id:hit-and-run
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俺がなぜ「はてなダイアリー」をやめたのか。hit-and-run氏の「戦術として選択された荒らし」にうんざりしたからだ。
一番ひどかった例がこれね。で、それを受けてこれね。
6月一杯はダイアリーは開いてるから読めば分かるが、彼は自分の発言がどのように批判されようがまったく気にしていない。批判によって対象を論理的に追い詰めることを目的としているのではなく、批判にかこつけて「コメントし続ける」ことを目的としているんじゃないのか。精神的な疲弊や論理的なミスの誘発を狙ってるだけなんじゃないか。そりゃまあピンポンダッシュもある意味hit-and-runだが。
ブログ大戦略のマップ上から俺を消したいだけで、反論された内容について考える気はまったくないんじゃないのか。それはまさしく「hit-and-run」戦法で、自覚的にこんなこと仕掛けて恥じもしない奴を相手にしてられるか、と。
http://naokitakahashi1975.tripod.com/hr.html
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まー、確かに粘り強く付き合ってくれてるな、とは思い、感謝はしていた。
(http://d.hatena.ne.jp/apesnotmonkeys/20091216/p3#c1261243255)
だが、こんなに嫌われているとは。
私は高橋さんほど人気・人望がない。マイノリティであるので、弁明してもすんなり受け入れられるとは思っていないが、しかし、コメントに対して正面から応えず、曲解したり、片言隻語を取り上げて揚げ足を取ったりしていたのは高橋さんではないですか?
高橋さんは「フィクション作家は作品内容に対して何の責任も持たない」という意見を持っていました。そこで、私が「人種差別的な内容のフィクションでも作者になんら責任はないと考えるのでしょうか」と質問したところ、高橋さんは「その責任というのが、例えば黙らせるとか職を失わせるとかの社会的に追求されるような責任である場合」、「その「説明責任」が、いついかなる時どんな風に「押しかけ」られても応じなければならないと強制されるものであるのならば、そんなものはないと思いますよ」という応答がきました。
このように、私の「責任」という言葉に、あれこれの付帯条件を勝手に付け加えて、不合理な責任を負わされているかのように表現したのは高橋さんです。
また、私が法的規制ではなく、市民的自治により表現の自由と性的自由を両立させる可能性を論じたところ、「ダーティーハリーを市民の自治だと思ってしまえるセンスに脱帽です」などと勝手に曲解したのは高橋さんです。
そして、「人権侵害なら具体的な罪に問えるはずだ」という高橋さんに、「在特会が京都の朝鮮学校に押しかけた事件で、朝鮮学校側は告訴するようです。高橋さんはこの裁判の結果、原告の訴えが棄却された場合、人権侵害はなかったと考えるのでしょうか」と質問したところ、正面からは答えてくれなかった。
この質問は「法的には十分に救済されない人権侵害もあるのではないか?」、「在特会のような連中なら冤罪を畏れずどんどん取り締まっていいのか?」という自由と人権に関する質問を含むのですが。
そして、高橋さんの「思想の自由市場」観こそ、かなり珍妙です。自由市場であればこそ、競争に耐え切れず市場から退出するアクターもいるはず。論戦で破れ、批判に屈して思想家・表現者であることを断念する人もいることも簡単に想像がつく。批判のスタイルには討論や手紙による批判、デモまで、それこそ表現の自由で保障された方法が沢山ある。にも関わらず、高橋さんは作家が批判によって表現を辞めるなら、その批判は違法であるはずだ、という信念を持っている。
こうした部分を突き詰めるのは一連の議論の核心であると思ったのですが、議論を打ち切ったのも高橋さんです。
そして私としては、高橋さんが以上の議論において自分が優位に立っており、私が議論に勝てないもんで難癖をつけている、と考えていること自体が不可解です。
この点については読者の判断に任せるしかないと思うのですが、高橋さんは読者はどんなとっぴな誤読もしでかす存在だから、作者は自分の書いたものに責任を往古とはない、と考えるのでしたっけ。
