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[11325] 【ネタ】 菊地、SRW、Fate、リリカルなのはシリーズもろもろ短編集
Name: スペ◆52188bce ID:24c74a0a
Date: 2010/06/10 21:12
これはもう閉鎖してしまった某サイトで投稿させてもらっていたSSを手直ししたものです。
基本的に一話ぽっきりの短編集となっています。ネタとしてお楽しみいただけたら幸いです。

6/5 題名変更しました。菊地御大の作品にかぎらずいろいろと書こうかなと思い立ちましたので



[11325] その1 魔界都市<新宿> × Fate
Name: スペ◆52188bce ID:12f016d9
Date: 2009/08/30 22:26
<新宿>流にキャラクターの性格・設定が大崩壊しています。その点にご注意を。

 『 Fate / the WickedCity <Shinjyuku> 』

『 遠坂 凛とアーチャーの場合 』

 これはIFのお話。
もし、もしも聖杯戦争が冬木の地ではなく、かの“魔界都市<新宿>”で行われていたなら? 
第四回聖杯戦争を前に新宿区を襲った“魔震”がもたらした変貌、すなわち“魔界都市<新宿>”の誕生が行われていたなら? 
遠坂の家は新宿の管理者であったなら、マキリが新宿に居を構えていたなら、アインツベルンが新宿で聖杯を造りだしたなら、■■士郎が<新宿>に住んでいたなら。
これはそんなIFのお話。
 
“英霊の座”。そう呼ばれる場所で、数多いる守護者と呼ばれる存在達の中のひとつが、唐突に召喚されている事に気づく。存在の強制的な移動。供給される魔力、提供される知識、授与される肉体、覚醒する意識。閉じたまぶたを開けばそこに写るのは―― 眼下に人造の光を煌びやかに灯す、暗闇の空。

「……」
 
 肌を痛いほどに叩く風。それは重力に従って真っ逆さまに堕ちる自分が切り裂く空気であった。一瞬の思考、結論は出た。自分は

「落下している」

 もし見る者がいれば、赤い布と黒い皮鎧らしきものを身につけた白髪に褐色に焼けた肌の、長身の青年が頭から落ちている様子を見ることが出来ただろう。そのまま成す術なく地面にダイブすれば、真っ赤な血の花が咲き、跡形もない肉片と、粉々に砕けた骨のかけらが辺り一帯にブチ撒かれるだろう。

 ああ、ゴッドよ。…………なんでさ?

 聞くに耐えぬ無残な崩壊音と共に、彼はそのまま一直線に落下して洋館の屋根へとぶち当たり、物理的な影響を受けぬはずの霊的存在なのに、屋根をぶち抜いて居間らしい部屋に落ちた。
 ガラガラと落ちてくる天上の破片と、一緒に邸内に雪崩れ込んだ瓦礫に埋もれた体を引き起こし、傾いた瀟洒なソファを見つけてそれに横になる。褐色の肌には傷一つない。
 おそらく間も無くこんな目にあわせてくれた張本人が来るだろう、とあたりをつけて、ソファの肘かけに肘を乗せて頬杖をつき、まるで寛いでいるかのような姿勢をとる。調度品や間取りからして落下したのは居間らしかった。いま腰かけているソファやテーブル壁に掛けられた時計に燭台、シャンデリア、キャビネット、いずれもよく吟味されたセンスの良さと庶民には手の出ない価格が伺える品ばかりだ。
 もっとも、今は天井の崩落によって渦巻く埃にまみれてその価値を百分の一程度にしか見えぬ汚れに塗れていたが。
 妙な事になったものだと我知らず嘆息した時、居間の入り口であるドアの向こうに気配が生じる。直ぐに入り込んでくるかと思ったが

(なかなか見事な気配の消し方だな)

 と、少なからず感心する。獲物を背後から狙う猫科の動物を、彼は連想した。彼の耳を持ってしても、足音一つ捉える事が出来なかったのだ。どうやら召喚者が、自分に気付き、警戒するか心の平静を整えているのだろう。さて、この身を召喚した者はどんな反応を見せてくれるのやら……
 ギイっと音を立ててドアが開いたが、そこに人の姿は無く、代わりに

「銃口?」

 ぽっかりと小さな黒い穴をのぞかせた拳銃の銃口が向けられていた。思わず驚きの声を発したと同時に、銃口から鉛の玉が盲目射ちでばら撒かれた。
ドアの隙間から見えた引き金を引く指の動きに合わせて跳躍し、ソファの後ろに隠れる。が、すぐに無駄と知れた。着弾と同時にソファにぽっかりと拳大の穴が次々と開いてゆくではないか。おそらくは対象内部でマッシュルーム状に膨れてエネルギーをぶちまける弾頭か、ハイドラショックでも使っているのだろう。護身用ではなく殺人の為の銃弾だ。

「ちい、戦争狂か殺人鬼か、イカれたガン・マニアにでも召喚されたか!?」

 拳銃=シグ・ザウエルP226から9ミリパラベラムが次々と吐き出され、驚くほど正確に彼を狙い続ける。だが、彼はこの世ならぬ人の高みに昇った超越者の端くれ。そうそう当たってやる道理も、またかわせぬ道理も無し。もっとも通常の弾頭は通じぬ身の上なのだが。
 銃弾を回避しつつ、部屋を並々ならぬ速度で駆け抜けて、縦横無尽の機動であっと言う間に居間のドアに駆け寄り、壁の向こう側の召喚者に向かって拳を見舞う。ドアをやすやすと突き破った彼の拳に驚いたのか、銃の持ち主がドアから姿を見せる。 
 まだ若い、十代後半頃の少女。艶やかに電子の光を跳ね返す黒髪を黒いリボンを使って二箇所で括ったツインテールの髪型。赤い上着と黒のミニスカートに同色のニーソックスを穿いている
 顔の輪郭の曲線のラインも美しく弧を描き、きりりと引き締まった唇と目を飾る眉は職人の一筆が描いたものか。少し呆然とした色を浮かべる瞳は本来なら見惚れるほどの輝きを放つのだろう。輝かされるのではなく自分から輝く。そんな少女だ。
 彼の記憶のどこかで、少女に見覚えがあると、囁く自分がいた。しかし思考に時間を割く余裕を目の前の少女は与えなかった。右手に握ったシグの狙いを付けるのと、左手に握っていたベレッタM92FSの狙いを彼に定めるのは同時だった。彼我の距離は一メートル。射殺の運命をいかにしてかわす?
 ドアを突き破った左手を強引にずらして、ドアを破砕しながら裏拳を放つ。少女は慌てて裏拳をしゃがみこんでかわし、シグを発砲。彼は避けるどころか逆に踏み込んで少女を見下ろす位置から右足で前蹴りを放つ。その傍らを銃弾は通過していった。
 少女は素晴らしい反射神経を発揮して、しゃがみこんだ位置からそのまま宙返りし、ベレッタを彼の眉間に突きつけた。ガンカタにでも覚えがあるのか、人魚の飛翔にも似た一連の動作の優美さに、彼は心中で惜しみない賞賛を送った。
 だが現実は厳しいものと相場が決まっている。下段からアッパーの要領で右手を振るい、ベレッタの遊底を少女の拳ごと握り締めて発砲を阻止、同時に前蹴りを放っていた右足をそのままのモーションで振り上げて右手に握られたシグを蹴り飛ばす。常人には出来ぬ速度と精密な「仕事」だ。
 このまま右手の逆を取って間接を抑え込み、話を聞かせてもらうか、と努めて冷静に彼が思考した時、カチリ、と小気味よくスイッチを押す音が聞こえた。わずかに、少女の左足の爪先が、廊下の一端を押し込んでいる。
 それを認識するのと同時に左足一本で彼はその場から後方へと跳躍した。回避行動をとった事が正解だった証拠に、天井からたっぷりと艶光る位に猛毒を塗りたくった鏃が雨あられと降り注ぎ、彼がコンマ01秒前まで立っていた床を貫いたからだ。バネ仕掛けのトラップらしく、鏃は時速300キロの速度を誇っていた。
 彼と距離が離れたのを認識し、少女は必殺のトラップがかわされた事を悔しがるそぶりも見せずに、ヒップホルスターからSWのM29・四四マグナムを抜く。  一・三五キロの拳銃を五百分の一秒の速さで抜き放ち、どうみても年頃の少女の華奢な腕としか見えないのに、微動だにせずに保持する様は、なんらかの筋力強化処置を受けているせいだろうか。
 そのまま少女はぴたりと狙いをつけたM29の引き金をなんの躊躇もなく引く。銃口の先端から毒々しい火が吹き出し、大口径の銃弾が獲物に追いすがるべく次々と放たれる。
 一発、二発、三発と撃ち続け、一発の着弾もない事に少女はかすかに眉を寄せる。美人画の巨匠が精魂を込めた一筆の様に美しい眉が歪む。左手に握っていたベレッタを脇のホルスターに戻し、五発目の発砲と同時に壁に隠してあるステアーSMGを引っ掴んで、三ミリ針弾全九十発が装填済みである事と安全装置が外れている事を一瞥して確認し、四四マグナムが空になるのと前後して引き金を引いた。
 先程からひっきりなしに鼓膜を叩く銃声と視界に常に映る銃火に、忙しく飛び回る彼はわずかに苛立たしげな素振りを見せた。このような状況になってしまったとあっては、言葉で解決する手段などあろうはずもない。
 生憎と彼は、言葉で相手の意思を奪う、視線を合わせる事で魅了する、などといった異能とは縁のないタイプだ。
 年代もののステンドグラスを使った美しいランプが、少女が張る弾幕によって微塵に砕け、白磁器の花瓶も見るも無残に砕ける。その度に少女の頬がかすかにぴくんと痙攣するのを見る余裕が、まだ彼にはあった。不意の侵入者を迎撃するためとはいえ、秒単位で増えて行く被害額に頭の痛い思いをしている。

(さて、どうしたものか)

 かなり広めの居間とはひっきりなしに銃弾を浴びせ掛けられ、忙しく駆け回り跳ね回るのも限度がある。いっそのこと、ただの銃弾ならどんな大口径の弾丸だろうと無効なのだろうから、弾幕の中を悠々と歩んで行き、召喚者であろう少女の鼻を明かしてやろうかと、悪戯っぽい考えがむくりと頭をもたげる。
 どこぞの名画の描いた朴訥な風景画の掛けられた壁を蹴り、さらにそのまま天井を蹴って、三次元的な機動で銃弾をかわし続けていた彼は、いつまでも受けに回っていても埒が明かぬかと、テーブルを蹴りあげて互いの視線を遮る。
 一秒とおかずに無数の弾丸がテーブルに叩きこまれマホガニー製の豪奢なテーブルは、瞬く間に無数の木屑と破片に砕けた。そのわずかな時間で、彼には十分な筈であった。しかし、たまたま彼の頬を掠めた弾丸が強行突破の選択肢を思いとどまらせた。
 偶然にも頬に一筋の傷を刻んだ弾丸は、<新宿>警察特製の対妖物妖魔用の呪殺弾であったからだ。徳の高い高僧の祈りに匹敵する霊的攻撃力を持つ。生半な悪霊なら、一発で消滅させられる。すでにこの屋敷事態が邸内に侵入した彼が、霊的存在である事を分析し、主である少女に告げ、情報に従って少女は戦法を変更している。
 ステアーを撃つ合間に右手のM29を放り捨てて、今度は天井のウェンポン・ラックをリモコン操作で引き下ろして、対霊的存在用の弾丸を叩きこんだM16Aライフルを右手に持つ。
 今度はステアーも投げ捨てて、ウェポン・ラックからレミントンM870を引っ掴む。スライド式の円筒弾倉に爪であるOOBの直径約八ミリの粒弾は、すべて少女が精魂を込めた魔力を帯びているし、職人に頼んで一ミクロンの狂いもなく刻んである魔術文字は十分に退魔の効力を発揮してくれるはずだ。
 右手のM16から間断なく吐きだされる弾丸の反動が伝わり、荘園がうっすらと靄状に立ちこみ始め、足元には散らばった無数の薬莢が小さな山を造り始めている。五十連発の特注弾倉の中身が残り十発になった時、不意に敵の姿が見えたのに気づく。
 それまで蜃気楼かなにかを相手に立ち回りを演じていたかの様な錯覚に襲われて、一瞬少女は忘我したが、すぐに背後に生じた新たな気配に反応する。生来の魔術師としての素養、魔界都市と謳われる背徳の都に生を受けた事、その都市に今日に至るまで生き抜いてきた経験が、少女に二つの銃口を左後方へと向けさせる。
 その二つの銃口が虚空に生じた二つの手に握り潰された。身を隠す羽衣を剥いだ様に唐突に姿を現した侵入者に、舌打つ間も惜しみ少女はそちらへと向き直りながらバックステップを踏む。
 硝煙たなびき、銃弾による無数の破壊と落下物による天井の崩落という舞台に相応しくない優雅さと、若い生命の躍動に満ちた動きであった。そう見せるまでにその少女は美しい。
 足が床を踏むよりも早く少女はミニスカートのポケットから小石ほどの大きさの宝石を掴みだしていた。左手の五指の間にトパーズ、ルビー、サファイア、エメラルドをそれぞれ一つずつ挟み込み、それを思い切りよく投じる。
 低い呟きが少女の整った造りの唇から零れると同時に、侵入者である赤い外套姿の男の間近で宝石が苛烈な閃光を放って内に秘めた魔力を開放させる。ロケット弾の直撃に耐える装甲を持った妖物も殺傷せずにはおかぬ破壊力だ。
 廊下の壁やら床やらが無残な体を晒している。引き下ろしたウェポン・ラックが誘爆しないように計算していた。銃器はもちろんのことカールグスタフや携帯用低反動ロケット砲やら、三〇ミリレーザーキャノンと物騒なものも収納していたから当然の処置ではある。
 続けてゴルフボールサイズの人体用手榴弾を取り出そうと伸びた右手を、ごつごつとした若い男の手が捉えた。
 そのまま右手の逆を取って少女の体を優しく廊下に叩きつけて、腕を捻る。折る寸前の力を加えておく。姿を消した時と同様、実体化していた体を霊体化させて、とっさに地下に潜ったのが功を奏した。さてこれで話が出来るだろう。

「いった~~」

「まったく、乱暴な召喚だけでなくこの仕打ち。私は狂人にでも召喚されたのかな?」

 おどけた口調に殺気を込めて彼は呟いた。頭を打って痛がる少女が動きを止めて彼の顔を見つめる。半信半疑、いや七割は信じているだろう曖昧な表情である。

「やっぱりアナタは私のサーヴァントなの?」

「残念ながら、状況から推察するとな。とても物騒な主のようだが。しかし君は正気か? 家の中であれほどの銃弾をばら撒き、爆発物を使うとは。銃声を聞きつけられて警察にでも通報されたらどうするのかね」

 それから捻っていた彼女の腕を解放し、立ち上がった少女と向かい合う。一応彼と少女との間には彼を現界させるために不可欠な『繋がり』と魔力を感じてはいる。少女は腕を組んで挑みかかる様にして彼と向き合う。
 そのおのずから輝きを放っている様な瞳に見つめられると、不満や不平といったものが、不思議と薄く消えて行く。

「人を狂人扱いなんて失礼なサーヴァントね。ああ、それと銃声のことだけど別にどうもしないわ。どうってことないのよ。この街じゃ」

「…………病院は近くにあるか? 入院をお勧めするが」

「元区役所に世界一の医師がいるわよ。さてと、漫才はもうこれくらいにしない? 大事なのはあなたが私のサーヴァントかどうかってことなんだけど? クラスは……セイバー?」

 “クラス”。聖杯と呼ばれる願いをかなえる願望器をめぐり行われる七組の魔術士とサーヴァントによる戦いで、輪廻から外れた高次空間である“英霊の座”からの被召喚者達に用意される或いは当てはめられる称号だ。
 剣のセイバー、弓のアーチャー、槍のランサー、騎乗兵たるライダー、魔術のキャスター、暗殺者たるアサシン、狂戦士バーサーカーの計七つ。イレギュラーと呼ばれるクラスもあることにはあるが、正規のクラスに当てはめての召喚の方が優先されるだろう。
 これはそれぞれのクラスに該当する英霊に絞って召喚することで人の手に余る“英霊”をサーヴァントという劣化存在として使役する聖杯戦争のメカニズムの一つだ。クラスの適正に外れた能力は制約を受けるか、使用不可となるが、そも英霊を使役するというこのシステムは、魔術の造形に深い者の観点からすれば非常識にもほどがある一種の奇跡に等しい行いだ。先人たちは称えるに十分な仕事をしたと言ってよい。

「はあ、……生憎と違う。期待を裏切るがセイバーでは無い」

「おわっちゃ~~やっちゃった。あんだけ宝石使ったのに。あ~あ、しょっぱなからミスかあ。……まあ良いわ、人生前向きにいかないとね。で、あなたどこの英霊、真名は?」

「クッ、言いたい放題言ってくれる。生憎とこの身はアーチャーとして召喚されている。確かにアーチャーでは派手さにかけるだろうよ。いいだろう、後でその暴言を後悔させてやろう」

「気に障ったの? ――案外子供っぽいのね――ええ、必ず私を後悔させてちょうだいアーチャー、そうしたら素直に謝らせてもらうわ」

「ああ、忘れるなよマスター。己が召還した者がどれほどの者かを知って、聖杯にでも感謝するがいい。もっとも、先ほど言った通りそう簡単には許しはしないがな。ああ、それと」

「何?」

「記憶のことだがさっぱり思い出せん。おそらくは先ほどの乱暴極まりない君の召喚の影響だろう。召喚の仕方を間違えたのかどうかは知らんが、場所まで間違えるとはどういう理由かね? ちなみに私が眼を開けたら何故だか空中にいたのだがね」

「……ふうん」

 少し言い過ぎたか、と思うと同時に少女の“ふうん”が聞えてくると、何故だか一斉に全神経が危険を訴えかけてきた。

(バカな、いかなる戦場においても不敗のこの身が恐怖を刻むだと!?)
 
拭いがたい恐怖感に思い出せぬ記憶が刺激を受けたのか、無意識の思考が徐々に目の前の少女に対するキーワードを拾ってきた。“学園のアイドル”、“女狐”、“貧乳”、“師匠”、“カレイドルビー”、“守銭奴”、“うっかり”。ああ、そして決定的な単語、すなわち“アカイアクマ”。

(な、なんだこの単語は?)

 おもわず後じさり、少女の反応を恐る恐るうかがう自分が情けない。うつむいた少女はブツブツ呟いていたが、すぐにぱっと顔を上げてこう聞いてきた。心無しか、頬が桜色だ。何故にWhy? 訝しげにアーチャーも少女の瞳を見つめる。

「とにかく、アナタが私のサーヴァントってのは間違いないんでしょう?」

「ん? ああ、君から私に魔力が供給されているからな。確認してみたらどうかね? 先程はああは言ったが、君から供給される魔力の量は一流だぞ。ケタ違いの魔術師らしいな君は」

「ありがとう、お世辞でもうれしいわ。ラインは繋がっているんだし……ねえアーチャー」

「何だ」

「ベッドに行くわよ」

「…………は?」

「は? じゃないわよ。何耳も遠いの?」

「いや、そんなことは無いが。君は自分が何を言っているのか分かっているのか? 若い身空でそんな、少しは慎みというものをだね」

 あたふたとアーチャーはまるで愛娘の思わぬ一言に狼狽する過保護な父親みたいに慌てだす。見ていて面白い位、ボディーランゲージも交えて少女に説教を始めようとする。

「ジジくさいわねえ。あのねえ男と女がベッドですることなんてひとつっきりでしょうが。過去も未来も今もおんなじだと思うけど。言っとくけど、ラインの補強も兼ねているし、ひょっとすればマスターとの肉体的・精神的接触で何か思い出すかもしれないでしょう?  そうじゃなくても魔力の補給になるんだから二利はあっても一害無しよ。第一って言っても貴方の生きた時代のことは分からないけど、魔術師にとって欲望を制御し、理性をいかなる場合においても保つようにする、なんてのは常識中の常識。性欲のコントロールを含めた性魔術なんて基礎中の基礎なのよ」

「……」

 アーチャーは何か違和感を覚えつつ愕然としている。顔には出さないが。思い出せぬ記憶の中で確かに拭えぬ違和感が疼く。しかしまあ、大胆なことを言う少女だ。そんなアーチャーに少女は矢継ぎ早にまくし立ててゆく。ふうん、と一つ漏らしてズイっと顔を近づけて甘く囁いた。

「それともなあに? アーチャーは女の扱いも知らないネンネなのかしら? ふふ」

「ッ、さすがにそれは無いな。マスター」

 悪戯っぽく微笑を湛えて囁く少女の様子は、まるで手管に長けた娼婦のように、魔性の魅力を秘めた妖婦のように危険な毒の花。一言紡ぐたび、吸い付きたくなるような色鮮やかな唇からは、脳髄に染み込んで侵す吐息が、ギリギリの駆け引きを楽しむ危険な遊戯のように零れて、アーチャーの鼻孔から忍び寄って肺を甘く侵してゆく。
 アーチャーは鉄のように固めた精神の下で疼くオスの本能を御していた。

「……まあ良いわ、あんまり乗り気じゃないみたいだし。……私もまだその……ほ、他に何か言いたい事ある? 今度は私が質問に答えてあげる」

「あ、ああそれなら……そうだな。では先程の銃撃について納得のいく説明を要求するマスター」

 ほっと心の中で胸を撫で下ろしたアーチャーがさっきの理不尽な戦闘についての説明を求めた。正直なところ、動揺を鎮めるための時間稼ぎも兼ねている。

「ん~あれの事? ひょっとしたら妖物がどこかから侵入したのかもしれないし、あるいは何かの憑依霊にあなたが憑かれていたかもしれないじゃない? あるいはカメレオンウェアを着込んで入ってきた強盗や犯罪者かもしれない、と判断したの。一応侵入者用の撃退用のトラップや警報システムは用意してあるけど、それを突破してきた可能性もあるしね。で、ああして射ちまくったってわけ」

「なんとも無茶な。それで私が君のサーヴァントで、傷の一つも負っていたらどうするつもりだったのかね? まあ結果からすれば私は君のサーヴァントで、こうして無事なわけだが。それにしても死人が出たら警察沙汰だぞ。いや出なくてもだ。確認の一つ位したらどうだね」

「まずサーヴァントだけど、いらないわ。そんな、人間に傷を与えられるような弱いサーヴァントなんて。私が欲しいのはこの聖杯戦争を勝ち抜ける力を持ったサーヴァントよ。次に警察云々だけど、別に射殺されたって犯罪者に人権なんかないわ。警察に状況を説明して、それが実証されたそれでおしまいよ。まあ、死なないように手当てをしてふん縛るくらいはするつもりだったけど」

「犯罪者に人権はない、か。随分と荒んだ言葉だな、マスター」

「何言ってるのよ。私なんかまだ優しい方よ。“凍らせ屋”なんか犯罪者は逮捕じゃなくて退治だって公言しているくらいだし。まあ、あなたはここ出身ってわけでもないだろうし、第一サーヴァントだものね。おかしいと思ってもおかしくないわ」

 よっ、と言って瓦礫に腰掛けて、少女はふうと息を抜いた。長い説明に少し疲れたのだ。アーチャーか“この街”という言い方に引っ掛るものを感じて訝しげに眉を寄せる。わけの分からないことが多すぎる。

「この街?」

「そ、この世の全ての悪徳と罪悪を集めた街。現代に蘇ったソドムとゴモラ。四番目に生まれた魔界都市。“魔界都市<新宿>”よ」

「……<新宿>?」

 その言葉は<世界>の眷属たる彼には禁忌として刻まれる言葉。無闇に手を触れたてならぬ巨悪の街、破滅の街。ばかな、と心のどこかで否定する声が聞えた。表情に出ていたのだろう、少女が心配そうに覗き込んできた。

「やっぱり知らない? それともどこか調子が悪いの?」

「いや……」

「ふうん、色々ありそうねえ? ま、コレくらいで良いかしら。ふう、なんか体がだるいのよね」

「サーヴァントを召喚したんだ。かなりの量の魔力を消耗したのだろう。無理をせずに休みたまえ」

「……そうね。じゃあアーチャー。マスターとして最初の命令を下すわ」

「ほう。この状況でどんな命令を与えてくれるのかな? マイマスター」

 にっこりと少女は微笑んだ。この笑みを見るために、なんでもする、そう言う男共がいてもなんら不思議ではない。それほどに美しく、水晶細工の様に可憐な笑み。ほうっとアーチャーでさえ見とれた。

「ここ、片付けておいてね?」

「は? ちょ、ちょっと待ちたまえ。君はサーヴァントを何だと思っているのかね」

「なあに? 令呪でも使って欲しいの? 私としてはこんなつまらないことで使いたくはないのよね。いざという時の切り札にもなるんでしょう、令呪は。賢いサーヴァントならそれ位理解してくれるわよね? それに私だってなにもしないわけじゃないのよ。
 貴方が多穴開けてくれた天井とこの屋敷の結界の修繕をしなきゃいけないんだから。放っておいたら、風喰らいや肉食の雀やら鴉やら何十単位で襲い掛かってくるわよ。対空機銃や高射砲やや火炎放射機で迎撃するのはいまいち効率悪いしね」

 なにやらやたらと物騒な単語が聞こえてくるが、つとめて聞こえないふりをして、別の重要な単語に意識を集中した。
 『令呪』。マスターが有するサーヴァントに対する絶対命令権。はるかに劣る人がサーヴァントを使役するための、『枷』だ。コレがあるからこそ高潔な英雄が多いであろうサーヴァントがマスターに従っている例も少なくあるまい。少女の場合は左手の甲に、幾何学的な模様に神秘的なニュアンスを混ぜたような模様として浮かび上がっている。
 令呪を盾にニコニコ、ニコニコと少女は微笑む。ああ、このアクマめ。

「クッ、了解した。地獄に落ちろマスター」

「何言ってるのよ。魔術師なんて地獄に落ちるのが当たり前の外道の人種どもなのよ? 言われなくても私は地獄に落ちるわ。ましてやここは」

―――<新宿>なのよ―――
 
 年齢にはそぐわぬ、微笑み一つで男の運命をいくらでも弄べる希代の妖女の如く艶然と少女は呟き、妖しい微笑みと共にアーチャーを置いて部屋を出て行った。アーチャーはそんな少女の背をただ見つめるきり。
 青年の姿をこそしているが、幾百年の生きて疲れ切った老人の様な眼をしていたが、今は、不意にコケティッシュな魅力を振りまいて行った己の主へのなんともいえぬ感情の色が浮かんでいた。きっとこれからいろいろと苦労させられるのだろうな、と確信していたのかもしれない。

「…………」 

 翌朝。

「う~~」

 いつもの低血圧と言うか朝に弱い自分に悩まされながら少女は目を覚ました。ベッドの傍らの目覚まし時計を見ると、鉛が変わったような溜息を吐き吐きしつつ、

「完璧遅刻ね。……決めた。今日は自主休学よ」

 よいしょっとベッドから降りて身支度を整えて昨日のあの居間に行く。

「へえ」

 零れる感嘆の吐息も仕方ないだろう。屋根に大穴が空き、漆喰は壊れて一部の構造材がむき出しになっていた居間は、完璧と言って良い位に修復されている。置時計やテーブル、椅子、インテリアの位置も記憶とさして違いはない。
別の意味で有能なサーヴァントを手に入れたらしい。いやサーヴァントを使い魔・奴隷と翻訳するなら、正にその通りの仕事ぶりか。

「ようやく起きたか。ひどい顔をしているぞ。ふむ、流石に本調子とはいかないようだな。紅茶でもどうだね? それなりに味は悪くないと思うぞ」

 暖めておいたカップに紅茶を注ぐ、赤い長身の男が出迎えてくれましたとさ。何か、何かが間違ってない? 聖杯戦争って、もっとこう……と思いつつ溜息をこらえて少女が椅子に優雅に座ってカップを受け取る。憂愁な雰囲気を纏った朝の一時。絵にはなるが当人の気分はさしてよろしく無い。

「美味しい」

 自然と頬から余分な力が抜けて、少女の表情がほころぶ。美味しいものは人の心を和ませる。アーチャーもほんの少し満足げな色を浮かべている。執事属性か家政夫属性でも持っているのだろうか? 勘ぐりすぎだろうか。

「ご馳走様、美味しかったわ。ああそれと遅くなったけど、おはよう」

「ん、おはよう」

 挨拶を欠かさないように躾は行き届いているらしい、と場違いな感想をアーチャーは抱いていた。

「そういえばマスター。この家の時計は一時間進んでいたが、何か特別な意味でもあるのかね? 勝手だが不便だろうから、直しておいたぞ。いやなかなかの労働だった」

 仕事を終えた後の良い顔をしたアーチャーがそう告げると、何故かがくっとうなだれるマスターの様子にんん? とアーチャーが眉を寄せる。してはいけない類の質問だったのだろうか。

「……自分が嫌になるわね、前から分かってはいたのに……はあ、一応ありがとう。それはそれとして、あのねアーチャー。わたしは貴方を茶坊主に雇った覚えは無いの。でもお茶は美味しかったわよ? また淹れてね。……で、わたしが求めているのは戦力としての使い魔よ」

「そうか。だがしてはいけないという事ではないのだろう? なに、ちゃんと己の本分は果たすさ」

なんだか自信ありげなアーチャーであった。不遜とも取れるその様子に、頼りになりそうねと少女は心中で評価する。

「それより貴方、自分の正体は思い出せた?」

「いや」

 そう、と答えて美貌に影を這わす様子に、アーチャーは心持ち申し訳なさそうにするが、うなだれた少女は、アーチャーの表情を見逃していた。

「あなたの記憶はおいおい対策を考えるとして(いざとなったらトンブさんに脳みそでもいじらせるしかないわね)、アーチャー。召喚されたばかりで勝手が分からないでしょ? 街を案内してあげるから、するような支度は何かある?」

「出かける支度? そうだな霊体化すればすぐ出られるが。霊体化について知識はあるかな?」

「ん~~確か、魔力の供給をマスターとサーヴァントのどちらかがカットして、サーヴァントを観測不能にすることよね。そのマスターとサーヴァント同士なら知覚出来るそうだけど。一応“遠坂”の家は聖杯御三家だからそれ位の知識ならあるわよ」

「なら結構」

「それじゃあ私は準備してくるから玄関で待っててちょうだい」

「ふむ。それは良いのだが……まだ気が付かないのかな? 私と君はまだ契約を終えてはいないぞ。契約において最も重要な交換をな」

 え、と不意を着かれた形で少女が動きを止めてアーチャーを振り返った。契約? まだ何かあったかしら? う~んと思い悩む様子にアーチャーはやれやれと肩をすくませる。

「……君は朝に弱いのだな、本当に」

「――あ。しまった、名前」

「ようやく目が覚めたか。それでマスター、君の名前は? これからはなんと呼べばいいのかな?」

 マスターとサーヴァントの関係は使い魔と主従、しかも期限限定だ。それでもマスターの名前を知っておきたいと、アーチャーは言っているのだ。少女は嬉しそうな顔をしたと思ったら急に仏頂面になり、ぶっきら棒に――照れ隠しだろう――こう言った。

「私、遠坂凛よ。貴方の好きなように呼んでいいわ」

 少女=凛の名前を聞くと、アーチャーは何か噛み締めるようにその名前を聞き、こうのたまった。

「それでは凛、と。……ああ、この響きは実に君に似合っている」

(て、天然なのかしら? だったらタチの悪いジゴロだわ)

 頬が熱くなるのを感じて凛は、本人には言えないような感想を抱く。で、その元凶は顔を赤くした凛を不思議そうに見て

「凛、どうした? 何やら顔が赤いが」

「な、なんでもないわよ。私は用意してくるから、それでも読んでから、玄関でおとなしく待ってなさい!」

「? 了解した」

 区発行の<新宿>ガイドマップを投げ渡し、それから地下の一室に篭るため、急ぎ足で居間を後にした。地下室でウェポン・ラックを壁から引き出して、数百丁の武装の中からいくつかをチョイスする。その作業の中、凛は

「何よ。サーヴァントってもっと威厳に満ちているって言うか、近寄りがたいものかと思ってたけど、ずいぶん違うのね。……まあ悪い奴じゃ無さそうだけど」

 と口調とは裏腹にうれしそうに重火器を弄繰り回していた。ファッション雑誌の表紙を飾ってもなんらおかしくない美少女が笑顔を浮かべながら、ガンオイルに輝く銃器を引っ張り出している様子は、シュールな絵づらだった。
 二十分後、凛の姿を見たアーチャーの感想はこうだった。

「君は戦争でもするつもりかね?」

 凛は昨日の赤いセーターとミニスカート、ニーソックスは変らないが、その上に血で染めた様な赤いコートを着ていた。防弾防刃は勿論、呪術よけのおまじないを施した特別な繊維で仕立ててもらった逸品だ。
 愛用のシグ・ザウエルP226とベレッタM92FSは脇につるしたホルスターに収め、腰には戦闘用のベルトを締めて後ろ側に箱状に降り畳める個人携帯機関銃PSMGをくくりつけ、両腰にはコルト・ガバメント四五口径と拳銃型の火炎放射器。
 腰の戦闘用ベルトに括った二つのパウチの片方には溶解粉入りのカプセル百錠入り二瓶、チューブ入りのプラスチック爆弾二百グラムと信管を十本、リモコンは二つ。もう片方には予備のマガジンと<新宿区民>なら誰でも持っている救急医療セット。
 コートの右内側には銃身を切り詰めたショットガンを万能テープで貼り付けて、反対側には9番ゲージの弾をパックに入れてはっつけてある。コートの袖には厚さ二センチの特殊鋼も切り裂く、長さ八センチ、幅一センチ、厚さ三ミリの柳葉状のナイフを十本ずつ仕込んである。
 手首をちょっとしたコツでひねればたちまち滑り落ち、凛の手腕があれば飛んでいる蠅も百メートルの彼方から狙い落とせる。
 所々でコートが膨らんでいるのは、小指サイズの人体用手榴弾や、米軍主力戦車のエイブラムスも一発で破壊する高性能炸薬満載の手榴弾でも入れているに違いない。
 また首には先日見つけた膨大な魔力が込められた宝石を使ったペンダントと、妖物除けのタリスマンをさげている。肩に提げている合成牛革のバッグにも<新宿>の魔虫用の殺虫スプレー(人間にも有効)、パルスレーザーガン、赤ん坊の二の腕位のハンドバズーカやら、物騒な代物でいっぱいだ。
 加えて凛自身が優れた魔術師である事を加味すればこれらの武装を全て失ったとしても、人間の百人や二百人虐殺する手管くらいは持っているに違いない。
 上記したコートもそうだがセーターの下には五〇口径弾の直撃もかるく弾き返す厚さ0.01ミリの金属装甲箔を張り付けたシャツを着こんでいるし――動きを阻害する事はない――、セーターの方も摂氏六〇〇〇度まで熱は一切通さないし、達人が振るった日本刀の刃も押し留める耐刃性・衝撃吸収能力もある。
 これでも完璧な防備とはいえないが、ま、単なる街の案内ならこの程度の装備でも大丈夫だろうと、凛は判断した様である。
 <新宿>の外で凛と出くわした生物は人間こそ世界最強の生命だと実感するだろう。命を引き換えにして。

「まあちょっと大仰な装備だけどね。命には代えられないでしょう? それに今日は最後にちょっと一仕事する予定だし。ホントのとこ、対戦車ライフルとかアンチマテリアルライフルでも持っていこうと思ったんだけどね」

「た、対戦車ライフル? しかしだね、そもそも人の目と言う奴があるだろう」

「平気よ。ちゃんと許可は取ってあるし」

 何でもないわよ、という凛の言い方に、アーチャーは頭を抱えた。このサーヴァントどうにも現代風に常識的というか理屈っぽいと言うか。<新宿>のことを知らないからでしょうね、と凛は結論付けた。ちなみに<新宿>では簡単な手続きで一般市民も拳銃を初めとする銃火器を所持できる。そうしなければ生きることさえ難しいからだ。
 198X年、9月13日午前3時に新宿区のみを襲った“魔震”が産み出した<新宿>には、崩壊した市ヶ谷の遺伝子研究所から脱走したサンプルたちから生まれたおぞましい遺伝子合成獣たちや、夥しい死霊に、世界中から集った悪鬼の如き犯罪者達、外道の魔術の徒たちがたむろし、そこにあるのは善か悪かではなく、敵か味方か、生か死かの論理なのだ。

「さ、行くわよ」

「……フルアーマー・リン」

「何か言った?」

「いや、なんでもない。少し電波を受信しただけだ。さあ街案内をよろしく頼むぞ、凛」

「はいはい。にしても意外と今風の常識を持ってるのね、アーチャー」

 凛の住んでいる洋館は、完全倒壊し、一大農耕地帯へと区が変えた喜久井町に、奇跡的に無事残った土地に建てられている。
 時は二月、<新宿>の冬だった。とりあえずはガイドマップを参考に、高田馬場魔法街や歌舞伎町、西新宿、河和田町、下落合、左門町などをはじめ、京王プラザホテル、旧区役所跡に建つメフィスト病院、風林会館や伝説の念法VS水鬼の戦いが行われたBIG・BOXに、新宿駅跡を巡る。
 特に凛が注意したのは、<最高危険地帯>――モースト・デンジャラス・ゾーン、通称MDZだ。新宿中央公園、旧フジテレビ跡、新宿御苑の三箇所である。いずれもが、近代装備に身を固めた軍隊の一個中隊程度では虚しく妖物と魔性の餌食になるしかない場所で、これまで何百、何千という人間とそれ以外の生命を食らってきた。

「凛。君がその格好を気にしなかった理由が今ならよくわかる」

「理解が早くて助かるわ」

 それもそうだろう。コレまでの道程でアーチャーが目撃した連中ときたら、肩からガトリング砲やミサイルポッドを生やしたサイボーグだの、蛇やトカゲとの混合人間だの、六本腕や八つ目の人間だの、とんでもない連中ばかりだからだ。一応まともな人間もいたが観光客らしいの以外は周りの異形連中を気にもせずに通りを歩いている始末だ。
 人妖混合。伝説の中の人と妖との交わりはこの街では、今行われている現実であり、サイボーグやブーステッドマンなどのSF染みたオーバーテクノロジーも、この街の今の現実だった。
 アーチャーの疲れたような雰囲気を感じていた凛が足を止めて、ある公園に注意を向けた。

「この公園が前回の聖杯戦争の終結の場所よ。そして十年前の大火災の中心地。分かる?」

「ああ、それでこれだけ怨念に満ちているという訳か。サーヴァントというのは霊体だ。その在り方は怨念、妄執に近い。故に同じ“怨念”には敏感でね。この街はどこもかしこも呪われたような土地だが、ここはそれでも尚怨念が強い。私見だが固有結界のそれに近いな」
 
“固有結界 リアリティ・ノーブル”
 
 通常の結界を元からある土地や建物に手を加え、外敵から身を守るモノとするなら、固有結界は魔術師の心象風景が現実そのものを侵食して結界を構成し、既存の世界を塗り潰し、陵辱し、侵食し、新たな世界を作り出すもの。
 魔法に近い魔術。ある種、魔術師の最秘奥にして禁忌の魔術。決して魔法ではないが、限りなく魔法に近い矛盾を孕む魔術。何故それを、弓兵たるアーチャーが知るのか?

(アーチャーとして召喚したわけだけど、それ以外のクラスに適性がないってわけじゃないものね。ひょっとしたら既に召喚された別のクラスだったかも知れないわけだし)

 と凛は感心して、

「アーチャー、あなた魔術にも心得があるのね。ちょっとは思い出したのかしら?」

「フッ、揚げ足を取られたかな。目端の利くことだ。ま、少しはな。だが君の期待に応えるほどではないよ」

「そう。……ここの公園ね、色々な宗派の高位の僧や神父や牧師が浄化しようとしたのだけど、<新宿>の妖気と混ざり合い、パワーアップした怨念の前に白骨にされてしまったの。それ以来ほっとかれているわ。今じゃここは<第二級危険地帯>、セカンド・デンジャラス・ゾーンよ」

 それだけ言うと、凛は背を向けてアーチャーを促した。何かの思い入れでもあるのか、振り切るような背の向け方だった。



「アーチャー。私考えたんだけれど、一度あなたの実力を確認しておくことが必要だと思うの。客観的に考えて、戦力を把握しておくことは大切だわ」

「一理あるな。その意見には賛成だ。ああ、だが凛」

「何?」

「この身は君に召喚されたサーヴァントだ。それが最強でないはずが無かろう? よって君と私が組む以上、いかなる相手だろうと我らに敗北の二文字を刻むことは出来ない」

「アーチャー……」

 信頼を込めた視線と、面映いような褒め言葉に、ちょっと凛が感動していた。何でこう、言われた方が恥ずかしくなるようなことを真顔で言うのだろう。この赤服は。
 まあ、そんな光景も凛が、廃墟の影から飛び出てきた体長1メートルを超える肉食の大ねずみ四匹を、見もせずに二十分の一秒で抜き放った、シグの銃弾十二発(一匹きっかり三発)で息の根を止めていては、やや感動も盛り下がると言うものだった。

「かっこいい事言うじゃない。ならそれを証明して見せてよね」

「で、そのための場所がここなのかね?」

「そ、<第三級危険地帯>。適当に妖物を片付けてちょうだい。出かけるときに一仕事、そう言ったでしょ? ココの事よ。区からここに住んでる妖物を駆除すれば報奨金が出るの。百五十万位だけどね。・・・・・・ちょっとうざいわね」

 ゴソッと凛がコートの内側に手をやって、キイキイと鳴いてこちらを見ていた妖物に、手榴弾を投げつけた。きっかり三秒待ってから投げた手榴弾はジャストのタイミングで爆発し、妖物を破壊する。
 手馴れた凛の様子に、実体化し、飛んで来る四散した妖物の肉片を片手で避けながら、アーチャーが軽く絶句していた。アーチャーの心凛知らず。

「じゃ、行きましょうか」

「……ああ」
 
 心なしか、寂しげなアーチャーを引き連れて、凛は余丁町の外れにある五階建てのビルの廃墟へと足を踏み入れた。

「ここは魔震の影響で発生した妖気の溜まり場の一つでね、すぐにここに入っていた会社とかは引き払ったの。ちょうと第二次復興計画とかと時期が重なったんだけど、区や区外の連中はここみたいな小規模なところより、中央公園みたいな大きな所を優先したから、今も放置されているってわけ」

 そう言いながら先頭に立つ凛は、両手に持ったシグとベレッタで、顔を出す妖物を容赦なく射殺していく。もう深夜の時刻だが、明かりのないこの暗がりの中を、まるで昼のように見渡しているのは、簡単な手術か訓練でもしているのだろう。魔術を使った様子は無い。

「なるほどな。ところで凛。私の株がさっきから君に奪われっぱなしなのだが?」

 マガジンウェルから、空っぽになったマガジンを新しいものと取り替えながら、凛は階段の先を顎で示した。アーチャーの出番はこの先らしい。ジャキン、とチェンバーに新たなマガジンから一発弾丸を叩き込む音が響いた。
 コツンと足音をひとつ立てて足を踏み入れると、ソコには赤い瞳を飢えに満たして輝かせる妖物達が待ち受けていた。数は二十かそこらだろう。唸り声には憎悪が物質化寸前の濃度で込められている。

「さあ、アーチャー。叩いたビッグマウスの責任を取ってちょうだい。相手は<新宿区民>よ。痛い目を見ないようにね」

「クッ、いいだろうマスター。君こそ、その口が開いて塞がらない、等という事の無いよう気を付けろ」
 
 とはいえ、こちらが勝手に向こうの縄張りに足を踏み入れ、しかも目的が金銭の為に、とあってはいささかアーチャーも気乗りはしない様子であった。すくなくとも、手前勝手な事情で無為に血を流す事を好むようなタイプではないということだろう。
 そんなアーチャーの心情を匂わせる背中を見ていた凛が、苦笑とも失笑とも取れる笑みを浮かべて、

「アーチャー、いい事を教えてあげるわ」

「なにかね?」

「この付近でね、大体二か月くらい前から失踪事件が相次いでいたの。もとから日常茶飯事で起きている様な街だけど、大体週に一、二度のペースで、一度に平均6、7人が行方不明になっていった。警察ももちろん動いたのだけれど、事件の犯人を暴いたのは奥さんが事件に巻き込まれたモグリの占い師だったわ。」

 凛の言わんとしている事に気づき、アーチャーの眦がかすかに痙攣するように動く。話の続きを求めたアーチャーの声音は岩の様に固く凛の耳に聞こえた。

「それで、その犯人がここを住み家にする妖物、という事かね?」

「その通りよ」

 凛の答えを保証する様に、闇の彼方から赤く汚れた白いものがアーチャーの足元に放られた。からからと音をたてて、転がりながらアーチャーの足にぶつかりようやく止まる。
 それは、あまりにも小さな人間の頭蓋骨であった。生まれたての赤ん坊のものよりも小さい頭蓋骨の脳天に丸い小さな穴がいくつも穿たれている。
 アーチャーは静かにその頭蓋骨のがらんどうの瞳を見下ろしていた。

「占い師の奥さん、妊娠していたそうよ。初めての子供だったらしいわ」

「……そうか」

 冷たい凛の声に、さらに冷たく硬いアーチャーの声が重なり廃墟の中に木霊する。凝、と闇の静寂が凍りついた。アーチャーの総身から吹き出し始めた目に見えざる気配の所業であった。アーチャーの瞳に残っていた躊躇いは、すでに消え去っている。
 ジャリ、という音だけを置き土産に、アーチャーの姿が白を交えた赤い旋風に変わり、妖物の真っ只中に突っ込む。その両手には、黒白の剣が一振りずつ、何時の間にか握られている。

(あれがアーチャーの宝具? てか、アーチャーなのに剣が武器なの?)

 アーチャーの剣は、中央に陰陽マークの入った黒白の違いこそあるものの、全く同じ様式の剣だ。強いて言えば中華風か? なだらかな曲線を描く刃は、まるで優雅な鳥の翼のように、見るものを魅了する美しさを持っていた。
 飛び込んだアーチャー目掛けて、暗がりから妖物たちが群がる。妖物の正体は双頭犬。<新宿>に住む悪鬼の一種だ。大型犬を上回る体躯に、高い知能、強靭な生命と、特殊鋼なみの爪と牙を併せ持つ。何よりも、その性情が獰猛・残虐だ。
 踊りかかった二頭の双頭犬の首、計四つを、白と黒の剣光が弧を描いて薙いだ。切られた側はそのことに気付いたかどうか。あまりにあっけない、しかし鋭い斬閃の仕業であった。
 あっという間に二頭を仕留めたアーチャーが、更に双頭犬たちへと駆け出す。一見無謀に見えてその実、アーチャーの位置は最も双頭犬からの攻撃が少なく、逆にこちらからは動きを把握しやすいポジションだ。
 最高のタイミングで、最適な動作で、最強の一撃を、最短の動きで。次々とアーチャーはそれらを行い、双頭犬たちを翻弄してゆく。黒と白の双剣が、常によどみなく動き、優雅なダンスのようにその刀身を、忍び込む月光に煌めかせる。それは命が最後に放つ輝きであったろうか。
 凛はアーチャーの剣技に見惚れていた。
 階段の脇で、アーチャーの戦闘を見惚れるように見ている凛に、足音を忍ばせた双頭犬三頭が近付く。二メートルの距離は彼らにとって無いに等しい。獲物の片方の味に、彼らは期待を募らせる。身になるのは男だが、味は女の方が上手い事を、彼らはこれまで体験から知り尽くしていた。ポタリ、と滴った涎が床を叩くと同時に跳躍!
 十二の瞳は、獲物が自分たちに背を向けたまま、腕だけ回し、狙いをつけている二つの銃口を認識した。気付かれていた!? 驚愕は遅きに失した。散らばる金の薬莢、発砲の音は連続して重なり双頭犬達の頭部を次々と粉砕してゆく。
双頭犬たちは、並みの弾丸なら数十発の直撃にも耐えるタフネスだが、生憎と凛のシグとベレッタには高性能火薬を詰め込んだエクスプローディングブリット=炸裂弾が装填されている。
 着弾と同時に、体表と体内で炸裂し、双頭犬たちの強靭な筋肉と神経を破砕しつくした。
 跳躍の余韻で、自分の傍らに落ちた双頭犬たちの死骸にはさしたる興味もくれず、凛は呼気を整えた。何時までもアーチャーに任せていたら、あの皮肉屋に調子に乗られる。

「……同じ<新宿区民>同士、血で血を洗って、死肉の山を築き合おうじゃないの。アーチャー、<新宿区民>の怖さを私も教えてあげるわ」

 宣誓。誰に聞かせるでもない、遠坂凛が、遠坂凛に刻む誓い。いや、そんなたいしたものじゃあない。意地。そう、意地だ。誓いなんて気取った言葉よりも、泥臭いこっちの方が合っている。
 前方で四方八方から襲い来る双頭犬と渡り合っているアーチャー目掛け突進し、突き出した二挺の拳銃から殺戮の弾丸をばら撒く。足に腹に頭に喰らった双頭犬たちは、新たな苦痛を糧に憎悪を滾らせて凛をねめつける。喉の奥から零れる恫喝の唸り声は、それだけで大の大人の心臓を止めるような凶悪さを含んでいる。

「ハッ、そんなんでいちいちビビりゃしないわよ! こっちも<新宿区民>よ」

「余所見をする余裕があるのかね?」

 いとも容易く双頭犬たちを切り裂く双剣と技とを併せ持ったアーチャーが余裕さえたたえて、新たな犠牲を強要した。迫る双頭犬の爪牙を風にたなびく柳のようにしなやかにいなし、振るわれる牙と爪とを反撃さえ加えて捌いてみせる。緩やかな風邪に潜む黒白の二刃。
 ボンっと音を立たせて双頭犬を一頭血祭りにあげ、走り寄った凛がアーチャーと背中を合わせる。

「何をしているのかな、凛? この場は私に任されたと思ったのだがね」

「あら、ごめんなさい。私もそうするつもりだったんだけど、どうやら私、見ているだけ、守られているだけの女じゃいられないみたいよ? 憶えておいてね」

「やれやれ、勇ましいマスターだ。それとも好戦的というべきか」

「褒め言葉として受け取っておくわ」

 それだけ言葉を交わし、互いの正面の敵に挑む。双頭犬の数はすでに十頭を切る。凛は左手のベレッタをホルスターに戻し、左腰のファイアースロワー、火炎放射器を手に取る。トリガーを引きっぱなしで三十秒間、三メートルの炎の舌が噴出する。飛び掛ってきた二頭に浴びせかけて火達磨にし、振るわれる他の双頭犬の前足をかいくぐって、右のシグを腰後ろのPSMGと取り替える。
 拳銃サイズのPSMGはグリップに叩き込んだ三十発入りのロング・ポール・マガジン、五・五六ミリ弾頭を毎分600発で射出する。きっかり二秒、二十発を掃射。双頭犬の逞しい肉体から無数の肉片と血の花が無数に咲き誇った。
次いで、空けた左手にコートの裾からナイフを取り出して、火達磨になっている双頭犬の四つの眉間に投擲する。ヒュっという音を立てて、九センチも突き刺さったナイフは、双頭犬を即死させた。魔術師の戦い方とはとても思えないが、遠坂凛は相当の戦闘能力の主らしかった。
 チラッと凛の様子を一瞥し、アーチャーは彼女に手助けは無用らしい、と判断。眼前の敵に集中する。右肘を基点にするようにして、夫婦剣干将・莫邪の陰剣・干将を一振り、いとも容易く双頭犬の首をふたつまとめて落とした。
 前後左から一斉に飛び掛ってきた牙と爪を右に飛んで回避する。尽きることのない負の感情に突き動かされた双頭犬たちの爪と牙は、一撃で人間なぞ血の詰まった肉塊に変えてしまう。中空にある姿勢から、夫婦剣の変わりに漆黒に塗りつぶされた弓を取り出し、魔の矢を番える。放たれる矢の速度は飛燕を落とし、彼方の的も児戯の如く落とすだろう。
 冬の夜気を切り裂いて走る矢は、紙くずのように双頭犬たちの命を散らしていった。今や獲物とは、双頭犬たちだった。
 最後の双頭犬の、首のちょうど真ん中の付け根に、翻したコ-トの中からショットガンを突きつけて、凛は別れの言葉を送った。その顔には艶めいた笑みさえ浮かんでいた。彼女は<新宿区民>なのだ。

「地獄があるならそこに行きなさい。<新宿>よりは暮らしやすいかもよ?」

 引き金を引く音、ドンッと言う音の後に、ドシャッという倒れる音が続く。

「なぜなら、まだ、私がいないからよ」

「・・・・・・絶殺少女☆ジェノサイド・リン」

 いかん、妙な電波に毒されている。アーチャーは冷や汗さえかきながら、こめかみをしきりに揉んだ。一方当の凛は、ショットガンを肩に担いで、一仕事終えた、といった感じだ。煙草でもくわえれば、さぞや男前の兵士が出来上がるだろう。

「・・・・・・凛、これでおしまいかね?」

「ええ、それにしてもあなたのおかげで手っ取り早くすんだわ。さすがね、叩いた大口は嘘じゃなかったわ」

「まあな。しかし何時もこんな事をしているのか?」

「別にいつもじゃないわよ。月に二、三回かしら。始めたのも二年くらい前からよ。小学生がレーザーガンや聖水を詰めた水鉄砲片手に、死霊狩りや霧魔狩りをするくらいだから、大したこっちゃないわ」

 むう、とアーチャーは唸る。実は記憶はほぼ思い出しているのだが、その記憶との相違点が多すぎる。アーチャーが関わった聖杯戦争は、そもそも舞台からして違う。予想外と予定外と想像外の出来事がいっぺんに襲って来ているようなものだ。

「さ、これで後は区役所に報告すれば百五十万よ。今日は豪華に行こうかしら」

 ふんふんと、凛は機嫌良さ気に鼻歌を歌い始めた。最後にアーチャーは心の中で溜息をついて、自分の知っている遠坂凛とは色々と違う、目の前にいる遠坂凛の後を追った。なんだかえらいことになりそうな予感がした。おまけに外れる気がまったくしない。どうなることやら、とアーチャーは珍しく思い悩んだ。

 そうして、<新宿>の夜はいつも通り、死と共に更けていった。


おわり。



[11325] その2 D × Fate
Name: スペ◆52188bce ID:dca38090
Date: 2009/08/31 22:39
 その2 血の聖餐杯


 その日、吹雪吹き荒ぶ、白い嵐の世界に古い歴史と青い血を受け継いできたアインツベルンと呼ばれる魔術師の一族が、魔術的闘争に際し呼び出したモノによって、召喚主たる少女と、少女に使える二人の従者を残して滅びた。
 見る者はただ雪と氷と骸ばかりの世界がかつてアインツベルンの城が聳えていた場所だと、誰に分かるだろうか。氷嵐の中にかろうじて開いた瞼に移るのは、分子レベルまで破砕された古城の瓦礫。そして、折り重なる白い雪のカーテンが朱に染まっている大地。一歩踏み知ればぐじゅぐじゅと音をたてて、雪がたっぷりと吸った血が溢れてくるだろう。
 肌を突き破るような強さで叩きつけてくる雪の世界の中に、赤い雪地の上にぽつんと浮かぶ二つの光球よ。煌々と、あるいは凝と輝いている。血の色に。心臓から送り出され血管を巡っている最中の血の様に鮮やかな、赤い瞳。その瞳の主こそが滅びを齎したモノであった。



 その日、男装の麗人と呼ぶに相応しい、見目麗しい女性魔術師が蒸気機関で動く巨大な自動車に乗った、六メートルもの槍を構えた身の丈三メートルに届く巨人を呼び出した。魔術師が呆気に囚われて普段ならあり得ぬ硬直に心と意を縛られていた時、ひっきりなしにエンジン部から延びる筒から蒸気を噴き零していた自動車のドアが開いた。
 ぎいい、と何百、何千年、出してはならぬモノを封じて来た錆ついた鉄扉が開くのにこそ相応しかろう音。ぎいい、ぎいい、とあるいはそれは扉の上げる断末魔のうめき声であったか。
 ああ、何と言う事であろう。開かれた扉の奥から吹き付けてくる気の凄まじさよ、冷たさよ、おぞましさよ。見る間に周囲の気温は妖気の主に怯えるがごとく下がり、相対する魔術師の体温は数度下がり、意識するよりも早く戦闘態勢を取ろうとしている。
 しかし、心は、否、六十兆を越す全細胞は自動車の主と戦えばそこには命以上のものを失う結果が待っていると慄いていた。そして、途方もなく大きく見える影がその自動車から降りてくるのを、ただ待つ事しかできなかった。



 その日、魔術師協会から派遣された魔術師が、自らが呼び出した巨大な甲冑に、その咽喉元を食い破られ、命を――魂を失った。瘧に罹った様に震える体を無視し、召喚主としての自らの地位を頼みに傲岸な態度をとったその魔術師の男は、ぐいと伸びた銀甲冑に覆われた腕に喉を潰され、恐怖と痛みに震える声を上げる間もなく、自らの喉を食い破る牙の感触、自らの体から失われてゆく血と熱、そして人間としての魂を失う事実に絶望の淵へと叩き伏された。
 じゅるじゅる、じゅるじゅる、という吸血の音が絶え、ゴミを捨てる様にホテルの床に放り出された魔術師はごとりと音を立てて転がった。まるでミイラか枯れ木のようにかさかさに乾いた死体の喉には、二つ横に並んだ穴が穿たれている。失血死したその死体がむくりと青白く変わった肌と壮絶なまでの妖気を伴って立ち上がったのは、甲冑の主が唇に付着した血をもったいなさげに舐めている時であった。



 その日、闇の中に数百、数千の命が蠢く暗い一室で、一人の少女が、枯れ木のような老人と少年とに見守られながら、あるものを呼び出した。数千かあるいは数万か、無数に蠢くおぞましい命が群れなす事で、空間を埋め尽くす堪え難い臭気が満ちていた。そこに身を置くだけで体の芯まで汚されるに違いない、人の踏み入って良い場所ではなかった。
 しかし、ああ、しかしと言わずにはおれまい。それがそこに姿を見せた時、世界は一変した。罪深き罪人を責め立てる地獄でさえ、かくもおぞましかろうかと怖気をおぼえずにはおれぬ世界を輝かせるその、圧倒的な存在感、息をする事さえ忘れてしまう威厳、見る者の目に焼き付いて離れぬ美貌よ。
 古代の英雄たちをモチーフに彫琢された石像に命が吹き込まれ、神話に謳われる気高さをそのままに備えたならば、このように人の姿を持ちながら人とは思えぬ存在感を放つに違いない。
 純金を直接頭皮に植えたのではと見間違うほどに輝きながら、ゆるやかに波打って肩へ背中へと流れおちる金髪。見事な逆三角形を描き鋭いナイフの先さえ通りそうにないほど厚く纏った筋肉の鎧。
 驚くほど分厚い胸板と女の胴ほどもありそうな逞しい両足を繋ぐ腰は上下のプロポーションと比べれば驚くほど締まっていたが、頼りなさなど誰が見てもかけらほどもない。逞しすぎる上下の肉体を支える腰の筋肉の量が見事に黄金律に当てはまり、見るものの心を奪う美しさを放つのだ。
 その場に居合わせた金髪の青年を呼び出した三人の人間は自分が大海に降り注ぐ一滴の雨粒の様に、卑小な存在だと心の底から思った。スケールが違う。ただそれだけの事であった。自分と相対する三人にわずかの関心も見せなかった青年が、不意に右手に携えていた剣を無造作に振り上げ、同じように振り下ろした。
 ぶお、と斬りつけられた者の体から噴水の様に噴き出す血飛沫を連想せずにはおれぬ一振りであった。無造作な一振りでこれならば、殺す気でこの青年が刃を振るった時、空間さえも苦痛に悶えながら斬られるのではあるまいか。
 いや、正しく空間は斬られた。見るがいい、青年の斬弧の後を追う様にしてぱっくりと開いた空間を。極彩色の世界が広がるその異空間へと飲み込まれている無数の小さな虫達を。空間を斬る。荒唐無稽なこの所業をいとも容易くなした青年は、無感動に呟いた。

「妖剣グレンキャリバー、一度抜けば血を啜らずには鞘には収まらぬ」

 啜るべき血を湛えた獲物は、青年の前にみっつあった。


 
 その日、冬木市と呼ばれる市街の中にある、とある家屋で、とある少女が、とある事をしていた。その少女がしでかしたとある失敗を理由に、鼓膜を揺するような落下音と激突音が生まれた。市外に木霊する屋敷の断末魔は凄まじい崩壊の音の波と化けて、近隣一体を蹂躙する。

「だぁっもう!!」

 天井に大穴が空いた部屋のドアを、野蛮の一言に尽きる気合と共に見事な前蹴りが蹴破った。蹴破った主がノシノシと部屋の中へと歩み行く。中は惨状と呼ぶに値した。高価なソファも品のよい調度品も、時を経た置時計も余す事無く埃を被り、倒れたり傾いたり支えあったりしている。天井に目を向ければ夜空をいとも簡単に覗ける。
 屋敷の主兼この惨状の一端を握る少女が恐る恐る部屋の中にある、見覚えのない、しかし知識としては知っているモノを見つめた。

「……馬車?」

 確かにどう見ても馬車なので遠坂凛はそう呟いた。遠坂凛、この屋敷の若き主人である。まだ高校二年生とこの日本という国においては人生の内、若さと青春を謳歌するとされる年代だ。
 胸元に白い十字と点が二つあるタートルネックの真っ赤なセーターに、丈の短い黒のミニスカート、黒のニーソックス、それに黒く艶やかな長い髪をこれまた黒いリボンで左右にまとめて垂らしている。
 高すぎず低すぎない身長に、体のラインは流麗、なだらかな線を示し華麗なシルエットを生み出している。二―ソックルスに包まれた脚線美、上と下の体を繋ぐ腰のくびれの美しさ、いずれも感嘆の息をもらさずにはおられぬ青春の美の結像であった。ではその顔を見るとしよう。
 卵を逆さにし、余分な尖りと丸みを払ったかのように整った輪郭、今は呆然と開かれた唇は男なら自分だけのものにしたいと願わずにいられぬあどけない無垢な色気をもっていた。迷う事無く引かれたラインのような鼻梁の上には翡翠細工を象嵌したかのような、凛という名に相応しい意志の強さが、輝きとなって現れる双眸がある。ただし今は困惑の色が強い。
 凛が我知らず、部屋を出ようと数歩後ろに引いた。冷気だ。天井に空いた大穴から忍び寄る夜の呼気とも言うべき冬の冷気ではない。いかなる灼熱の地でも体感温度が下がるような、超自然的な冷気が凛の肉体を、精神を打っている。
 ギイっと、蝶番の悲鳴を上げて馬車の扉がゆっくりと開き始めた。その軋むような音に、凛の心臓が大きく跳ね上がった。恐怖、とは本人にも分らない。青い四頭立ての馬車は、車体全体に施された装飾や彫刻の加えるランプに到るまでが贅を凝らした瞠目に値する代物だ。王侯貴族の文化華やかな時代でも、目にすることは叶うまい。その馬車の扉が今開く。
 馬車の中からステップを降り立ったのは青い影、とでも呼ぶべき姿だった。深い海のような青い色のマントが、首から下を覆っているのだ。首から上にあるのは、一度目にすれば二度と忘れることがないであろう美貌。青白い肌は病的と見えるのに、いやだからこそ許されぬ背徳の官能に、見たものは襲われるに違いない。したたり落ちる金髪と目の覚めるような碧眼。人の精神の奥深いところを見通すかのような瞳に、凛は吸い込まれるかのような感覚に襲われた。
 降り立った影が凛を認め、青白い肌の中でそこだけ特別に赤い唇が嫌に凛の目を引いた。紅の赤さではない。唇の内側を流れる血が一際赤いのか、それとも色素の問題か。美貌の魔青年は何故か、凛のセーターの胸元にある白い十字に顔を顰めた。

「君が私のマスター、とやらか? サーヴァントというらしいな今の私は。しかし……一度は朽ちたとはいえ人に使われる身になるとは、な。私はバイロン・バラージュ男爵だ。君の名前は?」

 先に自分の名前を名乗ってから相手の名前を聞く辺り、自分と共通する礼儀は持っているらしい、と凛は判断した。

「と、遠坂凛よ」

「リンが名か? たしか滅び去った極東の国がそういう名のつけ方だったな」

 むしろ穏やかなバラージュ男爵の問い方だというのに、凛は襲い来る震えと心縛る冷気に耐えなければならなかった。これは、この恐怖は何? 凛は自分自身も知らぬ恐怖の正体をずっと考え続けている。DNAに刻まれたかのような、原始的な恐怖。人の精神奥深くから来る恐怖は何だ? 赤い唇、青白い肌、その美貌、凛の様子に困ったようにバラージュ男爵が苦笑し、唇から覗いた鋭い歯――いや牙に、凛はバラージュ男爵の正体と恐怖の理由を知った。

「あ、貴方吸血鬼!?」

「“貴族”と呼んでくれたまえ」

 静かなバラージュ男爵の物言いに思わず凛が唾を飲んだ。目の前の自称“貴族”は理性的で、いきなり咽喉に食いつかれる様な事はなさそうだが如何せん身に纏う冷気、魂のレベルから緊縛する鬼気、神秘的とすら言える美貌さえもどこか恐ろしいものと写る。

「“貴族”って死徒か真祖? そんな馬鹿な、サーヴァントはあくまで人かそれに類する半人じゃあ」

「さて、私にも分りかねるな。それと私は死徒や真祖とかいう吸血種とは違う。“神祖”を頂点に頂く吸血鬼“貴族”の末席に名を連ねている。“貴族”とは地球創世記に始祖を置く、人間よりもはるかに古い種族だ。また私が生まれ死んだのは今より遥かに未来だ。そこでは吸血種とはすなわち“貴族”のみを言った」

「……未来って、どれ位?」

 はあ? と顔に書きながら聞いてくる凛に、バラージュが薄く笑みを浮かべた。微苦笑に近い唇の動きであったが、気品漂うその仕草にそこはかとなく付きまとう恐怖に、凛はぎゅっと手を握った。

「今は西暦、だったか。何年かね?」

「200X年よ」

「ではざっと一万年ほど未来だ」

「…………マジで?」

「貴族の名に誓って」

 嘘、と顔で言う凛に、面白そうにしながらバラージュ男爵が釘を刺した。笑いを隠してはいるがいたって真面目である。恐怖を抜きにこれまでの様子を総合すれば、このバラージュ男爵と名乗る貴族は無闇に人に危害を加えるようなことは無さそうだ。バラージュ男爵が異例なのか貴族のすべてがそうなのかは、凛には分らない。
 凛もバラージュ男爵の話を総合して、理路整然と思考をまとめようと努力する。

・ バラージュ男爵は死徒や真祖とは違う吸血鬼、“貴族”である
・ バラージュ男爵の生きていたのは今から一万年は未来らしい
・ 未来では死徒や真祖は存在しないらしい
・ サーヴァントとして呼ばれた理由は謎である
・ クラスはアーチャー

「ん? ねえ男爵。一応あなたは私のサーヴァントなのよね。あっ令呪はあるわね。ラインは確認できる?」

「うん? 確かに君との間にライン……魔力かな? が繋がっているな。リン、君がマスターなのは確かだ」

「そう、だったら何の問題もないってもんよ。セイバーじゃ無いっていう以前にそもそも人間じゃなくて吸血鬼――あぁ貴族ね、だったりはしたけど聖杯戦争に参加するのに問題はないもの。だったら勝利に向かって突き進むのみよ」
 
 それまでの怯えはどこへやら、聖杯戦争に勝つ! この一点に向かって凛の思考は突き進んでいた。ほう、とバラージュ男爵が心中で軽く感嘆した。大なり小なり自棄くその成分を含んでいるのが聞き取れたが、ま、それもまた愉快としておこう。
 貴族を前にした者としては彼の生きた時代の人間ではまずありえない反応だったから多少贔屓目もあるかもしれない。それに、凛の反応は時代や世界が違うと言う事以前に、この少女の生来生まれ持った強さや心の気高さに依るもののようにおもえる。

「勇ましいことだ。だが、とりあえず」

「?」

「この部屋を片付けるとしよう」

「……そうね」

 凛は改めて部屋の惨状を確認し、溜息をついた。いかにも貴人といった風体に半端な貴族など田舎者にしか見えなくなる気品あふれる挙措の数々。バラージュは掃除の片付けなんか絶対にした事はないだろう。生まれた時から周囲の者が膝下にかしづき、どんな自分の命令にも従う事に慣れた貴い血筋の者特有の雰囲気と、傲岸さが見える。

「では、一つ手品をお見せしよう」

 バラージュが悪戯っぽく両手を打ち合わせるや青白い薄靄が部屋のあちこちに輝きはじめ、凛が魔術の気配が何もなかった事に驚く間もあらばこそ、あっというまに人間の形をとってゆく。
 凛とさして年の頃の変わらぬ青年や女性達に、筆頭格としてか立派な白いひげをもった壮年の執事の姿であった。頭のてっぺんから爪先に至るまで、誰が見ても文句の一つも出ぬ使用人が十名誕生した。その様に目を丸くしている凛に対して、バラージュが簡単な説明を始める。

「部屋に漂うイオンや分子、電子などで構成した使用人達だよ。貴族文明の持つ科学によるものだ。魔術ではない」

「貴方って良い性格しているのね」

 てきぱきと老齢の執事長の指示のもと、片付けを始める人造使用人たちを見ながら、凛はなんかこのサーヴァントとは相性悪いなあ、としみじみ溜息を零していた。
 翌日を、バラージュ男爵の事即ち貴族についての説明と、冬木市の地理についての探索に費やした。

「ニンニクがダメで十字がダメで日光が天敵。んで確実に止めを刺すには心臓を木の杭で突き刺す、金属の杭はほとんど無効か。まんまブラム・ストーカーの吸血鬼じゃないのよ」

「ブラム某のことは知らぬが、それが貴族という種の生態だよ。無論個々に差はあるし太陽の下を歩む貴族も極めて稀にだが存在する。私は比較的耐性の強い方だが、正直君の胸元の白い十字でさえ直視するのは辛い」

「それはちょっと厳しいわね。クロスをあしらったアクセサリーやファッションなんて馬鹿みたいに氾濫しているし、貴方の正体が吸血鬼だって勘付かれない事を念頭に置きながら戦わないとね。ていうか、まあ、男爵の容姿と雰囲気からすぐに吸血鬼を連想しそうだけど。ていうか、私もそうだったし」

「そうなるかな」

「また他人事みたいに言わないでよ、貴方と私の生命が掛かっているのよ」

 首を落とされても八つ裂きにされても復活する不死身性を持つが故か、どうにもバラージュの方に危機感が足りないように凛には感じられるようだ。さらに翌日、つまりバラージュ男爵召喚から二日後、学校に行くと言った凛を多少驚きながらもバラージュ男爵は止めなかった。代わりに霊体化して護衛に付きはしたが。
 本来日の光というのは、如何なる大貴族であろうとも如何ともしたがい天敵らしいのだが、霊体化していればその限りではないらしい。なお日の光が貴族にこの上ない苦痛をもたらすのはあくまで地球上のみに限った話であるらしい――らしいばかりだ、と凛は心中で愚痴を零した。
 バラージュ男爵曰く、貴族の科学力は地球の範囲にとどまらず、外宇宙にもその手を伸ばし太陽系の全ての星に基地を設け、外宇宙から侵略目的でやって来るエイリアンを迎え撃ち、時には他の天体に覇を唱えていたそうだ。この過程で貴族は、地球から出た場合太陽にその全身を晒そうともなんら害を受けなかったことが記録されているらしい。彼ら貴族自身にも解明不可能な、生命の不可思議とでも言おうか。
 更に言えば、バラージュ男爵は生まれて間もない頃に受けたとある処置の効果によって、日の光の中でもある程度は行動可能らしく(多少能力は落ちるが)凛が学校に行くのを止めなったのもこの力があるかららしい。余談だが、バラージュ男爵の馬車に搭載された超科学技術を使って、凛が大量の宝石及び貴金属を精製させた。
 その時の凛の顔を、他人には見せられないな、とバラージュ男爵は心底思ったものだ。
 一万年の歴史によって人間など到底及ばぬ優雅さを遺伝子レベルで備える貴族の中で、抜きんでた美貌の持ち主であるバラージュの目から見ても、凛は美しいと評するに値する美少女だ。人間嫌いの貴族も寝室の供にと望むだろう。
 その凛でさえも、あれでは嫁の貰い手も婿の来手もいはすまい。まさしく百年の恋も冷める顔だったのである。



(ふむ)

「何? 人間の学校がそんなに珍しいの?」

 教室の中で、おそらく後ろ辺りにいるような気がするバラージュ男爵の漏らした一言に、なにか引っかかるものを感じた凛が問うた。

(そうだな。私の生きた辺境ではこのように人間の子息らが生命の危機に何の不安もなく過ごせるような場所はまず有得なかった。ましてや彼らには“貴族”、吸血鬼に対する恐怖がない、憎しみもな)

「そりゃ、吸血鬼といっても普通の人間からすればブラム・ストーカーの小説か、映画や漫画の中の話だからね。実在しない絵空事なのよ。一応、死徒や真祖っていう吸血鬼はいるけど?」

(その彼らにも興味はあるがね。死徒というのはすべからく元は人であったのだろう。貴族風に言えば“成り上がり”だな。真祖とやらもこの星が生み出したという、意図的に作られた種族、最後の一人しかいないらしいが。やはりどちらとも貴族とは異なる種族といえるだろう。それよりは私はこの時代の人間たちのほうが興味深い)

「……ねぇ、男爵あなたひょっとして人間のこと」

(何かな?)

「ううん、何でも無い。気にしないで」

 人間のこと好きなの? 最後まで口にすることは、何故だか憚られた。男爵が今、どんな顔で、表情で、瞳で、人間達を見ているのかひどく気になった。けれど見てはいけないような気がした。きっと男爵の瞳には哀しみがあるだろうから。
 放課後、部活動もほとんど終わった時刻に凛と男爵は屋上にいた。赤く街を染め上げてゆく夕日に、ひどく物悲しいものを憶えていた。きっと二人とも。

「日の光、大丈夫?」

(ああ。しかし霊体化することで朝日も夕日も、何の苦痛もなく見ることが叶うとは、な。……貴族たちの中にも日の光に限りない憧れを抱く者達は少なくなかった。いやひょっとしたら誰も彼もが憧憬を抱いていたのかもしれない、憎悪の中に押し隠して。彼らが今の私の境遇を知ったら何と言うかな?)

