内閣総理大臣夫人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
BIGLOBE百科事典に関するご利用上の注意

内閣総理大臣夫人(ないかくそうりだいじんふじん)は、内閣総理大臣の妻のこと。ただし正式な名称ではない。今日では一般に「総理夫人」「首相夫人」または「ファーストレディー」などと呼ばれることが多い。そもそも内閣総理大臣が男性である場合を想定した呼び方であり、以降はこれを前提として記述する。なお、2010年現在、日本の歴代内閣総理大臣は全て男性である。

目次

概説

内閣総理大臣夫人は、私的には夫である内閣総理大臣の日常の暮らしを支えるかたわら、公的には総理の非政治的行事(文化事業の視察、運動競技の参観、来賓の歓迎行事や晩餐会など)に参加したり、総理の外国訪問に同伴したりする。ただし、外国には首脳の代理として災害被災地を慰問したり、外国の首脳や元首脳の葬儀などに参列したりする首脳夫人も少なくない中、日本の総理夫人にまだそうした例はなく、どちらかといえば「日陰の存在」を貫いているのが現状である。しかしながら、総理夫人は選挙で選ばれたわけでもないため、非政治的であろうと日本を代表して公的行事に参加することに対する疑問も生じている。外国でも同様に、首脳夫人の公的な行事参加に対する反対意見がある。

平成以降、総理の公邸住まいが定着すると、自然と総理夫人の非政治的行事への参加も多くなった。このため、現在では公邸に常駐し、総理と総理夫人との連絡調整を主な任務とする「公邸連絡調整官」が設けられており、総理夫人をサポートする体制が整っている。

日本では、内助をよくする良妻賢母型の総理夫人が多数を占めるが、社交的なファーストレディーとしては、伊藤梅子、東條かつ子、鳩山薫、佐藤寛子三木睦子、海部幸世、細川佳代子、橋本久美子、安倍昭恵福田貴代子鳩山幸らが挙げられる。

内閣総理大臣夫人の一覧

この節は執筆の途中です この節は執筆中です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています

 

