2010-06-21
ネット上でジェンダー談義がこじれることについて
主にブログや Twitter で、ジェンダーの話をしているところを見ていると、最初は抑圧を受けている (とされる) 側 *1 が「こんなことがあって辛かった/不快だった」というふうに個人的な体験を開示するところから始まるのだが、人が集まって言葉のやりとりがあった後、最後には喧々囂々で物別れになっていることが多いように見える。
ジェンダーの場合、そこには「女性 vs 男性」の構図が形成される。はてブや Twitter でネット住人が気軽に思ったままを口にできるようになり、しかも一覧性に優れているので、対立構造みたいなものが見えやすくなっているあたりも影響していると思うんだけど、最初に個人的な体験を語った人は、「女性 vs 男性」の構造になることを望んでいたんだろうか。むしろ対立構造は望んでいなかったんじゃなかろうか。
最初に個人的な体験を語った人の意図はさておき、ネット上で人が集まってくるとそこにはいろいろな考え方を持つ人がいて、女性の中には「男性による女性の抑圧/搾取」の構造の中で散々嫌な目に遭っている人も少なからずいると思う。そういう体験をずっと繰り返していると「女は抑圧されている」「男は無自覚な差別者だ!」と袈裟斬りにしてしまいたくなる。私も過去に散々嫌な目 *2 には遭っており、一時期はどんな手を使ってもそいつを追い込んで生きたまま社会的に抹殺してやりたいと思っていたし、同じ属性 *3 を持っているやつは全員潜在的な加害者だし、非難されるべきであるし、場合によっては攻撃してもいいと思っていた。
けどそうやって袈裟斬りにするのは、抑圧的/搾取的な振る舞いをしないように気をつけている男性から見れば、いきなり「差別者」という面白くないレッテルを貼られ、強制的に「加害者」の位置に立たされ、身に覚えのないことについて「反省しろ!」と言われているようなものだと思う。特に気をつけておらず、以前に自覚のない言動で誰かを傷つけた経験がある人ならば、探られたくない過去を探られてむりやり直面させられるようなものではないだろうか。私は個人的に、自分が加害者であることを引き受ける *4 のはけっこう苦しいことだと思っていて *5 、そうやっていきなり袈裟斬りにされることはショッキングな体験だと思うし、反発も大きいと思う。
しかもそこで「差別者」「加害者」というレッテルがくっつくことで、レッテルを貼った側には「正義」の大義名分が自動的に与えられることになるから、男性は反論しにくいし、女性は正当性を得て批判しやすい構造ができる。人によっては攻撃的になるかもしれない。これって、自分たちがやられてさんざんむかついてきた「これだから女は」をそのまま「これだから男は」にしただけじゃないのだろうか。また、こうなった段階で女性の側が大上段に構えて「男性は〜するべき」「〜はやめるべき」的な物言いになるのも、権力関係を反転させただけのように見える。それでいて「男女は平等だ」を叫ぶ。少し矛盾しているように思える。
あとまあ、「女は抑圧されている」という主張を見かけると、私自身が現在抑圧されているとは感じていないから「ええー勝手に女の総意を代弁しないでよ」と、すこしげんなりした気持ちになる。政治家が「国民の意志を云々」と言うのを聞いたときに感じる「私そんなこと考えてないし」というげんなり感に似ている。これが「私は抑圧されている」だったら「そっかー大変そうだな、私になにかできる?」とか「私の場合はどうだろう」くらいの気持ちを抱くのだけど。
ただし、強硬的な態度が必要になるというときも確かにあると思う。女性に選挙権が与えられる前だとか、男女雇用機会均等法が成立する前だとか、それくらい昔になるとこうやって女性が自由に意見することもできなかっただろうし、集団になって強硬な態度で交渉することも必要だったのだと思う。現代においても、家にお金を入れないくせに妻が働きに出ようとすると殴る夫、嫁を家に束縛して女中扱いする時代錯誤な舅姑、解雇をちらつかせて性的な関係を迫ろうとするバカ上司など、暴力性や緊急性のあるケースに関しては強硬な態度で、場合によっては警察や行政等、公権力を介入させる必要もあるだろうし、本人が全く動けない状態であれば周囲が積極的に介入して力技で解決するのがいい場合もあるとは思うのだけども。
話を戻して。
しかしネット上でジェンダーの問題について言葉をやりとりしようとする場合は、女性であれ男性であれ、こういう問題に幾許かの関心を持って考えたいと思っている人がそれなりにいるはずで、やり方によってはある程度は問題意識を共有できると思う。
発言する方は「私はある発言 (や態度) で嫌な思いをした」というふうに、「私」と「私に直接その発言 (や態度) をした人」の問題としてその体験を捉え、他の人と共有するようにする。一方で読み手の方は、その体験はその人に固有の体験として捉え、自分が不用意な発言 (や態度) で誰かに嫌な思いをさせてこなかっただろうか、また、嫌な思いをさせられなかっただろうかと、自分の固有の体験について考えるようにする。こういう風にしたらもうちょい上手くいくんじゃないかと思う。