あ、あれはフィクションだけにのみ適用されるルールだっけか。
俺がなぜ「はてなダイアリー」をやめたのか。hit-and-run氏の「戦術として選択された荒らし」にうんざりしたからだ。
一番ひどかった例がこれね。で、それを受けてこれね。
6月一杯はダイアリーは開いてるから読めば分かるが、彼は自分の発言がどのように批判されようがまったく気にしていない。批判によって対象を論理的に追い詰めることを目的としているのではなく、批判にかこつけて「コメントし続ける」ことを目的としているんじゃないのか。精神的な疲弊や論理的なミスの誘発を狙ってるだけなんじゃないか。そりゃまあピンポンダッシュもある意味hit-and-runだが。
ブログ大戦略のマップ上から俺を消したいだけで、反論された内容について考える気はまったくないんじゃないのか。それはまさしく「hit-and-run」戦法で、自覚的にこんなこと仕掛けて恥じもしない奴を相手にしてられるか、と。
http://naokitakahashi1975.tripod.com/hr.html
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まー、確かに粘り強く付き合ってくれてるな、とは思い、感謝はしていた。
(http://d.hatena.ne.jp/apesnotmonkeys/20091216/p3#c1261243255)
だが、こんなに嫌われているとは。
私は高橋さんほど人気・人望がない。マイノリティであるので、弁明してもすんなり受け入れられるとは思っていないが、しかし、コメントに対して正面から応えず、曲解したり、片言隻語を取り上げて揚げ足を取ったりしていたのは高橋さんではないですか?
高橋さんは「フィクション作家は作品内容に対して何の責任も持たない」という意見を持っていました。そこで、私が「人種差別的な内容のフィクションでも作者になんら責任はないと考えるのでしょうか」と質問したところ、高橋さんは「その責任というのが、例えば黙らせるとか職を失わせるとかの社会的に追求されるような責任である場合」、「その「説明責任」が、いついかなる時どんな風に「押しかけ」られても応じなければならないと強制されるものであるのならば、そんなものはないと思いますよ」という応答がきました。
このように、私の「責任」という言葉に、あれこれの付帯条件を勝手に付け加えて、不合理な責任を負わされているかのように表現したのは高橋さんです。
また、私が法的規制ではなく、市民的自治により表現の自由と性的自由を両立させる可能性を論じたところ、「ダーティーハリーを市民の自治だと思ってしまえるセンスに脱帽です」などと勝手に曲解したのは高橋さんです。
そして、「人権侵害なら具体的な罪に問えるはずだ」という高橋さんに、「在特会が京都の朝鮮学校に押しかけた事件で、朝鮮学校側は告訴するようです。高橋さんはこの裁判の結果、原告の訴えが棄却された場合、人権侵害はなかったと考えるのでしょうか」と質問したところ、正面からは答えてくれなかった。
この質問は「法的には十分に救済されない人権侵害もあるのではないか?」、「在特会のような連中なら冤罪を畏れずどんどん取り締まっていいのか?」という自由と人権に関する質問を含むのですが。
そして、高橋さんの「思想の自由市場」観こそ、かなり珍妙です。自由市場であればこそ、競争に耐え切れず市場から退出するアクターもいるはず。論戦で破れ、批判に屈して思想家・表現者であることを断念する人もいることも簡単に想像がつく。批判のスタイルには討論や手紙による批判、デモまで、それこそ表現の自由で保障された方法が沢山ある。にも関わらず、高橋さんは作家が批判によって表現を辞めるなら、その批判は違法であるはずだ、という信念を持っている。
こうした部分を突き詰めるのは一連の議論の核心であると思ったのですが、議論を打ち切ったのも高橋さんです。
そして私としては、高橋さんが以上の議論において自分が優位に立っており、私が議論に勝てないもんで難癖をつけている、と考えていること自体が不可解です。
この点については読者の判断に任せるしかないと思うのですが、高橋さんは読者はどんなとっぴな誤読もしでかす存在だから、作者は自分の書いたものに責任を往古とはない、と考えるのでしたっけ。
あ、あれはフィクションだけにのみ適用されるルールだっけか。