総理夫人 父/実家 夫(総理) 備考・逸話
1 伊藤梅子  山口県赤間関城ノ腰  
木田久兵衞の長女
伊藤博文  本名お梅。梅子は下関稲荷の置屋「ゐろは」の養女で、源氏名「小梅」で座敷に出ていた芸妓。伊藤は梅子と出会ったころ、萩に妻(松下村塾同門・入江九一の妹)すみがいたが、お梅に惚れこんだ伊藤は妻に三行り半を突きつけて離縁、お梅を身請けして祝言を挙げた。当時、梅子はすでに身籠っていたという。維新後は下田歌子に和歌を、津田梅子に英語を習い、ダンスを身につけて鹿鳴館夜会のホステスをつとめるなど伊藤の政治活動を支え、また漁色家だった伊藤の女性関係には口を挟まず、「当代随一の賢夫人」と謳われた。1884年、宮中の制服改正で調度の命を受け、皇后以下洋装を第一礼装とする改革を主導。翌1885年内閣制度が成立し、梅子は37歳で日本初のファーストレディーとなった。
2 黑田瀧 材木商信濃屋
丸山傅右衞門の娘
黑田清隆 最初の妻・清(せい)は1878年に世を去っているので、黑田が総理大臣職にあったときに妻の座にいたのは後妻の瀧である。清の死に関しては、当時世間では夫の黑田が酔った勢いで惨殺したといった「妻殺し」の噂があったが、大警視川路利良が調査のうえこれを否認している。清隆の死後、瀧は黒田の養女・百子(ヒヤク。陸軍大将伯爵黑木為楨夫人。黑木夫妻三男はのちに黑田伯爵家を継承)によって離縁され、孤独な後半生を送った。
3 山縣友子 山口県赤間関の大庄屋
石川良平の長女
山縣有朋 1867年、山縣30歳、友子14歳で結婚。友子は内助をよくし、6人の子を失ったあとも夫を支え続けたが、肺病のため42歳で死去。山縣は友子の晩年、日本橋中橋の唐物商・吉田屋安兵衛次女で、芸妓の貞子(源氏名:老松、やまと)を落籍、友子の死後に事実上の妻とした。貞子は先妻友子を立て、自らが「奥様」と呼ばれるのを潔しとせず、入籍も拒み続け、生涯、公の場に出る事はなかった。1922年、臨終の際に貞子へ「いろいろお世話になりました」と言ったのが山縣最後の言葉として伝わる。
4 松方滿佐子 旧薩摩藩士
川上助八郎の長女
松方正義 滿佐子は松方との間に9男5女を儲け、子福者として知られた。艶福家だった松方の庶子を引き取って育てるなど度量も広く、1920年、那須野別邸萬歳閣にて76歳で死去。
5 大隈綾子 旧直参旗本
三枝頼永の二女
大隈重信 大隈夫妻は1868年に結婚(綾子19歳。大隈は31歳で再婚)。直参旗本の令嬢として品よく御殿風に育てられた綾子だが、一面で気性激しく、また勝れた気性や決断力で半世紀余り大隈を支え続けた。鹿鳴館時代の貴婦人として社交にも応じる。1889年外務大臣在任中の大隈が玄洋社社員・来島恒喜による爆弾襲撃事件で負傷した際、大隈の右脚切断を決断。事件直後に自殺した来島の遺族には見舞金を贈り、毎年、夫妻で来島の墓参をした。
6 桂可那子 東京市
村上濱次郎の長女
桂太郎 桂の最初の妻・歌子は産後の肥立ちが悪く早世する。そこで桂は、歌子に代わり子供たちの世話をしていた歌子の兄嫁で、未亡人となっていた貞子を2番目の妻に迎えた。だが歌子は生前「貞子だけは後妻にしないでほしい」と桂に懇願していたという。4年後、その貞子も妹同様、産後に死去。3番目の妻は、桂とは親子ほどの年の差がある可那子で、彼女は総理大臣夫人となるが、その可那子も結婚後は病気がちとなる。晩年桂は妾の照(てる)に「歌子の願いを聞かずに貞子と結婚したバチが当たった。皆、自分のせいだ」と後悔することしきりだったという。
7 (不在) 西園寺公望 公家の名門西園寺家は古来、琵琶を家業とし、琵琶の守り神である弁財天が嫉妬深い女神であることから、当主は代々、正妻を持たない慣わしがあった。公望もその例に漏れず、新橋の芸妓・玉八(本名:小林菊子)との間に娘・新を儲ける。新は公爵毛利元徳の八男・八郎に嫁ぎ、公望はこの八郎を養子にとって西園寺家を継がせている。なお、のちに公望は上述の弁財天伝説について、「あれは、当主たちが堂々女色に耽るための言い訳にすぎない」と述懐している。
