スタッフのお勧めスポット:世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」  
世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」 小辺路   by A.Kawabata
写真:松本起久央氏     
小辺路(こへち)とは?

 紀伊山地の霊場と参詣道が世界文化遺産に登録されて、今年の7月で5周年になります。そこで、今回は高野山から熊野三山への参詣道、小辺路を紹介します。
 小辺路は、熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)へと通じる参詣道・熊野古道のひとつです。
 小辺路は、弘法大師によって開かれた密教の聖地・高野山と熊野三山を結んでいます。出発点と終点により高野熊野街道(南向きに歩く場合)、熊野道(北向きに歩く場合)、高野道ないし高野街道と呼ばれてもいますが、歴史的には小辺路の名のほうが古いようです。
 熊野古道の中では、起点から熊野本宮大社までを最短距離(約72km)で結びますが、奥高野から果無(はてなし)山脈にかけて、紀伊山地の背骨にあたる部分を縦走することになり、大峯奥駈道(おおみねおくかけみち)を除けば最も厳しいルートです。
 高野山(和歌山県高野町)を出発した小辺路は、すぐに奈良県に入り、野迫川(のせがわ)村・十津川村を通って、十津川温泉付近で熊野川に出会います。十津川温泉を発つと、果無山脈東端にある果無峠を過ぎて再び和歌山県側に入り、田辺市本宮町八木尾の下山口にたどり着きます。ここから国道168号を経て三軒茶屋付近で中辺路に合流し、熊野本宮大社に至ります。
 古人のなかには、この参詣道をわずか2日で踏破したという記録もありますが、現在では2泊3日、または3泊4日の行程が勧められています。
 日本200名山に数えられる伯母子岳(おばこだけ)が単独、または護摩壇山(ごまだんざん)の関連ルートとして歩かれている他は、交通至難であることも手伝って、歩く人も少なく、時として観光客でごった返すこともある中辺路などと比べると、静謐な雰囲気が保たれています。
 ただ、全ルートの踏破には、1,000m級の峠を3つを越えなければならないほか、一度山道に入ると、長時間にわたって集落と行き合うことがないなどのため、本格的な登山の準備が必要となります。
 また、冬季には積雪があるため雪山向けの準備が必要となり、不用意なアプローチは危険です。 基本的に、ほとんどの部分で古来の面影がよく残されていますが、かつてはこの山域の生活道として利用されてきた道であるだけに、道路整備等によって吸収され、紀伊路や伊勢路ほどではないが古来の面影を失ってしまった部分があります。特に高野山から大股集落にいたる区間にそれが著しく、過半が自動車道路と林道になっています。
1.歴史
@前近代〜幕末
 前近代の小辺路は、もともと、この山域の住人の生活道として開かれた道があったところを、畿内近国の人々が高野山を経て熊野三山に至る道として利用し始めたことが起源です。
 皇族や貴人の参詣道として利用された中辺路や、修験道の修行場であった大峯奥駈道(おおみねおくかけみち)などと異なり、もっぱら庶民の参詣道として用いられたことから、小辺路の記録は多くはありません。
 小辺路に関する17世紀以前の記録については、史実であるとの裏づけを得ることは難しく、例えば、源氏との戦いに敗れた平維盛(これもり)が、密かに逃亡の道としたとする言い伝えがあり、それにちなむ史跡もありますが、伝承上のものとして見るべきです。元弘の乱に際して後醍醐天皇の王子護良親王(もりながしんのう)が、鎌倉幕府の追討を逃れて落ちのびた際に、この道を利用したとも伝えられています。
 また16世紀には、伊予国の武将・土居清良(せうりょう)が戦死した父の菩提を弔うために高野山を経て、熊野三山に参詣したと伝えられていますが、『清良記』は延宝年間に改編された「軍記物」であり、信頼性に疑問があります。
 小辺路の名を確認できる最古の史料は、寛永5年(1628年)の笑話集『醒睡笑』((せいすいしょう)は庶民の間に広く流行した話を集めた笑話集)です。『醒睡笑』の成立年代を考えた場合、この名は早ければ戦国時代末期には知られていたことが推測出来ます。
