本文には残酷な暴力表現や猟奇的な表現、食人の表現を含みます。本文を読み進め不快な気分になられたとしても当方は責任を負いかねます。読み進める場合はその旨ご留意ください。
その17『神を食った男・Ⅱ』
晴れ渡った夜空に、煌々と照る月の美しい一夜だった。詩心の無いものも、詩のひとつも諳んじてみたくなる様な、そんな夜。万人の目を疑うような光景が、極東のとある街の一角で繰り広げられていた。
金砂の如く月光の光で珠を結ぶ髪、荘厳ささえ伺える聖緑の瞳、白皙の肌が眩しく映る美貌。クレオパトラのそれに例えられそうな鼻梁のラインの主は、青いドレスの上に首周りから腰の両脇、それに腕先を覆う銀色の鋼を纏っていた。華奢な体躯からは鎧の重さにも耐えられそうにない印象を受けるが、今は雄々しく、その手に何か眼に見えぬものをもって、眼前の敵と相対していた。
英雄譚に謳われるべく生まれたような、可憐にして希代の英傑である少女は、仮初の名をセイバーと言った。
何かに怯えるように雲に隠れた月も、今一度姿を見せていたのだった。耐え難い好奇心に心動かされたように。あるいは、その美しい人を見る為に。
彼は、右手に肉厚で、幅の広い肉切り包丁を持っていた。無造作な持ち方は、専業主婦にも劣る構えに見えた。もっとも彼の専門は戦闘でも料理でもなく、人体の解体であったが。
身にまとった黒いコートは、右肩から左肋骨までがすっぱりと切断されて血に汚れていた。先程まで地面を転がりまわっていたので埃や汚れも目立っていた。冬の空気に血は湯気を立てんばかりに次々と溢れていておかしくは無いはずなのだが、既に流血は止まっているようだった。セイバーによって与えられたはずの斬痕も、今は跡形も無かった。血の赤を散らした眩い雪肌が、衣服の切れ目より時折覗く。
160センチにも届かないセイバーよりは頭一つ近く高く、180センチ前後はあるだろう。街灯の落とす影さえもしなやかで、たくましく、それは美しくさえあった。手を入れていない髪を無造作にかき上げ、彼はゆっくりとセイバー目掛けて歩き始めた。セイバーを天与の美貌とするならば、この男は天にも与えることのできぬ美貌であった。天の神も地の底の悪魔も虜にしてしまいそうな、妖しい、この世のものならぬ美貌。
彼は八千草飛鳥と言う名前で呼ばれていた。18歳までに、57人の老若男女を解体した希代の、美貌の殺人鬼。そして今はこう呼ばれているのだ。“神を食った男”と。その周囲の景色が揺らいでいるように、セイバーの瞳には映った。
八千草飛鳥はその胃に収めた神が目を覚ましたのだと言った。神代においてこの日ノ本の国を支配した暴神。五月蝿成す荒ぶる神。奈良の大仏が配された地下より現われた古代の神。揺らぐ景色は、神の顕現を示すものか。
剣の英雄と現人神とでも呼ぶべき殺人鬼は、静謐な対峙を続けていた。不思議と宗教的な神性さと荘厳さとが入り混じった闘争の場が生まれ出ていた。次々と神秘が失われゆく現代に再現された神代の闘いなのだ。
「ああ、奴が急かしています。あなたを殺せと、食えと。……本当に、貴方は美味しそうですね」
飛鳥の、誰もがうっとりと見惚れるに違いない紅の唇は、卑しく涎に照り光っている。欲情と飢えと興奮とが、飛鳥を支配しているのだろう。セイバーは激しい嫌悪と憎悪でもって、手の中の不可視の剣を握り直した。己の中に湧いた下賎な欲情の火を消し去るように、力強く。
心からセイバーを求めている飛鳥の様子は、内容こそ忌まわしいが、愛の告白であったなら誰もが喜んで受け入れるに違いない熱意を持っていた。男も女も関係なくだ。セイバーは、飛鳥の求めに敵意で応えた。具体的にはその剣でもって。
「はあああ!!」