8 山本登喜子 新潟県蒲原郡出身 山本權兵衛 山本と 1877年に晴れて結婚した。その際、「一夫一婦は国法の定むる処なれば誓ってこれに背かざること」、「一家に属することはすべて妻の責任に任す」など7ヵ条の誓約書を書いて、この後も終生変わることのなかった彼女への愛情を示している。登紀子は結婚後6人の子供を授かった。
9 寺内正毅
10 原淺 岩手県江刺郡岩谷堂
管野彌太郎長女
原敬 原は1883年、薩摩藩士中井弘(弘道。のち貴族院議員、京都府知事)長女・貞子14歳と結婚するが、病弱な貞子は結婚翌年から床に臥せる闘病生活に入り、貞子の意向もあって1898年に協議離婚。離婚後も貞子の治療費と生活費は原が工面し続けた。翌1899年、原は新橋の芸妓だった同郷の菅野淺と再婚、このとき原43歳、淺28歳。淺も虚弱で実子はなく、原の甥・貢を養子に迎えた。原は1922年11月4日東京駅で暗殺され、駆け付けた淺は、遺体を首相官邸へ搬送しようとする側近たちを静かに制し、「生きていればこその内閣総理大臣。亡くなればもはや官邸にはご用が無い人ゆえ、宅へ送り届けたいと存じます」と語って、涙一つ見せず気丈に原の乱れた着衣を整えたという。
11 高橋志な
(品)
海軍技官
原田金左衞門の娘
高橋是清 1876年、22歳の高橋は東京英語学校教師となり、祖母の勧めで西郷利右衞門の娘・里ゆう(りゅう)と結婚、同年、長男・清賢を儲けるが、ほどなく里ゆうに先立たれる。しばらく芸妓・枡吉の許でヒモ生活を送るなどし、1887年、原田志な(しな)と再婚した。二・二六事件当日は、江戸東京たてもの園に移築されている和館に高橋が、別棟の洋館(現存せず)に志なが寝ており、志なが惨殺現場に立ち会うことはなかった。
12 加藤キヨ子 加藤友三郎
13 清浦錬子 旧和歌山藩士
子見秀次郎の長女
清浦奎吾 錬子(とうこ)は1873年、埼玉県出仕の官吏だった清浦と結婚。のちに荏原女学校の初代校長、品川高等女学校の初代校長、大日本婦人共愛会会長、本願寺令嬢会幹事などを務めたが、万事が「よきに計らえ」式で自ら意見を述べることはなく、「物言わぬ校長」ともいわれた。
14 加藤春路 三菱財閥創業者・
岩崎彌太郎の長女
加藤高明 加藤は三菱きってのエリートで、イギリスから帰朝後に三菱本社副支配人となり、その縁で春路と結婚する。のちに財界から官界へ転じるが、政敵からは「三菱の大番頭」と揶揄され続けた。
15 若槻德子 島根県能義郡
若槻敬の長女
若槻禮次郎 禮次郎は20歳のとき母方の叔父である若槻敬の養子になっているが、その敬の長女が德子で、5年後に結婚している。つまり徳子と禮次郎はいとこ同士だったが、体裁上は禮次郎が婿養子になった形となっている。
16 田中壽天 洋学者・陸軍中将
大築尚志の娘
田中義一
17 濱口夏 高知県安芸郡田野町
濱口義立の長女
濱口雄幸 濱口家は18代続く郷士で、夏は1889年、16歳のときに婿養子となった水口雄幸(当時、旧制高知中学在学中)を夫として迎える。夏の叔母は、幕末の志士・清岡道之助夫人静。
18 犬養千代子 犬養毅
19 齋藤春子 海軍中将子爵
仁禮景範の長女
齋藤實 齋藤は駐米日本大使館付武官時代、アナポリスに留学していた仁禮の長男の世話をみたことがきっかけで仁禮家に出入りするようになり、春子とは相思相愛の末に結ばれた。齋藤が朝鮮総督として京城に着任した時には南大門駅で抗日独立運動家に爆弾を投げつけられ、危うく難を逃れている。二・二六事件では気丈にも齋藤の前に立ちはだかり「撃つのならこの私を撃ちなさい!」と反乱兵を睨みつけたが、自身も銃弾数発を被弾して重傷を負っている。
