沖縄慰霊の日の23日朝、沖縄県糸満市摩文仁(まぶに)の平和の礎(いしじ)では多くの人々が礎に刻まれた犠牲者の名をなぞり、手を合わせた。米軍普天間飛行場(同県宜野湾市)の移設先として日米両政府が合意した名護市辺野古で暮らし、地元で反対運動を続けている島袋文子さん(80)の兄の名前も刻まれている。【斎藤良太】
「あの戦争で生き残ることは生やさしいことではなかった」。防衛隊に召集された兄金助さんがいつ、どこで戦死したのか今も分からない。島袋さんも、九死に一生を得た。毎年この日が近づくと、思い出したくない当時の記憶がよみがえる。
戦前は南部の糸満で暮らしていた。1945年4月に米軍が沖縄本島中部に上陸し、本格的な地上戦が始まると、目の不自由な母カマさん、小学生だった弟盛幸(せいこう)さんと、安全な場所を探して逃げ回った。
「雨のように降ってくる弾より、死体を踏みつけることの方が怖かった」
ある日、親子で身を隠していた壕(ごう)が米軍に発見された。「出てこい」の呼びかけを無視したら、火炎放射器を浴びせてきたため、たまらず母と弟を連れて飛び出した。島袋さんは左半身にやけどを負うなどしたが、親子3人は生き残った。しかし、兄の消息は分からないままだ。
56年に米軍キャンプ・シュワブが開設されたのに伴い、辺野古に移り住んだ。戦後結婚した夫が米軍基地で働いていたからだ。島袋さんも基地内の将校宅でメイドの仕事をした。生活のためだ。だが、ベトナム戦争が始まった時「戦争に苦しめられたのに、戦争に加担したくない」と基地での仕事を辞めた。
沖縄戦では多くの住民が戦闘に巻き込まれて命を奪われ、戦後も戦争の後遺症や食糧難、そして米兵の犯罪に苦しんだ。それなのに、辺野古への移設を強行しようとしている政府。島袋さんは「許せない」と思う。
攻撃を避け夜間に逃避行中、死体が浮いていた水たまりの水を気づかずに飲んだ。「今思い出しても吐き気がする。こういう経験をしていないヤマトの政治家が、沖縄にまた基地を造ろうとしている。まず死人の血を飲んでみろと言いたい」
母、弟、夫に先立たれ、島袋さんも足が衰え外出の時は車いすに頼るが、今も基地反対運動に参加し続ける。「自分が生きている間は基地を造らせない」。亡き兄にそう誓う。
平和祈念公園には早朝から花束を手にもった遺族の家族連れらが続々と訪れた。照りつける日差しの下、犠牲者の名を刻んだ平和の礎を指でなぞり、手を合わせ、涙ぐむ姿がみられた。
妻と2人で訪れた沖縄県宜野湾市の玉那覇祐正さん(77)は、玉那覇さんの父親や妻の父親らが刻銘された場所で手を合わせた。玉那覇さんは目を潤ませながら「沖縄戦は本当に地獄だった。思い出すのもつらく、戦争は二度としてはいけない」と話した。
一方、沖縄全戦没者追悼式の会場に向かう道路脇には「菅総理 普天間基地持って帰れ」と、民主党の地元市議団が掲げた横断幕も見られた。【井本義親】
毎日新聞 2010年6月23日 東京夕刊