気合の咆哮は裂帛の勢いで飛鳥を撃った。希代の殺人鬼ながら、その本性は臆病な飛鳥はそれだけで軽く怖気づいた。腹の中の神も、この性格は特に矯正する気はないらしい。小細工なし、これを外せば次は無いと言うほどの覚悟でセイバーは掲げ持った剣を飛鳥目掛け振り上げた。セイバーの一足で六メートルほどの距離が、剣を振るに最も適した距離にまで縮まるのは、瞬きをするよりも短い時間の間であった。飛鳥はそれに反応する素振りさえない。
放出する膨大な魔力が、青白い光となって発光しセイバーを輝かせていた。真正面から飛鳥を両断する一撃は、雷光の速度と言ってもおかしくは無かった。飛鳥の美貌が正しく縦に両断され、切り口も鮮やかにゆっくりと横倒れになる。当たっていれば、そうなっただろう。だが現実は……。
セイバーの足元に偶然転がっていた石を、セイバーが偶然踏みつけてバランスを崩し、偶然吹いた強風が舞わせた木の葉が、偶然セイバーの視界を塞いだ。全ては偶然だ。偶然が重なり合い、セイバーの一撃から飛鳥を救ったのだ。それはこの国の神と戦うということを表してもいた。この国に属するものはすべて神の味方と言っても過言ではないのだ。
バランスを崩したセイバーの一撃は、わずかに飛鳥からずれて、剣風がアスファルトをいとも容易く切り裂くに終った。まるで偶然が飛鳥に味方したような現象の連続に、セイバーは内心驚きを覚えたがそれを表に出す愚は犯さず、即座に思考を切り替えて振り下ろした剣を、飛鳥の首を狙った切り上げに変える。
ようやく気付いた飛鳥の視線が、セイバーを確かに捕らえていた。そして飛鳥が気付くよりも早く肉切り包丁を振り上げている右腕。背筋を駆ける、いや違う、汚穢な怪虫に体内を貪られるような感触がセイバーを襲った。飛鳥の意思よりも速く振り上げられていた肉切り包丁の刃が、月光に白々と輝いていた。飛鳥の意思でない一撃は、すなわち神の一撃ではないだろうか。
「速いですね。見えませんでした」
眼を見開いて驚いた飛鳥である。本心らしい。振り下ろされる肉切り包丁、狙いはセイバーの首。迎え撃つようにセイバーが全霊を用いて剣を振るう。青白い魔力と不可視の神の気とが歪みとなって空間を陵辱していた。発生してるのは両者の刃と刃との交差点。体勢から言えば上から被せる様に肉切り包丁を押す飛鳥が有利だ。
「えい」
気の抜ける気合を一つ漏らして、飛鳥はぐぐいと力を込め、体重を乗せる。セイバーは砕けんばかりに歯を食い縛り、天を支えたアトラスの様に飛鳥の一撃を堪える。
「ふっ」
両手で握っていた剣の柄から、左手を離して飛鳥の、あるいは神の振るう肉切り包丁に見えぬ剣の刃の上を滑らせる。あわわ、と飛鳥はなす術なく体勢を崩し、無防備な体勢をセイバーに晒した。いちいち情けないのも、この美貌の殺人鬼の特徴だ。むろんセイバーがその好機を見逃すわけも無く、自分の傍らでこけるのを踏ん張るような体勢の飛鳥の胴を、握りなおした剣を振るって薙いだ。
腰の半ばまでを切られた飛鳥が、噛み締めた純白の歯の隙間から低く悲鳴を零した。出血は驚くほどに少ない。いや、切られたはずの胴は既に半分ほど繋がっているではないか。神がこの殺人鬼から死を奪い去ってるのだと、直感的にセイバーは理解する。ならば微塵に切り裂くか、跡形も無く滅ぼすか。とりあえず首を落とし四肢を切り離す辺りが妥当であろう。残酷な行為だが、必要とあらば辞すつもりはセイバーには無かった。本来高潔なる魂の主であるセイバーにとっては好まざる所業だが、この場合躊躇を覚えるような相手ではなかった。
剣を振りぬいた体勢から大海を泳ぐ魚のように淀みない動きでセイバーは振り返る。飛鳥はいまだ苦痛に苛まれ、痛みを堪えるのに精一杯だ。非情な一刃は断頭台さながらに飛鳥の首を薙ぎ、水を切るように抵抗もなく切り落とした。あっ、という表情で飛鳥の首はその胴から呆気なく落ち、倒れ付した飛鳥の右手が持っていた包丁の切っ先が、アスファルトに刺さった。