20 (不在) 岡田啓介 岡田は生涯2度結婚しているが、2度とも妻に先立たれ、総理大臣になった頃は男やもめだった。女房代わりとして公邸で炊事などの世話を見たのは、義弟で総理秘書官兼身辺警護役の松尾伝蔵大佐だった。松尾は二・二六事件の際、岡田の身代わりとなって殺害された。
21 廣田静子 旧福岡藩士・玄洋社社員
月成功太郎の娘
廣田弘毅 静子は1946年、廣田が戦犯容疑で起訴され巣鴨プリズンに収監されると、東京裁判の開廷前に服毒自殺した。享年62。自殺理由については、国粋主義団体幹部の娘である自分の存在が、廣田の裁判に不利な影響を及ぼすことを避けるため、とされている。
22 林初治  林銑十郎
23 近衞千代子 旧豊後佐伯藩藩主・子爵
毛利高範の長女
近衞文麿 近衞は公爵という身分には珍しく、千代子と恋愛結婚で結ばれている。当時、学習院女学部一番の美女だったという千代子に、一高の学生だった近衞が一目惚れした。近衞は結婚当時、京都帝大在学中だったが、その挙式は学生結婚という言葉にはそぐわないほど豪勢なものだったという。近衞は当時の顕官の例に漏れず数人の愛妾を囲い、隠し子もいたが、千代子との仲は終生円満だった。晩年に起居した神奈川県湯河原町の別邸は、のちに孫の細川護煕へ譲られ、現在、細川夫妻自邸「不東庵」として現存。
24 (不在) 平沼騏一郎 平沼騏一郎は終生独身だった。在任中は騏一郎の兄・淑郎の孫娘にあたる節子がファーストレディーの代役を務めた。節子は夫・恭四郎との間に1男1女をもうけたが、騏一郎は節子の家族を一家ごと養子とした。政治家の平沼赳夫は恭四郎・節子夫妻の長男で、赳夫夫人眞佐子は公爵徳川慶光次女。
25 阿部みつ子 阿部信行
26 米内こま 大隈宗珉の娘 米内光政 こまは1906年、当時海軍中尉だった米内と結婚し、1940年1~7月の米内内閣時代を見届けたあと、同年死去した。内閣総辞職後の米内はたびたび市電に乗って入院中のこまを見舞い、前首相らしからぬ気さくさに、居合わせた市民を驚かせた。
27 東條かつ子 新潟県
伊藤萬太郎の長女
東條英機 かつ子は東條の母・千歳の縁戚で、1909年日本女子大学国文科在学中に結婚(大学で学んだ初のファーストレディー)。実家はかつ子の卒業と教師の資格取得を望んだが、家事に追われ大学は中退した。東條の首相就任後は積極的にメディアへ登場、田中隆吉をして「時と人事までに嘴をいれる、稀に見る出しゃ張りの女」と酷評されたほか、「東條の感情人事」には畑俊六阿南惟幾も不快感を示し、世間では「要職に就かんとすれば勝子夫人に取り入れ」「東美齢(蒋介石夫人宋美齢のもじり)などと揶揄された。大日本国防婦人会幹事を務め、「欲しがりません、勝つまでは」「贅沢は敵だ」などの戦意高揚スローガンを提唱したとされる。
28 小磯馨子 新潟県柏崎の士族
牧口義方の五女
小磯國昭
29 鈴木たか 足立元太郎
の長女
鈴木貫太郎 たかは東京女子師範学校附属幼稚園の元教諭で、1905年から1915年まで、皇孫御用掛として大正天皇の3皇子、迪宮淳宮光宮の養育に当たった。また二・二六事件の際には、鈴木にとどめを差そうとする青年将校に向かって「必要とあらば妻のわたくしが致しましょう!」と言い放ち、この機転で鈴木は一命を取り留めている。
30 聰子内親王 明治天皇の第九皇女 東久邇宮稔彦王 聰子内親王は昭和天皇香淳皇后それぞれの父方の叔母にあたり、初の皇族ファーストレディー。生母は小菊典侍(こぎくのすけ)・園祥子で、泰宮(やすのみや)と称した。1915年に降嫁し、盛厚王師正王彰常王俊彦王の4王子を儲ける。盛厚王は昭和天皇第一皇女・照宮成子内親王と結婚。1947年GHQ指令で皇籍離脱した後は、「東久邇聰子」を名乗った。
31 幣原雅子 三菱財閥創業者・
岩崎彌太郎の四女
幣原喜重郎 雅子の父・岩崎彌太郎は三菱財閥の創業者だが、妾腹の娘だったため、雅子は加藤高明の妻・春路の異母妹にあたる。ちなみに加藤春路の母は岩崎彌太郎の正妻・喜勢