「失くしたものも、失ったものは戻ってはこないわ。……いけないわね、感傷的過ぎるわ、私達。きっと夕日のせいね」

(かもしれん。いやきっとそうだろう)

 きびすを返し、屋上から去ろうとした時だった。一つの声と姿が二人を遮ったのは。

「人はどうか知らぬが、確かにこの夕日の美しさは貴族にとっては何物にも代えがたい至宝であり、知ってはならぬ猛毒よ」

「誰!?」

 凛の誰と問う声よりも早く、すかさず男爵が姿を現し、凛と共に給水塔の上に立つ巨大な甲冑を見据えた。全身を余すことなく装甲で埋め尽くした巨大な騎士。男爵と等しい冷気に凛がまさか、と呟く。

「男爵、あいつ」

「ああ、まさか私以外にも貴族が召喚されていたか」

「その通りよ。お主も同胞か、わしはゼノン公ローランド。知っておるかな?」

 相手が自分の名を知っていることに対し、ひどく期待めいたものを眼に輝かせている。子供のように無邪気な気持ちで、自尊心を満たしたいのだろう。

「その名は武勇ともども重々承知。名にしおう武闘派貴族ゼノン公ローランド。“G”の反乱ではかのギャスケル大将軍と相討った方。私は西部辺境統制官ヴラド・バラージュの息子、バイロン・バラージュ男爵」

「バラージュ? はて、たしか御神祖の覚えがめでたかった貴族の名であったか」

「左様で、今は貴殿共々サーヴァントなる存在ですが。私はアーチャーとお呼びいただきたい」

「よせよせ。仮にも貴族ともあろう者が人の用意した器の名で呼ばれるのを由とする等と、親族余すことなく、末代までお主を恥とするぞ」

「ご懸念なく。私は父殺しです。時になぜゼノン公は日光の中を無事に歩めるのですかな」

「何、わしが死ぬ前にとある貴族から日光を防ぐ防御スプレーを貰い受けておってな、そのスプレーも一応わしの宝具とやらの扱いなのよ。しかし親殺しか、ちと珍しい程度じゃな。まぁ良い聖杯とやらのため、主らには死んでもらわねばな」

「凛、下がっていたまえ。貴族の戦い、そうは目にかかれぬぞ」

「かもね。でも一つ訂正があるわ」

「何かな?」

「確かにあなたは貴族かもしれないけど、今は私のサーヴァントよ。私のサーヴァントが最強だって事を見せてちょうだい。あんな奴イチコロでしょ?」

 不敵な笑みすら浮かべて物言う凛を、男爵は一瞬信じがたいものを見る目で見つめたがすぐに

「ああ、その通りだ、リン。サーヴァントアーチャー、召喚した甲斐があったと存分に思わせて差し上げよう」
 
 男爵がマスターと等しい笑みを浮かべて、ゼノン公へと駆けた。手にはいつの間にか優美なカーブを描く黒塗りの長刀が一振り。対してゼノン公は、給水塔からその外見からは想像も付かない身軽さで屋上に降り立ち、どこからか三メートル近い長槍を取り出している。凛が二人の武器を認めた次の瞬間、その姿を捉えきれなくなった。あまりの速さに人の肉体ではついていけないのだ。時折火花が散り行くのをかすかに捕らえるのみ。
 まず、男爵が長刀で真っ向からゼノン公に切りつけ、長槍がコレを受け止めた。ゼノン公が男爵の加える力を横に流し、長刀を滑らせて男爵の左半身側に移動し石突で顔面を突いた。電光石火で奔る石突を、男爵の左手が受け止める。二千馬力を片手でいなすバラージュ男爵の片腕である。刹那の瞬間に、二人の貴族の目線が交差する。闘争を求め歓喜する貴族の血が、果てしなく冷たく、限りなく激しく滾っているのか。
 槍を捕らえられたと悟ったゼノン公がマッハの速度で右膝蹴りを放って男爵の左脇腹を打った。一メートル滑空したところで男爵が左手を屋上に当てて、勢いを殺す。ゼノン公は、男爵が咄嗟に放った一刀に、甲冑の左肩の部分をわずかに削がれ、青白い火花が飛んでいる。男爵が大きく青いマントを広げるや、煌めく何かがゼノン公へと殺到した。
 ゼノン公の甲冑に幾つかが命中し、甲冑をコントロールする制御コンピューターが展開した電磁バリアーとぶつかり合って青白い火花を散らしている。宇宙戦艦の主砲にも耐え、万分の一秒単位で再展開する電磁バリアーを大きく削る破壊力に、ゼノン公の瞳が隠しきれぬ驚愕に揺れた。

「ぬうう!? これがアーチャーの由来か」

「そのようで。公はその戦闘用甲冑からしてさしずめライダーか、あるいはランサーですか」

 横殴りに、バラージュ男爵のブルー・マントから走った何かが思い切りゼノン公を横に殴り飛ばし、フェンスに激突。ゼノン公が踏ん張らねばそのまま落下していただろう。もっとも生身で一千メートルの高さから落とされてもものの一分とかからずに再生する能力と耐久力を持つ貴族だ。落下したところで何の問題もない。
 大きく地響きと周囲をどよもす轟音、そして両足の着地点を大きく陥没させたゼノン公が何かに気付いたように頭上を見上げると、青いマントを月下の夜空を舞う巨大なコウモリの翼の如く広げた男爵が、まさに右手の長刀を振り下ろさんとしていた。

「ぬううん!!」

 ゼノン公の左手にもう一つ長槍が生じるや、二つの槍を斜めに交差させて、その交点で男爵の一刀を受けた。金属と金属とがぶつかり合う音が、強く波打って屋上の大気に木霊する。風に遊ぶ精霊も、身を打たれて地に落ちかねないような音だ。

「周囲の浮遊分子とイオンを凝縮した槍よ。デュープ鋼の五千倍の硬度だ。いかに貴公の腕前でも断てぬわ!」

 ゼノン公が気合と共に、槍を押し出して男爵の体を突っぱねる。ほとんど同時に両手の槍が、男爵の心臓目掛け二本とも投じられていた。まさに目にも留まらぬ早業。だがそれは男爵も同じ、勢い良く突き飛ばされながらも、マントを一打ちするや重力を無視して垂直に上昇し再び、そのマントの中から光の奔流がゼノン公へと殺到する。奔流はマッハ3で避けたはずのゼノン公に追いつき、甲冑姿を屋上のフェンスを越え、校舎の裏手の雑木林へと落とした。

「リンどうする、追いかけるか?」

「え、えぇ。あいつを逃す手はないわ。聖杯戦争、初戦から勝利と行きましょう」

 貴族、あるいはサーヴァントの超人的な戦闘に思わず見惚れていた凛が、男爵の問いに自失していた意識を取り戻し、追撃を命じる。バラージュ男爵が我が意を得たり、とばかりに満足そうに頷く。

「では失礼する。レディ」

「え?ああ、ちょっと」
 
「喋ると舌を噛むぞ」
 
 そう言って男爵が勢い良く屋上から跳躍した。凛をいわゆるお姫様抱っこの姿勢で抱えて。

「居た。我々を待っていたようだな」

 たったの一っ跳びで、数十メートルを跳躍しながら凛にも聞えるように囁く。

「思いっ切りかましてやんなさい、男爵」

「了解マスター、君はつくづく面白い女性だ」

 楽しそうに男爵がそう言ってから、音もなくゼノン公の眼前五メートル程の所に着陸する。着陸する一連の動きでさえ、貴族というヴァンパイアはその名に相応しく優雅であった。槍を地面に突き刺していたゼノン公がゆっくりと、如何なる装甲も貫けそうな槍の先端を、バラージュ男爵に向けた。

「リン、君はあくまで手を出さないように。貴族の用いるD・フィールドは銀河の流動エネルギーを用いたものだ。例えこの星を吹き飛ばせても破壊できない。ゼノン公の甲冑にそこまでの防御機構があるかは未知だが、いずれにせよ、一万年以上の時が培った防御メカニズムがある。対抗できるのは同じ貴族か、知勇兼ね備えたバンパイアハンターのみ。……私を信じて欲しい」

「もちろん、頭から貴方の事を信じているわ、バイロン・バラージュ男爵? さぁ、あの銀ピカの鎧をのしちゃってちょうだい。……それにしても銀河の流動エネルギーって、真祖にも突破出来ないんじゃないの?」

 凛に軽く笑って見せてから、男爵が長刀を引き絞り、刺突の構えを取って駆けた。蒼き疾風が銀の山の如き迫力を放つゼノン公へと吹き抜けた。両の手から力を抜いて槍を握っていたゼノン公が、疾風と化した男爵に合わせ裂帛の気合と共に、黒光りする槍を放った。

「ぐぅぅっ!!」

「くっ」

 ゼノン公の槍は男爵の左肩を、男爵の長刀はゼノン公の甲冑の左脇腹を貫いていた。血が男爵の青いマントを染め上げ、ゼノン公の甲冑は青白い電気と火花を派手に散らす。次なる一手は何か? その時パキッと枝木を踏み折る音が、意外に大きく響いた。

「誰だ!! ちっ、水入りか。バラージュ男爵よ。勝負は一時預けるぞ」

 止める間も無くゼノン公が、その巨体を翻して目撃者らしき人影を追いかけていった。一方凛は、慌てて男爵に駆け寄っている。深海の青に染めた男爵のマントが内側から溢れる血に黒く染まりつつある

「大丈夫!? 男爵」

「貴族にとっては大した傷ではないさ。それよりもリン、ゼノン公だがどうする? おそらく目撃者を殺すつもりだ」

「……追いかけましょう。行ける?」

 小さく頷き、バラージュ男爵と凛が急ぎ校舎へ向かって駆ける。すでに肩を貫いた刺し傷は塞がり、バラージュの動きに支障はない。ゼノン公に遅れる事数分、校舎に入ってすぐ血臭を嗅ぎ取った男爵がソレを見つけた。赤毛の、少年。今は制服の左胸を赤く血で汚し、染め上げている。瞳に力は……無い。

「リン? 知り合いか」

「……ちょっとね。男爵はあのライダー、ゼノン公を追ってちょうだい」

「……分った」

 常よりもわずかに異なる凛の声色に何かを察したのか、男爵がすぐさま踵を返してゼノン公の後を追うべく姿を消した。一度だけ、凛を振り返ったが、それきりだ。

「……よしてよね。何でアンタが」

 だから、凛が漏らした悲痛な声を、バラージュ男爵が聞く事は無かった。それが良かったのか悪かったのかは、きっと誰にも分らないことだったろう。
 その夜、戻った男爵がゼノン公を見失ったことを話し凛とあの少年の処置を話し合った。そこで男爵が、被害者の少年の記憶について処置をしたのか聞いたところで、バラージュ男爵は自分のマスターの重大な欠陥を知る。凛は記憶の操作を怠ったのだ。ここぞという所で大切な事を忘れる致命的な欠陥であった。
 そんなわけで深更の街中を、二人はその少年の家を目指して全力疾走中である。正確には男爵の馬車のサイボーグ馬に乗ってである。時速百五十キロを越すサイボーグ馬で、屋根を跳躍したりしながら最短距離を突っ走る。
 サイボーグ馬の鉄蹄が幾十枚目かの屋根瓦を砕き、月下に青く燃えるような騎馬の影を描いた時、日本の武家屋敷が見えてきた。その武家屋敷があの赤毛の少年の自宅であると凛が男爵に伝えてある。
 男爵の召喚一日目の夜の内に、偵察衛星を打ち上げ地理は完璧に把握してあるし、静止衛星軌道上に浮かぶ衛星からデータを受信しているサイボーグ馬が道に迷う事も、まずはない。

「あと少しよ!」

 息巻く凛と反対に男爵は落ち着き払っていた。しかしその口から出た言葉にはわずかに、焦燥に似た響きが含まれていた。

「半分は間に合わなかったな、ゼノン公の甲冑の駆動音だ。公は既にあの屋敷に入っているぞ」

 男爵がそう呟いた瞬間、まさに少年、衛宮士郎が屋敷から飛び出て、蔵の中へと銀色の甲冑――ゼノン公によって吹っ飛ばされた。おそらくゼノン公が蔵ごとだろう、士郎を粉砕すべく槍を投擲する姿勢を取った時、目を焼く光が士郎の叩きこまれた倉の内側から迸った。
 まるで貴族の憎悪と羨望を一身に集める太陽が昇るかの様な光が、刹那の瞬間、周囲を白々と照らし出す。そして、その光の中に見た。バイロン・バラージュ男爵は確かに眼にした。幾度生まれ変わろうとも、魂に刻まれた記憶は消えぬだろうと断言できる美しい人影を。

「嘘!? まさか七騎目のサーヴァント」

「! 彼は!?」

 凛の驚愕をはるかに凌いで、男爵の顔に驚愕が走った。氷の冷静さと鉄の理性を持つこの青年貴族がそのような顔をするなど、数えるほどもなかったろう。懐かしさと畏怖と親愛と、恐怖とに彩られて。サイボーグ馬に乗った二人が、衛宮邸の塀に着地した時、蔵の光の中から一つの暗黒が飛び出し、ゼノン公を襲った。
 見よ、月光を背に駆けるその姿を。黒き翼を凶鳥の如く広げ巨大な甲冑に迫る漆黒の魔王の闇から、一陣の銀光が走りゼノン公の右胸を縦一文字に切り裂いた。
 飛び退いたゼノン公と、サイボーグ馬に馬上したままのバラージュ男爵が共にその名を呼んだ。彼の名を。孤高の狩人の名を。辺境最強の美しきバンパイアハンターの名を。

「「  D ! 」」

 降り注ぐ月光は青いというのに、その男の周りだけは闇よりも深い暗黒の黒に押し潰されているかのようだった。鍔広の黒い旅人帽と黒いロングコート、胸元には深海の青よりも青いペンダント。鍔の広い帽子の下の顔を見た時、凛は眩暈に襲われた。あまりの美しさに、脳が対処し切れなかったのだ。それはこの世に存在しながらもこの世のものではなかった。
 いつか誰かに、Dという名の青年の美しさを聞かれても、凛は美しいとしか答えられないだろう。この世のありとあらゆる美辞麗句が無駄となる美貌の前では、人は美しいとしか記憶することが出来ないのだ。
 二人の貴族と一人のダンピールの出現によって急速に冷えて行く夜気が、痛いほどに張り詰める。風が触れるだけで頬が張り裂けそうなほどの緊張を、右胸から噴き出る血を左手で押さえた姿勢のゼノン公の慄きの声が破った。

「おお、おおお!! Dよ、よもや人なぞに使役される身になり下がってなお貴様に見え様とはっ。我が愛しき娘アンを誑かしくさった貴様への恨み、滅びて後も消え去ってはおらぬ。いいや、今なお脈打たぬ我が心臓の奥深くでごうごうと燃え盛っておるわ。ここで会ったが百年目、我が槍の錆となれい!」

 百年目が億年目になって変わらぬ憎悪の言葉を吐くだろう。数千年を生きた貴族の武勇がそのまま結晶化した見事な構えのゼノン公。しかし対峙するDは美しさと引き換えに言葉を失ったかのように、夜の祝福を受けた美神の彫像の如く不動。
 薄氷の上に立つかの様な緊張感を先に破ったのはゼノン公である。空高くを気ままに飛ぶ鳥が落ちる裂帛の気合いと共に、銀に鈍く光る戦闘甲冑が超音速で動く。月光を幾百の球に変えて弾く銀の風に、Dの右手から延びる白銀の弧月が迎え撃った。いずれも音は後からやってくる。

「えぁああああ!!」

 まっすぐDの心臓を狙った槍が、下方から跳ね上がったDの長剣に掬いあげられる。長剣の刀身は吸いついた様にそのまま槍を巻き込んで、槍の上を取って地面へと抑え込んだ。槍を絡め取られたと悟ったゼノン公はDが動くよりも早く槍から手を放し、両手に瞬時に二本目、三本目の槍を握っていた。およそ無限に等しくゼノン公は愛槍を補充できると言っていい。
 左右から新たに突き込んできた二つの穂先を、Dは水に沈むかの如く身を屈めてかわし、一本目の槍を抑えていた長剣でゼノン公の首を斜め下方から刈り取りに行った。ゼノン公自慢の甲冑の装甲も容易に切り裂く刃はしかし、虚しく空を切る。
 両手突きの手応えが無いと悟るや、ゼノン公は跳躍し、見事Dの一刀を回避したのである。Dの上を飛び、その黒髪の揺れる背中を見る姿勢にあったゼノン公の目が一瞬光芒を煌めかせる。甲冑に内蔵されているビームだ。だがほぼビームを撃つのと同時にゼノン公は首を横に振った。
 その視線の先に肩をまたいで、丁度背の鞘に再び納めるかの様に突きだされたDの長剣の腹が映っていた。ゼノン公の甲冑から放たれたビームを反射したのは、その長剣の刀身であり、ゼノン公が首を振ったのは跳ね返されたビームを躱す為。
 Dの後方三メートルの位置にゼノン公が着地するよりも早く、風を巻いて旋回しざまにDが白木の針を投じる。一瞬の停滞もない流れる動作の工程で投じられた白木の針は、あまりの高速故に摩擦で流星の如く燃えながらゼノン公へと襲いかかる。
 再び煌めくゼノン公の双眸。ビームがことごとく白木の針を撃ち落とし、その消し炭が風に攫われた時、ゼノン公の目の前には既にDの美貌があった!
 筋一つも動かぬDの魔貌に、戦いの中にあって心縛られたゼノン公が、我を取り戻して身をよじった時、天地を繋ぐ雷光さながらに振るわれたDの一刀がふたたび一度は斬ったゼノン公の右胸を切り裂き、黒血がばしゃばしゃと音をたてて溢れる。甲冑の着用者保護機能が、ゼノン公の生命保護を最優先にし、甲冑全体から白いガスが噴出し始めた。
 貴族には無害だが、人間にはきわめて有害な毒ガスであった。貴族の血を引くDにはさしたる効果の望めぬガスであったが、その召喚主たる少年、そして近隣の人間達には十分な気体の死神である。
 Dが足を止めたのは無関係な人間を巻き込まぬ為か、それともマスターである少年を守る為かは分からない。だが他人の生命にはこれっぽっちも関心を持っていなさそうなこの青年は、足を止めその左手の掌に筋の様なものが刻まれると、それは何かの口の如く開いて、広がろうとしていたガスを急速に吸い込み始めた。
 ものの数秒でガスを全て吸い込み終えると、Dは右手に握る優美なカーブを描く長刀の切っ先を、自然に垂らしたまま、逃げだしたゼノン公もバラージュ男爵も遠坂凛も無視して、自らの背後の倉の中にいるであろう少年、士郎に問うた。深く冷たく、錆と寂とを含んだ氷と鋼の声で。

「お前がおれのマスターか?」

 それが、Dが初めて自らの主、衛宮士郎にかけた言葉であった。


 後の魔術師が語るに曰く、第五回聖杯戦争は聖杯戦争に非ず。呼び出されしサーヴァント七騎の全てが未来の一つより呼ばれし吸血鬼、即ち“貴族”であったという。故に第五回聖杯戦争はかく呼ばれ忌避される。“貴族戦争”、と。

『 Fate / aristocrat war 』



[11325] その3 凍らせ屋 × こち亀
Name: スペ◆52188bce ID:ed06c775
Date: 2009/08/31 22:45
                 『こち屍』

 魔界都市<新宿>に悪名高き最高危険地帯の一つ、河田町と通り一つ挟んだ所にある余丁町にある五階建てのビルに突入を敢行した屍刑四郎を待ち構えていたのは、両手に鈍く光るAK47とM16Aライフルを構えた身長180センチオーバーの男だった。
 いや、いささかその数値は変えなければなるまい。なぜなら辛子色のジャケットを着たその男の首から上はなかったからだ。180センチ引く頭一つ。それが屍の前に立った男の正確な身長だ。
 ソ連製とアメリカ製のライフルを構えた首なし男を前に、屍は唇が吊り上がるのを感じた。不倶戴天の間柄であった国の銃器を仲良く揃えて構えている姿にユニークさを感じたらしい。
 銃口を前にして大した胆力といえた。もっとも、<新宿>警察署の警官なら銃撃戦に身を躍らせる位で縮こまる様な軟弱は一人もいない。むしろ一人でも多く犯罪者を地獄に叩きこんでやれと意気込むようなのばかりと言っていい。
 先発の警官隊が戦闘用ベストに身を包み、アサルトライフルから対戦車ライフル、ロケットランチャーを持ち出して、ビルに立てこもった密輸団を相手に昼間から銃撃戦を繰り広げる中に、連絡を受けて遅まきながら到着した屍は、遅れた分を取り返す様にして誰よりも先にビルの真正面から突入を敢行した。
 185センチの体格は大岩から削り出したように頑健な筋肉を備え、圧倒的な質量に躍動する野生動物の俊敏さを持っていた。油をこってりと使わなければ到底まとめられないドレッドヘアに、左目を覆う黒く焼かれた刀の鍔。
 身に纏っているのは外の警官達の様な戦闘用ベストやメカニカルスーツとは違うシルク地の、くるぶしまであるコートだ。おまけになんの意味があってかコートには無数の花が絢爛と咲き誇っていた。
 およそ一目見れば忘れようもない特徴的にもほどがある外見だ。踵に銀の滑車の着いた黒革のハーフブーツが、勢いよく、しかし音一つ立てずにアスファルトを蹴り出した。
 たちまち屍めがけて集中する無数の銃弾やミサイル、レーザーの中をやや前屈みになって走り抜ける。ミサイルの類は腕時計型の多機能モジュール内臓のECMがジャミングしてくれる。レーザーや実弾はひたすら走って回避あるのみだ。時折反撃の銃火が屍の右手の先で膨れ上がる。
 屍の右人指し指が引き金を引いた回数だけビルに陣取った屑どもの命が消え去り、一瞬だけ銃火が途切れるが、すぐさま補充の人員が顔を出してむちゃくちゃに火器を乱射してくる。そのなかを疾風さながらに駆け抜けた屍は、十トントラックが時速百キロで突撃しても耐える強化ガラスに、空いている左掌をぴたりと添える。
 屍を援護しようとパトカーを盾にした警官隊が負けじと、二十ミリモーターガンやら違法炸薬を詰め込んだエクスプロージョンブリットを、ビルに撃ち掛ける。勢いが衰えるどころか時間が経つにつれて互いを繋ぐ銃火をいよいよ激しさを増す。血と死と破壊に闘争本能が果てしなく燃え上がっているのだろう。
 付近の住民も、この規模の銃撃戦には慣れっこだから無事な所まで避難するなり、十分な防弾処置を施した自宅に引きこもって、血と硝煙の匂いが充満し始めた真昼の殺し合いを心躍らせながら見学している。
 ぐぅっと掌を押し付けていた屍が、思い切り左手を引いた。それに引かれる様にして強化ガラスに罅が入るやたちまちばりばりと耳に煩わしい音を立てて砕け散る。
 屍が左手に巻いた腕時計型多目的モジュール内臓の超振動装置の成果だ。砕け散る硝子片の中にすばやく屍が体を潜り込ませた所で、冒頭の首なし男が待ち受けていたのである。
 一階は歯科医院で手前に受付のカウンターと待合室があり、診療室につながる部屋から首なし男に続いて、これまた新しいのが姿を見せた。こんどは顔の左半分が無かった。十代後半、たぶん高校生だろう。
 二重瞼にすっきりとした目元、細い顎先と最近よく見かけるタイプの美男だ。もっとも顔の左半分がそっくり消失し、どろどろと脳漿やら血液やらを零していては屍姦嗜好者でなければ声をかけるまい。
 刺青だらけの上半身に黒のレザーパンツ姿だが、腰に巻いたベルトには戦車の装甲を簡単に切り裂く特殊合金の大振りのナイフが何本も差し込まれている。生命を失った虚ろな瞳は屍を見つめ、その右手には茶色いおもちゃみたいな拳銃が握られていた。
 たしか、矢来町の小学生の男の子が、夏休みの宿題として研究し提出したレーザーガンだろう。この街ではさして目を引くような武器ではないが、従来市場に出回っていたものに比べ格段に値段が安く、威力もそれなりとあって売れ行きは上々だ。
 コスト安の理由は、ボール紙製の銃身と虫眼鏡のレンズだけでレーザーガンが構成されている為だ。特別な塗料などを用いず、レーザーガンを形作るボール紙の無数の角度と構造に、ただのボール紙とレンズが七万度のレーザーを撃ちだす秘密がある。
 歯科医院、美容院、花嫁学校などを隠れ蓑にして区外に<新宿>特産の非合法麻薬や大量殺戮用の妖物を輸出していた犯罪組織兼邪神信仰集団は、まさしく風前の灯となり、死んだ構成員まで投入して生き残りを図ったのである。
 というのも大人しく武装解除し自首しようが、<新宿>警察に容赦、呵責の言葉は存在しない。彼らの冒してきた罪業が明らかになれば、区民達の口からも轟雷の如くどよもす死刑を求める言葉が出るだろう。
 また魔界の法の守護者たる<新宿>警察の猛者共は、凶悪な犯罪者相手を基本的に皆殺しにするし、署の取調室でも犯罪者など廃人にしてしまえ、という内容の苛烈極まる尋問が暗黙の了解になっている。
 それを犯罪者側も十二分に心得ているから、手入れを受ける側はまさしく命がけの猛反撃を行う。かくてこのような紛争地域も真っ青の戦闘が勃発するのである。
屍の目の前に現れた二人はすでに銃撃戦で死んだはずの連中を、組織の抱えている魔道士が死霊を憑依させて操っているのだろう。膝をついた姿勢の屍に三つの銃口が集中した。この街では銃器の口径の大小は大した問題ではない。レーザーガン然り、レールガン然り、炸裂弾やHEAT弾、ひいては銃弾サイズの核弾頭まで存在するからだ。もっとも、二丁のライフルとレーザーガンは一人の人間を死に至らしめるには十分すぎるだろう。
 新たな銃声が、元歯科医院の待合室に轟いた。一つに聞こえた銃声は、実際には六つあった。拳ほどの大きさの炎が、屍の手元で銃声の数と同じだけ咲き誇る。
世界万国の銃器が揃う<新宿>といえど、ただ一丁のみ存在する屍刑四郎愛用の銃。五十口径を越す、規格外輪胴拳銃ドラムの咆哮であった。銃身二十センチ以上、重量三キロオーバーのリボルバーは、きっかり六発の弾丸を吐きだし紫煙をくゆらせていた。
 ドラムの輪胴をスイングアウトし、気化したプラスチック薬莢の溶け残りを除去する。突入するまでと合わせて空になった輪胴に新たな銃弾を補充する。一発、二発、三発……一定のリズムで新たな弾丸が装填され、ついにはその数は十五発を数えた。
 先程の六発の発砲の前に、突入しながら九人射殺していたから数は合う。
 とはいえ、いかにドラムの巨大な輪胴といえども到底収まりきらぬ弾丸の数であった。しかし確かに全十五発の弾丸の補充を終えて、屍はドラムを構え直して上階につながる階段に目をやる。
 それから不意に床に目をやった。事前の調査では地下室の類はない筈であったが、屍の勘が地下に何かあると警鐘を鳴らしている。その場に立ち尽くす事は命取り以外の何物でもなかったが、しばし黙考する様に立っていた屍に大きな揺れが伝わってきた。
 米軍払い下げのアパッチをさらに重装備化した警察ヘリが猛攻を開始したのだろう。レーザーガトリングガンや小型巡航ミサイルで撃墜を試みる屑ども相手に、ヘルファイア対戦車ミサイルか、一〇〇ミリビームキャノンやTOWあたりでも散々っぱら撃ちこんでいるに違いない。
 この犯罪組織が区外に持ち込んだ禁制品が区外で実に四〇名に及ぶ死傷者を発生させ、<新宿>署はこの犯罪組織の完全壊滅を決定した。この街で、この場合に完全壊滅というとこれは、繰り返しになるが構成員皆殺しを意味する。
 それを咎める者は<新宿>にはいない。死には死をもって報わん。それがこの街のルールなのだと、区民全員が骨の髄まで知り尽くしている。例えそれが区外の外の死であれ、原因がこの街にあるのなら。
 屍の突入に警察官が続くよりも早く、屍は待合室の一角にドラムを向けて発砲する。五十センチほどの火花と共に射出された大口径弾丸が、床のタイルの一角を撃ち抜き、その下に隠されていた地下への梯子を晒した。
 上で抵抗している構成員は全員囮という事だろう。ぽっかりと直径一メートルの暗がりが広がる中に、屍は躊躇なく身を晒す。浮遊感が続いた時間から逆算するとざっと地下三十メートルほどだろう。
 <新宿>の地下には人類史には存在しない謎の原人やら五メートルの巨大モグラ、人食いの不定形地下生物やらが何千何万とひしめいている。その防御用にチタン合金でカバーした強化コンクリートで形成したトンネルであった。
 内面側にもびっしりと妖物除けの呪文が刻まれているし、足元に流れる清らかな水の流れも、古い歴史を持つ正統派の宗教の高位の誰ぞやに祝福を受けた聖水ときている。五百年クラスの年を経た怨霊でもなければ、このトンネルに落下と同時に消滅してもおかしくないだろう。
 柔軟な筋肉が着地の衝撃を完全に吸収しきるのを確認し、屍は即座に周囲に視線を巡らす。三百六十度の視界を一度に確認する四方目と、屍の超直感、長年の刑事としてのカン、それらが周囲五メートルに危険はないと告げている。もっとも五メートル一センチは範囲外というわけだ。安心などできはしない。
 ちょうど屍の前方にだけ道が開けていて、背後はコンクリが灰色の壁となって立ち塞がっている。天井に設えられた非常用の青い電燈が拭いきれぬ薄暗闇がそこここに蟠っていて、その中に数ミクロンの食肉虫や透明獣、センチ単位のプラモデルウェポンが潜んでいないとは限らない。
 ぱしゃ、と歩行に伴う水音は気に留めず、屍は一気に駆けだした。夜目が利くよう訓練は受けているし、非常燈も灯っているのでこの程度の暗がりは真昼間に等しい。

「一本道なら面倒はないんだがな」

 ほどなくして足元を流れる水の流れが赤く染まるであろうことを予感させる言葉を、屍は天気が良いな、と世間話をするような調子で呟いた。<新宿>区だからこそ許される犯罪者への慈悲なき仕打ち。犯罪者の命を路傍の石の如く扱う精神。この二つをなによりも体現し、一千以上の生命を撃ち殺した行い故に、この男は誰よりも犯罪者から恐れられる。
 その屍の一つきりの瞳が、行く先からゆらゆらと泳ぐ蛇の様に流れて来た幾筋かの赤いものに気づいて胡乱な光を放った。見竦められた者が、有機物無機物を問わず己の死を意識する、そんな瞳であった。この目に見つめられただけで体調を崩した者は数多い。
 太くごつい屍の指がドラムの引き金を押し上げる。ガチリ、と重々しい音が一つ。何百何千と行ってきた動作であり、慣れ親しんだ音であったが、屍にはそれらに対する感傷らしきものは感じられない。赤く染まっている水流の中を変わらぬ歩調で進み、およそ二分で、倒れ伏した二人の男を発見した。
 背広姿とポロシャツ姿の男である。<新宿>警察所属の刑事達だ。仰向けに倒れている二人の顔を確認し、それぞれの名を屍が口にした。

「阿武沢に矢田か」

 同僚の死に対する悲しみはかけらほどもなく、変わりに仲間を殺された事への怒りが、大地の奥深くで流れる溶岩流の如く血管の中を流れて、屍の闘争心を昂らせた。二人とも心臓を鋭利な刃物で一突きにされて事切れたようだ。屍より早くこの地下道を発見した理由も、屍には見当がついた。
 阿武沢は<新宿>に居る超能力者でも稀な透視能力者だ。おそらくはこの隠し通路の出入り口を見つけ、そこから侵入してここまで来たのだろう。屍に連絡が来ていないと言う事は、二人で手柄を、と考えでもしたのかもしれない。そういえば、矢田は三人目の子供が生まれるから、金がいるとしきりにぼやいていた事を、屍は思い出した。
 独断専行に走ったとはいえ、阿武沢は身体能力や射撃の腕、妖物や犯罪者に対する容赦のなさも、十分一流と屍をして太鼓判を押せるつわものだ。その相棒である矢田も同様である。
 強化細胞手術を受け、素手で戦車の一輌や二輌くらいは、カップめんが出来上がる前にバラバラに解体してのける怪力と、四四マグナムを至近距離でもらってもチタン鋼クラスの硬度を持つ筋肉繊維ががっちりと受け止める。この攻防能力に加えて最高で時速700キロで走行可能な異能力を持っているのだ。
 この二人が組めば、屍と互角とも言われる<新宿>警察有数の敏腕刑事だ。その二人を血の海に沈めるとは、相当のてだれが敵に回ったと見える。二人が握っているグロック17とコルト・ガバメント45口径の弾倉を確かめた屍がかすかに眉根を寄せた。どちらもフルに弾を込めてある。確かめるとチェンバーに送られている分も残っていた。

「こいつらに一発も撃たせずにずぶり、か。二人ともクイックドロウは千五百分の一秒のレコード持ち。音速人かそうとうの魔術師ってところだな」

 死後五分は経過している。追跡が間に合わぬ遠方まで犯人が逃亡するには十分な時間であった。見開いていた二人の瞼を閉じてやってから、屍は隻眼で闇の彼方まで見通そうとするかのような視線を薄暗がりの向こうへと向けた。



 それから、二日が経った。殺人課の刑事として忙殺されるような日々を送る屍は、大久保通りで武装ヘリや戦車、軍払い下げの重武装で暴れ回っていた暴走集団34名の内32名を、抵抗された為やむを得ず――誰も信じてはいないが――自己防衛のため皆殺しにした後、署に戻って自分の机に戻り楽しみにしていた昼食をぱくついていた。
 三合の白米に一キロの牛肉を乗せたギガ牛丼だ。紅ショウガもたっぷり、愛用の湯のみには淹れたて緑茶が湯気を立てている。いつもと変わらぬ険しい表情で割りばしを動かす様子からは、とうてい屍がこの昼食を楽しみにしていたとは窺い知れない。黙々と機械的に口と丼の間で割りばしを往復させている屍の横のデスクに、体格の良い若い刑事が腰かけた。
 <新宿>署でも五指に満たぬ、屍の相棒を務められる刑事の一人、鬼顔だ。レスラーかアメフトやラグビーのプレイヤーのような体を窮屈そうに背広に押し込めている。ここ最近逮捕術でも屍と互角近い力を見せはじめ、署内でも期待の星である。もとは区外の刑事であったが、死を恐れず犯罪者を人間扱いしないまるで殺人狂の様な性質から<新宿>警察へと左遷された若者だ。
 どんなに退屈で平和な地方からの異動でも、<新宿>への異動は左遷とされる。区外の倍以上の給料など<新宿>警察に属する警察署員の待遇それ自体は良い。しかし三百倍の死傷率を誇る<新宿>での業務を望む者など日本全国を探してもまずいない。この街で警察官として生きて行くには、正義感を持った殺人狂とでもいうべき性質が求められるせいもあるし、下手をすれば赴任初日で死んだ例が数多いせいもあるだろう。
 屍がじろりと一瞥するのを気に留めず、鬼顔が腕を組み眉間に深い皺を寄せた顔で勝手にしゃべり始めた。

「屍さんがこの前襲撃したビルの連中、あの屑ども覚えているでしょう? 苦縷々凶神団とかいうガイキチ連中っすよ。あそこの頭の魔術師、どうやら区外に逃げたみたいです」

「なに?」

 最後の一口を緑茶で胃に流した屍が一際胡乱な光を隻眼に宿し、鬼顔を睨みつけた。まるで鬼顔が親の仇か何かと信じ込んでいる様な瞳である。見つめた対象の命を奪う能力を持っていないのが不思議に思える眼力に、鬼顔がばつが悪そうに続きを口にしはじめた。わずかにたじろぐ程度で済むあたりが、屍の相棒足り得る証しだ。

「四谷ゲートの監視カメラに死んだ教団の信者の霊魂に書かせた似顔絵とおんなじ品の無い、根性曲りの顔が映ってたんすよ。記録から消去された映像を再生して分かったみたいです。今入ったばかりの情報です。例の、ぶう、から」

 ぶう、というのは<新宿>で一番とされる情報や外谷良子の口癖である。バスト・ウェスト・ヒップすべて一〇八センチとも、体重二百キロ以上とも言われる肥満の熟女であるが、外谷を敵にしたら一日と<新宿>では生きていけないと言われる情報網の主である。その外谷からの情報ならまず間違いない。

「奴の最後の足取りは昨日の昼に、敵対していた駆徒鵜愚阿炎教団の信者どもと新宿駅で魔術戦をやらかしたっきりからっきしでしたけど、まさか区外に逃がしちまうとは」

「奴の術の肝は分からんままだったな?」

「ええ。高田馬場魔法街のミス・トンブも詳しい事は知らないって話で。とりあえず地獄の魔物の召喚術とか信仰している邪神の力を借りるくらいしか、奴さんの手札は分かってないですね。それ位なら敵対する神性の力を借りるとか魔術封じのお守りを山ほど持っていけばなんとかなりますけど」

「それは殺された矢田と阿武沢も行っていた防御処置だ。ましてや敵対している炎教団の連中なら尚の事厳重に対抗処置をとっている筈だな」

「そこが謎なんですよね。目撃者の話じゃ炎教団の連中、抵抗らしい抵抗をしなかったっていうんですよねえ。催眠術ですかね? だとしたら魔術師の風上にも置けねえって所でしょう」

「そんなおしゃべりをしている暇があるのか、お前?」

 丼の蓋をした屍のセリフに、鬼顔は苦笑一つ浮かべて敬礼をした。ふざけていると取れる態度だが、同僚で同じような真似をする連中は十指にも満たない。屍の機嫌を損ねれば同僚といえども腕の骨の一本、肋骨の二、三本は折られるのを覚悟しなければならない。その気になれば痛みもなく相手が折られた事に気付かせずにおる事が出来る癖に、こう言う時、屍は思い切り痛みを感じる様に折るから、同僚からも畏怖されている。

「これから荒鬼組の手入れに行くところなんで。全員に地獄を見せてやりに行ってきます、じゃ」

 殺人課のオフィス全体に響く大声で怒鳴ってから、鬼顔は逃げ出すようにそそくさと走り去った。装備課で銃器を仕入れにでも行くのだろう。その背をつまらなさげに見てから、屍は緑茶の最後の一滴までぐいと飲みこんだ。
 殺人課の課長が屍に区外に逃亡した苦縷々凶神団の教祖ペグリー・Cの逮捕を命じたのは、それから五分後の事であった。



 四谷ゲートをタクシーで出た屍は件の教祖ペグリーが逃亡したと思しい地域の、派出所にいた。派出所の奥ある休憩室で座布団の上にどっかりと座り、腕を組んで無言の行に勤しんでいる。なおタクシーを使ったのは、普段<新宿>区内で乗り回している屍の愛車が、見る者によって様々な外見に見える特殊な処理を施した車両であったからだ。しかも大抵の人間には霊柩車として眼に映るのである。これでは到底区外には乗り出せない。
 屍は卓袱台を挟んで向こう側に座っている初老の警官の男性を一瞥した。いかにも昭和の日本人といった風体である。太く短い首に太い眉、鼻の下のきれいに整えられた髭。いかにも生真面目そうで頑固一徹、融通の利くタイプには見えない。しかし市民に対して誠実で、親切であろうことは一目で分かる。
 市民に慕われる良き警察官として何十年も生きて来た事が雰囲気として分かる人物で、なんだかんだで屍の心中での印象は良かった。しきりに汗を拭って、緊張を露わにしているのが少し気の毒だと、屍は思っていた。
 気まじめ一辺倒に生きていたこの初老の警官には、この世に生じた癌、悪徳の都市、魔界、と様々なおぞましい形容の言葉で呼ばれる<新宿>から同じ警官とはいえ、何者かが訪れてくるなど、奥に一つも考えなかった事態に違いない。
 それに区外の住人は、<新宿>からやってきた区民の存在を敏感に察知する。細胞のレベルにまで浸透した<新宿>の妖気は、目に見えぬが確かな異常として察知されるのだ。
 <新宿>区民が、区外の人間となるにはしあわせに暮らす事が必要とされる、一年、そうして生きられれば、雰囲気はだいぶ落ちる。もう一年、しあわせでいられたなら、<区外>生まれと変わらなくなる。だがそれは、極めて稀な例外であった。
 しかし、と屍は人知れず嘆息する。<新宿>署を除けば日本警察の中でもっとも異彩を放つ署の管轄内にペグリーが逃亡するとは。そんな事がなければ屍がこの派出所を訪ねる事もなかっただろう。
 今回、屍にはここの地理に明るい警官が一人相棒としてつけられる。事前にここの警察署の署員で屍が、自分の相棒に選ばれるのでは、と予想したのはニューヨーク市警に在籍、元傭兵でありグリーンベレーでもあったという署員や、世界最高クラスの超能力者(ただし四年に一日しか目覚めない)などの面子だ。
 その面々の内の三人がこの派出所にいる。さっき湯気の立つコーヒーを入れてきてくれた美人と若い警官の二人がそうだ。美女の方は最高級のフランス人形が、可愛らしさをそのまま残して大人の女性として、その美貌を大輪の花の様に艶やかに咲かせたようなとびきりの美人だった。
 超ミニ丈の、しかもピンク色の制服姿とその美貌、スーパーモデルの中でも数える位しかいない豊満な肢体の持ち主だった。だがそれだけなら、屍が相棒になると予想する面々に加えたりはしない。射撃の腕はオリンピックの金メダリスト級、逮捕術をはじめとする各種格闘技の腕も一流で、この派出所に在籍して長いから地理にも明るいし、国際A級ライセンスを持っていてドライビングテクニックも超一級だ。
 フランスと日本人のハーフであるその美女と一緒にいた若い警官も同様である。茶色の髪の下に実際に超一流のモデルとして現役活躍している美貌をもった青年で、黄色と黒のストライプ模様の、極めて特徴的な制服(三百万円相当らしい)を着ていた事と、腰に下げているのがニューナンブではなく、ダーティ・ハリー愛用のマグナムだったのが印象的だ。屍も噂には耳にした事のある、区外の警察で例外的に私服同然の制服の着用が認められている二人が、この美女と青年の事らしかった。
 二人とも世界有数の大財閥の令嬢・御曹司で、その資本と社会的影響力を使って私的な制服の着用を認めさせたのだろうと噂されている。それ以外にも様々な事にその力を使って、一般の警官には不可能な振る舞いを行っている。
 悪徳警官の事が犯罪者よりも憎く、上司や同僚の何人かを血祭りに上げた屍としては、それだけなら好感を持てる相手ではなかったが、これまでの行動を調べてみると犯罪と言える様な事が無く、純粋に他者の為という行為である事は明白で、どうこうしようという気にはならない。
 以前にSWATに続く警察特殊部隊が試験的に結成された時も、その隊員に美女と青年の二人は選抜されており、その能力の確かさは屍も認めている。ただし、区外の警察官としては、というセリフが着くが。
 屍が派出所に到着し、相棒と引きあわされる約束の時刻を既に三十分過ぎていた。出勤してきた相棒と初対面をする手はずになっていたのだが、どうにも問題のある相棒らしかった。斜向かいの家を訪ねるのに、時に半日費やす様な事態が頻発する<新宿>でもあるまいに。
 やれやれ、と屍が蚊の吐くような小さな溜息を吐いた時、ぎぎぎい、と耳をつんざくようなブレーキ音が派出所の前から聞こえてきた。自転車のブレーキの音だが、相当無理をさせた急ブレーキらしい。さっきの美女と青年が慌てだす気配がした。どうやらブレーキ音の主が、遅れていた相棒らしい。
 その内に、ひどいダミ声が聞こえてきた。品という言葉を知る人間なら絶対に出さないと断言できる声だ。はるか太古に猿から変わり始めたばかりの原人に、むりやり現代人の言葉を喋らせたら、こんな声になるのかもしれない。その声に紛れてからんころんという音も聞こえる。
 がら、と音を立てて障子を開いて顔を覗かせた男を、屍は頭のてっぺんからつま先までじろり見た。黒い針金を一本一本植えこんで刈り上げた七分刈りの頭。真っ黒く大きな毛虫が二匹止まっているみたいに繋がっている眉。碁盤か将棋の駒みたいに角ばって分厚い顎には手入れを行っている無精ひげがまばらに生えている。顔の中央には大きな鼻がどっかと胡坐を組んでいた。
 制服の袖を肘の所までまくり、足元は便所サンダルときた。からんころん、という音の源はこれらしい。サンダルを履いている足の方も脛のあたりまで裾がめくられていて、腕と脚、はだけられた胸元からも密集した林の様に一本一本が太い剛毛が、びっしりと生えている。
 屍の異様な姿に驚いた顔をしている三十代半ば頃の男は、がに股、寸胴の胴体、短い手足と数世代前の日本人らしい体格をしていた。背丈も170センチはあるまい。ほとんと絶滅しているんじゃないかと思える古い日本人日本人している、この中年が屍の相棒であった。
 屍の放つ<新宿>の住人特有の雰囲気に縮こまっていた初老の警官――大原巡査部長が、怒りよりも安堵を露わにして、障子を開けた姿勢で硬直していた中年警官の首根っこを掴み、その頭を屍に向けてなんども下げる。痛てててて、と中年警官が叫ぶのもまったく無視している。

「屍警部、たいへん遅くなりましたが、これが貴方の道案内をいたします、両津です!!」

 これが、<新宿>警察最凶最高の警察官“凍らせ屋”屍刑四郎と、<新宿>の警察官さえはるかに超越して、日本警察の頭上に燦然と輝く日本警察史上最大最凶の問題児、両津勘吉との、ファーストコンタクトであった。

『こちら葛飾区亀有交番前派出所、屍』 前編

――後編へ続く。





後書き
ヤカンさん、にゃーさん、ご指摘ありがとうございました。これで問題ないでしょうか。またご感想を下さった皆さんにも感謝を。ありがとうございます。



[11325] その4 魔界都市ブルース × 魔王伝 × 夜叉姫伝 × Fate
Name: スペ◆52188bce ID:3e1ef3fa
Date: 2009/09/02 21:03
その4 『 美しき聖杯戦争 』 


 衛宮士郎は、何が起きているのか理解できなかった。今、自分がいる場所が生まれ育った町である事は確かな事実の筈だった。だが、確実に、ここは彼の知る故郷ではなかった。
 歩き慣れた道の左右を囲む家屋も、じじ、と小さな音を立てている電灯も、スニーカー越しに硬い感触を伝えてくるアスファルトの地面も、何もかも見知ったものと変わらぬ形をし、色をし、変わらずにそこにある。けれども、そうであっても、断じてここは彼の知っている場所ではなかった。
 きっと、士郎の横で茫然と立ちすくんでいる遠坂凛も同じ心だったに違いない。ともすれば、自分達とは比較にならぬ濃密な生を生きた英雄たるセイバーや、アーチャーでさえ、そうであったかもしれない。銀盆の如く天空に座して輝く月の美しさは変わらない。黒いびろうどに散らした宝石の様な星の光の輝きも変わらぬ。
 しかし、肌を刺す冷気を運ぶ夜風は甘美な恋の夢に沈んだ乙女の吐息のように、甘い熱に浮かされて地面へと落ちて蟠り、降り注いできた月光、星の光はとある一点まで降りてくると、濃密な液体と見紛うほどにより一層輝きを増して滴り落ちている。まるで世界が光の滝に打たれているかのように。
 衛宮士郎が良く知っている筈の世界は、そこにある者達が出現した事によって外見のみを残して、その性質を明らかに変貌していた。路傍の石、冷たい電柱、羽虫の群がる電灯、それらすべてがおのずから輝きを放ち、自分達の領土に足を踏み入れた者達を祝福し、歓迎している。
 夜の闇の中で、この星の全てを照らし出す様な輝きに溢れていないのが不思議なほど、士郎の目の前にいる者達は―――――美しかった。そう、美しい。美しすぎるほどに。
 士郎たちを背後に庇う位置――庇うつもりがあるかどうかは甚だ怪しい所であったが――に立つ、頭のてっぺんからつま先に至るまで黒で揃えた青年が、普段なら年中縁側で日向ぼっこしているみたいにのんびりとしている顔に、珍しく緊張の色を浮かべていた。
 明日世界が終ると言われても、顔色を変えないと、知人から断言される性格のこの青年が緊張を隠さず、いや、隠せぬのは、世にも稀な事であった。比喩でも誇張でもなく世界の終焉に比する一大事が勃発しているのではあるまいか。
 青年――秋せつらは、恍惚と戦慄のカクテルに酔いしれている背後の四人の事は頭の片隅に留めて、この事態にどう収拾をつければよいのだろうと、心底困っていた。およそどんな時でもぬーぼーとした表情を浮かべているから、実は事態を切り抜ける切り札か方策を隠し持っていると、よく勘違いされるのだが、実際には何にも考えていなかったりする。
 そしてこの場合、せつらに特に打つ手はなかった。小細工もへったくれもなしに、実力でこの場を切り抜けるしかなさそうだった。
 どうしてこんな事になったのだろうと、せつらが思い返したかは分からない。たとえ昨日の事であっても、過去に思いを馳せるのとは最も縁遠い人間である。だから、この冬木市を訪れる事になった事情と、初日に起きた出来事に思いを馳せたとしよう。



 まず過去の舞台は東京都二十三区の一つ新宿区に一時映る。だが、そこは尋常な物理法則の庇護下にある常識の通じる世界ではない。真に今の新宿を語るならこう呼ばなければならない。

“魔界都市<新宿>”と。

 ぐるりと旧新宿区の境界線を囲む幅二百メートルに渡って広がる大地の裂け目。果てしない暗黒のカーテンが下りた奈落は、あらゆる可視光線を吸収し、底の映像を捉えた例は無い。そして“亀裂”から噴出すガスは超高々度以外の上空からの侵入を阻止し、“亀裂”の上に渡された三箇所のゲートと大橋以外の行き来を拒絶する。
 十数年前に起きた都市直下型地震によって壊滅した新宿区。だが、その時起きた地震はただの地震ではなかった。なぜなら、新宿区の一ミリ外では地震による揺れどころか、新宿区の建造物が崩壊する音すら伝わらなかったのだ。音も無く、余波も無く崩壊する新宿の様は、区外の人々に悪夢の如く心に焼きついたのだ。
 数千名の死者とそれに倍する行方不明者達は地震の規模からすれば、不謹慎ながらも少ないと言える数だった。だがそれは、地震の後の悪夢に捧げるための生け贄とする為に生存者を残したのだと、生き残った区民の間で、まことしやかに囁かれる事になった。
 崩壊した市ヶ谷の遺伝子研究所から流出したサンプルの数は数十万を超え、その数値を見た生き残りの所員は自ら命を絶った。崩壊した新宿区内の名所や平凡だったはずの跡地からはこの世ならざる異界の妖気が立ちこめ、遺伝子に変異を生じた数多の凶獣達が毎分ごとに誕生。また地震によって命を失った者達もその妖気の影響を受けて膨大な数の死霊となって生き残った人々に怨嗟の声を上げた。
 人々は新宿が最早、どれだけの年月をかけても元の新宿に戻らぬ事を知った。既にそこはこの星の上にありながらこの星のものではない、地獄の如き世界へと変っていたのである。故に、旧新宿区は“魔界都市<新宿>”と呼ばれ、<新宿>を生み出した地震を“魔震”と、畏怖を込めて呼ぶのだ。
 かつての面影などほんのわずかに留めるのみとなった、西新宿の一角に、三代続く由緒正しいせんべい屋がある。墨痕淋漓と書かれた看板には“秋せんべい”の文字。営業時間の筈であったが、店には耐ロケット弾処理の施された特殊合金製のシャッターが下ろされている。
 裏口から直ぐの六畳一間では、掘り炬燵に足を突っ込んだ青年が両手に持った湯飲みをズズズと口につけていた。黒いシャツに黒いタートルネックのセーター、黒いスラックス、ハンガーには黒いコートが掛けられている。髪も瞳も黒一色だから揃えているのだろう。右手の辺りにドラムバッグが置いてあった。これからしばらく留守にする所なのである。
 店の主人、秋せつらだ。眠たげに閉じていた瞳を開き、湯飲みをそっと置いた。指の離れた湯呑みが、未練を抱いているように見えたのは錯覚か。そっと離された指の輝くような肌。密やかに桜色を乗せた爪の美しさ。人の持つ手にあって良い美しさではなかった。
 ならば、手のみならず顔形も美しいのか? 疑問を抱くものあらば一目でその思いは、業火の前に配された氷塊の如く溶け行くだろう。そしてこう思う。あるいは人間らしい感情を浮かべたなら、私たちと同じところまで堕ちてきてくれるかもしれない、と。
 生涯に一筆だけ振るうことを許された天下無二の名人が全身全霊を込めて引いたかのような美眉。それが顰められる物憂げな表情。
見つめられるものがそのまま心の臓を止め、恍惚とした心持のまま昇天したいと、胸を掻き毟る程に暗く輝く瞳。そこに走る激情の色。
 触れる大気、吐き出される吐息のひとつひとつにすら心奪われるような唇とその奥にある白の色を這わす歯の並び。それが食い縛られる怒りの相。
 万に一つも秋せつらがそんな顔をすることはあるまいが、もしそうなっても、人々は絶望するだけだ。自分たちと同じ感情を抱いて尚この男は美しい、人間ではないのだと。
 せつらはうんしょとじじむさい声を上げて重い腰を上げ、ドラムバッグ片手に三和土に降りて、裏口から店を出た。

「おお、寒」

 と白い息と共に実にシンプルな感想を一言漏らす。せつらに降り注ぐ白い雪。地上に堕ちた天使を憂う天の想いが形にでもなったものか。
 季節は冬。一月と二月の境だった。これからせつらは副業である人捜しに出かけるのだ。十年前に行方不明になった弟を探して欲しい、生きているにしろ死んでいるにしろ、病に伏した母親の最後の頼みだと、依頼人は涙を拭いながら語った。
 場所はどちら? というせつらの声の後に続いたのは ○×県冬木市という地名。弟さんのお名前は? 依頼人の答えは■■■■。
 せつらはまたホウと息を吐いた。息が白いのを面白がる子供の風情があった。

「西日本か、遠いなあ」

 そうして<新宿>一のマン・サーチャーは数日の間<新宿>から姿を消したのだった。



 駅にせつらが降りると、周囲の人々は時が止まったかのように動きを止めた。真に神々しい存在を目撃してしまった無神論者か、芸術の真の意味を悟った不遇の芸術家の様でもあった。
 どちらにせよ、それを知る前と同じではいられないという点では同じだ。精神のどこかが変わらずにはいられぬ存在との遭遇という意味では。その、注目の的であるせつらは、手でつかみとれそうな位に密度の濃い周囲からの視線を、ちっとも気にせず腰に手を当ててポンポンと二度叩いた。

「お~痛。やっぱり夜行列車はつらいね」

 等とのたまった。旅費をケチったらしい。それから出口のほうに向かい、何十人も壁のように立つ人々のほうへと足を向ける。途端にモーゼを前に割れた海の様に人々が別れて出来たせつらの為の道を、ど~もと会釈しながら通り、外へと出た。
せつらが過ぎ去った後には、二度と戻らない宝を失ったかのように、あるいは良い夢に浸り続けるように眼を瞑り、恍惚とした表情を浮かべた人々だけが残された。その日一日、その駅を利用した人々は不思議な違和感を覚えた。
 ある人は、駅が輝いているような気がする、と言いまたある者は、雰囲気がなんていうか奇麗になっている、と言った。せつらが去ってから、それは終電が出た後も続いたのだった。
 せつらは依頼人のかつての住所の辺りをうろついた後、冬木市を構成する“新都”と“深山町”の内深山町へと足を向けた。戸籍謄本の類や写真は生憎と十年前の大火災で失ってしまったらしく、後は名前や十年前の顔立ちやら位しか情報は無かった。

「とりあえず同じ名前の子を探してみようか。さて、生きているのか死んでいるのか、はっきりさせないとか」

 依頼人が覚えている限りの特徴を、<新宿>の知り合いの再生画家に描かせた顔絵に向けて、せつらは話しかけた。描かれていたのは、6,7歳位の少年だった。
 大火災の死者・行方不明者に本当に含まれていなければ、とりあえず年齢が十代後半頃、両親ないし保護者が分からず、養子縁組が行われている少年や、孤児の子供を探せばその内行き当たるだろう。今までの経験からすれば難しい、どころか簡単な依頼だ。さしたる苦労も無く終わる、そんな風にせつらは思っていた。その日の晩までは。
 時刻が夜に変わり、せつらは今も似顔絵片手に市内を歩き回っていた。<新宿>で太った情報屋に聞いておいた冬木市の個人情報を検索した結果、該当する少年を手当たり次第に探し、尽くが外れている。とはいえ絞り込むキーワードは多く、特に“十年前の大火災で行方が分からなくなった”というのが効いているから、残すところあとわずかだ。
 せつらは深山町の一角に立つ立派な武家屋敷のチャイムを鳴らした。住人は衛宮士郎という少年一人。年齢や、養子縁組みがなされている事も該当する少年だ。養父である衛宮切嗣は既に他界している様だから本人に聞くしかあるまい。
 ピンポーンと鳴るチャイム。

「………………」

 またピンポーン。空しく響くチャイムの音は一際大きく聞こえる。

「………寝ちゃったのかな? 失礼」

 何が失礼なのか、せつらはそう言って押し黙ってしまった。月光に照らされるせつらの影がわずかに動いていた。指だ。右手の中指が、ほんのわずかな動きを示している。時折、キラっと光って月光を跳ね返す筋があった。
 糸である。秋せつらの使う千分の一ミクロンのチタン鋼の妖糸。特殊な電磁波とミクロ細胞処理および錬金加工が施された妖糸は光の速さで触れたものの情報をせつらの指に伝える。
 先程の“失礼”と合せて考えればおそらく衛宮邸の中に妖糸を忍ばせて住人の在宅を確かめているのだろう。結果はハズレと出た。

「こんな時間に学生が外出か、感心しないなあ。しかしどうやら物騒な事になっているらしいぞ」

 せつらは悩める若き天才哲学者の風情で呟き、そっと溜息を吐いた。どうも簡単には済まないと分かる何かを探り当ててしまったらしい。
 妖糸は屋敷の中に漂う血の匂いと残留する殺気を探り当てたのだ。せつらの妖糸は匂いや電子機器の中の情報までも読み取る馬鹿げた能力を持っている。
 さて衛宮士郎はどこへ行ったのやら、せつらは若干急ぐ調子で妖糸を電柱に飛ばし、振り子のように身を躍らせて冬木の夜を飛翔した。コートを翼のようにはためかせつつ、せつらは同時に妖糸を冬木中に流した。
 風に乗せて流せば、半径数キロメートルに渡るネットワークの完成である。まだ遠くへは行っていなかったようで妖糸はそれらしき反応を伝えてきた。ただし数は合わない。衛宮士郎一人ではなく、妖糸を震わせる反応は複数あった。
 急行するせつらの視線の先で、大きな火炎の手が天へと伸びた。頭に入れておいた地図と照らし合わせると、そこは墓地に当たる。

「あちゃあ」

 ちっともそうは思って無さそうだった。電柱の一つに立ち止まると、足元を二つの影が通っていった。少々遅れたらしい。周囲に他に人影は無く、おそらく人払いの結界でも張ってあるのだろう、とせつらは推測している。妖糸の伝えてきた情報の中には魔術的な反応も含まれていたからだ。
 加えてここら付近に近付こうとした時に、無意識的に避けようとする精神の働きを知覚していた。おそらくは“ここに近付くのを忌避する”という風に働きかけて人除けをしているのだろう。気付いてしまえばさしたる効果は上がらないようではあったが。
 ここで考えるべきは去っていった二つの人影を追うか、あるいは爆発のあった墓地へとこのまま向かうか。

「重要参考人に話を聞くか」

 追う事に決めたようである。そしてせつらは、妖糸を使って電柱から重力を感じさせない動きで舞い降り、影の後を追った。着かず離れず追いかけ、角を曲がった所で少し急ぎ足に変わる。妖糸を巻きつければ良いのだが、万が一気付かれて取り払われると厄介だ。自分の目というのも信頼できる事だし。
 ちょうど角を曲がろうとした所で、せつらは背筋に走る危険を告げる信号に従って背後に飛び退いた。眼前を、巨大な物質が通り過ぎアスファルトの道路を轟音と共に打ち砕く。尾行がばれていたらしく、待ち伏せされたのだ。
 すうっと道路を打ち砕いたモノが持ち上がり、せつら目掛けて再び上段へと振りかぶられてから、落とされた。そしてそれを振るう者もまたせつらの前へと姿を見せた。
 もし、そこを通りがかった者が居たなら、百人中百人が例え一万人になっても目を疑っただろう。何故なら、いつもと変らぬ平凡なはずの夜なのに、黒衣を来た天使と見紛うばかりの、美しい事この上ない青年と三メートルはあろうかと思える鉛色の半裸の巨人とが争っているのだから。
 幸か不幸か、その戦いの場を目撃した人間は戦いの当事者以外には居なかった。鉛色の巨人が、その筋肉の全てが鋼で構成されていると見えてもなんら不思議ではない巨体に相応しい武器を振るった。成人男性よりも巨大な岩塊が申し訳程度に剣の形に整えられ、丸太のように太く岩肌のように荒々しい巨人の右腕に握られている。
 方々に広がる黒い蓬髪、金と赤とに輝く凶光を放つ眼。知性が伴っていたなら世の諸人がその活躍を望み、万の軍勢と金色の鎧、天工の技量で拵えられた剣と盾とを持たせてからチャリオットに乗せ、戦いにのぞむその鬨の声に誰しもが酔いしれただろう。この男が居る限り我らに敵は無し、我らが行く道は唯勝利のみ、と。だが今この巨人を表すに相応しい言葉は例えるなら狂戦士、ベルセルクかバーサーカーか。 
 では巨人と対する青年はどうか。言葉に出来ぬと、誰もが言うに違いない。いくら美辞麗句を並べても虚しい空言と化してしまうその美貌。天の神々も地獄の悪鬼たちもこの美貌に酔いしれ、この青年が死した後は手に入れようと争うのではあるまいか。美しいという言葉を呟くしかその“美”を語れぬ男。せつらである。
せつらに巨人とは異なる、明らかに幼いと知れる少女の声が掛けられた。

「ごめんね、奇麗なお兄ちゃん。私達のことを見られちゃったからには生かしては置けないの、そういうルールだから。でもあの子がサーヴァントなんて庇うから、詰まんないと思っていたのに、お兄ちゃんみたいなきれいな人がそれを覗いてたなんて。お陰であなたと会えたのだから、リンとシロウに感謝しないといけないかしら?」

 どうも、今到着したせつらをずっと覗いていたと勘違いしているらしく、なにやら物騒な単語を含んだ台詞を吐いたのは、巨人を連れてせつらの前に現れた十歳を少し越えた位の外国の女の子だった。
 多く見積もっても十代前半を越えないであろうその容姿は赤い瞳と雪のように白い白銀の髪、白色の玉肌と相まって、例え詩人でなくても、まるで雪の妖精とでも言いたくなるようだ。紫色のコートと、メーテ○のかぶっているような帽子、マフラーをモコモコと着込んだ少女は楽しげに、嬉しげに言葉を続ける。

「大丈夫よ、バーサーカーなら苦しめずに殺してあげられるわ。首から下はしょうがないけど、その顔には傷ひとつつけないから安心して! そしたら家の家宝として大事にしてあげる」

「それはどーも」

 少女に殺人宣言をされたせつらの返事がコレである。一応褒められてはいるから悪い気はしていないらしい。ここらへんのネジの緩みっぷりは、彼の知り合いにも理解できない。更に言えば、この後した『返事』もこの若者くらいしかしそうに無かった。

「とりあえずこんばんは。お名前は?」

 声の口調はぽけっとしているが、ちゃんと少女の耳には届いたようだ。

「名前を聞くのなら聞いた方から名乗るものだけど、襲っているのは私達だし、まぁいいわ。私はイリヤスフィール・フォン・アインツベルン。長いからイリヤって呼んでね。そっちはバーサーカー、私の最強のサーヴァントよ。あなたは? サーヴァントじゃないわね、マスターの魔術士とも思えないけど?」

「ご丁寧に。秋せつらだよ、せんべい屋のオーナーをしてる。日本語上手だね」

 秋せつら、その名前を聞いたイリヤの顔が音を立てんばかりに強張り、緊張に満たされた。せつらの美貌に蕩け、その美貌の主を殺す背徳の快感に染まった名残は無い。その名が持つ意味をイリヤは知っていた。

「“秋せつら”……<新宿>の主。なんでそんな男がここに?」

 この世ならぬ魔性の都とされる土地は、世界にいくつか存在する。霧深き魔都“倫敦”、異大陸の魔界都市“コダイ村”。そして198X年九月十三日午前三時、新宿区を襲った“魔震”によって第三の魔界都市となった<新宿>において、秋せつらとは触れてはならぬ三魔人と畏怖される者達の一人であった。
 曰く、世界最高峰の暗殺集団“夏柳ファミリー”、世界で五指に入る、コダイ村の暗殺者達“血の五本指”を斃し、米軍の精鋭SAM、同じく米軍特殊戦略部隊を壊滅させ、フランケンシュタインの末裔にして不死であり、人造人間を操るフランケンシュタイン男爵に死をもたらしたと言う。
 そして最も恐れられるのは、この男が“ 姫 ”と呼ばれる伝説の吸血姫を滅ぼした――ないしは退けた男と言われている事だ。“ 姫 ”とは、古代中国の三王朝を滅ぼした悪鬼にして、何時の時代より生きているのかすら、定かではない最強クラスの女吸血鬼だ。
 聖バーソロミューの虐殺を最後に姿を消したこの吸血姫が<新宿>に姿を見せた時、世界中の主たる退魔機関ないし、それに類する組織は<新宿>の外に出てきた時の為に過剰ともいえる臨戦態勢で周囲を囲い込んだ。
 その戦闘能力は、月より舞い降りたある存在によってこの星が意図的に生み出した吸血鬼“真祖”の、最後の生き残りにして最強の真祖といわれるアルクェイド・ブリュンスタッドと同等、性格・過去の行動から見ればその危険性ははるかに上、とされていた為だ。
 そしてその“ 姫 ”を滅ぼした<新宿>そのものとされる男の名を、しかしイリヤは恐れなかった。なぜなら彼女には最強のサーヴァントが共に居るのだから。

「まぁいいわ。あなたがここにいる理由が何であれ、殺さなくちゃいけないことには変わりないもの。やりなさい、バーサーカー」

「■■■■■―――!!」

「近所迷惑だよ」

 言葉にもならぬ咆哮をバーサーカーが挙げて、五メートルはあった距離を一瞬で詰めた。右手の岩剣が唸りを上げて美貌の天使に落とされる。イリヤはせつらの死の瞬間を見逃さぬよう、暗い愉悦と共に食い入るようにして見ていた。だからバーサーカーの岩剣が、せつらまであと五十センチという所で停止した事が理解できなかった。

「バーサーカー!?」

 バーサーカーは自分に逆らってなどいない、瞬時にイリヤが悟り、何が起きているのかその元凶を理解した。ただし、如何なる方法かは分らずじまいだ。

「秋せつら……!!」

「死には死を持って報わん。<新宿>の流儀で、ここは区外だけど、僕も命を狙われた。ならそれ相応にお返ししなくちゃね」

 バーサーカーの剛剣と言うも愚かな一撃を食い止めているのが、岩剣に巻きついた百条に及ぶ妖糸とは、せつらにしか理解できてはいなかった。せつらの美影身が宙を舞った。電信柱に巻きつけたチタン鋼の糸をばねに飛び上がったのだ。
 イリヤは黒に染まった天使の飛翔を見た。バーサーカーが妖糸を千切り、せつらを追う。電光の速さで振り返ったバーサーカーが飛翔中のせつらに剣を上段から振り落とす。それより速く糸が巻きつき、剣の軌道を大きくずらしてアスファルトの道路を大きく穿つ。

「■■■……!?」

 おのれの一撃がどのようにして防がれているのか、“バーサーカー”というクラスの特性ゆえに理性を奪われたバーサーカーに理解できるはずも無く、音も無く千分の一ミクロンの糸がその首に巻きついた。後は引くだけで巨人の首は宙に舞う、はずだった。

「あれ?」

「何をしたかは分らないけど、その様子じゃ何か仕掛けたみたいね。でも無駄よ、サーヴァントには何かの神秘や概念、魔力が篭っていない限り例え核ミサイルを持ってきても傷ひとつつけられないわ。もっともあなたの攻撃に神秘があっても、私のバーサーカーの宝具の前には無意味でしょうけどね」

 自慢げにイリヤがせつらの疑問を解いた。<新宿>の妖物やサイボーグ連中の装甲を、張り詰められた和紙を切り裂く名刀の切れ味の如く切り裂いてきたせつらの糸は、バーサーカーに傷ひとつ付けられなかったのだ。
 では、せつらの糸が霊的存在であるサーヴァントに有効か、といえば十分に通じる。せつらの糸は代々秋一族が宿敵である浪蘭一族と遥か古代から続く死闘の中で、互いに振るってきた技であり、その中にはこの世ならぬ異形の力や妖術を用いたことも少なくない。
 つまり霊的存在との戦いも数多く経験されている。加えてせつらが生きる〈新宿〉には物理攻撃の効かない精神のみが存在する妖物や、不死身の化け物連中も多い。必然的にせつらもそういった連中を倒す斬り方を習得している。
 この場合、相手がサーヴァントであることより、相手がバーサーカーであることが問題といえよう。せつらはサーヴァントって何? という位部外者なのだが。

「もう一度」

 と、せつらが言って妖糸を振るう。通じればバーサーカーは五十以上の肉塊にバラける。妖糸がバーサーカーの肉体に届き、その表面を滑るに留まった。

「だめか」

「■■■■■―――!!!!」

 巨体からは想像できない速度でバーサーカーが迫りせつらに横殴りの一撃を見舞う。音は後からやってきた。この瞬間バーサーカーの剣撃は音速を超えた。上半身を吹き飛ばす勢いの一撃を、せつらは空中に渡した妖糸に飛び乗ってかわした。
 バーサーカーの一撃は音速を超え、確かに常人なら反応すら出来なかっただろう。ただしせつらは勿論常人ではないし、速度で言えば音速を超える高速人は〈新宿〉ならそう珍しくは無いし、戦闘経験もあった。
 加えて、理性が無いバーサーカーは殺気がむき出しだ。それでは機械の殺気すらも感知するせつらの勘に避けてくれと言っているようなものだ。もっとも、ただの一撃でもかすればそのままあの世とやらに行けそうなほどに強烈な一撃だ。せつらは避ける事しか出来ない、とも言える。
 四メートル上空に立つせつら目掛け、巨人が飛んだ。重力をものともせずにバーサーカーはせつらの眼前に躍り出た。ざっと三百キロ超の肉体を飛翔させるとは、常軌を逸した筋力の賜物だ。

「■■■――!!」

 今度こそ、そう念じるイリヤの期待は再び裏切られた。四方から妖糸が伸びてバーサーカーの四肢を縛ったのだ。いくらバーサーカーが力を込め、腕や足を伸ばそうとも糸がその分だけしなり、たわみ、如何なる剛力でも脱出できぬ束縛となっているのだ。かつて闘った“ 姫 ”も独力では脱出できなかった妖糸の緊縛術だ。
 妖糸の上に立ったまま、せつらがイリヤを見た。目が合い、イリヤは恐怖に心臓を握られたような錯覚に陥った。あの男は自分に決して容赦しない、相手が年端も行かぬ子供であろうと、足腰の立たぬ老人であろうと。
 一度敵と見なしたならば、いかなる情も見せずに殺す。せつらが“魔界都市<新宿>”の住人であると、イリヤはようやく理解した、
 せつらはなんでそんな顔してんの? といった表情でゆっくりとイリヤに向かって妖糸の上を歩いて近付き、妖糸から飛び降りた。
 白い妖精にそっと忍び寄る秋せつらの妖糸、それはイリヤの命運は暗い死出の旅路へと繋がれ様としているということだ。その時であった、バーサーカーを縛る糸が手ごたえを失ったのは。

「!」

「■■■■■■―――!!」

 せつらの背後にバーサーカー。巨人の巨体が、せつらから月光を遮った。間一髪、コートの裾を犠牲にせつらがバーサーカーから飛び退く。イリヤに向かい、緊縛の糸を送ろうとしたせつらに対し、バーサーカーが霊体化して糸をすり抜けてせつらの背後に立ったのだ。

「バーサーカー?」

 それがイリヤの意思でも指示でもなく、理性を奪われたはずのバーサーカー自身の意思によるものだと、せつらにもイリヤにも分らない。ただ

(あの人、狂わされているのじゃなくて……?)

 と、せつらが一瞬交わした狂戦士の瞳の中に、理性の輝きを認めた。殺戮の夜は、死闘の夜は、まだ始まったばかりだった。

「区外も物騒だなぁ」

 と、のほほんとしたせつらの言葉が夜に木霊した。
 相対した両者の距離は五メートル。バーサーカーならば一足、せつらならばコンマ一ミリ以下の指の動きで相手を殺傷せしめる距離だ。お互いに相手が秋せつらとバーサーカーでなければ。
 バーサーカーがせつら目掛け下手に攻撃を仕掛ければ、妖糸は容赦なくイリヤの幼い少女の柔肌に食い込み、そのチタンの糸の贄となる。
 せつらからしても、先程までのバーサーカーまでならともかく“今の”バーサーカーは違うと感じている。死闘という言葉が霞む戦歴と、あまりに生と死の境が曖昧な日常を生きる<新宿>区民の勘が出した結論であった。

「……」
 
 唐突に鋭い痛みがせつらを襲った。先程のバーサーカーの一撃の余波が、かわしたつもりだったせつらの背を剣風で切り裂いていたのだ。
 ざっくりと開いた切り口からせつらの白磁の肌へ血の赤のコントラストを刷いている。バーサーカーが動いた。その名に似つかわしくない理性あるものの動きで。

「■■ッ!」

「元気な事」

 バーサーカーが足元に走った妖糸を飛び越え、頭上から降り注ぐ雨の如き妖糸を岩剣の一振りで斬り千切る。見えているというのか、百万分の一ミリ、千分の一ミクロンの妖糸が!? バーサーカーの巨体が繰りだした疾風迅雷という言葉を体現したかのような一撃。それは大瀑布の重圧と必殺の運命を携えた“死”。
 せつらは一センチくらいの糸玉を放った。それは数千条に及ぶ妖糸の塊であった。バーサーカーの一刀を解けた三千の糸が九千の斬撃で相殺する。せつらは同時に背中の傷を妖糸で縫合し、痛み止めと血止めのツボを刺激。神経と血管に妖糸を流し絡ませて応急処置を終える。
 バーサーカーのアキレス腱であるイリヤに注意を向けると

「■■■■■■――!!」

 バーサーカーがさせじと裂帛の気合で迫り来る。

「おっかない保護者がいるもんだ」

 という余裕のありそうな台詞に反してせつらの表情は厳しかった。必殺の糸は通じず、突破口であるイリヤには手が届かない。これでは万に一つの勝機すらないではないか。如何にしてこの状況を打破するのだ、魔界に生まれし翼無き魔天使よ?

「三十六計逃げるにしかず。三十七計目を決め込むか」

 戦う必要性を見出していなかった。

「■■■ッッ!!」

 はっと気付いた時には目の前にバーサーカーの岩剣。電灯に照らされる一角にしぶいたのはせつらの血であったか。やった、とイリヤが小さく心の中で喝采を挙げて、バーサーカーを見上げようとした。止まった、その動きが。バーサーカーの巨体から噴出す闘気は収まらず、より一層激しさを増していた。
 何故? バーサーカーに左肩を割られ、遠のいた黒衣を纏った美青年が変わったから。
 左肩から血を流しながら、せつらはすっくと立ち、バーサーカーとイリヤへと顔を向ける。やや俯き加減で、前髪で目が隠れていた。月もまた雲に隠れた。恐ろしいものから姿を隠すように。
 月が再び雲から姿を現す数秒の間に、イリヤはこうせつらの唇が紡いだ言葉を聞いた。

「出会ったな。“私”と」

 “僕”では無く“私”。秋せつらの自らを呼ぶ呼称が変わる時何が起きるのか。イリヤは動かなかった。バーサーカーが動いた。“私”のせつらもまた。
 凍てつく空気、心臓すら動く事を止めてしまいたいと血管を破って絶叫を挙げるかのように一変した、闘争の場。全てはあの美しい青年が起こした現象だ。“僕”が“私”に――秋せつらから秋せつらではないモノへと変わる儀式に伴う異界の空気の顕現。
 何なのこの男――!? 声無き悲鳴が、イリヤの魂から響き渡った。聞き取ったのは、従僕たる巨人。

「■■■■―――!!」

「妖糸では断てないのではない、“僕”が未熟なだけだ。私が斬る事ができなかったのは断じてお前では無いぞ」

 ああ、声も顔もそのままだ、だが違う、何かが、決定的に違う。この男は秋せつらではない、ならば何者だ? ある男はこう言った。“羅刹のせつら”と。
 月光に煌めく妖糸、びうんというかすかな音がした後、ばしゃばしゃという水音と水溜りに小さなものが落ちる音とが続く。イリヤがバーサーカーを見下ろした。見上げねばならぬほどの巨体は、いまイリヤの足元に落ちていた。
 イリヤの靴に赤いものが忍び寄り、靴の形に添って流れた。血だ、バーサーカーの。ああ何という事だろう。傷つく所など想像する事さえできないような、あの鉛色の巨体は無残にも形すら残してはいなかった。
 三百六十度あらゆる方向から襲い来る妖糸に、万の肉片に切り刻まれたバーサーカーの死体が、イリヤの見つめる先にあった。惨劇を通り越したその姿は不思議と吐き気やおぞましさを抱かせなかった。脳がその惨状の凄まじさを理解できないからかもしれない。
 バーサーカーの流した――いや、ぶちまけられた、というべきなのか――血から立ち上る白煙と匂いが、イリヤの触覚と嗅覚、視覚を嬲る。発狂してもおかしくはない惨劇。
 コツリ、夜陰に響く黒靴の音。イリヤが振り向いた。或いは振り向かされたか、錆びついた機械人形の動きであった。
 再び絡むせつらとイリヤの視線。せつらの瞳には何も浮かばない。ただ冷たく、静かで、恐ろしく何よりも美しかった。
 “魔人”その言葉の意味を、イリヤは風前の灯となった運命の果てに悟った。

「他者の命を狙う以上自らの命を失う覚悟はあるな。無くとも結果は同じ、お前は“私”と出会った。気の毒に“僕”ならばその命助かったかもしれん」

 動きともいえぬわずかな動きが、せつらの左薬指で行われた。寒々しい冬の清雅な空気に舞うのは、白銀の髪を翻すイリヤの幼く愛らしい顔を載せた首か。

「■■■■ッ!!!」

 許さぬとバーサーカーが吼えた。切り上げられた岩剣を、妖糸を使い、電柱に絡ませて飛んで回避し、空中に渡した妖糸の上に立つ。

「再生能力か複数の命でも持っていたか……死にながら尚主を守るか。見事、と言うべきかもしれんな」

「バーサーカー!!」

 自らの従僕によって救われたイリヤが、バーサーカーの名を呼ぶ、だが答える声はなかった。せつらの“死にながら尚”という言葉がその答えだった。
 岩剣を握る太いワイヤーを幾つもより合わせたような豪腕、狂気を宿しながらも威厳を失わない顔、鋼よりも頑健そうな分厚い胸板、だがバーサーカーの肉体はそこまでだった。
 胸から下と左腕は今だ血の海に蠢く肉片であり、バーサーカーはまだ蘇ってはいない死んだままなのだ。胸から上と右腕、顔、の上半身の一部だけの状態からイリヤを守るために一撃を振るい、大気の中を忍び寄っていた妖糸を斬って見せたのだ。

「……」

 せつらが動くか否か、緊張に満ちる時が流れ、唐突にせつらが背を向けた。

「邪魔が入ったか」

 彼だけに分かる何かが起きたのだろうか? イリヤとバーサーカーにはもう興味は無いとでもいう風にあっさりと背を向けてしまったではないか。だが、イリヤもバーサーカーも去り行く黒衣の背を見送るだけであった。バーサーカーはようやく下半身の再生が始まり、イリヤは息をする事さえ忘れていそうだ。
 せつらがわだかまる闇の奥に消えてから一分、二分と時が経ち、やがてイリヤがペタンと膝を突いた。目尻に、うっすらと光るものが滲んだ。
 怖かった。あの眼で見つめられるのが、あの声を聞くのが。美貌の魔人が、呼吸する音を聞くことでさえあの男の存在を意識してしまい恐ろしかった。
 あの瞳が語っていた。お前を殺すことに躊躇いは無い、と。手段は分からぬが、永劫に救われぬ様な殺され方をした自分の姿を思い描き、脳裏から消えなかった。
 それからイリヤはただ声を押し殺して涙を流した。過ぎ行く時が恐怖を消し去ってくれるとでもいう風に。今の彼女は強大なマスターでも目的を果たすためには手段を選ばぬ魔術士でも無かった。ただ怯えて涙を流す、触れれば壊れてしまいそうなほど華奢な少女だった。
 やがて、イリヤの肩に再生しきったバーサーカーの大きな手が置かれた。イリヤはバーサーカーを見つめた。バーサーカーの手は大きく、たくましくてゴツゴツとしていた。だが、イリヤが今一番求めていたもの、ぬくもりがあった。優しさがあった。
 イリヤは、バーサーカーの手を少し強く握って、最後の涙を一筋流した。月夜に一際美しく輝いたそれは、ポツリと道路に落ちて小さな染みになった。



 せつらはイリヤ達から離れ、やがて妖糸から降りて誰もいない路地裏の一角で声を上げた。

「ここならば邪魔者は入るまい」

 聞いた者の心臓を止めてしまうような凍てついた恐怖を呼び起こす声。彼は今だ“私”であった。

“良く分かったな。いや、当たり前か”

 せつらに妖糸を通して指から相手の声が起こす振動が伝わった。せつらの妖糸に絡まった魔糸の仕業だ。妖糸と等しく千分の一ミクロンの糸である。糸電話の様なものと思えばよい。

「またお前と戦わねばならんとはな」

“理由が無ければ戦うことは出来無いか? 憎くなければ僕を殺すことは出来ないのか、せつら?”