 なお、小辺路の読み方「こへち」は、この『醒睡笑』が典拠であり、「こへぢ」と濁音にするのは誤りです。
 参詣道としての利用が文書上で確認できるのは、近世(特に18世紀)以降となります。畿内近国からの、また、「かんとうべぇ」「おうしゅうべぇ」などと呼ばれた関東・東北からの参詣者による利用が確かめられています。後者は、伊勢神宮参詣の後、熊野三山を経て高野山に向かうために小辺路を用いました。また、前者については、現在知られている近世の小辺路参詣記のほぼ全てが大阪の町人によるものであるという点で特に注目に値します。
 幕末から近代にかけては、幕末期の動乱の中、尊王攘夷派の一党、天誅組が決起(1868年)し、宮廷と関係の深い十津川の郷士らも呼応して京都に向かいますが情勢の急変により帰村、天誅組も東吉野村で壊滅します。その後、若干の分派が、十津川村をたよって小辺路を敗走することとなります。
 明治22年(1889年)には大水害により壊滅的な打撃を受けた十津川村の住人の一部が、再建を断念して北海道に入植(現在の新十津川町)の際、小辺路、高野街道を経て神戸より海路を北海道へと向かいました。
 明治維新以降の近代に入ってからは、熊野詣の風習も殆どなくなってしまったことから、参詣道としての利用はほとんど絶えたものの、周囲の住人が交易・物資移送を行う生活道路として、昭和初期まで使用され続けられました。
A現代〜世界遺産登録
 前述のように、生活道路としての性格を持っていた道のため、小辺路の周辺での道路整備が大正から昭和にかけて進められると、いくつかの区間は国道や林道に吸収されてしまいました。以下はその中でも顕著な部分です。
 大滝集落(高野町)〜水ヶ峰(野迫川村):高野龍神スカイライン(国道371号)。水ヶ峰〜大股集落(野迫川村):林道タイノ原線(1999年開通)。西中大谷〜十津川温泉(十津川村):国道425号。八木尾〜三軒茶屋(田辺市本宮町):国道168号の4ヶ所です。
 昭和11年(1936年)には十津川村川津集落まで道路が開通(国道168号)し、前後して野迫川村にも道路が開通したことにより、生活道路としての小辺路は役割を終えました。
 こうした道路整備につれて歩かれなくなった古道は、半ば忘却されていきました。しかし、玉置善春氏の先駆的な業績における小辺路の重要性の指摘をさきがけとし、1980年代以降、関心を集めるようになり、熊野記念館(新宮市)の調査報告(1987年)、宇江敏勝氏らによる踏査(1982年、2003年)および報告などが相次ぎました。
 その後熊野古道の世界遺産登録の動きが活発になり、1999年に南紀熊野体験博が開催されると、それと呼応して再調査と整備が行われ、2004年7月に、世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として登録されました。
B小辺路の峠
 小辺路の主要な3つの峠とその周囲の名所・古蹟について紹介します。
T.伯母子峠
 小辺路の最高地点(標高1,220m)となるのがこの峠です。伯母子岳(1,344m)の東側を巻いて、大股と三浦口をつないでいます。ここには、明治頃まで街道宿を営んでいた上西家の遺構があり、石垣が残り、眺望が開けています。
U.三浦峠
 標高1,070m。茶屋跡が残っています。林道に横断されており、眺望は開けていません。
V.果無峠
 標高1,070m。小辺路の峠のなかでもおそらく最も著名なのがこの峠でしょう。果無峠は、厳密には奈良県と和歌山県の西南部県境にそびえる果無山脈の稜線東端にある峠を指しますが、熊野古道の一部として言う場合には、果無峠を越えて十津川と本宮町八木尾をつなぐ参詣道の山上部全体を指します。果無越えとも呼ばれています。
W.三十三観音像
 本宮町八木尾を起点(第1番)とし、果無峠(第17番)、果無集落(第30番)を経て櫟左古(いちざこ)の第33番まで、山道沿いに配されている観音像群があります。西国33ヶ所の観音の像を、十津川・本宮の信者たちが大正末期に寄進・造立したものです。
小辺路のコース紹介
1.小辺路コースの概要
