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世界を越えてゆけ:サッカー ファジアーノ 間瀬秀一/上 /岡山

 ◇リスクを冒せ

 J2ファジアーノ岡山のコーチ、間瀬秀一(ませしゅういち)(36)は日本代表のイビチャ・オシム前監督が来日して初めて指揮を執った時の通訳だ。オシムが繰り出す知性あふれる言葉を間髪入れずに訳し続け信頼を勝ち得た。間瀬がなぜオシムに信頼されたのか、そしてなぜ挑戦をファジアーノ岡山に求めたのか。キーワードは「リスクを冒せ」。【石戸諭】

 ◇96年、卒業と同時に米国へ

 間瀬は現役時代のすべての期間、米国やクロアチアなど海外5カ国でプレーした希有な経験の持ち主だ。言葉もわからず、つてもない。そんな状態からプレーできるクラブを見つけ、適応し渡り歩いた。オシムの根底に流れている「リスクを冒す、攻める哲学」。間瀬もリスクに挑むことで自身のサッカー人生を切り開いたのだ。

 最初の挑戦は、三重県の進学校から日本体育大への進学だった。サッカー部員320人、1軍~5軍まである。この現実に打ちのめされた。無名のFW、間瀬は5軍からのスタートになる。髪を金髪に染めて目立つ、全体練習が始まる3時間前からシュート練習をする。1軍にあがった。しかし、それでも公式戦出場はない「20番目くらいの選手」に過ぎなかった。

 そんな間瀬がなぜプロを目指したのか。一つの転機は日体大の欧州遠征だった。間瀬の積極的な姿勢を見たヘンク・テン・カーテ(バルセロナなどでコーチ、監督を務めたオランダ人指導者)から「おまえがこのチームのエースだな」と声をかけられた。現代サッカー界屈指の戦術家の言葉は胸に響いた。「指導者が変われば『良い選手』も変わる。日本でだめでも外に出たら通用するかもしれない」。挑戦に選んだのは米国。英語の勉強と日本人第1号のプレーヤーになれる。これが魅力的だった。96年、卒業と同時に米国に渡った。

 ◇どこでもサッカーはできる

 米国では、自身で売り込みをかけて97年、2部リーグのチームに入団。エースナンバー「10」をつけて活躍したが起用法に納得がいかず半年で退団した。以降、メキシコなど中米でプロの道を模索する。

 メキシコではボールを使った大道芸で1週間分の食費を稼いだ。サッカーがうまいだけではだめで、コミュニケーションが勝負を決めることも知った。例えば入団テスト。一緒に受けるメキシコ人から「日本人は踊れないだろ」と声をかけられた。間瀬は「何言ってるんだ。踊れるよ」と言いステップを踏み始める。ここで無視をすると紅白戦ではまずボールが回ってこない。積極的に関係を築くこと。タフな経験を積むたびにどこでもサッカーができる、と感じるようになった。

 00年、より戦術的に洗練された欧州でプレーしようと知人を通じて紹介されたクロアチアに渡る。まったくの偶然だった。3部リーグ、2部リーグのクラブを転々としながら、間瀬は自身のキャリアの中で最良の時期を過ごす。テクニック、戦術に優れたリーグを舞台に得点を重ね続けた。左サイドでプレーを命じられても、リスクを冒して持ち場を離れ、右サイドに走り込みゴールを狙う。スピードと得点感覚、意外性を生かした間瀬のプレースタイルは生きた。外国人ながらキャプテンマークを付けて試合に臨んだこともある。ただ給与は低く、サッカーで食べていくには限界があった。

 2年間のクロアチア生活を経て02年に引退を決意する。「初めが下手だったので引退するまでうまくなり続けた。サッカーで大金を稼げたわけではないけど、人間として磨かれた」。セカンドキャリアに選んだのは「サッカーも言葉もわかるから通訳」、それも不足している旧ユーゴスラビア圏選手の通訳を目指した。

 ◇名将と運命的な出会い

 三重県のスーパーでアルバイトをしながらお金をため再びクロアチアに渡ったのは02年9月のことだ。ザグレブ大学の語学コースに入学した。日常会話は大丈夫、語学力を上げるために必要なのは文法、と間瀬は考えていた。ところが「話せるやつ」と思われ、最上位クラスに振り分けられた。そこでの主眼は「クロアチア語の歴史」を学ぶこと。まったく理解できない授業を受けつつ、間瀬は大学図書館で一人、コツコツと文法を学んだ。

 同時並行で「就職活動」も始めた。クロアチア語通訳が必要そうなJリーグチームに履歴書を送る。連絡があったのはジェフ市原(現ジェフ千葉)。「オシム監督と契約をする。グラーツ(オーストリア)のレストランに来てほしい」とあった。オシム、オシムの次男セリミールらがいた。特に何を聞かれるわけでもない。間瀬がセリミールと他愛もない話をしながら会食は進んだ。途中、間瀬が席を立ったとき、オシムはセリミールに聞いた。「あの男はどうだ」。「言葉はうまくないが、人を欺くようなやつではない。通訳は彼でいいよ」。採用が決まった。03年1月、帰国。偶然、クロアチアでサッカーを始め、幸運なタイミングで名将と出会う。これが間瀬のサッカー人生、最大の転機だった。

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 ■人物略歴

 ◇間瀬秀一(ませ・しゅういち)

 73年、三重県生まれ。日本体育大を卒業後、米国を皮切りに中米、クロアチア計5カ国でプレーする。02年に引退後、通訳を目指しクロアチアに語学留学。03年からジェフ千葉にオシム監督の通訳として入団。コーチ、スカウトを務める。10年からファジアーノ岡山でコーチ。

毎日新聞 2010年6月17日 地方版

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