 苦笑と共に、妖糸を震わせて声が告げてきた。

「いいや、戦えるぞ。相手が幼馴染であろうともな。私はお前を殺したぞ、幻十よ」

“その通りだ。僕はお前に殺された”

 何という奇怪な会話か、せつらは語る相手もいない路地の一角で確かに会話を交わし、しかもその相手を殺したとは、そして幻十とは一体誰の名前であろうか。

「蘇ったか、再び選ばれる為に」

“聖杯を得る為さ。もっとも手段であって目的はお前の言うとおり選ばれることだがね”

「聖杯?」

“どうやら知らぬ様子だな。この街では聖杯を巡る魔術士どもの戦いが幾度か行われているのさ。お前がさっき戦っていたのもその参加者だ。巨人の方は魔術士が呼び出したサーヴァントと言う上等な使い魔だよ”

「お前も参加者か」

“その通り。僕もまたサーヴァントと言う身の上になってね。お荷物を抱えて戦っている。あのバーサーカーという巨人を厄介な相手と見定めて少々様子を見ていた所さ”

「走狗となってまでも、か。それほどまでに選ばれたいのか? 幻十」

 返事は無い。ただ微笑するような様子が、糸越しに伝わってきた。

“これは忠告だ。せつら。君が何をしにこの街に来たかは知らないが、聖杯に用がないのなら速くこの街を去りたまえ。君でも一筋縄ではいかぬ連中がゴロゴロしているぞ”

「……」

“では、な。話せて良かったよ。本当に良かったか悪かったかは分からないがね”

「立ち塞がるならば敵と見なす、か。お互い憎くなくとも殺しあえる仲か。一度殺し、殺されても因果なものだ」

 それはせつらの独り言だった。既にせつらがかつて争った幼馴染、幻十と彼の操る魔糸の気配は消えていた。せつらは、まるで疲れきった人のように、わずかに背中に暗い翳を這わせた。夜の闇の中でもはっきりと分かるような、誰も背負いたくは無いと思うに違いない翳であった。



 その日、洋風の広大な屋敷の地下室で、二人の女がこんな会話を交わしていた。

「先輩……ずっと、ずっと好きでした。私は貴方を……」

「ふふふ、それ程までにその男が恋しいのか、桜? じゃが男はお前の想いなど気付いてはおらぬようじゃな。それどころか……見よ」

 明かり一つ無い暗がりの中で、一体何が見せられたのか、片方の女が息を呑んだ。

「姉……さん」

「ほほほ、お前の姉がお前の愛しい男に近付いておるぞ。それだけではない、この男はお前の想いを放って自ら死地にも出向くぞ? そしてその傍には、ほれ何とも愛らしい騎士が一緒じゃ。姉だけではない、桜よ、お前の恋を妨げるものは多いようじゃ」

「い…や、いやあ、先輩はずっと私が、私が……」

 桜と呼ばれた女が苦しむ様子をさも楽しげに見ているであろう女が、やがて桜には聞えぬように小さくとある名を呼んだ。それは桜に耳には届かなかったが、確かに言葉であった。

「せつら、お前なのか」

 憎むような、慈しむような、引き裂かれんばかりの感情が胸で渦巻いているに違いない声だった。ただ誰もがある一つの事に気づくだろう。声の中に、愛情が込められていると。



 せつらは、誰かに名前を呼ばれたような気がして振り向き、気のせいか、と結論して、ふと月を仰いだ。鏡のごとく澄み切った水面に映える月、朧雲に見え隠れし月輪を仄かに光らせる月、満天の星空の中空にあってなお一際輝く月、そのすべてに見惚れた事が一度もない様な青年が、なぜ月を仰ぎ見たのか、本人にも分からないかもしれない。
 月が写す影さえも美しい魔人は、やがて冬木の闇に消えた。



――そして、今。
 せつらはビルとビルとの間に渡した千分の一ミクロンの糸の上に立つ男を見上げ、それから足元を流れる銀流の上を悠々と渡りながら姿を見せた古代中国船の住人を見た。共にかつてせつらと死闘を繰り広げた二人である。一度は着いた決着を再度つける様な事になるとは、さしものせつらも夢にも思わなかったに違いない。
 せつら自身、それにせつらと対峙する二人の敵が、士郎と凛達の心を奪う魔的な美貌の主たちであった。
 見よ。
 天にはアサシンとして召喚された浪蘭幻十。かつて兄弟の様に育った幼馴染秋せつらと、<新宿>の覇権、魔界の王の座を掛けて血で血を洗う死闘を繰り広げ、せつらの振るう妖糸と同じ魔糸を持って数千の死をまき散らした冷美なる魔人。
 天地の狭間に流れる琴の音色を奏でるのはライダー妖姫。かつて<新宿>を訪れた古代中国吸血鬼集団の長にして、秋せつらをも上回る美貌を持つ最強最悪の吸血姫。いかなる手段を持ってしても滅ぼすことあたわず、物理的に滅ぼす事は不可能と言われた女。
 そして、地に立つは魔界都市の申し子、秋せつら。聖杯戦争の重要な駒たるサーヴァントとして復活した幻十と妖姫を前に、せつらはまるで気負った風はなく、やれやれと言った感じでこう、呟いた。

「来なければよかったのに」

 それは、死してなお現行人類よりもさらに進化した存在となるべく執念を燃やす幼馴染にか。
 それとも、せつらを憎み、それと同じかそれ以上に愛したが故に首を落とされた、吸血姫に向けての言葉だったか。
 あるいは、気まぐれで受けた人捜しの依頼で、とんでもなく面倒な事態に巻き込まれてしまった自分の不運を嘆いたのかもしれなかった。
 せつらの嘆息に、船の上で朗々と吟じられる妖姫の歌が重なった。

渡(みづを) 水(わたり) 復(また) 渡(みづを) 水(わたり)

看(はな) 花(をみ) 還(また) 看(はなを) 花(みる)

春(しゅん) 風(ぷう) 江(こう) 上(じょうの) 路(みち)

不(おぼえ) 覚(ず) 到(きみが) 君(いえに) 家(いたる)

 琴の音が絶えた。妖姫が妖琴・静夜の弦を爪弾いていた指の動きを止めた。途端に世界を埋め尽くす尋常ならざる妖気の凄まじさよ。こうして、冬木市が地図から抹消されかねぬ――せつら、幻十、妖姫、そして士郎・セイバー、凛・アーチャーの四つ巴の戦いの開幕が静かに告げられたのであった。

おわり。


後書き

美しすぎる聖杯戦争だと、キャスター=ドクター・メフィスト、セイバー=D、バーサーカー=八千草飛鳥、アーチャー=秋せつら、で考えましたがランサーが思いつかなかったので、美しすぎる、ではなく美しき聖杯戦争というタイトルになりました。
ちなみに、バーサーカーはもう妖糸への耐性ができたので、せつらが勝つにはイリヤを狙うか第三人格の発動しかないだろうなあ、と個人的には思います。真っ当に戦う限りは勝ち目が無さそうだし、バーサーカーが天敵でしょうね。。
次回は、聖杯戦争イン<新宿>の士郎・セイバー編か、こち屍の後編を投稿する予定です。では、お邪魔しました。



[11325] その5 魔界都市ブルース × リリカルなのはsts
Name: スペ◆52188bce ID:e0398f80
Date: 2010/06/02 21:42
※残虐な暴力表現などあります。お読みになる方はご注意ください。


『リリカルおせんべい屋さん』


月の明るい晩に
ミッドチルダに行ってごらん
月が双子の姉妹と分かるから


月の明るい晩に
<新宿>に行ってごらん
美しい人に月が嫉妬しているから


198X年九月十三日午前三時ちょうど、マグニチュード8.5を超す直下型の大地震に新宿区は襲われた。死者四万五千名。区外にはわずかな微震も及ぼさなかったこの“魔震”以降、新宿は魔界都市<新宿>とその呼び名を改められる。
<新宿>で月の明るい晩ともなれば数多の妖物、死霊、異常性質犯罪者どもが血と殺戮と破壊を求めて狂いだす死の時間。
対処法が明確かつ容易に行える妖物くらいしか出現しない安全地帯であっても、まっとうな職業の区民なら夜間は外出を控えるのに、一人っきりで夜の小道を歩く人影があった。
ふらふらと頼りない足元に、機嫌よく口から零れる調子と音程の外れた歌、うっすらと赤らんだ頬と、これだけ見れば百人が百人とも酔っ払いだと言うだろう。
街灯の暗がりの下に潜む人肉好みの妖猫のきらきら光る瞳や、月光に照らされた時だけふっと浮かびあがる死霊も、調子っぱずれの歌を聴くとそろって歌手の方に目にやって、そろって時の流れを忘れたように動きを止める。
本来ならその首にかじりついて脛骨ごと肉を噛み裂き、あるいは精神を衰弱させて死者の仲間入りを誘う妖物達が、このとき、たしかにあらゆる欲望をすべて忘れ去っていたのである。
答えはたった一つ――美空ひばりを口ずさむ人影の顔を見たからだ。
人影の正体は二十代半ばほどの青年であった。身に付けた衣服と髪と目の色もすべて黒で統一されていて、まるで夜の闇が気まぐれに人の姿をとったよう。
そしてその顔だちは――およそ人の言葉で例えられるものではなかった。
一国の運命を左右するほどの美女を傾国の美女というが、この青年の前に出れば二度とその美貌を誇ることはせず、鏡を見ずに残りの生涯を過ごすことだろう。
あるいはもしその美女が少しばかり自尊心が高く、恥というものを知っていたならその日のうちに自らの命を絶つに違いない。
自分たちなどよりもはるかに、比較することさえおこがましいほどのあまりにも美しすぎる存在を知ってしまったから。
老いも若いも男も女も、誰も彼もが讃え、魅了されずにはいらなれなかった自分達があまりにも醜すぎると絶望してしまうほどの。
世界一の美男美女が平凡な男女に貶められてしまう美貌の持ち主は、しかし、その見た目にまるでそぐわぬ下手くそな調子で歌い続けている。
自分の美貌の価値をまるで知らぬ様子の青年は、一杯きり飲んだビールのアルコールに全身を侵されて、普段ならあり得ない調子で歌うばかり。
あらゆる毒物を無害化する“賢者の石”を、旧新宿区役所に建てられた病院の院長に、手ずから体内に入れてもらっているのだが、どういうわけでかアルコールには万能の無毒化作用が及ばないらしい。
この青年、名前を秋せつらという。
西新宿二丁目で代々続く秋せんべい店三代目の店長であり、同時に秋DSMセンターという人捜し屋の所長も兼業している。
もっともせんべい店はアルバイトばかりで、人捜し屋の方は助手を雇っていたのはずいぶん前の話になるし、収入はともかく正規の従業員はどちらともせつら一人きりという超零細企業ぶりだ。
自分がどうしもうない下戸であることをよく理解しているせつらは、まずアルコール飲料を摂取することはない。ごくごく例外的に口にするのは、パーティーなどで知己に無理やり飲まされる場合。
そして仕事の依頼主が気持ちの良い好人物で、仕事の成功のねぎらいに一席設けてくれた場合などである。
前者に関しては、以前にそれで記憶を失う魔法薬を飲まされた経験から、今では一切すすめられた飲み物を口にすることはなくなった。
今宵せつらが月の光に酔った猫みたいに機嫌がいいのは、一カ月かかった難仕事を終え、しかも珍しく捜し人が五体満足無事、依頼人は五年ぶりに再会した我が子と涙を流しながら抱擁して再会を喜ぶことができた。
詐欺、窃盗、傷害、誘拐、強姦、殺人とおよそ人間が起こしうる犯罪が毎分単位で発生し、人間以外の遺伝子異常生物、死霊、妖物と命を脅かす危機に事欠かないこの街では、まず奇跡的な確立の出来事だ。
仕事をこなしても依頼人に口封じとばかりに命を狙われること、なんとしても逃げ出そうと捜査対象に襲われることの多いせつらにとっては、極めて望ましい穏便な結末である。
やれやれ、と肩の荷が下りたと思ったせつらは、涙を浮かべたままの依頼人に心を尽くした祝いの席に招かれてこれに応じ、供されたビールで一口ばかり喉を潤したのである。
たった一口のビールでしこたま酔っぱらったせつらは、自分の足で店舗兼用の自宅へと帰る帰路の途中にあった。
人間ばかりか妖物に至るまでその気分を高揚させ犯罪に走らせる月光を浴びて、数十の小さな影が精いっぱいに羽ばたいて、夜空に投影された影のようにせつらの上空で旋回していた。
この<新宿>の外で見かける分には何ら害のない雀である。
しかし、魔界都市産の生物となるとたとえ雀であろうともまるで安心できるものではない。
事実、この雀達はじつに<新宿>の生物らしく、その嘴は稲穂の米粒を突くのではなく装甲車の天井も貫く貫通性を持ち、爪は鉄板を薄紙のように切り裂く妖刀の切れ味を帯びている。
性格は凶暴この上なく、翼長6メートルを超す殺人鷹や<新宿>警察の光学兵器や高火力ミサイルで武装したヘリでさえも臆することもなく襲いかかり、満たされることのない飢えを満たそうとする。
いまも白い月光に落とされた影さえも美しい人捜し屋を獲物と定め、その骨と髄まで食らいつくすために同胞たちと群れだって襲撃計画を練っているところだったのである。
せつらの姿を認めた食肉雀が三十羽ほどの群れで上空を旋回し、高度二百メートルで急降下に移ったが、せつらの後方四十メートルほどの位置でなにか月光にきらきらと光る細いものに切断され、六十個の肉の塊がぼとぼとと地面に落ちた。
一秒前まで厚さ三センチの鉄板も貫く嘴と爪を持っていた元食肉雀達は、十秒とかからずどこかの闇から姿を見せた小型の妖物達に群がられて、血の一滴も羽の一枚も残さず胃の腑に収められる。
背後から聞こえてくる骨をかじる音や血を啜る音が聞こえていないのか、せつらは変わらず調子っぱずれの歌を機嫌よく口ずさむばかり。
今のせつらでは、例え目の前で凄惨な殺し合いが勃発しても、お盛んですね、と的を大きく外した激励をしかねない。
生と死の境が無に等しい魔性の都に住む人間とは思えぬぼんやりとした雰囲気のせんべい屋店主の足が、不意に絶対にあるはずの大地が消失したように揺らいだ。

「おっおっおっ」

せつらの声を録音したテープを、かつてアラブの石油王が日本円に換算して数百億円を叩いて購入したという。一声で何百万の値が着くかわからぬ声は、しばらく、おっおっ、と間の抜けた調子で連続する。
この青年の恐ろしいところはこの春爛漫といった無害そうな調子のままで、十人でも百人でも必要とあれば首を刎ねる事だ。
揺れているのはいまやせつらの体ではなく世界そのものであった。
地震。
<新宿>に住む者なら魔界都市を生んだ“魔震”をまず第一に思い浮かべる自然現象は、この時まるで意思を持った生物のようにせつらの歩む西新宿二丁目の通りのみを襲っていた。
地面に化けて通りかかった通行人を捕食する擬態妖物を避けるために、ミクロンサイズの退魔の護符と高田馬場に住む魔法使い達の調合した魔法薬をブレンドしたアスファルトの地面に、蜘蛛の巣状の罅が瞬く間に広がってゆく。
<新宿>区内のあちこちに存在する深さ無限ともいわれる亀裂の奥に潜むナニカが起こしたものか、地震はわずか一秒でせつらの前後に広がる地面をすべて飲み込み、星と月の光では照らしきれぬ奈落を広げている。
足元に広がる無限の暗黒を気にも留めず、せつらはその上空に立っていた。月光に濡れたように艶光る黒髪とこの世ならぬものを見つめているような瞳と同じ色の靴は、虚空を踏みしめて主を地上三メートルに固定していた。
<新宿>の空は都市に漂う妖気の影響を受けて地上666メートルまで余計な雑物を大気から除外し、世界中のどこよりも美しい夜空を覗かせる。
その満天の星空とまんまるい黄金の盆の様な満月を背景に虚空に立つ黒衣の人。
もしこの一場面を切り取り絵画にすることができたなら、この星が滅びを迎えてもなお残すべし、と人類が手と手を取り合って決意するに違いない人類の至宝が出来上がることだろう。
秋せつら――悪鬼羅刹を名前とするこの世ならぬ美貌の青年であった。

「あら?」

不意にせつらの声が体と共に下方へと落下していった。確たる質量をもった地面が喪失してもなお揺らがなかったせつらは、いまや足元に広がる暗黒へとまっしぐらに落ちていた。
空中浮遊を可能とし、食肉雀達を一羽残さず皆殺しにして返り討ちにした秘密――太さ千分の一ミクロンの特殊なチタン鋼の糸が、落ちゆく体を支えるべく電信柱へと向けてせつらの美指から放たれて、黄金の月光をいくつもの光の粒に変えながら夜気を割いた。
微細繊細なせつらの指の動きによって夢幻にして無限の動きを見せる妖糸は、しかしこのとき使い手を裏切る動きをしていた。
足元に張ることで落下を防いでいた妖糸を断った得体のしれない何かが、いまいちどせつらの放ったチタン鋼の糸を切り裂いたのである。
たとえ焦点温度十万度のレーザーを一時間当てても断つことのできない特殊加工を施した秋家秘伝の妖糸を断ったものの正体を、せつらは最後に妖糸が伝えた感触から理解した。
切断面が異様に冷え切っている。
この現象は過去に覚えがあった。妖糸が存在する空間そのものを断たれた時に発生する現象だ。戦車の主砲の直撃にも耐える怪異な鱗や甲羅を持つ妖魔でさえも切り裂く妖糸といえども、空間ごと断たれては如何ともしがたい。
空間の断裂や空間そのものを振動させる類の魔法や攻撃であったなら、ドクター・メフィスト謹製の漆黒のコートがすべて無力化してくれるが、空間の異常が妖糸を対象としていては防御は不可能であった。
不意にせつらの髪とコートの裾が慌ただしくはためきだす。新しく生じた亀裂の底から嵐が吹き荒れる方向を限定したように強い力が、ぐんと黒影を飲み込もうとしはじめている。
亀裂の底に潜む謎の怪生物がせつらを食おうとしているのか、あるいはブラックホールが生じていたとしてもおかしくない。
ここは<新宿>。何が起きてもおかしくはない場所。人ならぬ命、死者さえも生きることが許される都市。ゆえに冠せられた魔界都市の号。
奈落の底から発生する猛烈な吸引力にせつらが抵抗を示すのが、常よりも数十分の一秒遅れたのは、やはりアルコールが原因というほかない。
普段なら断たれたのとは別の妖糸を飛ばして遠方の何かに巻きつけて、超音速で逃げだすところであるが、せつらの指が一ミリほど動くよりもはやく、急激に吸引力を増した奈落の暗黒へとせつらの姿は消えていった。

「あ」

と一声こぼしたせつらが暗黒に飲み込まれる寸前に思い描いていたのは、今週で備蓄のなくなるせんべい用の魚沼産コシヒカリの仕入れについてであった。
奈落の奥底へと闇よりもなお黒く暗く、しかし美しい影が飲み込まれた時、せつらは心臓の奥底からこみあげてくる嘔吐感に、意識を失った。



顔に当たる柔らかな感触と肺腑の中まで緑の色に苔むしてしまいそうな濃密な香りが、せつらの意識に覚醒を促した。
五体を投げ出してうつ伏せになっていた姿勢からせつらは両手をついて立ち上がる。うんしょ、と見た目の三倍も年を取っていたら似合う声を出す。
胸や膝の衣服に着いた草きれやほこりを手で払って落とし、せつらはアルコールの残りによって痛む頭に手を当てた。
万分の一秒まで狂いのない体内時計は、最後に意識を失った瞬間から一分と経過していないと告げている。
体内に仕込んでいる妖糸と賢者の石、メフィスト病院のX抗体で体調をセンシングすれば、結果は異常なしと出てくる。
試しに右手の小指を心持ち曲げてみれば、せつらの前方ではらはらと舞い散っていた木の葉がするりと二つに断たれる。
音もなく目に映すこともできないチタン鋼の糸による静寂なる一閃であった。
妖糸はせつらの指の動きによる操作を光の速さで反映させるが、そもそも動きを発生させるせつらの方に問題があれば、直接的に妖糸の精度は落ちて斬撃の鋭さも劣化する。
もはや人間の領域を超えた技術によって成り立つせつらの戦闘能力は、とくに指に傷を負うと一気に低下してしまうのが欠点といえる。
肉体に支障はなし。二日酔いめいた頭の痛みは、あと十分もすれば消えてくれるだろう。となれば後は周囲の状況把握に努めるべきだ。
せつらは年がら年中時間を選ばず、殺し合いの最中でもせんべいを焼いている時でも眠たそうな眼をし、ぽややんと春霞に覆われているような雰囲気の持ち主だが、今もそれは変わらない。
度胸があるとか肝が据わっている、というよりも単に頭のねじが何本も外れているというべきだろう。
ふむふむと何を納得しているのかわからない調子でせつらはぐるりと周囲を見渡す。
折り重なるようにして群生している木々は巨人の手のように大きく広く枝葉を広げ、折り重なった枝から零れる木漏れ日は、黄金の液体のように濃密であった。
手を差し入れればそのまま掌に蜂蜜に似た液体になって留まりそうだ。
呼吸しても体内の細胞と大気が化学反応を起こして毒になるわけでもなく、陽光を浴びても火膨れや癌細胞が発生する様子もない。
半径一キロを妖糸でくまなくチェックしてみるが、ガス状の食肉生物や人肉嗜好の樹木、自分が死んだことに気付かず暴走を続ける首なしのデュラハン・ライダーズの影もない。
少なくともせつらにとって有害となる生物や死霊の姿は付近には無い、と判断してもよさそうだ。

「ふむん」

一声挙げて顎先に右手の人差し指を添えてかすかに眉を寄せるせつらの姿は、およそ視覚を有する存在なら、例えそれが人間でなかろうとも魅了する超越的な美の結晶姿としか言いようがない。
惜しみなく降り注ぐ太陽の光、頬を優しく愛撫してゆく風、圧倒的な質感と共に確かに存在している大地、ざあっと枝葉という楽器で合唱を奏でる無数の木々。
何もかもがせつらの美貌に酔いしれて溶け狂う。人のみならず人ならぬ者さえも狂わずにはおられない。
ナルシズムの欠片でも有していれば、鏡に映った自分の美貌だけを見つめて生涯を終えるだろうが、小指の爪先ほども持ち合わせていないせつら、はとりあえずの身の安全は確かめられたが、行く宛てがないという新たな困難にぶち当たり、そのことに思考を割いていた。
以前、アトランティス大陸の秘宝をその身に宿した一派との戦いの折に、記憶を失った状態で異空間に放り込まれて難儀したことがあったが、その時に近い状況だ。
当面は食糧確保とこの世界の事情を知っている情報源との接触が急務であろう。あいにくと持ち合わせている食料はビスケットのかけら一つもない。
毒物に対して絶対的な効力を発揮する賢者の石とX抗体であったが、流石に餓える腹まではカバーしてくれない。
最悪木の実やら茸やら原生生物を狩猟して空腹を凌ぐことも覚悟しておかねばなるまい。ううむ、と唸っている所を見るにできるだけ文明から離れた食生活を送るのは遠慮したいらしい。
となると後者、情報収集の方を急がねばなるまい。この場合、人間の姿をしていない非人間であってもなんの問題もない。
できれば友好的である方が望ましいが、ま、命のやり取りを伴う接触というのは万近い回数を経験しているから慣れっこだ。後は野となれ山となれ、出たとこ勝負である。
全方位に向けて伸ばしていた妖糸が、せつらの待ち望んでいた情報を伝えてきたのは、その場に立ち尽くして妖糸を繰ることに集中して十分後のことであった。
明らかに人の手で造られたと思しい建造物と内部に息づく生命の反応である。周囲はそうとうに奥深い山の中のようで、深い森の中に隠れるようにして立つ建造物、となれば富裕層の別荘か、人目につきたくない職業の人間が持ち主か。

「南無南無」

わけのわからない文句を呟き呟き、せつらはさく、さく、と若草を踏みしめる音と共に妖糸が捉えた反応めがけて歩を進め始める。
ほどなくせつらの目が捉えたのは、いかにも金の有り余っていそうな人種が立てるのにふさわしい豪奢な別荘だった。少なくとも建築様式を見るに、地球人類と美的感覚がかけ離れている相手ではなさそうだ。
もっとも、せつらにしてみれば自分が今いるところがはたして地球かどうかさえ、不確かであった。
<新宿>で魔震に遭遇した挙句に亀裂に落下したあっては、過去か未来、あるいは地球上のどこか、はたま異世界に飛ばされていたとしてもおかしくはない。
あるいはせつらの目に映っている光景はすべて幻で、魔法使いや催眠術師の仕掛けた幻術に囚われている可能性だってある。いまだ解明されていない超古代のメカニズムが造り出した人造の空間という線も捨てがたい。
肉体や精神が異形の生物に変容していたわけでもないし、五体満足なだけましと納得するしかない。
別荘からは死角となる木の陰に隠れてから、扉や窓の隙間から妖糸を忍び込ませて別荘の中をくまなく調査する。
森の中に隠しカメラらしいものがいくつも設置されていたから、よほど後ろめたいことをしている可能性もある。
カメラらしい、というのは妖糸が捕捉した物体にどうも科学以外の、魔法系統の技術が使われている、と妖糸の感触が伝えてきたためだ。
<新宿>高田馬場魔法街に住まう数百名の魔法使い達と時に敵、時に味方としていろいろと関わり合いがあったが、記憶の中に魔法とはなにか異なるような、そんなあやふやな感触である。
魔法のようではあるがなんとなく高度に発達した科学のような気もする。高度に発達した科学は魔法と変わらない、というような言葉がせつらの脳裏をかすめた。
人がいなければ堂々と入りこんで食料品や地図の確保くらいは見込めそうだが。するりするりと別荘の中へと忍び込んでゆく妖糸が、また新たな反応を伝えてくる。
ほぼタイムラグなしに、光の速さで通達される情報を吟味していたせつらの眉が、八の字に歪む。
あまり良い情報が手に入らなかったらしい。

「ふむ」

と漏らした声には、面倒だなあ、という感情がほんの少しだけ混じっている。
妖糸が捉えた生体反応は別荘の居間にある隠し扉からつながっている地下にあった。
中に忍び込ませた妖糸で鍵を外して楽々と別荘の中に入り込んだせつらは、やれやれと言わんばかりにめんどくさそうな雰囲気を背中に纏いながら、居間の隠し扉を開き非常灯のともる地下への階段をゆっくりと下りはじめた。



地下の部屋に籠っているのは桃色に色づいていないのが不思議なほど濃厚な性臭であった。
まだ性の目覚めを迎えていない少年でも、この部屋の空気を吸えばその場で射精に陥ってしまいそうな淫靡さである。
天井全体が照明となっている部屋のあちこちに裸に剥かれた女達と、女体に群がる男ども影がいくつも床に這っている。
まっ白い壁に囲まれた室内には、真新しい血痕が真っ赤に染めている三角馬や、壁に埋め込まれた手枷足枷、水責めや火責め用の水槽に油の煮え滾る風呂桶、中にびっしりと針の生えた高さ二メートルほどの鉄の処女と物騒な品ばかり。
部屋のあちこちには紫がかった煙をもうもうとあげる香炉がいくつも置かれていた。
男と女の体から発せられる熱と汗、愛液や涙と香炉から立ち上る煙が反応して腐った果実よりも甘く噎せ返るほど濃い匂いが発生している。
特殊な調合を施した麻薬と気化した人間の体液が混ざり合うことによって、媚薬効果と中毒性、そして得られる快楽が数倍に高められ、中毒に陥らないように対抗薬を服用した男達以外はとっくに体の髄まで麻薬に毒されているだろう。
凌辱される女達の容姿は様々だった。小さい者はまだ十歳になるかどうか、上は四十歳ごろの熟女まで。おそらく親娘ごと拉致されるか人身売買で売られてきた者たち。
立ちこめる煙と男達の手練手管、数十時間に及ぶ終わりの見えない性宴の生贄にされた影響で理性は崩壊し、目の前で鞭で打ちすえられているのが自分の姉妹であることや、男に跨り蕩けた顔で腰を振っているのが幼い我が娘と気づく様子もない。
最初は自分達に降りかかった不幸と苦痛、恐怖、屈辱に泣き叫び、親子や姉妹、友人とかばい合いながら助けと許しを請い――中には男たちを罵った声もあったが――いまではかすれた声で喘ぎ、腰を振ることしかできない。
いずれ男達が飽きるまで犯され続け、人体実験好みの狂魔導士や人身売買組織に転売されるのが結末だろう。
ひとしきり人妻の雌脂の乗った尻を堪能した男が、体中からむんむんと熱気を発し汗を滴らせながら離れる。ちゅぽ、と生々しい水音がひとつし、精液と愛液のブレンドされた混濁液がどろどろと滴り落ち、床に生臭い匂いを放つ染みを作る。
男は床に適当に転がされている精力増強剤を含んだドリンクに手を伸ばす。
掌に隠れるくらいの小さな瓶の中には濃い緑色の粘度の高い液体がちゃぷ、と音をたてて揺れていた。
これ一本で十回でも二十回でも性戯に及べるという強烈な違法薬だ。効果に比例して副作用も強烈で処方を誤れば一生不能になるか後遺症を負うことになるが、一時の快楽のために男達は平気で何本も空にしている。
ドリンクのキャップを開き、どろりとした緑色の液体を口に含もうとしたとき、ピントのずれた声が耳朶を震わせた。

「あの~」

この場にいる組織の仲間の誰とも異なる声に、ドリンクを放り捨て首にかけていた丸い宝石のついたペンダントを握りしめ、男は声のした方向へと上半身を捩じった。
荒事に首までつかり人を殺したことも一度や二度ではない連中ばかりで、男の反応に続いて女体を貪っていた他の連中もたちまちそれぞれの獲物を手に、女達を放り捨てる。
どさ、と流れた様々な体液によって艶やかにぬめ光る床へ女性達がほうり捨てられる音が続き、ついで声の発生源を見つめた男連中の顔の筋肉が全面的に崩壊を始める。
痴呆に陥ったみたいに全員がだらしなく口を開いて閉じることを忘れ、目はまんまるく見開いて視線を釘づけにされている。
精力増強剤の副作用で体温は40度近いのに、青白く変わっていた顔色は一人の例外もなく初恋の熱に浮かされる少女のように桜色に染まっている。
何も纏わず隆々とした筋肉と男性器をむき出しにした男達の視線の先には、間違ってこの世に落ちたとしか思えない黒衣の天使がいた。天使を美しいものとするならば、であるが。

「お邪魔様。ちょっとお聞きしたいことがあるんですが」

一般的な倫理観や常識、正義感のある人間だったらまず憤慨するか、見なかったことにして逃げ出すか、司法組織への連絡を真っ先に行う光景を前に、せつらは茶飲み話でもしに来たみたいにのんきな様子だ。
というのもせつらの故郷では、複数の男性と性交を行うことを解脱と称し推奨する宗教団体や、麻酔なし止血剤なしで手足を切り落として切断面を利用して交合する、赤の他人に恋人を強姦させるくらいのことを平気でやらせるSMのカップルがしょっちゅういたからだ。
万が一にもこの地下部屋で行われている行為が双方合意のうえでの行為であったなら、せつらはとんだ出歯亀ということになる。
もっとも散々犯されつくして息も絶え絶えな女性達の様子と部屋のあちこちにある拷問器具を見るに、どう考えても男達に無理やり行為を強いられたのであろうことは明らかではあった。
せつらの美貌に脳味噌と精神を沸騰させられたままの男の一人が、右手に握ったペンダントに力を込めながら、震える声で返事をする。

「お、おう。……なん、なん、何のようだい?」

たったこれっぽっちのことを言うのにたっぷり一分かかった。
せつらに返事をした男にほかの連中からの視線が突き刺さる。成分は嫉妬と憎悪で出来ている。
突然目の前に現れた現実のものとは思えない美の化身と応答する権利をいち早く得た男へと向けられる仲間達の感情は、心の底からのものであった。

「どーも。ここはどこでしょう? <新宿>という地名に聞き覚えは?」

とりあえず言語と美的感覚が通じたのは僥倖といえた。とくにせつらの美貌が通用するのはおおきい。
人間妖魔死霊の区別なく斬殺する妖糸の魔技ではあったが、秋せつら最大の武器は、やはりその美貌というほかない。
その証拠に全身の細胞を麻薬の成分とケダモノの方がはるかに崇高な生き物のように感じられるほど下劣な欲望に満たされた男達が、一人の例外もなく心打たれ魂を奪われた顔をしてせつらを見つめているではないか。

「こ、ここはおれ達のアジト、だ。シンジュクってのは聞いた……ことがねえ」

笑ってくれ。そしたらおれは最高に幸せな気持ちで死ねる。
せつらの問いに答える男は声にならぬ声で痛切に願っていた。他の男どもも同じ気持であったろう。
一方でせつらは世界中にその悪名と伝説を知らしめる<新宿>を知らない、という男達の言葉に、あちゃ、と心の中で舌を出していた。失意の表現である。
現代と未来の線は少なくとも消えただろう。となると<新宿>が誕生する以前の地球か、あるいはまったく別の世界の可能性が濃厚になってきた。
むしろ術をかけられて幻に囚われている方がまだましだ。なにしろ術者を殺せば解放される目算が高い。
厄日だったかな? とせつらは小首を傾げ、その仕草に興奮の度が過ぎて数人の男たちが失神する。
突然目の前に現れた青年の正体を推移する思考を、いまだに誰も抱いていないことから、せつらの美貌の魔力の凄まじさを推して知るべし。
これは困ったぞ、と見た目にはまるで焦った様子もないせつらが、それまで視界には入っていたが、興味を示さなかった女性達を一通り見やる。
女に生まれた事の地獄を散々に味わされた被害者たちへ向ける瞳は、魂まで吸い込みそうな漆黒の虚無を宿していたが、同情すべき境遇の人間に向けるべき感情が宿ってはいなかった。

「それで、この人達はどうしたんですか?」

一瞬、男達の瞳に胡乱な光がよぎった。せつらの興味が床に倒れ伏す女達に映ったことへの嫉妬と、この場を見られたことに対する正常な思考がようやく息を吹き返しつつあった。
数人の男たちがセットアップ、と呟くとカードや宝玉、アクセサリーだった物体が杖や剣、斧などバラエティに富んだ物体に変わる。
物体を引き寄せる魔術――アポートかな? とせつらはほんの少し興味深そうに視線を送る。せつらの頬を熱を帯び潤んだ視線以外に、敵意を含んだ熱い風が打ち始めている。

「こいつらはみいんな、よそから掻っ攫ってきた雌豚どもだ。ここでセックス狂いにした後、頭の中を薬漬けにして女狂いの連中に転売するか、イカれた研究者どもが高値で引き取ってくれるのよ。
アソコが腐っちまって使い物にならねえような役立たずは知り合いの肉屋に卸すがよ。あんたの食ったハンバーグやウィンナーにも混じってたかもな?」

精力増強剤と大気に混じる媚薬と麻薬の成分によって、散々放出した後でもへそにめり込むほどいきり立っていた股間の物体が、より一層堅く強張り始めている。
せつらの全身を舐めあげている男たちの視線の中に、徐々に淫らな感情が混じり始めていた。利き手に武器を構え、空いた手で分身をしごき始める者もいた。
彼らの頭の中でせつらは衣服を剥がされて口淫、手淫、肛淫の生贄にされているのだろう。荒くなり始める男たちの呼吸と欲望の高まりの中心にいるせつらは、まるで興味がない、というよりも無関心の極みそのものといった様子で、淡々とつぶやいた。

「ふうん」

その呟きの中に野獣という言葉では足りぬほど野卑きわまる男どもへの恐怖や侮蔑や、不幸の渦に飲み込まれた女たちへの同情は欠片ほどもなかった。
そのせつらの様子をこれから自分が落とされる境遇への恐怖に気がふれたもの、と麻薬の成分と伴侶のように親しくなっていた男達の脳味噌は都合よく解釈し、それぞれの獲物をせつらへと向けた。
普段は常に殺傷設定にしているそれを、後後楽しむために非殺傷設定へと切り替えておかなければなるまい。
この時、男達は知らなかった。広大な次元世界の中には自分達の想像も及ばぬ魔物のごとき人間がいることを。
自分達の目の前に現れた人間が、秋せつらという名の、魔界都市の主と呼ばれる魔人であることを。
そして、秋せつらに悪意を持って武器を向けた時、いかなる報いが与えられるかを。
せつらの指が動き電子計測器でも持ち出さねば計測不可能な千分の一ミクロンの妖糸が、ゆるりと揺らめいた。



「やれやれ」

とせつらがちっともしんどうそうではない呟きを洩らし、右の肩に手を置いて揉み解していた時である。
隠し扉から続く階段からいくつかの影が敏捷な動きでせつらのいる地下の淫行部屋へと踊り込んできた。
まだ二十歳にもなっていない少女を先頭に、六名ほどの男女が険しい顔つきでそれぞれ武器らしいものを手に取り油断なく構えた姿で部屋の中を見渡して口を開く。

「時空管理局だ!! 武装を放棄して、投降……し……ろ」

勢いよく告げられるはずだった勧告は、しかし、部屋の真ん中でたたずみ、背後に現れた影を振り返っていたせつらを見た瞬間に急速に勢いをなくし、『時空管理局』と名乗った面々がことごとく戦意を喪失させてゆく。
いまなら小学生だって彼らをK.O.できるだろう。
どうも彼らがこの世界の警察にあたるのかな、と思ったせつらは体の向きを変えてやや猫背気味に会釈した。

「どうも」

美しいが、可愛がられて育った大店の若旦那みたいに気の抜けた人の良さそうな声と一緒に。



そんなわけで穏便に、とはいかないまでも異世界(おそらく)の人間と接触が持てた事はせつらにとっては好ましいことである。
時空管理局なる組織を名乗った一団は、この別荘が長年追いかけていた犯罪組織の使っているアジトの一つと判明し、よりにもよってせつらが訪れたのと同じ日に突入に踏み切ったらしかった。
とりあえずその場で両手をあげて抵抗の意思がないことを証明したせつらは、美貌による魅了から三分かけて正気の世界に帰還した局員たちに、周囲を囲まれながら同行することとなった。
犯罪組織のアジトに居合せたわけだから重要参考人という名の容疑者扱いといったところであるが、とりあえずせつらは気にしないことにした。手錠をかけられているわけでもないし、速く歩けと小突かれるわけでもない。
先ほどの男連中同様、管理局局員たちにもせつらの顔のインパクトが十二分に効果を発揮して、丁重すぎるくらいに扱われているのも、せつらがおとなしく従うことにした理由である。
通された一室も別に尋問室といったわけではないし、<新宿>警察に存在する収監された者が涙を流し、果てには命がけで自供を始めるという幻の独房の様な雰囲気もない。
壁やらソファやら天井やら目に着くすべての表面を妖糸で撫で挙げて、インテリアに偽装した生物ではなく、尋常な家具などの類であることを確認してから、せつらはどっこらせと椅子に腰かける。
そうして落ち着いたのが三十分前。せつらは出された緑茶を啜り、はふ、と気の抜けた息を吐く。
最初はコーヒーを出されたのだが、緑茶がいいなあ、と何の気は無しにせつらが呟くと、コーヒーを出してくれた女性局員が、なにやら思いつめた顔をした後、出し直してくれたのである。
食文化にも共通したところがあるみたい、とせつらは新たな情報と高級っぽい味のする緑茶にやや上機嫌である。この青年、食べ物を商ってはいるのだが、さほど味覚は鋭敏ではないので、緑茶の味も高級っぽい、とあやふやなものになる。
ちびちびと猫舌でもあるまいに少しずつ緑茶を啜るせつらの様子に、対面の椅子に腰かけた女性局員は、はあ、と何度目になるかわからない恍惚の溜息を吐く。

「熱かったですか? 猫舌ですか?」

「はあ」

肯定とも否定ともとれるせつらの返事に、女性局員はふたたび熱い吐息を吐くばかり。
コーヒーの黒い水面を見て、心もち眉根を曲げて失意を現した時の無垢な赤子さえ問題にならない愛くるしさ。
望み通りの品を供されて満足げに頬の筋肉を緩めてゆったりと緑茶の味を楽しんでいる満足そうな様子の微笑ましさ。
別荘の地下に設けられたアジトに踏み込んだ時空管理局の局員である目の前の女性は、捧げよと言われれば魂までも捧げる美の信奉者へと変わりつつあった。
この女性局員のみならず、せつらの美貌を目撃した人間は一人の例外もなく美しいとしか認識できないせつらの姿に心まで奪われて、普段ならやらない些細なミスを連発して事務作業に支障をきたしている。
せつらはご丁寧に用意された湯呑を置いた。中身は半分ほど残っている。

「ええと、ギンガ・ナカジマさん?」

「はい!」

大好きなご主人様に名前を呼ばれた子犬みたいな調子で女性局員――ギンガは、ぱっと顔を太陽のように輝かせ、せつらのほうへぐぐい、と体を乗り出した。
夕暮れに沈み橙の色へとゆっくり変わり始める空に似た紫とも青とも見える髪を長く伸ばし、楚々とした雰囲気の中に自ら輝きを発するような魅力を秘めた美少女である。
整形技術の発達によってグラビアクラスの美女や美男など、掃いて捨てるほどいる<新宿>でもそうはいないだろう。
せつらの方へと身を乗り出していたギンガだが、自分がしていることにはっと気づき、頬を羞恥のためにさらに赤く染め、視線を横にそらしながら居住まいを正す。
火照った頬に右手を当て恥じらいに憂うギンガの姿は、年齢にそぐわぬ成熟した体つきと相まって、濃い色香を自ずと発していた。
この場にいるのがせつらでなかったら、思わず生唾一つくらいは飲み込んでしまったことだろう。

「あ、す、すいません。ええと、せつ……秋さんの仰られた世界ですが、極めて類似した世界に第97管理外世界がありますが、他に該当する世界目下見つかっていません。
あ、で、でも気落ちしないでくださいね。まだデータベースのほんの一部を検索しただけですから、時間をかければきっと見つかりますから!」

名前を呼ぼうとしたけれどもなんだか気恥ずかしくて名字で言いなおしたギンガは、せつらが気落ちしないように猫をいくつも被って言葉を紡ぐ。
慌てふためくギンガに対して、せつらの反応はそうですか、どうも、と何とも味気ないどころか機会が返事したのではないかというくらいに感情が欠落している。
本当にもとの世界に帰る気があるのかしら、この人? とせつらに夢中になっているギンガでさえ訝しむほどである。
一方でせつらはまあそんな急いで帰らなくてもいいか、などと考えていた。
人さまの命がかかわるような仕事は今日終えたばかりだし、せんべい屋の方はアルバイトの娘やら仕入れ先に迷惑はかかるかもしれないが、ま、人死にが出るわけでもなし。
それに衣食住に関しても時空管理局の方でしばらく面倒を見てくれるらしい。となると当面生活に最低限必要なものは保障されるわけだ。
元の世界に帰還する気がまったくないのか、言われればそうでもないが、焦る必要はないな、とぼんやりした眼差しのまませつらは思う。
白い医師やひどく丸っこい情報屋に同じ体型の魔法使い、可憐な人形娘、眼帯を付けたドレッドヘアの刑事、戸山町吸血団の若き長や豹の霊が憑いた用心棒の姿が、はたしてこの一般的な人間とは異なる精神構造の青年の脳裏にちらとでも浮かんだかどうかは定かではない。
少なくとも過去を振り返る青年でないことは確かである。

「お世話になります」

「い、いいえ! な、なんなら私が一生秋さんのご面倒を……」

ちょこんと社交辞令まるだしで軽く会釈したせつらの言葉がギンガの脳内でどのように変化されたのか、耳まで真っ赤に染めたギンガは、あたふたと顔の前で両手を左右に振り、ごにょごにょと聞き取れないくらい小さな声で弁明した。
それからたっぷり五分ほど頬を両手で挟み、いやんいやん、子供は三人は欲しい、お父さんになんて挨拶しよう、などと身をくねらせながらあらぬ妄想に酔いしれた後、ギンガは無言で見守っていたせつらの視線に気づき、気まずげに咳払いを一つ。

「こほん。ええっと」

視線を彷徨わせ両手の人差し指を突っつき合わせながら、どうしようどうしよう、と妙な空気をどうやって取り繕うか頭をフル回転させたギンガは、あ、と一声挙げて顔面筋を引き締めて、あくまで真面目な顔を取りつくろう。
ただし視線はせつらの顔から外されている。どんなに強固に意思を固めたつもりでも、この世界規模の迷子になってしまった青年の顔を見つめると、たちまちのうちに精神の城壁が溶け崩れてしまうのだ。

「あの、本当に秋さんがあの場所に向かった時には、もうあんな惨状になっていたのですか?」

「ええ」

しれっとせつらは答える。ややギンガの顔色が青ざめているのは、地下部屋に突入した先に広がっていた酸鼻極まる光景を思い出したからだろう。
あの時せつらの美貌に目を奪われたからこそ、気付くのに遅れてしまったが、地下部屋に転がっていた男たちの多くは、凄惨な有り様の死体と変わっていたのである。
せつらの首を傾げるという仕草に失神した連中以外の、デバイスを手に取り害意を見せた者たちはすべて一人残らず死んでいたのである。
それも互いの武器を向け合い、仲間割れを起こしたとしか思えない状況で互い互いに殺し合っていたのだ。
首が飛び、臓物が零れ落ち、手足がちぎれ、目を見開き苦悶の表情をむざむざと刻んだまま息絶えた十を超す死体の群れ。
鼻を突く血の匂い、網膜に焼きついた死体の惨状がギンガの豊かな乳房の奥に猛烈な嘔吐感を込み上げさせる。

「怖いですねえ、麻薬」

「……そう、ですね」

まるで日向ぼっこをしているさなかのように緑茶の残りを啜るせつらの様子に、ギンガは信じがたいものを見る目で見つめていた。
あれだけの数の人間が――例え犯罪者であっても――惨たらしいというほかない死に様を曝していたというのに、なにも思うところがないのか、何も感じていないのか。
この時、はじめてギンガは目の前の青年がただ美しいだけの人間ではなく、なにか途方もなく恐ろしい人間の形をした別のナニカのように思えてならなかった。
それでものんびりと茶を啜るせつらが、まさか、あの犯罪者どもを殺戮した張本人とは考えてはいなかった。
武器を向けられた瞬間男達の手首に巻きついた妖糸が男達の肉体の自由を奪い、非殺生設定に変えるよりも早くお互いに向けて攻撃させたとは、いまやせつらしか知らぬことであった。
あの場にいた被害者の女性達は一人の例外もなく意識が混濁して昏倒していたし、例え意識が正常なものであったとしても千分の一ミクロンの妖糸を視認できるはずもない。
異世界に来てまでも自ら手を血濡れたものとする運命をなんとも感じていないのか、せつらは何を考えているのか全く分からない様子で、湯呑の底に溜まっていた一番渋いところを楽しんでいた。
もし、この時点でこれから何百、何千人もの血を妖糸に吸わせる事になると分かっていても、せつらはなにも変わらぬ調子で茶を啜るきりだったろう。

それから一週間後、とある銀行に開店資金貸してください、とせつらが直接出向き、その場で無利息無担保無期限で開店資金を手に入れて、無事秋せんべい店クラナガン本店を開設することに成功するのだが、それまた別のお話で。


つづく?
お久しぶりです。こんばんは。ええっとなんだか題名を裏切る内容で申し訳ありません。とりあえず現在も生きております。



[11325] その6 魔界都市ブルース × リリカルなのはsts ②
Name: スペ◆52188bce ID:e0398f80
Date: 2010/06/18 22:20
実験要素の強い内容です。今回は残酷な暴力表現がありません。読み進める場合はご注意ください。

リリカルおせんべい屋さん――②

『聖王さまとおせんべい屋さん』

昔々 あるところに

魔法使いの住む 魔法の国がありました

ミッドチルダと いいました

昔々 その街に

とっても きれいな おせんべい屋さんが

すこしのあいだだけ 住んでおりました

月さえも 恥じらうような ひと でした

その おせんべい屋さんの名前は――


 魔界都市の意思か、<新宿>を作りだした魔震の意思によるものか、異世界ミッドチルダの首都クラナガンに、秋せつらは居を構えることとなった。
 無限の暗黒をたたえた亀裂の中にのまれたと意識した瞬間には、このミッドチルダなる異世界というべきか、地球とは異なる惑星に漂着していた身である。
 この惑星や統治機構、生態系などに対する知識はもちろん文明社会で生きてゆくために必要な戸籍や貨幣といった諸々のものがまったくない。
 運よくこの世界の統治機構である<時空管理局>なる組織と偶然にも接触することができ、その庇護下に預かれることとなったのは望外の幸運といってよかった。
 幸い時空管理局というところは、せつらのような異世界からの漂流者を保護する姿勢を取っており、元の世界での職業は? という問いにせんべい屋、せんべいって? 米で造った焼き菓子、という簡明な質疑応答の果てに、せつらはクラナガンの超近代的な都市と廃棄都市群の境目よりやや首都側にある空き家を宛がわれていた。
 築年数が数十年単位で居住者の誰もが新築を考えるような古家であったが、せつらの希望によっていまやその外見は<新宿>にある本家秋せんべい店と瓜二つの外観を誇っている。
 三代続いた秋せんべい店は、せつらの趣味か代々そうなのか木材をふんだんに使った純和風建築で、せつらの敵対者の襲来を主な理由として何度か倒壊の危機に瀕したものの改築するような浮き目には合わずにいる。
 時空管理局の主要次元世界であるミッドチルダはどちらかといえば欧州系列の文化を持っており、せつらの希望するようないかにも“和”といったテイストの建築物を、たった一人の漂流者の為に用意するなど本来ならば言語道断である。
 三桁を超す次元世界に管理の手を広める時空管理局には、確たる収益がなく、基本的には管理している各次元世界をスポンサーとして活動しており、次元漂流者への支援とて最低限必要なレベルに留めて、支出を抑えている。
 それをたったひとりとはいえ例外的な措置が認められ、本来宛がわれるはずだった次元漂流者専用の宿舎ではなく、まがりなりにも一軒家、しかも改築済みが与えられたのはひとえにせつらのその身体的特徴による。
 具体的にその身体的特徴が何を指すのか、改めて言うまでもないだろう。
 ギンガ・ナカジマが所属していた陸士108部隊に保護された後、次元世界の迷子となってしまった不運な者たちの扱いを専門に担当する部署の局員と面会し、せつらが個人的希望を口にしたことがすべての始まりだった。
 出来れば家は故郷と同じのがいいなあ、台所はここにある方が使い勝手がいい、せんべいを置くスペースはこれくらい欲しい、家具はこういうのああいうのが、と際限なく出てくる要望は次々と通って行ったのである。
 誰か咎める者がいなかったのか、といえばむろんいた。一人や二人ではない。それこそ費やされる金額と資材、人材の数が記載された報告書を目にした人間のほとんどが問い詰めたと言っていい。
 資料を片手に怒りや疑惑の色を顔に浮かべた彼らは、しかし、あえて資料からは除外されていたせつらの顔を映した画像データを見た瞬間、すべての負の感情を忘れ去り陶然と見惚れるきりであった。
 これによって現場の人間のみならずその上役である上層部の人間まで次々とせつらの美貌の罠に嵌まってしまい、通常の勤務態度に復帰するまで数日を要してしまい、その間陸士108部隊およびその関係部署の局員達はまるで役に立たなくなってしまった。
 せつらかすればしめしめと言った所であろう。
 この若者、自分の美貌が及ぼす効果をよく理解しており、必要とあれば自分の美貌を利用して他者の血を吸うような真似をすることもしょっちゅうやっている。
 今回の秋せんべい店クラナガン本店が異常ともいえるスピードで開店となったのは、自分の顔が通じると知ったせつらが最大限にその効果を利用した結果なのだ。
 また、せつらがせんべい屋をクラナガン“本店”としたのには、一応彼なりの理由がある。
 このミッドチルダと言われる次元世界というべきか惑星と、地球とで時間の流れが同一であるかどうかは不明であるが、仮に同一であった場合、せつらが本来の世界に帰還するのは最短でも数カ月を要する、とギンガから説明を受けている。
 本来のせつらの住居である西新宿の秋せんべい店には、通常の妖糸と死霊を斬る霊的な加工を施した二種の妖糸が張り巡らされ、悪意ある侵入者を切り刻み侵入を阻むセキュリティがしかれている。
 最新の装備で固めた特殊部隊を複数投入しても、無残な斬殺死体の山が築かれるだけの実に攻撃的な警備網――警備糸ではあったが、区外の数十年先を行く超科学技術や失われた古代の呪術から神話の中の妖魔と、恐るべき脅威には事欠かぬ土地柄だ。
 主であるせつらの不在が一週間程度ならまだしも、数カ月単位で家を空けるとなればいかな妖糸の警備糸といえどもいずれ防ぎきれぬ敵が出現するのは目に見えている。
 また秋せんべい店は区が発行している公式ガイドブックに毎年掲載されている優良店舗であり、年収三千万を長年キープしている。
 <新宿>一と名高い人捜し屋であるせつらの人捜し屋としての収入は、尾ひれ背びれをいくつも付けて<新宿>中に流布されており、吝嗇の気があるせつらがどれだけ貯めているのか、せつらの同業者たちが三人集まると必ず話題に上るほど。
 せんべい屋としての確たる収入と時に法外な報酬を得る人捜し屋としての収入。せつらが長期不在という報復の危険も少ないこの機会を狙って、普段は抑えている欲望を噴出させる連中がダース単位で出てくるだろう。
 正直、せつらはアルバイトに雇っている女の子達も怪しいと睨んでいる。
 せつら不在によって迎えるであろう秋せんべい店の危機を考えて、せつらはミッドチルダにいる間にがっぽり儲けるのも手か、と判断し尚且つこちらの店を本店としておいた方がリピーターも見込めるかな、という結論の元クラナガン本店と看板に明記することに決めた。
 せつらの心の中ではクラナガン本店“(仮)”といったところだろうか。
 そして目出度く開店した秋せんべい店の主人は、青い匂いの香る緑鮮やかな六畳間にいた。
 六畳間の中央には四角形のテーブルがあるが、脚が短くミッドチルダで一般的なものとはまるで規格が違うし、どちらかというとちゃぶ台というべきだろう。
 これに布団でも被せておけば、ここクラナガンはもちろんミッドチルダの文明圏では珍しい家具――炬燵の出来上がりだ。
 さらに正確にいえば床に足を突っ込むスペースが設けられたそれは掘り炬燵というべきであろう。
 ホログラフ式の最新鋭のTVに映されている名も知らない芸人のコントに眼差しを向けていたせつらは、はは、はは、と本当に面白いと思っているのかまるで分らない声を上げる。
 対空間防御を施した特注コートを脱いだだけで、あとはいつもと変わらない黒一色の姿だ。故郷である魔界都市でも春夏秋冬と季節を問わず通し抜いたスタイルは、この別世界でも変わらず貫きとおしているようだ。
 猫背で掘り炬燵に足を突っ込み、両手で梅昆布茶を入れた湯呑を包み込むようにして持ち、時折持ち上げてはズズズ、と音を立てて啜っている。
 一年中雲を眺めて過ごすのも悪くないな、と思うこの青年は実にゆったりとした今の時間に満足しているように見えた。
 残りを一気に飲み込んだせつらが、はふん、と小さく息を吐いて新たな一杯を入れようとした時、せつらの後ろに小さな影が落ちた。
 敵と判断したなら骨がらみに拘束し発狂ものの痛みを与えて自由を奪うくらいは平気でするこの青年の反応は、というと、たとえ神に愛されていても人間では到底不可能としか思えない造形の眉を数ミリ歪めるのみ。
 いや、そもそもせつらの操る数千条に及ぶ千分の一ミクロンの妖糸はせつらの指からのみならず、全身に掛けられて常に見えざる斬殺の砦を構築し、悪意を持って近づく者に容赦ない死を与える。
 せつらがリラックスしきった状態を晒し、なおかつ自動防御である妖糸のガードも発動した様子がないことから見るに、好もしい相手ではないが直接的な武力行使を行う気はないらしい。
 この青年がこういう反応をする相手というのは珍しいが、それに気付く者はせつらと付き合いのある人間が今のところ絶無のミッドチルダではまずいまい。故郷の知人くらいにしか分からないことであろう。
 美とは時代と人種などによって相対的に変化するものだが、秋せつらという人間に限っては話が異なる。
 時代、国境、人種、性別、老若といった要素すべてがまるで存在しないかのごとく、見た者すべての魂に深く刻み込まれて摩耗することのない絶対の美貌を誇る。
人間ではあり得ぬその美貌をわずかでも変化させた事実は、ちょっとした奇跡に近い現象に等しい。
 そして、そのミニマムな奇跡を引き起こした当の本人はというと、自分を振り返ったせつらに向けてにっこりと笑みを浮かべてこう言った。

「パパ~、朝ご飯は?」

 せつらはこう答えた。

「パパじゃない」

 せつらをパパと呼び、そのパパにパパじゃないと否定されたのは、まだ五歳か六歳くらいの何とも可愛らしい女の子であった。
 天上界の美姫が純金から紡いだとしか思えない黄金の髪、最高の宝石職人が手ずから象眼したと見える美しいエメラルドの右目と赤々と燃えるルビーの左目。
 可憐な蕾がそこにあるように小さくふっくらとした唇、幼い子供らしい丸みを帯びた輪郭や目鼻の配置の妙ときたら、まさに天の与物というほかない。
 どんなに偏屈で頑迷な老人でも、この少女が無垢な笑みを浮かべて近寄ればたちまち相好を崩して、頬を緩ませながら抱き上げるだろう。
 このまま誰にも傷つけられず、幸せになってほしい、万人がそう思わずにはいられない魅力を持ち、おとぎ話の絵本の中から飛び出てきたように可愛らしい。
 眠い目をこすりこすりしている少女が身につけているピンクの生地に白の水玉を散らしたパジャマは、この少女を預かることになったせつらが渋々自ら買い求めた品である。
 どうしてぼくが、とせつらは何度か自分の人生と今日のせんべいの焼き加減について考えてはみたが、結局のところ答えは出ず、納得のゆかない思いを鉛のごとく胸中に重く抱えたまま今に至っていた。
 暗中じくじくたる思いを抱えたせつらの様子を気にも留めず、少女は再び同じことを聞いた。

「ごはん~」

 はあ、とせつらはいろいろな感情の込められた溜息を吐き、台所を指さす。

「シリアル」

 牛乳をかけて食べるアレだ。コーンフレークともいう。少女もそれは心得ているようで特に不満を言うでもなく、こっくんと頷く。

「ん。キャラメル味?」

「玄米フレーク」

「む~~」

 糖分控えめのシリアルの味は、この少女には不評のようだ。とてとて、という擬音が似合う歩き方で台所に向かう少女が、あ、と声をあげてせつらを振り返る。
 寝ぼけ眼はぱっちりと開かれて、左右で色の異なる瞳に絶世の美貌を誇るパパ(本人は否定)を映して――

「おはよう、パパ」

「パパじゃない」

 せつらはもう何度目になるのか数えるのも億劫なセリフで返事をした。



 自分自身の美貌を最大限に利用して、瞬く間にクラナガンに本業であるせんべい屋を開業することに成功したせつらであったが、先立つものが手元に乏しい状況には変わりない。
 店主の美貌の噂を聞きつけた好奇心の強い客は、すでにせんべい屋の前に列を並び始めてはいるが、<新宿>で年三千万を稼いでいた時と比べるとどうしても見劣りしてしまう。
 このままの勢いでいけば、高校生のころと同じ年収五百万程度に落ち着くだろうか。
 ただ暮らしてゆくだけならそれでもいいかもしれぬが、クラナガンどころかミッドチルダ全体でも珍しいせんべいを商うには、独自の仕入れルートを構築し宣伝にもなにがしか力を入れねばならない。
 まがりなりにもせんべい屋の経営者として十数年を経験しているせつらは、なるべく早く大きな収入を得ておくことが、今後の生活の役に立つと考えた。
 しかし基本的に次元漂流者の滞在を認めず、本来の居住次元世界が見つかれば強制的にでも帰国させるのが、ミッドチルダにおける法だ。
 いつ次元世界に帰還するとも知れず、当人の素性や経歴を保証するバックボーンのいない次元漂流者と積極的に商業的取引を持ちかける手合いはまずおるまい。
 次元世界で通用するような資格があるわけでもないし、一朝一夕の付け焼刃でどうにかなるほど甘い社会構造はしていないだろう。
 そして、せつらは結論した。高校生の時分に人捜し屋を志した時と同じ理由でもって、この異次元世界でも人捜し屋を、秋DSMセンターを営む決意を。


 どかっと儲けたいという理由で。


 せつらの保護観察を担当している時空管理局の局員に連絡を取り、人捜し屋の開業を行いたい旨を通達して――探偵とは違うのか? と聞かれた。せつら自身も違いはよくわからない――ミッドチルダおよび時空管理局の定めた法に抵触するところはないか、また次元漂流者が開業する際に必要とされる知識や資格、制約の有無のレクチャーを一週間かけて受けることで許可された。
 時空管理局の歴史を紐解く人間が将来現れた時、呆れた顔をするに違いない異例の措置の連続は、見事せつらの交渉術と美貌によって通されることとなったのである。
 ミッドチルダでもせんべい屋と人捜し屋の二足の草鞋をはく生活を始めてしばらくたった日、せつらはある人捜しの依頼をこなし、出張先から廃棄都市区画の近くを通りクラナガンにある事務所に帰る途中であった。
 次元世界でも稀にみる国力と技術水準を併せ持つ次元大国ミッドチルダの首都クラナガンのすぐそばに、うらぶれて廃れた廃棄ビル群が並びたち貧民街を形成している廃棄都市群が存在している光景は持つ者と持たざる者の越えざる彼岸が存在しているように見える。
 ある者は<新宿>と区外のようだ、と例えるかもしれないが、<新宿>には常に流動し変化する街の魔性に集った異様奇々怪々を極めた犯罪者や妖魔、魔法使いといった連中が集い、街に住まう者たちの欲望と悲哀、愛憎が入り混じった混沌の活力に満ち溢れている。
 鉛色のうっ屈とした雰囲気が常に漂い、不都合な社会の理不尽を押しつけられてしまった不運な人々が心を荒ませるきりの廃棄都市群とは、あらゆる意味で一線を画す。
 バス代節約のためにクラナガンの端っこで降車し、周囲に美貌の影響を及ぼさないためのサングラスをかけたせつらは、報酬だけは弾んでくれた依頼人の脂ぎった顔を脳裏から消す作業をしながら、今日の夕飯はどうするかと悩んでいた。
 ここミッドチルダで受ける依頼は、<新宿>で受けるそれに比べればはるかに危険度が少なく、命の危機に瀕する場面は極端に減っていたが、その反面勝手知ったる魔界都市とは異なり、情報屋を探すのも一からしなければならず、家出した富豪の一人娘を探し出すのにもそれなりの気苦労を強いられることとなった。
 気晴らしに今日は外食することに決める。といっても自分で炊事をすることはめったにないので基本的に外食ばかりではあるけれども。
 ジョグ=ニグラス亭のジンギスカン定食にするか、クトゥルー屋の海鮮丼にするか、それとも食事処クトゥグアの激辛マーボーセットにするか、人生最後の食事を決めるような気持ちで考えていたせつらの耳に、不意に小さな物音が届いた。
 周囲にはせつら以外に人影はない。無機物の殺気さえも知覚するせつらの直感は警戒の鐘の音を全く鳴らしておらず、何か危険が迫っているとは考えにくかったが、念には念を入れ妖糸で周囲の死角となっている個所などをセンシングする。
 妖糸を風に乗せて飛ばすのと新たな音が鼓膜を揺らすのはほぼ同時であった。
 手首には何かと繋がれていたと思しい鎖をずるずると引きずる幼い少女が、マンホールから姿を現したのである。地下水路を通ってきたのか、身につけている衣服ともいえぬ襤褸は薄汚れていてかすかな異臭がした。
 せつらの鼓膜に触れたのはこの少女の足音や鎖が引きずられる音だったようだ。出てきた場所を考慮すれば地下の水路を通ってきたということなのだろうが、これは尋常ならざる事情が絡んでいるのは明白であった。
 少女の瞳は虚ろに彷徨い意思がないかのように煙っていたが、ちょうど少女の前で足を止めていたせつらに気付き、ゆるゆると持ち上げられた瞳がせつらの美貌で焦点を結んだ。
 相当な距離を彷徨っていたのか傍目にも青白く変わり疲労の色が濃く、憔悴しきっている少女の頬に、一瞬で血の気が戻りほんのりと桜の色に染まる。
 泣きやまぬ赤子でさえ泣くことを忘れて見入るせつらの顔の、もはや凄まじいとしか言えぬ効果であった。
 放っておこうかな? という考えがせつらの心中のどこかをよぎったことは否定できなかったが、それでも一応、この青年にも良心というものがかろうじて存在していた。
 少女と目を合わせて小首を傾げながらせつらが一言。

「どうしたの?」

 春霞に包まれているようなのんびりとした声は、今にも倒れてしまいそうな窮状にある少女に掛けるにしては穏やかにすぎたが、せつらの声に正気に戻った少女は、くしゃくしゃと絵に描いたように可愛らしい顔を歪める。

「わかんない。ママがいないの」

 迷子か、と舌の上で言葉を転がしてせつらは懐から携帯端末を取りだして病院の番号をプッシュしはじめた。少女の健康状態が優れないのは一目で明らかだったし、体内を探らせた妖糸の反応からしても、一刻も早く安静にさせた方がよい。
 せつらの行動を後押しするように、それまでふらふらと揺れていた少女の体が、ストンと落ちて、地面にうずくまってしまう。
 突然目の前に現れたせつらの美貌と張りつめていた神経の糸が弛緩してしまうような穏やかな声音に安堵したのか、少女はせつらの目の前で気を失ってしまっていた。
 小さな体が倒れ込む寸前、見えない手に支えられるようにして少女の体が空中に固定される。せつらの振るった妖糸がかろうじて少女の体を受け止めたのだ。
 妖糸のチェックと直に触診した結果、素人判断ではあるが少女は若干衰弱しているようではあるが、体の内外に怪我を負っているわけではないようだ。
 住所を告げて救急車がくるまで間、せつらは仕方なく少女の傍にいなければならなかった。
 <新宿>と違って人体実験や売買目的の人攫い、追剥に妖物が跋扈しているわけではないが、無力としか見えない少女を一人置いてけぼりにしておくのはあまりに危険というもの。
 せつらが置いてけぼりにしたことでこの少女の身に不幸が起きるかもしれないとなれば、流石に後味の悪さを覚える。

「ここの空気に染まったかな?」

 面倒な目にあってしまったなあ、と思いながらせつらは不意にぼやいた。地球のものと変わらぬ白い車体に赤いランプを灯した救急車のサイレンが届くのには、十数分ほど待たなければならなかった。
 救急車が来ればもう自分の出る幕はない、と安堵したせつらの目論見は見事破れることになった。
 少女が病院に搬送される際に同行を求められ、はあ、と気のない返事をしたのが失敗だったのか、同行の同意と解釈されたせつらは救急車に押し込められて病院に同道した。
 せつらが少女を発見した状況などをのんびりと医師達に告げる間も時間は過ぎ、きづけばせつらは少女の保護者としてみなされていたではないか。
 一度は店があるから、と病院からの脱出に成功し、事務所に戻って売れ残りのせんべいをぼりぼりやってから風呂に入って一眠りすれば、せつらの頭の中に少女のことはきれいさっぱり忘れ去られていた。
 虐待か家出かは知らないが身元不明の少女の面倒をみるのは、せつらの役目ではなく警察機構を兼ねる時空管理局かミッドチルダの法の役目だ。
 所詮、他人である。
 だから、油断した。
 少しずつではあるが日々のせんべいの売れ行きが上昇し、やれやれと肩を叩いていた時、事務所に置いてある電話が鳴り響き、それを取って耳にあてたせつらは、は? と聞き返す。というよりも聞き返さざるを得なかった。
 普段から頭のねじが数本抜けているような青年ではあるが、今の一声はいつにもまして間が抜けている。せつらの気の緩んでいたところを見事に突かれたらしい。
しばらく目を開いてなんと答えるべきか悩むせつらに、電話の主はこう告げた。この主がメフィストでなくてよかったと、せつらはぼんやり思う。

『ですから、娘さんが目を覚まされまして……』

「娘?」

『はい。パパはどこ? と先ほどから泣いておりまして』

「パパ?」

 あの少女が言っていたのはママがいないの、ではなかったか。それがなぜパパになっている。いや、それは構わない。パパがいない、という発言がなぜ自分への連絡につながるというのか。
 オウム返しかつぽややんとしたせつらの返事に空っとぼけている、と医師は思ったのかもしれない。次の言葉にはやや強めに力がこめられていた。

『秋さんのことです。親御さんですよね?』

 せつらは絶句した。いつ自分が親になったというのか。以前に店先に赤子が置き去りにされて一時期世話を見た事はあったが、そもそもせつらがこのミッドチルダに来て一月と立っていない。
 こちらの世界の人間は一カ月で受精妊娠出産、さらに五、六年分の成長を済ませるというのか。
 それになによりせつらはまだこちらの女性とことを致していないのだ。この青年、石か木で出来ているのではないかというくらい、女性からの誘惑や性欲というものに対して絶対的な耐性を有している。
 といって別に不能であるとかそういうわけではなく、まったく女性に興味がないわけでもない。場合によっては仕事の必要に迫られてすることもあるわけだし。
ま、とにかくせつらにはまったく完全に完璧に濡れ衣であり、寝耳に水の事態である。
 医師はせつらに反論を許さず少女の病室を告げると、慌ただしく電話を切ったようで、せつらのちょっと、という声は虚しく虚空に吸い込まれて消える。
 無言の受話器にやや憮然とした視線を向けてせつらは、はあ、と不幸の女神に見染められたかと、重い溜息を吐く。
 やだなあ、面倒だなあ、と傍に誰かいたら女々しい奴と睨まれそうな文句をぶちぶち言いながら、せつらはコートに袖を通していかにも仕方なさげに三和台に降りた。本当に嫌そうったらなかった。
 そして外出用のサングラスをかけたせつらが病室に入室するや否や、ベッドの上で上半身を起こした少女が、それまでの泣き顔が嘘だったように笑みを浮かべる。
小さな太陽がそこに生まれたように周囲を明るく変える笑みに、周囲の看護師や医師達は暖かな笑みを浮かべる。

「パパ!」

 対してサングラスの奥の眉を顰めたせつらは

「パパじゃない」

 と一顧だにせず斬り捨てた。無垢つけき幼子に対しあまりといえばあまりなせつらの返答に、周囲の人間達が目を剥くがせつらは気にも留めずとことこと少女の傍らに歩み寄る。
 サングラスで隠してはいても闇夜の中自ずと光輝くかのようなせつらの美貌に息をのみ、看護師や医師達はぽかんと口を開いて、人生最大級の間抜け面を晒していた。
 せつら以外で唯一正気を維持していた少女が、ぷくっと頬を膨らましてせつらを睨む。虹彩異色の瞳には十分に気力が充実しているし、頬の血色も良いから健康のではなにも心配しなくてよいだろう。
 ただせつらが問題視しているのは精神面の方――なぜ自分をパパと呼ぶのかである。

「む~~」

 せつらがパパじゃないと否定したことがよほど納得ゆかないのか少女は唸り声さえ挙げている。歩くこともままならない子犬が精いっぱい唸り声をあげているくらいにしか見えないが。

「どうしてぼくをパパと呼ぶ? いないのはママじゃなかったかな?」

「……パパもいないの」

「ふうん。でもぼくがパパじゃなくてもいいよね」

「ほかに知っている男の人いない」

「先生も男の人だよ」

 せつらが横に逸らした視線の先には少女の担当医がいる。四十代の謹厳そうな男性で患者からの信望も篤いだろうことが、雰囲気だけでもわかる。
 少女は医師とせつらの顔を交互に見つめてこう言った。

「先生よりもお兄さんの方がいい」

 顔か、とせつらは自分の頬を撫でた。

「ぼくは君のパパじゃない。よって君を引き取る理由はない。お金持ちで優しい人にパパになってもらいたまえ。そうすれば経済的には幸せになれる」

 五歳児に告げる内容ではなかった。言葉の刃でヴィヴィオの心を無惨にも斬り捨てたに等しい。

「君じゃないよ。ヴィヴィオだよ」

 ヴィヴィオと名乗った少女は去ろうとするせつらを引きとめようと、拙いけれど精いっぱいの言葉を紡ぎ出す。
 悲しみと不安に揺れるヴィヴィオの言葉は、せつらの漆黒の背に当たって砕け散った。相手が悪いとしか言いようがない。

「じゃ」

 とヴィヴィオの主張を一切聞き入れないせつらはさっさと踵を返そうとしたが、そこでヴィヴィオがあまりに冷たいせつらの言動の連続に耐えかねて、しゃくりあげはじめた。
 碧と赤の瞳は見る見るうちに溢れだす涙に溺れてしまい、先ほどまで浮かび上がっていた太陽の輝きが瞬く間に沈み、暗い夜がヴィヴィオの心と体に訪れていた。
 ヴィヴィオの変化に周囲の看護師と医師もせつらに対して非難の眼差しを集中させる。サングラスを着用したことで減じたせつらの美貌の魔力を、義憤の方がはるかに勝ったようだ。

「お願い、連れて行って。わがまま、言わないから」

 ヴィヴィオの瞳からぽろぽろと零れ落ちた涙は真珠のように大粒であった。零れ落ちる涙の数が増すたびに、せつらに集中する眼差しは冷たくなり、非難の色は際限なく濃いものになってゆく。

「……」

 せつらは無言。

「……」

 せつらの瞳を見つめるヴィヴィオも無言。
 いまや漆黒の人捜し屋の周囲に味方はひとりはおらず、形勢は極めて不利であった。



 そしてせつらは、この青年にしては有り得べからざる事態であったが、ヴィヴィオを手元に置き続けていた。
 役所に赴いてヴィヴィオの里親探しをしようと思えば、捨てられると気付いたヴィヴィオがわんわんと泣き出して、パパ、パパと子供特有の大声を出して周囲の耳目の注意を惹き、病院の時をはるかに上回る非難の視線がせつらの全身に突き刺さった。
 子供探しをする親達の必死な態度を知っている担当部署の役員達や、子のない親たちが多い場所だけあり、並大抵の罵詈雑言など蛙の面に小便と気にしないせつらの精神を持ってしても耐えがたかった。
 まさに手詰まりである。ただでさえ次元漂流者として肩身が狭いというのに、なにか物騒な背後関係の関わっている得体のしれない子供を引き取らねばならぬとは、これはいかなる神か悪魔のいたずらによるものか。
 どこかに置き去りにしてしまおうか、どこかの組織がさらって行ったりしないものか、と<新宿>区民らしい物騒な考えが何度となく脳裏をよぎったのは、せつらの心の中にのみ秘せられるべきであったろう。
 物思いに耽るせつらの耳に、ことん、と堅いものがちゃぶ台の上に置かれる音が届く。
 目をやればヴィヴィオが冷蔵庫の中から牛乳と玄米フレーク、食器棚から皿とスプーンを運んできたところだ。
 パパじゃない、とせつらが事あるごとに言い、ヴィヴィオをなんとかして手元から引き離さなければ、と暗にあの手この手を尽くしていることを知っているヴィヴィオは、出来うる限り自分の面倒を自分でみようとしている。
 できるだけせつらに迷惑をかけず、自分を捨てられないようにと幼心に恐怖を覚えて努力しているのかもしれない。
 じゃらじゃらと音を立てて皿にフレークをぶちまけて牛乳をかけていたヴィヴィオが、にっこりと笑みを浮かべてせつらを見る。
視線で、なに? と問うせつらにヴィヴィオが答える。

「いただきます。パパ」

 懲りないヴィヴィオに、同じく諦めていないせつらも同じ答えを返す。 

「パパじゃない」

 おおむね、これがヴィヴィオとせつらの間で行われる主だった会話である。


――続きました。
まったく血の流れない内容の回でございました。ではでは。



[11325] その7 水月豹馬 × Fate
Name: スペ◆52188bce ID:e0398f80
Date: 2010/05/22 21:48
一発完結型です。

その7 『ザ・パンサー』

 一流のバーテンというものは会話の達人だ。ただカウンターの向こうで仏頂面をして寡黙にシェイカーを振るう初老男などというものは、絵にはなってもバーテンとしては失格だ。
 真に優れたバーテンなら客の様子に応じて飽きさせない話術と話題を持っているものだ。客にうるさがれず、煩わしいと思われずに信じられないような話を静かに、さりげなく提供する。
 だというのなら目の前のバーテンは“超”を付けるに値する一流だ。白シャツに黒ズボン、粋に締めた渋い赤の蝶タイを結んだ姿は見ているだけでも飽きない魅力があるし、柳葉のような細い眼、小気味良いくらいに一直線に伸びた鼻梁、荒々しく無駄なく削ぎ落とされた頬、いずれも鋭利の一言に尽きる顔のパーツが、不思議と人懐っこいものを称えている。そして隠しても滲み出すような不敵な野生の猛獣のような匂い。
 日焼けした顔に浮かべる笑顔は苦笑でもアルカイック・スマイルでも、見たものに好意を抱かせるだろう。

 ブラッディマリー、ソルティードッグ、シャンディーガフと続いて客はブロンクスを注文した。

「少々お待ちを」

 日焼けした顔に薄く笑みが浮かび、白い歯がきらりと輝く。そのくせちっとも気障じゃない。人間を作った存在はやっぱり不公平なのだろう。バーテンの腕が一瞬ひらめき、三本の瓶が空中に踊った。バーテンが左腕を上げると三本の瓶は尽くその指の間に首を挟まれ、滑らかに台の上に降りてきた。音は無い。信じ難い手首のスピードとパワーだ。
 しなやかな指が瓶の口を掴み、親指は蓋を弾く。三つくるくると蓋が照明光を弾いた。バーテンは身をかがめた。次の瞬間、まな板の上にオレンジがひとつのっかっていた。冷蔵庫に仕舞われていた品なのだが、果たして何時バーテンが取り出したのか、客には分らなかった。
 まな板の上でこれまた何時握ったのか分らないペティ・ナイフがオレンジを二つにし、半分をレモン絞りで押しつぶしながら、バーテンは左手を伸ばした。開いた手の上に次々と落ちてきたのは先ほど弾いた瓶の蓋だった。
 オレンジの処理の時間を計算して蓋を弾いたのだろうか、そんな疑問を抱く前にバーテンはシェイカーへ瓶を傾けた。分量計測用のジガーグラスなど使わない。

 イタリアン・ベルモット4分の一。
 フレンチ・ベルモット4分の一。
 ロンドン・ドライジン4分の一。
 プラス、オレンジジュース4分の一個分。
 
 注ぎ終えて戻した瓶の口には一滴のしずくも無い。両手で胸の前に持ってきたシェイカーのそれからの動きは惚れ惚れするほどの決まりっぷりだった。光の8の字が、しゅん、と音を立ててかすみ、縁まで満たされたカクテル・グラスが目の前に置かれたとき、客はようやく感嘆の溜息を漏らした。

 華奢なグラスを傾けてブロンクスを流し込む。うまい、これが一番最初に出てきた。顔にも出たのか、バーテンがにっこり微笑んだ。憎たらしいくらいに暖かく男らしい微笑だ。やっぱり神様は不公平だ。眼の前のバーテンは格別愛されている。
それからどれ位時間がたったのか、バーテンが悪戯を仕掛ける子供みたいな、わくわくを胸に隠すように、こう語りだした。

「私の仲間に水月豹馬って男のバーテンがいましてね。こいつが名前の通り“豹憑き”、ワーパンサーなんです。殺しても死なないような奴なんですよ。滅法強くって<新宿>一のバンサーとか言われているくらいでね、奴さん今は歌舞伎町でバーテンをしているんですが、この前死ぬような目にあったって言うんですよ」

 バーテンが話し始めると、客の注文をとりに来た十歳くらいの、煌びやかな黄金の髪にサファイアの瞳をしたホステス役の少女が、まあ白々しいという顔をした。が、客は気付かない。
ちなみに少女は普段の格好よりもフリルやリボンがふんだんに使われたドレスに、ヘッドレスも着用している。趣味は良い。客はうんうんとバーテンの話にのめりこんでいた。チラッと少女にバーテンがウインクを送ったがつんとそっぽを向かれる。

「ええ、話の続きですね。それがなんでもギリシャの大英雄やクーフーリン、アーサー王なんかと戦ったっていうんですよ。え? 信じられない? そうかもしれません。でもね、これがホントの話なんですよ……」

 <新宿>でも難しそうなのに、区外で、と聞いて疑わしそうな客も、バーテンの話に耳を傾けて身を乗り出し始めた。いよいよ興が乗ったのか、バーテンの話し方にも熱が入りだした。

「事の始まりは……」


 事の始まりは雨だった。濃紺のピーコートも灰色に煙ぶるほどの雨の中では色さえ判別するのが難しい。ピーコート男、水月豹馬は傘も雨合羽も身につけてはいない。大自然の雨だ。“豹憑き”たる彼にとって慈母の降らす雨とも言えた。
北海道での超古代の遺跡を賭けての死闘を終え、“魔界都市”に身を置いてから、初めてのそして久しぶりの放浪だった。とはいってもそんなに長期間ぶらぶらするつもりは無い。
一週間くらい野原を駆け周り、吹き行く風の声を聞き、気まぐれな雨に打たれ、遠く鳴り響く雷鳴を見、大いなる大地に寝転がれれば良かった。<新宿>も良いが、やはり時折あるがままの自然に身を置きたくなる事もある。
ザー、ザー、と体に当る雨粒の音も騒々しい中で、豹馬の鼻がピクリと動いた。土砂降りの雨の中でも、確かに嗅ぎなれたあの匂い――血の匂い。
唇から白い歯のきらめきが零れた。その歯が異常に鋭く尖っていると、知る者はこの場に豹馬しかいない。

洗面用具と下着くらいしか入っていない小ぶりなリュックをよいしょっと背負い直してから、豹馬の体が消えた。あまりにも速すぎる身のこなしゆえに、豹馬に当たった雨粒が尽く霧の粒子のようにはじけ飛ぶ。
ほんの数秒後、豹馬は歴史を感じさせる古刹の寺の階段の下にいた。身を屈めて、何者かと会話を交わしている。彼の足元には紫に朱の混じった人影。横たわった人影の朱色は血の色だった。ドレスの上から黒を主体にしたローブを羽織っている。女だ。
豹馬の勘がうずいた。こりゃ厄介な事になるぞ、とこれは魔術系だな、だ。女からは『高田馬場魔法街』に共通するある種の匂いがした。だからといって怪我をした女を放って行く選択肢など、この男には生まれたときから無い。

「大丈夫か?」

 うつぶせに倒れた女がフードに隠れた顔を上げた。二十代半ばか後半くらいの美しいという言葉を使うのに何の抵抗も無い美女だ。多分地中海系だろうか? 白皙の凝肌に、理知的な眼差しをたたえる瞳、フードから零れた髪の色はくすんだ水色というべきか。手入れの行き届いた、細く長く、しっとりとした肌触りが触らなくても分かる。雨に濡れて、かえって色香を漂わせていた。ただし女自身は意識すら朦朧としているのか、玉の肌からは血の気が引き、瞳の光が濁っている。

 こりゃ急がないとヤバイ。区外の病院がどれだけ頼りになるか分らんが……と豹馬が女を体重が無いみたいに軽く抱き上げた。すると女が何事か豹馬に囁きかけた。ひどく小さなか細い声だったが、“憑き人”である彼には十分に可聴領域の声量だ。何い? と豹馬が呻いたが、すぐにさもありなんと納得した。女が口にした方法は、魔術なら当たり前とも言える内容だったからだ。特に性魔術では。

 十分で、豹馬は滞在先に使っている家屋に辿り着いた。深山町近郊の山の中にある小屋だ。雨風は十分に凌げるし、意外と生活用品も整っている。持ち主には一日一万ずつ払っている。八畳一間にキッチン、リビング、トイレ・バス共同。
畳の上に敷いた布団の中で、容態の回復した女の様子にとりあえず豹馬は安堵した。着ていた服は脱がせ、男物のパジャマを着せている。桜色に上気した肌からは、たっぷりと掻いた汗やその他の体液は綺麗さっぱり拭われている。んん、とこぼす声もどこと無く色っぽい。
 ストーブの上でやかんがシュンシュンと音を立てていた。二人の体には先ほどまでの行為の余韻が残っていた。何時の間にかウトウトし始め、豹馬は浅いまどろみに落ちていった。

 これは夢か? 夢の中で夢と分かる理不尽も夢だからこそ、と使い古された表現を思い浮かべながら、豹馬は無理やり押し付けられるイメージを黙って見た。

 始まりは何時だったか、とある神と呼ばれる存在が一人の男を気に入った事だ。ただそれだけなら別になんていう事は無い。神に寵愛される人間なんて、世界の神話を見渡せば掃いて捨てるほどいる。ただ違ったのは神が男の為に、ある女性にその男に対する恋心を植え付けたことだ。
 顔も知らぬ男に対する与えられた愛情はもはや呪い。女性は男のために持てる能力と知恵をすべて捧げた。それは人としての論理、道徳、情すら含んでいた。

 弟を八つ裂きにした。
 罪なき娘とその父を毒殺した。
 裏切った男への復讐の為、男の新たな女を焼き殺した。
 男との間に生まれた二人の子供を殺した。
 父の復讐の為、実の兄を殺した。

 女性は与えられた愛情にそれまで培った家族との愛情、人間性、道徳を尽く排除され、ただ男のために尽くす操り人形となっていた。すべては愛する男のために。男を寵愛する女神のために。ただ男を愛していると、偽りの自分がそう信じているために。

 愛は彼女を無知にした。愛は彼女を罪人にした。愛は彼女を傷付けた。愛は彼女を盲目にした。愛は彼女を翻弄した。やがて愛は憎悪と同意義となった。
 望まぬ偽りの愛は彼女の人生を弄び、やがてその愛が無くなったとき、彼女は“魔女”と呼ばれた。望まぬ称号、望まぬ生涯。もはや喜劇とすら思えてしまう悲劇の連続。
 
 ギシリと何かひどく堅く鋭いものが擦れあう音がした。豹馬の歯だ。力一杯噛み締められた歯と歯とが擦れあっている。
 紋章学において「パンサーは、ライオンの胴体、グリュプスの鉤爪、牡牛の後肢、豹の尾をもつ怪獣であり、口と鼻孔から焔を吐き出している」という。これは悪党や化け物に対峙し、憤怒した水月豹馬そのものだ。即ち夢という形で、助けた女の過去を見た豹馬の今の顔だ。
 眼を外に向ければ清澄な朝の空気を透過して朝日が差し込むが、豹馬は何よりも夢の内容に怒っていた。
何が神だ、何が愛だ、何が裏切りの魔女だ。全て何もかが彼女の意思とは関係の無いところで決められ、行われた結果だった。一人の人間の運命を好き勝手に弄り回すのが神の特権だとでも言うのか!?
だがこの怒りを向けるべき『神』とやらはもう失われた時代の遺物だ。そして彼女の過去は既に伝説として伝えられているように確固たる過去のもの。今ここで豹馬がどれだけ義憤に駆られて怒ろうとも、結局何一つとて変る事はない。
だが、それでも、豹馬は怒った。ただ女のために、同情でも憐れみでもなく。それは人間の根本的な善性に支えられた当たり前の怒り。だから豹馬は怒っていた。人間としてその悲劇の理不尽な理由に、理不尽な結末に。

「うんん……」

 慎ましやかな声と共に女性が薄く眼を開けようとしていた。振り返った豹馬の顔に怒りの相はない。手にコップを持って枕元に近付く。足音はない。

「気が付いたか?」

「! あなたは?」

「あ~~、通りすがりのお節介だ」

 自分をどう紹介するか、などとは考えていなかったから、誤魔化すように鼻の頭を掻きながらそう言って、コップを置いた。口から出てきたのは案外ありきたりなセリフだった。

「あったまるぜ」

「……ただの人間では無さそうね。ライカンスロープ、かしら」

 ひゅう、という音は豹馬の口笛だ。正体を一発で見抜かれた。“豹憑き”とは微妙に異なるが、まあそんなところだ、と言ってから豹馬はどっかりと女性の前に座った。ちなみにライカンスロープとは病或いは呪いによって獣と化す人間の事だ。“憑き人”である豹馬とはちょっと違う。

「それで、君はどうしてあんな事になっていたんだ? 血まみれな上にこんな物騒なものを持ってるなんてな」

 ひょいっと豹馬が示したのは、刀身がいくつかのカーブを描く装飾過多ともいえる、しかし優美な芸術品のような短剣だ。その刀身に帯びた尋常ならざる魔力、荘厳な品格からただの装飾剣では無いと知れる。
倒れていた女性が持っていた代物だ。血脂肪に濡れた状態で、だ。それを見て女性がまだ青白い表情を歪めた。相当に大事なものか、曰くつきなのだろう。横を向く様子に豹馬はま、しゃあないわな、と心中で零して短剣をそっと畳みの上に置いた。
 こちらを振り返った女性に向かって少し唇の端と端とを吊り上げて、笑みを浮かべた。獣の獰猛さに同じ獣の優しさと、人のぬくもりとを持っている笑みだった。

「話したくなけりゃそれで良いさ。オレはもう暫らくこの街にいるつもりだから、ここを好きに使って構わないぜ」

 くるりと立ち上がってスタスタとたたきに降りてドアに手をかけた。どこに出かけるか、特に当てはない。ちょっと考えてから振り返ってこう言った。

「飲んどけよ、たまご酒。コップは流しに置いておけば良いからな」

「あ、……その、ありがとう」

「気にすんな」

 パタンと、ドアを閉じる音が二人を隔てた。

 それから二日があっという間に過ぎた。この間の収穫といえば女の名前がキャスター(偽名だろう)であるという事と、豹馬が自分の名前を教えた事、それとキャスターがこの街で起きている何かに関わっている事が分かった事だ。豹馬の嗅覚が冬木市がただの街でないことを鋭く警告している。普通の日々の中、微妙に異なる違和感や前兆みたいなものが徐々にその全貌を現すのを待っている、そんな感じだ。

 キャスターは終日家の中で過ごしたが変化は確かにあった。三日目。豹馬が適当に近郊の森や山の中を散策した帰り道、何者かが尾行してきている、と直感と経験が囁いた。おもしろい、腕がなまりかけてた所だ、と思い立って徐々にスピードを上げながら帰路に着く。
 滅多やたらに適当に走り回り、徐々にスピードを上げてゆく。実に六十キロに及ぶ距離を、平均時速百二十キロできっかり三十分走り続けた。

(ちゃんと尾いてきやがる。こりゃ腕が鳴るな)

 あの家までざっと三百メートルほどの林の中で豹馬が足を止め、尻のポケットから黒い皮手袋を取り出した。ただし指の先端は穴が開いており、指が覗いている。ゆっくり嵌めながら声を張り上げた。

「出てきなよ。それともつかず離れずでストーカーの真似事をするのが流行りなのか?」

「へ、そういうなよ。こちとらちょっとばかし事情があるんでな」

 声の主は豹馬の真正面から姿を見せた。良い度胸だ。年のころは豹馬と同じくらい、白いラインの入った青いボディースーツ、肩と首周りには蛇腹状の銀甲冑。それよりも手に持つ全長二メートルほどはある蔦が絡まったかのような赤い槍が目を引いた。ただそこに在るだけで空間を侵食するような威圧感、禍々しさすら漂わせる“死”の気配。キャスターのあの短剣と共通する不可侵の何か。
 持ち主たる男から伝わるのも、一流という言葉が虚しくなるような闘気、隙の一片も見つけられぬ、そのくせ飄々とした立ち姿。背後から何者かが襲いかかっても電光の速さで槍が赤い流星となるだろう。顔立ちは何処か豹馬と似ていた。共通するのは獣の如き鋭さと獰猛さ。