32 吉田喜代子 旧姓:坂本 吉田茂 吉田は伯爵牧野伸顕の長女・雪子を妻として2男3女を儲けたが、雪子は1941年に死去した。間もなく、それまで愛人だった芸者の小りん(本名:坂本喜代子)を大磯の自邸に招き入れて同居生活を始め、1944年に再婚。戦後、総理大臣としての外遊など外交舞台では、3女の麻生和子がファーストレディー役を務めた。和子の長男・麻生太郎ものちの首相。
33 片山菊江 片山哲
34 芦田壽美 旧姓:長谷 芦田均 壽美はその美貌で名高く、駐仏日本大使館付の芦田とともに1919年パリ講和会議へ出席した際、会議を主宰したフランス首相クレマンソーをして「余は未だかつてかかる美人に会いたる例し無し」と感嘆された。また、1930年1932年芦田が駐ベルギー日本大使館に赴任時、壽美の和服姿は皇太后エリザベートやイアンス外相らから絶賛され、日本婦人の鑑として国際的な評価を高めた。芦田の父・鹿之助の後妻(均にとって継母にあたる)も壽美というが、同姓同名の別人。
35 鳩山薫
(薫子)
衆議院議員秘書課課長
寺田榮の長女
鳩山一郎 薫は13歳で母を亡くし、祖母や弟妹の面倒を見ながら女子学院英語科に通う。18歳で鳩山春子に見込まれて養女になり、20歳で結婚。春子の後を継ぎ1938年から共立女子学園理事長・大学長を務めたほか、数多の要職を歴任、「賢夫人」の誉れ高かった。鳩山が1951年に脳梗塞で倒れたあとも不自由な夫を支え続け、1956年の鳩山首相訪ソに同行、これは初のファーストレディーの外遊となる。のち民間女性初の勲一等瑞宝章を受章し93歳の天寿を全うした。鳩山が1904年から5年間にわたって薫に書き綴った恋文は、『若き血の清く燃えて』にまとめられて刊行されている(講談社、1996年、ISBN: 4062084805)。
36 石橋うめ  福島県
岩井尊記の三女
石橋湛山 うめの実家・岩井家は代々、旧米沢藩の国家老を務めた名家。1912年、当時東洋經濟新報社『東洋持論』誌の編集者だった石橋と結婚。
37 岸良子 山口県士族
岸信政の長女
岸信介 岸家は2代にわたっての相互婿養子という複雑な家系になっている。すなわち、岸要蔵の次男・岸秀助が佐藤信彦の長女・佐藤茂世に入婿して佐藤秀助となり、その次男・佐藤信介が岸要蔵の長男・岸信政の長女・岸良子に入婿して岸信介となった。つまり良子と信介は共に父方の従兄妹同士である。
38 池田滿枝 医師
大貫四郎吉の娘
池田勇人 池田は明治の元勲・廣澤眞臣の子、廣沢金次郎伯爵の三女・直子と結婚したが、1929年に池田が落葉状天疱瘡を患うと、直子は看護疲れから狭心症を起こし急逝した。そこで池田の母・うめが池田を郷里に連れ帰り家族総出で看病をしたが、このとき駆けつけたのがうめの従妹の娘にあたる大貫滿枝だった。
39 佐藤寛子 岡山医専教授
佐藤松介の娘
佐藤榮作 寛子は青山女学院英文科を卒業後、1926年に父方の伯母の息子である分家筋の従兄・榮作を婿養子に迎え結婚。岸信介は榮作の実兄であり、兄弟でそれぞれ父方と母方の従妹と入婿の形で結婚している。また寛子の母・藤枝は松岡洋右の妹。1969年訪米時のミニスカート姿が賛否両論を呼んだが、これについては下田武三駐米大使夫人に服装を相談したところ、彼の地はミニが大流行ゆえ「下はできるだけお短く」と進言され、森英恵に頼んでヒザ上3cmのスカートを誂えたという。後年、「いい年をしてミニなんか恥ずかしいやら、おかしいやら変な気持だったが、沖縄返還に向けていくらかでもあちらの印象をよくしたいと、お国のために頑張ったつもり」と語っている(『佐藤寛子の「宰相夫人秘録」』朝日新聞社)。1987年に死去するまでたびたびメディアに登場した。