「なっ!?」
セイバーの唇から零れる驚きの声。それもむべなるかな。包丁の突き刺さった先から始ったアスファルトの亀裂は、すぐ傍のセイバーの足元では人一人を飲み込む亀裂へと変わっていたのだ。その深淵はすべての光を飲み込むような暗黒の奈落だった。通されているはずのガス管や水道管は何処へ行ったのか、見る影もない。落ちるよりも早くセイバーは地を蹴って後退し、意思ある生物の様に迫る亀裂を更に避けるべく跳躍を重ねる。
飛鳥の包丁が作り出した亀裂は延び続け、まるでアスファルトが巨大な生物の口と化したようにセイバーを飲み込むべく広がり続ける。
「埒が明かないかっ」
忌々しげに吐き捨てたセイバーが、家屋の塀を蹴って飛び上がり、落下の勢いでもって,埒をあけるべく逆手に構えなおした剣を亀裂の先に向かって突き刺した。亀裂の長さは既に百メートルに及んでいた。ほとんど直感的な行動だったのだが、あながち的外れと言うわけでもなかったらしく亀裂はセイバーの剣の突き刺さった箇所で止まっていた。神の神通力に、セイバーと剣の霊格がかろうじて勝ったようだ。
一か八かの賭けに勝ったことに少なからず安堵し、セイバーはついではっと顔を上げて、飛鳥を見た。飛鳥は、落ちた首を元通りの位置に押し付けながら立ち上がるところであった。斬痕は白っぽい線に変わったかと思うと、見る間に消えていった。
「痛い、と思ったのですがそれほどでもありませんでした。それにしてもひどい事をする女性だ。訴えますよ」
それほどではないという割りに、眼の端には涙が溜まっている。彼にとって快楽に変わる痛みとは他者の苦痛であり、己に対する痛みは髪の毛一本引っこ抜かれるのさえ嫌なほど敏感なのである。典型的なサディストの性癖である。
飛鳥がすっくと立ち上がると同時に、両者の間に生まれた亀裂は元通りにぴたりとくっつき、つい数秒前まで底の見えぬ亀裂があったなどは、直接目にしていないものは信じられまい。さらには、周囲の民家の住人には何の異常も感じられ無かったのか、騒ぎ一つどころか猫の鳴く声さえしないのだ。おそらくは冬木の誰もが何の異常も感じなかったのだろう。
「化け物め! ……流石は異教の神と言うべきか」
「僕にとっては疫病神ですね」
あっけらかんと飛鳥は言う。本心から腹の中の神がうっとうしいのである。彼を彼たら占めている“殺人衝動”を、体内の神は意図してかせずにか抑制している為だ。
「ああ、本来なら貴方のような人なら匂いを嗅ぐだけで殺意が湧いたでしょう。なのに今僕のこの胸を焦がすのは腹の中のアイツの衝動なのです。僕が僕の意思で殺すからこそ僕は生き甲斐を感じられたと言うのに。ああ、そうだ、そうだとも。出会う人々を片っ端から殺し尽くす方が僕らしいのに。男も女も関係なく、老いも若いも関係なく、目に付いた端から、匂いを嗅いだ端から、足音を聞いた端から、体の奥底から湧き出す衝動に身を任せるべきなのに」
「貴様が生まれたのは、世界の過ちだな」
自らに酔いしれるように、しかし心の底から告白する飛鳥の様子に、セイバーはますます嫌悪を募らせた。まさしく台詞どおりコイツは生れ落ちてくるべき存在ではなかったのだと、思い知る。
「そうですか? 昔外の世界を知る為に病院で読んだ本では、全ての命には意味があると書いてありましたよ?」
首をかしげて、飛鳥は無垢な子供のようにセイバーに問うた。精神病院での生活は好ましからざる記憶だが、飛鳥の常識の一部を担っているのは、収容されている間に呼んだ数々の書籍なのだ。ちなみに『小学生の道徳』なども含む。