「で、オレに何のようだ」

「何、オレの探している連中の足取りを探してるんだが、どうもここら辺にいるらしくてな。心当たりは無いか?」

 答えは分かっているぜ、と槍騎士の顔が物語っている。全くその通りだと豹馬も同意した。姿を見せたときから、最初から答えも、結末はともかくその過程はわかっていた。即ち、闘争だ。

「力ずくで聞いたらどうだ? 」

「そのほうが手っ取り早そうだな」

 共に浮かべたのは強敵との邂逅に熱くなる血を持った戦士の笑み。まったく、コイツはオレと似てやがる。奇しくも二人とも同じことを考えていた。
 
「名前も知らぬでは不便だな。オレはランサーだ」

「水月豹馬と覚えておけ」

「ヒョウマか。じゃあ早速だがヒョウマ……あばよ!」

 ヒョウっとランサーの姿が掻き消える。高速で移動したランサーの巻き起こす突風に林の木々が揺れて落葉が砕けて宙に舞う。ランサーのその姿は豹馬の背後、赤い槍を引き絞り、その背から心臓目掛けて突きこむ。豹馬の背に届く寸前で、豹馬の黒いジャケットが旋回した。豹馬の回し蹴りはいかづちの如く素早く苛烈にランサーを襲った。

 ランサーがしゃがみ込んでかわし、再び立ち上がるまでの間に赤と黒の攻防が数十回交わされた。ランサーの槍に対してリーチで圧倒的な不利に立つ豹馬は両の手と足、小刻みな超高速ステップで距離を詰めるべく、神速のランサーと互角に近い速度で攻めていた。
 ランサーが突く。時に槍を握る手をずらしてリーチを変え、あらやる急所目掛けて正確に無慈悲に赤い彗星が、青い騎士の技量の下に放たれる。
それを豹馬はかわすかわすかわす。上半身を捻り、首を傾け、半身だけずらして紙一重の回避を続けながら黒い皮手袋に包まれた稲妻の如きパンチをランサー目掛け打ち込む。豹馬のパンチとランサーの槍撃が交差して二人が後ろに跳躍して離れる。空いた距離は十メートル。
 ズルリっとランサーの左頬の皮が一枚剥けた。豹馬の左肩に浅くはあるが槍の刺し傷が穿たれている。白いシャツを赤い領土が染め上げて行く。

「てめえ、何者だ? ただの人間じゃないってのは分かってたんだがな」

「さあな」

 冬の差し込む木漏れ日に、優雅な獣の影が映し出された。服を盛り上げる筋肉の筋は太すぎず、鋼の筋を束ねたかのよう。匂い立つのは大地が与えた野生の生命の匂い。豹馬が両手を地に着ける。それは自然の生み出した躍動する芸術、豹の姿だった。ランサーはこの男の正体を悟った。

「ホーンテッド(憑きもの)の“豹憑き”か。しかも並じゃねえな、いくら“豹憑き”でもおいそれとサーヴァントと戦えるようなレベルの存在じゃねえ。“憑き人”でも最強クラスだな?」

「褒めるなよ」 

 豹馬の姿が消える。ランサーの姿が消える。音速を超える速度での超高速の死の舞踏。豹馬が四つの手足で大地を駆け、野生のリズムを刻む。ランサーが俊足で駆け抜け、赤い槍で突き穿つ。林の中を黒と青とが、残像を残しつつ光の尾を引くように駆け抜けてゆく。上空から俯瞰すればそれは、黒い鱗と、赤の混じる青い鱗の蛇が争っているかのような軌跡を描いていた。時折交差すれば、刹那の攻防が二人の間に巻き起こる。
 点で攻撃を行う槍を、払う事によって面による攻撃も加え、ランサーがその名に恥じぬ槍術を繰り広げる。もはや単純な“突く”という動作でさえも、圧倒的な速度と正確さで面を制するほどの手数となる。
 ならばそれを捌く豹馬は? 音の壁を越える速度で動きながらランサーの槍を掻い潜って右フックを一閃、すかさず左のショートアッパーを最小限の動作で放つ。威力は大型肉食獣のそれに勝る。のけぞってかわしたランサーの顎の先の肉が削げた。ニイ、とランサーの唇は笑みを刻み、豹馬の口元にも等しいモノが浮かぶ。
のけぞった姿勢のままランサーが槍を閃光の如く振るう。咄嗟に飛び退いた豹馬の左肩の肉がいくらか持っていかれた。再び二人は離れた。愛し合う恋人との別離にも似て。

低く腰を落とし、豹馬は地に伏せて跳躍の時を待つ獣となった。人が獣の姿を真似る。本来ならそのような姿勢は人間にはそぐわない。とうの昔に失ったか捨てたかした姿だからだ。だがホーンテッドは違う。水月豹馬“ザ・パンサー”は違う。
顎スレスレまで地面に近付いたその姿勢はまさに“豹”。たわめられた四肢はたおやかな鋼の破壊力で跳躍のときを待つ。

ランサーが一切の表情を排し、己が愛槍を弓弦の如く引き絞り、最速最高の一撃の為に静かに呼吸を整え、筋肉に始動の時を待たせる。厳しい表情の下、ランサーはこの偶然の邂逅に感謝する。ランサーは聖杯に対する望みはこれと言ってない。この戦争に参加したのは“聖杯”で叶えたい願いがあるからではなく、その過程、生と死の境界ギリギリの死力を尽くした戦いをしたいからだ。
度し難い戦闘狂とも言えるこの性情は、戦闘こそを目的としてランサーを突き動かす。だが、皮肉にも“今”のランサーは全力を出すべき同種の敵、サーヴァントとは全力で戦う事ができない。そう命令されているからだ。クソッタレな命令に逆らう術が無いランサーは屈辱と鬱屈とした思いに身を焼きながら、命令に従っていた。
そんな時に、目の前の男を見つけた。最初は軽い興味だ。明らかに常人とは違う雰囲気と『匂い』。退屈紛れに後をつけてみれば、その疾風の如き身のこなしと野獣の如き気に惹かれていた。別にサーヴァントと関係が無くてもそれなりの鬱憤晴らしにはなるだろうとコナをかけてみたら……大当たりだ。
“憑き人”とはいえ、ほぼすべての連中はここまでランサーとは戦えない。人間プラス野獣の能力を発揮するのが精々だからだ。だが豹馬はそれを凌駕していた。人間はサーヴァントと戦う事すらできない、事実のそれをこの男は覆した。このうれしい誤算にランサーは感謝の念すら抱いていた。

“てめえはオレが必ず倒す”、かなり物騒な感謝の念ではあるが。

 豹馬もまた強敵に呼応する野生の血を感じていた。“憑き人”特有の状態だ。体のあちこちから赤黒い筋が垂れ、熱と体力を奪っていく。本来なら豹馬は四四マグナムだろうと頭か心臓を打ち抜かれなければ行動に支障はきたさない。銃創でも半日もすれば勝手に治る肉体だ。だがその治癒能力が機能していない。止まるべき血は止まらず、塞がるべき傷はそのままだ。ランサーの技か槍か。厄介な事だ。
 低く下げた豹馬の咽喉から唸り声が零れる。ランサーとかいうこの男は手強い。パワー、スピードならあの街<新宿>にはより勝る連中がいる。
 原子モーターから供給されるエネルギーが五千馬力を生み出すサイボーグ。
 マッハ十で機動する高速人。
 核爆発の直撃にも耐える装甲を有する妖獣。
 だがそのいずれよりもこの男は強い。パワーで劣る、スピードで劣る、だが戦えば勝つのはこの男だ。理屈以前に本能的、と言おうか豹馬は悟っていた。骨の折れる事だが、実に自分の性に合っている。

豹馬が笑みを浮かべた。ランサーが笑みを浮かべた。相手への“愛”に満ちている。ただし血を流し肉を削ぎ、骨を砕いて命を奪い合う“愛”だ。

 ググッとより深く四肢をたわめた豹馬の姿が宙に踊った。ランサー目掛け振るわれる右の腕! ランサーがリーチの長さを十二分に発揮しての最速最高の刺突を放つ! 豹馬の腕よりも早く赤い魔弾の如く迸った槍を、豹馬は弛緩させた筋肉を捻って串刺しを避ける。
ただし、右脇腹の肉が肋骨三本砕けるのと同時に抉られる。掠めただけでコレだ。引き締めた筋肉は刃物など容易く止めるが、この槍は話が別だ。なら最初から柔軟性を重視して脱力した状態にして回避を優先する。咄嗟の判断だった。

 空中で豹馬は筋肉のばねを利用して身を捻り、天地を逆に入れ替える。頭が地面を向いて、両足は天を向く。超常的な筋力を使った三次元的な機動だ。いかずちの脚と雷光の牙持つ豹が必殺の腕を振るった。バキンという音と共にランサーの右首筋の銀甲冑が砕け、血肉が宙にバラける。それだけでは終わらない。腕の一撃の勢いを利用してそのまま体をひと捻りし、天から大地へと豹馬の足が彗星の如く堕ちた。今度はランサーの左肩の銀甲冑が砕ける。だが本来の狙いは頭だった。
とんでもない反射神経と直感でわずかに首を傾けただけでランサーが致命傷を避けたのだ。万分の一秒反応と判断が遅れれば首が捥げ、左肩が粉砕していた一撃だった。宙空の豹馬に見舞うは槍を引き戻し振り返っての一撃か? だがその前に豹馬は地面に脚をつけ、間合いから離れるか超接近戦を挑んでくるに違いない。では彼が取る手段は? 閃光の槍術と疾風の脚持つ青騎士は、思い切り槍を引いて石突の部分を豹馬に叩きつけた。

「があ!?」

 右腕でガードした体勢のまま豹馬は二十メートルは軽く吹っ飛び、何度かバウンドしてから再びあの“豹”の姿勢で着地する。だがその右腕はブラリと垂れ、使い物になりそうにない。ガードした部分の骨が粉々に砕けているのだ。ランサーが悠々と槍を構え直す。首の出血が右半身を朱に染めつつあった。甲冑は砕けた。血肉も削られた。だが致命傷には程遠い。四肢には支障をきたすほどのダメージは無い。
 一方で豹馬は右肋骨三本と右腕の骨がオシャカになっている。ちょっぴり不利だ。この程度で戦意を喪失するようならどこぞのバーでバーテンダーとして一生を終えている。豹馬の咽喉からあの野生の唸り声がまた漏れ出す。さあ、まだ闘いはこれからだ。

 豹馬が駆け、ランサーもまた駆けようとした。そこに無数の光の弾が殺到し、ランサーを抹殺すべく乱舞する。邪魔が入ったのだ。豹馬とランサーの二人ともが苦々しい顔を浮かべた。
 遠目に、水色のタートルネックのセーターと白いスカートをはいたキャスターの姿を豹馬は認めた。先ほどからの闘いを察知して豹馬の危機と考え、駆けつけたのだ。豹馬の負傷を眼にしてから、険しい表情でランサーを睨み付ける。大切な人を傷付けた怨敵を前にすれば誰しもこうなるだろう。少なくとも豹馬は嫌われてはいないらしい。

「てめえが呼んだってわけじゃねえか。キャスターだな? ……余計な真似しやがって。ちっ、まあいい。ここで引けとするか、ヒョウマてめえはオレが倒す。誰にも殺られるんじゃねえぞ」

「こっちのセリフだ」

 少しだけ二人は視線を交差した。最高の敵は最高の友に等しい、そんな二人だった。身を翻したランサーが見る間にその姿を小さいものに変えて走り去った。キャスターが何かする間もないくらい潔い退きっぷりだ。
 キャスターが遠慮がちに聞いてきた。豹馬の表情を一瞬見たからだ。今は苦笑を浮かべている。クラスの女の子にかっこ悪いところを見られた男の子みたいな苦笑だ。

「余計なお世話だったかしら?」

「いいや、危ないトコだったぜ。助かった。しかし手強い相手だな。傷がちっとも塞がらん、君の知り合いか?」

「あの槍には治癒を妨げる呪いがかかっているのよ。それと……ごめんなさい」

「うん?」

「あいつが来たのは私がここにいるからよ。あなたに要らぬ怪我をさせたわ」

「よせやい。喧嘩を売ったのはオレで買ったのはアイツさ。そこに君が入る余地はないぜ。それよりも早く戻ろう。いつまでも血まみれで手当て無しってのも様にならん」

 そう言って照れくさそうに豹馬は微笑した。人の奥深いところまで染み入るような笑みだった。
 
小屋に戻ってキャスターが呪いを緩和し、さらしを巻いてから着替える。それから少しばかり休憩していると、キャスターが一大決心をした、という顔で豹馬に話があると切り出したのだ。なお、この二日間キャスターは豹馬が適当に買ってきた婦人服を着ている。

「……」

 豹馬は黙ってキャスターが話し出すのを待つ。こういう時は黙って話し出すのを待つのが男だ。逡巡していた様子だったキャスターがようやく口を開いた。

「まずは、あの時私を助けてくれてありがとう。感謝しています」

「当たり前の事さ」

「そういう人なのね、貴方は。……私が何なのか、これを聞いたらあなたは引き返せないし、危険な目にあうわ。今なら私がここを」

「おっと、そっから先は無しだぜ? あいにく君には悪いが君の過去らしい夢を見た。すまんな」

「いえ、仮とはいえパスを繋いだのだからかそういうこともあるわね。それにしても謝るなんて律儀な人ね、私の過去なんて見てもつまらないでしょう?」

 自虐的なキャスターの言葉に、豹馬は肩をすくめたきりだ。どこまでも陽性な若者なのだ。そんな豹馬の様子にむしろキャスターは救われたようだ。ほんの少し眼を瞑って心中を整理し、本題に入った。


「なるほど。サーヴァント、直訳すれば奴隷・使い魔って所だが、この街の場合は輪廻の輪から外れた英雄様達か。そいつらを使っての戦争、か。胸クソ悪いな、おっと失礼。で、キャスターは最初のマスターを殺害して、魔力が切れかかってあそこで倒れていたってわけか」

「ええ、言い訳はするつもりは無いけれど、言わせてもらえるなら、確かにキャスターのクラスは最弱と言われるけれど私には私なりの矜持と勝算があった。けれどあのマスターは私の言うことには何も耳を貸さなかった。ただ己の身を案じて閉じこもって私を罵倒するだけ。そんなこと私には許せなかったのよ」

「ま、分からなくはないな。で、君はどうするんだ。望みがあるから聖杯戦争の召喚に応えたんだろう」

「…………」

 実を言えば豹馬にはおおよその見当がついている。あの夢の中でキャスターは幾千回と問うた。なぜ私なの? 幾万回と祈った。あの頃に戻りたい、と。望んだのは小さな幸せだった。おそらくその願いは捨てられまい。

「さて、それとは別に問題がある」

「?」

「オレはランサーと決着がつけられなかった。そいつはオレの沽券に関わるんだ。で、聖杯戦争に参加すればまたあいつと戦う機会にも恵まれるな?」

「それはそうだけど。でも相手は英霊よ、下手なプライドは捨てなさい!!」

 この時キャスターは必要以上に豹馬の身を案じる、自分の心の動きに気付いてはいなかった。ましてやそれが偽りではない本心からの好意に支えられているとは。この二日間は、キャスターにとって豹馬という男を理解し、信頼させるには十分だった。

「男の子には意地を張らにゃならん時ってもんがあるのさ。それに、君というサーヴァントがこっちにもいるだろう」

「私と契約を結ぶつもり?」

「たまには誰かに背中を任せてみるのも良いかと思ってね」

「……嘘の下手な人ね。私の“願い”を叶えさせるつもりでしょう?」

「さて」

 獣は嘘をつかない。ましてや“豹憑き”の男は。儚げな笑みを浮かべてからキャスターはそっと安堵した。この男の傍に居られることへの安堵だと気づくのは今しばらく後の話だ。何時以来の気持ちだろうか。こんなに安心するのは。誰かを頼れる事の安らぎを感じるのは。

「分かりましたヒョウマ。私はアナタのサーヴァントとなり、この闘いを勝利して見せましょう」

「そうこなくっちゃな。よろしくキャスター」

 差し出された豹馬の手をキャスターは握った。大きく逞しく、暖かい大地のような掌だった。豹馬が握ったキャスターの手は折れてしまいそうな位に儚く細かった。けれど冷たくなんか無い、暖かい手だ。どこが“魔女”だ。昔の連中は余程見る目のない節穴ぞろいだったらしい。

「……メディア」

「?」

「私の本当の名前です。二人の時はそう呼んで下ださい」

「分かった。メディア」

 初めて豹馬はキャスター=メディアの本当の笑みを見た。やっぱり過去の連中の目玉は節穴だと思った。そんな笑みをメディアは浮かべたのだ。


 バーテンはそこで話を切った。客はもちろんその続きをせがんだが

「ダメダメ、話は少しずつ小出しにするから面白いんですよ。またのご来店の時にでもお話しますよ」

 そう言って柔らかく拒絶した。ふと客の視界に、紫とも水色とも見える長い髪の美女の姿が入った。特徴的なのはその西洋風の美貌と横に伸びた俗に言う“エルフ耳”だ。そういえばあの女性がこのバーに顔を見せてから、ホステスの少女の服装が毎度違うものになっているな、と客は思った。
 客は飲み干したブロンクスを置いて、フォールン・エンジェル(堕ちた天使)を注文した。

「少々、お待ちを」

 バーテンは微笑み白い歯並を見せた。槍穂の如く研ぎ澄まされた歯並はまるで豹のようだった。

おしまい

捜索掲示板で探されている方がいらしたので投稿いたしました。



[11325] その8 水月豹馬 × Fate ②
Name: スペ◆52188bce ID:e0398f80
Date: 2010/05/23 19:47
その8 『ザ・パンサー2』

 客はいつもどおり夜の歌舞伎町の一角に立つバー“ブラック・キャッスル”に入った。夜の歌舞伎町は、<新宿警察>の精鋭コマンド・ポリスですら十人一組で見回らねばならぬ危険性を孕んでいる。
 ブラック・キャッスルまでは比較的安全が確認されているルートだったが、二度ほど襲われた。
途中電磁加工した日本刀四本を振りかぶって襲ってきた四本腕の改造人間と、一ミクロンのタングステンの針を全身から放出するハリネズミモドキの妖物を、懐から抜き放ったハンドガンサイズのレーザーガンで追い払った。
 花園神社で定期的に開かれる殺人激安市で買ったセコハンだが、買って得した気分に良くしてくれる。照射部分を百万度に加熱するまで千分の一秒。エネルギーを満杯まで充電しておけばビルだって焼き切れる。
 キイという軋む音と、カラン、となる鈴の音を聞きながら、客はブラック・キャッスルに入った。ドアの軋みも、鈴の鳴る音も“黒い城”と名づけられた享楽の酒場には相応しい風情がある。

「いらっしゃい」

「いらっしゃいませ」

「ああ、まだ動いちゃ駄目よ」

 カウンターの向こうでグラスを磨いているバーテンと、銀の大皿を抱えたホステス役の少女、それに少女の髪をなにやらいじっている妙齢の美女である。
 バーテンはグラスを拭く仕草さえ小粋に決まった、“男の中の男”という言葉を使いたくなるような精悍な青年だ。客はバーテンの名前も知らないが、その日焼けした顔が浮かべる胸の奥に染み入るような笑顔と、笑顔から零れる槍穂のような鋭く白い歯並が妙に気に入っている。
 蝶ネクタイと白いシャツ、黒のベストを盛り上げているのは、肥大ではなく引き締まった鋼のような筋肉。そして秘められているのは、それらが躍動した時に解き放たれる、魔獣のパワーとスピード。
 店内でどれだけサイボーグや非合法エスパー、強化人間、モグリの魔道士が暴れようと風のように現場に駆けつけたちまち解決してみせる、凄腕の用心棒でもある。
 銀盆を抱えた少女は、まだ十歳くらいの容貌だが、この店の立派なホステスだ。抑えた照明に照らされる金の髪の輝き。大きな銀盆を抱えてテーブルとカウンターを行き来する肢体。注文に応える時に聞える、金鈴の鳴るかのような声。
 熟した時の色香を想起せずにはおれぬ鼻梁。幼い外見にそぐわぬ知性を称えたサファイアの瞳には、世界が青く濡れて見えているかもしれない。
 今までは紫サテンのドレスやワンピースが多かったのに、最近は見かける度に服装が違う事に、前回来店した時に客は気付いていた。
 本日は黒のゴシック・ロリータ調の退廃的な雰囲気と小悪魔的な耽美さを併せ持った、少女趣味でなくとも生唾を飲み込みかねない、背徳的な色香を滲ませるワンピースだ。黒い生地は絹の光沢を示し、ふんだんにあしらわれたフリルは愛らしさを罪の領域にまで増幅している。
 肘から美しい曲線を描いて指先までを覆う黒の長手袋の先に押さえられた銀盆すら、美少女の愛くるしさに酔っていてもおかしくは無いほどである。
 三人の内、唯一客に声をかけなかった美女だが、客は彼女の事だけは全く何も知らなかった。
水色とも薄い紫とも取れる不思議な色合いのロング・ヘアーに、横に伸びた特徴的な柳葉状の耳。整った造作の美貌には世界を動かす真理に触れた者の持つ特有の知性の光と、暗い奈落のような闇とが共存している。魔道に生きる者の特徴だ。
遺伝子操作や、区外とは比べ物にならない整形技術で超美男美女が氾濫しているこの<魔界都市>でも、滅多にお目にかかれぬ美貌の主であった。確かに目を引く美貌だが、それ以上に、後天的にはどうしても備えさせることの出来ない“気品”がある。
後は前から行きつけだったこの店から、しばらくバーテンが姿を消した時期があり、彼が戻ってきた時と同時にこの店に顔を出すようになった。それ位だ。
 ああ、そういえばもう一つあった。どうもホステスの美少女の服はこの美女が用意しているらしい。今も椅子に座らせた美少女の金の髪をせっせと三つ編みにしている。
ひどく楽しそうな美女の様子と、困ったような嬉しいような迷惑のような、なんとも言えない表情の美少女の様子とが、思わず笑みを誘うくらいに心を和ませる。
バーテンと客が揃って微笑を浮かべてから、客は早かったかな? と声を掛けた。柔らかく暖かくバーテンがそんな事はない、と否定した。包み込むような包容力は生来のものだろう。意識して身に付けられる様な安いモノではなさそうだ。
ジントニックを注文し、いつもの定位置になりつつあるカウンターの一席に腰を掛けた。

「ジントニック、お待ちどう様。え? 話の続き? ああ、アレですか。そんなに気に入りましたか?」

 からかう様にバーテンは客を焦らす。うっすらと唇が形作る笑みは、ガキ大将かイタズラ小僧めいた、子供っぽいものだった。客は、焦らされる事にこんちくしょう、と心の中で漏らした悪態も、苦笑になって顔に出ているのを自覚した。
 バーテンとしての技量だけではなく、生来の素養なのか人を話に引き込むのもうまいようだ。おまけに憎たらしいと思うよりも、騙されたかあ、と清々しく苦笑してしまうような、そんな爽快さがある。
 天に愛された匠が織った様な金糸の髪を編み編みされながら、ホステスの少女がチラっとバーテンを見た。今自分の髪をせっせと編み編みしている美女と、バーテンが出会ってから繰り広げた死闘は、秘すべき闇の世界の暗闘であると知っているからだ。
 バーテンは分かってるよ、とウインクひとつを投げてよこした。よこされたウインクはプイっと顔を背けた少女の、血色の良い頬の辺りに命中しただろう。
 それからバーテンは、カウンターに手を置き、客の瞳を覗き込むように前かがみになって、ニイっと笑みを一つ浮かべてから話の口火を切った。仕掛けたイタズラが、見事に成功した事に喜ぶ子供みたいな光が瞳に輝いている。

「水月豹馬とキャスターが出会った辺りでしたっけ? それでは」

 コホンとわざとらしく間を置いてから、バーテンは話を続けた。


ランサーと槍と拳を交えた翌日である。その日の朝、豹馬は黒い皮のジャケットとストレートのブルージーンズに身を包んで、山中の奥深く、とある岩の上で座禅を組んでいた。
ジャガイモみたいな形をした岩が、上半分を覗かせていて、地面から一メートル、最大直径三メートル程だ。周囲はまだ黒い闇に飲まれているが、直に太陽という名の光に払拭される。そんな時間帯だった。
冬の清雅な空気が、朝の清廉な気と混じり、山中に住まう数多の生命の息吹が溶け合って、常人には知覚出来ない、数多の生命が産み出す“気”の溜まり場が形成されている。今は豹馬もその生命の一部となっていた。
土中に眠る虫たちや、枯木と見間違う年老いた木。冬の木枯らしに身を晒された樹木。かさりと落ち葉を音を立てて歩いてゆく小動物。とうとうと流れる清水をたたえた小川。ひょうひょうと吹く風も、山自体を含んだ巨大な一つの生命の一部であった。
幾千、幾万、或いは人の概念で数える事の出来ぬ数の生命が、一つの生命の様に互いの存在を混ぜ合わせ、混沌としつつも確実にまとまりつつあった。
豹馬は木の中に眠る虫であり、木立に止まった一羽の小鳥であり、風に揺らされる名も無い花であり、わずかに表面を凍らせた水溜りであり、そしてこの山そのものだった。
やがて、陽の光が周囲を照らし出してから、豹馬はゆっくりと瞼を開いた。世界は金色に染め上げられていた。ただ美しく雄大で、人の世界も、この光景の前では小さなあぶく玉の様に儚い夢にすぎない。そう思ってしまうようだった。
ふうっと白い吐息を漏らして、豹馬は世界を染め上げる太陽のぬくもりを感じた。
小屋に戻って豹馬が以前、中国硬気功を真の武術として伝える最後の気功の使い手、と称される老人に習った気功法を行い、大地と大気より清廉な“気”を己が内に取り込み、体調を整えていると、ひょっこりキャスターが小屋から顔を出して豹馬を呼んだ。
はいよ、と片手を上げて返事をし、小屋に入る。もし、気功の道をそれなりに歩んだ者が、豹馬の様子を見ていたなら、その見事というほか無い“気”の扱いと、大地の“気”との調和の様子に目玉を引ん剥いただろう。
水月豹馬は“豹憑き”であるが故に、無意識に大地との調和を全身で行っているのだ。『気は体内より生じず、大地より生じる』、人も獣も大地の上で生きているが、文明と言う名の分厚いコンクリートで大地を隔離した“人間”では、長い時を掛けて学ばねば辿り着けぬ境地を、水月豹馬は全身で知っているのだ。
キャスターが現代文明の技術の精髄にして文明の利器、電子レンジやガスコンロ、圧力釜と、おっかなびっくりしながら凄絶な死闘を繰り広げた末に完成させた朝餉を取りつつ、今後の方針について話を進めた。
洋風? と思しき何かの肉を焼いたらしい物をかじりながら、豹馬はキャスターの話に耳を傾けた。
器用そうだから、調理器具の取扱説明書と料理の本を読めば、次からはまともな食事が取れるだろう。ま、外食でも構わないしと頭の片隅で考えていたりもした。

「取り敢えず、今はまだサーヴァントもまだ七騎揃ってはいないし、準備を進めるべきでしょう。手持ちの戦力の確認と増強、考えうる事態に対する備え、戦場であるこの街の地理の把握、それと既に召喚済みのサーヴァントとマスターの情報収集、ざっとこんな所ね」

 ずずずっとまともに淹れる事に成功したらしいインスタントコーヒーを、ふーふー冷ましてから啜る。猫科の悲しさか、豹馬は猫舌だ。ミルクを入れて冷ませば良かったと、呑んでから気づいた。

「正直、俺はこの戦いに関しての前知識はさっぱりだからな。戦闘以外はスマンが君頼りだ」

「それが私の本分ですもの。それに後方支援型の私からすれば、マスターがサーヴァントと互角に渡り合える戦闘能力の持ち主、というのは嬉しい誤算よ。マスターには戦場から離れていてもらうか、使い魔に戦わせるか、ある意味最悪の場合はマスター自身に前衛を務めてもらわなければならないのが、『キャスター』というクラスの特性だから。そういう意味では初見の敵にとってあなたという存在は意表を突かれる形になるでしょうね。まあ、それはそれで戦い方の組み立て方を考えなければならないけれど」

 キャスターも自分で淹れたインスタントコーヒーを、豹馬が百均で買ったカップに注いで一口飲む。現代文明の味はそれなりに受けが良かったらしく、ピコっと一度耳が上下した。正直見ていて面白い。思わず豹馬の口元がほころんだ。

「何? まあ良いわ。まずはサーヴァントが存在を維持する為に必要なもの、“魔力”の供給なんだけれど、貴方、魔術師じゃないのよね?」

「期待に添えなくてすまん」

「いえ、問題はこれからなんだけれど、さっきやってたアレは何かしら?」

「あれか? 『気功法』さ。陽羅猛(ようらもう)という人に昔教わったモノでな。先生の“気”は鉄板を貫いて背後の虎十頭もまとめて倒す、ってレベルだったが、俺は百年かけても駄目だそうだ。一,二発なら喰らっても何とか戦えない事も無いけどな。君に分かりやすく言うなら、さしずめ東洋の神秘、って所かな」

「キコウホウ……私の知識には無い代物ね。……ヒョウマ、その気候砲で生み出した力を、私に流すイメージをしてみてくれないかしら? 多分“豹憑き”である貴方なら、私との間に霊的な繋がりが出来ている事に気付いていると思うけど」

「ああ、なんとなく違和感みたいなものがあったけど、たぶん大丈夫だ。それと“気候砲”じゃなくて“気功法”な?」

「軌功鵬、紀校方、気功苞?」

「惜しい、気功法」

「気功法?」

「正解だ」

 にっと笑い、ウインクしてから、豹馬は胡坐をかいたまま、両腕を組み、自然体とは言い難いが、余分な力を抜く。意識をより自らの内側へ、見えざる力の流れへと向ける為だ。
 体内より生じず、大地より生じる。即ちそれこそ天地陰陽の産み出す“気”なり。今、常人には見えぬ糸のようなものが、自分とキャスターとの間に結ばれているのを豹馬は知覚する。
多分、一昨日今にも消えそうなキャスターと出会った時に、指示された方法を行った際にでも結ばれていたのだろう。今にも切れそうな、カンダタが希望を見出した蜘蛛の糸もかくの如く細く頼りなかったのかもしれない。
 “豹憑き”であるが故に、水月豹馬という人間であるが故に全身で知っている大地との調和を更に意識的に行い、相乗的に交わり産み出される“気”の力を徐々に意識してコントロールし、流れを作ってその先をキャスターへと向ける。
 他人に“気”を分け与える。悪意のある方法にしろそうでないにしろ、豹馬にしても初めての経験だ。キャスターとの間に結ばれた繋がり=ラインが無かったら、流石に失敗に終わっていただろう。

「……どうだ?」

「……やっぱり、大源(マナ)が小源(オド)と混じり合っている」

「何だいそりゃ?」

「そうね、貴方は魔術の門外漢なんだし分かりやすく言えば魔力の種類、と思ってちょうだい。大気中にあるのが大源、人間が産み出すのが小源。魔術はどちらかを用いるのが普通なのだけれど、小源を大源に変換したり、小源の代わりにする、何てことは出来ないのよ。なのに貴方の気功法はそれを完全とは行かないけれど、多少なりともそれを行っているわ。気功法を学んでいる連中って誰でも出来る芸当なの?」

 マナを使って魔術を行使するならともかく、と呆れたというか、ありえないというか、微妙な表情を浮かべるキャスターに一応フォローらしきものを言った。あんまり効果は無さそうだ、と思いつつ。

「二回スカウトされたよ。才能はある方らしい」

 才能はある所か、陽羅猛老人は、真の気功法を伝える次代の雄として熱望している位である。そんな事情は露知らず、いや知っていても同じ反応だったろう。
キャスターは、怒りに近いものを潜ませて溜息をついた。常識を覆された相手の呑気な様子が、魔術の徒としての矜持に少々触れたらしい。小さな火種だが、扱いを間違えれば殺意を孕んだ烈火に変わりかねない。魔術師にしろ魔道士にしろ、世界の法則を操り異界の現象を起こす連中というのは、自己の常識を破壊する者に対して大体物騒だ。
 こりゃ怒らせたな、と察した豹馬が話をずらした。

「つまりだ。不純物は混じっているものの、俺が供給する“気”はちゃんとろ過すれば使い物になるって事かい?」

「……はあ、そうね、そういう例えで構わないわ。後は不純物を取り除く私次第。多分、普通に戦闘する分には問題ないでしょう」

「それは良かった」

 豹馬の浮かべた心からの安堵と喜びの混じった笑顔にキャスターは毒気を抜かれて、清々しい疲れを感じたように、小さく笑った。
 浄水器みたいな真似は少々煩わしいが、最悪の手段は取らずに済んだのだから僥倖だろう。心中でひっそりと安堵の息を漏らしていたら、豹馬が鋭く聞いてきた。当人には純粋な疑問以外の他意はあるまい。

「俺から供給が無かったらどうするつもりだったんだ?」

「! ……そうですね。私が貴方とあった日に頼んだ事、あれでも魔力は供給されますから、そちらを繰り返す、という手段もあります」

「ふ~ん。本当にそれだけか?」

「何故そう思うのです?」

 名人の筆で描かれたような眦をきつくして、キャスターが自分のマスターに問う。あまり続けたい話ではなかった。この男の気性から考えればまず間違いなく、怒りの相を浮かべるに違いあるまい。
 キャスターの元マスター殺しについて特に何も言わないなど、かなり凄惨な人生を歩んでいるようだがその目は澄んでおり、良い人間としての雰囲気みたいなものを纏っているからだ。

「いや、強いて言うなら勘なんだが。俺は魔術に詳しくないが、魔術師なら誰でも魔力を持っているのだろう? じゃあ魔術師でない人間はどうなんだろうな、と思ってね。魔術の歴史は長いんだろう? それなら色々と普通の人間から魔力を搾取する方法の一つ二つ考えられていてもおかしくは無いし、神代っていうのかな、古代じゃ人身御供なんかが盛んだったわけだ。それなら古の英霊であるサーヴァント達が人間を捕食する事で魔力やら体力やらを補充する手段なんかもありそうだからな」

 少し考えれば思いつきそうなことではあるが、中々鋭い所をついてくる、それに嘘は通じそうに無い。直感が異様に鋭い事もあるが、この男を前にするとそれらの行為がひどく卑怯なものに思えてきてしまう。人徳、というものだろうか。

「……そうですね。貴方に知っておいてもらった方が良いでしょう。サーヴァントには先程挙げた方法以外にも外部から魔力を補充する手段があります。それが……他者の魂や精神を喰らう事」

 ぴくりと、小さく豹馬の眉が動く。表情はそのままだが、雰囲気はひどく胡乱気なモノになっていた。案の定、豹馬の嫌う行為であったようだ。

「もし、の話は好きじゃないが……俺からの供給が不可能だったらそうしたのか?」

「……正直に言いましょう。私は例え貴方に愛想を尽かされる事になっても準備不足の末に負けた、等という結末を迎えるつもりはありません。霊脈の優れた場所であるなら、大多数の人間の精神や魂から魔力を奪う大魔術を行う事も私には可能です。そして私は実行するでしょう。……聖杯を手に入れるために」

「聖杯で叶えたい願い、か」

 それを言われるとな、と零して豹馬はがりがりと、爪の立った指で頭を掻いた。問答無用でぶちのめすには十分な話であった。契約を切ってこのままキャスターを置いて出ていっても構わない。いや、その前にやはり一発ブン殴っているだろう。
 そうしないのはやはり、そうまでしてしまうキャスターの事情を知ってしまっているからだ。腕を組み、心中でかつて無いほど呻吟し、ようやく豹馬はある程度の妥協をする事に決めた。
妥協とは双方に取って何とか折り合いの着けられる条件だから、最大限の譲歩とも言える。要するにこれ以上は譲れない、という話だ。

「……人間の魂を捕食するって話だが、俺からの供給はあるんだろう? そこを考慮してだな、普段の生活に支障が無いくらいに抑えてくれないか? やはり関係の無い人達を巻き込むのは後味が悪すぎる」

 この男の人生で果たしてこれほど悩んだことがあったのか、そう思わせる位に、豹馬の表情は苦渋に見ていた。断腸の思いなのだろう。キャスターも我知らず暗い面持ちになりながらも、豹馬の妥協案について答えた。

「早合点しないで。貴方からの供給が無かったら、という話よ。魔力が確保できた以上、そんな真似はしないわ。私にとっても、決して好ましい手段ではないし。第一ここはそんな大魔術が可能な霊地ではないわ。あのお寺なら可能でしょうけれどね」

 曖昧な笑みが浮かんでいるのを、キャスターは自覚した。

「……済まない。とはいえ他のサーヴァントがそうしない、なんて保証は無いか。あそこの寺を利用しようとする連中も出てくるんだろうな。そうしたら」

「多少なりとも不利になるでしょうね。この土地で最も優れた霊脈が通っているのはあのお寺と、住宅街の一角ね。多分住宅街の方は先住の魔術師のものでしょう。それにお寺は住んでいる人々に対して暗示を掛けるにしろ、始末するにしろ、手間も掛かるし、そういう用途に適した宝具か道具でもないとあまり効率は良くないわ。それに『キャスター』のクラスである私がここにいる以上、余程の魔術師でもない限りは聖杯戦争の短期間で大魔術を行使するのは難しいわ」

「寺には下宿でもさせてもらうか?」

 冗談めかした口調の豹馬である。

「戦闘になったら巻き込んでしまうわよ? でもそうね、暗示を掛けて聖杯戦争が終わるまで何処か遠方にでも出かけさせれば……」

 とブツブツなにやら言い出したので豹馬もあれま、とちょっと驚いた。ただ、他の魔術師達が目をつけて利用しないとも限らないし、寺の人達を他所に移しておいた方が結果的に彼らの為になるかもしれんな、と豹馬は考えた。直ぐに屁理屈か、と自嘲したが。
 自分の思考の世界に潜ったキャスターは直ぐに戻ってきた。

「そうね。ヒョウマ、お寺の人達に暗示を掛けて聖杯戦争の期間中は出掛けさせるというのはどうかしら? 仏教、だったかしら? は良く分からないけれど宗教の一種なのだし、修行に出かけたりするものではなくて? ああ、勿論街の人々から魔力を吸収したりはしないわ。――でもまあ、少し疲れを感じるくらいなら構わないかしら?――あの土地自体の魔力で色々と仕込むのには十分だから」

 魔力収集に関しては広く浅~く、他人の迷惑にならない程度に、他のマスターに気取られない程度に、ということである。ちなみに色々と仕込む、の辺りが妙に力が入っていた。<新宿>のマッドドクターやマッドサイエンティストめいた笑みである。あ、ちょっとキテるな、と思ったのは豹馬だけの秘密だ。

「う~む。まあそれぐらいなら、な。俺も文句は言わないよ。しかしそんなパパっと出来る事なのか?」

「そうね魔力を収集する為の基点の設置や暗示込みでも一週間も地道にやればどうにかなるわよ? まだサーヴァントも揃ってないし。準備の大詰め、という状況ではあるけどね。取り敢えずさっき言った現状確認を済ませてからお寺に行きましょう」

「じゃあ、何から始める、自己紹介か?」

「クスッ、それも良いわね。じゃあ私、つまり『キャスター』というクラスについて説明するわ。その名のとおりマスターである魔術師と同じ魔術を良くする者が宛がわれるクラスね。無論英霊が宛がわれるわけだから、現代の魔術師とは桁が違うと思ってもらって構わないわ」

「現代の魔術師ねえ……」

 豹馬の脳内に浮かんだのは、金勘定をしている太った女悪魔だった。振り向いた顔は脂肪をたっぷりのせた異国の五十女で、真っ赤な口内を覗かせて笑っている。<高田馬場魔法街>にその名も高きトンブ・ヌーレンブルクである。
 世界第一の姉ガーレンが逝去して以来、現世界最高の魔道士である。品性の卑しい事この上ないが、その実力は決して世界最高に恥じぬものを持っている。ただし人格実力共に優れ、他の魔術師からも畏怖と敬意を抱かれていた姉と比べると、品位と人品のよさに百倍ほどの格差がある、と目下の評判である。
 キャスターの言を信じるなら、魔法使い候補の一人とされる事もある、あの怪女より上らしい。ちなみにあくまで候補止まりである。というよりもトンブを知る者は大抵口を揃えて『姉のガレーン・ヌーレンブルクはともかくあの河馬が魔法使いだというのは何かイヤダ』という非常にお子ちゃまな否定意見を口にする。なんとなく豹馬もその気持ちが分かる。

「う~む」

 豹馬もトンブや、その秘書とでも言うべき少女の魔道の実力を知っているから、キャスターの方が桁違いに上、とはにわかには信じ難い。とりあえずは実力を見てから判断する方が良かろう。キャスターだって現代の魔術師をろくに知ってやいないだろうし。

「あと、『キャスター』は最弱のクラスと言われているの。これは聖杯戦争のほぼ全てのサーヴァントが“対魔力”というスキルを有していて、高い魔術防御能力を持っている所為ね。その分、『キャスター』には自分に有利な場を作る“陣地作成”、マジックアイテムを作る“道具作成”のスキルがあてがわれているわ。理想論としてはあのお寺に陣地を設けて、貴方に対サーヴァント用の道具を持たせて置きたい所ね」

「焦らずゆっくりやれば良いさ。急ぎ仕事より腰を据えた方が良い結果を出せるからな。じゃあ俺の紹介と行くか」

 豹馬の唇が吊り上り、ミニマムサイズの白い槍と見まごう歯並が覗いた次の瞬間、ゴウっと風がキャスターの顔を嬲り、豹馬の姿が消えた。物体が高速で移動した際に起きる空気の動きだ。
 声はキャスターの背後から聞えた。

「ご存知の通りの“豹憑き”。足と腕っ節には自信があるぜ?」

 風に煽られて乱れた髪を整えつつ、キャスターは返事をした。

「ええ、ランサーと互角だったのには驚いたわ。頼りにしているわ、マスター?」

「任された」

 そう言って、豹馬はまた、ニッと陽性の笑みを浮かべるのだった。男児たる者かくあれかし、の一つみたいな笑顔であった。
 そして数日が経った。その間に豹馬はせっせと気功法に励んで魔力を不純物交じりで供給し、キャスターは使い魔をあちこちに飛ばしたり、お寺に足しげく通って地道に暗示を掛けたり、霊脈のおこぼれを何とか集められないか、と苦心したり(いざというときの保険として)、豹馬の持っていた黒い手袋を色々と改造したり、と大忙しだった。

 いくつかその過程をここに記す。

 お寺に日参する形になったキャスターと一緒に柳洞寺(という名前だった)に入り浸る内に、ある日、妙にキャスターがそわそわしている事に豹馬が気付いた。今までは柳洞寺の、古刹の醸し出す厳粛さと清廉さとが混じり合った雰囲気、芳醇な生命に満ちた“気”に惹かれていた為、直ぐには気づかなかったらしい。

「良い男でもいたのか?」

 と冗談めかして言ったら

「そそ、そんな事はないわよ?!」

 図星だったらしい。お、と面白そうなおもちゃを見つけた顔になって、豹馬が追及の手を伸ばした。別段、二人の間に確固たる恋愛感情があるわけでも無し。一度や二度寝た位で恋人を気取る程子供でもないし、第一そういった感情を挟まずに行った行為だったのだ。
豹馬は、聖杯戦争が終われば消え行く身であろうと、偽りであろうとも“生”を謳歌するのはやぶさかではあるまい、と思っているし、極論すれば一秒後に確かに生きている保証など無いわけだ。“命短し、人よ恋せよ”と謳った古人に習ったわけではないが、それに近い心情であった。

「で、誰なんだい? 君の目に止まったナイスガイは?」
 
 うりうり、と肘でキャスターを小突きながら、毛糸玉を前にした猫のように楽しそうに尋問を続ける。キャスターは真っ赤になりながら、あっと声を挙げて柳洞寺名物の長い石段を上がって来た男に眼をやった。
 長身痩躯の、三十代半ばか後半の男だった。削ぎ落としたかのような頬に、纏う雰囲気の希薄さが幽鬼の様な印象を与える。眼鏡を掛け、スーツをきっちりと着こなし、手に提げたカバンという身なりはサラリーマンとも取れる。
 最も豹馬は、んなわけないな、とゴチていた。アレだけ長い階段を昇りきって寸分も狂わぬ呼吸、呼吸自体のリズム、深さ、息を吸う時と吐く時の、理想とも言える間。重心の移動、連続する足取りの見事さ。
 そして何より、その男からは発せられるべき“気”が異様に少ない、というよりは希薄であった。枯れた古木、機械仕掛けの人形、そんな印象を抱かせる男だった。それだけで済めばまだ良かったかもしれない。染み付いた血の匂いが、かすかに匂わなければ。

(こりゃまた問題がありそうなのに惚れたな)

 一瞬、豹馬と男の目が合い、何事も無く離された。強い、徒手空拳を用いる暗殺者と対峙した時の感覚に近かった。つまり、気配の希薄さ。達人であってもこの男がその気になれば傍に立たれても直ぐには気づけまい。おそらく初見で戦うには厄介な相手だろう。豹馬も似たようなものだが。
 キャスターが控えめに笑みを浮かべて、おずおず男に近付き何事か話しかけた。男の方は鉄仮面のような無表情のままで受け答えをしているようだ。この間はどうも、とか何とか、差し障りの無い世間話の類であろう。
 戻ってきたキャスターに声を掛けた。

「どういう人なんだ?」

「……前に来た時に案内していただいたのよ。何というか、誠実な方ね。とても丁寧に案内してくださったの。真面目そうだし……まだお名前も存じ上げないのだけれど」

「ほほう。何なら彼だけここに残すか?」

「………………ウフフ………ハッ!? そ、そうも行かないでしょう。私たちがここを拠点としたら戦場になるわ。そうしたら関係の無いあの方に危害が及んでしまう」

 長い間の間に何やらよろしくない妄想に浸ったようだが、流石に自力で正気を取り戻したようだ。ふと、キャスターの二度目の生を願って、彼とうまくいくよう努力させてみるのも、この不幸な女の為になるかもしれない、と豹馬は思った。
 男と話しているキャスターの顔は、まさしく輝いていた。恋をしている女の顔だった。まだ豹馬では浮かばせる事はできない顔だ。それに豹馬の胸の中にも、まだある女性が生きている。

 概ね魔力収集および陣地作成の下準備は良好と言ってよかった。次に、豹馬の戦力強化に話を動かそう。

 水月豹馬、“豹憑き”、<新宿>一の用心棒、通称ザ・パンサー。瞬間的な移動速度は音速を易々と超え、通常の移動速度も時速百五十キロ位なら軽いジョギングみたいにこなす。 
豹のような姿勢や、ボクシングのセミ・クラウチの姿勢を取る事が多いが、特定の武術を用いる事は少ない。その身体能力を生かした三次元的な機動と、魔豹の威力を秘めた手足こそが最も強大な武器だろう。
並みの拳銃弾位なら、頭と心臓以外の箇所を撃たれたとしても放って置いても半日で肉が盛り上がり、傷を塞ぐ。ただし同類の“憑き人”との闘いの場合は普通人レベルにまで治癒能力は落ちる。どうもサーヴァントを相手にした時も似たようなダメージを負うのか、ランサーとの闘いの負傷は、ランサーの槍の呪いを考慮しても治癒が遅かった。

以上のことを踏まえて、おそらくはサーヴァントとも真正面から戦える極一部の超人・魔人の一人だ。
そういう意味ではキャスターは豹馬と契約を結べたのは幸運と言えたが、逆に常に前に出て戦うタイプの豹馬だと、サーヴァントと出会う度にマスターを失うリスクを余計に背負わなければならないのが問題だ。
勿論権謀術策を尽くす、というか尽くさざるを得ないタイプのキャスターとしては、可能な限りリスクを減らす手段を講じていた。
その一つが、豹馬に持たせた幾つかのマジックアイテムだった。まず、一小節程度の魔術と遠隔地からの精神干渉ならキャンセルするタリスマン。せっかく作ったら<新宿>製の護符を持っていて、効果がものの見事にダブったが、まあ気にするほどではない。今は紐を通してチョーカーみたいにしている。
次に、サーヴァントと戦う上で忘れてはならない宝具という存在だ。サーヴァントが多くても2~3しか有さない、抑止が英霊に死後も所持を許した幻想の具現。英霊を象徴する魔具共。
その全てが必ずしも殺傷能力を有した武器とは限らないが、身一つで戦わねばならぬ豹馬の場合、宝具を受け止める事のできる様な代物がないと、かなり戦いにくいだろう。
元々敵の攻撃を受けたりいなすよりは完璧に回避してみせるのが、豹馬のスタイルだが、咄嗟の瞬間に選べる選択肢は多い方がよいだろう。
そこで用いられたのが豹馬の持っていた、指先に穴が開いた黒い皮手袋だった。元々愛用の品だし、下手に新しく何かを作ってそれを使いこなすのに時間を割くよりは、という配慮だった。
豹馬から手袋を借り受けたキャスターは、その手袋がまとう妖気めいた力に、すこしばかり感心した。
バンサーという職業柄、豹馬が普段から妖物や、魔道士、<新宿>の妖気に侵された狂人達の血を吸わせ、それ以前に各地で倒した同類の“憑き人”達との死闘の成果か、すでに手袋にはある程度の霊的存在に対する干渉能力が備わっていたのだ。“豹憑き”という神秘プラスこれなら、サーヴァントにも十二分な殺傷能力を示したのも頷けた。
手袋の内側と表面にミリ単位で魔術文字を地道に刻みこみ、四次元ポケットじみたローブから取り出した秘薬を用いた特別な錬金加工、精魂込めて施した強化魔術と魔力付加の成果は、Cランク程度の宝具なら問題なく受けられる、という性能だ。
流石に真名解放し、その能力を全開にされると、Bランク宝具以上は一合交わすだけで壊れかねない。保って三合だろう。Cランクでも八合辺りが限界、とはキャスターの談だ。
これに関しては、強化と保護の魔力を膜の様に重ねてコーティングし、壊れた端からキャスターから魔力を自動で補充し再構成する、質より数という方法を取っている。
それだけ宝具とはとんでもない代物なのだ。まあ、単純な破壊力なら科学兵器の方が上の代物がゴロゴロしている昨今だが。
また、元々ランサーとタメを張るだけのスピードを有する豹馬が、魔法を知らないだけで能力は魔法使い級のキャスターによって強化された為、戦闘能力もかなりの向上が見えた。
こうして、陣地作成、道具作成、そしてキャスターというクラスの特性を活かしながら、二人の準備は着々整っていた。後は、敵と遭遇し、これを撃破するだけだ。
そして、暦は二月に入った。吹き荒ぶ寒風に身を晒し、起き抜けの顔を冷水で引き締めた豹馬の姿が、キャスターの暗示が功を奏しちゃっかり居座った柳洞寺の境内にあった。

「水月さん」

「お、一成くんか、おはよう」

「おはようございます。朝餉の用意ができましたので、どうぞ」

 豹馬に声を掛けて来たのは、この寺の子で、柳洞一成という少年だ。端麗な容姿に目元の眼鏡が涼やかな雰囲気と厳粛な性格を滲ませている。豹馬から見ればまだまだ青い少年だ。ビバ暗示、という位キャスターの暗示が効果を発揮し、今では豹馬とキャスターを下宿人として認識している。

(そろそろ避難させた方が良いか)

 そう思いながら、豹馬は朝飯を食べに足を進めた。

「宗一郎様。どうぞ」

「感謝する」

「ああ、そんな、もったいないお言葉ですわ」

「……」

 振り撒かれるピンクのハートを無視しつつ、豹馬は白米を口に運んだ。当初は外国の美女という存在に色めき立った柳洞寺の微妙に生臭な坊主連中も、流石に辟易したのか慣れたのか、黙々と食っていた。……いや、キャスターがあの幽鬼のような男の名前(葛木宗一郎というらしい)を呼ぶ時にどうやら自分の名前に変換して妄想しているようだ。一部の連中の口元が時々デレっとなる。
 生活や修行自体は厳格・厳粛・厳正なのに、妙に俗人なこの連中を豹馬は苦笑いしながら気に入っていた。キャスターは自分の膳に端をつけずに、黙々と箸を進める宗一郎の様子を、幸せそうに眺めていた。何が嬉しいのかと聞く人がいたら、愛する人の傍に居られる、これ以上の幸せがあって? と答えが返ってくるだろう。
 ちなみに二人は、キャスターが外国の資産家の娘で、二本の神社仏閣に興味を持ち、ボディーガードを努める豹馬を案内人に日本に来た、という事にしてある。
そして柳洞寺の佇まいを気に入ったお嬢様=キャスターが、多少無理を言って宿泊させてもらっている、というシチュである。ついでに言えば、旅先で出会った男に一目惚れした、というオマケつきで。

「行ってらっしゃいませ、宗一郎様。一成君も十分に気をつけるのよ」

「では行ってくる」

「それでは」

 と山門で二人をキャスターが見送った。一成は穂村群学園という高校の生徒で、宗一郎は其処の学園の教師であるらしい。誰にも等しい反応しか見せない葛木は、ある意味で最良の教師なのかもしれない。

「しっかり新妻だな」

「ななな、け、気配を消すのは悪趣味よ!?」

「消してないって」

 朗らかにに苦笑した豹馬がキャスターの背後にいた。慌てた表情を必死に引き締めてから、キャスターがサーヴァントの顔をして、目配せする。

「動きがあったか?」

「昨日六騎目の召喚を確認したわ。もうすぐ始まるのよ、聖杯戦争が」

「俺たちはどうする」

「数が減るまで動きを見る、というのが妥当なのだけれど……そんな性分じゃないでしょ?」

「良く分かってるじゃないか」

 にっと豹馬が笑う。ウキウキした様子に、キャスターが諦観と諦めの混じった溜息を突いた。ま、死んでも直りそうに無いから割り切って考える事にしたが。そろそろフラストレーションが溜まっている頃じゃないかな、と見当をつけてもいた。

「そろそろ腕が鈍りそうでどうしようかと思っていたんだ。ようやく思いっきり動けそうだな」

「まあね。大まかな動きは、この街程度の範囲なら私の遠隔視と使い魔達からの情報で把握しているわ。……討って出る?」

 止めても無駄な気がしたので、キャスターはむしろ誘う事にした。豹馬は眼を輝かせて

「ああ、俺たちのコンビの初陣だな」

 と言った。沸き立つ“憑き人”の血の所為か、咽喉から唸り声が漏れている。

「そういえばそうね。それじゃあ勝利で飾るとしましょうか」

 豹馬は頼もしく笑ってから一言。

「勿論だ」


 柳洞寺に下宿し出したのはつい数日前だから、まだ拠点にしている事はばれていないらしいが、念のため、と無数に張り巡らした攻性結界や、侵入阻害型結界などを再チェックしてから寺を後にした。どうも柳洞寺には元から霊的存在に対する非常に高度な結界が張られており、サーヴァントでも無理に侵入すれば、ステータスダウンか、行動不可能になりかねないほどだ。
 豹馬と連れ立って探索に出たキャスターは霊体化している。音も無く、豹馬は冬木市の娯楽や流行の先端を担当する新都の街中を歩いていた。

(で、位置の分かるマスターかサーヴァントは居るのかい?)

(…………捕捉したわ。直線距離で二百メートルと言った所かしら。黒髪を両脇で垂らした女の子よ、今イメージを送るわ。……後少しで其処の角から出てくるわよ。どこで仕掛けるの?)

(そうだな。この先の公園なんかどうだ。人払いをしておいてくれないか?)

(分かったわ)

 キャスターと別れた豹馬は、鼻歌を口ずさみながら、ジャケットに両手を突っ込んでまっすぐ歩いた。キャスターと念話の要領で共有した相手の姿を、改めて確認し邂逅するのを待つ。
 過ぎ行く人ごみの中を歩き、やがて直ぐ手前の角から姿を見せた。サーヴァントはキャスター同様に霊体化させて連れているのだろう。
 まだ若い。高校生と言ったところだろう。魔術師の場合は外見=年齢とは必ずしも行かないが、発する溌溂とした生に満ちた活力は、偽りではない本物だ。若さと言う名の特権の一つという奴だ。
 平均くらいの身長で、着た赤いコートに隠れて身体のラインは確認できないが、歩く動作、時折周囲を見回す仕草一つとっても絵になる美少女だった。親ならば娘の行く先を楽しみに、恋人ならば自慢にしたくなるようだ。
 つぶら、というよりは意志の強さを認められる少しキツ目の翡翠色の瞳。その上に楚々と茂る眉は控えめな自己主張で、瞳の色と輝きを鮮やかに際立たせている。顔の中心で見事なラインを一筋走らせている鼻梁。
瑞々しさと血色の良さに支えられて柔らかな弾力を味わえそうな白桃のような頬。首の上に座する顔の輪郭を形作る線は名人の筆が描いたものだろう。閉じられた唇は薄い貝殻を合わせたかのように儚く、紅色に染まっていた。
若干ウェーブしている黒髪は、陽光を燦然と煌めかせながら頭の両脇で黒いリボンで結わえられ、背中にも水に流した墨のように下ろされていた。
あの子か。と豹馬は心中で一つ確認し、ちょっとしたイタズラを思いついた。真正面から聖杯戦争のマスターだな、と聞くよりは面白そうだ。ニヤッと悪ガキの笑みを少しの間浮かべ、そしてその姿を消した。
突如吹いた風に、遠坂凛は、目を瞑り手を挙げてカバーした。周囲の人間も何の脈絡も無く吹いた強い風に驚いているようだった。もう、と軽く怒った様子で乱れた髪をかきあげ、ふと何か足りない事に気づいた。

「あれ、リボン?」

 左側の髪を纏めていたリボンが無いのだ。困惑する凛に、敢えて抑えたかのような、低い声が掛けられた。まだ若く三十にはなっていまい。ただし声に含まれる成分は鉄だ。凛のサーヴァント、アーチャーである。勿論念話なので、声に出してはいない。

(凛、敵だ。後ろの男がすれ違いざまに君のリボンを取って行った。大胆な事をする)

 アーチャーの指摘に、驚愕の顔つきを押さえ、凛が背後を振り返る。ざっと二メートルほど離れた所に凛のリボンを左手に持った水月豹馬が居た。

(く、こんな所で? アーチャー、あいつのサーヴァントは)

(近くに気配は無い。おそらく別の場所で待ち伏せているのだろう。どうするね? 今ならサーヴァントを呼ばれる前に片付けられるかもしれんぞ?)
 
(まさか、仮にも管理者が余所者一人排除するのに白昼堂々、街中で殺人事件を起こすわけにも行かないでしょう。それに丁度良いわ、貴方の実力、確かめさせてもらうわよ? 最強のサーヴァントさん)

(ふっ、勇敢なマスターだ。サーヴァントの手綱を操るのもなかなかどうして、上手いものだな)
 
 皮肉的と言うか、素直ではないと言うか。

(あら、英霊様に褒めていただいて光栄ですわ)

天晴れな返しの言葉に、アーチャーは我知らず苦笑を刻む。と言っても誰も見ることは適わないのだが。豹馬がリボンをヒラヒラさせながら凛に目配せをした。ついて来い、とその目が語っている。凛はためらわずその後を追った。

(気を付けろ、凛。あの男の身のこなし、サーヴァントでないというなら余程の武闘派の魔術師か、あるいは魔術師に雇われた闇の世界の住人だろう)

(聖杯戦争のマスターが雇った傭兵、って可能性ね。それだと三対二、或いはそれ以上に数の上で不利になるかもしれないわね。脱出路の確保にも気を配らないとか)

 やや早歩きの速度まで上げつつ、凛は一定の距離を保ったまま豹馬の後に続いた。到着したのは何の事は無い、新都にいくつかある公園の一つだった。公園の入り口に差し掛かった時に感じたささやかな違和感は、おそらく人払いの結界であろう。最低限のルールは心得たマスターらしい、と凛が分析する。
 そのまま少し歩いて、大体公園の中央らしい所で豹馬が歩みを止めた。砂場やシーソー、ベンチには人影は無く、人の気配や匂い、交わす声も無い。キャスターの人払いの結界はきちんと機能しているようだった。
 凛から掠め取ったリボンをベンチに置き、そこから三メートルほど離れた所で歩みを止める。豹馬に遅れる事数秒、凛が警戒も露に豹馬をねめつけながら、リボンの置いてあるベンチまで歩いて、罠の有無を確認してからまたリボンで髪を結わえた。無論、この間アーチャーが豹馬を警戒している。

「随分と大胆な真似してくれるじゃない? 良い度胸してるのか、それとも愚鈍なだけなのかしら」

 やや貧しい胸を反らして凛が小生意気に豹馬に挑発めいた言葉を掛けた。本人自身安い挑発と自覚しているが、様子見程度としてはこの位だろう。果たして豹馬は軽く肩を竦めただけだった。

「どうとでも取ってくれ。それより、君、マスターだよな? 一応俺もサーヴァントを預かる身でな。こうして顔を出した理由は、言うまでもないよな?」

「呆れた。正々堂々、ってわけ?」

「そういう性分なのさ」

「その割りにサーヴァントは隠しているようだけど?」

「口が達者だな」

 苦笑を一つ刻んで豹馬が、声なき声でキャスターを呼んだ。キャスターは多少渋ったが、まあ豹馬の性格なら仕方ないか、とその背後に姿を現した。豹馬と出会った時と同じローブに、深くフードを被っている。

「それが貴方のサーヴァントってワケね。見た感じだとキャスターかしら?」

(仕掛けるぞ、凛)

(OK。私はバックアップに回るわよ)

 ゆらりと、凛の前方の空間が一瞬だけ、真夏の日の陽炎のように揺らめき、白銀の髪と赤いコート、褐色の肌を持った男を産み出した。サーヴァント・アーチャー。弓騎士だ。
それなりの魔術防御のスキルを有しているからキャスターにとって相性のよろしい相手ではない。しかし弓兵でありながらアーチャーは無手で豹馬とキャスターに迫るではないか。
 キャスターと、マスターである凛さえも訝しげに眉を寄せていた。アーチャーの狙いはキャスターよりも近い位置に居る豹馬。マスターを狙うのは定石だ。ただし非力なはずのキャスターがわざわざマスターを危険に晒している以上、警戒を怠るわけに行くまい。勿論、豹馬がマスターではない可能性だってあるのだ。
 アーチャーのまとう、数十枚存在する聖骸布の内いずれかを加工したコートの赤が、午後の陽気に殺気を孕んで翻る。アーチャーが人外の速度で豹馬に迫り、一足一刀の距離まで来た所でその両手に確かな質量を産み出した。同時に、豹馬の姿が掻き消える。
 凛とキャスターの目には映らぬ高速の移動を、唯一アーチャーのみが捉える。指先に穴の開いた手袋を嵌めた豹馬の右手がフックの要領でアーチャーの顎先目掛けて閃き、更に踏み込んでかわしたアーチャーのこめかみをかする。
 パッと小さく赤い花が咲き、それが萎れるより早くアーチャーの両手から黒白の剣光が交差する蛇のように豹馬へと走る。双頭の蛇の如き斬撃に捉えられるより早く豹馬はスウェーバックで仰け反りながら避けて、不安定な姿勢から変形の横蹴りをアーチャーの土手っ腹目掛けて繰り出す。
 果たして魔豹の威力と稲妻の速さで走る一撃はアーチャーの左手に持った刀剣の腹と、立てた右肘で受けられた。
アーチャーの身体が勢い良く吹っ飛び、三メートルほど斜め上空に滑空した所で、身を捻って勢いを殺しアーチャーが着地する。足を下ろし、セミ・クラウチに構えた豹馬の右足のジーンズの生地が、切り口も鮮やかに切れてぷくりと血の玉を結ぶ。
 豹馬の表情が輝いた。強敵に対する愛に溢れていた。血が沸き立っていた。
 内心驚愕を秘め、アーチャーが目の前の強敵に対する分析を始める。予想外の強敵の出現を、アーチャーは冷ややかに受け止めていた。
 凛はキャスターに対する警戒の意識を一瞬逸らした。アーチャーと豹馬の闘いに目を奪われて。
 キャスターは、凛が余計な手を出さない用に注意を払いながら、静観を決め込んでいた。豹馬と事前に話し合った結論である。ただし手を出さないのは今回とランサーとの再戦だけ、と念を押している。

「アーチャーなのに剣を使うのかい?」

 好奇心を隠さぬ豹馬であった。アーチャーの両手に、白と黒の刀身を持った同じ造りの刀剣が握られていた。幅広で、両刃かつ反った刀身だ。柄と刃はまるで一体になったかのようなデザインだった。おそらくはアーチャーの宝具であろう。
『アーチャー』と言うクラスに相応しからぬ宝具だ。ひょっとしたら遠距離戦に適した使い方があるのか、或いは投擲の武具なのかもしれない。深読みはアーチャーの思う壺だろう。

「何、生前色々と試したのでね。君こそ尋常な人間では無さそうだな。その速度、まとう闘気、まるで獣だ。獣人か何かかね?」

「ま、そんなもんさ」

 アーチャーの弄する言葉は、数多に存在する可能性を更に絞るべく用いられている。闘いの中に放つ言葉一つとっても、この弓兵にとっては敵の情報を得て勝利を勝ち取るべく最大限に駆使すべき武器であった。時に挑発を持って怒りを誘い、時に愚昧な言葉で油断を誘い、時に無意味な話で時間を稼ぐ。
 豹馬が下肢をたわめ、鋼の硬度とバネの反発力を併せ持った筋力を解き放つ。約マッハ二・五で跳躍した豹馬の姿を、やはりアーチャーのみが捕捉する。化鳥のように飛翔し、豹の様に踊りかかる豹馬が左腕をアッパーの要領で振るい、アーチャーは交差した腕で受け、防ぐと同時に勢い良く左腕を押し返して空中の豹馬のバランスを崩す。
 姿勢を崩した豹馬が立て直すより速くアーチャーの左腕に持たれた夫婦剣“干将・莫耶”の刀身が翻った。斜め十時に交差する夫婦剣の光芒の先に、しかし豹馬の姿は無かった。アーチャーの背後の空中に、豹馬は居た。
 ランサー戦で見せた、三次元的な機動を可能にする筋肉のバネであった。魔豹人と弓兵の一撃が、殺気を交えて交差した。
 ベロッとアーチャーの右頬の皮が剥がれて、赤黒い筋肉を血に塗れさせて覗かせる。わずかに反応が遅れたなら、右頬を丸ごと持っていかれただろう。豹馬の右首筋、頚動脈からわずかにずれた場所に一筋の線が走り、シャツを朱に染めつつあった。後三ミリずれていたら頚動脈を掻っ捌かれていた所だ。
両手両足を地面に付けた姿勢で着地した豹馬を見て、凛とアーチャーが正体を看破した。

「獣人、違うわね。ホーンテッド?」

「なるほど、貴様も人の領域は超えているというわけか。それにしてもサーヴァントと渡り合うとは、いささか自信を失いそうだな」

「褒めるなって。にしても、遅いが速い、鈍いが鋭い、弱いが強い、か。厄介な相手だな、アンタ」

 アーチャーはおそらく基本的な能力自体はさして優れてはいまい。ランサーと比べたら見劣りする部分がいくらかあるというのが、豹馬が短い時間の間に感じ取った感想だ。だが、それを補って有り余る技量を有している。故に遅いが速い、鈍いが鋭い、弱いが強い、と評したのだ。

「口元が笑っているぞ」

「強敵の出現、男なら燃えるシチュエーションさ」

 呆れたような光をその瞳にアーチャーは浮かべたが、なんとなくさもありなんと納得して干将・莫耶を構えた。目の前の男が心底そう思っているのが、言葉を交わさずとも伝わってきたからだ。
 一度だけこちらを見守る凛に眼をやり、キャスターがどうやら静観を決め込んでいるらしい事を確認する。目の前の男なら余計な手出しはさせそうに無い。おかしな話だがアーチャーはある意味で豹馬を信用していた。拳という奴は時に言葉より何百倍も相手を理解する役に立つ。

「行くぜ」

「好きに来たまえ」

 静かに闘志を燃やす豹馬の声に、冷ややかな、しかし笑みを含んだアーチャーの返事がぶつかった。



「ま、今日はここら辺でお開きということで」

 そう締めくくろうとするバーテンに、客が少し不満を垂れた。

「まあまあ、話ってのは良い所で終わらせるのが次回の楽しみに繋がるんですよ」

 とウインク一つして誤魔化す。まああながち間違いではないが、楽しみにする方としてはたまったもんじゃない。客が続きをせがもうとした時、あの妙齢の美女が慌てた様子で置時計に眼をやって足早に店を後にした。その様子に、客は関心を移した。

「ああ、彼女の旦那を迎えに言ったんですよ。いじらしいもんでしょう? 毎日欠かさずですよ。ま、今日はちょっと遅刻かもしれないけど」

 肩を竦めるバーテンの様子に、客は肩の力を抜いてマティーニを注文した。ま、楽しみは後に取っておくかと考え直したのだ。バーテンは注文を復唱し、夏の日のそよ風の様に気持ちいい笑みを浮かべて、わずかな間を置いてマティーニを客の前に置いた。

おしまい



[11325] その9 退魔針 × Fate
Name: スペ◆52188bce ID:e0398f80
Date: 2010/05/23 19:48
その14 『退魔針』


「やれやれ、まだ働かせる気かね? 世界一の大国も人材不足と見える」

「そう言わないで下さいよ。僕としては貴方とご一緒できて嬉しい限りなのですが。あまりこういう事は言いたくありませんが、今貴方がそうしていられるのは、さて誰のお陰でしょう?」

「海辺の町での一件ではまだ足りないと言いたいのかな?」

「わお、そんな風に僕を見ても駄目ですよ。ああもう、心臓が止まるかと思いました。ご自分の顔の凄さを知らないんですか? ……いや、貴方なら分かっていて利用しますね。っと、少し話がずれましたね。僕に幾ら言っても駄目ですよ。そーいうのは偉い人達の決める事ですからね」

「ふむ。それもそうか、下っ端に話を通そうとしても無駄だな。では、いつかその偉い人達と膝詰め談判せねばなるまい」

「あー、何か企んだ顔をしていますよ。あまり手荒な事はしないで下さいよ。いくら貴方でも敵に回すにはちょっと厄介ですよ」

「“ちょっと”だけ、か。評価されているのかいないのか」

 不満を述べる男と、それを説得する者との会話の一部である。声の響きからして二人とも男。不満を垂れているのは、成人男性らしいが、まだ若く二十代をさして超えていないだろう。しかも飛び切り美しい青年に違いなかった。声を聞くだけでそれと分かるほどに。
 もう片方は、透き通った様に高い声の少年のようだ。ただし年齢に比した精神の主かは分からない。二人は親しみがある様な無いような、微妙な声音で会話をしている。
 最初に嘆息を漏らした青年は、どうやら少年の所属する組織か何かに借りがあるらしく、それの完済ないし、借りを返した状態について両者の間で解釈の違いがあるようだ。今回は青年が折れる形となったが、偉い人云々のくだりの語調からすればタダでは済まさないつもりの様である。
 それを聞いた少年が、一瞬冷や汗を掻くほどよからぬ言い方だ。相当に癖のある人物らしい。
だがそれも無理からんことではあった。目の前の青年は、軍事衛星を利用した中継回線の大統領専用の回線を扱う権限さえも持っている。
それとても底力の一端だけだ。おそらくは全世界規模のネットワークを持っていると、少年の所属する機関も、全容が把握できずに推測するに留まっている。
 二人のいる空間にスイッチを押す音とヴウンという音が重なり、二人の目の前に立体スクリーンによる映像が展開された。操作をしているのは少年の様だ。

「今回のお仕事は、西日本のとある街で行います」

「ふむ」

 次を促す「ふむ」である。それでさえも芸術の創造に悩む若き芸術家の憂愁の溜息を思わせた。美しいという事はやはり役得らしい。いや、一つ訂正しなければなるまい。飛び切り美しい、だ。

「多分、大摩さんも名称くらいは聞いた事があると思いますよ。○×県冬木市で二百年程昔から行われている大規模魔術儀式」

 浮かべた微笑を深くして言う様な、底意地の悪い相手を試すような口調であった。中々どうして、少年の方も癖のある性格のようだ。

「たしか、聖杯戦争だったか。妖流の縄張りでそのような事をするものだから、ひと悶着あったと家の記録で読んだ」

「ええ、妖流は仮にも夜狩省の末裔。その気になれば日本の大抵の退魔組織や、古来の宗教団体に呼びかけられますからね。当時、遠坂・マキリ・アインツベルンと霊的戦争に発展しかけたそうです。まあそうならなかったのが現実ですし、妖流の信条も争いにならなかった理由でしょうね。ちなみに魔術師側はどの一族も戦闘には向いていないそうですから、魔術協会三族対日本退魔組織連合、ガチンコでやったら、今回の僕達の手間は省けたかもしれませんね。それも相手に魔法使いのお爺さんさえいなければ、の話でしょうが」

「“楽して儲けよう”。妖流の悪い癖だ。利益にならない戦いはしないという事だろう、先祖伝来らしいな。そういう因縁アリ、か。では今回も彼と鉢合わせするかもしれん」

「どうでしょうね? まあ不思議と縁がありますし、世界に三人しかいない退魔針の使い手が勢ぞろいするかもしれませんね。では、仕事の内容に話を戻しますよ。今回僕らの役割は、聖杯戦争の要である聖杯の確保です」

「確か、“英霊”を使い魔として用いる代理戦争だったな。裏の世界では有名な話だ。聖杯を確保する事で、その英霊召喚のシステムを解析して自前の戦力にしたい、といった所かな? 1990年代に入ってから積極的に取り組み始めた超自然兵士の開発の一環か。この前は海の底に住まう古き魚人、その前は真性の鬼の王、今回は人類の歴史に名を残す英雄達。君もご苦労な事だ」

「はは。まっ、仕事ですからね。それと偉い人達の考えは、半分はそうです」

「半分?」

「ええ、残り半分は秘密です。今回も冬花家の時同様、情報は入手済みです」

 つらつらと饒舌な少年の話を、大摩と呼ばれた青年の、美しくも皮肉っぽい声が遮った。タイミングを狙ってやったのか偶然かは分からない。大摩を知る者に聞けば、前者と言うだろう。

「地上三万八千キロの偵察衛星や、地平の彼方のフライング・ソーサーから照射した千分の一ミクロンのレーザービームで開けた穴を、同じく偵察衛星の光学レンズと電子カメラで覗き見か。手段を選んだらどうだね」

「選ぶって、どうですか? 参考までに聞かせてください」

 ちょっと拗ねた様な、そのくせ好奇心を隠さぬ調子である。よほど大摩に対して好意を抱いているか、興味があるらしい。憧れにも似ている感情の動きである。

「人間誠意を持って話をすれば通じる。それと私は、覗きはしない」

「後半はともかく、前半についてはご自分でも絶対信じてないでしょう?」

「さてね」

 ぎゃふん、となりながらも、少年は気を取り直して話を続けようと試みた。まずは、こほんとわざとらしい咳をひとつ。

「では、今現在掴んだ情報に付いてですが、まず聖杯戦争を始めた三つの家系の一、アインツベルンは、このイリヤスフィールという少女をマスターとしてバーサーカーを召喚しました。正体はギリシャ神話のヒーロー、ヘラクレスです。アインツベルンは前回の時も、何とアーサー王伝説に出てくる聖剣エクスカリバーの鞘を発掘したそうですからね、気合が凄いです。ま、そのくせ一度も聖杯を手に入れられていないんですから、どこかネジが抜けているんでしょう」

 少年の操作に合わせて、画面に銀色の髪と赤い瞳が目を引く、純真無垢なおとぎの国の妖精のような十歳と少し位の少女と、その傍らの二メートル半はあろうかという鉛色の眼光凄まじい半裸の巨人が映し出される。
 少女がイリヤスフィール、巨人がバーサーカーことヘラクレスであろう。

「ヘラクレス、“ヘラの栄光”。生前は不遇の半神か。子供の頃見たきりだが、○○ズニーのヘラクレスは案外似ているな」

「そうですか? 服装は、まあ似ていなくもないと思いますが」

「まあ冗談は置いておいて、モニター越しにも神気が見えるほどのレベルか。流石、最高神の子というべきだな。これなら凡百の魔性は幾千集っても歯が立たん。どころかこの神気ひとつで滅びかねん」

「全くです。ところが生憎と戦闘はいまだし、なので能力は不明です。狼とひと悶着あったみたいですが、まあ人間が軽くミンチになる怪力と外見にそぐわぬ敏捷性程度しか分かっていません。後でその時の映像をお見せしますね」

「随分と控えめな戦闘能力だな。隠し玉に気を付けなければならんか」

 彼らの戦歴からすると、さして珍しくも無く気張るほどの相手でも無さそうだ。もっとも聞くのと実際に体験するのとでは、天地ほどもかけ離れているだろう。

「ですね。彼らは現在冬木市郊外の森にある城にいます。次にマキリ。ここは蟲がやたら多いですから、我が来須流のカモですね。現在は高校生の兄妹ふたりが住んでいるという事になっています。戸籍上は」

「黒幕か」

「はい。マキリゾウケンという老人が真の支配者です。驚くべき事に五百歳以上を生きているスーパーおじいちゃんです。六代前の魔術師だとか。聖杯戦争の創始期の一人らしいですから、色々と裏技を知っているかもしれません。気を付けて行きましょう」

 といった具合に、少年――来須の所属する組織が調べ上げた今回の聖杯戦争に関する情報が次々と大摩の眼に映されて行った。彼ら二人の他に気配の無い部屋に、黙々と作業をこなす来須と淡々と見つめる大摩の、時折交わす会話のみが響いた。

「さて、こんな所ですね。では後は現地で行動を起こすのみです」

 ブツン、と音を立ててスクリーンが閉じ、一瞬の暗がりの後に灯りが点けられた。退室しようとした時、ふと、大摩がこんな事を来須に問いただした。

「今回も、いざ失敗となったら空からボン! かね?」

 以前、二つの異次元との侵略と侵攻に関する争いで、来須は任務失敗の折に核爆弾の投下を連絡した前科がある。皮肉にも核爆発を防ぎ、大摩達を救ったのは最大の敵であった。今回も同じ後始末の方法をするのかと問う大摩に、

「どうでしょう?」

 と来須は天使のように愛らしい笑みを浮かべるのだった。ただしこの天使は天使でも堕天使らしかった。



 冬の風が吹き行く道路に、場面は移る。アスファルトで舗装された道路の上をコロコロと茶褐色の球体が転がっていた。靴の先で止まったそれを、伸びた手が拾い上げた。傷一つ汚れ一つ無い手が掴んだ球体はタマネギ。
 ビジネススーツをピシリと着こなし、赤いネクタイを締めた十代の少年が、指の主であった。
赤みを帯びた頬と、雪花石膏の様に木目細やかで白い肌、スッキリと整えられた鼻梁とその先の小鼻、ほんのり赤を刷いたような唇に湛えられるのは見惚れてしまうような微笑。世の女性が万遍なく陶然と見惚れる美少年である。
 自分の向かいに立つ少女の影に向かい、少年は手の中のタマネギを差し出した。極上の微笑みもセットだ。煌めく星が零れ落ちそうなほどに輝く瞳は人懐っこい印象を与える。

「落しましたよ」

「あ、ありがとうございます」

 ピンクのカーディガンに、艶やかな長髪をリボンで纏めた少女だった。年は少年と同じ位だろう。成熟した肢体と角の取れた美貌が、実年齢よりは大人びた印象を与えているかもしれない。
 礼の言葉は、少々控えめであった。少年を前にした様子は、人見知りしているか、男性に対する苦手意識のようなものを伺わせた。
 夕飯の買い物帰りなのか、買い物籠を左手に下げていて、先程のタマネギはちょっとした拍子に落してしまったらしい。少年は少女の様子を敏感に察し、あくまで柔らかい微笑のままタマネギを手渡した。
 夕飯の材料の帰りがけに起きたちょっとしたハプニングは、特にドラマチックな展開も、非常識的な進行にも至らず、平凡な日常の一場面として終りを迎えるかと思われた。
 恐縮した様子で頭を下げた少女の首筋に、一瞬夕日の光を煌めかせて何かが虹色に輝いたが、少年以外にそれを見咎めるものはいなかった。少年はそのまま特に何も言わず、少女のほうも、最後にもう一度だけ軽く頭を下げて家路に着いた。その背を見送ってから、やがて少年は呟いた。

「第三目標と接触。トレーサーと針も刺せたし、第一段階は良し、と」

 少年――来須流鍼灸術総帥、来須隼人は、大摩にも見せたあの笑みを浮かべ、天使の笑顔の下に、小悪魔の策略を巡らしている様だった。ふと、天使の笑顔と悪魔の微笑の両方を浮かべていた来須が、気にしたようにポツリと呟いた。

「大摩さん、上手くやってくれているかな。あの人天邪鬼だからなあ」



冬木市郊外には、鬱蒼と巨木が生い茂る広大な森がある。天に角突くが如く聳え立つ木々の群れは、どこかそれ自体が一個の巨大な群体の生物のように近づくものを圧倒している。
鼻孔に侵入してくる緑の香りは、冬の冷気を伴い肺の中に霜を下ろしながら染め上げるほどに濃厚だ。
ほんの少し、市街から入った所で、大摩は漠然と森の全体像を瞳に写していた。何となく値踏みしているような目つきだ。ただし、見つめられるものが年齢性別の隔てなく頬を染め上げる美男子となれば、その目つきさえも優雅と見える。
国を傾け、世を荒廃させる程の美女達を傾国の美女、世に並ぶものなき美貌の女性を絶世の美女というが、大摩を目にすれば、見たものは全てそれらの言葉から女を取り除き、男を使わなければならないと思ってしまうだろう。
黒のタートルネックのセーターと同色のスラックス、ロングコートが覆い隠す肢体はモデルの様にしなやかで逞しい。そして何よりも美しいのであろう。漆黒に押し包まれて尚その内の美に思いを馳せさせるその美しさよ。
見つめる一瞬に思考は奪われ、そこから自己を取り戻す事ができなかったら数日、早くても丸一日は、うっとりとした表情を浮かべる即席の廃人の誕生となる。
風にたなびく長髪を、黒い手袋を嵌めた右手で軽く撫でつけながら、大摩は不意に呟いた。