40 田中はな 坂本木平の娘 田中角榮 はなは、角榮が東京飯田橋に開いた田中建築事務所の家主の娘。出戻りで一女・静子がいた。1942年はなは31妻で、8歳年下の角榮と結婚し、長男正法(5歳で夭折)、長女眞紀子を儲ける。静子は角榮の計らいで1956年池田勇人の甥と結婚。はなは生来病弱だったため、国内の公式行事や外国訪問では眞紀子がファーストレディーの代役を務めた。1992年、日中国交正常化20周年に際し、中国政府の招待で角榮、眞紀子らと訪中している。
41 三木睦子 森矗昶の次女 三木武夫 睦子は2010年現在93歳で、存命中の元ファーストレディーとしては最高齢。東京府立第一高等女学校卒。父の森矗昶、兄の森曉、弟の森清森美秀、甥の森英介はいずれも衆議院議員という政治家一族の出身で、家格差が歴然としていた三木との縁談に睦子は二の足を踏んでいたが、仲人の結城豊太郎から「森も三木も因数分解すれば同じじゃないか、木が三つなんだから」と諭されて結婚を決意したという。三木の死後もリベラルな政治活動に積極的で、金日成と会見し、北朝鮮政府から親善勲章第一級を授与されたほか、従軍慰安婦の補償運動、護憲運動にも積極的に参画。全国発明婦人協会、アジア婦人友好会、国連婦人会各会長、中央政策研究所理事、国際教育交流協会理事長など要職を歴任している。
42 福田三枝 足尾銅山技師
新井文雄の三女
福田赳夫 福田夫妻は東京日比谷「松本楼」で結婚披露。体格のよい三枝は肝の据わった女傑として名高く、夜回りの福田番記者を相手にブランデーを手酌でグイと嗜んだほか、麻雀でも勝負強さを見せた。また、来客の手土産などをまとめておき、毎年、孤児院などの施設へ寄付する一面もあった。 
43 大平志げ子 三木證券初代社長
鈴木三樹之助の娘
大平正芳 大平夫妻は1937年東京會舘にて結婚披露。大平急逝後の1982年、世田谷区瀬田の私邸に強盗が入り、就寝中の志げ子(当時65歳)は電気コードで後ろ手に縛られたうえ口にマフラーを詰められ、登山ナイフで「金を出せ」と脅された。女中の通報で現行犯された犯人曰く、大平前首相邸とは知らずに押し入ったという。
44 鈴木さち 函館水産学校校長
荻原茂の娘
鈴木善幸 さちは「家庭寮」と呼ばれる花嫁学校出身で、外にあっては沈黙を守る古き良き良妻賢母の典型だが、「鈴木との結婚は恩師に押し付けられたもの」と自嘲気味に語るようなユーモアも持ち合わせた。大輪の白バラ「マダム・サチ」は、1982年に来日したフランス大統領ミッテランがさちへ贈ったことに由来する。三女・千賀子は麻生太郎夫人。
45 中曾根蔦子 明治大学教授・理学博士
小林儀一郎の娘
中曾根康弘 蔦子は終戦前夜の1945年2月、当時、海軍主計大尉として横須賀鎮守府付派遣勤務海軍兵備局第三課に勤務していた中曾根と結婚。
46 竹下直子 三井銀行行員
遠藤捨次郎の娘
竹下登 直子は1946年19歳の時に、竹下の後妻になった。
47 宇野千代
(※作家宇野千代とは同姓同名の別人)
裏千家十三世家元
圓能斎千宗室の姪
宇野宗佑 千代の旧姓は廣瀬。シベリア抑留されていた千代の兄の帰還を、(自身も抑留されていた)宇野が北野天満宮に祈願していた縁で知り合い、1949年に結婚。旧家の宇野家には、嫁入りした妻は旧姓とともに本名をも捨て去るしきたりがあり、千代も結婚後は「弘子」の名を与えられた。しかし1989年」に宇野が首相就任すると、「ファーストレディーが通称のままではいかにもマズい」との声が挙がり、初めて戸籍上の本名「宇野千代」を名乗る。だが千代は結婚以来40年間、「宇野弘子」で通してきたため、地元選挙区では少なからぬ混乱が生じた。
48 海部幸世 海部俊樹 幸代は岐阜県出身で、昭和生まれ初のファーストレディー(海部も昭和世代初の首相)。金城学院短期大学家政学科卒業後に結婚。1992年から2005年まで、NPO法人全国骨髄バンク推進連絡協議会会長を務めた。
49 宮澤庸子 英語学者・
早稲田大学教授