「女性は〜だ」とか「男性は〜だ」という「社会的規範」の部分から語るでもなく、主語を「女は〜」「男は〜」と大きな括りにして「集団の総意」を大義や後ろ盾にして語るものでもなく、あくまでも主語は「私」であって、「私の問題」として問題を引き受けて話すし、「あなたの問題」として問題を引き受けて考えてもらう、そういう感じ。
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考えるきっかけになったのがこの本。
これは複数の書き手が参加したジェンダーについての軽めのエッセイ集で、日常の中での気づきや「あれ?」という感覚、言うなれば「私のジェンダー的体験」について書かれている。この中で語られるジェンダーの問題は、差別、抑圧、平等など具体的でないものを持ち出して誰かを批判したり、誰かに規範を押し付けようとするものではなく、性別という狭い枠組みに基づく力関係を少し変えて満足するような性格のものでもない。「女である私」でもなく「男である私」でもなく、あくまでも「私である私」として、人と人の間に生じた問題とどういう風に向きあってきたかが描かれている。ああしろこうしろとは書かれていないけれど、どうしたらいいのかなんとなく伝わってきた。男性の寄稿があるのも興味深いところだ。
私みたいなただの一般人 (しかも not 文系) がジェンダーについて考えるとき、理論や歴史の本を読むよりも、こういう具体的な体験談を率直に綴ったものの方が、ジェンダー感覚というか、アンテナのようなものが育つような気がするのだな。とても読みやすいし、ジェンダーに敏感になりすぎてやらかしちゃった事例 *6 もあるし、1時間かそこらで読み終わるのでモノは試しでいかがですか (って、出版社の回し者みたいだw)。
「私の問題」として問題を引き受ける態度については、こないだ読んだ過食症の本の文章の書き方に、なんとなく教えられた。過食症当事者向けの本で、「過食症の患者は〜」「症状は〜」ではなく、「あなたは〜でしょうか」「〜してください」と書かれている。このため、他人事や社会問題としての過食症ではなく、あくまでも「私の問題」としての過食症として、対峙せざるを得なくなるのだ。
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また、人とコミュニケーションするときに「《私》は〜と思う」という表現 (私メッセージ) を用いることについては、何年か前に読んだアドラー心理学の本 *7 から教えられた。この本は人とコミュニケーションする際に役に立ちそうな方法がいろいろ書かれている。上手に主張するやり方としてとても参考になる。また、文章の端々にユーモアが感じられ、のらりくらりとした空気もあり、問題について感情的になりすぎたり深刻になりすぎたりしない雰囲気が好きだー
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話はずれるけど、怒りの取扱いってホントに難しいなというか。過去に「男性による女性の抑圧/搾取」の構造の中で不快な思いをしてきた女性が、他の人の個人的な体験談の中に再現された同じ構造に怒りを覚えて、攻撃的な言葉/態度で自分の思いを表現するのは、ある程度しかたない面があると思う。けどそれが男性という集団全体に向いた (と誤解される表現になった) 場合、男性にとってそれは理不尽な攻撃であり、加害行為として捉えられる。そこで男性がいらっとしてやり返し、女性がさらにやり返し…というふうに延々と続くと、被害の拡大再生産が起こる。誰も得をしない。泥沼。
たくさんの人がいるネットにおいて「私はこういう体験をしてとても怒っている」ことを、誤解なく分かってもらい、共感を得たり、その体験について建設的に考えてもらうにはどうしたらいいのだろう。ホント難しいと思う。
*1:集団でマイノリティに属する側、社会的に立場の弱い側、「加害/被害」の関係にある場合は被害者側
*2:言いたかないけど性的なものも含む
*3:つまり男性全般だとか、学校で言うならいじめっ子側だ
*4:自覚して責任を持つこと、くらいの意味で捉えていただければ
*5:まあ実際に他人に危害を加えたり辛い思いをさせたのならば、自業自得だし罪悪感と責任と苦しみを一生背負って生きていけと思うんですけどね
*6:職場での女性の地位向上に躍起になってた人が、お茶くみ等を嫌がらない女性に対して「これだから女は」的な視点を向けてたりして、心情的にはどんどん孤立して以前より辛くなってしまったりとか
*7:野田俊作先生の思想の入門書かも。「こんなのアドラー心理学じゃない」という批判もあるそうだ。
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