「よく育った木だな。これなら高く売れそうだ。土地は一坪当たり幾らかな?」

 本当に値踏みしていたらしい。大摩流はバブルが弾けた時に土地に手を出したそうだから、その時の痛手でも思い出したのだろうか? 右手で天高くそそり立つ木の幹を二、三度撫でてから、かさりとわずかな音を立てて漆黒の靴が歩を進めた。
 大摩の目的は、聖杯に関する知識を有しているに違いないアインツベルンへの潜入調査である。聖杯そのものの所在もあるが、来須が口を濁した偉い人たちの目的の為にもアインツベルンやマキリから情報を得る必要がある、と上の人たちが判断したらしい。
 ちなみに遠坂家に関しては、役に立たないと判を押されたようである。それも、先代の当主が十年前の聖杯戦争で死去し、幼い娘が跡を継いだ事と、先代ないし先祖が聖杯戦争に関するノウハウをろくすっぽ残さなかった事も大きい。
これには、一応今までの聖杯戦争が六十年周期であったことから、次回まで五十年余の猶予があるはずだったのだから、今の当主の子供か孫が参戦するはずであったろう事。その時に何か用意される様に仕掛けがしてあるのかも知れないし、今現在何も用意が出来ていなくても仕方ないと擁護できなくも無い。
 ま、それでは来須の上司達は重要視しなかったわけだが。とりあえず今も近代技術の粋である天空の眼が、光の筋で空けた不可視の穴を通して、仔細余さず監視くらいはしているであろう。
 大摩は、暖冬の昼の陽気に誘われた麗しき漆黒の貴公子の風情で森の散策に耽っていた。他所の十二月程度の気温だから、二月にしてはそこそこ暖かい。造詣の神に愛された天才の手からなる鼻孔や、薄桜色の唇から零れる吐息は、水晶を砂塵まで細かく砕き混ぜた様に輝いて見えた。
 今この瞬間を芸術の徒が見れば、己の人生の時間と才能を全て費やして一枚の絵画と成すか。身命と財産の全てを賭して世に一つきりの彫像を彫り上げるか。あるいは、おのれの才能の不足に絶望しながらも沸き起こる衝動に身を任せて、詩人は永遠不滅の詩を謳い上げるか。
 雄々しく育った木々は、悠久の時の中をこの姿で存在してきたかの如く、のしかかる重圧さえ備えて天を覆っていた。冬だというのに黒ずんで見えるほどに茂る青葉が幾重にも重なり合い、さし恵む陽光は幾刃もの光の刃となって地を照らしている。

「……流石に歴史ある魔術師の森か。監視の眼もそれなりにあるな」

 心底森林浴を楽しんでいる風情だが、微細な空気の流れや大地の躍動の違い、樹々やそこに住まう生命のわずかな違和感が、大摩の勘に異を唱えさせた。
 それなのに、気にした風もなく瓢々とさえ言える様子で歩き続けている。度胸があるというか肝が太いというか。まあ、良くも悪くもまともな精神は期待しない方が良さそうだ。さてこのまま無事に行けるかな、と大摩が表面にはおくびにも出さずに思い始めた頃に、彼らは現れた。
 黒を帯びた緑の雲海を裂いて降り注ぐ光のカーテンに、鉛色の巨体は削る事のできない絶対的な質量と存在感で照らされていた。
悠久の大地の奥深くに眠る鉄を鍛え上げ、古代の戦士の理想像の如く整えたならばこの姿となるであろう。そしてそれに神の息吹を吹き込み、その威容に相応しき精神を得たならば、いまここに立つ絶対の守護者となりうるであろう。
その傍らに、子供の絵本の中から飛び出てきたような、愛くるしい異国の少女を伴って。
 肌を痛いほどに突き刺す圧倒的な狂気と、思わず付し崇め奉らんとする荘厳な神気に、大摩はわずかに眉を顰めたきりだ。常人ならその場に膝を屈するか昏倒しかねない。
 傍らのイリヤスフィールは、ほうと心からの感嘆の溜息を、うっすらと桜色に染まった頬を緩めて吐き出した。おもわず大摩もにっこり微笑んでしまうような、少女の純粋な感動の様であった。
 
「こんにちは、お嬢さん。そちらは、君のお父さんかね」

「ううん。私の父さまじゃないわ。バーサーカーというの。とっても頼りになるのよ」

 と思わずイリヤスフィールは答えてしまった。不意を突かれた様な形だから、この少女の本音であったろう。なるほどと大摩は頷いた。何故そうしたかはよく分からない。
 ここでイリヤスフィールははっとした表情を浮かべ、取り繕うように胸を反らして詰問を始めた。つつましく鳴る金の鈴の如き声は、軽やかに宙を舞った。

「そういう貴方は何? 迷子?」

「その通り。うっかり奥深くまで入り込んでしまってね。出来れば帰り道を教えてくれないかな?」

 平然と大摩は嘘をのたまった。万人の賞賛を浴びるに何ら不足無い麗貌には、変化の兆しすらない。よほど熟練のペテン師でもこうは行きそうに無い。
 おもわず信じかけて、イリヤスフィールは口をつぐんだ。どうも調子が狂う相手だと、一発で見抜いたようだ。

「嘘! だって貴方、この森をまっすぐお城まで歩いてきたじゃない。普通の人間にそんな真似できるわけないわ。でも貴方はサーヴァントを連れているわけでもないようだし、参加者にでも雇われた傭兵かしら?」

「しがない鍼師だよ。奇麗なお嬢さん。どうだね、肩こりから関節痛まで大抵の症状には効くが?」

「ふうん。お医者様なんだ。初診のサービスはしてくれるのかしら?」

「格安にしておこう」

「タダじゃないの?」

「扶養家族が多くてね」

 余裕が出てきたのか、会話を楽しむようなイリヤスフィールとそれに応じる大摩だ。一触即発の状況なのだが、妙に和んだ空気が作り上げられている。イリヤスフィールの守護者たるバーサーカーが動きを見せないのも、大摩に今のところ害意が無いからだろう。
 ちなみに扶養家族云々の発言は、同業の妖流総帥に、報酬が大摩流の二倍だそうだが、と聞いた時の返答である。思い出して真似をしたのか、偶然か。実際に大摩の扶養家族が多いのかどうかは謎である。

「では、私は失礼しよう」

 くるりときっぷの良い背の向け方をし、スタスタと歩き始める大摩を思わず呆然と見つめてから数秒、あっと声を挙げてイリヤスフィールが制止の声をかけた。ちょっと慌てた風である。流れるような動作の優雅さに、思わず見惚れた訳だが、実際の行為は敵前逃亡に近い。美貌の鍼師は敵前逃亡を特に恥とは考えないらしい。

「あっこら待ちなさい! もう、バーサーカー、なるべく殺さないように生け捕りなさい!」

 これに反応したイリヤスフィールは、ぷう、と頬を膨らませながら、恐るべき指示を半神の使い魔に命じた。途端膨れ上がる殺気が、足元に茂る雑草を、枝に止まる鳥達を襲い昏倒させた。それは大摩も襲った。瞬間、わずかに大摩の体が痙攣し、その場に立ち尽くす。
好機と見て取る程度の知性はあるのか、あるいは残されているのか大瀑布の圧力で迫るバーサーカーの右手に成人男性ほどもある巨岩を荒々しく削り出したような巨剣が一振り。
 隙だらけの姿勢で振り上げ、暴風の勢いと疾風の速さで落とされる。軌道はわずかに大摩からそれており、おそらく衝撃波か、巨剣をかすめて気を失わせようとしたのだろう。
剣閃の延長上の物体をまとめて薙ぎ倒すかのごとき轟裂な一撃を、腰まである黒髪を繚乱と咲く妖しい花の花弁のように広げて、大摩は地を蹴って避けて見せた。
 空中でトンボをきり、片膝を突いた姿勢でバーサーカーと五メートルの距離を置いて対峙する。その首筋を十字に、全長三十センチに及ぶ鍼が貫いていた。鍼灸用のものであろうが、どこに携え、一体何時取り出し、如何なる早業で刺したのか。
 大摩流“守り針”。邪の気や瘴気を寄せ付けず、魔のものを退ける守護の針であり、刺し方である。バーサーカーの神気と狂気との呪縛を破った針の二刺しだった。
 バーサーカーの巨剣が抉りぬいた大地の跡と、巨剣を振るうその飛燕の速さに、大摩は薄い笑みを浮かべた。思わずイリヤスフィールが全てを忘却して見惚れたその凄艶なる美しさよ。

「やはり体験するのと聞くのとでは万倍も違うな。これは凄い。久々の大物だ」

 右手の人差し指と親指の間に、銀に光る針が一本。
退魔針三派が一つ大摩流。
千年の昔、京の都を守護すべく清和源氏天皇の誕生と共に創設されし対妖魔撲滅機関“夜狩省”。
その中枢を担い、世界を統べる力持つ三剣の一つ“我神”を振るう紫紺の剣士、対妖物柔拳法“如来活殺”の使い手風早狂里と共に、夜狩省三羽烏と湛えられた流派の総帥の実力。
そして古くは五千年の昔から、日ノ本の国の霊的な守護を担ってきた神秘の技の冴えよ、今この場に煌めくか。
魑魅魍魎、悪霊だけでなく異次元からの悪意ある侵略者からの侵攻を防ぐべく古代のあらゆる退魔の法、仙道の技術、あらゆる武道の粋を、あまたの妖魅との戦いの果てに練磨されたその力、果たして人類の域を超えし超越者“英霊”に通じるや否や。
 大摩目掛けバーサーカーが爆発するかのごとく疾走。踏み抜いた大地は砕け宙に舞った。一足でほぼ半ばまでを埋めたバーサーカーに、地から樹からほんの数ミリほどの銀の針が襲い掛かる。

「大摩流“蝗針”」

 それは、使い手の意図に従い地を駆ける敵の足音、空気の対流の変化に応じ四方から襲い掛かるのだ。まさしく大量の蝗の如く。
 無数の銀の煌めきに覆われた巨人が咆哮を挙げる。立ちはだかる全てをその一声で吹き飛ばすが如く。

「■■■■■■ーーー!!」

「む?」

 はらはらと落ちる蝗針に、大摩が不審の目を向け、横殴りに襲い掛かってきた巨剣をバーサーカーの脇を駆けて避ける。技は無い、だが強大な力はそれだけでもはや技そのものと化す。技は時に力を上回るが、強い力は何時とても技をねじ伏せる。
駆け抜け様に、電光の速度で大摩の右手が閃き、バーサーカーの左脇腹に退魔針が伸びる。

「む?」

 ともう一度同じ疑問の声が大摩の口から零れた。宝石になって落ちてしまいそうな麗しき声音だが、当人には生命に関わる事態であった。大摩の手からなった針の一刺しは、一ミリもバーサーカーに食い込む事無く跳ね返された。
 本来なら、特殊なツボを打つ事で、当人の意思を奪い肉体を支配する“傀儡針”でバーサーカーの制御を試みたのだが……

「針応えから言って、装甲の問題では無さそうだが……。さて困ったな、ツボを見つけても針がそこまで到達しないか」

「大人しく降参したら? 命は、まあ保証できないけど少なくとも、今ここでバーサーカーと闘うよりは長生きはできるわよ?」

 勝ち誇った様子のイリヤスフィールである。バーサーカーを誇る瞳には、当たり前だという自信と、無垢な残虐性が同居していた。
純粋だからと言ってそれが必ずしも人間の善性を現すとは限らない。良くも悪くも純粋な人間は、その純度が高まるほど、思わぬ事をしでかしてしまう。
 そして大摩は“純粋”という言葉を、到底使う事の出来ぬくわせものの表情でこう返事をした。その本性は、美しき面貌の前に隠れ、ネコを被られれば世の人々が気づく事は不可能だろう。

「生憎と遺産の分配をまだ決めていなくてね。遺書にしたためるまでは死ねんよ」

「……変な人」

 心の底からイリヤスフィールは呟いた。大摩の知り合いに聞かせたら、同意する者が続出しそうな台詞であった。あるいは、『変な人』が『とんでもない悪党』になるかもしれない。利己主義者というものは、例え世にも稀な美貌を持っていても、他人に嫌われるらしい。

「では」

 美顔を狂戦士へと向けた大摩が右手の手袋を外し、滴り落ちるが如き陽光の光流にその繊指を晒した。十字に首を貫いた針はそのままに、左手に持った指をくるりと優雅に旋回させ、素肌をのぞかせた右手が探るように空間を撫でる。いや、まるでそれは触診と呼ぶべき動きだった。

「そこ」

 という動きと、左手の針を投じる動作は全く同時に行われ、バーサーカーが迫るよりも数瞬遅れた。大摩の視界が漆黒の巨山に覆われたのは一瞬よりも早い時間の後だった。
振り下ろされる巨剣はその過程において音の壁を突破し、雷の轟きにも似た音と一個の人間を殺すにはあまりにも過大な威力と共に落ちた。
 冗談のように生じたクレーターの中心に佇む異形の狂戦士の上空に、大摩が居た。かろうじて、バーサーカーの一剣よりも速く体内に仕込んだ針が、瞬間的に運動応力を高めるツボを刺激し、大摩に音速を超える俊敏性とそれに耐え得る肉体を与えたのだ。
 空中で身をよじり、天地をさかさまにした状態で、大摩は何となく憮然とした様子で、右手の甲を貫いた針を見ながら呟いた。

「“硬気点”。体を鋼に変えるツボも、その鋼を容易く砕く相手には通じないか」

 針の射ち損が、気に食わないらしい。それから、空中に留まり、何かを刺し貫いたように停止している針と、大地の一点を貫く針を見た。大気が鳴動したのは丁度その時であった。 
まるで雲を突き抜けるような巨人が、大なべの中身をかき混ぜでもしたみたいにバーサーカーの周囲の大気が渦を巻き、木々をへし折り大地を捲り上げ、その全てがバーサーカーに襲い掛かった。
 暴風がその巨体を薙ぎ倒し、大樹が次々と巨体を押しつぶそうと群がり、大量の土砂がその姿を追いつくした。総重量は二十トン近いだろう。
 希代の舞手の如く、ふわりとしたやわらかい動作で大摩が捲りあがった大地の境界の辺りに着地する。イリヤスフィールは、大摩の投じた二本の針が起こした現象の外にいたのか、無事な様子で、少しぽかんとした顔をしていた。これはこれでなかなかに愛らしい表情である。
 大摩がした事は実にシンプルで、大地と大気のツボを探り当てそれを刺激したに過ぎない。もちろん如何なる効果を及ぼすかも同時に探り当てた上でだ。人の体に生命の流れや血流などがあるように、天地万物にもまた流れが存在する。大摩流で言う『脈』を探り当て、それを刺激するのは、大摩流総帥には容易い事であったろう。

「さてお嬢さん。君の頼りになるボディーガードは、この下だが、どうするね? いたずらの過ぎる子にはそれなりに厳しいお仕置きが必要かな」

 と実に楽しそうな美笑で、大摩は呟いた。やはり人が悪い。イリヤスフィールは、しかし大摩に対し、彼と等しい笑みを浮かべてこう切り替えした。

「ええ、私も同感よ。たっぷりお仕置きしてあげなきゃね。バーサーカー?」

「!」

 大地の母胎を突き破り、産み落とされる赤子の手の変わりに無骨な岩剣が大摩目掛け迫る。間一髪、わずかに胸から鮮血を滴らせるにとどめ、大摩は後退し、再び眼前に立ち塞がった偉大な英雄の狂いし姿を前にした。バーサーカーの咽喉からは飢えに犯された猛獣でさえも、怯え媚を振るう猛悪な狂気が滲んでいる。

「足止めも効かんか。さても困ったものだ」

「今更命乞い? この国には生まれ変わりの概念があるそうだけど、次の人生で活かしなさい」

「困った。……これでは最後の切り札を使うしかない」

 有頂天になった相手の肝を冷やすのが楽しくて仕方ないとでも言うように、大摩はやはり美しい笑顔を刻み、懐に手をやった。

「切り札?」

 険しい色に変わる紅玉色の瞳に、世の礼賛を浴びるべき指がつまみ出した一つの針が映った。大摩が用いる通常の退魔針よりも太く、一方の端には玉とそれを掴む龍の細工がしてある。実用品というよりも芸術品の趣を備えた針であった。
 だが、それは。

「…………」

「バーサーカー? ……そうね、アレは……危険だわ」

 バーサーカーは沈黙を守っていた。それは怯えの故でもない。恐怖に陥ったわけでもない。まるで討つべき異教の神を前にした戦神の如く。敵対しながらも畏怖を抱くに値する敵対者を前にした勇者の如く。バーサーカーの沈黙はそれらに等しかった。
では、世界最高峰の英雄の足を止めるその針とは?
 
「大摩流“崩御針”」

「ホウギョバリ?」

「左様、我が大摩流最強の退魔針。これに逆らいうる魔性は無く、如何なる魔物も倒しうる究極の退魔の針。……とはいえ、流石に世界規模の知名度は無いか、やはりこれからの時代、国際化に力を入れねばならんな」
 
ちょっぴり自尊心が傷ついたようなそうじゃないような表情で、ぽつりと呟いた。この状況でこういう台詞が出てくる辺り、どうも能力に比例して抜けている所があるらしい。多分、頭のネジとか。
だがその手に持つ“崩御針”の凄まじさは変わるまい。
曰く、大摩流総帥の手になる限り急所でなくともあらゆる魔性を滅ぼす。
曰く、いかなる大魔神をも封じる。
曰く、魔だけでなく聖人さえも刺殺し得る。
そして、二度使えば使用者の命が無い、故に“崩御”針という、とも。

「どうする? これが私の最後の手だが、その分効果は凄まじいぞ? 何の関係も無い一般人相手に、余計な労力はかけない方が懸命ではないかね?」

堂々とした嘘に、少なからずイリヤスフィールが迷ったらしい。今回の聖杯戦争で、自分たちが負ける要素は今現在欠片もないが、予想外の事態によって更に混迷な状況に陥る可能性は否定しきれない。最悪、今は勝利を得ても、後に思わぬジョーカーによって敗北する可能性さえもある。
 その迷いを突いたように、森の一方から鋼鉄の馬が飛び出た。真紅のその鉄馬の名はドゥカティ・スーパーバイク 999R Xerox。それに跨るライダーは、白のライダースーツに身を包んだ、豊満な肢体の主であった。
 空中でドゥカティに跨ったまま、ライダーは手の中にある高圧縮ガスを用いた麻酔銃の銃口をイリヤスフィールへと向ける。引かれる引き金、発射される大摩流特製対妖魔麻酔弾“スリーピング・ビューティー”。
カプセル状の弾丸に収められた麻酔液は、稲妻の如き身のこなしで主の前に立った狂戦士の肉体を、わずかに揺らしたに過ぎなかった。幼子が父親にじゃれ付くようなものだ。更に、同時に投ぜられたライダーの針も。

「げげ!? ノーダメージ?」

 大摩の目の前でドゥカティを止めたライダーが、バーサーカーの健在ぶりに目を剥いた。しかし台詞から察するに、バーサーカーが庇うと踏んでイリヤスフィールを狙ったらしい。
 ゴーグルの下で、白百合の如き可憐さと爛熟した牡丹の様に濃艶な魅力が溶け合った美少女が、驚きの表情を浮かべていた。大摩の助手である十月真紀(とげつ まき)だ。大摩の後をつけたのか連絡を受けたかしたに違いないタイミングでの登場であった。

「“げげ!?”か。人間の品位が疑われるぞ、十月君」

「もう、健気な助手相手に言う台詞がそれですかぁ! それよりも速く乗ってください。脱出ですか、それとも特攻?」

「三十七計目を決め込もう」

「うわあ、先生が撤退を進言するなんて、そんなに強敵ですか?」

「かなりの強敵だ」

「……せ、先生がそんな殊勝な事いうなんて。猿も木から落ちる、だわ」

 ことわざの使い方を間違えているが、それも内心の驚きの現われということにしておこう。そして、大摩が手に持っていた崩御針をみるや、たちまち顔色を青にならしめた。それがどういう意味か、悟ったのだ。
この会話の間に大摩は真紀の後ろに腰を下ろし、真紀のしなやかで肉感的な腰に手を回した。真紀の頬に朱の色が走るが、うっとりする余裕は無さそうだ。

「バーサーカー!」

「■■■■■■!!!」

 無邪気で冷酷な雪の妖精が従僕たる狂える巨人に追撃を命じたのだ。

「エンジン全開!!」

「明日への逃亡だな」

 と大摩が妙に冷め切った声で言った。冗談のつもりだったのか。真紀は聞えなかったのか聞えたのを無視したのか、ドゥカティにエグゾーストの咆哮を上げさせた。未舗装所か、むき出しの地面そのままの森の中を突っ切る真紀の度胸と、操縦の腕は瞠目に値した。

「十月君」

「何ですか!」

 怒鳴るような返事だが、別に怒っている訳ではない。悪路を行く愛馬の手綱を繊細に捌かねばならぬ事と、いつもの調子を崩さぬ大摩の調子に、少しカチンと来ただけである。
 先生、感謝という言葉を知らないんじゃないかしら? 真紀はそう思わずにはいられなかった。

「もう少し速くならないか? 鬼さんがこちらへ来ているのだが」

「鬼さんって、ええ!?」

 背後に木々をへし折り薙ぎ倒し踏みつけ、猛追してくるバーサーカー。思わず背後を振り返り、真紀が確認した。そうせずにはいられなかったと言うところだろう。

「メロスじゃあるまいし!」

「別にメロスは足が早いわけではあるまい。彼は根性があっただけだよ」

「突発的な衝動に身を任せて一国の王を殺そうとした殺人嗜好者ですよ。というか先生! そんな事言う暇があったらアレの足でも止めてください。大摩流総帥の名が泣きますよ!」

「そうかね、ではアドバイスを一つ」

「? 何です」

「天の助けがあるだろう」

「……」

 前からおかしい所のある人だと思っていたけど、ついに……。真紀の眼は、両手を合掌し、祈るようにしている大摩を冷ややかに見た。一秒後にはうっとり蕩けかけたが。
 それでも気を取り直し、目を向きなおして何とかあの暴力の塊のような巨人から逃げ切らねば、と決意した時である。真紀は大摩の言葉が正しかった事を知る事になった。
 徐々にドゥカティとの距離を詰めていたバーサーカーに、突如白い光の奔流が落ちたのだ。天高くから迸った白光はバーサーカーの巨体を飲み込み、光の中へと溶かしていった。 
あまりに苛烈な光に、思わずドゥカティを止めかけるが今が好機と考え直して、真紀は一気にアインツベルンの森を脱出すべく、頭の中に叩き込んだこの森の航空写真を引っ張り出して、アクセルを思い切り吹かした。
森を抜け、冬木市市街に入る境辺りで、ようやく二人は息を着いた。ゴーグルをずらしながら真紀が大摩に先ほどの光について聞いた。

「先生、天からの助けって、あれが何か知っているんですか?」

「答えは簡単だよ。来須君の上司達の力だな」

「……ひょっとして米軍の軍事衛星?」

「正解。おそらくレーザービームか粒子砲だろう」

 大摩の予測どおり、先程バーサーカーを撃ったのは地上三万六千キロに存在する公式には存在しないはずの軍事衛星に積まれた粒子砲のきらめきであった。追われる大摩と真紀を逃がすべく、バーサーカーを摂氏百万度の粒子流が襲ったのだ。
 事前に大摩が知っていたのは、あらかじめ来須に連絡手段でも渡されたかしていたのだろう。

「随分気前が良いんですね」

 真紀は感心したように言ってから、何を考えたか天を仰いでにっこり微笑みながら手を振った。お礼のつもりらしい。

「それなら、古代ギリシャの大英雄もおシャカなんじゃありません?」

「どうかな? 向こうは霊的だ、対して粒子砲はあくまで科学兵器。さして効果はあるまい」

「じゃあ、どうして追いかけてこなかったのかしら? ひょっとして、主を守る為に追撃を諦めた?」

「かもしれんな。さて来須君との合流地点に行くか」

「あら、アインツベルンへの潜入諦めるんですか?」

「センリャクテキテッタイという奴だよ」

「そういう事にしておきましょう。……先生」

「何かね?」

「もし、私が間に合わなかったら、“崩御針”を使いましたか?」

「……」

 痛切なものを滲ませる真紀の声に、大摩はただ美しく微笑んだ。いつもの様に。


おしまい

Fateものが続いているのは以前投稿させていただいていたサイトでシリーズものとして14個くらい投下していた文が残っているからです。



[11325] その10 魔界都市<新宿> × Fate ②
Name: スペ◆52188bce ID:e0398f80
Date: 2010/06/03 08:59
 注意:原作キャラの性格改変、設定捏造、オリキャラ化そのほかもろもろを受け入れられる方のみお読み進め下さいましな。

『 Fate/ the WickedCity <Shinjyuku> 』

『 衛宮士郎の場合 』

 双頭犬の群れを血祭りにあげ、殺戮の高揚で火照った体には<新宿>の夜風が心地よく感じられる。
 その風の中に無数の死者達の怨嗟の顔が時折浮かび上がり、こちらを恨めしげに睨みつけていても、だ。
 お守りのタリスマンを身につけることを忘れた愚かな観光客なら、その場で昏倒して最悪衰弱死に至る魔界都市の夜風も、区民たる遠坂凛からすれば産まれたときから馴染みの風にすぎない。
 体温がちょうど0.5度ほど下がり平熱に近くなった。夜風に紛れた死霊が根本的な生命力を奪おうとするのを、体内を循環する魔力で調節し、凛にとって心地よく感じられる程度に抑え込んだのである。
 ちょっとした体温調節の技術みたいなものだ。
 魔界都市の妖気は地上666メートルにまで達し、大気中に外界の余計な雑物が混入するのを防いでいる。
 光化学スモッグ、排気ガス、塵、海を越えて吹きつけてくる黄砂。魔界に属さぬあらゆる俗世の老廃物を、この街の空気は拒絶する。
 ゆえに、魔界都市というおぞましき称号を冠せられながらも、この街の夜空にはこの世界中のどの都市よりも鮮明で眩い星空と月が輝いている。
 人類がまだ猿に近かった太古の昔から、神話の彼方にほうり捨てられていた魔界という異世界が現出した現在に至るまで、星と月とは変わらぬ美しい光をこの大地に降り注いでくれている。
 例えそれがこの世で最も汚らわしくおぞましく、呪われたこの街であっても。この街に住む六十万を超す区民と、はるかに数の多い数多の妖物達にさえ、だ。
 そういった意味では月光と星空は、生と死の関係同様にこの<新宿>に対して極めて公平な存在といえた。
 今日一晩だけでずいぶんと常識が瓦解したな、と凛の後ろに実体化して腕を組み、月を見上げていたアーチャーはらしくもない感慨に耽っていた。
陽に焼かれたわけでもないのに褐色の色を帯びた肌にも、後ろに撫でつけた白に近い銀の髪にも、やや黄金の色を帯びた今宵の月光は平等に降り注ぎ、幾千万の光の珠粒となって弾け散っている。
意識を散らした状態だというのに、アスファルトの道の上に転がる砂利を踏んでも足音一つ立てないのは、アーチャーと凛双方とも見事な消音の歩方というほかない。
余丁町外れの廃墟ビルを出て徒歩で屋敷に戻る途中、機嫌よく下手な鼻歌など歌っていた凛が、彼方の瓦礫の山の中にたたずむ人影を見て不意に足を止めて視線を固める。
遠坂が得意とする魔術の触媒である宝石にも似て美しい瞳に感情の波紋は立っていない。喜怒哀楽のどれでもない。ただ珍しい観察対象を見つけた学者のそれに近い。ほんの少しだけ感嘆の色を浮かべているだけで。
納得のゆかぬ所があるとはいえ主として認めるほかない凛の動作に、アーチャーもつられてそちらへ草臥れた視線を向ける。
一応、視覚からの突然の奇襲に対応するために全方向への警戒は怠らない。音速をちょっと超えた程度の奇襲ならば、片腕だけでも十分に対応できるとアーチャーは判断していた。
しかしその絶え間ない警戒の念も、凛が見るのと同じものを認めた瞬間、呆気なく崩れ落ちる。歴戦の猛者という言葉では足りぬ超人の域にあるアーチャーでさえ、いや、アーチャーであるからこそ視線を引き剥がせぬ理由があった。
凛は人影の名を口にし、アーチャーは食い縛った歯の奥でそれを呟いた。

――衛宮士郎――

 余丁町の境にある廃墟の上に、長さ90センチほどの木刀を構えた人影が一つ、月光を浴びて影絵のごとく立っている。
月光を浴びてもなお赤く燃えているような赤髪、周囲を見渡す瞳には波一つ立っていない湖面の静けさがある。
夜の闇に溶けるような黒いハーフジャケットに着古した感の強いブルージーンズ。尻のポケットには一枚三〇〇〇円の護符が皺だらけになりながら数枚押し込まれている。
近くの瓦礫に立てかけてある自転車が士郎の移動手段であった。バイト先からの帰り道、いつもの日課に従ってこの廃墟に護符数枚と木刀一本を頼りに足を踏み入れてから、十分ほどが経過している。
極限に近い精神集中によって、自分を見つめる凛とアーチャーの視線に気づかぬまま士郎は自分の周囲で渦を巻き始める妖気に、神経を研ぎ澄ましていた。
右手に握るは木刀『阿修羅』。ちょうど半日前に、師匠である青年手ずから渡された免許皆伝――とまではいかなくとも、とりあえずの成果を認められた祝いの品である。
日本中から吟味した霊木から師匠が削り出し、清廉な思念を込め、使い手である士郎の念を増幅してより純粋化させてその心身を守る武器であり防具でもある。
霊的な視力をもつものならば、士郎とその右手に握られた一振りの木刀からあふれ出る高次の思念に気付き、目を見張ることであろう。
量の問題ではない。この次元における力の質が根本的に異なるのだ。いかな大妖物といえども一撃を受ければ、それがこの世ならぬ異界の魔物であってさえもただでは済まぬほどに。
士郎の周囲で渦巻いていた妖気は徐々に白く、青く、赤く、黄色く、黒く、灰に、紫に、橙に、金に、銀にと絶え間なく色を変えながら人の形を為し、霧か陽炎が人間の姿をとったような状態に収まる。
魔震によって倒壊した建築物の下敷きとなって死亡し、魔界都市の妖気に囚われて死後も延々と怨嗟と憎悪に塗れた末に怨霊となった犠牲者たちの群れ、群れ、群れ。
犠牲者それぞれが月光の透ける半透明の体を折り重なるようにして並び立っていたが、不意に前後左右の同類達の喉に齧り付くようにして重なり合い、徐々にその数を減らしてゆく。
怨念と憎悪の融合による個としての怨霊の格が、段違いに跳ねあがってゆく。
魔震によって齎された死後も言えぬ苦しみに悶える彼らは、愚かにも姿を見せた少年を同胞に変えて、この世に地獄の領土を広げるための仲間とすべく力を合わせているのだ。
共食いにも似た融合の果てに、士郎の周囲を取り巻いた人型は合計七つ。一つ一つが無数の怨霊が集合することでその憎悪を倍増化させている。下手な高僧や司祭程度なら、逆に返り討ちにあい、皮も肉も骨も血も魂も貪られてこの世から消えるところだ。
士郎の右手が動いた。構えは右八双。
それまで自然体で垂れていた右腕がいつ動き、構えを整えたのか、凛には分からなかった。速い、とも、巧い、とも思った。年齢は自分と変わらぬ彼が、その年齢の倍以上の月日を武の道に捧げた達人のように思えた。
同時に凛の魔眼に映る士郎の総身から溢れる不可視のオーラが勢いを増し、地上百メートルまで火の柱のごとく立ち上る。
士郎の体内で高次元のエネルギーを捻出する七つの非物理的エネルギー機関である七つのチャクラが、順調にその回転の速度を増して、霊的な存在に対しても有効な一撃を放てるまでに力を純粋化させる。
それはついに物理法則を完全に無視する高次元のエネルギーへと昇華される。
それに気付いたのは凛やアーチャーばかりではなかった。士郎の魂までも貪り尽くさんとする周囲の怨霊たちも気づいていた。目の前の少年がただの餌などではないことを。
月光を切り裂き、風を割いて地上に生まれた孤月が<新宿>の夜に閃いた。
もっとも近い怨霊へと振り下ろされた士郎の一刀の軌跡は、美しいとさえいえる弧を描き、いかなる物理手段をもってしても打破不能の怨霊を確かに切り裂き、目に見えないほど小さな光の粒子へと還す。
 地上に輝いた孤月は一つきりではなかった。周囲の怨霊たちが直接生命力を奪う悪意の思念や、体内から焼き尽くす霊的な炎を発する中をするりするりと駆け抜けた士郎の腕は休むことを忘れて怨霊を斬り捨てた。
 いや、斬り捨てたという表現は不適切であったろう。為すすべなく阿修羅の一刀を受けた怨霊たちは一つの例外もなく、元の人間達の顔に変わるや、その顔に安らぎの笑みを浮かべて消えていったのである。
 消えゆく寸前に士郎へと向ける視線には感謝の念が輝かんばかりに込められていた。阿修羅に込められた師匠と士郎の念によって、魂を縛る魔界都市の妖気と怨念から解き放たれ、死者達はようやく安らかな眠りに就くことが許されたのだ。
 数十に及ぶ怨霊のすべてが月光の祝福と歓迎の抱擁を受けて安らかな眠りに着いた時、廃墟に満ち満ちていた怨霊たちの残留思念も、朝日に散る霧のように消えさり、この街にこんな場所があるのかと、唸ってしまいそうなほど清浄な空気に変わる。
 それは区外でも霊的な聖地でしか望めないような、細胞の隅々まで現れる始原の大気であった。ただその大気を吸うだけで活力が全身に満ち溢れて、若返ったような気分になるような、そんな空気。
 士郎は心からの穏やかな笑みを浮かべているようだった。その姿を注視する凛の視線の先で士郎の右手首がこねるような動作をした時、たしかに握られていた阿修羅が消失する。
 どこに消えたとも分からぬ神速の収納術。目に留まらぬ消失現象に魔術の気配が一切ない事に、かすかに目を見張った凛の先で、士郎は具合を確かめるように右腕をふるう。九十センチ近い木刀を収納したのならば、まず不可能な動きであった。
 支障なく腕が動くことに満足したのか、士郎は危なげない動きで廃墟の山を降り、止めていた自転車に跨ると自宅の方へと向けて漕ぎ始める。自転車がマッハを超える速度を出したのは、それからまもなくのこと。

「浄化の剣。初めて見たわ」

 この少女には珍しい感嘆の色を隠さぬ声に、アーチャーが思わず聞き返した。彼にしても初めて耳にする言葉であったし、目の前で見た光景に信じられぬ思いを、動揺と共に少なからず抱えてもいた。

「浄化の剣?」

「ええ。この街で死に、半永久的に消えない憎悪の鎖に縛られた死んだ人たちの霊魂を浄化して成仏させる鎮魂の剣のことよ。この街では対妖物対サイボーグ用の邪剣の流派が結構あるけど、衛宮くんと同じ真似ができる剣士は五人いるかどうかよ。
 純粋な剣技だけじゃなくて精神的な修養も必要になるからね。たぶん衛宮くん、相当なレベルの使い手だわ。十六夜念法に師事しているって噂、あながち間違いじゃないか」

 また知らない単語が出てきた事に、周囲の警戒を万分の一ほど緩めてしまったアーチャーが、凛の背中に質問の意味を込めた視線を向ける。
 その視線に気づいた凛は、ちらりと背後のアーチャーを振り返り、アーチャーの無言の質問に答えを返す。良い質問をした生徒に答える教師のような仕草だった。

「そ、十六夜念法。かつてパンドラの箱を召喚し、この世に災厄をまき散らそうとした魔導士レヴィ・ラー、バビロンの空中庭園とともに復活した仮面王ネブガドネザル、亀裂に核を投下し世界を混沌で満たそうとした思念体カダスを倒した英雄の技よ。
 使い手の名前は十六夜京也。区外の住人でありながら、<新宿>を訪れて三度も世界を救った正真正銘の英雄よ。もちろん実力も折り紙つきで、結構ハンサムらしいわよ。
 まあ、本人は英雄扱いされるのをすごく嫌がっているって風の噂で聞くし、いま何をしているのかなんてのも謎だけどね。念法の使い手は世界で見ても二十指に満たないって言うから、ひょっとしたら衛宮くんの師匠かもしれないわね」

 肩を竦めて茶目っけ交じりに告げる凛に対し、アーチャーは何も口にすることはなく、凛だけでなくこの世界の衛宮士郎も生い立ちが異なるのは当然の話だったろう。
 しかし、凛もそうだが士郎といいあまりにも変わり過ぎではなかろうか。冬木市に比べてこの街の環境が異常過ぎる事を考えれば、それもそうだと納得できない事もないが。
 この調子ではそのほかの人物も相当変わっているに違いない。それもまず間違いなくアーチャーの想像の及ばぬ魔的な変貌を遂げているに違いない。ひっそりと、アーチャーは信頼できる医者に胃潰瘍です、と告げられたような溜息を吐いた。



 <新宿>にも朝と夜は訪れる。
特に夜は流れる血の量と夜気をかき乱す悲鳴と断末魔の数が増す。
数千種を軽く超える妖物は比較的夜行性が多く、また犯罪者連中のなかにも夜の方が行動が活発になる手合いが多いし、区内のいたるところに存在する死霊・怨霊・妖魔の類も、億万年を超えて降り注ぐ陽光よりも静かに人を狂わせる白い月光をこそ好むものが多いためだ。
 とはいえ朝であろうと夜であろうと魔界都市という呪われた号を冠せられた都市と土地、そこに住まう者たちにひっそりと寄り添う掟に変わりはない。
善か悪か? ――否。生か死か。殺すか殺されるか。食うか食われるか。呪うか呪われるか。
それらこそがこの街の摂理、この背徳と悪徳の都市の真理。法を謳い人間の理性と倫理を説く区外の世界の光が照らしきれぬ無窮の闇の中に厳然と、妖しく蠢く<新宿>にはふさわしい。
 この街に住むものであるならば、それが人であろうとなかろうと、それが生ける者であろうと死せる者であろうと、肉の檻よりも深いところにあるものが、心よりもなお不確かなものが理解している。
 すなわち魂が。
この街での死とは肉体の生命活動の停止にとどまらない。魂の死につながると。ゆえにこの街では死者さえさらなる死を迎える。生ある者は死した者たちに呪われる。
 人が人を、妖物が人を、死霊が人を、そのまた逆も。呪い、憎み、殺し、殺され、そして流れた血と産まれた死と深い怨嗟がこの街にさらなる変化を促す。
 その一因となりたくないのなら、ただ生き抜くしかない。殺される前に殺し、食われる前に食え、呪われる前に呪え、憎まれる前に憎め、斬られる前に斬れ、撃たれる前に撃て。
 それを徹頭徹尾意識し続け、脊髄反射で殺し合いができるようになれば、一人前の<新宿>区民のできあがりだ。
たった一人存在する本当の<新宿>区民のお情けで住まわせてもらっている、かりそめの客にすぎない<新宿>区民の。
 そういった意味で遠坂凛の朝は<新宿>区民が迎える例としては、さほど奇抜なものではなかった。屋敷の地下にある射撃場で、三十メートル彼方の目標に向けて延々と引き金を引き続けているだけだ。
 右手にSWのM996、三.六ミリ・三十五連発が握られ、フルオートファイアリングに改造された成果を思う存分発揮し、先ほどから人型のターゲットを穴だらけにしている。
 両目、額、喉、心臓、横隔膜、股間、口……およそ人体の急所といえる個所が特に念入りに穴だらけにされている。
 左手に握られているのは象狩用に用いられるウェザビー・マグナム。大の大人でも五発も撃てば肩を痛める化け物銃だが、凛は火線を絶やさずマガジンが空になるまで撃っては手早くマガジンを交換し、異形のターゲットを撃ち抜いている。
 右手のM996は対人を想定してのチョイスだったようで、紙製のターゲットは人の形をしていたが、左手のウェザビー・マグナムは妖物用で、レーンの向こうから次々と姿を見せるターゲットのほとんどは人とは似ても似つかない異形のものばかり。
 ベンガルトラに匹敵する体躯の大蜘蛛、蠍の下半身に人の上半身と獅子の頭をもった混合獣、翼長が4メートルに達する殺人猛禽類、肩高が2メートルを超す三つ首犬、四五口径の弾丸など唾を吐かれた程度にしか感じない獣人。
 例を挙げればきりがないほどバラエティに富んだ異形のターゲット群はそれぞれの弱点とされる個所に百発百中の精度で、象を仕留める弾丸をぶち込まれている。
 ようやく銃声が絶えた地下射撃場で、凛は今朝の日課の成果を確かめ、一発のはずれもないことに気を良くしたようだった。
 普段人には見せない不敵さをたたえた魅力的な笑みを小さく淡い色彩の唇に浮かべ、朝の始まりから調子が上々であることを確認し、満足げな色を瞳に乗せる。

「まあまあ、ね」

 薔薇の香水の方が似合うような美少女であるのに、凛がたおやかな全身に纏っているのは濃厚なガンスモークであった。しかもそれがこの上なく似合うときている。
 この少女もまた幼少のみぎりから生と死のデッドラインの行き来を他者に強要し、強要される日々を送ったこの街の住人なのだ。
 銃器を射撃場のラックに戻し、凛は浴室に赴いた。運動着を脱ぎ去って洗濯機に放り込み、たっぷりと熱したシャワーと氷水のように冷たいシャワーを交互に浴びて、黒髪と肢体にいやらしく付きまとう硝煙の匂いを洗い流してゆく。
 は~、さっぱりさっぱり、と親衛隊まで存在するクラスメイトには到底聞かせられない親父臭いセリフと共に、凛は愛用している筋力強化スプレーを全身に塗布してゆく。
 名残惜しげに凛に裸身に留まっている湯と水の珠粒をバスタオルでぬぐい去り、男の指と舌を知らぬ処女の体に、無色の霧が幾層にも吹きかけられて浸透してゆく。
 流麗なラインを描く凛の美しい体に欲情した霧の精が、欲望を秘めたまま凛の体を内側から凌辱しようとしているかのよう。
 凛愛用の品は一日三回の塗布を維持すれば、女子供でもベンチプレスで二百キロは軽く持ち上げ、プロレスラーと真正面からがっぷり組み合っても負けない怪力を得られるスプレーだ。
 筋力増強効果のほかにも美肌効果や肌年齢を維持するおまけ的な効能があり、最近の<新宿>では、見た目がほっそりとしていても片手で人間をまとめて四、五人の大人をブン投げる主婦が多いのは、このスプレーの影響だという。
 全身への塗布を確認後、凛は身支度を進める。MBTの正面装甲を切り裂く特殊鋼のナイフの刃を通さない特殊繊維と、生地の裏側に耐火耐雷耐衝撃降下のある護符を縫い込んだ制服は、いつもと変わらぬ着心地で凛に一種の安心感を与えてくれる。
 丁寧に時間をかけて手入れしている自慢の髪を結えるリボンも、中にアラミド繊維に呪術的な加工を施したものを一本ずつ縫い込んでおり、凛が魔力を通して疾風の速さで振るえば、人間の首の三つくらいはまとめて斬り飛ばせる。
 リボンに留まらず髪の毛にも一本で日銀の金庫の扉もぶち抜く破壊力の、ニトロ・ストリングスを数本混ぜてあるから、武器を奪われた時はこれを相手の首にでも巻きつけて起爆させれば、人間の上半身くらいは吹き飛ばせる。
 脇の下に吊るしたホルスターには、コルトの自動拳銃・九ミリ“ブレイン”が納めてある。ガス圧による反動消去機構を備え、五十メートルからでも抜き打ち一・五秒平均のヘッド・ショットが可能という。ブレイン――脳とは、それゆえの名であった。
 この街でなら十六、七歳という花の年頃の少年少女が護身のために持ち歩いていも特に咎められるような品ではない。
 高さ二メートルほどの大きな姿見に制服姿の自分を映し、凛は、ん、と今日も完璧な優等生を演じている自分を再認識し、満足げにひとつ頷く。不世出の大女優が舞台に立つのが楽しくて仕方ない、と直前になって浮かれているのに似ている。
 聖杯戦争の勃発を間近に控え、凛はさらなる重武装を施そうかとも思ったけれど、まあ、アーチャーがいるし、と自分が召喚したサーヴァントへの信頼を考慮に入れて控えめにすることにした。
スカートのポケットに、半径三メートル以内に三万度の灼熱地獄を生む特製の単三電池サイズの燃焼手榴弾と、瞬時に摂氏マイナス二百度に強制冷却する液体窒素封入済み冷凍手榴弾と、五千万ボルトの雷を呼び込む呼雷器を放り込む。
 もちろん霊的処理を施してあるから、肉の体を持たない死霊やら異世界の妖物であろうが容赦なく焼き殺し、氷の彫像と変えて凍殺し、全身の細胞を感電死させる自慢の品である。
 月に一回開かれる殺人激安市で十本五万でまとめ買いした品だが、値段の割になかなかの殺傷力を誇り、凛は得をしたと思ってほくほく顔だ。
 左手首に巻いポルシェのチタニウム・ウォッチには小型原子炉が組み込んであり、直径二ミクロン、焦点温度三万度のレーザー発射機構が組み込んであるし、最長一メートルまで伸びる超振動ストリング・ソーや緊急時に最寄りの交番に救難信号を送る発信器、キルリアン感知機能を組み込んだ三次元多目的レーダーも内蔵と、充実した機能付きだ。
 白くしなやかで美しい造作の凛の指先を飾る薄い桃色の爪にも、仕込みはもちろんある。シロナガスクジラも一ミクロンで昏倒させる特製の麻痺薬が爪の裏側と指の間に塗布されていて、これで一掻きすれば第三安全地帯までの妖物でもその場で昏倒させることはできる。
 後は最大装填数三十発のミニ・マシンピストルと殴打用に鉛の板を仕込んだ学生鞄を片手に持てば、どこからどうみても<新宿>にはふさわしくない気品ある優雅な女学生の完成だ。
 数々の重武装であるがこれでも凛としてはアーチャーを信頼して多少は加減をしているし、また遠坂の魔術師として必需品の宝石も数個携帯している。
 遠坂の家は新宿区が<新宿>へと変貌するはるか以前からこの地に根を張った古参の由緒正しい魔術の名家である。
<新宿>への劇的な変化を強制した魔震後も魔術的な意味での管理者としてこの地に残り、さらには凛の代に至るまで断絶していない事を考えれば、その実力は高田馬場魔法街の魔法使い達と比較しても頂点に近いものがあるだろう。
 とはいえなにもいまの凛のように、代々の遠坂家当主達が近代武装で身を固め、魔術師としては異端ともいえる存在だったから家系を存続できたというわけではない。
 先代当主であった凛の父は区外の一般的な魔術師と同じタイプの、銃器など持った事もないような人であった。
 高田馬場魔法街に住まう数百名の魔法使い達も同じように骨身と魂に刻み込んだ魔道の業で生計を立て、外敵や内敵と戦っている事を考えれば、凛だけが突然生じた異端児なのである。
 むろん凛には魔道の大家の正当なる継承者として相応しい以上の優れた才能とたゆまない努力によって、魔術師としても一流以上の技量を誇っている。
 そんな彼女がかくも魔術に頼らぬ武装で身を固め、実際の戦闘でも頼りにしているのは、いくつかの理由があるがまずは、遠坂の得意とする宝石を触媒とする魔術は金がかかるからだ。
そして現代はたとえ魔術師といえども銭がなければ食っていけないご時世だ。世知辛い。実に世知辛い。おとぎ話の中の魔法使いのように杖をふるえばいくらでも金銀財宝が湧いて出てくるわけではないのだから仕方ないが。
 ましてやここは魔術の行使が特別咎めだてられるような場所ではないから(高田馬場魔法街に住む者たちには暗黙の掟があるが)、魔術を用いての犯罪行為に対する対抗手段や魔術封じの護符などが腐るほど存在している。
 凛ほどの実力者なら並大抵の魔術封じの護符で相手が身を守っていても、発動した魔術が効果を減衰こそしてしまうが、完全に無効化されることはない。
 しかし高価な宝石を使用してまで行使した魔術の効果が、さほどに発揮されないという現実を考えるとどうにも対費用効果がよろしくない。いや、はっきり言ってしまえばあまりにもコストに対してリターンが乏しい。
 そこらのチンピラや並大抵の妖物を相手にするならわざわざ宝石を用いずとも市販の銃器を使うか、ガンスミスに依頼して違法改造したもので十分に対応できる。
 そしてそういった妖物や犯罪者との遭遇率が、区外に比べてこの街ではどれほど高いことか。参考までに例をあげればこの<新宿>での警察官の死傷率は区外での三百倍に及ぶ。一般市民が遭遇する凶悪犯罪や霊的な事故の件数は、三百倍という数字をさらに上回るほどだ。
 日常茶飯事に勃発する荒事にいちいち効果で希少な宝石を用いたり、精神力や魔力を消耗する類の魔術を使っていては身が持たない。
ましてや凛はとある都合から十歳に満たぬ幼齢で当主の座を継いだものだから、当時は根本的に体と精神が出来上がってはおらず、魔術の頻繁な使用は心身に危険な影響を及ぼす恐れがあった。
 死霊やら怨霊やら呪殺を引き受ける祈祷師、魔術師に事欠かぬこの街で精神的な衰弱状態に陥れば、誰も見ていないところで生命力を根こそぎ奪われて木乃伊になっている可能性も決して馬鹿にはできない。
 ゆえに、凛は必然的に自分の生命を守るために魔術に依らずに身を守るすべを身につけねばならなかった。その答えが、現在の科学の産物である銃器類の過剰装備であった。
 魔術師として精神も十分に成熟したいまもなお、凛がその体に銃火器のドレスを纏うのは、幼いころからの習慣にすぎなかった。

「さ、今日も元気に学校に行きますか」

 そして凛はいつもと変わらぬ日常の朝に、いろいろと思う所ばかりで朝から頭が痛くて重たいアーチャーでさえ見惚れる爽快な笑みを浮かべるのだった。



 ひゅん、と刀の形に整えられた木が、自分の頭の上二センチの所をかすめた。根元から髪の毛が千切られる剣速に加えて、一撃で頭蓋骨を卵の殻のように割る威力を秘めている事を、かわした少年――衛宮士郎は自分の体でよく知っていた。
 場所は朝日が零れ入る清澄な雰囲気に満ちた道場の中。素足が冷たく磨き抜かれた床を
滑る感触は心地よいが、対峙する目の前の相手から放たれる気迫の針が全身を貫き、緊張を強いている。
 数年前に死去した養父衛宮切嗣が士郎に残した屋敷に併設されている道場で、士郎は日課となった剣術の訓練に勤しんでいるところであった。
 後方に飛びのいた士郎が動きやすい柄物のシャツとジーンズ姿なのに対し、目の前で青眼に木刀を構えているのは、短い茶の髪に綺麗とか可愛いというよりも愛嬌のある人懐っこさがまず前面に出ている妙齢の女性だ。
 幼いころからの士郎の知り合いで名前を藤村大河という。幼馴染であり、自称士郎の姉であり、通う高校の英語教諭であり、士郎にとっての剣の師匠の一人でもある。
 黄と黒の横縞模様のインナーの上にグリーン一色のワンピースを着た私服姿だ。たぶん、この上にジャンパーでも羽織って学校に出勤するだろう。
 士郎と大河の二人共が道着に着替えずに私服姿で対峙しているのは、あくまで実戦形式にこだわっているためだ。
理由なく命を奪う殺人鬼の数が区外の数十倍数百倍の割合で存在するこの街で、自分の命を狙ってきた相手に、動きやすい格好に着替えるのを待ってください、などとのたまう余裕などあるはずもない。
常在戦場、この意識が常に心の片隅になければ、この街で生を謳歌して平凡な死を迎える事は極めて難しい。
士郎は胸部のチャクラの回転とそこから生み出される念が四肢を満たす感覚を意識しつつ、目の前の小さいころから馴染みの女性の一挙手一投足のみならず呼吸、視線の配置、ミリ単位での重心の移動に至るまで気を配る。
首が痛くなるくらいに見上げなければいけない巨木を前にしたような圧迫感が、常に士郎の精神を消耗させている。
藤村大河――実年齢に比して精神年齢が低く、生徒から良くも悪くも親しまれているこの実姉の様な女性が、<新宿>中を見回してもトップクラスの剣士である事は紛れもない事実。
考えうる最高の速さで剣道五段の位を受け、あらゆる流派の剣術をスポンジが水を吸うように吸収していったまさに百年に一人の大天才。教職に就く事を惜しんだ武道界の重鎮が、武道の歴史に名を残していただろうに、と嘆いたのはその筋の人間の間では有名な話だ。
かつては路上に転がっていた鉄パイプで、パブリック・エネミー・ランク(民衆の敵)第一位の妖物ギガンテスの甲殻を切り裂いた剣の腕の冴えは、いまも衰えるどころか日々鋭さを増している。
ちなみに、この時大河に斬殺されたギガンテスは捕獲した<新宿>警察が核を使っても焼き殺せずに処分に困っていたもののうちの一匹が、逃走したものだった。藤村大河の目の前に現れた事が、逃げ伸びたギガンテスの不運であったろう。
純粋な剣士としてみれば、士郎の師匠である十六夜京也でさえも勝利は確実とはいえない。明らかに格上の相手との戦いに、士郎の体が覚える疲労は通常のものよりも重い。
だが士郎は果敢に打って出る事に決めた。このまま睨みあっていてもこちらの体力を一方的に削られて、士郎自身も気づかぬ間に生んだ隙を突かれて痛打を浴びせられて終わりになる。
士郎の口から放たれた呼気は薄紙を切り裂くような鋭さであった。
黒光りする道場の床を踏み抜くような踏み込みと共に、士郎の体が一陣の風となる。
士郎の握る木刀――阿修羅は大河の胴へと切りこんでゆく。念を込めれば核動力の五千馬力を誇る軍用重武装サイボーグを一撃で機能不全に陥らせる物理法則の外側に存在する太刀である。
大河は風に吹かれた蝶のように優雅な動きで横に退いてかわしざまに士郎の小手をしたたかに打ち、骨まで痺れる痛みに耐えた士郎が上段に構えた瞬間には、こちらの頭上へ刀をかざすようにして柄尻で突く。
真剣であったなら士郎の両腕が鋭利な切断面を晒して斬りおとされ、さらには喉仏を潰された凄惨な死体が出来上がっていたところだ。
大河が身に収めた流派の一つ、水歐流武術の技“風鐸<影之伝>”である。
水歐流の名は子連れ狼・拝一刀が振るった水歐流斬馬刀として知っている方も多いかもしれない。
流祖は羽州(今の山形県)十二社権現の神官・三間斎宮の子、三間与一左衛門景延。父の斎宮に卜伝流憲法を学び、桜井五郎左衛門直光から林崎流居合術を学ぶ。以後、十二社権現に参籠して神木に向かって抜刀修業を積み重ねる事二十年。
ある夜、神夢を見て極意を得、居合の法形二十八本、その影の形三十六本を定め、これに二代目与八郎景長の時代に陰陽十本、九代福原新左衛門景利が正木流分銅術に基づいて創案した鎖鎌術などの諸術を加えたものが水歐流である。
その後も鍔競り合いに入った瞬間に、刀の柄で相手の喉を叩きつぶす鹿島新当流剣術『大極意 十箇の太刀』その四でしこたま痛めつけられて、床の上で士郎がのたうちまわる結果に終わる。
喉を押さえて荒い息を吐く士郎を思い切り見下す大河が、わっはっはっは、と豪傑笑いを道場に響き渡らせる。

「京也くんの弟子ってわりに大した事ないわね、士郎。まだまだお姉ちゃんに勝てないようじゃあ、未熟よ」

 ちなみに京也と大河は高校の同級生である。ちょっと涙目になった士郎が悔しげに大河を見上げる。

「ぐぐ、この、ばがぢがら。……少しは加減て物をしろよ。一応、おれ、生徒だぞ?」

「他流派の剣士との試合に手加減など入る余地なし!!」

「へいへい」

 いや、あんた、いろんな流派のキメラだろ、というセリフは飲み込んだ。
 えっへんとばかりに腰に握り拳を当てて威張り散らかす大河に、士郎はもう反論する気力を奪われて、よっと一声出して立ち上がる。体内を循環する念の効果でダメージからの回復は人の十倍は早い。
 まだまだスタミナ満点といった様子の大河に、朝から元気だなあ、と士郎は感心するばかり。いまにももう一本と言い出しかねない大河を、二人の試合を見守っていた審判役の青年が押しとどめた。
 身長も体つきも人並みだが、全身から清涼としか言いようのない心地よい雰囲気が発せられており、顔立ちもハンサムというよりも男臭さのにおう顔立ちで、並大抵の美男に飽きた美女が見惚れそうだ。

「藤村、そこまでにしとけ。おれの弟子をあまり痛めつけてくれるなよ? それにそろそろさやかちゃんと桜ちゃんが朝飯を作り終えているころだ。二人とも今日は学校があるんだろ。ちゃんと腹に入れておけ」

 士郎の師匠であり大河の同級生でもある十六夜京也その人である。三度にわたって世界を救ったこの男も今は、二十代の半ばを過ぎて大人の男性としての落ち着きを纏っている。それでもどこかガキ大将の様な悪戯小僧っぽさが残っている。
 京也の提案に異論はまったくないらしく、大河はごはん、ごはん、と連呼しながら母屋へと向かって走り出しているし、そんな大河の様子にやれやれと苦笑しながら士郎も続く。

「喉、大丈夫か?」

 と京也。大河と士郎の試合もずいぶんと昔からやっているが、喉の様な急所に一撃が決まるのは最近では珍しい事だった。
 兄貴分兼師匠である京也に気遣われて照れたら、士郎はどこか誤魔化すように左手の人差し指で頬を掻いた。

「潰れてはいませんから、大丈夫です。でもまあ、カラオケは遠慮したいかな?」

「そんだけ言えりゃ大丈夫だな。さて、おれ達もさっさと飯を食いに行こう。藤村に全部食われちまう」

 あいつの胃袋が化けものだってのは、高校のころから有名だったからな、と悪戯っぽくいう京也に吊られて、士郎も苦笑を浮かべる。

「それにしても今日くらいはここに寄らなくてもよかったんじゃないですか? さやかさんと旅行に行くのは今日でしょう?」

「いいんだよ。危なっかしい弟子の様子を最後に見ておかないと安心して旅行にも行けやしない」

 国連の慈善病院に勤める京也の恋人・羅魔さやかと、婚前旅行に出発するのは今日のはずだ。そんな時くらいは自分に気を遣わなくてもよいのに、と士郎は思わずにはいられない。

「士郎、いいか、これはおれの勘だがな」

 十六夜京也の勘となれば、世界中のスーパーコンピューターを掻き集めて出た分析結果の千倍は信頼できる。なにしろ未熟な士郎と違って、世界最高の念法の使い手だ。日常生活における第六感の発露とその精度は神掛ったレベルにある。

「どうも最近、この街の雰囲気がちとざわついている感じがする。おれの留守中になにかあって、自分の手に負えないと思ったら、メフィストを頼れ。お前の名前はあらかじめ伝えてあるから、最高待遇は無理でもそこそこの待遇で迎えてくれるはずだ」

 魔界都市で決して敵にしてはならないとされる存在と、京也はかなり親しい間柄であると、この時初めて士郎は知った。旧新宿区役所跡地に建てられた病院の主ドクター・メフィスとは、この街で絶対不可侵の存在としてあらゆる存在から畏怖されている超絶の魔人のことだ。
 アカシックレコードを読み取り、限定的にではあるが死者をよみがえらせる医療技術を持ち、噂ではたったひとりでアメリカ合衆国を完全に壊滅させるほどの力を持つという。

「……頼るような真似にならないように善処します」

「まあな。それにお前はメフィストが気に入りそうだしな。会わない方がお前の身のためかな」

 メフィストは女嫌いを通りこして女性の存在を認めない性癖の持ち主で、男色家であるともっぱらの噂である。
 京也のセリフの真意が分からなかったようで、士郎は、はあ、と首をひねった。師匠である京也が自身の不在に間に起きる事に不安を抱いた事が、見事的中して士郎に災いとなって降りかかるのを実体験するのは、これからわずかに数時間後の事である。

――つづくのか?

なんか続いたこのお話。藤ねえはサーヴァントには勝てないけどかなり善戦できるレベルの超人です。魔界都市ものの長編の中ボスくらいの戦闘能力保持者です。エイブラムスの正面装甲を真っ二つに出来る程度の事しかできませんから。
ゼロの魔王伝もここかゼロ魔板に書き直して移すかなあ。あれも五十話くらいはいきそうだしなあ。
ともあれ、ご感想ご指摘ご助言ご忠告お待ちしております。ではでは。

追記
士郎の木刀を阿修羅としましたが、なにか別のよい名前はありますでしょうか?
ぱっと思いつく羅刹とか夜叉とかですが、名案あればご意見賜りたく思います。よろしくお願いします。



[11325] その11 魔法少女リリカルなのは × 無限のフロンティア EXCEED
Name: スペ◆52188bce ID:e0398f80
Date: 2010/06/20 14:59
『魔法少女リリカルなのは EF・EXCEED』

『修羅の若者と要請の姫君と来航の魔法少女と』

 極彩色の空間が粘土の高い液体のように満たされた世界。
 次元空間を旅するために作られた『時の庭園』は駆動炉の封印、内部での激しい戦闘、九つのジュエルシードが共鳴し暴走することで発生していた次元震により、崩落の速度を加速させている。
 私たちが立っている床も大きく砕け、虚数空間へと落下してゆく。一度落ちてしまえば重力の井戸の底まで、抵抗する事も出来ずに落ちてゆくほかない奈落の世界が、私たちが落ちてくるのをいまかいまかと待っているように見えた。
 目の前で崩壊した床と私のオリジナルであるアリシア・テスタロッサと共に落ちてゆく母さん。私には一度も向けてはくれなかった優しい瞳でアリシアを見つめ、どこか満足そうになにか語りかけている。
 私にとって、与えられた記憶の中でしか見る事の出来なかった母さんの表情。私がどれだけ望んでも得られなかった母さんの優しさ。最後の最後まで拒絶された私。最初からずっと私の事が大嫌いだと言った母さんの言葉の冷たさ。
 アリシアと母さんの姿を目の前にしていると今までのいろんな事が一瞬で蘇ってきて、悲しくて、つらくて、苦しくて、私は目の奥から溢れてくるものをこらえる事が出来なかった。
 私は本当に、母さんに必要とされてはいなかったのだと、理解したくないのに理解できてしまう。

「……っ!」

 胸の奥の方が引き裂かれるような痛みに、その場に蹲ってしまった私を大きな振動が襲う。母さんが立っていた場所を中心に広がり始めた崩壊の魔の手が、私の足場にまでも届き、私もまた母さんとアリシアと同じ所に落ちようとしている。
 とっさに上半身を起こした私の瞳に、一人の女の子の姿が映る。
 胸元の赤いリボンや袖口の凝った衣装が可愛らしいバリアジャケットを着て、深紅の宝玉のついた黄金の杖を持った女の子。足首に生えた小さな翼からは、はばたくたびに余剰魔力が桜色の小さな羽根となって舞い散って、とても幻想的な美しさだった。
 栗色の髪を左右で小さく括った髪型のこの子は、高町なのは。
 何度もぶつかって、何度も戦って、そのたびに少しずつお互いの事を知って、そして、私に、友達になりたいって言ってくれた女の子。まっすぐで、強くて、とても優しい子。
 なのはが私に向けて精いっぱい小さな手を伸ばしてくる。このままでは私も母さんやアリシアのように重力の牢獄の中へと囚われてしまう。
 私を助けようと、なのはは自分も危険だというのに頑張ってくれている。最初は敵だった私に、ここまでしてくれるなのはの優しさは、本当にすごい。
 そして私はなのはに精いっぱいの笑みを浮かべる。ありがとう、本当にありがとう、と心からの感謝の想いを込めて。
 一度はなのはへと伸ばした手を、私は引きもどした。

「ありがとう、なのは。……ごめんね」

 私の言葉が何を意味するのか理解したなのはの顔が、見る見るうちに驚愕に固まり、さっと血の気が引いていく。

「フェイトちゃん、だめぇぇえええ!!!」

 たん、と床を蹴って私は母さんとアリシアのもとへと飛んだ。
 なのはの悲鳴が見る見るうちに遠くなってゆく。
 ごめんね、なのは。本当にごめんね。
 何度も何度も心の中で謝りながら、それでも私の瞳は母さんとアリシアから外れる事はなかった。既に虚数空間の影響下にあるのだろう。少しでも早く母さんに追いつこうと行使しようとした飛行魔法は発動しなかった。
 私の瞳から涙がこぼれる。
 なのはへの申し訳なさから零れた涙だったろうか。
 どんなに拒絶されても捨てきれないこの想いが瞳から零れ落ちたのかもしれない。
 涙と共に落ちゆく私を、不意にとても力強いけれどよく知っている腕が抱きしめた。
 私は驚いてその腕の主を見つめる。

「アルフ!?」

「ばか、ばかばかばかばかばかばか! フェイトの大馬鹿!!」

 オレンジがかった髪に、イヌ科の耳としっぽを持った成熟した肢体を持った目つきの鋭い女の子。私の使い魔で、とても大切な家族であるアルフ。
 本来は狼の姿をしているこの子は、今は人間の姿に変わって私の体を抱きしめている。大粒の瞳は、私よりももっとたくさんの涙が溢れていて、そのすべてが私の事を心配しているから溢れた涙だ。

「だめだよアルフ! アルフまで落ちることなんてない、はやく戻って!!」

「いやだ! 私はいつだってフェイトと一緒だよ! 私の命はフェイトがくれたもんなんだ。フェイトがどこに行っても私はその傍にいる。フェイトを一人になんかしない!!」

「アルフ……」

「馬鹿だよ、フェイトは本当に馬鹿だ。なんであんな鬼婆の為にこんなことまでするのさ? あのおちびちゃんが伸ばしてくれた手を掴めばよかったのに」

「うん、本当はそうすればよかったのかもしれない。けど、それでも、私はプレシア・テスタロッサの娘だから」

 そうはっきりと告げた私の言葉に、アルフはもう何も言い返すつもりはないようだった。ただじっと私の顔を見つめると、鼻を一つ鳴らしてから口元に笑みを浮かべる。

「鬼婆の為ってのが気に食わないけど、うん、今の顔は本当にいい顔をしているよ、フェイト」

「そう、かな? ありがとう、アルフ。アルフが一緒なら寂しくないよ、アルフと一緒なら私は平気」

 アルフはただぎゅっと優しく私を抱きしめてくれた。このぬくもりが、ずっと私を支えてきてくれたのだと、いまさらながらに気付く。ありがとう、アルフ。どんなに感謝しても全然足りないくらいに、私はアルフに救われている。
 私とアルフが言葉を交わす間も時の庭園との距離は離れ続け、もう私達が戻ることはできないだろう。振り返ってみればかすかに桜色の光の羽がきらきらと輝いているのが見える。

「ごめんね、なのは。友達になりたいって言ってくれた事、ほんとうに嬉しかったよ」

 もう届かないと分かってはいたけれど、もう見えてはいないと分かってはいたけれど。
 私は、きっともう二度と会えなくなる初めての友達になれたかもしれない子に向けて、心からの感謝の言葉とを笑顔を、もう一度送った。
 私とアルフが見えない重力の鎖に縛られて、意識を失ったのはその直後だった。

――母さん。私が、守るから。

 きっと、この言葉も想いも、貴女には届かないのだろうけれど。



 目が覚めると知らない天井だった。清涼な空気に満ちたどこかの部屋。私は部屋の中でベッドに横たわっていたみたいだ。
 どうしてこんなところに私が寝かされているのだろう。私は、母さんとアリシアを追って落ちて行ったはずなのに。
 骨と筋肉が軋むように鈍重な感覚になっているから、少なくとも数日間は眠り続けているのだろう。全身の細胞に微細な鉛の粒子が混じっているようで、本当に自分の体なのかと思わず疑ってしまうほど。

「あ、バルディッシュ」

 枕元に置かれていた待機状態のバルディッシュに気付き、私は声をかけた。人工知能を搭載したインテリジェントデバイスであるバルディッシュは、私にとってアルフと同じようにずっと一緒にいた家族の様なもの。
 私の無茶に何度も付き合って、何度も傷ついて、それでも私の刃となり盾となってくれた大切なパートナー。
 時の庭園での戦いの前後でかなりの無茶をしてバルディッシュも相当破損したはずだけど、私が眠っている間に自己修復を終えたみたいで、金色のワッペンみたいな外見には傷一つない。

『おはようございます。サー』

「うん、おはよう、であっているのかな? バルディッシュ、調子はどう?」

『ステータス・オールグリーン。問題はありません』

「良かった。それにしても、ここはどこ? それにアルフは? 母さんは?」

 そうだ、アルフ。それに母さん。私がこうして無事なのだから、二人も無事だと思いたい。母さんの事を考えると私は自分の体のことなど何も考えられず、反応が鈍い体を引きずるようにしてベッドから這い出す。
 質素だけれど肌触りのよい衣服に着替えさせられていた事に、この時わたしは気付く余裕すらなかった。枕元のバルディッシュが、私を制止するように明滅するけれど、私は取り合わずにバルディッシュを掴み取り、鈍い痛みをこらえながら部屋のドアへと向かって歩き出す。
 素足に石造りの床の冷たさが染みるようだ。

「母さん、母さん、母さん……」

 私の口から出る母さんという言葉が数を重ねるたびに、胸の中の焦燥が領土を増してゆく。けれども私の感情に反するように私の足は歩みはのろのろとしたものだ。足枷をつけられているみたいに私の足は重い。
 ようやくドアノブに私の手が届く距離にまで歩いた時には、体中が悲鳴をあげていた。息は荒いし汗は体中を濡らしている。汗をたっぷりと吸った寝間着がじっとりと肌に張り付いて気持ちが悪い。
 その時だ。唐突にドアが開いて、私の目の前に人影が立ちふさがる。見慣れたその姿に、私は、あっとか細い声をあげた。
 私の目の前に立っていたのは、体のあちこちに包帯を巻いてはいるけれど元気そうな様子のアルフ。手には果物やパンみたいなもの、たぶん水か何かが入っている陶器などが入った籠を持っていた。
 アルフは私が起き上がっている事に気付き、ぱっと顔を輝かせて私を思い切り抱きしめた。私を抱きしめていても籠を落とすようなことはしなかったから、器用だね、となんとなく場違いな事を思う。

「フェイト~~~~~。よかった、もう目を覚まさないんじゃないかって心配したんだよ!」

「ご、ごめんね、アルフ」

「いっつも私に心配ばかりかけて! ああもう、ほらまだ寝てなきゃだめだよ。ベッドに戻った戻った!!」

 私の顔をまっすぐに覗き込んだアルフは、すこし涙目になりながら私の体をぐいぐい押して、十数分をかけて脱出したベッドへと押し戻してゆく。
 体のあちこちに包帯が巻かれた痛々しい姿ではあったけれど、アルフは私よりも傷が軽いのか、私の体を押す腕の力強さはいつもとそう変わらないように感じられる。

「ま、まって、アルフ。ここはどこなの? それに母さんは……」

「その事については、私が説明しましょう」

「え?」

 聞きなれない男の人の声に、私はアルフが開いたドアの向こうを振り返る。私の視線の先には、男の人が一人立っていた。白い丈の短いケープみたいなものをはおり、右腕と両足の脛と額に真っ赤な鎧の様なものを身につけている。
 赤い髪の毛は後頭部で束ねられていて、先端が爆発したみたいに広がっていた。私より七、八歳くらいは年上だろうか。大きな翡翠の塊を象眼したように綺麗な緑色の瞳がまっすぐに私を見つめていた。
 そのまま私はアルフによってベッドに寝かされて、その枕元にある椅子にアルフが座り、男の人はその横まで歩いてくると足をとめる。

「あの……」

「私はアレディ・ナアシュ。人は“剛練”のアレディと呼びます。フェイト・テスタロッサ殿ですね。アルフ殿から簡単な事情は聞いています。まずここは『覇龍の塔』。我が師、“影業”のシンディ、シンディ・バードが番人を務める場所です」

「アレディさん?」

「ええ」

 産まれたときからおんなじ表情しかした事が無いみたいに、アレディと名乗った男の人は、顔の形を変える事はなかったけれど、どことなく物静かで落ち着いた雰囲気とアルフがまるで警戒していない様子から、とりあえず私は彼の話を聞くことにした。

「まずここはエンドレス・フロンティアと呼ばれる世界です。フェイト殿とアルフ殿がおられた世界とは異なる世界。無限の開拓地と呼ぶものもいます。アルフ殿から聞いた話では、貴女方にとって異世界というのは別段珍しいものではないようですが」

 確かに多数の次元世界が観測され実際に行き来する手段が確立されている世界が私とアルフの出身地であるし、私たち二人とも次元を行き来する転移魔法は習得している。
 ここが別世界だと言われても、さしたる驚きがないのは本当の事だ。ただ、最後の記憶では私達は次元空間に落ちたはずだったから、こうして別の世界に転移している事自体は意外ではあったけれど。

「たぶん、次元震とジュエルシードの魔力の影響でここに飛ばされてきちゃったんだよ。アレディに聞いたけど、この世界でも最近まで空間が不安定だったって言うから、その残りの歪みか何かにあたし達が囚われちゃったんだ。
 まあ、こうして手当てまでしてくれるお人よしの所にこれたんだから、悪運みたいなものはあったんだろうね」

「そっか。アレディさん達が治療してくれたんですか? ありがとうございます」

 ぎこちなく頭を下げる私に、アレディさんは、いえ、お気になさらず、と相変わらず淡々とした調子で返事をする。
 アレディさんの話では、私達は三日ほど前にこのハリュウの塔の前に突如現れて、怪我だらけになっていたところを、アレディさんと先生であるシンディさん、それにお客さんとしてきていたネージュという女の人が助けてくれたらしい。
 私よりも先にアルフが目覚めてからは私達の事情とアレディさん達の事を話し合い、とりあえずは私達がここでお世話になる事が決まっていたようだった。
 見ず知らずの他人である私達に親切にしてくれるアレディさん達には、感謝の言葉しか出てこない。私は優しい人たちに縁があるのかもしれなかった。
友達いなりたいって言ってくれたなのは、管理局の人間だけれど私に気を使ってくれたそぶりの合ったクロノ執務官やリンディ提督。それにアルフとバルディッシュもそう。

「あの、それで、私達の他に女の人と私と同じ姿の女の子がいませんでしたか?」

 はやる気持ちを何とか抑えながら私は母さんと……アリシアの安否についてアレディさんに聞く。するとアレディさんとアルフが互いを見つめあってから、意を決するようにして頷き、私をまっすぐに見つめ返す。

「貴女の母君、プレシア・テスタロッサ殿なら別室で休まれています。ですが、アリシアという少女は既に事切れていましたし、“生体ぽっど”というものもここに転移した影響で破損していましたので、勝手ではありますが私達で弔わせていただきました」

「アリシア……」

 後で聞いた話になるけれど、アリシアの体はひどく傷ついていたらしく、そのままにしておくには余りに忍びなかったらしい。
 私の体感時間ではほんの数時間前にその存在を知ることになった私のオリジナルである、母さんの本当の娘。
 事故によって死んでしまった彼女を蘇らせるためだけに、母さんは二十年以上も足掻き続け、そして世界を破壊してもかまわないと豪語していた。そのアリシアが、もう本当に生き返らせるのが不可能だと分かったなら、母さんは私の事を見てくれるのではないか? 一瞬、私の心の中で黒い何かがそう囁いた。
 その囁きを心の中から振り払うように、私は左右に首を振る。

「フェイト?」

「なんでも、ないよ」

 少しだけ私と精神がリンクしているアルフは、私の心の中に広がったとても嫌な気持ちに気付いたのかもしれない。私は弱弱しいと自分でもわかる笑みを浮かべて、アルフを
安心させるための言葉を口にするしかなかった。

「それで、母さんの容体はどうなんですか? ここに来る前、母さん、血を吐いていてどこか悪いのかもしれないんです」

 魔力と体力こそ消耗していたが、大きな怪我などなかった私達でさえこの有り様。血を吐くほどに体が傷つき、大規模な魔法の行使とジュエルシードの制御で消耗した母さんはもっとひどいことになっているに違いない。
 そう思うと、私はまるで自分の体が引き裂かれるような痛みと苦しみを覚える。やはり、どんなことをされても、私は母さんの事が好きなのだと、いまさらながらに思う。
 アレディさんは、私でもわかるくらいに初めて表情を変えた。とても言いづらそうに、眉間に皺を刻む。それだけで母さんの容体がよくはないのだと、分かってしまう。私は覚悟を決めてアレディさんの言葉を待った。

「娘である貴女を前にしては申し上げにくいのですが、我々“修羅”の医療技術では手の施しようがありません。我らの“覇気”で痛みを緩和し生命力を分け与える事は出来ますが、プレシア殿の体を蝕む病魔はとても根が深い。
 今はネージュ姫殿が妖精族の魔力でどうにかできないかと施術してくださってはいますが、かろうじて小康状態を保っているというところです」

 思った通り、母さんの容体は決して良いものではなかった。母さんが病気だという事を、私はまるで知らなかったのだ。けれども、少なくともまだ生きていることは確かだ。
なら私は私が母さんにしてあげられることを何でもしてあげたい。例え母さんにさらに嫌われるようなことになったとしても。

「母さんに会いたいです。母さんの所に、連れて行ってください。お願いします」

 そう言ってベッドの上で頭を下げる私をアルフが制止した。

「だめだよ、フェイトだってまだ横になっていなきゃ。塞がったように見えるけど、動きまわったら傷がまた開いちゃうよ。あたしは頑丈だったからまだよかったけど、フェイトはそうもいかないんだから」

「それでも私は母さんの所に行かなくちゃ! 母さんは私の顔を見たくないかもしれないけど……」

「……分かりました。ご案内しましょう」

「アレディ!?」

 何を言うんだい、と牙を剥きかねない形相のアルフと、やったと顔を綻ばせる私を宥めるように、あるいは釘をさすようにアレディさんは言葉を続ける。

「ただし、フェイト殿がまともに歩ける状態でないことは確か。ですから私がお連れしましょう。それでよければ母君の所に案内します。とはいえ、母君はまだ目を覚まされてはいませんが、それでもよろしいですか?」

 出来れば直接母さんと言葉をかわしたいという気持ちはあったけれど、とにかく安否を確認するのが先だ。私は一もなく二もなく首を縦に振る。
アルフは一見元気そうに見えるけれど、包帯がまだとれていないことから本調子でないのだろうという事はわかるし、この場はおとなしくアレディさんに母さんの所まで連れて行ってもらうのが一番だと、私は思った。
すぐに、ちょっとだけど後悔してしまったけれど。



 私が寝かされていた部屋を出て少し歩いたところにある別の部屋に、私達は案内された。アレディさんがドアをノックして入室の是非を問う。

「ネージュ姫殿。フェイト殿をお連れしました」

 するとなにやら慌ただしい音がドアの向こうでしたと思うと、すぐにドアが開かれてとても綺麗な女の人が顔を見せた。
 たぶん、アレディと同い年くらいで、おへそと腋の下が覗き胸の形がはっきりとわかる小さな白いタンクトップとほとんど足の付け根まで露出しているふんわりと広がったスカート姿だ。
 空の青を映し取ったみたいにきれいな瞳の青。アレディさんや私、ミッドチルダのたいていの人間の耳とは異なる先端の尖った耳を持っている。
この人がネージュという女性なのだろう。それにしても、姫、とアレディさんが呼んでいるから、この世界の王族か何かの関係者なのかもしれない。
 そんな人と知り合いという事はアレディさんも、ええっとシュラ? という種族か集団の中でかなり偉い人なのかもしれなかった。
 ドアを開いて私を連れてきたアレディさんをしばらく見つめていたかと思うと、ネージュさんはため息を吐き、この修練馬鹿は、と呟いた。アレディさんはなんのことかわからずに眉を顰めている。
 原因はアレディさんが私を連れてきた方法だと思う。
 アレディさんは特に意識していないようだけれど、アレディさんは私をたくましいその両腕で抱きかかえて、此処まで連れてきたのだ。俗に言うお姫様だっこ、というものらしいと後で教えてもらった。
 初めて会った男の人にここまで近づいたことはいままで私の人生ではなかった事だから、正直とても恥ずかしかったけれど、アレディさんがまるで気にする素振りがなかったので、私だけ変に意識するのもおかしいと黙っていたのだ。
 ただネージュさんの反応からすれば、やはりこの運び方は普通ではないのかもしれない。ネージュさんがじとっと呆れた目で見てくるのに、アレディさんは自分に不手際があったのかと、困惑している様子だった。

「あの……母さんは」

 だからというわけではないけれど、私はアレディさんにとって助け舟となるように、母さんの容体について口にした。
 それまでアレディさんを睨んでいたネージュさんも、私が母さんの名を出すと表情を改めて少し、悲しそうにする。その表情だけでネージュさんの治療が失敗したという事がわかった。

「……まだ眠っているわ。様子を見る?」

 こくん、と私は頷き、アレディさんに横抱きにされたまま室内へと入る。私が寝かされていた部屋とまるきり同じ部屋だった。窓際に置かれた透き通った花瓶に白い花が一輪揺れている。
 母さんはベッドの上でまるで息をしていないかのように深い眠りについているようだった。その枕元の机に水差しのほか薬湯らしい緑色の液体が入ったコップや、薬草らしい葉っぱが置かれていた。
 アレディさんは母さんの枕元まで進むと置かれている椅子の上に私を下してくれた。体を乗り出して母さんの顔をのぞきこめば、げっそりとやつれ果てて血の気が引いて青白く変わった母さんがそこにいる。
 かろうじて呼吸の音が聞こえるくらいで、他に母さんが生きているという事を証明するものは何もないように思えてしまって、私は思い切り頭を横から殴りつけられたような不安感に襲われた。

「母さんの、体、容体はどうなっているんですか?」

 もつれそうになる舌を何とか動かして、私の後ろに立つネージュさんに聞く。私が望む言葉が返ってくるはずはないと分かってはいたけれど、母さんは大丈夫だと、私はどうしても言って欲しかった。
 必死な私の様子にネージュさんは口を開いては閉じる事を繰り返して、事実を告げることを躊躇った様だった。ああ、そういう事なんだと、心のどこかで私の諦めた声が聞こえる。
 ネージュさんは何も言わずに小さくその美しい造作の顔を左右に振る。

「ごめんなさい。出来るだけのことはしたけれど貴女のお母さまのご容体は思わしくないわ。意識を取り戻すかどうかも」

「……母さん」

「……お前は、私の娘じゃないわ」

「! 意識が」

 単なる偶然だろうけど、母さんは私の呟きと同時に意識を取り戻したようだった。顔色は悪く呼吸はか細い。病状が好転したわけではなさそうだけれど、もう一度母さんの声を聞く事が出来て、私は胸が熱くなるのを去られなかった。
 私の後ろでネージュさんが驚きの声をあげたけれど、私にはそんなことはどうでもよかった。母さんは忌々しげに私を睨みつける。やはり、私の事は……。