「ならば貴様の生命は、今この場で断たれる為にあったとしれ」
「ひどい人だ。怒りますよ?」
むっと柳眉を寄せて、飛鳥はセイバー目掛けて歩き始めた。優雅と見える歩行は、疾走に等しい速度でセイバーへと迫っていた。あくまでも歩いていると見えるのにその実速度は飛燕。幻惑に等しい効果がセイバーに襲い掛かったものの、セイバーも歴戦と言う言葉が霞むほどの戦闘者。狙いをあやまたず飛鳥を捉えて頭部を割る一刀を放つ。ゆったりとした動作で飛鳥の肉切り包丁がそれを捉え、こらきれずに大きく後方に吹き飛ばされた。無様と言える姿勢で飛鳥はアスファルトに叩きつけられ、何度も転がってからようやく止まる。
飛鳥は鼻水さえ垂らしながら何度もむせ返り涙を流していた。今度は痛かったらしい。頬や掌に幾つも擦過傷を拵え、雪肌の白と埃の茶色と血の赤が鮮明なコントラストを描いていた。
ひいひい言いながら、うつぶせに倒れ付した身体を肘を突いて身体を起こして、恐る恐る強敵たる剣の英霊を探す。
「あれ?」
居ないのだ。見渡す限りの視界の中にセイバーの姿はなく飛鳥は無防備にも、動きを止めていた。そして、腹の中のアイツが飛鳥に警告を与えた。はっと大きく背を逸らして上を見上げる飛鳥。その瞳には、月を背に風を切って自分目掛けて剣を向ける剣騎士が。月光に輝き、魔力放出の蒼を纏うセイバーの姿は、飛鳥をしてさえ思わず見入るほどの美しさだった。
ほう、と零れる感嘆の溜息に遅れて僅か一瞬、セイバーの剣が飛鳥の心臓を貫いた。真上から串刺しにされた飛鳥は、アスファルトにうつぶせに倒れ付した状態から背を逸らした状態で縫い止められていた。
「ああ、があっぐ」
明らかな苦鳴の声と共に、飛鳥の口からゴボゴボと音を立てて鮮血があふれ出し、咽喉元とアスファルトを赤く赤く濡らしてゆく。びくんびくんと幾度か痙攣し、不意にその体から力が抜けてゆく。その様子を確認してから、止めていた息をゆっくりとセイバーは吐き出した。まさか神殺し、生前……にも覚えがない所業を果たす羽目になるとは。
削られた神経と張り詰めた精神がゆっくりと戦時から平時へと戻るのを感じながら、セイバーは飛鳥の体の上から降りて心臓を貫いた剣を引き抜いた。ズズっという音と共に肉と擦れる感触がセイバーの指に伝わる。不快さと、この美しい男を殺したのは自分であるという恍惚、そして罪悪感が猛烈に襲い掛かってきた。
「……」
痛切な表情を浮かべるも一瞬、セイバーは振り切るように背後を、目指す柳洞寺を睨みつけた。
一歩、グリーブがかつんと音を立てる、二歩、疲れたような歩みにはこのまま戦いを挑むことの愚を考えて迷っているようだった。三歩、愕然と、それは振り返る動きとなった。振り返るセイバーの動きと共に、それはセイバーの左首筋へと立てられた。
白々と輝く歯の列は、真っ赤に染まりながらセイバーの肉を食い千切るべく思い切り深く突き立てられていた。確かに死んだはずの八千草飛鳥であった。ぞぶりぞぶりと、飛鳥の歯は深くセイバーの肉を抉ってゆく。
「ぐうっ貴様!?」
「……」
ぶつんと言う音がしたのと同時に、飛鳥はセイバーの左肘の一撃で身体をくの字に折りながら、吹き飛ばされる。しかし今度は地面を転がると言う無様な真似はせずに、優雅に降り立った。コートがはためき悪魔の翼のようにふわりと広がっていた。そして今、くちゃくちゃと口元を動かし続けていた。唇の間からはセイバーの容易く千切れそうなほど繊細で細い金の髪とドレスの青い生地が、時折覗く。
セイバーは右手一本で剣を構えなおし、確認するように左手を首筋に当てた。無い、確かにそこにあった肉が齧りとられていた。不思議な事に痛みはなく、血も出てはいなかった。これが、神に食われるという事なのだろうか?
