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日本の南極観測に足跡(そくせき)を残した故・村山雅美(まさよし)さんから、かつてこんな話を聞いた。旧制中学で英語を教わった教師は英国人の元探検家だった。山好きな村山少年に目をかけ、自宅へ招いてくれたそうだ▼小さな箱をプレゼントされ、開けると壊れた懐中時計の針とガラスが入っていた。意味が分からずにいると、「遭難したらガラスを反射させて助けを求めるんだ。食料が尽きたら時計の針は釣り針になるぞ」。自然の中で欠かせないのは「臨機応変の知恵」だと教えられたという▼それは遭難した後のサバイバルに限るまい。むしろ悲劇を招かないためにこそ「臨機応変」は不可欠だろう。時々刻々、千変万化の自然にマニュアル対応は通じない。それを欠いてはいなかったか。風雨の浜名湖で、野外活動の中学生ら20人の乗ったボートが転覆し、生徒1人が亡くなった▼事故を報じる映像を見ると、湖面はかなり波立っている。強風、波浪の注意報が出ていたのだから臨機応変以前の無謀だったかも知れない。乗る前から怖がる者もいたそうだ。生徒に「暴虎馮河(ぼうこひょうが)の勇」を教えてどうする▼子ども時代の自然体験は人生の財産だという。体験が豊かなほど物事への関心や意欲が強く、学歴も高くなるという調査結果を、先日も国立青少年教育振興機構が発表していた。だが、それも命あっての財産である▼「臆病者(おくびょうもの)と言われる勇気を持て」の至言を思い出す。この日の天候下で教えるべきは、そちらの勇気ではなかったか。広がる未来を残して打たれた終止符ひとつに、胸が痛む。