「……よくもよくも私が眠っている間に、アリシアを!!」

 どうしてか分からないけれど、母さんはアリシアが弔われた事を知っているようだった。生体ポッドの反応がないことを確認したのか、アレディさん達の会話を耳にしたのか、あるいは誰も知らないときに意識を取り戻し、アリシアが弔われるのを目撃したのかもしれなかった。
 怒りのままに言葉を吐く母さんの瞳にはどす黒い炎が燃えていた。体の調子がもう少し良かったなら、おそらく激情に駆られて攻撃魔法を行使し、この場にいた私達を殺そうとしただろう。
 視線だけで人を殺せる。そう確信させられる瞳で母さんは私やアルフ、ネージュさんにアレディさんを睨みつける。
 私達の事情を知らないアレディさん達はさぞや戸惑ったことだろうけれど、母さんの様子からただ事ではないと悟ったことだけは分かった。

「プレシア殿、残念ですがすでにアリシアという少女は亡くなっていました。しかしながら、どのような事情があるとも知らぬ間に良かれと荼毘に付した事に関しては、私にはこの通り謝罪することしかできません」

 アレディさんは沈痛な面持ちに変わって母さんに向けて深く腰を折る。けれど、それは母さんにとっては何の慰めにはならない。

「うるさい、うるさい!! 何も知らない小僧が!!! だから、私はアリシアを生き返らせようと、アルハザードを目指して、こんな人形を作って、こんなはずじゃなかった今を否定するために……ぐ、げほ、はあ、はあ、はあ……っく」

 意識が目覚めたばかりだというのに声を荒げたせいか、母さんはとたんに噎せ返り苦しげに咳を繰り返す。アレディさんが一方的に罵倒されていたことに不快そうにしていたネージュさんも、慌てて母さんの方へと近寄ってくる。
 私も、母さん、と叫びながら身を乗り出すけれど返ってきたのは拒絶だけだった。

「触らないで!! アリシアの姿をしているくせに、アリシアでないお前なんかに」

 その言葉に伸ばした私の指は硬直し冷たくなる。体が凍りつくか、石にでも変わってしまったかのような錯覚。分かっていた事なのに。母さんが私を嫌うどころか憎んでさえいる事は。
 何も言えずに固まってしまう私の肩に、そっとネージュさんの手が置かれた。そのまま促されて私は母さんの部屋を退室する。
 咳が止まったのか、母さんは暗い感情しかない瞳で再び私達を力強く睨みつけている。近づくことも、触れる事も、絶対に許さない。瞳がそう代弁していた。

「お母様が落ち着くまで、部屋に戻って休みましょう」

 優しいネージュさんの言葉に私は頷くしかなかった。
 やっぱり私はアリシアの代わりにすらなれないとか、いろんな言葉が頭の中で渦巻いていて、私は気がつくと寝かされていた部屋に戻っていて、アルフがいろいろと面倒を見てくれるのをぼんやり理解しながらその日、眠りに着いた。



 母さんの容体は幸いというべきかそれ以上悪化する兆候は見られなかった。
翌日の朝、私の体調に配慮したのか、淡白だけれど口当たりのいい食事を運んできてくれたアルフと一緒に取った後、ほとんど包帯の取れたアルフとアレディさんにあるお願いをした。

「私に、母さんの面倒をみさせてください」

「私は反対だよ。そんなのフェイトがつらい思いをするだけだよ。フェイトには悪いけどあの鬼婆は自業自得だ」

「アルフがそう思うのも仕方ないとは思うよ。けどね、こればかりは私も他の人には譲れないの。アレディさん達がくれた薬のおかげで傷もすごく治っているし、私の体の方はもう大丈夫」

 シュラという人達は日常的に命がけの戦いを繰り返してきた種族らしく、戦闘での傷を治す医療技術や薬品などは、そのほかの文化水準に比べると発展しているみたいだった。私に使われた薬はとても良く効いている。

「アレディからもなにか言っておくれよ!」

「…………」

 アルフの期待を裏切るように、アレディさんは両腕を組んで口を閉ざしていた。この時は知らなかったけれど、これも修練、と師匠であるシンディさんから私達親子の面倒を任されていて、真剣に私の言葉を吟味していていくれたのだと後で分かった。

「ああもう、このムッツリチョンマゲ! こんな時に黙りこくって」

「アルフ、アレディさんは恩人なんだから悪く言っちゃだめだよ」

 口では悪く言っているけど、アルフが本気でアレディさんを怒っているようには思えなかった。まだほんの数日の付き合いだけれど、アレディさんやネージュさん達はアルフや私に本当に親切にしてくれている。

「フェイト殿。私は、未熟者ゆえに人の心の機微を察することに長けておりませんが、貴女たち親子の間に言葉では語り尽くせない複雑な事情がある事だけはわかります。そして貴女が決してあきらめないという事も」

「はい」

「良い眼をしておられる。私から言う事はありません。気の済むようになさると良い」

「ちょっと、アレディ!?」

「ありがとうございます、アレデイさん」

 アルフはアレディさんが許可してくれた事が納得いかずに、胸ぐらを掴みかかりそうな勢いで食ってかかる。それだけ私の事を心配してくれているという事なのだろうけど、流石に恩人にそんな態度を取るのはよくない。
 私がアルフに注意しようと口を開いた時、なにかアレディさんがアルフに伝えると、とたんにアルフから勢いが失われた。耳としっぽも力なく項垂れたのだから、なにか重要な事を言われたに違いない。

「アルフ? どうしたの」

「な、なんでもないよ。……ほんとは、ほんとはすごく嫌だけど、フェイトがそうしたいって言うんなら私からは何も言えないよ。フェイトはいつだって決めた事は絶対にやりとおすからね」

「ごめんね、アルフ」

「そこは……ありがとうの方が私としては嬉しいね」

「うん、ありがとう、アルフ」

 アルフにお礼を伝え空になった食器をお盆に載せてから、私はベッドから降りた。食器を片づけがてら、ネージュさんの所に顔を出して母さんの面倒をみる事を伝えるためだ。
母さんは私に面倒を見られることを嫌がると分かってはいたけど、母さんのためにできる事があると考えると、私の足は止まる事を忘れるようだった。
そして私はアレディさんがアルフに告げた言葉の内容がなんだったのか、という疑問をすぐに忘れてしまった。
それが――

『プレシア殿はもう長くありません』

 という内容であった事を知らずに済んだ事が幸か不幸だったのか、後になって聞かされた時も、分からなかった。



 私が母さんの面倒をみる事になってから、薬と食事を運び、着替えを手伝い、動かせない母さんの体を清めて、ネージュさんやアレディさん、それにアレディさんの先生であるシンディさんがハキやこの世界の魔法で治療を試みるのを見守り続けた。
 もうほとんど体を動かすこともできない母さんは、私に世話をされることに声を荒げる体力もないのか、ひたすらに力の込められた瞳で私を睨み続けていた。
 私は、心の奥底まで刺し貫くような母さんの視線を毎日浴び続けながら、懸命にできる事をした。アルフは時折何か言いたそうにする素振りを見せたけれど、黙って私の望むままにさせてくれている。またお礼を言わなければならないだろう。
 母さんの容体は突然悪くなるようなことはなかったけれど徐々に悪化しているのは、誰が見てもわかる事だった。まるで穴のあいたバケツから、少しずつ水が流れ出るみたいに、日に日に母さんは死の旅路に向けて歩き始めている。
 母さんが死んでしまう。
 私の目の前から永遠にいなくなってしまうのだと考えると、たまらず目と鼻の奥がツンとしだして、ぽろぽろと涙が溢れてしまうけれど、私は母さんの前では頑張って笑顔であり続けた。
 何も言わない、いや、言う体力も残っていない母さんの面倒を見続けて一日を終える日々が一週間ほど続いた。
 どんな異世界であっても綺麗な青空の広がる朝というのは気持ちが良いのは変わらないようだった。部屋の換気のために窓を開き、冷たく心地よい風がカーテンと私の髪を揺らす。
 母さんの枕元に置かれている花瓶の花を、今日の朝一番で摘み取ってきた新しいものに帰る。シュラの人達が住んでいたハコクという国に自生していたとてもたくましい花だそうで、青い涙滴の形をした七枚の花弁が鮮やかに広がっている。

「今日もいい天気だね、母さん」

 いつもとおなじ、私だけが話しかけ、母さんは答えずに視線を背ける。そう、思っていた。

「…………本当に馬鹿な娘ね、お前は」

「え?」

 一週間ぶりに聞いた母さんの声に、私は言葉の接ぎ穂をなくして呆然と立ち尽くす。窓を開いた場所から動けず、顔を母さんの方に振り向けたまま私は固まる。
 私の視線の先で母さんはほとんど死人の顔色で、私の方を見ていた。
 穏やかな口元、険の取れた眼差しをした母さんを直接見たのは私にとって初めてのことだった。いつも何かに焦り、苛立っていた母さんしか私の記憶としては知らないのだ。

「母さん!」

 母さんが私を見てくれている、読んでくれているとようやく理解した私は、思わず母さんの枕元へと駆け寄って跪いた。
 そんな私を母さんは静かな瞳で見ていた。

「……っ」

 母さんは体に走った痛みにか表情を歪めた。やっぱり体調はよくない。私は反射的に立ち上がってアレディさん達を呼びに行こうとした。

「すぐにアレディさんかネージュさんを呼んできます!」

「……ここに、いなさい」

「でも!」

 私を制止する母さんの声に私は振り返り、掛け布団から零れた母さんの腕に気付いた。一度も私を撫でてくれた事のない手。鞭に変化したデバイスをふるい、私を何度も打った手。
 その手は今や骨と皮とばかりに痩せ細っている。私よりもずっと小さな子供でも簡単に折ってしまえそうな、まるで小枝の様な手だった。看病する日々の中であっという間に細く小さくなっていってしまった母さんの手。
 私は思わず涙ぐむ。
 震えながら母さんの手は私に向けて伸ばされた。
 私がその手を包み込むよりも早く、母さんの手が私の頬を触れる。冷たい指だった。それでも母さんが私を叱責する以外で初めて触れてくれた。

「あ……」

「本当に、馬鹿な娘。私の事なんて、さっさと見捨てて忘れてしまえばよかったのに……」

 頬に触れる母さんの指を私は宝物を扱うようにそっと包み込んだ。ずっと昔から母さん以上に大切なものは私には無かった。

「そんなのむりだよ。だって、私は、母さんの娘なんだから」

 私の声は震えていた。母さんの声が優しかったからだ。はじめて母さんが私にほんのわずかだけれども優しさを向けてくれた事が、何よりもうれしくて、どうしようもないくらい幸せな気持ちになって、涙がこぼれるのを止められない。
 母さんは私の言葉を聞くと、ふっと力を抜いて柔らかく微苦笑した。

「そう、ね。どうして、そういうところはアリシアじゃなくて……私に似たのかしらね、お前は」

「母さん」

 母さんは一つ息を吐いた。たった数言しゃべるだけでとても疲れているようだった。これ以上、母さんに喋らないように伝えるべきだったのだろう。けれど私は憎悪の込められていない母さんの言葉をもっと聞いていたくて何も言えずにいた。

「フェイト……貴女はもう、好きにしなさい。好きなように生きて、そして……」

「母さん?」

――幸せになりなさい。

 それだけ呟くと母さんはもう何も話してはくれなかった。二度と閉じた瞼を開く事もなかった。そうして母さんは眠るようにして息を引き取った。



 ハリュウの塔の北西にある名もなきシュラの人達が眠る墓所に、母さんとアリシアのお墓は作られた。母さんが亡くなってから毎日お墓を綺麗にして、花を添えるのが私の日課になったのは言うまでもない。
 アレディさん達は何もできなかったと私とアルフに詫びてくれたけど、私からすれば感謝の気持ち以外には何もなかった。ましてやアレディさん達はそのまま私達の面倒を見てくれるとまで申し出てくれたのだから。
 他に頼るすべもない私とアルフとバルディッシュは、申し訳なさを感じながらハリュウの塔でお世話になり続ける事となった。
 私とアルフは時々シュラの人達と一緒に狩りに出かけたり、広いハリュウの塔の掃除を手伝ったり、シンディさんが月に一度楽しみにしている甘味を買いにお使いに出かけたりと、大したことはできなかったけれど。
 そんな日々が続き、一か月が経過した頃、時々お買い物に行くマーカスタウンの代表である猫の獣人カッツェさんとフォルミッドヘイムという遠い国の軍人で有翼人のヘンネさんという、アレディさん達の知り合いの人達がハリュウの塔を訪れた。
 なんでもアレディさんやネージュさん達とは一緒に旅をした事のある仲間みたいで、シュラの代表であるシンディさんとアレディさん、それに妖精族のお姫様であるネージュさんとは国同士の重要な話がある時などに頻繁に連絡を取るためにお互いに行き来しているらしかった。
 カッツェさん達がハリュウの塔を訪れたのは、フォルミッドヘイムの特殊部隊であるオルケストルアーミーに新人が入り、かつての仲間たちに紹介して回っているところでアレディさん達にも紹介するためにハリュウの塔に立ち寄ったのだそうだ。
 そこで私は車椅子に乗ったある少女と出会った。
 私と同年代の女の子は柔らかだけど特徴的なイントネーションと優しい微笑と共に、私に自己紹介をする。

「オルケストルアーミー見習い炊事係の八神はやて・グラナーダと言います。はじめまして」

 これが、なのはに続く二人目の私の友人、八神はやて・グラナーダとの出会いだった。

「仲良くしてな、フェイトちゃん」



――つづくかもしれないしつづくかもしれない。

これは、本当にムゲフロとのクロスオーバーなのか? と正直首を捻ったのはここだけの話。
一人称は心理状態を説明するのにはよいですが面倒くさいですね。
書いていて思ったことは、ムゲフロの戦力じゃ闇の書の闇がどうしようもなくね?
主に空が飛べるかどうかとサイズ的な問題から。
ではでは、ご感想ご指摘ご助言お待ちしております。次はとなりのダイノガイストの更新じゃあーーーーー!

PS
士郎の木刀の銘についてご提案頂きありがとうございます。真剣に検討させていただいております。



[11325] その12 カオスウォーズ(ガングレイヴOD)
Name: スペ◆52188bce ID:e0398f80
Date: 2010/06/10 20:58
――SRPG【カオスウォーズ】より

 リアライズ。本来持つ力を呼び出す、或いは引き出す事。異世界エンディアに召喚されたが故に行わねばならぬ行為。
 両腕に絡みつく鎖とその先に吊るされた棺桶の質量がズシリと感じられた。骸骨の姿を晒す死神が掻き抱いたかのごとき異形の柩の側面が上部に向かい二つに割れ、その内部に収められた二丁の巨銃を、己の手の内に納める。
 魔銃ケルベロスシリーズのファーストとセカンドバージョン。子供の二の腕ほどもある、異常に巨大な漆黒の銃身に銀と紅の十字を嵌め込んだ、冥府の番犬の左右の首。
 『デス・ホーラー』、『ライトヘッド』、『レフトヘッド』。己が力の象徴を手に、グレイヴは眼前の旧敵を睨む。銃弾と銃火によって負った傷を隠す左目にだけはめ込まれた漆黒のレンズの奥、言葉無き死人は、視線で語っていた。

「グレェェェーーイヴッ!!」

 冥界の奥底から死者が限りない怨念を持って、仇敵の名を叫べばかくあらんか。鍔広の帽子の下、かつてグレイヴに砕かれた顎を支える金属の頤の奥、奈落にも似た口腔から、ファンゴラムは叫ぶ。
 求め続けた怨敵の名を。憎み続けた仇敵の名を。今目の前に立つ裏切り者の名を。
 二メートルを越す漆黒の十字が、その先端をグレイヴに向ける。ケルベロスシリーズラストバージョン『センターヘッド』。グレイヴの持つ魔犬の、左右の首を凌駕する中央の首。
 ミレニオンの狂いし科学者達が嬉々として造り上げた異形の銃。ファンゴラムを死人最強の攻撃力の主と言わしめる鋼。青白い死人そのままの肌に纏う、暗黒色のコートは悪魔の翼のように風にはためく。
 対峙するグレイヴは、紅の鉄片を打ちつけた黒のジャケットを叩く砂塵を気に求めず立つ。周囲ではオーグマンを相手にウルが、カーマインが、ヒョウマが、モニカが、この世界で出会った仲間達が闘っている。
 砂塵逆巻き、岩山が聳え立つ砂漠。異形と化した生者を率いて、死人は死人の前に立ち塞がった。
 両手で保持したパピーファングを立て続けに撃ちながら、ミカが叫ぶ。

「グレイヴ!!」

 風が、吹いた。そして、風が孕んだ砂を、銃声と銃弾が撃ち抜いた。最初の魔銃の咆哮は、グレイヴの持つ左右の首から放たれた。常人では、例え鍛え上げた屈強な人間でさえ扱いきれぬ超規格外の銃が、その反動を持ってグレイヴの両腕の拘束から放たれんと暴れ狂う。
 しかし、グレイヴの腕は揺らがない。石像と化したかの如く不動。凶暴な唸りを上げる魔銃共を屈服させ、眼前の死人へとその咆哮を上げさせ続ける。両者の間に存在する空間を、ライト、レフトの両方から迸る火線が埋め尽くしていた。
 だらりと提げていた巨銃の、死を吐き出す銃口を向けた速度はさながら閃光。引き金を引く指の速さは言語に絶し、フルオートファイアリングの機関銃に迫る速度を叩きだしていた。
 “メトセラの種”により超絶の再生機能を有するオーグマンさえ屠る魔弾が、一続きの災厄と化してファンゴラムの全身を着弾の炎で彩った。銃口から雄々しく吐き出される銃火は照りつける太陽に勝り、砂の大地にグレイヴの影絵を刻々と刻む。
 金色の帯のように空中に流れ出る薬莢が、ようやく地に落ちた時、ファンゴラムの魔銃が動いた。ファンゴラムの全身は、着弾の衝撃と淀むことない超速の連射に晒されてコートのあちこちから火を噴いていた。
 ああ、そしてその全身を包む炎の奥に燃え滾る憎悪の炎の苛烈さよ。咎人を焼く終末の炎を思わせる、その輝きの凄まじさよ。
 耳を劈く魔犬の左右の首の咆哮を、耳障りだと言わんばかりに中央の首が吼えた。まさしくそれは魔銃の咆哮。
 冥界の道を行く死者が聞いた冥府の門を守る番犬も、これに等しき咆哮を揚げて、神の子を迎え撃ったのだろう。
 ただ一度の銃声が、それまで無数に放たれていた銃声をかき消すとは。大気は鳴動し、それが過ぎ去った後には暴虐の嵐が吹き荒れたかのごとき爪跡を残すのみ。
 魔銃ケルベロスシリーズ最凶最後の首“センターヘッド”。その威力の凄まじさよ。ケルベロスシリーズは死人の使用を前提に開発された銃器だ。生者ではなくなった彼らは、生者が、自然に備える神経の設けたリミッターがなく、筋力の抑制を受けない。
 自らの肉体を壊しかねない人体の潜在能力を完全に発揮し、更にネクロライズによって与えられる超人的な身体能力と再生能力とが、従来の、『生きた人間の使用』という枠に留まらない兵器の開発を可能としたのだ。
 グレイヴの棺桶は、ネクロライズ計画の主要メンバーだったDr.Tの手になるものを、更にスパイクという新たな仲間が改良したものだが、ライトヘッドとレフトヘッドは元のままだ。
 片手で扱うにはあまりにも重い重量、人が扱うにはあまりにも巨大な反動、そして人以外の何者かを相手にすることを前提としているとしか思えない大口径。
 これら異形ともいえる銃を扱いうるのは、最強の死人兵士と称されたグレイヴならではだ。
 だが、殊攻撃力と言う一点に関しては、グレイヴを上回る死人兵士が存在した、それがファンゴラム。
 グレイヴでさえ扱えないセンターヘッドを使いこなす死人。かつてグレイヴに顎を砕かれ、同胞たる死人を同じ死人であるグレイヴに奪われた男。
 今、ファンゴラムは絶大なる歓喜の元、憎悪の弾丸を、魔犬の中央の首より吐き出さんとしていた。
 トリガーを引く指、落ちる撃鉄、銃口より放たれる巨弾。それに込められる生ける死人の怨念、憎悪、妄執。
 それとほぼ同時に、周囲で戦っていたヒョウマやミュウ、リィンが雷に打たれたかのように体を震わせた。
 グレイヴの魔銃は、耳を劈き腹に響く銃声だが、ファンゴラムのセンターヘッドは聞く者の全身を衝撃波となって打つ巨音なのだ。
 己に歯向かう、同胞が吐き出した銃弾をすべて蹂躙し、跳ね飛ばし、屈服させ、センターヘッドの巨弾は走った。実に大人の頭ほどもある常軌を逸した、それこそ戦車の複合装甲さえ紙の様に貫く常軌を逸した弾丸であった。
 グレイヴが一瞬前まで居た空間を穿ち、通り過ぎ、その背後にあった岩山の基部に直撃し、あろうことかそれを崩壊せしめた。
 例えグレイヴが、ネクロライズ化による超常の再生能力を有していようとただ一発の弾丸で戦闘不能となる、それがセンターヘッドであり、ファンゴラムという敵なのだ。
 グレイヴは恐れもなく怯えもなく、気負いもなく、ただ静かにファンゴラムを見つめた。静謐さだけをたたえる隻眼に、戦意の炎を灯して。
 十字の様に左右の腕を交差させ、誓いを立てるようにライトヘッドの銃身を立てる。新たな死者に対し、冥福を祈る冥界の使いのように。その使いを何と呼ぶか。
 ファンゴラムは、センターヘッドの余波によって炎が吹き飛んだコートの裾を翻して、再びグレイヴへと魔犬の首を向ける。
 翻ったコートの裾が、まるで何か忌まわしい生き物の翼のようだ。その生き物を何と呼ぶか。
 死神 対 悪魔 。この世ならざる者達の魔戦は、静かに、狂おしく、始らんとしていた。 銀の十字が煌めく、紅の十字が閃く。魔銃を交差させ、全長60センチに及ぶ超規格外の銃身から人外さえ屠る弾丸が奔る。引き金に掛かった指は電光の速さで動いた。
 銃口から迸る長大な銃火は続く衝撃に揺れる。ファンゴラムの分厚く、死体を思わせる青白い胸板に新たにボッとくぐもった音を立てて空いた穴が6つ。
 いまだ全身から打ち込まれた弾丸が、新たに生まれる肉に押し戻されて砂に落ちている所だ。たちまち青白い光と共に修復してゆく傷を、新たな傷が埋め尽くすべく、穴を穿つ。肉を裂く。神経を千切る。
 途切れる事ない銃声が、金色の流れがライトヘッドとレフトヘッドから吐き出され続ける。眉一筋動かず引き金を引き続けるグレイヴ。さながら殺戮の機械と化したかのように動きがない。
 巨銃の反動に揺れる以外に動くのは、引き金を引く指のみ。
 憎悪を吐き出し、瘴気を滲ませる以外に動かなかったファンゴラムが動いた。異形の大十字を振り上げ、左手をその下に支えるように添えて、狙いはグレイヴ。二射目のセンターヘッド。
 膝から下を、センターヘッドの反動を支えるスパイクに変えた右足が、直角に回転し、三本のスパイクを砂地に突き立てて射撃体勢へ。この間、コンマ一秒。
 グレイヴの銃撃が止まり、すかさずセンターヘッドの巨弾を避けるべく跳躍へと移る。
 左右の首を嘲笑うかのごとき苛烈、熾烈、強大な魔犬の咆哮。巨弾が過ぎ去った後に発生した衝撃波がグレイヴの巨体をあおり、跳躍に加えて長く、砂地を滑った。
 そしてグレイヴは砂地に墜落するまでの間に、左右の首は16発の弾丸をファンゴラムに叩き込んでいた。
 心臓の真上10センチ以内に着弾した衝撃に、ファンゴラムの左半身が大きく反る。バランスを崩されたファンゴラムがセンターヘッドの三射目の照準を狂わせて、彼方の方向に魔犬の咆哮が上がった。
 跳躍している間の一秒以下の時間に16発の連射を見せたグレイヴも全く同じ時間で、二メートルを越すセンターヘッドを手足の延長のように振るい、照準を定めて引き金を引いたファンゴラムも、共にヒトではない。人の姿をした魔物だ。
 それも当然だろう。彼らは絶対なる“死”さえ超えて墓場から蘇ってきた者達なのだ。
 それが生者の論理に収まる道理があろうか? 否、ゆえに彼らの闘いはこの世で行われながらも、この世のものではない闘いなのだ。
 横っ飛びの体勢で砂に体を投げ打ったグレイヴが、それとほとんど同時に片膝を突いた姿勢になり、
 両腕に鎖で吊るした棺桶――デス・ホーラー――を肩に担ぐ。その棺桶が縦に割れ、その中に収めた死を生む鉄を送り出す。
 死者を導くのではなく、死者さえ葬り、新たな死を与える死神へ。
 ランチャー用のトリガーグリップを握り締め、左手で抑えつけながら、砂のヴェールを射抜く鋭い眼光はファンゴラムへ。
 ファンゴラムもまた気付く。闘気も殺気も、そもそも気配そのものがない死人兵士の殺気を感知したのは、同じ死人兵士ゆえか。それとも怨敵を求める復讐鬼ゆえか。
 センターヘッドの超重量と自身の巨体からは、信じられない身のこなしでファンゴラムはその場を回避し、近くにあった岩山の背後へと回る。
 直後、数瞬前までファンゴラムが占めていた空間を爆炎と爆風が吹き飛ばし陵辱する。
 乾いた大気を舐め尽す炎の舌と、熱を孕んだ風に視界が閉ざされ、両者共に互いの姿を見失う。そう、姿は。

「グゥゥゥレェェイイイイヴゥ! おぉ前ぁあえはぁぁぁ、絶対にぃぃ許ざないいー!!」
 憎悪と妄執と怨念とが化学反応を起こしたかのごとくファンゴラムを突き動かす情念。
 姿は見えなくとも怨敵を見逃すはずなどなく、岩山に向けてセンターヘッドの銃口を向ける。
 吼えよや、魔犬の頭。冥界で死者の聞く咆哮の如く。黄泉の国を振るわせる遠吠えを今ここに木霊せよ。
 岩盤を突き崩し、突き抜ける咆哮。鋼の死弾はファンゴラムの憎悪の引き金と狂気の照準に従って直線を描く。
 そして崩れる岩山を、弧を描いて避け迫り来る8つの死の使い。 
 崩れる岩山の向こう、肩にデス・ホーラーを担いだグレイヴ。ただしファンゴラムに向けていたのはランチャーではなく、 側面部に内蔵されていたマイクロミサイルランチャー。
 ファンゴラムがグレイヴの位置を看破したように、グレイヴもまたファンゴラムの位置を感じ取っていたのだ。

「ゴアアアァァーー。死ぃぃぃねええええ!!」

 爆炎と砂塵が両者を包み込んだ。
 吹き荒れる。吸い込めば、その肺を焼き尽くす灼熱を孕んだ風が。炎の蹂躙を広げる爆風が。急速に広がる砂塵を、幾重にも重なる重低音と、鋼が突き破り奔る。
 センターヘッドの一弾を如何にやり過ごしたか、無傷のグレイヴが、右脇に抱えたデス・ホーラーの照準をファンゴラム目掛けて、勘に頼った盲目撃ちで合わせていた。
 棺桶の下部に設置された重機関銃が、長く太い薬莢をばら撒きながら次々と唸りをあげ続けている。
 グレイヴは、頬を焼く熱にも叩き付けるように吹き荒ぶ砂塵にも、眉一筋も動かさない。
 巨躯を揺らす重機関銃の反動を押さえつけながら、姿見えぬ旧敵を粉砕、否、滅殺、否否、消滅させる為に。
 不意に、グレイヴが眉間に寄せる皺をわずかに深くし、視線と銃口を上空に向ける。
 その先に、センターヘッドを構えたファンゴラム。あの巨体と超重量の装備で、まさか五メートル近く跳躍していたとは。
 空中でコートの裾が棚引く。宗教画に描かれるあの忌まわしき存在の、翼の様に。鍔広の帽子の下で、ファンゴラムの双眸が狂気と殺意の濃度を濃くする。
 引き金はそれを世に知らしめるための、ささやかなきっかけに過ぎない。

「グオオォォオァアアーー!!」

 幾度目か、世界を振るわせる魔犬の咆哮よ。怨敵を穿つまでは砕くまでは消し去るまでは飽く事無く、無限の妄執を持ってこの咆哮は轟くに違いあるまい。
 空中で身動きの取れぬファンゴラムに次々と着弾する重機関銃の巨弾。たいしてグレイヴは、後方に跳躍し、間一髪でかわした筈のセンターヘッドの一弾の余波に煽られ、
 大きく胸から下腹部にかけて真っ赤な血を奔騰した。ファンゴラムの邪念が宿った弾丸が、物理現象さえ捻じ曲げているのではあるまいか。
 たちまち、ネクロライズ計画による恩恵、再生能力が、グレイヴの傷を癒し始める。再生能力と肉体の維持には共に大量の血液が必要なのだが、
 このエンディアにおいてその欠陥は、なぜか無くなっていた。本来死人兵士の数少ない弱点であるはずの、血液の補充を必要としなくなったことで、グレイヴの不死性は格段に増していた。
 だが、それはファンゴラムもまた同じ事なのだ。センターヘッドの反動と、重機関銃の着弾の衝撃によって、背後の岩山の岩壁に叩きつけられたファンゴラムの傷は既に青白い光に覆われ、塞がっていた。
 グレイヴの両手に、電光の速さで紅の十字と白銀の十字が表れる。ライトとレフト、魔犬の残る二つの首は、同胞を携える死人へと向けられている。引き金を引きながら、
 グレイブが気付いた。ファンゴラムは、岩壁に激突したのではなく、センターヘッド発射の土台にする為に、わざと銃弾に身を任せ、不安定な空中でセンターヘッドを放った。
 そしてその勢いを利用して、岩壁と言う足場に『着地』したのだ、と。次のセンターヘッドの一弾を、確実に放つ為に。
 重なる銃声。ライト・レフトの放った無数の咆哮はファンゴラムの顔面に集弾し、センターヘッドの魔弾は、グレイヴ目掛けて外れえぬ軌道を描いていた。
 自らの頭部目掛けて放たれた弾丸に強かに打たれ、ファンゴラムの巨木の根のように太い首が仰け反った。
 焼ける鉄のように熱い風が、鍔広の帽子を彼方へとさらい、荒々しい縫い目が目立つ、毛髪のない頭部を曝け出す。
 足場代わりにした岩壁から、重々しい音を立てて砂漠に着地し、仰け反ったままだった首を、グレイヴのいた方向へと勢い良く振り向けた。
 ああ、その顔の醜悪さ、おぞましさよ! かつてグレイヴによって砕かれた顎は再生せず、赤黒い筋肉を曝け出し、上顎と下顎が開いたままだ。
 剥き出しの歯の周囲の筋肉と、本来なら皮膚に隠されるべき頬の筋肉が、むざむざと曝け出されている。
 なまじ、死体のように血の気がなく、青く黒ずんだ皮膚をしているだけに、その赤黒い肉とのコントラストは、グロテスク極まりなかった。
 ファンゴラムのたどたどしい喋り方も、これが一つの要因だったろう。
 吹き荒れる風にさらわれた帽子や、銃弾に破壊された顎を押さえていた金属製のカバーを気に留めることもなく、ファンゴラムは幾度目か砂塵に遮られた怨敵を求めて、怨念と憎悪と狂おしいまでの執着を瞳に宿して視界を巡らす。
 復讐は何も生み出しはしないと、時に人は言う。だが復讐は、己が復讐者であるという負の自己陶酔と狂気と熱意と力を生む。
 その過程には時に、悲しみと新たな憎悪の連鎖を作り出し、その果てに死と破壊と滅びをも。
 まるで汲めども尽きぬ泉の様に。それがある限り、人間から復讐と言う行為が無くなることはない。
 人間という存在が復讐という感情を捨て去るには、感情そのものを捨て去る他に術はないのではないか。そして感情を捨て去ったそれはおそらくもう、人間ではないだろう。
 そういった意味においては、死人兵士もまた、まだ“人間”であるのかもしれなかった。

「おおぉぉぉああああーーー!! グゥゥレエエェイヴ!! お前だげはあああ、俺がゴロジでやるウウウウ!!??」

 そして、グレイヴは。
 電光の速さで抜き放ったライト・レフトの両銃から放った弾丸の雨の大半を、ただ一発の、センターヘッドの巨弾に弾かれるのを確かに認めながら、回避運動には移れていなかった。
 それだけ正確なタイミングと精密な射撃を行うだけの技量を、ファンゴラムは有していた。
 かつてガリーノの配下についたファンゴラムと初めて相対した時のように、センターヘッドの一弾を受ける。受けざるを得なかった。かつてはただその一発で戦闘不能となったのだ。
 かつての様にライト・レフトのケルベロスの首で巨弾を挟み受け、盛大な火花が銀十字と紅十字に挟まれた、
 銃弾と呼ぶにはあまりに巨大な銃弾との間に生まれる。刹那の時を重ね続けて一瞬と成し、グレイヴはその巨弾を受けた。
 肉にめり込む鋼の熱く硬く鋭い感触。着弾の衝撃で骨が砕け血管を突き破り、
体内に納められた臓器を傷つけ、更に止まらぬ巨弾が己の肉を穿ち、尚も足りぬと、魔性の獣が獲物を貪るように進み続ける。
 肺を満たし、食道を逆流した血液が口腔から溢れて、口内を鉄の味と暖かい液体が満たした。
 砂地を零れた血液が赤黒く彩色し、砂地と言うキャンパスに色彩を彩る。
 そして、鋼の弾丸は朱に染まり、こびりつく肉片や粉末と化した骨を撒き散らしながら、グレイヴの背を抜けて背後の岩山に着弾して、崩落させた。

「グォガアアアアアーーー!!」

 ファンゴラムの狂乱は止まらない。次々とセンターヘッドを片手で振り回し、魔犬に制御なき咆哮を上げさせ続けている。
 四方八方の空間に轟く冥府の番犬の遠吠えが、時に味方のオーグマンさえ微塵に粉砕していた。
 その狂気と怨念と憎悪と世界全てを覆い尽くしても足りぬ狂念が、その瞳に怨敵の消滅する様を映すまでは、 決してファンゴラムの魂に安息を訪れさせはしないのだ。

「あ、あいつ無茶苦茶だよーー!?」

「やれやれ、手が付けられんな。どうするミカ。グレイヴは手を出すな、と言って……という雰囲気だったが?」

 ファンゴラムの物質と化すかのごとき、超濃密な怨念と狂乱に、カーマインの肩でティピが恐怖の色を浮かべていた。
 狂気に陥った敵に慣れているのか達観しているのか、ゲート・オブ・ヘヴンを肩に担いだヒロが、言っていたと言おうとして、グレイヴが喋れない事を思い出して言い直してから傍らのミカに問うた。
 ヒロ自身は魔剣を携えた狂剣士とか、冥界に囚われた罪人とか、無限の魔力と永遠の命と引き換えに心を失ったかつての仲間とかあたりで、 狂気に対する耐性ができたのかもしれない。
 他の仲間たちも、武器を握る手を休めていた。皮肉にも、ファンゴラムが辺り構わず打ち放ったセンターヘッドの魔弾が、最後のオーグマンを滅殺したのだ。

「大丈夫よ。グレイヴは絶対に負けたりしない。絶対に、裏切ったりはしないわ。私達の信頼を」

 ミカは、ゆるぎない信頼と確信とを伴って、そう返事をした。
 ファンゴラムの、センターヘッドを振り回す腕が止まった。自らに迫る静かな敵意に気付いたか。
 砂塵の作るヴェールが破けた。砂の母胎を破る血まみれの赤子の変わりに、漲る闘いの意志を熱く、熱く滾らせたグレイヴが表れた。クールな奴ほど、熱いものを秘めている。  
 ブランドン・ヒートと呼ばれていた時、彼をそう評したのは誰だったか。

「グウレエエェェイヴ!!!」

 それまでの狂乱が嘘のように、ピタリとグレイヴに合わされるセンターヘッドの銃口。グレイヴは決してセンターヘッドの一弾を無傷でやり過ごしたわけではなかった。
 見よ、右脇腹、腰の上から右肺下部までがごっそりと抉られていた。まさしくケルベロスの牙に食い千切られたのかのように。
 ほとんど脊椎の間近から、肺の一部、臓器をぶち抜かれ夥しい量の血を失いながら、グレイヴは駆ける。駆ける、駆ける!
 轟ッ、センターヘッドの奈落を思わせる銃口から吐き出される鋼の咆哮。
 有象無象震わせ砕く一撃は、グレイヴ目掛け容赦なき無慈悲の死の形として迫る。グレイヴはそれを回避した。死を超え、墓場から蘇ったものが死を恐れる道理があろうか? 
 グレイヴはセンターヘッドの弾丸目掛けてそのまま駆け続け、半身にずらした左肩を抉られながらもファンゴラムに肉薄した。
 左肩の肉が丸々、半球状に抉られ、サングラスのフレームが壊れて彼方に舞った。かつて親友の銃によって失った左目が、ファンゴラムの狂貌を捕らえていた。
 鎖を軋らせて、デス・ホーラーがファンゴラムの胴を打った。重々しい重量の高速の衝突に、ファンゴラムの巨体がくの字に折れ曲がる。
 デス・ホーラーの側部にある鋭い鋼の棘が、ファンゴラムの肉を貫いていた。ガチッという音に、ファンゴラムの眼が見開かれた。
 グレイヴの指が握るトリガーグリップ。その引き金が引かれた先に迸るのは?
 広がるオレンジの炎、空中に踊る薬莢、重く響く銃声。重機関銃から迸った銃弾が、ファンゴラムの右手首を粉砕した。
 粉々に砕け、赤い血と白い骨の破片と肉片とにばらけたファンゴラムの右手首から先が落ちた。そしてセンターヘッドも。

「貴ィイィィ様ァァァアア?!?!」

 ファンゴラムの左の巨腕が唸りを上げてグレイヴの右頬に叩き込まれ、その体を後方に吹き飛ばす。
 地に落ちたセンターヘッドを拾い、グレイヴを殺す。殺す殺すコろす殺スコろス、殺ジでやる!

「オォォデエェの腕があっ。グレイヴ、グレイヴ、グレイヴゥウ!!!」

 旋風のようにコートの裾を翻し、センターヘッドが今またグレイヴを捉えた。そしてそれは、あまりにも遅かった。
 ファンゴラムにわざと吹き飛ばされたグレイヴは、必要な距離を得た事を確認し、右肩にデス・ホーラーをかかえていた。表れる砲身。立て続けに引かれるトリガー。
 シュッという音と共に、ロケットの炎を噴きだして空中を走る鋼の流星、三基。ランチャーの三連射だ。
 感情はもはや人の持ちうる狂気の限界まで膨れ上がったファンゴラムも、戦闘に関する判断力は冷酷なまでに冴えたままだった。
 ただ荒れ狂う狂獣ではないのだ。この男は。
 センターヘッドでロケット弾を撃ち落す。落とすのは一基だけでいい。爆炎が残る二基を誘爆させるだろう。
 後は今度こそグレイヴを跡形もなく消滅させてくれる!! 
 グレイヴと己との間に直線の軌道を描くロケット弾目掛けて引き金を落とそうとした時、ファンゴラムは失策を悟った。
 ファンゴラムが狙いを定めたロケット目掛けて衝突する残り二基のロケット弾。意図的にロケット弾同士を衝突させ、爆発を狙い通りの場所に発生させる。
 グレイヴの狙いはそれだった。
 都合三基分の爆炎と爆風がファンゴラムを包み込み、炎の牙と風の爪が肉体を襲い狂った。立ち上る煙を裂いて、センターヘッドが、 くるくると喜劇の様に舞いながら、彼方の砂地に突き刺さった。
 いまだ爆炎の燃え盛る中、翼を広げた悪魔のような影が浮き上がる。両腕が崩れ落ち、傷の無い部分を探し出すのが不可能な程に傷ついてなお、憎悪の止まらぬファンゴラムであった。
 顔面の肉を焼かれてなお、ファンゴラムは叫んだ。怨敵の名を。
 
「グレェェェェイィィィブ………」

 炎と天上の太陽とに照らされ、砂漠に落ちるグレイヴの影、今それは巨大な二丁拳銃を構えていた。
 鎖で両腕に吊るしたデス・ホーラーが変形し、グレイヴの両腕に巨大な砲身を与えていた。
 それにライトヘッド、レフトヘッドの両銃を差込み、デス・ホーラーに施されていた骸骨の腕がはずれ、その奥のファンが回転し、唸りを最大に高める。
 銃口、いや砲口の奥に宿る荒ぶる凶暴な光。グレイヴの与える最大の死。最凶の破壊。最後の手向け。
            
             ――ケルベロス・OverDoes――

 落ちる引き金。放たれる光。引き裂かれる大気。轟く最後の音。今一つの終りが、確かに訪れるのだと、それらは告げていた。

「――――――――」

 ファンゴラムの断末魔は、光の中に飲み込まれた。終ったのだ。死人に訪れた二度目の死。跡形も残さぬ消滅という死。
それは果たして安らかなものであったか、それとも新たな苦痛をもたらすものだったか。
いずれにせよ、それはファンゴラムにしか分からぬものであったろう。

 傷の癒えたグレイヴが立ち上がった。目の前にミカ。自分の腹か胸位までしかないミカを、静かにグレイヴが見下ろした。
 “守ると言う事は裏切らないと言う事”
 かつて、ブランドン・ヒートだった頃に教えられたそれを、確かにグレイヴは守り続けていた。彼は裏切らなかったのだ。ミカの信頼を。

「……」

「うん。分かってる、まだ終りじゃないって事は。ガリーノも、他の敵もまだ残っているんだから。……行きましょう」

「……」

 グレイヴは静かに頷いた。仲間達が待っている。最後の戦いを迎えるまで、元の世界に戻るまでの間だが、
 それでも仲間である事には変わらない。グレイヴは闘う。守る為に。仲間を、ファミリーを守る為に。

おしまい
某エロパロ板にて数年前に投稿したものでした。



[11325] その13 にせの使い魔(バンパイアハンターD 双影の騎士 × ゼロの使い魔 オリ主)
Name: スペ◆52188bce ID:e0398f80
Date: 2010/06/10 21:14
   「にせな使い魔」(双影の騎士×ゼロの使い魔 オリキャラあり)



「……出来……不出来は……仕様が……ねえ」

 左右の肋骨のど真ん中から脊椎までを切断され、更には脳天から顎までを新たな一刀に割られ、おれの視界が朱に染まる。
 ああ、“おれ”が“おれ”を見下ろしている。畜生、やっぱりとんでもねえ色男だぜ。おれは血に濡れた唇を振るわせながら、口を開いた。
 おれと違って、どこまでも無愛想で無表情で愛想のねえ“おれ”に、餞別とはいかねえが、一言いってやりたかった。何たって“おれ”だものな。

「だがよ……やっぱり……愛は平等を……モットーにしたかった……ぜ……やっぱ……愛されてたのは……おまえ……か。
……なあ……せめて……おれと同じ目には……遭うな……よ。おれの分……ま……で……」

 世界が暗くなってゆく、冷たくなってゆく。ああ、もう何も見えやしねえ。世界は色を失い、温度を失くしてゆく。なるほど、これが“死”か。
 そんな感慨を抱きながら、おれは意識を手放した。ミアのねーちゃんの事が気になったが、まあ、死に行くおれにはどうしようもねえ。せめて人並みに幸せになれると良いが。


(……)

(…………)

(…………長いな)
 
(………………おいおい、死んでもおれに行く場所はないってか?)

 手放したはずの意識が残り続けている事に、首を傾げる思い出、真っ暗闇に覆われた視界を、それでも左右に動かそうと試みる。暗いままだった。死を意識したは良いが、意識をそのまま維持しつつけ、この真っ暗闇に囚われたままだった。これも『あいつ』の思惑通りってか。冗談じゃねえ。産みの親だからって死んでまで好き勝手されてたまるか!

(……天国におれが行くことは有り得ねえ、ならこか地獄か? いや、そうでもなさそうだ。……おんや、光か?)

 『あいつ』に対して憤っていたら、はるか遠くから眩しい、しかしどこか優しい光が差し込んできた。おれは、自分でもはっきりと分かる不敵な笑みを浮かべて、その光に手を差し伸べた。

*

 『サモン・サーヴァント』で、なぜか平民の男の子を呼び出してしまったルイズが、ミスタ・コルベールにやり直しを求めて、食いついている。私は、それをただ見るだけ。一応、ルイズの後に私の『サモン・サーヴァント』を行う番だから、できれば早くして欲しい。欲しいけれど、ルイズがどれだけ色んなことを我慢して、努力して、頑張っているか知っているから、私はそれを黙って見守る。ううん、見ているだけ。そんな自分が少し情けない。
 ルイズは、トリステイン王国の名門ヴァリエール家の三女で、王家とも遠縁の血筋に当たる。ロングの桃色の髪は緩やかに波打っていて、風にたなびく様子は、同姓の私でも見惚れてしまう。良く動く、猫を思わせる大きく意志の強い瞳は、今の失敗を取り戻すべくわずかに焦燥を交えて、ミスタ・コルベールに向けられている。手を入れるまでもなく整えられた柳眉や、つんと上を向いたすっきりとした小鼻。今は抗弁を紡ぐ唇も、あわやかな桜色が息づく可憐さだ。何気ない仕草にさえ古い歴史を経た貴族の気品が漂っている。田舎貴族の私とは段違いだ。
 ルイズとミスタ・コルベールのやりとりを、肝心の使い魔の少年は、ボ~っと眺めている。多分、状況が把握できていないのだろう。それにしても変わった格好だ。私は貴族の子息が通う、このトリステイン魔法学校の生徒の中でも、かなり平民に近い下級貴族だ。だから、普通の貴族よりは平民の暮らしをよく知っているし、つぶさに見てきた。それでも私の見知っている人々の服装には当てはまらない。まあ、単なる私の思い上がりかもしれないのだけれど。
 ガリアやアルビオン、ゲルマニア、私の知識の中の諸国の風土とも違う。顔立ちは、まあ人並みかしら? 黒い髪に黒い瞳。年は私達とそんなに変わらないと思う。16歳前後かな。きりっとしたら、もう少しかっこよくなるかもしれない。

 あ、ルイズが使い魔の少年に近づいた。多分、ミスタ・コルベールに言い含められて不承不承、『コントラクト・サーヴァント』を行う事にしたのだろう。傍から見ても、ものすごく不満そうである。少年なんか、突然の展開にしどろもどろしている。わあ、やっぱり幻獣や動物とちがってキスするのは、見ていても恥ずかしいなあ。
 そう、『コントラクト・サーヴァント』は、召喚した相手と口付けをかわす事で成立する。まあ、普通は人間以外の相手だから、カウントしないというか、そういう行為であるとは数えないのが普通だ。
 周りの生徒達は、平民だから『契約』できた、とか高位の幻獣だったら『契約』はできなかったとか、揶揄する声が続く。ルイズが凄い視線で彼らをにらみつけ、止めにモンモランシーと口論を始めた。本当にルイズは凄いと思う。私だったら、俯いて黙りこくってしまうに違いない。突然、少年が苦悶の声を挙げて苦しみ始める。多分『使い魔のルーン』が刻まれているのだろう。かなり痛そうだ。焼きゴテを当てられているかのような苦しみようだ。大丈夫かな?
 珍しそうにミスタ・コルベールがそれを覗き込み、少年は自分の体に起きた異変に混乱して声を挙げている。ん~確かに突然こんなことになったら仕方がないかな。ああ、先生、そろそろ私の事に気づいてください。

「おおそうだ。ミス・ヴォルクルス。君の『サモン・サーヴァント』がまだだったね。ミス・ヴァリエール、それに君、少し下がってくれたまえ」

 ほっ、忘れてはいなかったらしい。ルイズがごねる少年の耳を引っ張って連れて行く。痛そうだ。ルイズが、私の隣に来た時に、優しい声で

「頑張ってね」

 と言ってくれた。普段は張り詰めた雰囲気でどこか近寄りがたいルイズだが、優しい声や表情をするととても柔らかくなる。私は、こういう時のルイズが一番好きだ。ルイズの纏った鎧から覗く本当のルイズ。そういえば良いのだろうか、普段の頑固で意志の強いルイズよりもずっと愛らしく、透き通るような魅力に溢れている。
 よし、ひとつふたつ深呼吸をして、背をぴしゃりと伸ばしてずんずんと歩いてゆく。ルイズも『コントラクト・サーヴァント』を成功させたのだ。私だって!

*


 いよいよ光の眩しさが増してきた。ぐんと引っ張られる感覚。熱がおれの体内で滾っている。何だ? 肉体が再構成されているのか? “おれ”に断たれたはずの脊椎や顔に痛みはなく、流血もない。変わりに電流が流れるような痛みが体中に走ってはいるが。闇はいまやほぼ全てが眩い白い光へと変わっている。はっ、面白え! 鬼が出ようが蛇が出ようが、果ては竜だろうが悪魔だろうがぶった切ってくれる。
 おれはそう決意して、意識を光のど真ん中へと向けた。運よく拾えた命らしい。なら、好きなように使わせてもらおうか。そして、光はやがて収束した。
 唐突に、視界が広がった。いや広がったと言うよりは世界が変わったと言うべきなのか。おれの前には豊かな草原が広がっていた。遠くには石造りの城、というよりは城壁に囲まれた塔が見える。貴族のものなら見た目はアナクロでも、大陸の一つ二つは焼き払える超科学兵器が満載してあるだろう。頼んでもいないのに降り注ぐ、中天に座した太陽の日差しがおれのバイオリズムに悲鳴を上げさせるが、こればかりは仕方ねえ。血の業という奴だ。これでも他の同類からすればはるかにマシな症状だしな。
 他にも人間の連中。ほとんどは十代の少年少女だ。全員が黒いマントを羽織っていて、その下に着ているのも大抵白いブラウスや、女ならグレーのプリーツスカート、男はグレーか黒のスラックス。そろいも揃って大体同じ格好だ。こか学校か収容所か何かか? にしても誰一人として剣や槍、銃火器で武装していない。よほどの安全地帯か、辺境の、いまだ権威振るう“貴族”の奴隷か? 
 いや、そもそも死んだはずのおれがこうして肉体を得て息をしている以上、おれの常識に当てはまらない場所かも知れねえな。いつでも背の長刀に手を伸ばせるよう、意識を戦闘モードに変えておく。おれの抜き打ちはレーザーだろうが切って落とす。例え戦車砲の直撃に耐える重装甲だろうが同じ事だ。
 とりあえずもう一度目の前の人間共を見直すと、一人だけ背の高いお嬢ちゃんがおれの近くに立っている。頭部が寂しい眼鏡を掛けた中年のおっさんもいるが、ぽけ~っとした顔を浮かべてやがる。いや、おっさんだけじゃなくこの場の、おれ以外の全員がだ。ははあん、おれに見惚れていやがるな。まあ、その気持ちも分からなくはない。おれが“おれ”を見ても妖しい気持ちになるくらいだ。この世の範囲に収まる美貌の連中じゃあ、一たまりもないだろうさ。ふむ、美醜感覚は同じか。
 とりあえずこのままじゃラチが明かねえ。おれの目の前に突っ立ていたお嬢ちゃんに声をかけた。一番近いからだ。うなじを隠す長さの深い紫色の髪に、同じ紫の瞳。自信なさ気に垂れた目尻、なかなかに整った鼻筋と今は半開きの唇は、まあそこそこ人に見せられるレベルだ。背と胸はあるな。うむ、腰もくびれてやがるな。
 
 私は自分が呼び出したモノに目を奪われていた。いいや違う魂までも。それまでの皆同様に、『サモン・サーヴァント』の輝く光が収まった時、そこには背の高い男の姿があった。あったと認識したのも今ようやくだ。それは、言葉に表すことができると同時に、決してこの世の言葉で表す事のできぬ存在だった。あえて、私の知るこの世界の言葉を借りるなら、177サントある私よりも10サントは高い背丈で、体つきは逞しく、身にまとう黒衣はその下の鍛えられた肉体のラインを精密になぞっている。黒いロングのコートと波打つ長い黒髪。身に纏う全てを黒で多い尽くしたその姿。死の使いとして枕元に立っても、誰しもが恍惚と死を受け入れるだろう。この青年ならば。
 鍔広の帽子の下のその顔立ちは、ああ、古代の吟遊詩人が今ここにいたらどんな詩を吟ずるのだろう。私には言葉に出来ない。いかなる芸術の徒が彼の姿を、その美しさを形にする事ができるだろう。音楽も詩も絵画も彫像も、いいや、この世の何もかもが彼を表す事はできない。許されるのはただ一語“美しい”のみ。誰かが美しいと言う言葉以上に美しさを表す言葉を生み出しはしないかと、私は心から願った。そうすれば、死の淵までその言葉を囁き続けるのに。

「お嬢ちゃん、おれは誰かに呼ばれたらしいんだがよ。誰が呼び出したか知らないか?」

 ……アレ、ワタシッテコエヲカケラレタノカシラ? 目の前の青年が唇を動かし、どこか錆びを含んだ声を、からかう調子で言葉にした。後ろの方で誰かが倒れる音がした。あまりの美しさに感動のあまり気を失ったのだろう。ああ、くらくらとする頭をどうにかこうにかまとめる事に成功し――したと思いたい――、なんとか返事をしようと努力する。私の意識は、今間違いなくこの青年の為に何かをしなければならないと叫んでいる。

「ああああ、あのわわ私だと、おおお思います。ははは、はい」

 背後から凄まじい濃度の嫉妬の視線が突き刺さる。掴み取ろうとすれば手の中に残るほどに濃厚な。私の心臓がきゅんと音を立てて、縮こまる。うむむむ、ここでそのままでは困る。

「ほう。で、何の用事で呼び出したんだ? ろくでもない用事じゃねえだろうな」

 ! 青年の言葉に恐ろしいものが混じった。ほんのわずか、ささやかな量だ。一掬いの砂のようにわずかな。だが、それが私だけでなく背後の皆の背筋に電流を流させた。氷水の様に冷たく、電流の様に苛烈、燃え滾る炎の様に熱く、そして恐ろしい。青年以外の誰もが言葉を潜め、恐怖に怯え震えた。人間だけではない。それまでに呼び出された使い魔達のすべてが。
 私が、何とかしなければ。絶望に近い感情を抱きながら、私はささやかな反抗を試みた。うむ、我ながら意外に肝が据わっている。ははは、死を前にした自暴自棄か。

「……ここは、トリステイン魔法学校です。春の進級式に際し、二年生は『サモン・サーヴァント』の儀式を執り行い、ハルケギニアの幻獣や動物を召喚し、『コントラクト・サーヴァント』によって主従の契約を結ぶのです。今、私はその『サモン・サーヴァント』の儀式で」

「おれを呼び出した、か」

 青年はまじまじと私を見つめる。恍惚に支配される意識を、私はかろうじて繋ぎとめた。左手を顎に沿え、値踏みするような眼差し。私を舐めるように見ている。体が火照っているのがまじまじと分かった。体の奥深くから羞恥と興奮と欲情の熱が私を支配してゆく。ああ、始祖ブリミルよ、この罪深き女めに、眼前の美に抗うささやかな力をお与えくださいませ!

「……まあ、良かろう」

「え?」

 私を目を見つめなおし、青年はそう言った。私はそれがどういう意味か分からず、馬鹿みたいに聞き返す。青年は、ん? と眉根を寄せて言い直した。

「“良かろう”。つまりだ、お嬢ちゃんの使い魔とやらになってやるって言う意味だぜ。で。契約とやらはもう済んでいるのか?」

「えと、えと、えと、ままままだです。まだ『サモン・サーヴァント』を終えたばかりで」

「じゃあ、さっさと済ませな」

「……」

 それきり、おれの目の前のお嬢ちゃんは黙りこくった。人が催促してるってのに仕方ねえ。まあ、契約をOKしたのも目下、情報がないからだが。少なくともおれに与えられた知識にも、自分で得た知識にも、このお嬢ちゃん、――ミス・ヴォルクルスとか呼ばれてたか――の言った単語が完全に一致する場所も人名も単語もありゃしねえ。あれか、神隠しか? と思わないでもなかったが――。とりあえず、貴族の世界を造るなんちゅーのは中止だ。最悪おれのいた世界じゃあないって可能性もありやがる。どこぞの、かつて貴族が支配した植民惑星とかならまだ何とかなる可能性はある。少なからず貴族の超科学の名残くらいはあるだろう。
 何よりも大事なのは、確実に死んだはずのおれが、今こうして呼吸をしているってことだ。仮にそれがこのお嬢ちゃんに召喚されたおかげだってんなら、ま、多少の恩義は感じておいてやろう。衣食住と、情報が入るまでは偽りの主従関係くらいは結んでやるか。

「……」

 だってのに、お嬢ちゃんは指をモジモジさせて黙りこくってやがる。何躊躇ってんだ?

「あああ、あの、ココココ『コントラクト・サーヴァント』は、キキキキキキ、キスしないとなんですけど」

 はあん、照れてやがる。まあ仕方がねえ、おれの顔じゃあ、キスした瞬簡に心臓麻痺でいっちまう連中が続出しても仕方ねえ。

「頬にか? 手にか? 額にか?」

「くくくくくくく、口でしゅ」

「くっくっく、噛んでるぜ」

「……ででで、では。いただきます」

「はいよ」

 覚悟を決めたのだろう。お嬢ちゃんは、ごくっと息を呑み、確かな意思の光を、灰色の瞳に光らせる。ほお、思ったより可愛げのある顔だな。手に持っていた小ぶりな杖を一振りし、

「我が名はエウリード・ラ・デュラクシール・ド・ヴォルクルス。五つの力を司るペンタゴン。かの者に祝福を与え、我が使い魔となせ」

 あんま女らしくねえ名前だな、と思った時にはお嬢ちゃんの唇がおれのそれに重なる。若さだけに許される瑞々しさと芳しい乙女の香り。ひどく、おれの中の夜の一族の血を滾らせる。凶暴なまでにせり出す乱杭歯を思い切り、目の前の餌の肌につきたて、溢れる血潮で存分に咽喉を潤したい衝動に駆られる。それに身を任せても良かったが、まるで『あいつ』の血に負けたようで業腹なので、耐える。その超人的な自制力もおれならではだろう。
 うっとりとした眼差しで重ねた唇を離すお嬢ちゃんが、じっとおれの目を見つめている。辺境の連中なら恍惚とする意識の中に拭いがたい恐怖を覚える。おれの美貌の中に貴族を見るからだ。生者の血を啜り、眷属へとかえる呪われた生ける死者を。かつての支配者を。冷酷で優雅な、鮮血の魔物を。
 お嬢ちゃんの頭越しに、何人かの少女が性的な絶頂に似た声を挙げてぶっ倒れる。おれとお嬢ちゃんのラヴシーンにイッちまったのだろう。ま、仕方ねえ。

「あの、貴方の名前は?」

「おれか、おれは」

 それから、彼はにっと口角を吊り上げ、私にこう言った。その笑顔を、まるで美しい悪魔のようだと、私は幸福な夢に浸っているかのような心のままで思った。

「Dと呼びな」

 と、にせDは言った。

――つづく
風牙亭様にて投稿させていただいていたもので、オリキャラの設定をミスって一度挫折してしまった中編予定だったお話ですばい。
無精者な者でいただいたご感想やご指摘に返信をなかなかしておりませんがすべてのご意見に目を通させていただいております。木刀の名前のアイディアだしやゼロの魔王伝に関してもご期待いただけているようで感謝の極み。
頑張らせていただきます。これからもよろしくお願いします。



[11325] その14 魔界都市ブルース × リリカルなのはsts ③
Name: スペ◆52188bce ID:e0398f80
Date: 2010/06/18 22:29
リリカルおせんべい屋さん③

※今回はすこししか暴力表現がありません。菊地テイストに慣れた方には物足りないでしょうから読み進める場合はご留意くだっせ。



【見るべからず】

 次元漂流者“秋せつら”に関する陸士108部隊部隊長ゲンヤ・ナガジマ三等陸佐の報告書文頭より抜粋。



 後に“聖魔王”として数多の次元世界にその名を轟かせることとなる秋ヴィヴィオ、三和土に降りて靴を履いている父に問いたもう

「おでかけするの、パパ? ヴィヴィオも一緒に行く」

 地に落とされた影さえも美しき魔界都市の主、顔をあげて答えて曰く

「駄目。留守番よろしく。あとパパじゃない」

 まさに必要最小限といった返事をした。いちいちパパじゃないと返事をするあたり、ヴィヴィオにパパ扱いされるのは本気で嫌らしいが、これはせつらのあきらめが悪いというべきか、ヴィヴィオの方のあきらめが悪いというべきか。
 ともあれこんな感じでいつも通りの会話を交わしてから、せつらは三和土のドアノブに手をかけた。そこに、パパじゃない、と否定されることにすっかり慣れ切ったヴィヴィオが声をかける。
 せつらが病院に呼び出されて再会した時に比べてかなり精神的なタフネスが向上しているようだった。

「お留守番しておくから冷蔵庫にあるプリン、食べていい?」

「スプーンは流しに入れておくように。容器は燃えないゴミ」

 もともとヴィヴィオが食べたいとごねたので、仕方なくせつらが購入したプリンである。せつらに未練はなかった。

「やったぁ! パパ、いってらっしゃい。おみやげは? ヴィヴィオはケーキがいいなぁ、イチゴの乗った白くて甘いの!!」

 ショートケーキのことか、あれは日本発祥なのになんでここにもあるのかな? とせつらはせんべい屋の怨敵の事を考えたが、表には出さずにヴィヴィオの要望をばっさりと切り捨てる。ここらへんのヴィヴィオに対する扱い方には変わりはないようだ。

「おみやげを買うつもりはない。ケーキはせんべい屋の大敵だ。二度と口にしないでくれ。お腹が空いたら棚のせんべいでも齧ってなさい。あとパパじゃない」

「気をつけてね。あ、お昼までには帰ってくる?」

「適当に食べて帰ってくる」

「じゃあデリバリー頼んでいい?」

「好きなものを頼みなさい。でもあんまり高いのは駄目」

「は~い。パパのケチ」

「ケチで結構。食べる口が二つあるせいで食費が嵩む。あとパパじゃない」

「じゃあ、気をつけていってらっしゃい!」

 せつらのパパじゃない発言は無視である。
しかし聞き様によっては親子の会話のようにもカップルの会話のようにも聞こえるのだから不思議だ。せつらなどどうやってヴィヴィオを手放してくれようかと日夜考えているような人間なのにである。
 ちなみにヴィヴィオは既に冷蔵庫に向かって、とてて、と走り出していた。なんだか釈然としない面持ちのまま、せつらは首をひねった。
 なんでこうなったのかと、運命とか神様とそういう人さまの都合を決める何かに問いかけたい気分だったのかもしれない。
 はあ、と疲れ切ったため息をひとつ零してからせつらは臨時休業の札を秋せんべい店の店頭に下げて、外出することとなった。ヴィヴィオは家でいい子にお留守番である。
 この第一管理世界ミッドチルダは、時空管理局発祥の地という歴史的な意味において極めて重要な惑星であるにもかかわらず、その首都クラナガンの検挙率は65パーセント以下という情けない数字を連年記録している。
 これでも地上本局に手腕は強引であるが市民を守るという信念は紛れもない本物である、レジアス・ゲイズ中将が辣腕をふるい始めてからは劇的に改善されたほどだ。
 毎日そこらで違法な質量兵器の密売に麻薬取引、恐喝や強盗から、強姦、殺人、誘拐といった事件が頻発しているこの街で、流石にヴィヴィオに対して一人での外出を許可しないだけの思慮がせつらにもあった。
 自分の全くあずかり知らぬところでヴィヴィオが奇禍に見舞われるのはともかく、自分が注意の一つもすれば防げたような事故、悲劇が起きるのは、人間の母の腹か生まれたとは信じられないくらいに美しい青年にしても、避けたいと思うようだった。
 せつらが育った<新宿>と比べたら、重要性に比して治安が悪い、地上部隊のレベルが低いから大規模な災害が発生し、高ランク犯罪魔導師が出てくると役に立たないだの悪口が並べ立てられるこの街も、可愛い赤ン坊みたいなものではあったが。
 最近では非魔導師適正保持者の一般人を狙った凶悪な連続強盗殺人が横行しているようで、地上部隊のみならず次元の海に浮かぶ本局――『陸』に対して『海』と呼称される――から、敏腕執務官が派遣されて捜査に当たっているという。
 怖い怖い、と朝のニュースの内容を思い出しながら、自分がそのような目にあったから強盗達をセンチ単位の肉片に切り刻むくらいの事は、眉ひとつ動かすに実行する青年は、猫背気味に歩き始めた。
 どこからどうみても、例える言葉が見つからないくらいに美しくはあるが、人畜無害のぼんやりとした青年としか見えなかった。
 もっともただ歩いているだけでその姿に見惚れた運転手や通行人があらぬ方に歩きだし、アクセルとブレーキを踏み間違えて、あちこちで交通事故が発生していては、これはもうただ外を歩くだけでも事故を招く一種の厄病神とさえいえた。
 せつら本人からすれば、ただ素顔を晒して外を歩いているだけなので、厄病神扱いされたら遺憾の意を表明するくらいのことはしたかもしれない。
 あちこちで道路標識やガードレールに突っ込む車のブレーキ音や衝突音が、連続し始めた時、ようやくせつらは、あ、とひとつ間の抜けた声を出してから、愛用のロングコートの懐に手を突っ込む。
 その指が筆を握れば史上最高の絵画が描かれ、ヴァイオリンを奏でれば天上世界の音楽が響き渡り、包丁を握ればこの世のものとは思えぬ珍味が舌を蕩かせ、ペンを握れば世界の真理をたった一言で表す至言が綴られると確信もなく断じてしまうほど美しい指先は、黒いサングラスをつまみだした。
 この世のものとは思えぬゆえにこの世ならぬものを生みだすに違いないと、見たものを錯覚させるせつらの繊指は、あくまで現実世界に属した物体を取りだすにとどまった。
 サングラスの着用は外出する際にむやみに被害を生みださないための措置である。サングラスをかけて目元を隠せば、せつらの美貌も大きく減衰されて少なくとも見惚れたタクシーのドライバーが反対車線に突っ込む確立が半減くらいはするはずだ。
 人捜し屋を開業した高校生のころからの習慣ではあったが、どうやらいまのいままで忘れていたらしい。この青年、時々こういうポカをやらかす。
 心地よい日差しを浴びながら、季節にそぐわぬ真黒いロングコート姿の青年はほどなくクラナガンの雑踏の中へと消えていった。



 最近仲間内で流行りの歌を口ずさみながら、彼は自分の部屋のベッドの上に抱えていた鞄を放り投げた。
 この間の定期試験で好成績を収めたおかげで両親の機嫌はよく、仲間たちと一緒に、ある一家に押し入って強盗を働いたと告白しても笑顔のまま許してくれそうでさえあった。
 魔導師適正を持つ仲間たちと一緒に半年前にグループを結成し、魔法を扱う事の出来ない非魔導師の一般人をターゲットにした強盗行為は、今日にいたるまで紙面やテレビを騒がせこそすれ、その実態を管理局に掴ませることはなく、彼を含めた犯行グループのメンバー達に管理局に対する嘲笑を浮かばせるきりだった。
 魔法社会であるこの世界で、魔法を扱うことすらできない人間が、社会的に高い地位に立ち、魔法使いである自分達よりも裕福な生活を送ることは間違いである、というリーダーの主張はもっともだと思う。
 魔法を使う事が出来ないというのに地上本局の実質上のトップとなりおおせたレジなんとかいう中年の事を、彼は顔だけは知っていたが、その演説を耳にした時は初級の簡単な魔法一つ扱えないやつが偉そうなことをぬかすなと、心の中では吐き捨てていた。
 魔法への高い適性が認められれば、それだけこの次元世界では厚遇される傾向があるのは紛れもない事実で、実際時空管理局では幼齢であっても高ランクの魔法資質を持っていれば積極的にスカウトして、最前線に投入する方法を長年採用しているではないか。
 その方法が継続されているという事はそれだけ正しいという事を示しており、必然的に魔法資質を持つ者は魔法資質を持たぬ者よりも正しい存在であるという証拠に違いない。
 だから魔法資質を持たぬ者たちは違法とされる質量兵器に手を染めて、より優れた存在である魔導師に牙をむいて逆らってくるのだ。
 そんなくだらない連中の同類である非魔法適正者が、社会的に成功することはこの世界を構築するシステムの重大な欠陥であり、自分と仲間達はその欠陥を影から正そうとしているのだ。
 マスコミはそこを理解せずに自分達を不当な暴力を振るう犯罪者であると騒ぎ立てているが、正義を掲げる管理局は自分達を捕まえるどころか、その影を踏むことさえできていないではないか。
 まるで、いや、きっと管理局の中にも自分たちと同じように魔法を使えない連中を駆逐して正しい世界の在り方を取り戻そうとしている者がいるに違いない。
 いつの日にか自分達に賛同し共感し理解を示す者たちはもっと増えて、あのひげ面のレジ、レジ、レジなんとかいう中年のおっさんをぶっ殺して時空管理局を変える日が来るかもしれない。いや、かならずそうするのだ。自分達こそが本当に正しい事をしている正義の魔法使いなのだから。
 彼は、身勝手で欠陥だらけの欲望に塗れた考えに浸りながら邪悪な笑みを浮かべていた。その笑みを見れば、人間の創造主は自分が生み出したものがどんなに邪悪で愚かしい存在であるかを悟り、即座に廃棄したことだろう。
 山分けした前回の成果を使って、次の休日には何を買いに行こうかと俗物的な考えに切り替えた彼に、人が良すぎて簡単に詐欺にあいそうなお坊ちゃんと言った感じの声が掛けられた。

「良い事を考えている所に失礼」

「誰だ!?」

 とっさにポケットに突っ込んである待機状態の短剣型ストレージデバイスを取りだして、刃渡り50センチの魔力刃を出現させる。彼はこの青い魔力刃で無様に震える被害者の頬や掌を切り裂くのを誰よりも好んだ。
 声の聞こえた窓の方を振り向き、彼は人間だけが持つ凶悪さをたたえた顔を一瞬で崩壊させる。
 音を立てずに開かれた窓から部屋へと侵入してきた存在は、彼の思考と肉体を硬直させるに足る美しさであった。ろくな語彙を知らない彼の脳裏に数多の賞賛の言葉が渦を巻き、そのすべてが瞬く間に消えてゆく。
 どんな美辞麗句も必要ない。この漆黒の人型を前にしたものはただ一言を永遠に呟き続ければよい。そうすれば一生を美しい幸福な夢の中で過ごす権利が得られるかもしれない。
 “美しい”と。ただ一言を呟き続ければ。
 天上世界から地上へと降り立った美の神の化身と見紛うものばかりの魔青年――秋せつらは外出用のサングラスを外し、その美貌の本来の魅力を輝かせながら忽然とそこに出現していた。

「だ、だれ、だ……」

 魂を打つ美の衝撃に唇を震わせながら、彼はかろうじて言葉らしいものを紡ぎ出すことに成功する。このような反応に慣れきっているせつらは、ポケットから一枚の写真を取りだして彼に見せた。

「このご老人に見覚えは?」

「……はあ?」

 せつらの指先に包まれた写真には禿頭の柔和なまなざしをした老人が映っている。その顔に全く見覚えのなかった彼は、かろうじて首を横に振る。美の衝撃は肉体のみならず魂にまだ残っていたが、せつらの質問に答えねばならないという使命感の方がかすかに勝っていた。

「ね、ねえ、よ。見たこともねえジジイ、だ」

「そ。この人はルベール・ズフィル氏、今年で六十九歳。奥さんは既に亡くなられていて現在は長男夫妻と同居中。六歳の孫娘と平和に暮らしていた人だよ」

「その爺さんが、おれとあ、あんたとなんのかかか、関係がある?」

「ルベール氏は二週間前、孫娘と自宅の留守番をしていたところ、強盗の被害にあった。強盗は複数犯。現在時空管理局が捜査中の例の強盗団と同一であると思しい。で、一向に成果の上がらない捜査に業を煮やしたご家族が犯人の捜索を依頼」

「あんた、探偵かよ?」

 恍惚の霧に惑わされていた彼の精神が、せつらの言葉の刃を受けて徐々に正気を取り戻しつつあった。構えたデバイスの切っ先をゆっくりとせつらの胸元へと向ける。この美しい人を自分の手で切り刻む妄想に囚われはじめていた。
 雪さえも黒ずんで見えるであろうあの白い肌を切り裂き、赤い血が流れ出る瞬間を見たい。見たい。見たい!!