ゆっくりとセイバーの血肉を咀嚼していた飛鳥が、ゴクンと音を立てて飲み込んだ。じっとセイバーを見つめる眼は、まだ物足りないと語っている。首筋に当てていた左手を柄に戻して、セイバーは剣を正眼に構える。
「ああ、お腹が温まります。……竜? ですか、この味は。なるほど本当に人間ではないのですね。アイツも昔食べた事があるそうですよ。時々海の外からやってくる竜を相手に闘い、食べていたようですね。一番美味しく食べるには肛門から手を突っ込んで直接内臓を引っ張り出し、それを塩漬けにしてから三日間水に漬けててふやかすそうです。頭は竜が生きている間にそのまま丸ごと食べるのがお気に入りのようですよ。口の中で徐々に力を失ってゆく感触がたまらないそうで。後は鱗を一枚一枚剥いで、四肢は陽に干してから、その他の肉は血の滴るのを頂くのが流儀ですか。爪や牙、鱗はおつまみにするのが良いそうです。滋養はたっぷりあるようですね。アイツは本来の神の食事を長い事とっていませんからハラペコなのですが、いくらか足しにはなったようです。あなたもそうして頂きましょう……なんて野蛮な。
そういえばもう一つ分かりましたよ。アイツは怒っているのです。自分の国に余所者が入り込んでいる事に。貴方は他所の神ではないようですが、この街のどこかからはそいつらの匂いがします、それと気配も。僕の腹の中のアイツは他所の連中が本当に気に入らないようです。何しろこの国の神でも毛嫌いしているくらいですからね。全くいい迷惑ですよ。
ねえ、本当に僕は、貴方を食べるつもりなんてないのですよ。美しく気高い貴方が怯えて無様に命乞いをし、恐怖にその美貌を歪めながら僕に殺されてくれればそれでよいのです。なのに、今の僕は貴方が食べたくて仕方ない。何てことだ」
心から嘆きながら、飛鳥はゆっくりとセイバーに迫る。自らの芸術の未完に懊悩する青年風ではあるが、飛鳥の唇からはだらだらと涎が零れ落ち、コートやアスファルトにぽつぽつと染みを作っている。スラックスの股間は張り詰めていた。性的興奮と食欲の極みに達しつつあるのだ。
「外道めっ。邪神に魅入られるのも仕方あるまい。貴様のその邪悪さではな!」
セイバーは、自らの清廉な精神が訴える嫌悪感と眼前の美青年を必ずや討たねばならぬという使命感に突き動かされた。世に放たれたこの男を放置すれば、未曾有の災厄が世界を襲うと、正しくセイバーは理解していた。
同時に、目の前の青年の不死ぶりについても、打破すべく思考を巡らす。首を落としても即座に回復してみせる再生能力。いや、再生とも厳密に言えば異なる印象を受けるが、とりあえず神の力さえなければ眼前の青年はセイバーの敵たり得ない。しかしもはや神は目覚めている。
(先程奴が作り出した亀裂を止める事はできた。神秘はより強い神秘に破れる、か。聖剣ならば、あるいは。いやこれしかないか)
聖杯戦争における現状を鑑みれば聖剣をサーヴァントでもない相手に使用するのはもっての外だが、相手が相手だ。ひょっとしたら自分達以上にとてつもない魔性と剣を交えてしまったのだから。
(聖杯。我が誓い、我が願い。この場をやり過ごしても魔力の不足は夥しいか。だが、それでも望みは繋がる)
「……一人の騎士として、貴様のような存在を見過ごすわけには行かぬ。貴様はいずれ無辜の民に際限なき災厄となって降りかかろう。今ここで、我が剣を持って禍根を断つ」