 小辺路は大辺路、中辺路とともに「紀伊路」と呼ばれ、険しい峰や峠を越えるため、三つの紀伊路の中で一番厳しい道とされています。高野山と熊野の二つの霊場を結ぶ最短の道ですが、その全長は約72kmに及びます。

 南海高野山駅(ケーブルカー)から南海りんかんバスで約15分の千手院橋で下車して、金剛三昧院の入口横から熊野参詣道小辺路が始まります。林道をろくろ峠まで登り、比較的平坦な道を薄(すすき)峠に向かいます。そこから古道を大滝へと下って行くと、集落を見下ろす坂の途中にひっそりと道標が立っています
ろくろ峠にある案内板。昔は女人堂がありました ススキ峠の案内板
 御殿川に架かる橋を渡って大滝集落を通過し、高野龍神スカイラインを龍神方面にしばらく歩くと、奈良県と和歌山県の県境に位置する水ヶ峰の分岐点です。このあたりまでは、和歌山県の高野町で、ここから先は奈良県野迫川村に入ります。
高野龍神スカイラインへの登り口
高野龍神スカイラインから再び古道へと行く分岐点 分岐点に建つ小辺路案内板
 「熊野参詣道小辺路街道」の案内板に従って古道に入り、林道タイノ原線を進みます。地蔵を祀る平辻を過ぎ、植林の中を何度か古道と林道を繰り返して下ると、川原桶川に架かる大股橋の前に出てきます。
 橋の対岸が大股集落です。集落を通過して、植林の中を通る傾斜のきついつづら折りの道を約1時間
ゆっくり登ると萱(かや)小屋跡で、さらに約50分登ると桧峠です。
老杉の立ち並ぶ古道 要所要所に標識があります
 夏虫山(1,349m)を右手に見ながら緩やかな道を進んでいくと、木立の間に伯母子岳が姿を現して
きます。やがて護摩壇山、伯母子岳、伯母子峠に分かれる十字路にさしかかりますが、小辺路は伯母子岳へ行かず、左の道を伯母子峠まで進みます。伯母子峠からは奈良県十津川村に入ります。
伯母子峠の山小屋 三田谷橋より神納川
 伯母子峠から南へ下ると、やがて道の右手に旅籠跡の石垣が残る上西家跡があり、さらに緩やかな
下り道を県道川津高野線と合流するまで進み、三田谷(みただに)橋を渡って三浦口に向かいます。
神納川に架かる吊り橋(渡船橋)を渡ると、標高差700mの三浦峠へ長い登り道の始まりです。
 杉の中の坂道を登ると三浦集落があり、しばらく急坂を登ると町石「二十五丁」があり、さらに登ると町石「三十丁」と道標を兼ねた石地蔵が並んでいます。緩やかな坂を登るとようやく三浦峠に到着です。
 三浦峠を南に下って、さらに尾根にそって下り、矢倉集落を過ぎると、西中大谷橋バス停に着きます。
ここから昴の郷までは国道425号線を歩きます。昴の郷から果無(はてなし)峠登山口までは、柳本橋を行くルートと、吊り橋を渡るルートの2ルートがあります。特に柳本橋ルートは、スタートから1,468m地点までの登り道はきついものの、苔むした石段が続き熊野参詣道の風情が漂います。そこから観音堂を経て果無峠まで登りますが、木の階段もあり整備されています。
←古道の雰囲気を残す石畳の景色        



八木尾の集落
 あとは、本宮町や熊野川を眺めながら本宮町八木尾まで下ります。八木尾へ下る途中で和歌山県
田辺市に入り、そこからは国道168号を歩くか、バスに乗れば熊野本宮大社です。
 このコースは気楽なハイキングコースではありません。健脚な人でも2泊3日のコースです。また、途中に十分な宿泊施設もありませんので、行かれる時は事前に民宿等の予約をされたほうがいいでしょう。
 小辺路を比較的簡単に体験してみたいという人には、十津川村役場や地元グループが主催する
1日コース、2泊3日の体験コースもあります。ただし、十津川村内のみのルートになります。
 詳しくは、十津川村役場・村づくり推進課(電話:0746−62−0004)または村役場ホームページで
確認して下さい。
 ホームページアドレス :コチラ 
 その他の問合せ先
  高野町役場 世界遺産情報センター
   電話番号 : 0736−56−2468
   ホームページ : コチラ 
  野迫川村役場 地域振興課
   電話番号 : 0747−37−2101
   ホームページ : コチラ 
  田辺市本宮行政局 総務課
   電話番号 : 0735−42−0070
   熊野本宮観光協会ホームページ : コチラ 
(by A.kawabata)