「いいや、新米の人捜し屋さ」

「探偵と何が違う」

「まあ、いろいろと」

 誤魔化すようにせつらはとぼけた返事をした。

「で、その犯人がおれってわけ? なにか証拠でもあるのかよ」

「アルフレッド・ルタリア」

 それは彼と同じ強盗団に所属する同い年の仲間の名前だ。その名前が出てきたという事は、どうにかしてこの青年が自分の事を聞きだしたということだろう。
 アルフレッドとは幼馴染という事もあり、彼とは強盗団の中でも特に親しい仲だ。親友とさえいえる相手を傷つけられたと悟った彼の体中の血管に、怒りの成分が混入する。

「てめえ、アルフレッドに何しやがった?」

「お話を」

「ざけんな!」

 階下にいる両親の事を忘れ、彼は魔力刃を展開したままのストレージデバイスを思い切り突きだした。時空管理局の武装局員だってかわせやしない、と心中で喝采をあげた一突き。
 なあに、ぶっ殺しちまってもばらばらに解体して下水に流すか郊外の山にでも埋めちまえば誰にだってばれやしない。殺人に対する禁忌は、彼の心の中にほとんどなかった。そういう人生を送ってきたのであろう。
 ゆえにぼとり、という音とさらに全身を光の速さで駆け巡った痛みを理解できなかった。

「ぎ…………あ、ああああああ?!」

 音を立ててカーペットの上に転がって赤い水たまりを広げているのは彼自身の腕。魔力の供給を失った魔力刃がデバイスの切っ先から消失する。

「ご両親にうるさいと叱られるよ」

「………………!!!!!!」

 脳を支配するとてつもない痛み。その痛みは骨ごと切断された右腕の痛みを打ち消すほど。彼はあまりの激痛に声は出せず、あらん限り舌を伸ばし、目は反転して白眼を剥いていた。
せつらの指から零れた細さ千分の一ミクロンのチタン鋼の妖糸が、彼の毛穴や九穴から忍び入り骨格に直に絡みついてゆっくりとこすりあげたのだ。
 毛細血管や各神経系を一切切断せずに骨に絡みついて尋常ならざる痛みを与える、秋せつらのみが可能な半永久的に続く苦痛の海に突き落とす拷問である。
 脳天から足の爪先に至るまでくまなく襲いくる痛みに失神し、絶え間ない痛みによって再び覚醒する。失神と覚醒を十数度繰り返し、容赦なしに襲いくる痛みの牙に精神を穴だらけにされて、発狂という名の楽園に逃げこむ寸前、痛みは唐突に消える。
 骨を緊縛する妖糸がわずかに緩み痛みは消えたが、消えたはずの痛みの感触が全身に残り、彼は肺の中のすべての空気を絞り出し、新鮮な空気を取り込んでわずかでも気を紛らわせようとあがく。

「一応、確認のため。君ら強盗団は全十二名。これはあっている?」

 せつらの答えに彼は即座に首を縦に振るって答えた。もう一度あの地獄の痛みを与えられると考えたら、何も拒絶することはできなかった。親を殺せば見逃してあげると言われたなら、喜んで父と母の心臓に魔力刃を突き立て、首をはねたことだろう。

「じゃあ、君が最後だね」

 それは恐るべき告白であった。目の前の美青年はいま自分にしているような事を繰り返して、強盗団の仲間たち全員に苦痛地獄を与えて他のメンバーの事を聞き出したのだろう。
 誰もこの拷問の前には口を閉ざしたままではいられなかったことが心の底から理解できる。耐えられるわけがない。体の外ではなく内側。それも骨という体内の最奥と言ってもいい個所から襲いくる抗いようのない痛み。
 特殊な訓練を積んだプロだって、この拷問に架せられれば一秒で糞尿を洩らしながら泣き喚いて許しを請うにきまっている。
 天使だ。自分達の罪を暴き立て罰を与えるために天上世界から遣わされた翼のない無慈悲な天使が、目の前の魔性の青年の正体なのだと半ば発狂した思考で、彼は結論した。

「おれ、おれたちは、そりゃ、強盗はした。人も、きず、傷つけた。けけけけど、非殺傷設、設定だ。だれも、殺しちゃ、殺しちゃいねえよおおおお。殺さないで、殺さないでくれよ!!」

「その非殺傷設定で何十回も打ちすえられてルベール氏は脳内出血を起こして三日前に亡くなったよ。それに六歳の孫娘の肌は剃刀よりも鋭い魔力刃で切り刻まれていたそうだ。もう少し処置が遅ければ、大量による失血によってショック死していたよ。
 命乞いをする人達に君や強盗団の仲間達はどんな風に答えたのかな? それに被害者のご家族は君らの命乞いになんて答えるだろうね」

 せつらは言葉とは裏腹に日向ぼっこでもしているような口調であった。その様子こそが、彼には恐ろしかった。これから与えられるだろう苦痛の地獄よりも、それを淡々と実行に移すせつらの精神の方こそがあまりにも恐ろしすぎる。
 ああ、神様。これからは悪いことはしません。いままでの行いは全て反省します。心を入れ替えて良い事をします。だから、どうか、目の前の美しい悪魔をどこか遠いところへと追いやってください。
 お願いします。お願いします。お願いします。
 落とされた右腕の痛みも何もかもを忘れて、彼は一心に祈り、願い続けた。
 無論、彼らが被害者たちに与えた答えと同様のものが、彼に与えられた。



 息子のもとへお茶とケーキを運びに行った母親が、朱に染まった部屋の中に転がる息子の姿を発見し、半狂乱になりながら管理局に通報したことで、強盗団の一員であった彼はかろうじて命をつなぐ事が出来た。
 当初あまりに凄惨な現場に、どんな凶悪な精神を持ったものの犯行かと捜査陣を騒がせたが、事態は思わぬ方向へと転じる事になる。
 彼と同日の内に全身を切り刻まれた者たちがほかに十一名発見され、彼らの身辺を慎重に捜査した結果、次々と発見される凶悪事件の証拠の数々。被害者と思われた彼らが、実は最近巷を騒がせている凶悪極まる強盗団であると判明したのである。
 被害者全員が全身に非殺傷設定の魔法によって傷を負わされ、死者まで出した連続強盗事件は、その犯人である強盗団が何者かによって半死半生にされることによって一応の終結となったのである。
 その事件の報告書の隅から隅まで目を通した青紫の髪を持つ美少女、ギンガ・ナカジマは憂鬱な溜息をこぼした。凶悪強盗団が壊滅したことは実に喜ばしいことと言えよう。
 しかしその肝心の強盗団を壊滅させた犯人の行方が知れず見当も皆目つかず、強盗団の捜査からその犯人の捜査へとシフトしている。
 ギンガ自身は既に本局の部隊である機動六課への出向が決まっており、犯人捜索には関われないが、実に惨たらしい真似を平然とやってのけたであろう謎の犯人を追う同僚達の安否が気遣われてならない。

「大丈夫、ギンガ?」

 と、ギンガの向かいに座っていた悩ましいほどの美貌を持つ美女が声をかける。太陽の光よりもやや黄色いみがかった金の髪を長く伸ばして黒いリボンで纏め、鮮やかな赤い瞳に気遣う光を宿した美女である。
 ギンガよりもひとつかふたつほど年上だが、純粋無垢とさえ見えるほどあどけない表情をする美貌と、その幼ささえ感じられる雰囲気に反してギンガ以上に爛熟して大きなカーブを描く体つきが完成された極上の美女を作り上げている。
 この美女こそが管理局でも五パーセントに満たないSランクオーバーの高ランク魔導師であり、優秀な執務官であるフェイト・T・テスタロッサ。ギンガが出向する機動六課の重要人物である。
 一尉待遇で機動六課に出向しているフェイトが、まだギンガの残っている陸士108部隊のオフィスに顔を出したのは、件の連続強盗団が奪った物品の中に民間人の所持が禁止されている低レベルの危険指定を受けたロストロギア――古代文明の残した遺失技術ないしはその産物があったためで、執務官としての任も兼務しているフェイトが捜査に関わることになったからだ。
 もっとも強盗団が壊滅したことでロストロギアは回収されて、執務官としてのフェイトの出番は、幸福にもなくなったが。

「ええ、大丈夫です。ただ強盗団を壊滅させた犯人が見つかった時に、部隊のみんなが怪我をするようなことにならないかって不安なものですから」

「そうだね。強盗団は平均Cランクだけど中にはAランクオーバーの魔導師もいた。一対一で不意を突いたのかもしれないけれど、半死半生にまで追い込んだ上に一切の痕跡を残さずに逃亡した手際の良さは並みじゃない。確かに不安になっちゃうのも仕方ないよね」

「それにしても強盗団のメンバーの証言が意味のはっきりとしないものが多くて、捜査に役立たないのも問題ですよ。全員命だけは助かりましたけど、助かったのは命だけって言い換えることもできます」

「一人当たり五百ヶ所以上を切り刻まれて、全員が錯乱しているからね。どうやったらあんなに切り刻んでおいて死なせずにいる事が出来たのかって、治療を担当した医官がぼやいてたよ」

 五百か所超という切り傷の数が、強盗団の被害にあった人々に加えられた暴行の和数と一致することにフェイトが気付くのは、もう少し後のことである。

「凶器は、恐ろしく鋭利な金属製の何か。推定千分の一ミクロン単位の。そんなものを使う犯罪者の話なんて聞いたことありません。フェイトさんは何か心当たりは有りますか?」

 ギンガの問いに、フェイトはゆっくりと首を横に振る。純金にも勝る輝きを持つ髪が、首に合わせてさらさらと揺れる。

「別の管理世界から来た新手の犯罪者かもしれない。それにしても、どうして強盗団のメンバーだけを正確に追いかけて、全員に重傷を負わせたんだろう? 目的は一体?」

 そしてもう一つ、フェイトの心に暗く重い影を落としているのは、今回逮捕された強盗団の平均年齢が実に十歳であることだ。フェイト自身が時空管理局の嘱託魔導師として活躍を始めたころ、それにフェイトが保護責任者となっている愛すべき二人の子供たちと変わらない年齢であったことだ。
 就労年齢の低年齢化と同じように凶悪犯罪に手を染める者たちの著しい低年齢化は、ミッドチルダのみならず時空管理局の影響力が強い多くの次元世界で深刻化している社会問題であった。



「はい、はい。というわけでしてご依頼のあったおじいさんと娘さんに暴行を加えた犯人は時空管理局の方で逮捕したそうです。犯人達は生きるか死ぬかの重傷を負ったそうで。ええ、管理局の病院に入院することになると思います。
 いえ、ぼくが見つけたときにはもう管理局が踏み込んでいましたので、料金はお返しいたします。お役に立てず、どうもすみません。ええ、ええ、はい。口座の方に振り込んでおきますので。はい、では」

 やれやれと、せつらはため息をついた。今日何度目になるか分からないため息であった。
 せつらが依頼人に事の次第を報告したのは、強盗団全十二名が半死半生の状態に切り刻まれて、陸士108部隊の面々に発見されて身柄を確保された翌日のことである。
 ここがせつらの庭も同然の<新宿>であったら、幼いながらも凶暴であった強盗団のメンバー全員を発見し、その全身を切り刻んで報いを与えたのはせつらであるから堂々と依頼人に報告するところであるが、あいにくとせつらがいるのは異世界クラナガンの街中である。
 強盗団に対し行った処置を依頼人とはいえ、他者に知らせようものなら時空管理局に通報されてもおかしくはない。そうなればどのような面倒事がせつらの身に襲いかかることか。
 切り抜ける自信は――数多の死と大量の血を伴って――あるものの、それ以上に面倒くさいことになるのが嫌で、せつらは自分の手柄を棚に上げて隠すことを決めたのである。
 捜査にかかった諸経費が多少気にはなったが、これは仕方ないとあきらめる事にした。強盗団の犯人発見の方を依頼人に伝えるだけでよかった所を、全メンバーを半死半生にまで追い込んでしまったのは、つい、<新宿>でのやり方を実践してしまったせいだ。
 こちらに来てからそれなりに時間が経過してはいたが、やはり二十年以上の期間、体と精神に染みついた魔界都市の流儀はそうそう忘れられるものではない。
 ましてやせつらは魔界都市の主、真の<新宿>区民とまで称された人類の規格外、真正の魔人だ。心がけた所でそうそうやり方を変えられるものではない。
 働き損かあ、と少しさびしげにせつらは呟いた。そう呟いてからせつらはとぼとぼと歩き始める。こころなし背中に元気がない。一応せんべい屋の売り上げは上がっているし、人捜しの依頼も、口コミで少しずつ来るようになってはいるが、まだまだ生活は油断できないレベルであった。
 すっかり草臥れた中年管理職のサラリーマンめいた疲労感を漂わせるせつらの後ろで、一緒に買い物に出かけていたヴィヴィオは、古書を専門に扱う書店のウィンドウに飾られたある絵本に目を奪われて足を止めていた。
 せつらは足をとめたヴィヴィオに気付いているのか、このまま置いていってしまえと思っているのか、脚を動かすのをやめない。この青年の場合、前者であると言いきれないあたりが問題だろう。
 ウィンドウに貼りついて離れないヴィヴィオに、書店の主らしき美女が声をかけた。
 濃い紫色のスーツの胸元を大胆に開き、ヴィヴィオの頭くらいは有りそうな途方もない夢とロマンの詰まった乳房をこれでもかというくらい大胆に晒している。
 濡れた鴉の羽よりも黒々と陽光をはじく髪を結いあげ、妖艶という言葉がこれ以上ないほど似合う、いや、言葉が人の姿を取ったとしか見えない美女だ。
 目元を飾る眼鏡の奥の瞳を愉快気に押し上げて、美女はヴィヴィオににっこりと微笑みかける。意識すればその笑顔だけで相手を骨抜きにし、妖しい快楽の世界へと引きずりこむことができるような、淫靡で邪悪な笑みであった。

「こんにちは、お嬢ちゃん。ぼくはこの『千貌書房』の店主のナイア。この絵本が気に入ったのかい?」

「あ……はい」

 せつらに対する態度からは想像しがたいが、ヴィヴィオは人見知りをする傾向がある。突然声を掛けられて、緊張してしまうのも無理のないことであった。身構えてしまったヴィヴィオの様子に、ナイアと名乗った店主はおやおやとひとつ零す。
 不意に黒い手袋に包まれたナイアの手が腰の引けているヴィヴィオの前に差し出されると、先ほどまでヴィヴィオが見入っていた絵本が載せられている。その絵本にどういうわけでか心魅かれるものを感じて、ヴィヴィオの虹彩異色の双眼が吸い寄せられる。

「ははは、どうやらこの絵本を気に入ってくれたみたいだね。これはぼくの大のお気に入りの絵本でね。気に入ってくれたのなら嬉しいよ」

 そういうナイアの顔は確かに愛しいものを見つめているようでもあり、これ以上ないほど憎悪の念を募らせた相手を睨んでいるようでもあった。
 ヴィヴィオはナイアの愛憎入り混じる顔の変容に気づいてはいないようであったが、それはむしろこの場において幸運であった。
 ナイアの手の上に置かれた絵本の表紙には、廃墟の上に座る少女とその周囲を囲む燃えるような瞳の黒い影が巨大な六体の影の巨人を率い、憎むように、あるいは憧れるようにして天空から降り立つ光輝く巨人と対峙している様子が描かれていた。
 その光景に自分でもどうしてか分からないくらいの憧憬を覚えて、ヴィヴィオはこの絵本から瞳を外すことができずにいる。
 そのヴィヴィオの様子に、ナイアは苦笑したようだった。どこか非現実的な、その姿を視界の内に入れているだけで言い知れない不安と恐怖に襲われる美女だというのに、苦笑する姿だけは妙に人間臭かった。

「ようし、ナイアお姉さんの特別サービスだよ。この絵本は君にあげよう!」

「え!? いいの?」

「構わないよ。君のパパはぼくの上司みたいなものだし、君のパパが住んでいた街にはぼくの愛しい旦那さまと可愛い息子が住んでいる縁もあるからね。さあ、早く行かないと大切なパパに置いていかれるよ?」

「あ、もうあんな所に。ナイアさん、ありがとうございます」

「お礼はいいよ。上司の家族へのサービスは中間管理職のゴマすりの基本だしね」

 ナイアから手渡された絵本を宝物のように両手抱きしめながら、ヴィヴィオはちょこんと可愛らしい仕草でお礼を述べてから、遠くなる一方のせつらの背中めがけて小さな足で一生懸命に走りだした。
 走り去るヴィヴィオに向けて手を振っていたナイアであったが、せつらとせつらに追いついたヴィヴィオが角を曲がって視界から消えると、そそくさと店の中へと消えていった。
 さらにその十分後、左右で瞳の色が異なる青年と青年の腰くらいまでしかない小柄な美幼女の二人組が、千貌書房の前に立った時、店内にいるはずのナイアごと千貌書房が昇陽に消える朝霧のごとくその姿を消していた。



「パパ見てみて、さっきこの絵本もらったの」

 ヴィヴィオはいかにも大切な宝物ですと言わんばかりに小さな手で抱えた絵本をせつらに向けて掲げる。

「ふうん」

 しかし、いや、しかしというよりは当然というべきか、せつらの返事はなんともはや、素っ気ないったらありゃしない。

「後で読んで」

 と舌っ足らずの口調でお願いするヴィヴィオに顔を向ける事すらせず、せつらは答えた。

「やだ」

「なんで!? ヴィヴィオは四百字詰め原稿用紙一枚以内での説明をよーきゅーします!!」

 ぷんすかぷんすか、とでもいうような擬音が似合う調子で、ヴィヴィオは柔らかな頬をいっぱいに膨らませて、せつらのコートの裾を引っ張りながら抗議する。
 しかし原稿用紙云々という言い方は、五歳児前後のヴィヴィオの容姿には似合わないのだが、せつらとの何時捨てられるかわからない、どうやってパパと認めさせるかという暗闘の日々が、この少女の精神に強制的な成長を促したのだろう。

「めんどくさい」

「六文字!? パパの馬鹿あ~~!!」

 十文字にすら届かないせつらの理由に、ヴィヴィオはいまにも泣きださんばかりにもともと大きな瞳を見開いて、ぽこぽことへなちょこパンチでせつらの腰のあたりを叩きはじめる。
 流石に悪意のない幼女の抗議行動にまで目くじらを立てるほど、せつらは物騒な人間ではないので、全く痛くもなんともないヴィヴィオのへなちょこラッシュを黙って受け続ける。
 しかし、こう見えてヴィヴィオは片手に重い鎖をつながれた状態で、残る片手で50kg以上は有るマンホールの蓋を押し上げる怪力の持ち主である。にしてはせつらの腰に加えられる衝撃は見た目相応の非力さだ。
 ヴィヴィオが生来か後天的にか有している怪力は、なにがしかの条件下でだけ発揮されるのか、あるいはパパと慕うせつら相手であるから無意識に手加減しているのかもしれなかった。
 ぽこぽこぽこぽこ……と疲れというものを知らないのか飽きることなく続くヴィヴィオの殴打であったが、せつらが不意に足を止めたことで中断を余儀なくされる。
 足をとめたせつらの視線の先には、秋せんべい店の裏口、つまり秋DSMセンターの入口を前に店主であるせつらの帰りを待っているらしい麗しい三人の女性の姿があった。
 いずれも目元を大きめのサングラスで覆い隠して、すれ違う男が見惚れること間違いない美貌を隠している。そのうちの一人にかんしてせつらは見覚えがあった。
 こちらの世界に転移した時に保護された時に知り合ったギンガ・ナカジマである。秋せんべい店クラナガン本店を開設して以降も、時々せんべいを買いがてらせつらの様子を見に来るので記憶に留めてある。
 だが、ギンガの両隣りに立つ二人の女性に関しては、せつらに直接の面識はなかった。ただ、栗色の髪をサイドポニーにしている女性は、テレビや新聞でも何度か目にした覚えがあったし、金色の髪をリボンで纏めている女性にもなんとなく見覚えがある。
 なんだかまた面倒なことに巻き込まれそうだなあ、とせつらはこの時嫌な予感に襲われていたのだが、せつらを前にして、サングラス越しにも精神を緊縛する超絶の美を目にして硬直している三人の女性達に分かるはずもなかった。
 これが“エース・オブ・エース”高町なのはとフェイト・テスタロッサ・ハラオウンと美しい魔人・秋せつらとの初邂逅である。

――つづくのかつづかないのか?
今回ここまで。魔界都市クロス、ムゲフロリリなのクロス、Dクロスをそれぞれ並行して書き進めているので時間が掛かっています。なんとか、なんとか時間を作って・・・・・・。
ご感想ご指摘ご批判ご忠告お待ちしております。ではでは



[11325] その15 ラビリンスドール × Fate
Name: スペ◆52188bce ID:e0398f80
Date: 2010/06/16 21:37
『河馬と人形と鴉と魔女と』


 雨だ。雨が降っている。雨を天の涙、と比喩することがある。ならば今降っている雨は悲しみ故に降る涙だったろう。森閑とした山中、四方を高い木々に囲まれ地面はぬるみ、道行く者がいたなら例え獣でも足を取られそうだ。そんな中、紫の塊が伏している。よくよく見ればそれが人型をしており、更に注意深くみれば紫の服には血が滲み、線の細さから女性であると分ったかもしれない。
 ズシン、と地面が揺れたかのようだった。のっしのっしと草木を掻き分け、いや押し除けて、というべきか巨大な影が女性に近付いた。影はどうやら人間と呼べる生物らしかった、相撲取りでも居なさそうな太い四肢、拳銃の弾や刃物すら防ぎそうな分厚い脂肪の塊を載せた腹。大玉のスイカと同じかそれ以上ありそうな顔。
 ソレが女性まで後数歩というところで、邪悪に笑ってこう言った。ただし、こすいというかしょぼいというか、あまり凄いことはしなさそうな邪悪さだが。

「ぐっふっふっふ、こいつはめっけもんだわさ。召喚する手間が省けたねぇ」

 雨の中、傘も差さずにいた巨影がゆっくりと野球のミットのような片手を女性に近づけていった。紫の衣服を纏った女性の運命を誰もが明るくは無い、と思うに違いない。
 夢、というものを彼女は見るはずが無かった。かつては確かに見ることはできたが、反英霊となったこの身にはそれはもはや訪れるはずが無い。けれど今見ているものが何か、と問われたなら、困惑しながらも夢だと答えるしかなかった。悪夢だと。
 ある女神の思惑のために顔も知らぬ男を愛する自分、その男のために竜の炎で焼けつく事の無い魔法の香油を渡し、それだけでなく男の為に金羊毛皮を守る竜の住処で魔術で竜を眠らせ金羊毛皮を手に入れる自分、国を去り追いかける父から逃げるため、父の目の前で幼い弟を八つ裂きにして海に撒く自分、男の復讐の為、罪無き娘らに若返りの薬と称して毒を飲ませ、その父にもこの毒を飲ませ殺害する自分、男に裏切られ男と結婚する女を焼き殺し、男と自分との間に生まれた二人の子供を殺す自分、父の復讐の為に父を殺した兄を殺す自分。
 全てが悪夢だ。女神達の勝手な思惑の為に、自らの意思を歪められ犯した罪の数々。その全てが心を抉る。引き裂いた弟の顔、手に掛けた二人の子供達、父殺しの罪故に殺した兄の顔、愛することを強制され自分を裏切った男の顔、そして顔も知らぬ神々。

 やめて、思い出させないで、私にそんなものを見せないで!!

 声なき声を女性は挙げた。叫ぶように、慟哭するように、涙するように、……許しを請うように。

「……!!」

 ゆっくりと瞼を開いた。意識の覚醒は速く、周囲の状況の認識も早かった。ゆっくりと身を起こした女性は、美しいという言葉に値する外見をしている。
 青みがかった紫色の髪は長く、耳の後ろの辺りで三つ編みにされており、金の管のようなアクセサリーでまとめられている。一本一本の髪が細く艶やかで、それ自体が輝きを放つように美しい。
 肌の色は白皙、白いという事が必ずしも“美”につながるわけではないが、彼女の場合はその美貌を引き立てる要因になっていた。
 染みひとつ無い肌は、水仕事などの一般的な雑事と無縁であることを伝え、彼女自身が纏う生来の気品と相まって、その生まれが尊いものであることを雰囲気となって周囲に伝えている。
 瞳には計り知れぬ知性の輝きと、大宇宙の神秘に思いをはせる碩学の面影が覗き、一筋のラインを描く鼻梁、笑みを浮かばせたいと思うような淡い唇の赤と相まって彼女が美人で無いなら、どれだけの女性が美人のカテゴリーから外れるのか、と思わせる程だ。
 その秀麗な美貌に警戒の色を浮かべて、女性が周囲を見回した。悪夢の余韻は尾を引いているが、考えないことにした。どうやら自分はベッドの上に寝かされていたらしい。濡れた服は着替えさせられ、真新しいモスグリーンにデフォルメされた河馬の顔がプリントされたパジャマを着せられていた。ちょっと可愛いわね、と思いつつ、ぐるりと部屋を見回す。
 フローリング張りの十二畳ほどの部屋だ。机が小さいものがひとつと、窓際に置かれた大きめのスチール製の黒い机の二つ、部屋の中央にはガラスのテーブルと座布団が4つ並べられている。クローゼットの他には、薄いプラズマテレビにDVDレコーダー、電気ヒーター、エアコン、コードレステレフォンなど。
 一通り見回してから、ベッドから起き上がり、電気ヒーターの前に椅子に引っ掛けられて干されていた目的の物を手に取る。雨の中しとどに濡れた紫のローブである。彼女が元から着ていた衣服も一緒に乾かされていた。ほっと一息ついてからパジャマを脱ぎ捨ててローブを身に着ける。どうやらローブは損傷や機能不全は起こしていないようだ。
 考えることはいくつかあった。なぜ自分は現界していられるのか、ここに運び込んだのは誰か、あのマスターはどうなったのか。先ず間違いなく言えるのは、彼女のかつてのマスターは間違いなく死んでいるはずだ、ということだ。現界していられる理由もすぐに分った。
 魔力、彼女が世界に存在するためには魔力が必要となる。彼女と同じカテゴリーに分類される存在は、召喚した人間―マスター―との間に契約を結び繋いだ眼には見えぬラインで魔力をマスターから供給されなければならない(色々裏技はあるが)。
 彼女を召喚したマスターは彼女自身が既に殺害し、それゆえにラインは失われ、魔力は切れかけていたはずだ。それが今は新たなラインが形成され、かつてのマスターとは比べ物にならない量・質の魔力が供給されている。おそらく山中で倒れていた自分を発見した魔術師がここに運び込んだのだろう。
 だがそこで不可解なことがある。ラインについてだ。既に召喚された彼女と、彼女の同意なく契約を結ぶなど容易く行える行為ではない。事実こうやって契約されている以上あれこれ考えても現実は変わらないが、心構えは作れる。もっとも自分を助けたことから少なくとも、自分を利用しようという魂胆を相手は抱いているだろう。いざとなったら隙を見て……
 そこまで考えて、はっと気付いたかのようにドアを見た。ドシンドシンと、何か重ーい物体が近付いてくるのだ。ガチャッとドアを開けた物体を見て、彼女は呆気に捕らわれてしまった。
 かくも人は球体に近づけるのかと、神に訴えかけたくなるような巨体。桜島大根を組み合わせたような四肢、そして金髪碧眼の五十代の顔に付いた脂肪のたるみ。この女が日本人でないことに、この国の人間はほっと胸を撫で下ろすだろう。同じ国の人間と思われずに済むからだ。そのある意味芸術的な肉体を白いバスローブに覆ってその怪女は姿を現した。

「……河馬か豚の精かしら?」

 河馬か豚の精らしき女は異議があるらしかった。

「礼儀を知らないサーヴァントだわね。マスターにむかってなんて口の聞き方だい」

 と、現在世界最高の偉大な魔術師であるチェコ生まれの女性、チェコ第二の魔術師トンブ・ヌーレンブルクは憤然と鼻を鳴らして抗議した。
 サーヴァントと呼ばれた女性は眩暈を堪えなければならなかった。前のマスターは人間的にも魔術の力量も、彼女からすれば敬意を払うに値しなかったが、この怪女は……
 実力は申し分ない、供給される魔力量に限って言えば、文句なしに賞賛に値するほどのレベルだ。彼女の知己にもこれほどの使い手は数えるほどしいかいない、神代の時代でも一流で通る。ではなにが不満か? ……外見、そして滲み出す人間としての品性、これに限る。実力こそ認められるものの、なぜかこの女をマスターと呼ばなければならないのが辛い。強いて言うなら美意識か。

「貴女が私と契約を結んだのね?」

「他に誰が居るってんだい? わざわざ雨の中を運んで、今にも消えちまいそうなあんたの為に契約を結んだのだわさ。さて、あんたはキャスターだね、ビンビン魔力が伝わってくるよ。英霊やサーヴァントは初めて見たけど、こりゃ大したもんだわさ」

「……」

 少なくとも現代の魔術師に対する認識を改めなければならなさそうだ、とキャスターは考えた。トンブの言葉は正鵠を射ていたのだ。

「さぁ、あんたの真名を白状おし、これからあんたとあたしで聖杯戦争を戦うんだからね」

「……嫌よ」

「はん?」

 河馬がキョトンとすればこうなりそうな表情を、トンブはした。非常にユーモラスではある。それからキャスターの言葉を理解してこう叫んだ。

「なな、何だってぇ!? あんた、あたしに逆らうってのかい!」

「そうよ。貴方の様な下品で、でぶな女をマスターと呼ぶ精神を持ち合わせてはいないわ」

「なんて奴だい! ふん、でも何か忘れちゃいやし無いかい。あたしには令呪があるんだよ」

「えぇ、ただし不完全な。私の同意無く契約を結んだのは見事、と褒めてあげるけど詰めが甘いわ。所詮不完全な契約、ラインは繋がっても令呪が不完全ではね。だから私に真名を言わせようとしたのでしょう? 言葉には力があるわ、ましてや自らの名前として認識しているものなら尚更。それを相手に問われて答えたのなら、よほど力の差が無い限りは名前を相手に縛られてしまいますものね」

 トンブを嘲笑うように、言葉を紡ぐキャスターだが、口調とは裏腹に言葉に覇気は無い。自分は疲れているのだ、心の中でそういう自分の声がした。多分、それはきっと現界してまでも裏切りを重ねる自分の運命に、そして先ほどの悪夢に。
 ただし怒り心頭のトンブにはソレが分らない。普段なら世界第二の魔術師に相応しく、その手の出来事に関してはこの女のどこに、と思わせるような知識と頭の冴えを発揮するのだが、いかんせんプライドの高さと頭に血が上る速さが並みではない。ボキボキと指を鳴らし戦闘体制をとる。

「言うじゃないのさ、骨董品の亡霊が。ご主人様の力ってものを嫌っていうほど分らせてやるわさ。覚悟おし、肛門からエーテルがはみ出ても知らないよ!!」

「下品な。ついでに頭も足りないのかしら、人が英霊に敵うと思って?」

 わずかに残る自尊心が目の前の巨女に従うことを拒絶させた。魔術師としても、女としても。特に女として。

「デュララララ!!」

 トンブの口から奇声が連続して放たれ、見えない衝撃が数条キャスターへ迸った。即座に魔力を練りこみキャスターも反撃を行う、加減はしない。例えトンブが死んで自分が現界できなくなっても、ソレで構わなかった。

「Μαρδοξ! Гёфлцыфюллц!」

 キャスターが紡いだ呪文は梵語かギリシャ語に近いが、聞く者によっては気付いただろう。古代と呼ばれる時代の今は絶えた言語であると。歯を軋らせ、それに複雑な韻律を乗せる発音は現代人には不可能な発音方法だ。

高速神言 

 キャスターにとって魔術とは魔術回路を通して発現させずとも、単に世界にソレを命じるものであるらしかった。現代の魔術師が数人がかりで出来るかどうかの大魔術―Aランクと定義される―を、キャスターは一工程で大地のマナを汲み上げることで、魔術として発現させる事が可能なのだ。
 先に唱えた呪文が、光の盾となって不可視の衝撃を防ぎ、次いで唱えた高速神言が光の球となって大規模な破壊をもたらすべく奔る。一抱えもある光球がトンブに届くまでコンマ一秒もかかるまい。とはいえ光の速さではない、発動した魔術を術者がある程度軌道を誘引するタイプだから、光の速さだと術者も認識できない。
 それを自らの詠唱と共に後退していたトンブが、右に二メートルも跳躍してかわし空中で印を結ぶ。実に秒間二十組。キャスターの目にはトンブの両手がいくつも存在するかのように映った。トンブがかわした光の球はド派手な音を立てて、部屋の壁に直径二メートルはある大穴を穿つ。

「ジュワッチ!!」

 どこかで聞いたことのあるような、Mなんたら星雲の銀色の巨人の上げそうな気合と共にトンブが両手の五指を組み、知る限り最上級の破邪の魔力を撃ち込む。

 魔術の発動を感知したキャスターが重力を感じさせない動きで、トンブの魔術を回避する。魔力で編まれたローブの端が破邪の魔力で消滅するが、意にも止めずに指先に集中させた魔力を開放する。現代の魔術師が見たら絶望しそうなほど莫大な魔力を、いとも容易く行使することがキャスターには出来た。ことによれば、魔術士である聖杯戦争のマスターにとってキャスターこそ、最大の天敵やもしれぬ。
 ただし相手は現代の魔術師であっても、並ではないどころか更にその上の実力者だ。魔術大国チェコにその名も高き妖家ヌーレンブルクの当主がキャスターの敵なのだ。キャスターの放つ二十近い魔力弾を

「チェストォォォ!!」

 と、呪文とはとても思えない、どこかの悪を断つ剣のような気合でかき消す。キャスターは先ほど改めた認識を、今一度改めなければならないことを認めた。現代の魔術師も侮れない、からこのでぶは侮れない、にだ。
 先ほど指先に集めた魔術の十倍近い魔力弾を続け様三連射、さながら近代の戦車砲並みの凶悪さを誇る破壊力だ。それがトンブに着弾する寸前、見えない何かに遮られた。魔術障壁ではない。もっと違う、何か。

「それは!?」

「ふっふっふ。流石に高速神言を操る神代の魔術士も、度肝を抜かれたかい?」

 トンブの目の前、一メートル程に何か見えない障害が立ちはだかり、キャスターの魔術を遮ったのだ。キャスターの魔術師としての視覚がソレを認識する。

「なっ」

 幾千、幾万の人々の顔。ソレが集合し壁となってキャスターの前に立ちはだかっている。部屋の中の限りある空間を無限に伸びる、人の顔で出来た人面壁。

「通称“プラハの壁”今はもう無くなっちまったでっかい国が、ある小さな国に攻めこんで来た時の憤りを込めた名前だよ。誰にも超えさせない壁って意味さ。プラハの全人口の精神エネルギーに匹敵する壁さね。物理的にも霊的にも突破するのは容易じゃないよ。……まぁ、他人への想いってやつでこの壁に許された男が、たった一人いたけどね」

 あぁ見よ、そして聞け、壁を成す老若男女が浮かべる苦悶の顔を、枯れた咽喉から叫ぶ声を

“侵略者よ、去れ―――立ち去れ”

 トンブの言う通りであった。いかに英霊とはいえ、もとは一個の人だ。“座”に昇り、人の域を超えたとはいえ、数万、数十万に及ぶ人々の人間としての根本原理――自由を奪われ、虐殺された嘆き、怒り、悲しみ、憎悪、それをいかなる英霊が打ち破れるのか。少なくとも自分には出来ぬと、キャスターは自答した。

「破れないなら、破れないなりにやり方はあるのよ? マスター」

 たっぷりとマスターの所に嫌味を込めた言い放ち、新たな魔術を駆動し、発動。秒の間も置かずにキャスターの周囲の風景が歪みだす。

「Τροψα」

「空間転移かい!?」

「ご名答。さようなら、二人目のマスター」

 トンブの背後に出現したキャスターが右手を振り上げ、その先にあったトンブの頭がキレイに消失する。呆気無いものを胸中に感じながら、自身の命運にキャスターが思いを馳せた時だった。あの声がしたのは

「このトンブ様をおナメじゃないよ!!」

「なっ」

 ポンッとビールの栓を抜いた時みたいな、間の抜ける音と共にトンブの頭がニョキッ、と生えて、あろう事か百八十度回転してキャスターにニヒッと笑いかけた。

「……」

 そんじょそこらの悪夢を凌駕する光景に、思わずキャスターが茫然自失した瞬間、トンブの両腕が逆向きに折れ曲がってキャスターの華奢な体を羽交い絞めにして、トンブの背中に押し付けた。

「むぐっうんんん」

「がっはっはっは、サーヴァントが窒息するか試してみようかねぇ」

 冗談ではない、といつの間にか、キャスターのほうを向いたトンブの腹に埋もれながらキャスターが叫んだが、肉に邪魔されてモゴモゴ言っただけだ。トンブの抱擁は何がしかの魔術か妖術でもかかっているのか、キャスターが魔術を行使、ないし魔力を開放しようとすると妨害されてしまうのだ。

(それなら…!!)

 宝具。サーヴァントが有する“貴き幻想――ノーブル・ファンタズム”。キャスターのそれならトンブの拘束の魔術も打ち破れるはずであった。まさにキャスターが宝具を繰り出さんとした時であった。ぎゃっとトンブが一声挙げて、キャスターの束縛が解かれたのは

「なな、何するんだい、この娘は!?」

「お止めくださいませ。傷つき倒れていたこの方に、そのようなご無体な真似をなさるのは」

 部屋の入り口から金と紫の輝きが覗いた。肩に黒い塊、大きな鴉を乗せている。金は長く大気にたなびく髪であり、紫は見に纏った紫サテンの、滑らかな光沢を放つドレスだ。
 それを纏ったのは十歳に届くかどうか位の美しい少女だ。この国ではない、異国の御伽噺に出てくるかのような美幼女。トンブを止めた声、あるいはその顔を見れば分る、このあどけない少女の持つ知性と、気品、そして優しさが。
 キャスターが思わず眼を見張った。少女の姿と、トンブの尻に刺さった、金の光を放つ一筋の線を。少女が、両手に提げた自分より重そうなコンビニの袋を床に置き、威風堂々とトンブに近寄る。少女の名は〈人形娘〉、トンブの実姉ガレーンの創造した人形だ。

「はん、喧嘩を売ってきたのはそっちさ、売られた喧嘩は買わなきゃ女が廃って腐るってもんさ」

 トンブの台詞を無視して、尻に刺さっている金の筋をえいっと引っこ抜いた。金の筋は人形娘の髪であった。

「トンブ様が売らせるような真似をなさることが大変、多ございます。それを抜きにしてもこれから共に聖杯戦争を戦おうという方と、かような事をなさるのはいかがでしょうか?」

「まったく、口が減らない子だよ」

 人形娘がトコトコ、キャスターに近付き、ドレスの端を抓み淑女の礼を取る。

「お初にお目にかかります。聖杯のよるべにより現界されたお方。私の名を名乗る栄誉をいただけますでしょうか?」

「……えぇ」

「私は人形娘とお呼びください。トンブ様にお仕えしております」

「とてもご主人に仕えているとは思えないわねぇ。ホントにご主人? アレ」

 人形娘とキャスターがチラッとアレを見てから

「トンブ様のお姉さまである、今は亡きガレーン・ヌーレンブルク様が私に命をお与えくださいました」

 なるほど、とキャスターは納得した。主人と従者とで出来が違いすぎる。よほどガレーンなる人物は人格・実力ともに優秀だったのだろう(トンブも実力は超一級ではある)。今はとりあえず戦う気は失せている。

「まぁいいわ。そこのトンブさんとやらの実力は認めます、マスターとも呼びましょう。それであなた達なぜ聖杯戦争に参加しているのか、聞いてもいいかしら。聖杯に何を願うのか、ね」

 はん、とトンブが腹立たしそうに鼻を鳴らしたが、すかさず人形娘が

「お金です」

「ちょちょ、こら」

「……分かりやすいわね」

 キャスターはやや呆れ気味である。聖杯に金を願うのか、シンプルと言えば言える。

「トンブ様は魔術協会やヴァチカンに対し、多額の借金がございます。此度の聖杯戦争において派遣された魔術師の方のサポートと引き換えに、借金の免除が条件として提示されました。ですがその魔術師の方は既にお亡くなりになりました、そこでその方が召喚したサーヴァントを捜索し、あなた様をトンブ様が発見なさったのです」

「……」

 借金、かくも情けない理由でこの女は聖杯戦争に参加するのか。そしてその女が自分の窮地を救ったのか、なんだかキャスターは情けなくなった。同時に馬鹿らしくもなった。

「……まぁ、人それぞれ、よね。契約したからには全力を尽くすわ、よろしく、マスター。人形娘さん」

「ようやくサーヴァントらしくなったねぇ。サーヴァント最弱のクラスだなんだ言われるけど、それはおつむの硬い二流どころの考えさ。少なくともあんたは神代の秘儀を駆使するマジもんさ。あたしとくみゃ怖いものなんかないよ」

「主人ともども不束者ですが、どうぞよろしくお願いいたします」

 胸をそり返して大笑いするトンブと慎ましやかに一礼する人形娘に、キャスターはかすかに流麗な頤を頷かせた。人形娘の肩の大鴉が一声

 またとなけめ――ネヴァーモア


おしまい。



[11325] その16 ブルーマン × Fate R-15
Name: スペ◆52188bce ID:e0398f80
Date: 2010/06/18 22:24
本文には残酷な暴力表現や猟奇的な表現を含みます。本文を読み進め不快な気分になられたとしても当方は責任を負いかねます。読み進める場合はその旨ご留意ください。

その16 『神を食った男』

 冬のある日、○×県冬木市を、奇妙な出来事が襲った。失笑に伏せられるとも言えるし、都市伝説の類として記憶に留めるにも値する不可解な出来事であった。
 家庭、料亭、レストラン、金物屋の区別無く、止め具に収められているはずの包丁が一斉にガチガチと刃を鳴らし、一人手に空中に浮いて切り結びだしたのだ。そして遂には、誰彼の区別無く人を襲い始め、多数のけが人を出すに至った。
 この冬の怪事は、数十名に及ぶ被害者の切り傷が確固たる証拠として残るのだった。
 或る者は気づいたかもしれない、この奇奇怪怪な出来事が、とある青年が冬木にやって来たのと時を同じくして起きたと言う事に。天使を美しい存在というなら、まさしく天使のごとき美貌の青年が冬木を訪れたのだ。
 青年は冬木市を二分する“新都”と“深山町”の内、新都にあるレストランへと、なぜかその足を進めた。いや、何故とは言ったが、レストランでする事と言えば無論食事に決まっている。だのに、この青年にはひどく不似合いな行為のような気がするのだ。その美しさゆえに。こんな美しい存在が、食事などという俗な生き物と同じ事をするはずが無い、と脳が判断してしまうのだ。
 あんな美しい人が私たちと同じ行為をするはずが無い、私たちよりももっと高尚な、生き物なのだ、あんなに美しいのだから、こんな具合である。
 新たな客に向かって営業用の笑顔と挨拶で出迎えようとした女子高生のバイトのウェイトレスは、一瞬でそれなりに可愛らしい顔を強張らせた。青年が席に着くまでに同様の現象が店内の客や、ウェイトレス、ボーイたちに襲い掛かり、誰もが恍惚と瞳を潤ませて全身を弛緩させる。青年のあまりの“美”に。
 一目で良い、鏡に映ったその姿だけでも良い。かの人の顔を見よ、さすれば誰もが理解できる。事によったら盲目の人でさえ。
 麗しく震える眉毛をたたえた瞳とその上を飾る秀麗きわまるラインを描く柳眉よ、いずれも人ならざる巧みの生み出した芸術の如し。薄く切り取られた桜色の花びらの様な唇、その奥に秘宝のごとく隠された純白に輝く歯の並び、濡れそぼった舌の赤。いずれもがほのかに燐光を放つような白磁の肌と相まって、背徳ささえ匂わす妖幻な色香を放つ。
 たくましさとたおやかさとしなやかさが、理想の合意の下に生み出した肢体を椅子に沈ませて、青年はろくにメニューを見もせずに、注文を始めた。
 誰が彼の注文を取るかで、ひと悶着が起きたが、最も正気を保っていた壮年のマネージャーが、熱病に浮かされたような周囲を一喝して、気骨の入った足取りで青年のテーブルに赴き、恭しく注文を取った。少しすると、マネージャーの顔をやや訝しげに変わった。注文を厨房のシェフに伝えると、シェフもそれに倣った。理由は二つ並べた青年のテーブルの上で明らかとなった。
 テーブルの上にはレアに焼いた五〇〇グラムのサーロインとリブステーキがそれぞれ十人前ずつ、シーザーサラダやトースト、オニオン・グラタン・スープにライスも十人前、デザートのマスクメロンも例に漏れない。
 手に持ったナイフとフォークを、ジュウジュウと音を立てている肉に突き立て、切り分けもせずにそのまま口に放り込んだ。ぐっちゃぐっちゃと音を立てて咀嚼する音が、静謐と化したレストランに響く。しかしその咀嚼音も二,三度だけで、あっさりと青年は五〇〇グラムの肉を飲み込んだ。グウッと白い、吸血鬼でなくても齧り付きたくなるような咽喉が膨らむ。
 それからは機械的な作業のように、青年の“食事”は続いた。肉と野菜とスープと、次々に青年の口に放り込まれ、碌に噛みもせずに食道を通って青年の胃の腑を満たしてゆく。
 店員たちは、生唾を飲み込むようにしてその様子を見守っていた。或る者は頬を高潮させ、或る者は食い入る様に、魅入られるように凝視して。誰もに共通するのは、こんな思いだった。『食事とはかくも淫らな行為だったのか』、コレである。
 運ばれた料理を口に運ぶまでのその仕草、滴る肉の油で店内の照明の明かりをヌラヌラと照り返す唇、肉片を張り付かせた白い歯、咀嚼の度に大きく膨らむ咽喉と頬、それらを淡々とこなす青年の無表情の美貌。ああ、見つめる誰もがえもいわれぬ官能の電流に背筋を襲われていた。
 神よ、何故このような天使を我らが前に御遣わしになられたのか、神を崇める徒がいたならば、その場でひざまずいて問うような、異形の光景だった。
 青年の頬に伝わる血と滋養分とが混じりあった液体の一滴を求めて、人々は狂乱するだろう。ぐちゃぐちゃと聞え無いはずの音を聞き、固形物があの歯で千切られ、相愛不明のどろどろの液体へと変わり、青年の血肉に変る。事によれば、その食されたモノと変りたいとすら思いかねない、青年の魔性の“美”。
 レストランの中で繰り広げられるこの光景は生命に必要な、あるいは嗜好を満たすための食事という行為ではなく、神に奉げる一種宗教的な儀式めいた行為であった。おそらくは、神の食欲と性欲を満たすかのごとき儀式。その神は慈悲深き神か、荒ぶる闘争の神か、災いなす邪神か……。
 最後にメロンを舐め尽くすように食べつくしてから、ケプッとやや下世話な音を立てて、青年は食事を終えた。端に涙さえ浮かべた目じりを拭って、あ~あ、とのんびりした欠伸をひとつ。膨れて当然、というか明らかに入るはずの無い量を収めた腹は、ちっとも膨れず、更にはこんなことを青年は言ってのけた。

「ちっとも膨れない。やっぱり人間の食べ物じゃダメか」

 知悉していたことを再確認するような、つまらなそうな声であった。この、レストランを静かな狂乱に陥れた青年の名を八千草(やちぐさ)飛鳥(あすか)、十八歳にして五十七名以上を解体した希代の殺人鬼、そして、“神を喰った男。”

* 

 夜の闇に、月が出ていた。明るく、人がその歴史の中称え、憧憬を込めて見上げてきた清浄な光であった。太陽の光を反射して輝いているなど、嘘としか思えないような、綺麗な輝き。その光が照らし出すのも、やはり美しいものであったろうか。
 一人、アスファルトで作り出された人造の道を行く少女の姿があった。月光に負けず劣らず金に煌く細やかな髪、苛烈とも強固とも言える意思の光を輝かせる聖緑の瞳、華奢な外見を形作る体の流麗なライン、美少女という言葉をコレほど体現している女性も珍しかろう。今からすぐに世界一の美少女にけんかを売ってもいい勝負ができそうだ。
 白いブラウスと青いスカートをはためかせながら、編み上げのブーツでしっかと地面を蹴って、驚くべき速度で市街を駆け抜けていた。実際それは、比喩でも何でも無く文字通り、風のごとき身のこなしの速さだった。冬木市で極少数、世界規模で問えば、魔術に関する造詣の深いものなら、この地を関連付けてこの少女の正体を看破したかもしれない。
 “サーヴァント”。奴隷・使い魔の意味ではない。未来・現在・過去と時間軸に捕らわれず、人々の信仰を集めるほどに偉業を成した超人・英雄・偉人・悪鬼たち。それらが登録された“英霊の座”より、世界に七百以上確認されている聖杯の内、冬木に存在する“願望機”としての機能を持つ聖杯と魔術師によって召喚されるゴーストライナーの事だ。
 今、少女=セイバーはマスターの意思を無視した独断で行動していた。召喚に応えてまだほんの数日だが、自分のマスターの行動を振り返ると、共に戦場に立つことがマスターにとって非常に危険であると判断したためである。
 マスター自身の人間性には好感を持てるものの、既に人ではない英霊たるこの身を、女の子扱いし非戦闘員と考えて強敵の前から下げようとする、代わりに自分から戦おうとする、セイバーを庇って重傷を負う、サーヴァントを連れずに一人で出歩いて危険な眼に遭う、等など。
 自身の命に無頓着というか楽観的に過ぎるというか、聖杯戦争を甘く見ているというか、いずれも本人自身は大して反省はしていない上に、おそらくは同じ事を繰り返しかねない性格だ。無論それは、行過ぎなければ尊ぶべき自己犠牲の精神、人間の善性と言えるのだが、セイバーのマスターはその行過ぎる例外であった。
 ゆえにセイバーはマスターには独断で、敵と思しきサーヴァントがいる柳洞寺を目指し、夜の人の街を疾風の速さでもって駆けていた。セイバーはセイバーなりに己がマスターの安否を気遣っての行動であった。
 それは互いに、セイバーもマスターも独りよがりな、思いやりという概念で包み、優しさという言葉で押し付けるエゴであった。まあ、客観的に二人の言動を見るものがいたら、百人中大多数がセイバーの言を支持するだろうが。

 月の這わせる影さえ軽やかに見えて、セイバーは寺の近くまであっという間に駆け抜けていた。もうまもなく見えるであろう敵との邂逅に備え、四肢に“意”を巡らせ、思考を戦闘へと切り替える用意をする。今宵一人、敵が減る。そのはずだった。目の前に一人の男が立塞がるまでは。
 月光と電子の光に揺れるのはコートの裾が投じた影であろう。ややうつむき加減な顔立ちは、セイバーからは影になって見えない。どいて通ろうとするまでも無く、目の前の男が自分の邪魔をしていると、セイバーは直感的に理解した。いうなれば悪意のようなものと、名状し難い不吉な気配とでも言うべきものが、目の前の青年から零れ出している。

「邪魔をしないでもらおう、私は急ぎの身だ」

「ああ、それはごめんなさい。でも僕の用もすぐ、とはいかないけどそんなに時間は掛かりません。僕は、あなたを殺したいだけなんです」

 右手をコートに入れると、青年――八千草飛鳥は布に包まれた凶悪な刃物、渡り四十センチ以上の肉切り包丁を取り出し、鋼を月光に煌かせた。セイバーの瞳が細まる。可憐な少女に見えてその実、セイバーの戦闘能力はかるく人の域を超えている。英霊とは人の域を超えた超越存在の別称であった。
 通りすがりの殺人鬼と出会うとは、なんとも不運なことだ、皮肉めいたことを考えていたセイバーの耳に、飛鳥の独白が届いた。

「ああ、あなた人間じゃありませんね。アイツはまだ寝ぼけているけど、それ位なら僕にも解ります。久しぶりに僕の意思で殺りたくなって丁度人が来たと思ったら人間じゃないなんて……。でもあなたなら楽しめそうだ。アイツが目覚めると人を殺したくなくなる。早く済ませてしまいしょう」

 ただの殺人鬼ではない? と、ほんの少し疑問に思うものの、この男は今この場で処断した方が世のためだろう、と結論づけるのにさしたる時間は要らなかった。飛鳥は包丁を振り上げ、まっすぐセイバーに切りかかった。決して速いとも力強いとも言えぬ素人丸出しの一撃であった。
 なのに、背筋に悪寒が走った。

「っ!」

「避けないで下さい。狙いが狂ってしまう」

 セイバーのかわした、真っ向から振り下ろされた一撃は、勢い余って深々とアスファルトを貫いていた。えい、と気合の抜ける掛け声と共に包丁を引っこ抜いて、今度は横殴りに銀の弧が描かれた。月夜に煌く鋼の光、再びセイバーはそれをかわす。速度も無い、力強さも無い、技巧も無い、ただがむしゃらに人を殺す、そんな一撃だ。脅威足りえないはずなのだが……
 ブン、と音だけは一丁前に凶悪な唸りを立てて迫る肉切り包丁を避けようとした時、ついにセイバーは見た。希代の殺人鬼八千草飛鳥の、世界一の美男美女も田舎のとっぽい男女に変えてしまう美貌を。美しいものを天使というなら天使の顔を、美しいものを悪魔というなら悪魔の顔を!
 ギンと刃と刃とが噛合う危険な音を立てて、飛鳥の包丁は見えない何かに止められていた。一瞬恍惚とした意識に支配されたセイバーが、美貌の魔力から脱出するまでの間に包丁はかわせぬ距離まで迫り、咄嗟にセイバーは自身の持つ唯一無二の武器を取り出さざるを得なかったのだ。

「見えない剣、ですか? やっぱり人間じゃない、どこに持っていたんですか。卑怯ですよ?」

「な、何を言うか!」
 
 間近に迫った飛鳥の性質の悪い美貌に、我知らず頬を赤らめたセイバーが怒号と共に飛鳥を容易く押し返し、尻餅を着かせた。うわわ、と飛鳥は情けない声をあげながら、とっとっとと危なげな足取りで立ち上がる。
 セイバーは魔力で編み上げた鎧は纏わずに、見えざる剣、―仮に”“風(ふう)王(おう)結界(けっかい)”としておく―を右下段に下げ、睨み付ける眼光すら刃のごとく飛鳥を見据える。

「貴様、ただの殺人鬼ではないな? 何の目的があってこの街にいる、それとも元よりこの地で悪行を成していたか!」

 尋常ならざるセイバーの気迫と威厳を伴った一喝に、飛鳥はひい、となんとも情けない、これがとんでもない殺人鬼の挙げる声か、と思いたくなるような悲鳴を零した。

「ご、誤解があります。僕はこの街生まれじゃありません。ここに来たのは初めてです。ここに来たのは、アイツを殺せる何かがある、と勘が働いたからです」

「アイツ?」

「そう、アイツです。病院から逃げ出した僕の前に現れて、僕に喰われたアイツ。味は無くて、血はひどく水っぽかったかな。で、そいつは今も僕の腹の中で生きているんです。アイツが現れてからの僕は僕じゃ無くなって来ているのです。怖い目やひどい目にもたくさん会いました」

 どうも、この美青年はアイツとやらに操られているらしく、情状酌量の余地ありか、とセイバーが思案し出した所で、飛鳥はとんでもないことを言い出した。

「僕はただ人を殺せれば其れで良いんです。世界がどうなろうと興味は無いし、アイツを喰ったのだってもっと楽しくたくさん殺せるからと思ったからなのに。なのに、アイツを喰ってから僕はいつもなら殺しているはずの獲物をたくさん見逃してきました。人の匂いを嗅ぐ、姿を見る、息遣いを感じる、それだけであんなにも僕の胸を焦がしたあつい衝動は、ずっと僕の胸から消えてしまったままなのです。そりゃ、アイツの差し金以外にも何十人かは殺してきましたけど、それでもアイツの意思に外れることはできない。僕は僕の意思で殺すからこそ楽しいのに」

「……」

 どうも“アイツ”とやらに操られている方が世間のためのような気がする。あまりの発言に呆然としていたセイバーも、嫌悪と侮蔑をはっきりと浮かび上げ、目の前の青年を生かしておくべきではない、と思うほどだ。

「それで僕は、僕の意思で人が殺せない位なら、死んでしまおうと思って、いろいろ試しました。それこそ<新宿>なんて恐い所にも行きました。けれど結局ダメだった。アイツが僕を死なせてはくれないのです。そう落胆していたんですが、不意に、アイツのせいで妙に鋭くなった勘が、何かあると囁いたのです。それに従ったらこの街に来ました」

 聖杯、この青年はそのアイツとやらの影響で常人の範疇から外れているのだろう。不死を得た者が死を望む。不老不死を人類の夢というなら、なんとも皮肉な話だ。風王結界を構えなおし、セイバーが無慈悲な光を瞳に称えてこう、飛鳥に尋ねた。

「死を望むか殺人鬼、ならば我が剣で一刀のもとにその首落としてくれよう」

 凄むセイバーにあわわ、と真っ青になって飛鳥はあわてて弁明しだした。自分の獲物に苦痛と恐怖を与えて、じわじわと嬲り、絶望に表情を染め上げるのはもはや生き甲斐なのだが、自分の痛みに関しては髪の毛が一本引っこ抜かれるのすらごめんなのである。
 他人の苦痛で快感を感じ、自らの痛みには過敏でとても許容できない、サディストの典型的な例だ。

「い、痛いのはいやなんです。痛くないようにすっぱりとじゃないとごめんです」

 情けない。十代半ばか後半ごろの少女を前にして、この様である。セイバーが実情はとんでもない超人とはいえ、この一言に尽きるというか、何というか。まあ、こういう性格なのだからどうしようもない。飛鳥が喰った神も、この青年の捻くれた性格を変える気は無いらしい。

「それに貴女から強い力を感じますが、それでもダメです。……アイツの方が強い」

 ざら、と飛鳥の口調にこもった凶悪な気配に気づき、セイバーが一足飛びで後退する。その胸元が、横一文字に切り裂かれていた。不意を突いた飛鳥の肉切り包丁の一閃である。セイバーの持つ未来予知じみた直感技能を無効とならしめたのは、“神を喰った男”八千草飛鳥という、ある意味現人神と呼べる存在が有する異能力が原因か。
 ヒュッ、というわずかな風きり音は、相変わらず速いとは言えない飛鳥の、しかし目にも留まらぬ高速移動のもたらした音だった。ギチリ、鍔迫り合いの状態から、飛鳥の尋常ならざる、まさに神がかった膂力が風王結界を通してセイバーに襲い掛かる。
 セイバーの首に食い込む肉切り包丁を想像して、飛鳥は久しぶりにいきりたつような興奮に身を浸した。この時点で飛鳥は、セイバーがいかなる存在か理解していなかった。青く何かが光った、そう見えた次の瞬間、飛鳥の体は二十メートルも吹き飛ばされていた。
 ドシャッとアスファルトに叩き付けられ、ゴロゴロと転がってからようやく止まり、ヒイヒイ言いながら何とか立ち上がる。恐る恐るセイバーを振り返れば、そこには暴力的という言葉でも足りぬ圧倒的な闘気と魔力とを纏う鬼神の如き剣騎士が居た。魔力放出を行っているセイバーの姿である。
 コツリと音を立てたセイバーのブーツの音にさえ、ひえ、と飛鳥は脅える。脅えた相手を嬲り殺すのは大得意だが、その獲物に抵抗される、ましてやこれほどの馬鹿げた存在相手など考えることすらできなかったのだ。飛鳥はようやく最初から規格違いの化け物と相対した事に気づいたのだった。

「腕の一つも覚悟するが良い。我が剣で貴様のその腐りきった性根を切り刻んでくれる」

「い、嫌ですよ! この、殺人狂」
 
 お前が言うな。もはやかける言葉さえ無い、とばかりにセイバーは、アイツを喰った事で尋常ならざる力を与えられた飛鳥ですら視認できない神速で踏み込み、肉切り包丁を持つ飛鳥の右手を切り落とすべく風王結界を振り上げた。切り下ろし、世にも稀な美貌の殺人鬼が隻腕に変るまで千分の一秒の時しか残されていない。
 その刹那の交叉で、飛鳥の左手から銀の流星がセイバーの首へと繋がる。思考すら間に合わぬ逡巡の攻防でセイバーが受け止めたのは、何のことは無い平凡極まりないステンレスの包丁であった。セイバーはマッハ前後なら容易く反応してのけるだけの眼と反射神経を有している。ただしその包丁を投じたのは、古の時代、この国を暗黒の支配下に置いた五月蠅成す荒ぶる神を、食った男なのだ。
 ステンレスの包丁にいかなる神秘が働いたのか、風王結界で受け止めたセイバーの体は、いくら小柄とはいえアスファルトを踏みしめた姿勢のまま、三十メートルも後方へと弾かれていた。
 ふんばるセイバーとステンレスのパワーの衝突によって削り取られ、砂塵のように舞うアスファルトの煙の向こうから、セイバーは邪悪に根ざした純粋無垢な殺人鬼を睨み付けた。飛鳥は、先ほどまでの心底怯えていた状態とはうって変わって饒舌になっている。

「ああ、アイツが少し眼を覚まし始めました。早くしないと……知っていますか? 鋼が肉に食い込み骨を絶つ感触、トクトクと流れる血液の鼓動が鋼を通して伝わり徐々に弱まってゆく感触、首の腱がぶつぶつと切れていく音と刃応え……貴女もたくさんその、見えない武器で殺したのでしょう? 理解できると思いますが」

「戯言を!」

 だが、大義と正義とを掲げて生前、セイバーが無数の命を殺めたのは事実ではあった。

「それらの感触を味わう事が僕の人生の全てでした。老若男女、醜美を問わずばらばらにされる相手が最後に浮かべる恐怖に狂った顔は、いかなる名匠の絵画も及ばぬ最高の名画でした。誰も助けに来ない暗がりに木霊する絶望の悲鳴は、まさに天上の音楽、甘美極まりない交響曲だったのです。恍惚と陶酔に満たされるあの瞬間。この世界の全ては僕のためにあると、確信できました。――アイツを食べてしまうまでは。僕の胸からは魂まで焼き焦がしてしまうような衝動は薄れ、アイツの興味のある無しに全て左右されてしまう奴隷に成り下がってしまった。分かりますか? 僕を僕たらしめていたもの、暗く禍々しい歓喜に満ちた殺戮の喜びは失われたのです。今の僕は死を求めて死ねず、存在意義を見失い、さまよう哀れなピエロなのです」

 飛鳥の独白は、まさに殺人の手段と過程、その結果を心の底から楽しむ悪魔の如き所業を吐露したものであった。そして善悪を別にすれば――まぎれもないこの若者の心情が、真摯に語られてもいた。自らの存在意義を失った青年の、悲哀と諦め、そして憎悪で彩った一人舞台。
 みずからを掻き抱く仕草さえしてみせた、飛鳥のその姿はどこかこの世ならぬ舞台で魅せられる悲劇の主人公のようであった。
 幸いセイバーはそれに惑わされないだけの精神力を持っていたが。この殺人鬼の内部の奴ごとこの世から葬る、それを腹の中で括る。しかし、セイバーは気付いただろうか、普段よりも凶暴になっている自分の思考に、理由は無くとも何となく目の前の青年を憎んでいる事に。それは五月蠅成す荒ぶる神の影響か。
 セイバーの様子に気付かず、というよりは眼中に入っていないのか、自己陶酔しているかのように再び語りだす。

「ああ、それでも今はあの衝動がほんの少し戻ってきています。貴女のその白い肌を血の赤に染めて、エメラルドのように美しい瞳を恐怖と絶望に染めて、百以上の肉片に解体できたら、ああ股間が熱くなってきました。切り開いた相手の傷口を抉る感触は射精に最適ですよ? ああ、失礼女性でしたね」

 実のところセイバーは生前異母姉との間に子供を作っており、男性の性的快楽を知っていたりする。全くの余談だが。
 優雅に肉切り包丁をゆっくりと上段に持ち上げて、飛鳥がセイバー目掛けて駆け寄ろうとし、駆け抜けた青い風に、袈裟斬りにされた。右肩から左肋骨までを斜めに切り下げられ、血が月光を反射して噴出した。あれ? と飛鳥は何が起きたのか分からない、という顔をする。
 駆け抜けた青い風はセイバー、すれ違いざまに風王結界で斬りつけた。ただそれだけだった。飛鳥の後ろに回ったセイバーが振り向き、吹雪の吹いているかのような氷雪の温度で飛鳥を見る。本人も知らぬ、押さえ難い憎悪が滾っている。荒ぶる神の影響であろう。

「痛い痛い痛い、ああ、何でこんなひどい事をするんです? どうして僕がこんな目に、痛い、痛いよう」

 ヒックヒックとしゃくりあげ、鼻さえ垂らしてうずくまり、胸の傷を押さえて痛みにのた打ち回る。動くたびに血が溢れ、飛鳥の全身とアスファルトとを朱に染め上げてゆく。この時セイバーは、眼前で苦しむ若者の、より苦痛に染まる顔と傷つき苦しむ姿が見たいという、本来の性格ならばあり得ない衝動に駆られていた。
 最強の幻想種“竜”の因子を持ち、数多の英霊の中でもトップクラスの能力と信仰を併せ持つセイバーでさえ、日本という国に召喚された以上は、国津神である飛鳥の腹の中のアイツの影響を完全には遮断できないのか。
 飛鳥が食った神は、かつて天津神に放逐された国津神の中でも、記録に残す事さえ恐れられた最凶の暴神だ。それは、目覚めれば世界中の邪神が覚醒すると『古事記』にも記されている荒神スサノオノミコトすらをも上回ると言われる神。飛鳥曰く『人間くさい』らしく、おだてに弱いが。
 いずれにせよ、セイバーは心中で沸き起こるドス黒い衝動に気付き、内心持て余していた。動揺を隠せないセイバーの耳に、痛い痛い、と泣いて苦しむ飛鳥の声が届く。ゴウと燃えたける不可解な憎悪の炎。
 それを何とか押さえつけ、多少考えてから死なせるわけにもいかないだろうか? とイマイチ判断しかねたがとりあえず止血か何かしようと近寄る。この事が発覚したらマスターとも一悶着起こさねばなるまい。うずくまり、グスグスとすすり泣く音を零していた飛鳥の肩に手をかけた。気が進まないのが見て取れる仕草だった。帰ってきたのは飛鳥のこんな声だった。

「ああ、今のでアイツが起きてしまった」

 諦めの混じった声に、八千草飛鳥ではないものの、圧倒的な気配が忍ぶ。途方も無い危機感に晒され、一気に飛び離れて、セイバーが風王結界を正眼に構えた。何時の間にか、青いロングドレスの上に、鈍色に月光をさんざめいて反射する、銀の甲冑を纏っていた。手甲と、首と胴体上部を覆う装甲に、腰の側面をカバーする蛇腹上の装甲は動きやすさを考慮したものであろう。
 こめかみにツッと伝わったのは冷や汗だった。セイバーの目の前に立つ八千草飛鳥はもはやただの美しい殺人鬼ではなかった。彼の中で目覚めたのだ。名も知られぬ、残してはならぬと抹消されたこの国のかつての支配者。世に災い成す凶津神が、五月蠅成す荒ぶる神が!

「良かった。どうやらアイツはあなたに興味を持ったようです。どうも目の前に立ち塞がる相手は打ち倒さないときが済まないらしくて、野蛮な事です。でも本当に良かった、これなら僕も少しは楽しめそうだ。ああ、それに……貴女は、美味しそうだ」

 ユラリと立ち上がる飛鳥の姿は幽明境に立つ幽鬼のように危うく、黄泉比良坂を越えてやってきた古代の荒神の如く、荘厳にして凶悪。周囲を歪めるかのごとく立ち上る妖気は、いや神気は、その腹の中にいる神のものか。
 セイバーが一度強く風王結界を握りなおす。挑むのか剣の英霊よ。神に、神殺しの所業に!?

 月は、その光景を恐れるかのように、雲に隠れた。

つづく



[11325] その17 ブルーマン × Fate ② R-15
Name: スペ◆52188bce ID:e0398f80
Date: 2010/06/18 22:28
本文には残酷な暴力表現や猟奇的な表現、食人の表現を含みます。本文を読み進め不快な気分になられたとしても当方は責任を負いかねます。読み進める場合はその旨ご留意ください。

その17『神を食った男・Ⅱ』

 晴れ渡った夜空に、煌々と照る月の美しい一夜だった。詩心の無いものも、詩のひとつも諳んじてみたくなる様な、そんな夜。万人の目を疑うような光景が、極東のとある街の一角で繰り広げられていた。
 金砂の如く月光の光で珠を結ぶ髪、荘厳ささえ伺える聖緑の瞳、白皙の肌が眩しく映る美貌。クレオパトラのそれに例えられそうな鼻梁のラインの主は、青いドレスの上に首周りから腰の両脇、それに腕先を覆う銀色の鋼を纏っていた。華奢な体躯からは鎧の重さにも耐えられそうにない印象を受けるが、今は雄々しく、その手に何か眼に見えぬものをもって、眼前の敵と相対していた。
 英雄譚に謳われるべく生まれたような、可憐にして希代の英傑である少女は、仮初の名をセイバーと言った。
 何かに怯えるように雲に隠れた月も、今一度姿を見せていたのだった。耐え難い好奇心に心動かされたように。あるいは、その美しい人を見る為に。
 彼は、右手に肉厚で、幅の広い肉切り包丁を持っていた。無造作な持ち方は、専業主婦にも劣る構えに見えた。もっとも彼の専門は戦闘でも料理でもなく、人体の解体であったが。
 身にまとった黒いコートは、右肩から左肋骨までがすっぱりと切断されて血に汚れていた。先程まで地面を転がりまわっていたので埃や汚れも目立っていた。冬の空気に血は湯気を立てんばかりに次々と溢れていておかしくは無いはずなのだが、既に流血は止まっているようだった。セイバーによって与えられたはずの斬痕も、今は跡形も無かった。血の赤を散らした眩い雪肌が、衣服の切れ目より時折覗く。
 160センチにも届かないセイバーよりは頭一つ近く高く、180センチ前後はあるだろう。街灯の落とす影さえもしなやかで、たくましく、それは美しくさえあった。手を入れていない髪を無造作にかき上げ、彼はゆっくりとセイバー目掛けて歩き始めた。セイバーを天与の美貌とするならば、この男は天にも与えることのできぬ美貌であった。天の神も地の底の悪魔も虜にしてしまいそうな、妖しい、この世のものならぬ美貌。
 彼は八千草飛鳥と言う名前で呼ばれていた。18歳までに、57人の老若男女を解体した希代の、美貌の殺人鬼。そして今はこう呼ばれているのだ。“神を食った男”と。その周囲の景色が揺らいでいるように、セイバーの瞳には映った。
 八千草飛鳥はその胃に収めた神が目を覚ましたのだと言った。神代においてこの日ノ本の国を支配した暴神。五月蝿成す荒ぶる神。奈良の大仏が配された地下より現われた古代の神。揺らぐ景色は、神の顕現を示すものか。
 剣の英雄と現人神とでも呼ぶべき殺人鬼は、静謐な対峙を続けていた。不思議と宗教的な神性さと荘厳さとが入り混じった闘争の場が生まれ出ていた。次々と神秘が失われゆく現代に再現された神代の闘いなのだ。

「ああ、奴が急かしています。あなたを殺せと、食えと。……本当に、貴方は美味しそうですね」

 飛鳥の、誰もがうっとりと見惚れるに違いない紅の唇は、卑しく涎に照り光っている。欲情と飢えと興奮とが、飛鳥を支配しているのだろう。セイバーは激しい嫌悪と憎悪でもって、手の中の不可視の剣を握り直した。己の中に湧いた下賎な欲情の火を消し去るように、力強く。
 心からセイバーを求めている飛鳥の様子は、内容こそ忌まわしいが、愛の告白であったなら誰もが喜んで受け入れるに違いない熱意を持っていた。男も女も関係なくだ。セイバーは、飛鳥の求めに敵意で応えた。具体的にはその剣でもって。

「はあああ!!」

 気合の咆哮は裂帛の勢いで飛鳥を撃った。希代の殺人鬼ながら、その本性は臆病な飛鳥はそれだけで軽く怖気づいた。腹の中の神も、この性格は特に矯正する気はないらしい。小細工なし、これを外せば次は無いと言うほどの覚悟でセイバーは掲げ持った剣を飛鳥目掛け振り上げた。セイバーの一足で六メートルほどの距離が、剣を振るに最も適した距離にまで縮まるのは、瞬きをするよりも短い時間の間であった。飛鳥はそれに反応する素振りさえない。
 放出する膨大な魔力が、青白い光となって発光しセイバーを輝かせていた。真正面から飛鳥を両断する一撃は、雷光の速度と言ってもおかしくは無かった。飛鳥の美貌が正しく縦に両断され、切り口も鮮やかにゆっくりと横倒れになる。当たっていれば、そうなっただろう。だが現実は……。
 セイバーの足元に偶然転がっていた石を、セイバーが偶然踏みつけてバランスを崩し、偶然吹いた強風が舞わせた木の葉が、偶然セイバーの視界を塞いだ。全ては偶然だ。偶然が重なり合い、セイバーの一撃から飛鳥を救ったのだ。それはこの国の神と戦うということを表してもいた。この国に属するものはすべて神の味方と言っても過言ではないのだ。
 バランスを崩したセイバーの一撃は、わずかに飛鳥からずれて、剣風がアスファルトをいとも容易く切り裂くに終った。まるで偶然が飛鳥に味方したような現象の連続に、セイバーは内心驚きを覚えたがそれを表に出す愚は犯さず、即座に思考を切り替えて振り下ろした剣を、飛鳥の首を狙った切り上げに変える。
 ようやく気付いた飛鳥の視線が、セイバーを確かに捕らえていた。そして飛鳥が気付くよりも早く肉切り包丁を振り上げている右腕。背筋を駆ける、いや違う、汚穢な怪虫に体内を貪られるような感触がセイバーを襲った。飛鳥の意思よりも速く振り上げられていた肉切り包丁の刃が、月光に白々と輝いていた。飛鳥の意思でない一撃は、すなわち神の一撃ではないだろうか。

「速いですね。見えませんでした」

 眼を見開いて驚いた飛鳥である。本心らしい。振り下ろされる肉切り包丁、狙いはセイバーの首。迎え撃つようにセイバーが全霊を用いて剣を振るう。青白い魔力と不可視の神の気とが歪みとなって空間を陵辱していた。発生してるのは両者の刃と刃との交差点。体勢から言えば上から被せる様に肉切り包丁を押す飛鳥が有利だ。

「えい」

 気の抜ける気合を一つ漏らして、飛鳥はぐぐいと力を込め、体重を乗せる。セイバーは砕けんばかりに歯を食い縛り、天を支えたアトラスの様に飛鳥の一撃を堪える。

「ふっ」

 両手で握っていた剣の柄から、左手を離して飛鳥の、あるいは神の振るう肉切り包丁に見えぬ剣の刃の上を滑らせる。あわわ、と飛鳥はなす術なく体勢を崩し、無防備な体勢をセイバーに晒した。いちいち情けないのも、この美貌の殺人鬼の特徴だ。むろんセイバーがその好機を見逃すわけも無く、自分の傍らでこけるのを踏ん張るような体勢の飛鳥の胴を、握りなおした剣を振るって薙いだ。
 腰の半ばまでを切られた飛鳥が、噛み締めた純白の歯の隙間から低く悲鳴を零した。出血は驚くほどに少ない。いや、切られたはずの胴は既に半分ほど繋がっているではないか。神がこの殺人鬼から死を奪い去ってるのだと、直感的にセイバーは理解する。ならば微塵に切り裂くか、跡形も無く滅ぼすか。とりあえず首を落とし四肢を切り離す辺りが妥当であろう。残酷な行為だが、必要とあらば辞すつもりはセイバーには無かった。本来高潔なる魂の主であるセイバーにとっては好まざる所業だが、この場合躊躇を覚えるような相手ではなかった。
 剣を振りぬいた体勢から大海を泳ぐ魚のように淀みない動きでセイバーは振り返る。飛鳥はいまだ苦痛に苛まれ、痛みを堪えるのに精一杯だ。非情な一刃は断頭台さながらに飛鳥の首を薙ぎ、水を切るように抵抗もなく切り落とした。あっ、という表情で飛鳥の首はその胴から呆気なく落ち、倒れ付した飛鳥の右手が持っていた包丁の切っ先が、アスファルトに刺さった。

「なっ!?」

 セイバーの唇から零れる驚きの声。それもむべなるかな。包丁の突き刺さった先から始ったアスファルトの亀裂は、すぐ傍のセイバーの足元では人一人を飲み込む亀裂へと変わっていたのだ。その深淵はすべての光を飲み込むような暗黒の奈落だった。通されているはずのガス管や水道管は何処へ行ったのか、見る影もない。落ちるよりも早くセイバーは地を蹴って後退し、意思ある生物の様に迫る亀裂を更に避けるべく跳躍を重ねる。
 飛鳥の包丁が作り出した亀裂は延び続け、まるでアスファルトが巨大な生物の口と化したようにセイバーを飲み込むべく広がり続ける。

「埒が明かないかっ」

 忌々しげに吐き捨てたセイバーが、家屋の塀を蹴って飛び上がり、落下の勢いでもって,埒をあけるべく逆手に構えなおした剣を亀裂の先に向かって突き刺した。亀裂の長さは既に百メートルに及んでいた。ほとんど直感的な行動だったのだが、あながち的外れと言うわけでもなかったらしく亀裂はセイバーの剣の突き刺さった箇所で止まっていた。神の神通力に、セイバーと剣の霊格がかろうじて勝ったようだ。
 一か八かの賭けに勝ったことに少なからず安堵し、セイバーはついではっと顔を上げて、飛鳥を見た。飛鳥は、落ちた首を元通りの位置に押し付けながら立ち上がるところであった。斬痕は白っぽい線に変わったかと思うと、見る間に消えていった。

「痛い、と思ったのですがそれほどでもありませんでした。それにしてもひどい事をする女性だ。訴えますよ」

 それほどではないという割りに、眼の端には涙が溜まっている。彼にとって快楽に変わる痛みとは他者の苦痛であり、己に対する痛みは髪の毛一本引っこ抜かれるのさえ嫌なほど敏感なのである。典型的なサディストの性癖である。
 飛鳥がすっくと立ち上がると同時に、両者の間に生まれた亀裂は元通りにぴたりとくっつき、つい数秒前まで底の見えぬ亀裂があったなどは、直接目にしていないものは信じられまい。さらには、周囲の民家の住人には何の異常も感じられ無かったのか、騒ぎ一つどころか猫の鳴く声さえしないのだ。おそらくは冬木の誰もが何の異常も感じなかったのだろう。

「化け物め! ……流石は異教の神と言うべきか」

「僕にとっては疫病神ですね」

 あっけらかんと飛鳥は言う。本心から腹の中の神がうっとうしいのである。彼を彼たら占めている“殺人衝動”を、体内の神は意図してかせずにか抑制している為だ。

「ああ、本来なら貴方のような人なら匂いを嗅ぐだけで殺意が湧いたでしょう。なのに今僕のこの胸を焦がすのは腹の中のアイツの衝動なのです。僕が僕の意思で殺すからこそ僕は生き甲斐を感じられたと言うのに。ああ、そうだ、そうだとも。出会う人々を片っ端から殺し尽くす方が僕らしいのに。男も女も関係なく、老いも若いも関係なく、目に付いた端から、匂いを嗅いだ端から、足音を聞いた端から、体の奥底から湧き出す衝動に身を任せるべきなのに」

「貴様が生まれたのは、世界の過ちだな」

 自らに酔いしれるように、しかし心の底から告白する飛鳥の様子に、セイバーはますます嫌悪を募らせた。まさしく台詞どおりコイツは生れ落ちてくるべき存在ではなかったのだと、思い知る。

「そうですか? 昔外の世界を知る為に病院で読んだ本では、全ての命には意味があると書いてありましたよ?」

 首をかしげて、飛鳥は無垢な子供のようにセイバーに問うた。精神病院での生活は好ましからざる記憶だが、飛鳥の常識の一部を担っているのは、収容されている間に呼んだ数々の書籍なのだ。ちなみに『小学生の道徳』なども含む。

「ならば貴様の生命は、今この場で断たれる為にあったとしれ」

「ひどい人だ。怒りますよ?」

 むっと柳眉を寄せて、飛鳥はセイバー目掛けて歩き始めた。優雅と見える歩行は、疾走に等しい速度でセイバーへと迫っていた。あくまでも歩いていると見えるのにその実速度は飛燕。幻惑に等しい効果がセイバーに襲い掛かったものの、セイバーも歴戦と言う言葉が霞むほどの戦闘者。狙いをあやまたず飛鳥を捉えて頭部を割る一刀を放つ。ゆったりとした動作で飛鳥の肉切り包丁がそれを捉え、こらきれずに大きく後方に吹き飛ばされた。無様と言える姿勢で飛鳥はアスファルトに叩きつけられ、何度も転がってからようやく止まる。
 飛鳥は鼻水さえ垂らしながら何度もむせ返り涙を流していた。今度は痛かったらしい。頬や掌に幾つも擦過傷を拵え、雪肌の白と埃の茶色と血の赤が鮮明なコントラストを描いていた。
 ひいひい言いながら、うつぶせに倒れ付した身体を肘を突いて身体を起こして、恐る恐る強敵たる剣の英霊を探す。

「あれ?」
 
 居ないのだ。見渡す限りの視界の中にセイバーの姿はなく飛鳥は無防備にも、動きを止めていた。そして、腹の中のアイツが飛鳥に警告を与えた。はっと大きく背を逸らして上を見上げる飛鳥。その瞳には、月を背に風を切って自分目掛けて剣を向ける剣騎士が。月光に輝き、魔力放出の蒼を纏うセイバーの姿は、飛鳥をしてさえ思わず見入るほどの美しさだった。
 ほう、と零れる感嘆の溜息に遅れて僅か一瞬、セイバーの剣が飛鳥の心臓を貫いた。真上から串刺しにされた飛鳥は、アスファルトにうつぶせに倒れ付した状態から背を逸らした状態で縫い止められていた。

「ああ、があっぐ」

 明らかな苦鳴の声と共に、飛鳥の口からゴボゴボと音を立てて鮮血があふれ出し、咽喉元とアスファルトを赤く赤く濡らしてゆく。びくんびくんと幾度か痙攣し、不意にその体から力が抜けてゆく。その様子を確認してから、止めていた息をゆっくりとセイバーは吐き出した。まさか神殺し、生前……にも覚えがない所業を果たす羽目になるとは。
 削られた神経と張り詰めた精神がゆっくりと戦時から平時へと戻るのを感じながら、セイバーは飛鳥の体の上から降りて心臓を貫いた剣を引き抜いた。ズズっという音と共に肉と擦れる感触がセイバーの指に伝わる。不快さと、この美しい男を殺したのは自分であるという恍惚、そして罪悪感が猛烈に襲い掛かってきた。

「……」

 痛切な表情を浮かべるも一瞬、セイバーは振り切るように背後を、目指す柳洞寺を睨みつけた。
 一歩、グリーブがかつんと音を立てる、二歩、疲れたような歩みにはこのまま戦いを挑むことの愚を考えて迷っているようだった。三歩、愕然と、それは振り返る動きとなった。振り返るセイバーの動きと共に、それはセイバーの左首筋へと立てられた。
 白々と輝く歯の列は、真っ赤に染まりながらセイバーの肉を食い千切るべく思い切り深く突き立てられていた。確かに死んだはずの八千草飛鳥であった。ぞぶりぞぶりと、飛鳥の歯は深くセイバーの肉を抉ってゆく。

「ぐうっ貴様!?」

「……」

 ぶつんと言う音がしたのと同時に、飛鳥はセイバーの左肘の一撃で身体をくの字に折りながら、吹き飛ばされる。しかし今度は地面を転がると言う無様な真似はせずに、優雅に降り立った。コートがはためき悪魔の翼のようにふわりと広がっていた。そして今、くちゃくちゃと口元を動かし続けていた。唇の間からはセイバーの容易く千切れそうなほど繊細で細い金の髪とドレスの青い生地が、時折覗く。
 セイバーは右手一本で剣を構えなおし、確認するように左手を首筋に当てた。無い、確かにそこにあった肉が齧りとられていた。不思議な事に痛みはなく、血も出てはいなかった。これが、神に食われるという事なのだろうか?
 ゆっくりとセイバーの血肉を咀嚼していた飛鳥が、ゴクンと音を立てて飲み込んだ。じっとセイバーを見つめる眼は、まだ物足りないと語っている。首筋に当てていた左手を柄に戻して、セイバーは剣を正眼に構える。

「ああ、お腹が温まります。……竜? ですか、この味は。なるほど本当に人間ではないのですね。アイツも昔食べた事があるそうですよ。時々海の外からやってくる竜を相手に闘い、食べていたようですね。一番美味しく食べるには肛門から手を突っ込んで直接内臓を引っ張り出し、それを塩漬けにしてから三日間水に漬けててふやかすそうです。頭は竜が生きている間にそのまま丸ごと食べるのがお気に入りのようですよ。口の中で徐々に力を失ってゆく感触がたまらないそうで。後は鱗を一枚一枚剥いで、四肢は陽に干してから、その他の肉は血の滴るのを頂くのが流儀ですか。爪や牙、鱗はおつまみにするのが良いそうです。滋養はたっぷりあるようですね。アイツは本来の神の食事を長い事とっていませんからハラペコなのですが、いくらか足しにはなったようです。あなたもそうして頂きましょう……なんて野蛮な。
そういえばもう一つ分かりましたよ。アイツは怒っているのです。自分の国に余所者が入り込んでいる事に。貴方は他所の神ではないようですが、この街のどこかからはそいつらの匂いがします、それと気配も。僕の腹の中のアイツは他所の連中が本当に気に入らないようです。何しろこの国の神でも毛嫌いしているくらいですからね。全くいい迷惑ですよ。
 ねえ、本当に僕は、貴方を食べるつもりなんてないのですよ。美しく気高い貴方が怯えて無様に命乞いをし、恐怖にその美貌を歪めながら僕に殺されてくれればそれでよいのです。なのに、今の僕は貴方が食べたくて仕方ない。何てことだ」

 心から嘆きながら、飛鳥はゆっくりとセイバーに迫る。自らの芸術の未完に懊悩する青年風ではあるが、飛鳥の唇からはだらだらと涎が零れ落ち、コートやアスファルトにぽつぽつと染みを作っている。スラックスの股間は張り詰めていた。性的興奮と食欲の極みに達しつつあるのだ。

「外道めっ。邪神に魅入られるのも仕方あるまい。貴様のその邪悪さではな!」

 セイバーは、自らの清廉な精神が訴える嫌悪感と眼前の美青年を必ずや討たねばならぬという使命感に突き動かされた。世に放たれたこの男を放置すれば、未曾有の災厄が世界を襲うと、正しくセイバーは理解していた。
 同時に、目の前の青年の不死ぶりについても、打破すべく思考を巡らす。首を落としても即座に回復してみせる再生能力。いや、再生とも厳密に言えば異なる印象を受けるが、とりあえず神の力さえなければ眼前の青年はセイバーの敵たり得ない。しかしもはや神は目覚めている。

(先程奴が作り出した亀裂を止める事はできた。神秘はより強い神秘に破れる、か。聖剣ならば、あるいは。いやこれしかないか)

 聖杯戦争における現状を鑑みれば聖剣をサーヴァントでもない相手に使用するのはもっての外だが、相手が相手だ。ひょっとしたら自分達以上にとてつもない魔性と剣を交えてしまったのだから。

(聖杯。我が誓い、我が願い。この場をやり過ごしても魔力の不足は夥しいか。だが、それでも望みは繋がる)

「……一人の騎士として、貴様のような存在を見過ごすわけには行かぬ。貴様はいずれ無辜の民に際限なき災厄となって降りかかろう。今ここで、我が剣を持って禍根を断つ」

「……そう、でしょうね。しかし禍根を断つ、ですか。そうしてもらえるなら僕としてもありがたいのですが。できますか? 貴方に」

 どこか虚無的なものを漂わせて飛鳥はセイバーに問うた。声には真摯さが込められていた。唐突にセイバーは理解していた。八千草飛鳥は疲れているのだと。死を求めても死ねぬ不死者。己を己以外の何かに支配される事の恐怖。初めてセイバーは、目の前の美貌の殺人鬼に、ほんのささやかな、一抹の憐憫を感じた。

「跡形も残さぬ」

「それなら痛くなさそうですね」

 それなら、とほっと一安心した飛鳥の声だった。少なくとも死を望んでいるのは事実なのだ。ただ痛みを感じるようなのは嫌なだけだ。奇妙な和やかさみたいなものが両者を繋いだ。ほんの一瞬だけ。
 腹の中の神は異を唱えたようであった。飛鳥に襲い来る猛烈な飢餓感と本来の殺人衝動は瞬く間に彼の思考を鮮血に彩った。唇の端から涎を零しつつセイバー目掛けて跳躍する飛鳥。聖剣の解放が先か振り上げた肉切り包丁が振り下ろされるのが先か。
 そして、夜の街の一角を白い炎が照らし挙げた。ちょうどセイバーと飛鳥がそれまで立っていた場所の中間まで飛鳥が飛翔した所で白炎が飛鳥を飲み込んだのだ。何!? と誰何の声を挙げたセイバーの耳に、低く何か呪文のようなものを唱える声が聞えた。炎に蹂躙された飛鳥はそのまま地面に落ちたかと思うと、脱兎の勢いで地面を蹴り、二十メートルも跳躍して見せた。そこに、びらびらと真白な、蜘蛛の糸に似たものが何百本と襲い掛かった。
 たちまち糸の触れた民家の屋根や電信柱、炎の中の飛鳥から白い煙が上がる。糸は強烈な溶解能力を持っているらしかった。炎と新たな糸の来襲を、銀色の弧が引き裂いた。飛鳥の手に持つ肉切り包丁が、神の意思と力で振るわれたのだろう。身に纏っていた衣服が全て焼け落ち、体のあちこちを炭化した飛鳥がそこに居た。唯一顔だけは無傷であった。
 そしてセイバーの背後の闇を睨み付け、低く唸る様に言った。どこか呆れてもいる。

「貴方達はこんな所まで」

 つられて振り返ったセイバーの瞳に、一人の尼僧の姿が映った。月光さえも吸い込んでしまうような妖しい、爛熟した妖花のような美貌に、僧衣を押し上げる豊満かつ淫靡な肢体。匂い立つような色香と、神聖な雰囲気とが混在した若き美貌の尼僧。おもむろにセイバーに向かって頭を下げて、こう言った。

「秋光尼(しゅうこうに)と申します」

 高徳の聖人のみが有する清浄な雰囲気と、どこか娼婦顔負けの色香を持った助っ人に、セイバーは戸惑った様だった。

「あの方とは多少の縁持つ者でございます。人ならぬ御方。何をしようとなさっているのか未熟なこの身には分かりかねますが、お命の危険に及ぶ事である事だけは分かります。どうかお考え直しくださいませ。代わりと言っては何ですが、この場は私共めがお引き受けいたします」

 震える睫毛の元、憂いを湛えた瞳に炯炯と宿った猛寧な光をセイバーは見逃さなかった。

「まずは、感謝を。しかし、彼は」

「ご懸念無く。私共も、彼の神を討ち果たさんとする者でございます」

「私共?」

「あちらでございます」

 信心が厚いかどうかはともかく異教の徒であるセイバーに対し、あくまでも恭しい態度を崩さぬ秋光尼が指し示す方をセイバーもまた見た。素直に従ったのも、秋光尼に敵意の欠片も無い事が理由だった。
 月夜に輝く裸体を晒す八千草飛鳥の前に、平凡なサラリーマン姿が立ちはだかっていた。古代ギリシアの彫像さえも恥らうと見える裸身を前に、情欲と殺意を万と湛えて、サラリーマンは銀縁眼鏡の下で眼光を鋭くした。姿そのものは確かにただのサラリーマンであろう。ただし、何も無い空中から、何かに掴まっているかのように逆さまでなければ。

「また会ったな。色男」

 かつて奈良の大仏が見守る中、米軍の超能力を持った軍人の通訳を果たした江口という名の男は、憑いた土蜘蛛の意のままに喋った。

「僕の尻の味が忘れられませんでしたか?」

 飛鳥は史上最悪と呼ばれた美女達でさえ届かぬ妖しい淫笑を浮かべた。かつて土蜘蛛に尻穴を掘られた時の事を言っているのだ。その際、土蜘蛛は掘っていた男を、牙の生えた飛鳥の尻穴に食い千切られている。さっと土蜘蛛の顔に朱が走る。憤怒の朱であった。顎の稼動域の限界を超えて土蜘蛛の口が横に開き、そこからあの糸が風に逆らって飛鳥へと降り注ぐ。
 それを逆らわれた風が土蜘蛛へと押し返した。人間とは思えぬ、まさしく蜘蛛の如き動きで土蜘蛛は跳ねた。着地したのは電信柱の頂上だった。

「ここへは僕の方が先に来ました。どうやらこの街には神が居ないようですね。人々を見捨てたか神の方が見捨てられたか、あるいは別の何かに敗北したのかもしれませんね。とにかく、ここは僕の味方です。五月蝿なす荒ぶる神といえども神は神。仮にも国津神と言うことでしょう」

