間瀬秀一(36)は03年から3年半、ジェフ市原(現ジェフ千葉)でイビチャ・オシム監督の通訳を務め、弱小チームが躍進する姿を目の当たりにした。オシムの言葉を伝えればチームは強くなる。間瀬は「オシムさんが言いたいこと、監督として伝えたい戦術。すべてを伝える」と思った。
間瀬に要求されたレベルは通訳の枠をはるかに越えた。練習中、オシムの狙い通りに選手が動かない。叱責はまず間瀬に飛んだ。言葉は正確に訳しているにもかかわらず、だ。間瀬は考えた。日本語にするだけではだめで、オシムの意図が伝わり選手が動くまで自分の仕事だ、と。
ジェフの選手は潜在能力を開花させ、豊富な運動量でピッチを躍動する魅力的なサッカーにサポーターは歓喜した。それまで通訳を終えたら語学力を生かしてビジネスの世界に飛び込もうと考えていた間瀬は通訳1年目を終えるころ、将来の目標を変えた。「みんなをこれだけ喜ばせることができる。監督はすごい職業だ。自分もこの道を歩もう」。オシムの目線から学び、通訳は肩書、自分もまた指導者の1人としてピッチの内外に立とうと考えるようになった。
間瀬がオシムから学んだのは「最後の判断はピッチにいる選手がする」という考えだ。
オシムは試合が始まれば、予測不能なことが起きると考えていた。相手が選手や布陣を変える、向かい風が吹く。予測と違う事態に直面した時、選手がベンチの指示を待っていては後手後手に回る。ピッチに頭脳がないと勝つことはできない。相手に合わせつつ、自分たちで判断してリスクを冒し攻撃を繰り出す。オシムは何が起きても対応できる練習を心がけた。
例えば、攻撃6人が守備5人を崩してゴールを狙う練習。この場合、基本はピッチ中央のオシムがボールを出す。加えて両サイドに1人ずつコーチが控え、そこからボールが入るかも知れない。
間瀬はこの練習で、「予測できない状況に対応できるかだ」と判断し、勝手にボールをけった。通訳が出したパスでも選手たちは攻め始め守る。ピッチ内で選手たちが自主的に対応している。オシムは何も言わない。間瀬の判断を尊重する暗黙のOKサインだった。
恩師オシムを、間瀬は「尊敬する」自身の父の姿に重ねた。実の父子関係と同じで連絡を取り合うのは照れくさいが、どこか気持ちでつながっていると思う。ジェフ退団を決め、岡山に行くことは電話でオシムに伝えた。
後日、人づてにオシムから三つの伝言が届いた。コーチとして何をすべきか。簡潔なメッセージがオシムから贈られた。間瀬は言う。「気にかけてもらえてありがたいです。僕はこの伝言で与えられた課題を胸に日々の練習に取り組んでいます」。中身は誰にも明かしていない。明かすのは達成した時だ、と決めている。
間瀬はオシム退任後も通訳、コーチ、スカウトを務め、09年のシーズン終了後ジェフを退団した。今年も、スカウトとしてチームに残る選択はあった。
しかし指導者としてキャリアを積みたいという気持ちが勝った。オファーが届いたのはファジアーノ岡山。縁もゆかりもないチームだが喜んで行こうと決めた。「最下位からの挑戦」に魅力を感じたからだ。ジェフを出るとき、あいさつした。「岡山に比べたらジェフはビッグクラブだ。今からどう立ち向かうかを考えている」
4月18日、古巣ジェフ千葉との一戦。質、技術で圧倒するジェフに選手は一丸となって立ち向かう。間瀬はこう思った。「同じ人間同士の戦い、勝つ確率はある」。最後は「リスクを冒した」ドリブル突破からミドルシュートが決まり、2-1で試合終了のホイッスルが鳴った。大番狂わせの勝利。指導者を目指そうと考えた基礎はジェフ時代にある。そこを飛び出し一から始めて勝った。間瀬はベンチで泣いた。
試合後、涙したのは間瀬のサッカー人生で初めてのことだった。
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その後、ファジアーノは波に乗れない。間瀬は言う。「自分たちはもっとできる。だからこそ自分にとってサッカーとは何かを考えてほしい」。これからファジアーノがどんなサッカーをするか、間瀬の挑戦は実るのか。サッカーは面白い。そんな瞬間をもっと多く見たい。【石戸諭】
毎日新聞 2010年6月19日 地方版