「……そう、でしょうね。しかし禍根を断つ、ですか。そうしてもらえるなら僕としてもありがたいのですが。できますか? 貴方に」
どこか虚無的なものを漂わせて飛鳥はセイバーに問うた。声には真摯さが込められていた。唐突にセイバーは理解していた。八千草飛鳥は疲れているのだと。死を求めても死ねぬ不死者。己を己以外の何かに支配される事の恐怖。初めてセイバーは、目の前の美貌の殺人鬼に、ほんのささやかな、一抹の憐憫を感じた。
「跡形も残さぬ」
「それなら痛くなさそうですね」
それなら、とほっと一安心した飛鳥の声だった。少なくとも死を望んでいるのは事実なのだ。ただ痛みを感じるようなのは嫌なだけだ。奇妙な和やかさみたいなものが両者を繋いだ。ほんの一瞬だけ。
腹の中の神は異を唱えたようであった。飛鳥に襲い来る猛烈な飢餓感と本来の殺人衝動は瞬く間に彼の思考を鮮血に彩った。唇の端から涎を零しつつセイバー目掛けて跳躍する飛鳥。聖剣の解放が先か振り上げた肉切り包丁が振り下ろされるのが先か。
そして、夜の街の一角を白い炎が照らし挙げた。ちょうどセイバーと飛鳥がそれまで立っていた場所の中間まで飛鳥が飛翔した所で白炎が飛鳥を飲み込んだのだ。何!? と誰何の声を挙げたセイバーの耳に、低く何か呪文のようなものを唱える声が聞えた。炎に蹂躙された飛鳥はそのまま地面に落ちたかと思うと、脱兎の勢いで地面を蹴り、二十メートルも跳躍して見せた。そこに、びらびらと真白な、蜘蛛の糸に似たものが何百本と襲い掛かった。
たちまち糸の触れた民家の屋根や電信柱、炎の中の飛鳥から白い煙が上がる。糸は強烈な溶解能力を持っているらしかった。炎と新たな糸の来襲を、銀色の弧が引き裂いた。飛鳥の手に持つ肉切り包丁が、神の意思と力で振るわれたのだろう。身に纏っていた衣服が全て焼け落ち、体のあちこちを炭化した飛鳥がそこに居た。唯一顔だけは無傷であった。
そしてセイバーの背後の闇を睨み付け、低く唸る様に言った。どこか呆れてもいる。
「貴方達はこんな所まで」
つられて振り返ったセイバーの瞳に、一人の尼僧の姿が映った。月光さえも吸い込んでしまうような妖しい、爛熟した妖花のような美貌に、僧衣を押し上げる豊満かつ淫靡な肢体。匂い立つような色香と、神聖な雰囲気とが混在した若き美貌の尼僧。おもむろにセイバーに向かって頭を下げて、こう言った。
「秋光尼(しゅうこうに)と申します」
高徳の聖人のみが有する清浄な雰囲気と、どこか娼婦顔負けの色香を持った助っ人に、セイバーは戸惑った様だった。
「あの方とは多少の縁持つ者でございます。人ならぬ御方。何をしようとなさっているのか未熟なこの身には分かりかねますが、お命の危険に及ぶ事である事だけは分かります。どうかお考え直しくださいませ。代わりと言っては何ですが、この場は私共めがお引き受けいたします」
震える睫毛の元、憂いを湛えた瞳に炯炯と宿った猛寧な光をセイバーは見逃さなかった。
「まずは、感謝を。しかし、彼は」
「ご懸念無く。私共も、彼の神を討ち果たさんとする者でございます」
「私共?」
「あちらでございます」
信心が厚いかどうかはともかく異教の徒であるセイバーに対し、あくまでも恭しい態度を崩さぬ秋光尼が指し示す方をセイバーもまた見た。素直に従ったのも、秋光尼に敵意の欠片も無い事が理由だった。
