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ブータン王国

日清食品が世界初のインスタントラーメンである“チキンラーメン”を発売したしたのが、昭和33(1958)年のことです。
この年、大阪府立大学農学部に、ある依頼がありました。
「ブータンに、日本の農業専門家を派遣してほしい」
というのです。
ブータンは、インドと中国にはさまれた世界唯一のチベット仏教国家です。
国民総生産にかわる国民総幸福量(GNH)という概念や、さまざまな環境政策、伝統文化保持のための民族衣装着用など、非常に特色のある国でもあります。
国旗のデザインが、これまた難しい。
ブータンの国旗

要するにブータンという国は、ある意味、非常に閉鎖的に伝統を重視する国家なのであって、そういうところで民衆に溶け込んで、農業指導をする。
これはたいへんな仕事です。
ブータン王国で農業指導をするためには、ブータンの人々の生活の中に溶けこみ、「あの人のいうことなら間違いない」という人としての信頼を勝ち得ないといけないのです。
ただ頭ごなしに技術を「教えてやる」方式では、絶対にうまくいかない。
ブータンの首相から直接依頼を受けた同大学の中尾佐助助教授は、たいへんな依頼を請けたと、思うとともに、「あの男なら!」と、すぐにピンとくる者がいました。
それが、当時、同学部の学生であった西岡京治(当時25歳)です。
性格が、穏やか。しかも謙虚。
友誼に篤く誠実で努力家。
根気と忍耐が予想されるブータンでの生活に最適な男は、西岡京治しかいない!
中尾助教授は、すぐに西岡京治に相談をもちかけます。
もちかけられた西岡京治は、同じ年にネパール学術探検隊に参加しています。
彼には、ヒマラヤの自然の美しさと、そこに住む人々の貧しさを見て、自分が彼らの生活をよくすることに少しでも貢献できたら・・・という思いがあった。
彼は二つ返事でブータン行きを承諾します。
昭和39(1964)年2月、海外技術協力事業団(現・国際協力事業団)から、西岡に、正式な派遣決定の通知が届きます。
西岡は、新妻の里子を伴って、その年の4月に、ブータンに飛びます。
昔からそうなのですが、こうした海外協力隊では、たいていの場合、妻は日本に残して、単身で旅立つ者が多いです。
最初から西岡が、妻を伴ったということは、彼自身に、妻を愛する心と、ブータンに骨をうずめる覚悟があった、ということです。
ブータンの民族衣装