伊地知純正の娘
宮澤喜一 初の四大卒のファーストレディー。東京女子大学在学中だった庸子は1939年日米学生会議に出席のため渡米する船中で宮澤と知り合う。「…(僕は)今時の人とは違ってシャイだから、行きの船ではそれほど言葉を交わせなかった。それが帰りの船ではデッキで二人だけで語らうようになっていた。…」(宮沢喜一「私の履歴書」~『日本経済新聞2006年4月6日付)」。ふたりは1943年に結婚。宮澤の官界転進について、庸子は最後まで難色を示した。
50 細川佳代子 細川護熙 佳代子は上智大学文学部英文学科在学中に同窓の細川と知り合う。1966年に卒業後、輸出関連会社入社、ヨーロッパ駐在員として単身海外赴任。1969年に退社しイギリス語学留学。1971年参議院議員初当選直後の細川と熊本市で結婚。NPO法人スペシャルオリンピックス日本名誉会長。
51 羽田綏子 オカモト会長・相談役
カルピス取締役

津下綱平の長女
羽田孜 祖父・津下(つげ)紋太郎もカルピス会長を務めた。津下家は4代前からキリスト教を信仰し、綏子自身も敬虔なクリスチャン1999年12月30日東京都世田谷区内の路上で、バイクに乗った男に50万円相当の現金が入ったバッグを引ったくられた。
52 村山ヨシヱ 村山富市 ヨシヱは、村山が大分市議選で落選し浪人中の1953年に結婚、県の食堂で働きながら夫を支える。長年の持病(腰痛)のため、国内の公式行事や外国訪問では総理秘書官を務めていた次女・中原由利がファーストレディーの代役を務めた。1995年阪神・淡路大震災発生時は一人で大分から被災地に駆けつけ、被災者を見舞ったという(『サンデー毎日』1999年2月14日号)。
53 橋本久美子 不二音響社長
中村久次の長女
橋本龍太郎 久美子の祖父・中村貫之は龍太郎の叔母・章(あや。義母である橋本正<まさ>の実妹)と結婚。よって久美子と龍太郎は義理のハトコに当たる。聖心女子大学時代はテニス部のキャプテンとして活躍し、1966年に1年生議員の橋本と結婚。久美子がクリスチャンという縁から東京六本木のフランシスカン・チャペル・センターで挙式し、披露宴では佐藤榮作首相夫妻が媒酌人をつとめた。現在、日本ラテンアメリカ婦人協会、国際なぎなた連盟の各会長。
54 小渕千鶴子 大野製材元社長
大野太郎の娘
小渕恵三 千鶴子は小渕と同じ群馬県吾妻郡中之条町出身で、1967年、東京パレスホテルにて結婚披露。媒酌人は橋本登美三郎夫妻がつとめた。2002年関東信越国税局の税務調査で預金や株式など6千数百万円の申告漏れを指摘され、過少申告加算税を含めた約1500万円を追徴課税された。
55 森智恵子 森喜朗 智恵子は生まれも育ちも神奈川県横浜市早稲田大学教育学部在学中に、森(商学部)と知り合う。東南アジアからの留学生との交流会で、日焼けした智恵子に森が、「お国はどちらですか?」と声を掛けたのがきっかけ。1961年、早稲田大学大隈会館で挙式。1998年、代議士夫人たちが悩みを語り合える場として、自民党衆議院議員夫人らの情報交換会「LDP・ワイブス・ネットワーク」を加藤紘一夫人愛子らと設立。小渕恵三夫人千鶴子とは、公私ともに仲がいい。
