”の部分から発したものだと考えられている。今回のものは、所詮“陰”で行われる非合法の遊びにまつわる話なのである。

 いってみれば、炭と雪ほど違う。だが、その炭の話の中に雪の話を交えたのには理由がある。

 以下、朝日新聞社編『朝日人物事典』より。

 天龍三郎 1920年1月初土俵。28年5月入幕。30年5月関脇。190センチ、120キロの美男力士で角界随一の理論家。32年1月、角界革新をとなえて力士31名とともに東京大井の料理店春秋園にたてこもり、大日本相撲協会に10ケ条の改革案をつきつけた。やがて協会脱退を決意し、まげを切って書生風のヘアスタイルにした。力士は少年のころから親方に鍛えられきたので、親方に乗り込まれて「おい野郎ども」といわれると気をのまれて、そのまま協会に復帰しかねないと考えたからだという。同志70人と「新興力士団」を結成、やがて「大日本関西相撲協会」をつくり、5年持ちこたえたが37年に行き詰まり、30歳代は引退し、20歳代の実力ある力士たちだけ大日本相撲協会に戻る結末となった。

 私と同年輩前後の人なら覚えておられるかも知れない。あの大相撲解説の形を作り上げた天龍である。

 突然話が天龍に飛んだのは、他でもない、大相撲の改革を志した天龍が、協会につきつけた改革の内容に触れたかったからである。

 文章を簡便に短くしてあるが、内容は次のようなものである。

 一、良いマス席を独占し、ひいきの客のみに渡す茶屋制度の廃止。

 二、年寄の数を少なくして、合理的経営にする。

 三、巡業制度の廃止。

 四、年六場所制を採用する。

 この改革案を先入観なしに、天龍事件の知識なしに読んだとしよう。これがいつ書かれたものかと、不思議な気分に追いやられる人は少なくないだろう。予備知識なしに、現在の相撲界の改革案を思い出す人も、やはり少なくないはずだ。

 と、天龍の時代を知っているような書き方をしたが、実は私は全く知らない。知っているのは、後年の名解説者時代の天龍である。その解説者の時代からはよく知っているが、双葉山の前人未到の六十九連勝のころの話になると、活字で読んだ話や人に聞かされた話がまじってくる。

 それらの思い出や記憶を整理し順序だてていくと、こうなる。天龍の力士としては、当時の許し難く思えた行動が、実は双葉山という偉大な才能が登場して開花する序曲であった。その時代を天龍、双葉の日々であったとすれば、今はどんな力士の時代の日なのだろう。次から次に賭博関係者の中に名が上げられていく哀切感を、どうこらえて聞いていろというのだろう。 (作家)

 

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