ブータンに到着した西岡は、さっそく開発庁農業局の事務所に出向きます。
農業局は、局長も職員もすべてインド政府から派遣されたインド人です。
彼らは、自分たちこそがブータンの農業事情を一番知っている、ブータンの農民は遅れていて因習深く、何を言っても始まらないと、ハナから西岡をとりあいません。
実際にブータンの農民と接して農業指導を行うにも、その許可さえくれない。
西岡は、めげそうになる心を振り絞って、政府に働きかけ、ようやく農業試験場内で、60坪ほどの土地を提供してもらいます。
ひどく水はけの悪い土地です。
これでは野菜の栽培すら難しい。
要するに「やれるものなら、やってみろ」というわけです。
西岡が派遣された目的は、農業指導です。
荒れ地で、ひとりで栽培をしても、それでは意味がない。
西岡は、農業局に、ブータン人の実習生を要求します。
ようやく許可が出て、西岡につけられた実習生は、12〜3歳の子供が3人。
ここまでされたら、ふつう、怒るかあきらめるかして指導員は、本国に帰ってしまいます。事実、いろいろな国から派遣された指導員は、それで怒って帰国している。
ところが西岡は、笑顔で少年たちと土を耕し、樹木を抜き、水利を図って、日本から持ち込んだ大根の栽培を開始します。
畑の耕し方、種の蒔き方、土のかけ方、ひとつひとつを西岡は少年たちに実演し、一緒になって大根を育てます。
大根というのは、昼夜の寒暖差が大きいほど、おいしく、よく育ちます。
3ヶ月後、それまでみたこともないような、おおきな大根が育ちます。
実った大根を抱えて見せた子供たちの笑顔が、たまらなく美しかった。
野菜の栽培は、到底無理、と思われる荒れ地で、西岡は見事に野菜の栽培に成功してみせたのです。
西岡の成功を喜んだブータン政府は、翌年、試験農場を水はけのよい高台に移してくれます。農業局ではなく、もっと上が動いてくれたのです。耕作地面積も、3倍です。
水利がよければ、野菜はますます育ちます。
西岡の農場は、狭いけれど、青々とした野菜が見事に育った。
噂が噂を呼びます。
ブータンの知事や議員たちも、西岡の試験農場に視察に来ます。
感動したある議員の提案で、西岡は、ブータン国会議事堂前で、試験場で栽培した野菜を展示します。
これが、大評判となります。
みたこともないほど肥えた野菜です。
しかもおいしい。みずみずしい。
噂が噂を呼び、ついには国王陛下から、もっと広い農場用地を提供するという申し出をいただきます。
後に西岡は、このときの模様を「ブータンに来て、これほど嬉しいことはなかった」と語っています。
国王から提供された農場は「バロ農場」と名付けられます。
「バロ」というのは地名で、ここには、ブータンに仏教を伝えたパドマサンババが空飛ぶ虎の背から降りてきたという伝説が残っているところです。
いまでもこの地では、毎年三月に、一年の豊作を願って、人々が様々な民族衣装や動物や鬼などの仮面をつけて、太鼓や管楽器による民族音楽に乗って歌ったり踊ったりします。
国王は、そういう由緒ある地を、西岡のために提供してくれたのです。
ただし、ここは標高2200メートルの高地です。
そして西岡のバロ農場は、その後のブータンの農業近代化を一気に加速することになる。
まさに、空飛ぶ虎の背(飛行機)から降りてきたバドマサンババ(西岡)が、ブータンの人々の生活を一変させる事業が行われることになります。
昭和46(1971)年、西岡は、この高地で、米作りに挑戦します。
日本では田植えというと、縦と横を一定間隔で植える並木植えがあたりまえの習慣ですが、当時のブータンでは、勝手気ままな植え方をしていました。
これだと手押しの除草機が使えない。
苗の苗との間の風通しも悪い。
当然生育も悪い。
西岡は、村人たちと再三、並木植えについて相談を持ちかけるのだけれど、
「ワシら、昔からこうやってきた」と、とりあってくれません。
ようやく「やってみよう!」といってくれる農家が現れたのだけれど、もし、並木植えで収穫量が上がらなければ、西岡の信頼は一気に失われます。
西岡は祈るような気持ちで、稲の生育を見守りました。
結果・・・・・
並木植えの田は、従来型の雑多な植え方の田と比べて、なんと40%もの増産!!
村人達は、驚き、喜び、バロ盆地では、数年のうちに約半数が、西岡が持ち込んだ並木植え栽培をはじめます。
この農法はいまではブータンに広く普及し、ブータン王国の8割の田が、並木植えになっている。
1970年、西岡は、国王の命によって、シェムガン県の開発に従事します。
この地は、貧しいブータンの中でも最貧地区・・・というより極貧地区です。
焼畑農業が営まれ、収穫量が下がると人々は別な土地に移動します。
西岡は、ここに10人のスタッフとともに乗り込んだ。
しかし、いきなり「よそ」からやってきた西岡の言うことなど、誰も聴きません。
成功する保証などないのです。
ただでさえ貧しい。ようやっと食べている。
先祖伝来の農法を変えることで、万一、収穫が落ちたら、村人たちは飢え死にしてしまうのです。
西岡の村人たちとの話し合いは、なんと800回に及びます。
西岡は根気強く村人たちを説得した。
西岡はこのとき、無理に近代化を行うのではなく、あくまで彼らの「身の丈にあった開発」を進めます。
いたずらに巨額の開発費用をかけて、たとえば水田に水を引くのにも、重機を用いて水を汲み上げるのではなく、竹などの自然のものを利用して水路を確保した。
また、木でできたアブナイ吊り橋を、いきなりコンクリート製の近代的橋に掛け替えたりはせず、耐久性のすぐれたワイヤーロープを使って、吊り橋を直した。
こうして西岡は、360本もの水路を完成させ、17本の壊れかけて危険だった吊り橋を掛け替えます。
村人たちと一緒に作った道路は、なんと300kmにも達した。
そして村人たちと共同で、60ヘクタールもの広大な水田を作った。
西岡が来る前までの水田は1〜2ヘクタールです。50倍の規模です。
同じ人数、同じ労働力、同じ土地で、焼畑農業で農地を転々とさせるのではなく、水路を引き、道を作り、橋を架け、広大な定置農地を確保したのです。
その広大な農地に、満面の稲が稔ります。
ものすごい収穫高です。
極貧地区は、またたく間に生活が安定します。
子どもたちが喜ぶ学校もできます。
診療所もできた。
村人たちは、定住することができるようになり、生活も安定します。
西岡たちが村を去る日、集まった全員の村人たちは、
「はじめに西岡さんが言ってくれた通りになった」と、
涙を流しながら西岡たち一行を見送ったといいます。
ダショー・西岡