56 (不在) 小泉純一郎 小泉はエスエス製薬創業者の孫娘・宮本佳代子と1978年に結婚するが、佳代子が3男を宿していたにもかかわらず、1982年に離婚。以降、独身を貫き、首相在任中もファーストレディーの代役は一切置かなかった。ただし親しい外国首脳が夫人同伴で来日した場合に限っては、内閣官房長官夫人だった福田貴代子安倍昭恵をホステス役にして、非政治的行事に同伴させた。
57 安倍昭恵 森永製菓元社長
松崎昭雄の娘
安倍晋三 昭恵は初の戦後(1962年)生まれ。戦後最年少(44歳)のファースト・レディー。聖心女子専門学校1983年に卒業し、株式会社電通入社(新聞雑誌局配属)。1987年結婚。地元・山口ではラジオのディスクジョッキーをつとめたことも。子宝に恵まれず、英BBCのインタビューで不妊治療を受けたことや、養子縁組も検討したとコメントした。官邸入りと同時に、ブログ「安倍昭恵のスマイルトーク」を開設した。
58 福田貴代子 昭和製袋工業元社長
嶺駒夫の長女
福田康夫 貴代子は慶應義塾大学文学部心理学を専攻。客室乗務員を志望し、就職の斡旋を頼もうと地元選出の福田赳夫のもとを尋ねたところ、その場で「うちに永久就職しないかね?」と長男・康夫との縁談を持ちかけられた。当時、丸善石油のサラリーマンだった康夫は、「政治家の妻には絶対にさせません」と約束して貴代子を口説き落とし、貴代子が航空会社に就職が内定した1966年に結婚。貴代子の母方の祖父は立憲民政党の重鎮で商工相や蔵相を歴任した櫻内幸雄、また叔父に外相や衆議院議長を歴任した櫻内義雄がいる。社交的で物怖じしない性格のため、現在も清和会議員夫人組合の中心として活躍。
59 麻生千賀子 元首相
鈴木善幸の三女
麻生太郎 千賀子は安倍昭恵に続く2人目の戦後(1950年)生まれのファーストレディーで、父親も夫も首相なのは千賀子が唯一の存在。本名は「千賀子」だが、好んで「ちか子」と署名する。日本女子大学卒業後、1982年の鈴木首相訪中に同行。同じころ田中六助の紹介で麻生と知り合い、33歳で結婚した。元首相令嬢・財閥当主夫人ながら気取ったところがなく、穏やかで気さくな人柄。小泉改造内閣環境大臣を務めた鈴木俊一は実弟。
60 鳩山幸 日系二世の貿易商
楠瀬幸雄の次女
鳩山由紀夫 幸は1943年中国上海で生まれ、神戸で育つ。1959年宝塚歌劇団入団、星組に配属され、「若みゆき」の芸名で娘役として舞台に立った。1967年サンフランシスコで日本料理店を営む田浦新一朗と結婚、退団し渡米。同地でスタンフォード大学留学の鳩山と知り合い、不倫関係のすえ1975年に再婚。スキャンダラスに報じられた再婚だったものの、持ち前の社交性と明るい人柄で鳩山の政治生活を支えている。韓国俳優イ・ソジン民団広報大使)の熱狂的ファンとして知られ、首相公邸や高級レストランへ頻繁にイを招いて会食。この件は2010年3月23日参議院予算委員会でも問題にされた。

ギャラリー

参考文献

  • 『閨閥 特権階級の盛衰の系譜』改訂新版(神一行 著、角川書店、2002年)
  • 『永田町おんな太閤記 総理夫人とっておきの話』(小林吉弥 著、現代書林、1983年)
  • 『昭和の宰相』全6巻(戸川猪佐武 著、講談社、1982年)

関連項目


外部リンク

ウィキメディア・コモンズ


このページの先頭へ▲
BIGLOBE つぶやき検索:twitter(ツイッター)のタイムラインを検索