月夜に輝く裸体を晒す八千草飛鳥の前に、平凡なサラリーマン姿が立ちはだかっていた。古代ギリシアの彫像さえも恥らうと見える裸身を前に、情欲と殺意を万と湛えて、サラリーマンは銀縁眼鏡の下で眼光を鋭くした。姿そのものは確かにただのサラリーマンであろう。ただし、何も無い空中から、何かに掴まっているかのように逆さまでなければ。
「また会ったな。色男」
かつて奈良の大仏が見守る中、米軍の超能力を持った軍人の通訳を果たした江口という名の男は、憑いた土蜘蛛の意のままに喋った。
「僕の尻の味が忘れられませんでしたか?」
飛鳥は史上最悪と呼ばれた美女達でさえ届かぬ妖しい淫笑を浮かべた。かつて土蜘蛛に尻穴を掘られた時の事を言っているのだ。その際、土蜘蛛は掘っていた男を、牙の生えた飛鳥の尻穴に食い千切られている。さっと土蜘蛛の顔に朱が走る。憤怒の朱であった。顎の稼動域の限界を超えて土蜘蛛の口が横に開き、そこからあの糸が風に逆らって飛鳥へと降り注ぐ。
それを逆らわれた風が土蜘蛛へと押し返した。人間とは思えぬ、まさしく蜘蛛の如き動きで土蜘蛛は跳ねた。着地したのは電信柱の頂上だった。
「ここへは僕の方が先に来ました。どうやらこの街には神が居ないようですね。人々を見捨てたか神の方が見捨てられたか、あるいは別の何かに敗北したのかもしれませんね。とにかく、ここは僕の味方です。五月蝿なす荒ぶる神といえども神は神。仮にも国津神と言うことでしょう」
「ちっ、これだから大陸の妖術師どもは好かんのだ。この国の理を理解せん」
「貴方が行動を共にしているのは何ですか? でも、腹の中のアイツもそれには同意見な様ですが」
アスファルトの上、妖しい微笑みはそのままに飛鳥は土蜘蛛をねめつけている。両者の間を繋ぐのは神代に根ざす怨恨であった。かつて飛鳥が喰らいし神は、土蜘蛛の一族を生きたまま貪り喰らったのだ。ふっと飛鳥が力を抜いて、清々しいとさえいえる笑みを浮かべた。土蜘蛛は警戒を緩めぬままに怪しいな、と目を寄せる。
「貴方達と戦うの疲れます。僕は僕のやりたいようにしたいのです。といってもアイツがそれを許さないのですが。でも一つ分かりましたよ、ここ来たのは僕の意思であり、アイツの意思でもあった。アイツは気に食わなかったのですよ。他所の神の匂いをさせる連中がのさばるこの地がね。どういうことか分かりますか?」
「貴様の腹の中の奴は、この地に呼ばれた異国の神を皆殺しにするつもりか」
「純粋な神ではない混じり物のようですが、気に入らない事には変わりないようです。一柱も残さずに喰らい殺すつもりですよ。こいつは」
そして手に持っていた肉切り包丁を飛鳥は手放し、重力に任されるまま包丁はアスファルトに突き刺さった。セイバーが、警告を出すよりも早く。
その晩、八千草飛鳥が落とした肉切り包丁を中心に、半径百メートルという極小の地域を地震が襲い家屋は尽く倒壊。重軽傷者十四名を出す惨事が起きたのだった。
――続かないと思う。
風牙亭さまで投稿した時は投稿してよいものかと悩んだものです。しかしまあ腹の中の神様は<新宿>に行ったらなんともまあさらに強大な力の持ち主になってましたね。宇宙が破滅するだの<新宿>の妖気でも押さえ込むのがやっとだの、ドンダケー、と思ったものです。ではではおやすみなさい。