昭和55(1980)年、西岡は長年のブータン農業への貢献を評価され、国王から「ダショー」の称号を受けました。
「ダショー」というのは、ブータン語で「最高に優れた人」という意味です。
この位は、最高裁の判事クラスしかもらえない称号です。
ブータンでは最も栄誉ある顕彰です。
このとき西岡、47歳。
ブータンに来てから16年の歳月が経ってのことでした。
そしてその後も12年、西岡はブータンにとどまります。
平成4(1992)年3月21日、子供の教育のために日本に帰国していた妻・里子のもとに、電話がはいりました。
電話はブータンからの国際電話でした。
「ダショー・ニシオカが亡くなりました・・・」
突然の訃報に動転しながらも、
「葬式はどうなさいますか」との質問に、里子はとっさに
「バロでお願いします。ブータン式の葬式でお願いします」と答えました。
ブータンで28年間、ブータン人になりきってブータンのために生き、ブータンのために死んだ夫です。
夫は、きっとそう願っているに違いないと、彼女は確信していたのです。
ダショー・西岡の葬儀は、妻と娘の到着を待って、同月26日に行われました。
それは、農業大臣が葬儀委員長を務める国葬でした。
ラマの僧侶の読経が山々にこだまします。
葬儀には、西岡を慕う5千人もの人々が、ブータン全土から集まりました。
ブータンは、国をあげて西岡に感謝の心を捧げてくれたのです。
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日本人て、すばらしいですね。
西岡京治が、ブータンで成功したのは、彼が性格が穏やかで、謙虚で、友誼に篤く誠実で努力家だからです。
世界ではどこの国でも、そういう人が尊敬される。
下の写真は、かつての植民地時代に、西洋の婦人が、現地の子供たちにお菓子をばら撒いている写真です。
子供たちは、まるで餌をもらいにきた公園の鳩のようです。

ここでお菓子をばら撒いている西洋婦人が、尊敬すべき政治家なのでしょうか。
それとも、ダショー西岡のように、本気で人々が豊かに暮らせるように努力を重ねる人が、必要な政治家なのでしょうか。
ボクなどは、西岡京治の素晴らしい貢献物語は、絶対に学校の教科書に載せるべきだと思うのだけれど、いまどきの日教組教員は、道徳教育をすること自体が間違っていると屁理屈を言って、横浜市教組などは、国が決めた道徳授業でさえ拒否をするためのマニュアルを配ってまわっているといいます。
日本人は、いつまでそんなものに騙され続けるのでしょうか。
今日、日本のパスポートは、どこの国に行っても、歓迎されます。
残念ながら、中共や韓国のパスポートは、世界の多くの国々で拒否される。
世界にも良心はあるのです。
しかし、いまのままであと10年もしたら、日本国のパスポートは、世界中で拒否の対象になってしまう。
かつては礼儀正しく、人にやさしく、高次元の国家観と正義感、道徳心を持っていた日本は、高い教育によって築かれていたのです。
その教育が崩壊している。
ここまできたら日本は、もはや解体的出直しを図るほかない。
対処療法でなく、根治療法を施す他ない。
そのために必要なことは、ひとりでも多くの日本人が、そのことに覚醒し、また政治家に明確な国家観を持った人物を送り込むことではなかろうかと思います。
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