1960年1月19日に日米両国が調印した新安全保障条約は、その是非をめぐり、国内を大きな渦に巻き込んだ。「60年安保」と呼ばれる闘争は、国民の各層にまで拡大、学生たちの活動は激化の一途をたどった。そして6月15日、全日本学生自治会総連合(全学連)を中心とする約2万人のデモ隊が国会に突入。警官隊と衝突し、東大生の樺美智子さん(当時22歳)が死亡する事件が起きる。
学生らは15日夕、参院通用門付近で最初に「維新行動隊」のノボリを立てた右翼と衝突。数で勝る学生らは、右翼を押しのけた後、国会内に乱入、一部が国会構内を占拠し、抗議集会を開いた。学生らは、投石、放火などで抵抗する一方、警官隊も負傷した学生に手錠をかけて警棒で暴行を繰り返すなど、国権の最高機関は血塗られた修羅場と化した。
この中で起きた樺美智子さんの死。司法解剖の結果、内臓出血による圧死と発表された。政府・自民党は流血デモの後も安保批准の方針を変えず、自民、社会、民社それぞれが党首会談を模索したものの、政局は険悪を極めた。翌日から国会本会議は休会となり、樺さんの死を受けて、在京新聞社7社が暴力批判と国会正常化を求める共同宣言を発表している。
「6・15の惨事」から4日後の19日、参院は本会議での議決承認を取りやめ、日米安保条約は自然承認された。続いて23日、日米両国が批准書を交換し新安保条約は発効。同時に岸信介首相が退陣を表明した。岸首相の後を継いだ池田勇人首相は所得倍増計画を打ち出し、世論を「政治から経済」に誘導。「反安保」のうねりは一気に収束した。
それから半世紀。安保改定時に結ばれた両国の密約が改めて検証され、沖縄の米軍基地移転問題が政権を揺るがす。安定した日米関係の重要性は一貫しながらも、「外交・安保」を巡る問題は時代によって形を変えながら、今なおくすぶり続けている。
2010年6月15日