「ちっ、これだから大陸の妖術師どもは好かんのだ。この国の理を理解せん」

「貴方が行動を共にしているのは何ですか? でも、腹の中のアイツもそれには同意見な様ですが」

 アスファルトの上、妖しい微笑みはそのままに飛鳥は土蜘蛛をねめつけている。両者の間を繋ぐのは神代に根ざす怨恨であった。かつて飛鳥が喰らいし神は、土蜘蛛の一族を生きたまま貪り喰らったのだ。ふっと飛鳥が力を抜いて、清々しいとさえいえる笑みを浮かべた。土蜘蛛は警戒を緩めぬままに怪しいな、と目を寄せる。

「貴方達と戦うの疲れます。僕は僕のやりたいようにしたいのです。といってもアイツがそれを許さないのですが。でも一つ分かりましたよ、ここ来たのは僕の意思であり、アイツの意思でもあった。アイツは気に食わなかったのですよ。他所の神の匂いをさせる連中がのさばるこの地がね。どういうことか分かりますか?」

「貴様の腹の中の奴は、この地に呼ばれた異国の神を皆殺しにするつもりか」

「純粋な神ではない混じり物のようですが、気に入らない事には変わりないようです。一柱も残さずに喰らい殺すつもりですよ。こいつは」

 そして手に持っていた肉切り包丁を飛鳥は手放し、重力に任されるまま包丁はアスファルトに突き刺さった。セイバーが、警告を出すよりも早く。
 その晩、八千草飛鳥が落とした肉切り包丁を中心に、半径百メートルという極小の地域を地震が襲い家屋は尽く倒壊。重軽傷者十四名を出す惨事が起きたのだった。

――続かないと思う。
風牙亭さまで投稿した時は投稿してよいものかと悩んだものです。しかしまあ腹の中の神様は<新宿>に行ったらなんともまあさらに強大な力の持ち主になってましたね。宇宙が破滅するだの<新宿>の妖気でも押さえ込むのがやっとだの、ドンダケー、と思ったものです。ではではおやすみなさい。



[11325] その18 魔法少女リリカルなのは × 無限のフロンティア EXCEED②
Name: スペ◆52188bce ID:e0398f80
Date: 2010/06/21 21:17
 魔法少女リリカルなのは × 無限のフロンティア EXCEED ②

注意:文のはじめごろは鬱展開です。高瀬舟的な行為があります。ピンときた方はしばらくは飛ばして読んでもおおむね問題ありません。

 『悪魔の国に来るは夜天の王』

 物心ついた時、私にはお父さんとお母さんはいませんでした。思い出しても思い出しても、私の名前を呼ぶ優しい声や頭を撫でてくれる手のぬくもり、抱きしめられた時の安心感を、私は思い出すことができません。
 気づいたら一人きりで、一人で暮らすには広すぎる家にいて、一人で生きてゆくには寂しすぎて。
 それでもお父さんとお母さんの友人だというギル・グレアムという外国の人が、生活できるようにとお金だけは援助してくれて。
 そのグレアムおじさんに拙い文字で手紙を書くことだけが、私のささやかな楽しみで。
 預金通帳を見ると確認できる振り込まれるお金と私から出す手紙だけが、私が一人きりではないと分かる証拠で。
 お買い物もお料理もお掃除もお洗濯も、全部、誰かが教えてくれるわけもなくて、私はたくさん失敗しながら、たくさん情けない気持ちやら泣きたくなるのをこらえて、がんばってがんばって、我慢して我慢して生きてきました。
 洗剤を入れ過ぎて洗濯機から泡が吹きこぼれたり、アイロンをかけようと四苦八苦した揚句に火傷してしまったり、料理の本を買ったのは良かったけれど漢字が読めなくて絵と写真の解説を頼りに作った料理が、とてもじゃないけれど食べられるものではない味になったり、包丁で指を切ったりお皿を割ったりなんて日常茶飯事。
 お風呂の沸かし方が分からなくて水風呂に震える体を押さえながら入ったり、たった一人ぼっちで眠る夜のさみしさに、ぽろぽろと涙を流して泣き疲れてからようやく眠るなんてことがしょっちゅう。
 少しは慣れたかな、と思いはじめた最近でも不意に部屋の電気を消して暗闇に包まれると、そのままずうっと暗闇の中に閉じ込められて私は誰からも忘れられて、このままどこか遠いところに行ってしまうような、恐ろしい気持ちになってしまう。
 手をつないで買い物をしている親子、公園で大きな声で笑いながら遊んでいる兄弟、仲良く話をしながら学校帰りの道を歩いている友達、そんなごくごく当たり前の光景ひとつひとつが、私にはとてもまぶしく、とてもうらやましく感じられました。
 けど私にはお父さんもお母さんもいない。私には外を思いっきり走り回る足もない。足が動かないから学校も休学してて、友達を作ることもできなくて、話をする人もいなくて、家には私以外誰もいなくて、私は生まれてからずっとひとりぼっち。いつでもどこにいても私がひとりで無かったことなんかありませんでした。
 グレアムおじさん、私は一人ではないんですよね? 
 グレアムおじさんは私の事を心配してくれていますよね? 
 グレアムおじさんは仕事が忙しいから私に会いに来てはくれないけれど、私の事を考えていてくれますよね?
 グレアムおじさんと私は繋がっていますよね? 
 私にはそれしか誰かとの絆がないんです。私はグレアムおじさんの顔も声も知りません。けれど、でも、グレアムおじさんが援助してくれるから私は生きていけています。
 グレアムおじさんは、私に生きていて欲しいと、ううん、そこまで思ってくれていなくてもかまいません。 
 ただ知り合いの娘だからと憐れんでくれているだけでもいいです。どうか、私が一人きりではないのだと、この狭くて苦しくて辛いだけの世界で、一人ぼっちではないのだと信じさせてください。
 お願いしますお願いしますお願いします。
 グレアムおじさんの顔を見てみたいとか、たくさんお話したいとか、そんな我がままも言いませんし、寂しいのも泣きたくなるのも我慢します、
 だから、お願いです。私がひとりぼっちではないのだと、生きていていいのだと、信じさせてください。お願いします。

――ひとりぼっちは寂しいよ、さみしいよ、怖いよ、こわいよ、助けて、たすけて、誰かだれか、お父さん、お母さん、グレアムおじさん。助けてよ、助けて……。
 
 けれど、いつまでも我慢する事が私にできるわけもありません。
 必死になって料理を覚え、洗濯を覚え、車椅子の私でも買い物に不自由しないスーパーを見つけ、掃除の仕方を覚え、ふと自分の事を顧みる余裕ができると、理解したくなくても理解できてしまいます。
 ああ、私の傍には誰もいてくれないんだな、自分でするしかないから家の事を必死で覚えたんだなという事が、嫌というくらいに理解できてしまう。
 気づいていないふりをして、寂しくなんてない、私は一人じゃない、そう何度も何度も自分に言い聞かせるけれど、それが嘘だっていう事は誰よりも私自身が知っている。
 いつまでも自分を騙し続ける事が出来るわけもない。孤独という現実から目をそらすための言葉は、私の心の奥でうっすらと積もり始め、最初は膜のようだったそれもいつしか山のように大きく重く暗くなっていきました。

――私って、いったい何のために生まれてきたん?
 これから先、このまま誰も傍にいなくて友達も作れなくてお父さんもお母さんもいなくて、ひとりぼっちで生きてなんになるん?
 こんなん、こんなんは嫌や。もう生きていたくない。

 だから私は、ある日、手首を切りました。冷たい剃刀の刃がほとんど抵抗を感じる事もなく私の左手首に沈むようにして切り裂き、体の中を流れる赤い血が瞬く間に溢れだしてゆきます。
 少しの痛み。わずかずつ血と共に流出してゆく熱と気力と命。
 私は私の体から失われてゆくその感覚に身をゆだねるだけ。
 水で満たされた湯船が、ゆっくりと私の手首から流れ出る血で赤く染まるのを見ながら、私はぼんやりと溶けてゆく頭で、ずっと謝り続けました。

 ごめんなさい、石田先生。いつも一緒にがんばろうって励ましてくれて、患者の一人でしかない私にたくさん優しくしてくれたのに。
 ごめんなさい、グレアムおじさん。何年もたくさんのお金を援助してくれて、私が今日まで生きてこれたのはグレアムおじさんのおかげでした。
 けれどそれも今日でおしまいです。最後に一目でいいから、グレアムおじさんに会いたかったと言ったら、それは我がままでしょうか?
 ごめんなさい、お父さん、お母さん。せっかく産んでくれたのに、私はお父さんとお母さんがくれた命を自分で絶ってしまいました。
 けれど許してください。もうすぐお父さんとお母さんに会えるかもしれないと思うと、私はとてもうれしくて、幸せな気持ちでいっぱいになるんです。もうすぐ、会いに行くからね。
 たくさんたくさんお話がしたいです。ひとりぼっちでどれだけ寂しかったか。普通の人達みたいに家族でお出かけして、お買い物して、時々喧嘩なんかもして、そういう風にする事を、どれだけ私が望んでいたのか。
 私はお父さんとお母さんに会えたら、言いたい事、伝えたい事、して欲しい事がたくさんある。抱きしめてもらって、頭を撫でてもらって、一人じゃないって言って欲しくて、そして、なにより名前を呼んで欲しい。
 私の名前を呼んで。私を見て。私がここにいるってことに気付いて。私はここにいるよ。私にも名前があるんだよ、そう私はいつも心のどこかで思っていたから。

 そして私は重たくなってきた瞼を開こうとはせずに、ただただ、ああ、これでもうひとりぼっちの悲しみや苦しさとはお別れできるんだなと、不可思議な安堵を胸に抱きながら瞼を閉じました。
 だから、気付かなかったのです。部屋の机に置いてあるはずの鎖で閉じられた本が、光を放ちながら明滅し、意識を失った私の体を光で包みこみ、遠いどこかへと飛ばしたのだという事に。

 その日、海鳴市から、第97管理外世界から八神はやてという少女が消えたが、その事を気に病む人間は、片手の指ほどもいはしなかった。



 陽の光も届かないような深海の底に沈んだような重たい意識が、ゆっくりと浮上してゆくような感覚。
 ここは天国? それとも自殺するような悪い子は地獄に落ちちゃうのかな? そうしたらお父さんとお母さんに会えない。それだけは嫌だな、そうぼんやり考えながら目を開くとそこには……。

「む、目を覚ましたようだな」

「……………………きゅう」

 頭の横から太くねじくれた角生やした骸骨がいました。真黒な眼窩の奥に赤い光を灯しながら、真正面から私を見ていました。
 あ、これは地獄に落ちたんやな、と心のどこかで囁く自分の声を聞きながら、私は再び深くどこか心地よい眠りの中に落ちてゆくのでした。

「ちょっとエイゼル! この娘の容体を心配していたのは分かるけど、いきなりあんたの顔を見せるのは不味いだろ!!」

「むぅ」

「そーだよ、そーだよ!! キュオンとヘンネにせめて猫フェイスの副長ならともかく、エイゼルはいくらなんでも心臓に悪いってば!」

「すまぬ」

「謝罪はそこのチビジャリにしやがってください。そして反省しやがれ、このガイコツ野郎」

「面目ない」

「ちょっと見習い、いくらなんでもうちの国王に対して言い過ぎなんじゃないかい?」

「そーだそーだ! この毒舌ロボ、普段から先輩であるキュオン達に対しても口は悪いし、仕事はさぼろうとするし、仮にもフォルミッドヘイムの王様に対して態度悪すぎ!」

「こりゃすんませんこってすばい」

「それがふざけているって言うんだよ!」

「反省しないってんなら減俸しちゃうからね! キモキザにクレーム付けてやる」

「チャラキャプテンにならお好きなだけクレーマーになってくだせい」

 という元気のよいやり取りが聞こえたけれど、ふたたび眼を覚ました時には覚えてはいませんでした。
 私が骸骨さんの顔を見て気を失ってからどれくらい時間が経ったかは分らなかったけど、再び目を覚ました時に見たのは、あの恐ろしい骸骨さんではなく綺麗な金の髪をストレートに伸ばした女の人。
 やや吊り目がちの目は、意識を覚ました私に対する安堵の色が浮かんでいました。私はどうやらベッドの上に寝かされていたようで、開かれた窓からは潮の匂いを含む風が白い清潔なレースのカーテンを揺らしながら吹き込んできている。

「ああ、目を覚ましたかい。言葉はわかる? どこか体で痛いところは?」

「えっと、痛いとかそういうのはありません」

「そうかい」

 ほっと一息吐いて、女の人は安堵した様子。うっすらと霧のかかった頭のままで、女の人をよく見てみると、私の頭の中には驚きの波紋が広がった。赤を基調として金属らしいものも縫い込まれているジャケットや無骨な手甲もすごいけれど、女の人の背中には真黒な鳥の翼が生えていたから。
 針金でも背筋に入っているみたいにぴしりとした姿勢で椅子に座って私の顔を覗き込んでいる。

(なんや、コスプレ好きのお姉さんに助けてもろたんか?)

 掛けられた毛布の下で手首を触ってみれば、そこには丁寧に巻かれた包帯の感触。自殺し損ねたんかあ、とどこか他人事のように感じる。けれどよくよく考えてみれば少しおかしい。
 そもそも私の家に用のある人なんてほとんどというか全く居ないし、診察日を過ぎても連絡のつかない私の事を心配した石田先生が、家を訪ねて死んでいる私を見つける可能性はあったかもしれないけれど、まだ助かるうちに私が見つかる事なんてないはず。
 ゆっくりと体を起こそうとすると、無理するんじゃないよ、と言いながら羽の生えたお姉さんが私を介助してくれる。
 寝たっきりだった時間が長かったのか、関節や筋肉が錆びついたみたいに動きは鈍かったけれど、何とか体を起こすのに成功する。ふう、と一息。

「あの、ここはどこですか? 病院、じゃないですよね?」

「まあ、ね。あたしはヘンネ・ヴァルキュリア。ここはエンドレス・フロンティアの北東にあるフォルミッドヘイムって国さ。お嬢ちゃんには聞き覚えのある地名でも国名でもないんじゃないかい?」

 本の虫という言葉通りに私にとって読書は生活の一部で、同い年の子たちと比べて知識は有るつもりだけれど、ヘンネさんの言うとおりエンドレス・フロンティアという地名は知らないし、フォルミッドヘイムというのもピンとこない。北欧神話で似たような語感の地名は出てきたけれど。

「ええと私は八神はやていいます。八神が名字で、はやてが名前でえっとひらがなではやてです」

「なに、まだ起きたばかりなんだ。そう焦んなくたっていいさね。ゆっくり考えて知りたい事からひとつひとつ質問しな」

 水飲むかい? とヘンネさんは枕元の机の上に置かれていた水差しをとり、ガラス製のコップに一杯水を注ぐと手渡してきた。断ることもないので、私は一口それを飲む。
 ごくり、と飲む音が良く響いて聞こえる。知らないうちに私の喉はそうとう乾いていたらしく、一口では止まらず結局コップが空になるまで一気に飲んでしまった。
 ぷはぁ、と一声出してから、私はヘンネさんの視線に気づき、たぶん恥ずかしさで頬を赤くしながらコップをヘンネさんに返す。とりあえず一息は付けたと思う。

「あのなんで私がその、ふぉるみっどへいむ? いうところにおるんでしょうか? あとヘンネさんのその羽って?」

「この羽は自前さ。私は有翼種だからね。このフォルミッドヘイムじゃそう珍しくもないさ。あんたの国じゃあこういうのは珍しいのかい?」

 と言いながら、体の一部であることを証明するように鴉のように真黒い翼をかすかに広げて緩やかに羽ばたかせて見せるヘンネさん。いや珍しいというか有り得ないというかなんというか、私は返事に困ってしまう。

「いやーなんというか、ふつうはおらへんちゅうか、テレビとか小説の中だけの存在というか、とりあえず私は生まれてこの方、ほんまに翼の生えている人は見た事ないです」

 なんでこんな冷静に言葉を選んで返事できとるんかなあ、私、と自分でも思いのほか落ち着いているような自分にびっくり。
 たぶん、自殺したはずなのになんで生きとるんかな、とかなんでこないな知らない場所にいて、天使や天狗じゃあるまいに羽の生えた人と話をしているんかな、とかそういうごちゃごちゃが頭ん中でひしめき合って、ぐるっと一周してなんか落ち着いてしまったんかもしれない。
 んん? 天使? そうなら死んだ後でも会う可能性は無きにしも非ず、ちゅう奴かもしれへんけれど、どうなんやろ。まだ会って十分もたっとらんけどヘンネさんは申し訳ないけど天使ってイメージと違うしなあ。いや、ま、天使と実際にあったことなんてないけれどもやな。

「そうなのかい? レイジやアクセルにKOS-MOS達は別に驚かなかったから、よその世界でもたいして珍しかないと思っていたけど」

「……あのよその世界って?」

 ヘンネさんの言葉の中で気になる言い方に、私は思わず聞き返してしまう。

「ん、ああ。ちょっと信じられないかもしれないけど、いいかい? 良く聞くんだよ」

 はい、と私は返事をし、こくりと自分でも知らないうちに息をのむ。ごくり。ヘンネさんの表情は真剣そのもの。コスプレっぽいと思ったヘンネさんの恰好も、ヘンネさんからすれば至極まともな格好なのかもしれなかったし。

「ここエンドレス・フロンティアは十中八九、はやてがいた世界とは別の世界、次元の壁で隔たれた異世界ってやつだよ」

「……はい?」

「その反応からすると、どうやら異世界なんてのはあんまり信じられていない世界から来たみたいだね、はやては。あたしみたいな羽の生えた人間てのはいなかったんだろ? それが異世界の証拠ってのにはならないのかい?」

「ええっと、いやいやいや、すみません、なんというか頭ん中がわやくちゃんなってしもうて」

「別に構わないさ。最近知り合った連中はバイタリティがありすぎてね。はやてみたいな反応はかえって新鮮だよ。ま、わけのわからないうちに知らない所にいて、初対面の人間にここは異世界だ、なんて言われりゃはやての反応が普通なのかもしれないけどさ」

 ヘンネさんは気にしなくていいと言いながら肩を竦める。話からすると私以外にも、その、違う世界からやってきた人らがいるみたいやけど、私、ほんまに違う世界に来てしもたんかな? 頬を抓ってみると、うん、痛いわ。
 私がうんうん唸っていると、ヘンネさんは机の上に置いていたゴーグルと羽飾り付きの、ティアラのような額当ての様なものを着けて椅子から立ち上がる。

「すまないね。あたしはこれから仕事に出かけなきゃいけなくってね。食事は軽いものだけどすぐに持ってこさせるから、それを食べてもう少し眠っておきな。わけのわからない目にあって不安だろうけど、はやて一人分くらいの衣食住なら面倒見れるから、そこんとこだけは安心しな」

「は、はい、そのありがとうございます」

「いいさ。じゃあ、ね」

 ヘンネさんは片手をあげて私に返事をして、重厚な大理石の様な扉を開いて部屋を出て行った。なんや頭の中はまだ混乱しまくっとったけれども、とりあえず考えても答えは出そうにないから、私はぼんやりと窓の外を見る。
 青い海が延々と広がる中に金属製の橋というか道路というかに繋がれて、東京タワーよりも大きそうな尖塔がいくつも青空に向かって建っている。私がいるんもああいう尖塔の一つの中かな?
 すぐ後になってファンタジー小説に出てくるエルフみたいに耳の尖ったお姉さんが持ってきてくれた食事は、あっさりとした味付けの魚料理やった。見た事のない魚だったけど付け合わせのスープやパンもおいしそうな匂いだったし、くう、と鳴ったお腹の虫に負けて、私はそれをぺろりと平らげてしまった。
 めしうま。
 どうも私が目を覚ましたのは朝だったらしく、どうしたもんかなあ、とぼんやりベッドに横たわってうつらうつら高瀬舟を漕いでいる間にお昼になったみたいで、ぼんきゅっぼんのエルフお姉さん(後で魔族と知った)が、今度はお肉中心のずっしりとしたメニューを持ってきてくれた。
 これまためしうまやった。フォークとナイフが止められんかったのはここだけの話や。
 あかん、このままやったら豚さんか牛さんになってまうんではないやろか。と三時のおやつに出てきた『若くてもババロア』というふんわりとろ~りなババロアを三個も食べてからそんな事を考えているとノックの音が聞こえてきた。
 は~い、と答えると仕事が終わったのか時間を見つけてきたのか、ヘンネさんと赤いとんがり帽子を被り、耳が柳の葉っぱみたいに尖っている女の子が一緒に入室してくる。
 女の子の方はヘンネさんのと良く似た袖なしのジャケットを着ていて、二人の仕事先が同じ所なのかもしれない。まあ、流行のファッションという可能性もあるけど。私があれを着ても似合わんやろなあ、と私はのんびりとした事を考えていたりする。

「お邪魔するよ、はやて」

「はやて、元気にしてた~?」

 女の子の方はなんとも親しげな調子でにこにこと笑みを浮かべて私に声をかけてくる。なんや初めて会うタイプやね。というかそもそも私の人付き合いの範囲は凄まじく狭いし、知り合いと呼べる人もほとんどおらんかったけどな。
 食べきった若くてもババロアのお皿を枕元の机の上に置いて、私はベッドの上で二人に向き直り、ちょこんと頭を下げて挨拶。

「こんにちは。ヘンネさん、もうお仕事はいいんですか? そっちの子は初めましてやろか?」

「とりあえずひと段落さ。はやての事も心配だったしね。それとこっちはあたしの同僚。ほら、挨拶しな」

「言われなくてもするってば! キュオン・フーリオンだよ。ヘンネとは同じオルケストル・アーミーの仕事仲間。キュオンの事はキュオンでいいよ。キュオンもはやてって呼ぶから。
 あとね、はやてとは一応初めてじゃないんだよ? はやてはエイゼルの顔を見てすぐ気絶しちゃったけど、最初に目を覚ました時にキュオンも居たからね」

「エイゼル……さん? 私が最初に目を覚ました時っていうと、ひょっとしてあの骸骨さんの事?」

「骸骨さん、ね。まあ、エイゼルの顔はその通りだから否定はできないね。その骸骨さんがあたしらのリーダー、エイゼル・グラナータさ。覚えておいて損はないよ」

「はやては一目見てすぐ気絶しちゃったけどね~。けどその分忘れようがないんじゃない? 怪我のコーミョーだね」

「確かに忘れられへんと思います。インパクトあり過ぎや」

 いやあ、あれは我ながら気絶しちゃったのも無理ないと思うで。目を覚ましたらいきなりしゃれこうべやもんなあ。オレ、ガシャドクロ、コンゴトモヨロシクってなもんやもん。
体には不自由な所あるけど、平凡に生きてきた私にはちょい刺激が強すぎたっちゅうもんやで。
 ヘンネさんとキュオンちゃんの上司ってことは、私の面倒を見てくれている人っちゅうことになるんかな? グレアムおじさんと言い、どん底の状態にならずに済むように誰かが助けてくれるんは、神様のせめてものお情けなんやろか。
 にしてもエイゼルさんには悪いことしてしもうたな。今度会った時には謝らんと。いや、その前に今度こそ顔を見ても気絶せんように気を張っておく事が大切かな。

「正直だね、はやては。気にしなくていいさ。エイゼルはそんな事を気にするような小さな男じゃないしね」

「そーそー、なんたってキュオン達オルケストル・アーミーのリーダーだもんね!」

 そういうキュオンちゃんの顔はいかにも自慢げ。エイゼルさんの事をずいぶん信頼しているみたい。そういう人がいるんはなんか羨ましいなあ。私にとっての石田先生みたいなもんかな?

「ところで調子の方はどうだい? 出された食事はきちんと食べたみたいだけど、無理して食べたんじゃないだろうね」

「残すなんて思わないくらい美味しかったです。何から何まですいません。私何にもできへんのに」

「前にも言ったろ。はやて一人くらいなんてことないさ。それよりいくつか聞きたい事があるんだけど、いいかい?」

「はい、私に答えられる事なら」

「ちょっと聞きにくいんだけど、はやての足はこっちに来る前から動かないのかい? それともこっちに来てから?」

 少しだけ強く心臓がどくん、と音を立てたような気がした。自殺したと思ってここで目覚めて、ひょっとしたらと思った私の足は、相変わらず動かず感覚もなく、抓ったり叩いたりしてもほんの少しの痛みも感じないまま。
 私は毛布越しに動かぬままの足を撫でて、ヘンネさんに答える。

「こっちに来る前からです。原因は不明で病院にも通っていました」

 そういう私の顔はきっと諦めきっていたと思う。お父さんもお母さんも居ない。足もある日突然動かなくなって、それからどれだけ病院に通っても良くなる兆しさえない。
 そんな日々は、私に最初から何も期待せず、諦める事で心を守る術を無理矢理にでも覚えさせた。
 足が良くなることなんてない。お父さんとお母さんが生き返る事もない。誰かが私の友達になってくれる事もない。そう考えれば、期待を抱かなくて済む分、心が傷つく事もないから。
 そんな私の表情の変化をヘンネさんは見逃さなかったみたいだったけど、黙って隣のキュオンちゃんになにか指示を出したみたいだった。

「ちょっと気になったんだけど、はやてはこの本に見覚えはある?」

 キュオンちゃんが腰の後ろに回した手に乗せられていたのは、いつのころからか私の家にあったあの鎖付きの本。どうしてこれが? と私は疑問に思ったけれど答えなんて分かるはずもない。

「は、はい。この本は気づいた時にはもう家にあった本や。けどなんでこの本がここにあるん? 私、この本を持ってきてなんかなかったのに」

「う~ん、キュオンもまだ詳しい事は分んないんだけど、たぶんこの本がはやてに良くない影響を与えているっぽいんだよね」

「え?」

「目には見えないんだけどなんかこの本とはやてに魔力のライン見たいのが繋がれててね。そのラインがはやてから強制的に魔力を取っているみたいでさ、まだ体の出来上がっていないはやてにはその負担が大きすぎるとキュオンは思うの」

 うんうん、と頷くキュオンちゃんだけれど、私はもう何が何だか、という感じ。うまうまとご飯を食べておやつを味わって落ち着いたとおもっとったのに、今度は昔っから持っとった本のせいで私の足が悪うなってたって言われるなんて。
 いや、もうなにを言えばいいのか、どんなリアクションをしたらいいのか分からへん。コーラを飲んでどうやってげっぷをこらえればいいのか分からないのと同じくらいや。
 頭の中で今日何度目になるのか、またちんぷんかんぷんの嵐がぐるぐる渦を巻いとるというのに、私の口はいつの間にか動いとった。何か喋るなりなんなりしていないと耐えられないからかもしれへん。

「あの、“魔力”って?」

「魔法を使うための力だよ。精神力とはちょっと違うかな? そんではやてはその魔力の量がすごいんだけど、そのせいでこの本に目を付けられたのかもしれないんだよね。フォルミッドヘイムはエンドレス・フロンティアじゃ一番魔法と機械文明の発展している所だから、調べればもう少し詳しいこともわかるかも知んないよ。それにキュオンも魔法に関してはエキスパートだからね!」

「……」

「て言ってもいきなりの話じゃはやてには分かんないだろ。余計に混乱させちまっただけかもしれないね」

 沈黙する私を見て、ヘンネさんはぽりぽりと頭を掻く。足が悪くなった原因らしいものが分かり、ひょっとしたら良くなるかもしれないという希望が唐突に与えられて、私はきっとヘンネさんが思う以上に混乱していた。

「とりあえずこの本は預かっとくけど、何か分かったらはやてに報告するからね」

「ごめんね、急にこんな事言っちゃって。でもでもキュオンもヘンネもエイゼルもはやてのこと心配しているから、出来る事はなんでもしてあげるからね!」

「うん、ヘンネさん、キュオンさん、ありがとうございます」

 そういう私の心の中は整理できない混乱の嵐と、キュオンちゃんの言葉を聞けた喜びの二つがあった。私を心配してくれる誰か、私をはやてと呼んでくれる誰かを、私はずっと求め続けてきたのだから。



 といわけでびっくりどっきりな告白をキュオンちゃんにされてから数日が経ちました。まあ、その間特に進展もなかったちゅう話やね。
 キュオンちゃんとヘンネさんはいろいろと忙しいみたいだったけど、暇を見つけてはちょくちょく私のお見舞いに来てくれて、このエンドレス・フロンティアという世界の話を聞かせてくれる。
 もともとこのエンドレス・フロンティアいう世界は別々の世界がクロス・ゲートという門みたいなもので繋がれていたそうな。
 それが数ヶ月前に起きた事件がもとで一つの世界に融合したらしくって、その影響でいろんな所が変化していて、いまでも詳しい事は分かっていないから、自分の国の事でも分からない事が多くって、いろいろと調べないといけないから忙しくて仕方ないみたい。
 そんな中でも様子を見に来てくれるんやからなんともありがたい話しや。ほんまに衣食住の面倒までみてもろて、どんだけ頭を下げても下げたりひんったらありゃせんわ。
 それにしてもここが天国でも地獄でもなくって別の世界なら、グレアムおじさんや石田先生には悪いことしたなあ。ある日突然行方不明やもんな。
 自殺するんも迷惑極まりないやろけど、行方不明じゃ生きているかもしれないって変な期待を持たせちゃうかもしれへんし。
 そういえばこの数日、キュオンちゃんやヘンネさんが私の手首の傷について聞いてくる事はなかった。明らかに自分で手首を切った痕だと分かっているだろうけど、その事情について聞いてこないのはヘンネさんたちなりの優しさだとおもう。
 ええ人たちやなぁ、ほんま。
 時々血を取ったり全身を検査用の機械やキュオンちゃんの言うところの魔法らしいピカピカする光で調べられたりしたくらいで、基本的に私はベッドの上の住人やった。体調は完ぺきやったけども、この世界に来た時に車椅子は無かったから特別に誂て貰っている所やし、私ひとりじゃで歩く事もままならんしね。
 窓の外に目をやれば、あれまあ、なんや獣の顔をした人間らしい人影が波乗りやっとる。他にも下半身がお魚さんになっとる女の人の姿もあった。あれって人魚? ああいうのを見るとほんとに異世界に来たんやなあとしみじみ思うわ。
 そんでまたコンコン、とノックの音。この音はヘンネさんやね。ノックの仕方で相手が判別できるようになったんやけど、これは特技と言えるやろか?
 は~いと私が返事をすれば、予想どおりヘンネさんが入ってくる。なんとなく疲れた感じ。お仕事が忙しいんやな。

「調子はどうだい、はやて?」

「ぼちぼちです。あんまり運動してへんからお腹が膨れそうでちょっと怖いくらいです」

「それなら問題はなさそうだね」

 そう言いながらヘンネさんはベッドの脇に置いてある椅子に座る。いつものきびきびとした感じがくたっとしとるように見える。ありゃ、ほんまに疲れた感じがしとる。相当仕事が大変になってきたんかな?

「いまさらなんだけどはやてに言っておかないといけない事があってね。今度もまた言いにくいんだけど」

「なんです? 私、たいていの悪い事なら言われても大丈夫です。慣れてますから」

 そういう私に、ヘンネさんはため息を吐く。なんだろ? 私なんか悪い事言うてしもたんかな?

「慣れてる、ね。……はやては、元いた世界に帰りたいと思うかい?」

「それは……」

 元の世界と言われて、私の頭の中に浮かんでくるのはお父さんとお母さんのお墓の世話や、グレアムおじさん、石田先生の事。
 私が居らんとお墓の世話をしてくれる人はいないし、グレアムおじさんや石田先生にも私が無事な事を――ああ、でも失敗したけど自殺しようとしたんやし無事を伝えるっていうのもおかしな話や――というかまあ、元気にやっとりますくらいは伝えたいなあ。

「少し、そう思います。お父さんとお母さんのお墓は向こうにありますし、お世話になってた人もいるから」

「そうかい。そうなら申し訳ないけど、はやてを帰してやれるか正直保障できないんだよ」

「保障できない、ってことは危険だけれど帰れるかもしれない手段は有るってことですか?」

「まあ入口があるんなら出口もあるって話さ。はやてを最初に見つけたのはこのフォルミッドヘイムに一つだけ残っているクロスゲートの前でね。たまたま哨戒中だったうちの兵士があんたを見つけて保護したのさ。
 おそらくだけどそのクロスゲートからはやてのいた世界に戻れるはずだよ。ただ確証があるってわけじゃないし、イレギュラーな転移だったのかクロスゲートの調子が悪くってね、数カ月は動かせそうにないんだよ」

「そうなんですか」

「あんまり気にした様子はないんだね?」

「あの、私はお父さんもお母さんもいませんし、病院の先生と援助してくれたおじさんくらいですから。私の心配をしてくれるのは」

 また、ヘンネさんは私の言葉に難しい顔をする。

「このクロスゲート以外にも二か所ゲートを開ける所は有るけど、片方は正確な座標とエネルギー出力の調整が必要だし、もう一つもしばらく放置していたから扱いが難しくってね。すぐにはやてを帰してあげる事はできそうにないんだ。しばらくはここで面倒をみるからさ」

 今日までお世話になっていたのに、また暫くお世話になるのは流石に気が引ける。なにより私には与えられた好意に対してお返しできるものが何一つとして無いのだから。

「あのヘンネさん、私こんな体ですけど、一人暮らしでしたから家事はできます。お料理にお洗濯、お掃除ができます。雑用でも何でもしますから、何かお手伝いさせてくれませんか? なんにもせんままでずっとお世話になるなんて申し訳ないです」

「そりゃまあ、人出は足りていないけどうちの仕事は荒事ばっかりだしねえ。はやての体と年齢じゃ危険なことばっかりだよ。それともはやては見た目だとまあ、九歳かそこら。実際はその二、三倍くらいって話なら別になるけれどね」

「いやいや、見た目通り十歳にもなっていない車椅子美幼女ですから!」

「ふうん、悪くないツッコミだねえ。でも自分で美幼女とか言うかい? しかし、見た目通りってんなら尚更ねえ。どうする、エイゼル?」

 とヘンネさんが扉の方を振り返ると扉越しにお腹の底まで響くような重低音の声が返ってきた。エイゼルさんちゅうとあの骸骨さんの事かな? 私が気絶した事を気にして隠れているんかも。そうなら悪い事してしまったなあ。

「後方での兵站任務なら問題は有るまい。それに今は戦乱の兆しもないし、後は身を守れる程度に基礎の訓練と座学を受けさせればよい。ただし訓練は厳しく行う。
無論受けずともよい。世界の融合による混乱は有るとはいえ、我がフォルミッドヘイムははやて一人の面倒を見れぬほど貧困に喘いでいるわけではないのでな」

 相変わらずエイゼルさんの姿は扉の向こうで見えへんかったけど、私の言い分を認めてくれる答えに、私はうんうんと首を縦に振る。何も役に立たないままではいつか見捨てられるのでは、という恐怖が私の心の中になかったかといえば、嘘になる。

「うちのリーダーがそういうならまあ文句は言わないけどねえ。じゃあとりあえずはやてはオルケストル・アーミー見習いかい? アシェンと立場はおんなじで構わないのかい、エイゼル?」

「構うまい。後ではやて用のジャケットと車椅子を用意させるが、ヘンネ。教育はお前が行え」

「そりゃ別に構わないけど、仕事の方はどうするのさ? 仕事の片手間にはやての面倒をみるなんて中途半端な事は嫌だよ」

「はやての教育に専念せよ。新兵達も育ってきている。そろそろ彼奴等にも前線の任務をこなせるようになってもらわねばな」

「そりゃあねえ、後進が育てばいまの人手不足も何とかなるけど、オルケストルクラスにまで育つ奴はまだまだ時間がかかるよ?」

「時間はある。では、我はもう行く。はやてよ、不安ではあろうが悪いようにはせぬ。いましばし堪えてくれるか?」

「は、はい。私こそよろしくお願いします!」

 と反射的にぺこりと頭を下げた。やれやれ、とヘンネさんが肩をすくめているのがやけに印象的だった。



「ふっふっふっふ、覚悟するがいいわ。私の手で氷漬けのシャリッシャリにしてくれるわい!!」

 と笑う私の目の前には滅魏みかんの山。目出度くオルケストル・アーミー見習い炊事係というポジションに落ち着いた私は、私用に作ってもらった袖なしのオルケストル・アーミー・ジャケットの上に、エプロンを付けて、シャーベット作りに勤しんでいた。
 私がヘンネさんの生徒みたいな感じになっていて、この世界の事やフォルミッドヘイムの国家制度とか、軍規やらを学び、時折キュオンちゃんに魔法を習っている。
 流石にヘンネさんのように羽をレーザーみたいに射出するんは無理やけど、キュオンちゃんの戦術砲機ブロンテ・クラフトとおんなじ感じに私の車椅子も作られていて、ホバークラフトみたいな感じに浮いて高速移動できるし、雷や炎も出せるようになった。
 私の魔力を消耗しているらしく、あんまり使い過ぎると疲れるけど、キュオンちゃんとヘンネさんのお陰で魔力言うんもちょう扱えるようになってきたから、自分の限界っちゅうのは分かってる。
 フォルミッドヘイムの研究機関にあの鎖付きの本は預けっぱなしだけど、あんまり解析の方は進んでいない。
 なにやら見た事もない術式の複雑奇怪極まりない内容らしいけんども、まあ、私の足が急に悪くなるような事もなかった。よくもならんかったけどな!
 お台所で全身骨骨の人やら人魚の人、なんかメタルチックな竜さん、サーファーさん、蝙蝠の羽の生えた怪しげな紳士風のおじいさんと、まともな格好の人が一人もいない人らからの注文をさばいていると、エイゼルさんに呼び出された。
 とりあえず作り終えたみかんシャーベットを大型の冷蔵庫に入れてから、私専用戦術車椅子の車輪を回してヘンネさんのところへとレッツらゴー。
な んか人の手や足をごちゃごちゃにくっつけて球体にしたなんともおどろおどろしい石像や、でっかい虫みたいな石像が左右を固める道を進み、いくつかのワープポイントを経由して、私はエイゼルさんの待っている部屋に到着。

「エイゼルさん、ヘンネさん、はやてです。お呼びですか?」

「ああ、鍵は開いているから入ってきな」

「ほんなら失礼します」

 部屋の中で書類仕事をしていたエイゼルさんは、すぐに来客用のソファを勧め、私の車椅子の邪魔にならないようにソファの一つの位置をずらす。
 話を切り出してきたのはヘンネさん。

「そろそろはやてもこっちの暮らしに慣れてきただろ? クロスゲートの調整はまだ時間がかかりそうだし、どうせだから今のうちにはやてをいろんな連中に紹介しておこうって話になったのさ」

「フォルミッドヘイムのお外に行くんですか?」

「うむ。魔力の扱いにも慣れたようであるし、外を出歩く程度はできよう。それに昨今の騒乱の影響で、各国との連絡を密にとる事の重要性が浮き彫りになっていてな。その兼ね合いもあってはやての顔をと名前を覚えてもらって損はない」

「私がなにかお役にたてるんならがんばらさせていただきます」

 もちろん、私に断るという選択肢はない。石田先生とグレアムおじさんには申し訳ないけれど、エンドレス・フロンティアに来てからまだ短いけれども、私が孤独の辛苦を噛み締める事はめっきり減っていて、それは間違いなくヘンネさんにキュオンちゃん、エイゼルさんのお陰やったから、なにか役にたつっちゅうんなら何でもするつもりやった。

「それでだが、なんの後ろ盾もないお前を見習いとはいえオルケストル・アーミーに加える事に良からぬ反応を示す者もおるやもしれぬ」

「まあ、ルボールくらいだろうけどね」

 ルボール、というのは確か十年戦争というフォルミッドヘイムが起こした戦争で武勲をあげて、一国の王になった狼の獣人さんの名前やね。かなり好戦的な人で、隙あれば領土を広げようと画策しとるらしい。のわりには普通に交易とか支援とかもしてくれとるみたいやし、あれか、ツンデレオオカミなんかね?

「はやてよ、お前は八神はやて・グラナータと名乗るがよい」

「それってエイゼルさんのファミリーネームですよね?」

「不満は分かるが仮にもこのフォルミッドヘイムの王たる我と同じ姓名を名乗れば、迂闊に手を出す輩は減るであろう」

 いや別に不満はないけど急な話しやから驚いただけですよ。まあ、ほんとに私がエイゼルさんの養子になるとかそういう話ではないみたい。
 そうそう、なんとエイゼルさんは特殊部隊オルケストル・アーミーのリーダーというだけではなく、このフォルミッドヘイムという魔族の国の王様やったんや。指導者が長い事おらん状況が続いていたのを、収めるためにエイゼルさんが王位に就いたそうなんや。
 エイゼルさんは周囲からの人望も厚いし本人もそのムキムキマッチョのドクロフェイスというお化け屋敷では決してで会いたくない外見やけども、実に誠実で紳士なお人やから、王様としては適任やと思う。
 それにしても、よもや一目見たときに気絶した相手と同じ名字を名乗る事になるとは、さすがのはやてちゃんも予想だにしなかったで。……ん? 私、エイゼルさんとおんなじ名字を名乗るには抵抗ないみたいや。これは私自身意外や。

「衣食住ばっかりやのうてそんな所にまで気を使っていただいて、ほんまありがとうございます」

「構わぬ。明日には出立する予定となっている。今日は部屋に戻り支度を整えよ。ヘンネにはまだ我の方から話がある。はやてよ、その目でしかとこの無限の開拓地を見てくるがよい」

「はい!」

 ちょこんと頭を下げて私は部屋を後にする。それにしてもフォルミッドヘイムの外の世界かあ。なんや旅行みたいで楽しみやなあ。フォルミッドヘイムの国内を出歩いた事は有るけど、外国にまで足を伸ばした事はないから、うわ、なんかドキドキしてきた。
 これがあれか、遠足の前の夜は眠れない、ちゅうやつとちがうん? うわあ、これ私の憧れのシチュエーションのひとつやん。意外なところで夢が叶うとはなあ。
 キュオンちゃんにはどんなお土産買ったげようかなあ? と私はすっかり旅行気分で少ない着替えや携帯非常食、医薬品なんかを鞄に詰め込む作業に熱中した。



 飛行機に新幹線やバス、車に乗らんで自分の足――私の場合は車椅子やけども――で旅行というのはえらい疲れるもんやった。
 ヘンネさんは軍人という事もあって慣れた調子やったけど、基本的に野宿だから寝袋が欠かせへんし、お天道様に嫌われれば、突然の雨にぬれたり逆にカンカン照りで咽喉がからっからになることもあったしな。
 なんでも各国の首都をつなぐ簡易ゲートの敷設なんかも提案されているらしい。フォルミッドヘイムではごく普通に使われているワープポイントの巨大版でもあり、クロスゲートの簡易量産仕様でもあると説明を受けたけど、出来たら便利やね、くらいにしかこの時の私は考えていなかった。
 それでも図書館と病院とスーパーくらいしか外の世界を知らなかった私には、土地ごとにがらりとその姿を変えるこのエンドレス・フロンティアいう世界は、好奇心を大いにそそるまさに未知の無限の開拓地やった。
 私はフォルミッドヘイムを出た後エスメラルダ城塞言う所の近くを通り、元は水中国家やったというヴァルナカナイにあったヴァルナ・ストリートを通った。途中で野盗やらモンスターやらが出てきたけど、流石はヘンネさん。
 フォルミッドヘイムのエリート中のエリートであるオルケストル・アーミーのメンバーは伊達ではないようで、ほとんど私の援護なんて必要なしに千切っては投げ千切っては投げの大活躍。見ていて惚れ惚れする暴れっぷり。
 ううむ、少しはキュオンちゃんとの特訓のお陰でこの世界の魔法みたいなこともできるようになったけど、こりゃ私の出番はないわ。楽ができるっちゃできるけど、なんや申し訳ない。
 そのあと、見上げるほど巨大な不死桜という桜の木が特徴の神楽天原という所に寄った。この神楽天原を治める南舞讃岐という皇様にお目通り願って、私はもうカチンコチンに緊張するほかなかった。そりゃエイゼルさんも王様やったけど、親切にしてくれていたし何度も顔を合わせていたから慣れていた。
 私の紹介はついででフォルミッドヘイム王であるエイゼルさんからの親書を届けるという名目ではあったけれども、立派なおひげを蓄えた讃岐皇さんに声を掛けられた時は心臓が口が出るかと思ったで。
 それ以上に衝撃的やったのはお姫様だという神夜さんと顔を合わせた時やったけどね。いや、もう、あれはね、なんちゅうかね。おっぱいや。おっぱいとしかいえん。むしろおっぱい以外に何があるん? 
 あの格好で平然と外を歩きまわっとるちゅうんやから、神楽天原って大丈夫なんかと心配してしまったわ。あれは歩く猥褻物といっても過言やない。ほんまにや。私もあれくらいになれるかなあ?
 讃岐皇さんとのお話が終わったあと、一泊してからさらに西に向かって私とヘンネさんの足を向かった。以前のエンドレス・フロンティアには存在しなかった“修羅”という人達が住んでいる波国が今度の目的地や。
 途中、砂漠地帯を縦横無尽に走る巨大猫型戦車を目撃した時は正直、目が点になったわ。爆走するそれが停車する時を見計らって乗り込む事、戦車の背中にマーカスタウンという一つの都市があった。
 なんで猫型戦車の上に都市を作ったのかは正直意味分からんかったけど、砂風呂は堪能できたしまあよしとしとこか。
 そこのマーカスタウンの代表はオネエ言葉の猫の獣人でカッツェさん言うお人やったけど、この人が十三年前、十年戦争が終結するまでの間オルケストル・アーミーのサブリーダーを務めていた豪傑なんやって。
 そのカッツェさんが水先案内人を買ってでてくれたんで、私達はそのまま修羅の人達の住む“覇龍の塔”へと向かった。幸いエスピナ城の妖精族を束ねるネージュ・ハウゼンというお姫様もいるらしいので、これは都合がよかった。
そして私は出会った。後に友達と呼べるくらい仲良くなる女の子、フェイトちゃんと。
 修羅の人達の民族衣装(?)らしい丈の短いケープとおへそがくっきり浮かび上がるくらいぴっちりとしたインナーを着込んだちょう露出過剰な格好をした、お人形さんみたいにびっくりするくらい綺麗なフェイトちゃんに、私はにっこり笑みを浮かべて挨拶を。

「オルケストル・アーミー見習い炊事係の八神はやて・グラナータと言います。はじめまして」

 フェイトちゃんは同い年くらいの相手と話した事がそんなにないのか、ちょっと戸惑っている風だった。それは私も同じだったので、実は心の中で期待と不安がぐちゃぐちゃになってドキドキしていた。

「仲良くしてな、フェイトちゃん」

 この子とはきっととても仲の良い友達になれると、私は根拠もなくそう信じていた。

つづく
次回ヴォルケンズ登場予定。フェイトの格好はシンディ師匠のインナーの上にアレディあの白いケープ?みたいなのを羽織っている感じです。
神夜と遭遇した事でシグナムの身体的特徴に対する衝撃は大分和らぐ事でしょう。
知り合いに関西弁の人とかおりませんので、はやての口調に違和感を覚えられる方もいらっしゃいますでしょうが、なにとぞご容赦くださいませ。

あと感想板の方で感想があるならまだしも、ただただあのクロスが読みたい書いて欲しいと仰られましても、私はただリクエストに答えてSSを書く機械ではありませんのでまったくモチベーションは上がりません。その点はご寛恕くださいますようお願い申し上げます。



[11325] その19 凍らせ屋 × Fate
Name: スペ◆52188bce ID:e0398f80
Date: 2010/06/21 21:18
リクエストがありましたので投稿。こち亀の方でなくて申し訳ありません。

 その18 『 凍らせ屋 』

 数十万に及ぶ人口のうち、半数かそれ以上が犯罪者とされる現代最凶にして奇怪・妖異極まる最悪の悪都で、それでも日々無辜の市民、平凡な人々を犯罪の魔の手から守護すべく命と誇りを賭けて戦う人種がいた。〈警察官〉である。
 何時の日からか、凶悪無比・残忍極まる悪鬼の如き犯罪者達の間でとある通り名が、絶対の恐怖と畏怖を伴って語られるようになった。それはとある刑事の名であった。
 人の命が空気よりも軽く時に一枚の札、一枚の硬貨で殺人が行われる街で、その通り名は耳にした悪党共の背筋を尽く凍てつかせるのだ。なぜならその刑事は犯罪者を人間として扱いはしない。鬼畜に等しい犯罪者達が人でなし、悪魔、と恐れるほどの苛烈な捜査は、犯罪者を逮捕ではなく退治しているのだと、まことしやかに語られる。
 その刑事の出動は犯罪者達にとって死刑宣告と同義であり、これを免れるには刑事の命を絶つしかない。そうして刑事の命を狙い、今日に至るまで千に及ぶ犯罪者達が、その刑事によって処断されてきた。その犠牲者の数が増える度、無辜の市民が守られる度にその所業の凄まじさから、犯罪者達はその背筋を戦慄に凍らせるのだ。故にその刑事を指してこう呼ぶ。曰く

“凍らせ屋〈SPINCHILLER〉”、と。

 “魔界都市〈新宿〉”の治安の一端を担う戦士達の基地、〈新宿警察署〉のフロアを丸まる占拠したかのような二百畳近いスペースを占める捜査課の職場の奥に、馬鹿でかいロッカーとスチール・デスクに挟まれたスペースがある。
 常に逮捕した犯罪者と刑事との悪罵、罵詈雑言、銃声や奇声、尋問や拷問が奏でる苦鳴、分単位でやって来る容疑者、流血しながらも興奮冷めやらぬ連中に、昼飯のラーメンを啜っている刑事と静謐や倦怠などといった言葉とは無縁の職場で、同僚さえも滅多に近付かない一種の聖域である。
 今その聖域に捜査課のボス、緒方課長が近付きつつあった。美髯を蓄えたいかにも切れ者といった風体の緒方課長は、その聖域の住人にとあることを告げるのであった。どことなく憮然としている声音で。

「捜査一課<特務班>屍刑四郎(かばね けいしろう)。君に三週間の有給休暇を命ずる」

「……」

 吉田家の超特大牛丼“ジャイアント(つゆだく)、豚汁・漬物・生卵付き”を堪能していた“凍らせ屋”こと屍は一瞬、緒方課長の正気を疑ったものの、口には出さずその当人の不服そうなわずかな表情の変化から本当らしいと悟った。とりあえず口の中の牛丼は飲み込んだ。
 緒方課長の話を要約すると、どうやら福利厚生の一環から普段特に貢献著しい公務員を対象に特別休暇を与える事がつい先日決定され、ヌル・コンピューターによって無作為に選出される候補者の中から“魔界都市〈新宿〉”では“スパイン・チラー”に白羽の矢が立ったらしい。
 本来なら本人が申請したわけでもないのに、刑事を休ませなければならない余裕も論理も、ソレを許す現実すら<新宿>には存在しないのだが、この判断を下したのが人間ではなくヌル・コンピューターであるという点が、新宿警察署長と区長に承諾を決意させた。
 ヌル・コンピューターとは何か? ヌル=非、すなわちコンピューターでありながらコンピューターではないソレは、アメリカ国防総省の地下奥深くに存在するという超コンピューター“シグマ”と同様に、ありえない事態を推測する超現実的な機能と、神の思考とでも言うべき超推理と判断を下す、一種の人造の神なのだ。
 ゆえに異例とでも言うべき“凍らせ屋”の強制有給休暇という空前絶後の事態とあいなったのである。とはいえ屍は不服に染まっているといっていい。この、犯罪に対する憎悪が視認できたら、<新宿>どころか地球を覆い尽くしてもおかしくない刑事は、自分がいない間にさぞや犯罪者どもや悪徳警官達が喜ぶのに、ハラワタが煮えくり返る思いなのだ。

「君の気持ちも分る。だが決定は覆らん。それから、今回の特別休暇に際して唯一君だけヌル・コンピューターが休暇中の行き先を指定した」

「どこです?」

「冬木市という街だ」

 屍の眼に猛禽に似た、しかし遥かにそれよりも強力な力と光が、湖底にたゆたう日差しのように静かに宿る。冬木市、つい最近観光で訪れた〈新宿〉区民が行方不明になった街の名だった。なるほど休暇だからといって刑事を辞めるわけではない。休暇を捜査に当てるのも個人裁量の範囲と、〈新宿〉ならではの解釈も可能だ。

「正直な所、君が〈新宿〉に不在となると犯罪者共が調子をこく。とはいえ君も公務員、人間だ。時には休暇も入用だろう。ゆっくり骨休みしたまえ」

 と、緒方課長は屍がそんな骨休めなどするわけが無いと、初めから信じていないのを顔に映して言った。すると屍は実に頼もしく、――思わず緒方課長の背筋が凍る位に――こう返事をした。

「ヌル・コンピューターの判断に甘えるとしますよ。俺なりに、ね」

 手に持った牛丼のドンブリと箸さえも恐るべき凶器のように見える、“凍らせ屋”の迫力であった。



 そんな情けない理由で屍は冬木市を訪れることになった。暦は2月にもう間も無く変わるが、肌を刺す冷気は12月くらいだ。土地柄だろうか? 駅に降り立った屍は周囲の人々の奇異と好奇の視線を一挙に集めつつ、市内へと足を進めた。
 185センチをクリアする長身に鋼もかくやと思わせる強固さと野生の獣のようにしなやかな俊敏性、途方も無い威力の爆発にも似た爆発力を宿した肉体を、シルク地らしいが擦り切れたコートが踝までをすっぽりと覆っている。愛嬌とでも考えているのか表面には絢爛・艶やかな花模様が散りばめられている。ただしプリントでも刺繍でもない、本物の花である。
 捲り上げた裾からは黒光りするレザーの上下、足元は銀の滑車が付いたゴツイ黒革のハーフブーツ。髪型は途中で放り出さなかったのが不思議なくらいに見事なドレッドヘアだ。このスタイル向きの毛質はまず日本人にはありえないから、さぞや苦労したに違いない。
 日焼けした精悍重厚な顔には、想像もできないような人間離れしたエネルギーが、この刑事の奥深くで常に燃え滾り爆発する時を待ち構え、機械の冷徹さと猛獣の猛りとが同居しているのが見える。一つっきりの瞳は二十代後半かそこらでは到底身に付かないであろう、知性と理性を滲ませている。残された左目は黒い日本刀の鍔で覆われていた。隻眼なのだ。
 それから屍は〈新宿警察署〉で脳細胞に刻み込んだ情報を引き出し、今後の行動の幕を切った。
 屍は、とある洋館のインターフォンを鳴らした。駅を出たのが夕刻過ぎで、冬のご時勢ゆえに日が落ちるのは早く、夜の訪れも間も無くと知れている。洋館は豪邸といっても構わないくらいで、使ってはいない様だがプールも備え付けてある。日本では珍しいと言っていいだろう。
 カチャリ、とドアノブが回る音がすると屋敷の主が顔を覗かせた。俗に言うツインテールの髪形ただし後ろも伸ばしているからトリプルテールとも言える。なだらかな曲線を描く流麗なボディのシルエット、そこらのアイドル顔負けの美貌の主、遠坂凛。
 冬木市のレイ・ライン(龍脈・霊脈とも言い、いわば地球の血管のようなもので、莫大な霊的エネルギーの通り道のこと)の管理を、魔術協会から任されたセカンド・オーナー遠坂家の現当主だ。怪異風貌な屍に、思いっきり胡散くさい、という心の声とただならぬ屍の気配に緊張しているのが見て取れる。浮かべた笑顔も硬く、屍の素性を聞いた。

「どちら様でしょうか?」

 懐からIDカードを取り出しながら、屍は民間人へのサービスとして公僕の鑑といえる笑みを浮かべてこう切り出した。口調もいたって丁寧だ。

「“新宿警察署”捜査一課〈特務班〉屍形四郎です。遠坂凛さんですね、お聞きしたいことがあってお邪魔しました」

 屍が遠坂家を訪れたのは無論、冬木で行方不明になった区民の失踪について魔術的な線から洗うためである。十年前に先代当主が死亡してからわずか6歳か7歳で跡目を継いだ少女は、智勇兼ね備えているのが会話の端々から察せるものの区民の行方については有力な情報は持っていなかった。
 時刻は夜八時を回っている。出された紅茶を一息に、それでも堪能して飲み干し屍は席を立った。凛に見送られながら玄関まで来た屍が、ふと正門を通る際に振り返り、こう囁いた。
 低く重い声。それは世に4つ存在する“魔界都市”の中でも最凶とされる、〈新宿〉の法の番人〈魔界刑事〉の声であった。ソレは冥府の洞から届く魔風の如く凛の耳朶を凍てつかせる。いや、魂を。

「十年前の聖杯戦争、さぞや凄まじかったんだろうな。なにしろ民間人の被害が数百人を超えている。だが、もし今回もそんな事態になるようなら、……管轄外だろうが容赦はせん」

 背筋も身も凍らせる凛に、屍は髪型と服装が反乱を起こしそうな礼儀正しさで一礼した。
 聖杯戦争については〈高田馬場魔法街〉の太った魔術師と人形の少女から知識を教授してもらってある。最後に、チラッと凛の何も無い背後に、誰かいるみたいな目線を送ってから歩み去っていく。

「…………」

 言葉も無く凛は、屍の姿が見えなくなっても尚、精神の奥底からぬぐえぬ何かに、立ち尽くすことを強制された。

「何なのよ、あの刑事ッッ! ジャマイカン気取りの髪型に花まみれの格好、おまけに刀の鍔を眼帯代わりにするなんてセンスおかしいんじゃないの!!??」

 居間に戻った凛が、遠坂火山を大爆発させる。凛の罵詈雑言を〈新宿警察〉の面々が聞いたらその場で心不全を起こすか自殺するか、現実逃避しかねぬ屍に対する非難である。   
 まぁ、その通りと言えないわけでもない屍の格好ではあった。ウガーッと絶叫しだすんじゃないかと思うくらい遠坂火山は噴火を続ける。

「第一! 何で! よりにもよってあの! 〈新宿〉の刑事が冬木に、聖杯戦争を嗅ぎまわりに来るの!? 協会と教会は何やってんのよ」

 凛が名を挙げた組織を含め、世界中の非合法的な犯罪組織や、霊的を扱う組織・集団にとって〈新宿〉はまさに鬼門中の鬼門である。東京都二十三区の一つに過ぎなかった新宿区が“魔界都市〈新宿〉”に変貌してから十余年。その存在がもたらした影響は言語に絶するものがあったのだ。
 “魔震”によって壊滅させられた〈新宿〉のあちこちや、外界から隔離する“亀裂”の中から発見された超古代の遺跡・未知の文明の遺産がもたらしたオーバーテクノロジー、発生した妖気がもたらす人間の変容、すなわち超能力者・獣人化・妖物との混合人達、破壊された市谷遺伝子研究所から漏れ出したサンプル達から次々と生まれる数十万種に及ぶ妖物達、惹かれるように集まる世界中の魑魅魍魎・悪鬼羅刹・犯罪者の類。
 迷信と御伽噺の中の存在を世界中の人々に現実のものと知らしめ、それまで神秘を秘匿してきた魔術師達の努力と歴史を無駄とした街。
魔術の徒たちが神秘、魔道や奇跡の類を秘匿してきたのは、大雑把に言えば神秘というものは其れを知る者が少ないほどその純度、神秘性が維持される性質があり、科学と化学を世界の中心にすえる世界への発展を由とし、魔術の隠匿と隠蔽を行ってきたのである。(これには『魔術回路』や『魔術刻印』と呼ばれる血縁的なものが必要とされる魔術が、魔術協会で主流であることも起因する)
 それゆえに〈新宿〉で、同業者からつまはじきにあった魔術師や〈新宿〉の価値に気付いた者達が公然と魔術の存在を世に知らしめた時、協会側は彼らの抹殺を企てたほどだ。だが神秘性が薄れたり、その弱体化、という事態は杞憂に終わった。
 それどころか〈新宿〉から次々と発見される超古代の秘術や失われた魔道の秘儀にマジックアイテムやその製造法、聖遺物の数々。加えて〈新宿〉の誕生に影響されたかのごとく各地で励起される霊脈・霊的ポイント、と逆に神秘の濃度が増して行く結果になったためである。
 今では区外のデパートを覗けば、簡単な黒魔術セットが一般家庭にもお手頃な値段で販売されて、うらみ持つ相手に腹痛やめまい・頭痛とささやかな不幸を与えられる。小人程度のサイズから人間大のホムンクルスが愛玩用のペットやお手伝いの一種として殺人や人間に傷害を加えるような用途以外で有力な労働力となっている。
と にもかくにも魔道に生きる者達にとって〈新宿〉とは無闇に触れてはならぬ禁忌の街なのだ。

「落ち着きたまえ凛。“常に優雅たれ”、君の家の家訓だろう」

 低いがあえてそうしているような若い男の声である。ソファに座る凛の真向かいからやや右にずれたところに。声の主が立っていた。それにしても何時姿を現したのか。最初からいなかった男が突然出現したような登場の仕方である。
 180センチをいくらか越えたくらいの背丈で、褐色の肌に白髪。黒い革か柔軟な金属らしき光沢のある上半身を覆う鎧に、その上から赤い布を纏っている。両手と顔くらいしか見えないが、衣服の中に鍛えぬいた肉体と、それを振るうに相応しい精神とを併せ持っているような男だ。
 鷹のようなするどい瞳を、今は皮肉気にして凛を見つめていた。言葉にするならやれやれ、だろうか。二十代の半ばくらいの顔立ちはそこそこハンサムだから、絵になる皮肉屋、といったところか。

「アンタに言われなくても私は落ち着いてるわよ、アーチャー。ただ今のはちょっとした心の贅肉よ」

「まぁ、君の言い分も最もだ。〈新宿〉の連中は尽く常軌を逸しているからな。最も若く最も凶悪な“魔界都市”の住人では、な」

「何? アナタ知ってるの、ひょっとして何か思い出した?」

 いや、と首を横にアーチャーが振る。一応済まなそうだ。実はこのアーチャーは聖杯戦争に際し、魔術師によって召喚されるサーヴァントというこの地のみの特別な存在の一人である。
 サーヴァントは、時間軸に捕らわれず人の身に余る偉業をなした者が、“英霊”或いは“守護者”として“座”という特別な場所に登録され、ある程度の制約を施されて召喚された場合にサーヴァントと呼ぶ。色々と細かい定義はあるが概ねこんな感じだ。
 そして凛の何か思い出した? と言う問いは、彼女がアーチャーを召喚する際に乱暴な術式で召喚したため、アーチャーが生前の自分の記憶を忘れてしまったためである。戦闘やその他諸々に問題は無いのだが、記憶の中には“宝具”というサーヴァントの切り札も含まれるため、死活問題に繋がっている。

「ところで凛。あの刑事はどうする? 何故この地にいるのかは知らんが厄介な事になりかねんぞ」

「とは言ってもね。どうしたものかしら、そりゃいくら〈新宿〉の刑事って言ってもあなた達サーヴァントには敵わないでしょうけど。大人しくしているわけ無いわよね」

「ふむ。そうだろうな、かといって下手に手を出せば国家権力が介入してくるだろうな。なかなか愉快なことになるのではないかな?」

「ハハ、そんな事なったら協会を追放されるわね」

 乾いた笑いが凛の唇から零れた。彼女の憂いを取り除くためなら火の中水の中、といった連中も少なからず学校にはいるだろう。それだけ十分に魅力的な美貌の凛は、大きな疲労と共に溜息をついた。
 理由は当人も薄々気付いているだろうが屍と会話した為である。あくまで紳士的な態度を崩さずに屍は凛に質問をしていったが、確実に凛の精神を磨耗させていた。
 その理由は無論屍が多くを占めている。すなわち“殺されるのではないか”。屍の隣にいると常にこう思わされるのだ。事実、わずかな例外を除けば屍と長く談笑した者達は皆胃をやられている。
 何がうれしくて十代の若さで胃潰瘍にならなければいけないのか、ある意味かわいそうな凛を見つめるアーチャーの瞳に胡乱気な光が宿った。
 それから二日、ガス漏れや長い刃物を用いたとされる一家殺人事件が発生し、屍の憎悪を、終末に約束されたメキドの火の如く燃え盛らせていた。ホテルから外出し、夜の帳の中を突き進んでいた屍は、小さな川の土手で足を止めた。周囲に人影も見当たらない。月明かりを頼りに、屍の瞳は昼の如く周囲を写している。ふと、足を止めて声を出す。聞いた者が体の内側から冷え冷えとするような、屍ならではの恐るべきものを秘めた声。

「出て来い。警告は一度だ」

「……やれやれ、それほど拙い気配の消し方だったかな。しかしそう四六時中殺気を纏っていては戦わなくても良い相手も敵になってしまうぞ」

 屍の背後に、ボウと霞みのように現れた男の名がアーチャーとは、流石に屍も分らない。ただし真後ろにいるというのに、屍は自らの視界に収めている。『広角法』及び『四方目』、前方を向きながら前後左右を視認する技術である。

「聖杯戦争の関係者だな。両手を頭の後ろで組め」

 返ってきた屍の言葉の中に含まれる真意を、アーチャーは正確に聞き取った。この男は、敵を作らないことに腐心するようなことはない。敵となったものを”退治”することをこそ、望んでいる。
 だからこそアーチャーに不必要なまでに殺気をたたきつけ、交戦の口火を切るように誘導している、と。
 懐から強化ビニールの手錠を取り出そうとした瞬間、屍の体を殺気が撫ぜた。前方に跳躍した屍が、つい一瞬前までいた空間を、アーチャーの握った黒白の刀剣が斜め十字に薙いでいる。
 幅広の刀身が反り返った刀剣だ。柄には陰陽のマークがある。『干将・莫邪』古代中国の刀鍛冶が、自分と妻の頭髪、爪などを炉に捧げて打った銘剣中の銘剣に酷似していると、古き中華の歴史を知るものは看破しただろう。

「ほう、たいした反応速度だ。安心したまえ、命までは奪わんよ。ただ少し記憶をなくしてもらうだけだ」

 皮肉っぽく歪んだアーチャーの唇が固まった。気付いたのだ、目の前の刑事が人の範疇を越えた超人だと。その精神の凄惨苛烈さを。

「良く抵抗してくれた。……公務執行妨害及び殺人未遂、ギルティ――有罪だ」

 刀の鍔に覆われた方の左目をアーチャーに向けて宣告する“凍らせ屋”の審判。屍の体が閃光の速さで翻ると同時にアーチャーの体を六〇口径の猛弾が掠めて、大きく後ろへ吹き飛ばす。夜の闇を引き裂いて轟いたのは屍の愛銃、通称“魔銃ドラム”のハウリング。  
 ちっとも膨らんでいない腋の下から、いつの間にか抜き放ったドラムだ。どこにその銃身20センチ、重量3キロ以上の化け物リボルバーを仕舞っているのか。新宿警察七不思議の一つである。
 そしてそのドラムを抜き放つ屍のクイック・ドロウのタイムは実に二千分の一秒。人体の限界と世の常識を覆す、光の速さと例えられるのも無理は無い神速だ。さしものアーチャーが反応できなくても誰が責められようか。
 今度こそ手錠を掛けようと、近付こうとしていた屍が眉を寄せた。何事も無かったようにアーチャーが立ち上がったからだ。

「ホルスターを纏っていない様だから、拳銃を持ち歩いていないのかと思えば、これか。なるほど早射ちの速さといい、常人ではないな」

「霊的か」

 アーチャーに向かい放たれたドラムの弾はエクスプローダー・破壊弾だ。尋常の物体なら、厚さ三十ミリの特殊合金だろうが大穴を開けるが、幽霊には芳しい成果は挙げられない。どうやらアーチャーは慣性の法則や重力には従うらしいが、肉体を破壊するには霊的、あるいは魔術的な処置を取らねばならぬらしい。
 両者の距離は四メートル、アーチャーは一歩飛び込まねば剣閃を届けられない。一方屍は、ドラムの弾丸を再装填し直さないとアーチャーに痛打を浴びせることは叶わない。
 如何にアフリカ象をも一撃で仕留める弾丸も、相手が霊的では宝の持ち腐れだ。それでもドラムはアーチャーの右肩をポイントしている。
 川のせせらぎをオーケストラに、星の瞬きをスポットライトに、月を観客に、アーチャーが右手側に駆けながら莫邪を屍目掛け投じる。旋回しながら迫る刀剣を、しゃがみながらかわして、アーチャーに放たれるドラムの五度に及ぶ咆哮。三発が土手のコンクリートを粉砕し、二発がアーチャーを吹き飛ばす。ただしダメージはゼロだ。
 かわした莫邪が、弧を描いて自らの首筋に迫るのを、屍はその場で一回転して旋回する刀身を蹴り飛ばし、川の中に水没させる。全く同時に、気化したプラスチック薬莢を廃棄してシリンダーに対妖物用の弾丸を込める。これら一連の動きに一秒もかかっていない。
 屍の右目がアーチャーの姿を見失い、勘が上空を指した。振り下ろされるアーチャーの黒白の両剣。何時の間にか、どこからか先ほどの剣と全く同じものを、アーチャーは握っていた。カッと火花を咲かせてドラムが干将の刀身を受け止め、肘で莫邪を握ったアーチャーの腕をブロックする。巌の如く固く縛られた表情のアーチャーの刀剣が新たな屍山血河の贄とすべく、“凍らせ屋”目掛け膂力をみなぎらせる。
 アーチャーの目が屍の顔を捕らえた。恐るべき実戦経験に培われた心眼と洞察力、そして直感が危険を伝える。屍の左手は自由なのだ!!
 咄嗟に後方へ跳躍するアーチャーの右脇腹に屍の左手が掌握の形で炸裂する。かつてパキスタン人の師に学んだ世界最古の古代武道“ジルガ”の一技“停止心掌(ていししんしょう)”。
 如何なる装甲も無視して、対象の肉体に達し心肺機能を一時的に奪う。そしてこの一撃には物理的破壊効果プラス霊的パワーを加えてある。百年、二百年を生きた程度の吸血鬼ならもんどりうって苦しみのた打ち回るほどの、だ。
 
「ちぃ!!」

 そこは流石にサーヴァントと褒め称えるべきか。アーチャーは間一髪屍の一撃を回避してみせ、伸びきった屍の左腕を横薙ぎに払う。キンッと金属同士がぶつかる音が響いた。不可思議な音色の正体を屍が暴露する。

「ジルガのひとつ“鉄皮”……おれのつけた名だがな」

 それは鋼鉄の硬さを皮膚にもたらす技という意味だろうか。
 しかし、恐るべきは体皮を鋼鉄と変えた屍の技よりも、その鋼鉄の腕を骨近くまで切り裂いたアーチャーの一撃であったろう。切断こそ免れたものの、骨近辺まで切り込まれた腕からは、夥しい出血が噴出し始めている。
 それを血流の操作と筋肉の萎縮で止血を施して屍は反撃に移る。
 六〇口径の奈落を思わせる銃口をアーチャーへポイントし、目も眩む炎を吐いて妖物用の霊的弾丸が殺到する。四発の弾丸がアーチャーの両手両足目掛けて。
 次の瞬間に行われたアーチャーの行動にさしもの屍が目を見張る。左右でも上に跳ぶでもなくアーチャーは屍目掛けて突っ込んできたのだ。だが自暴自棄に陥った果ての行為であるはずも無く、わずかな瞬簡にドラムの銃口と屍の筋肉の動きから弾道を予測した上での前進であった。
 驚愕に値する一瞬の判断力と決断力だ。
 しかし屍も常人と言う言葉が虚しくなるレベルの超人。構わず残り2発の弾丸を叩き込むべくドラムを再度構え、突如電光の速さで右腕だけ九十度横にずらして、川から飛び出し濡れた刀身を跳ね散す最初の莫邪を撃ち落とした。
 まるで、干将の下へと戻るべく旋回する夫婦剣の片翼を目もやらずに気配と音だけで射落とした屍の技量も凄まじいが、おそらくは川に莫邪を落とされてからここまでの展開を予測し、利用する状況に持っていったアーチャーの戦闘技能こそ恐るべし。
 夫婦剣を左右に引き、交差させて振るわんとしたアーチャーの眼前に、可憐な赤い花が投じられた。緩やかに宙を落ちる花。屍が左手で毟った上衣の花だ。脳の片隅で訝しむ思考と、危険のシグナルを発する直感に気づき、アーチャーは直感を選択した。
 直後、三千度に達する紅蓮の舌が土手を半径五メートルに渡って嘗め尽くした。屍の上衣に飾られた花はその一弁ずつが威力の異なる、超高性能小型爆弾なのだ。
 冬木の夜、川辺に咲き誇る炎の花を、数千度の火炎に耐える耐熱耐火耐電耐寒耐水防御が施された上衣で屍は凌ぐ。加えて44マグナムも易々と防ぐ〈新宿警察〉装備課開発の装甲塗料も塗ってある。
 思わず、尋常な方法で死に至る生前のクセに従い、本来無効なはずの三千度の炎をかわしてしまったアーチャーがほんの一瞬自嘲めいた笑みを浮かべた。
 生前のあまりの戦闘経験ゆえに染み付いた戦闘の中での危機に対する直感や心眼、洞察力の思わぬ弊害であった。たちまち浮かべた笑みを消し去って、今だ燃え盛る炎の向こうの魔界刑事を睨んだ。

「……殺気のレベルが一段上がったな。奴さん退く気は無し、か。上等だ」

 無限の闘争心と地獄の底の業火のように燃え滾る敵意を、ダイレクトに力に変えてドラムの銃口を、炎の向こうのサーヴァントに向ける。屍は敵の名すら知らないことに気付いたが、精神の深いところに追いやって忘れた。とっ捕まえればいくらでも口を割らせられる。〈新宿警察〉最恐にして最凶の尋問官兼拷問官はこの男なのだ。装填の終わったドラムが三度、数多の妖物と犯罪者の血と生命を死神にぶちまけた咆哮を放つ。
 屍の耳が、炎の花の向こうから迫る風切る音を捉えたのだ。紅蓮の魔炎を切り裂いて飛来する黒に塗りつぶされた四本の矢を、ドラムの巨大な弾丸2発で射落とす。
マッハを軽々越えるソニックストームの威力ならではだ。矢の飛来した方向、及びわずかに漏れる殺気からアーチャーの位置を推測し、立て続け様にドラムが吼えた。“魔銃”と恐れられるのもむべなるかな、耳にした者の魂まで震わせるかのごとき轟音。

「外したか」

 と、零した屍に対して真向かいのアーチャーは彼のみの言葉を紡ぐ。

「我が骨子は捻れ狂う( Y am the born of my sword――)」

構えた黒弓に、虚空の空間から何かつがわれる。荘厳さすら漂う装飾と迫力を兼ね備えた剣。ただし刀身は捻れ狂い、到底刀剣としての役目は果たせそうに無い。弓弦を引き絞り、眼に見えぬ屍刑四郎目掛け、アーチャーが自らの秘儀を完成させる。

「偽・螺旋剣――カラド・ボルグ」

 大気すら歪める尋常ならざる莫大な魔力の流れ、気付いたとして如何に“凍らせ屋”屍刑四郎といえど成す術があろうか。いまだ渦巻く業火を貫いて自らに迫る捻れ狂った剣の矢を、冷たく屍は見据える。百戦錬磨、区外の同業者とは比べ物にならぬ悪漢どもの背筋を凍てつかせるスパイン・チラーの瞳だ。千分の一秒の世界で、“魔銃ドラム”は新たに込められた弾丸五発を全て偽・螺旋剣に殺到させた。 そして

「壊れた幻想(ブロークン・ファンタズム)」

 最後のトリガーを引いたアーチャーの声が夜陰の空に響いた。屍の投じた花をはるかに上回る爆発が光と音の本流となって荒れ狂う。炸裂した偽・螺旋剣の所業だ。だがアーチャーが不審な色をその、風雨に晒され感情を乗せぬ顔に浮かべた。

「タイミングがズレた?……まさかな」

「二度目の警告はなしだと言ったぞ」

「っ」

 驚愕するアーチャーに、ドラムが牙を剥く。新たな爆発が生んだ煙を裂いて、アーチャーの左肘を吹き飛ばしこの弓兵を隻腕に変える。晴れ行く煙の先には全身から流血を滴らせながらも、毛筋ほども欠けぬ闘気と精気を滾らせ、ドラムをアーチャーの眉間にポイントする屍の姿があった。
 失った左腕は魔力さえあれば再生できるとはいえ、少なくないダメージにアーチャーが表情を苦悶に彩る。だがこの状況においてもアーチャーは限りなくゼロに近い可能性までをも把握すべく、思考を割く。

「月並みな質問をしても構わんかね?」

 黙って屍が頷いた。如何なる心境か、アーチャーが何をしようとも無駄、と言う事か。だが屍とて満身創痍、見ようによってはアーチャーよりも重傷だ。

「何故五体満足でいられる? それほど安い攻撃手段は選んでいないはずだがね」

 衣服のそここそから血を流しながら、微動だにすらしない屍が答えた。超人的というより化け物じみた精神力と耐久力だ。左手で目の前の地面に転がる一片10センチくらいの板切れを指差した。

「“メフィストの壁”。見た目は小さいが、いざと言うときに広がって背後の連中を守る防御壁だ。魔界医師が手ずから作った代物でな、キロトン級の核爆発にも無傷で耐える。本来ならメフィスト病院の装甲保安係の配給品だが。それと、あのネジもどきの矢に、特製の弾丸を五発ぶちこんだ。何とか損傷を与えられたぞ、流石は世界第二の魔術士が作った弾丸」

 メフィストの壁を浸透して屍を襲った偽・螺旋剣の神秘の破壊力も凄まじいが、その捻れ狂った剣を傷付けた弾丸もまた並みではない。世界第二の魔術士、即ち魔術大国チェコの現ナンバーワンの使い手トンブ・ヌーレンブルクの手からなる魔弾であったらしい。
 屍が用いたのは、トンブが宇宙力つまり大宇宙の神秘の一端を解き明かした者のみが知る、宇宙の未知のエネルギーを込めた最強クラスの破魔の弾丸だったのだ。 この弾丸の前では、如何なる強大な魔物も無傷では済まないと言う代物である。何しろ一端とはいえ大宇宙のパワーだ。例外は複数で一つの命を共有している場合や、単体で複数の命を共有しているタイプだろう。それも色々と定義もあるだろうが。
 屍はその弾丸五発で爆発寸前のカラド・ボルグに傷をつけ、本来の爆発のタイミングに干渉して、殺傷力を減衰させたのだ。実は“メフィストの壁”の展開は寸での差で遅れていた為、ダメージは大きい。
 ドラムのシリンダーには一発も入っていないはずだが、必ずしも最大装填数が六発とは限らないのが、七不思議のひとつを担っている。ある事件で屍が撃ち合いを演じたとき、彼は一度も弾丸を補充せずに二十人以上を射殺してのけたのだ。

「質問は終りか? ならさっさと右手を挙げろ。断っておくがまだドラムの中身は空じゃあないぞ」

「了解、と言いたい所だが生憎マスターが口煩いのでね、お縄に付くわけにはいかんな」

 無言の屍が、アーチャーの両膝を吹き飛ばすべくドラムを閃かせた時、アーチャーの姿が透き通り、その姿をかき消した。霊体化。サーヴァントの待機状態のようなもので、こうなると一流の魔術士にも姿は見えず、サーヴァント同士でしか知覚できない。
 油断なくドラムを構えた屍が警戒を解いたのはそれから5分後である。流石の大ダメージに屍が腰を下ろした。ドラムはいつの間にか右手から消えている。ジルガの呼吸法で止血と痛み止めを施しながら、ポケットから消解毒止血帯を取り出して貼り付ける。40センチくらいの湿布みたいなコレは、クラゲの細胞を参考にしたゲル状の部分が、対象の遺伝情報に合わせて傷を塞ぐ高級品だ。
 あっという間に応急手当を終えた屍がスックと立ち上がる。常人なら10回死んでもお釣りが来る負傷も大して行動に支障をきたさない。ふと屍が天を仰いだ。

「いい月夜だな……」

 屍と対峙した者達が挙げる、この“凍らせ屋”のもっとも恐ろしいところはコレであった。
魔界刑事の捜査はコレからが本番なのだった。

②につづく
正直パワーバランスが取りづらかったです。アーチャーが適度に手を抜いているといった感じです。いま読み返して思うに、アーチャーを過小評価しすぎてはいませんでしょうか?
ちなみに屍を撃ち殺したヤのつく家業の人は一万五千分の一秒のクイック・ドロウの使い手だったりする件。

それと感想板で云々と前回もうしあげましたが、いささか言葉が過ぎたかもしれません。あまりお気になさらず、拙い文章では在りますが、皆様には楽しんでいただければ幸いです。



[11325] その20 凍らせ屋 × Fate ②
Name: スペ◆52188bce ID:e0398f80
Date: 2010/06/21 21:44
その20 『 凍らせ屋Ⅱ 』

 “魔界都市〈新宿〉”の法を守護する魔界刑事たちは、その土地の特異性ゆえに区外の警察官達とは一線を画する存在とならざるを得ない。
 〈新宿〉の警察官の出動回数は区外の十数倍、殉職率に至っては三百倍だ。また、その不倶戴天の敵である犯罪者にも三百倍のリスクを背負わせるところが〈新宿〉流である。
 そしてその激務をこなす人間達が通常の人間の規格に収まるわけも無い。第一まともな人間では〈新宿〉で警察官などなれやしないし、なったところで運が悪ければ一日生き残ることさえ出来ない。
 一種の超人にならざるを得ない状況を支えるのは、皮肉にもその原因たる〈新宿〉だった。〈新宿〉には世界を見渡しても存在しない鉱物・植物・微生物・細菌・大気中の成分、そして何より妖気が存在する。
 民間、国家の研究機関が徹底的に―それでも全てを調べ尽くす事はどれほどの年月を掛けても不可能とされている―分析を進める過程で、人体に望ましい効果を与える成分を発見した。その中に“超人製造薬”即ち“新陳代謝昂進液”が含まれていたのである。
こ の成分を含む薬の投薬によって、〈新宿〉の刑事たちは現代のスーパーマンと化した。彼らは十日間連続の激務を続けても眠い眼をこすり、欠伸をするだけで次の任務につき、走れば百メートル十一秒を誰もが容易くきり、平均時速四十キロで十キロを完走した。潜水時間は優に七分を超え、軽々と五メートルをジャンプした。
 しかしなによりも〈新宿〉において望ましく、また〈新宿〉らしい効能は戦闘能力の増加であった。彼らは素手で猛牛を殴り殺し、アナコンダを逆に絞め殺した。猛虎の爪で引き裂かれた皮膚と筋肉は三日以内に再生し、更には獅子すらも噛み殺してのけた。
 彼らのタフネスの証明としては、脳と脊髄、心臓だけを残して生体解剖された刑事が三ヶ月のリハビリで現場復帰したことが例として挙げられる。
 彼らは夕暮れ時に二キロ先の鳥影を視認し、〇・一秒ジャストの早撃ちで三百メートル前方の風船大の標的へ、五〇口径マグナム弾を叩き込む。数ミリの凹凸さえあれば指を引っ掛けてビルさえよじ登り、零下三十度の極寒を素肌で歩き回ったかと思えば、そのまま摂氏六十度の炎天下を五〇キロ走行が可能なのだ。
 四五口径までの弾丸なら脳を直撃しなければ自分で弾を抜き出して消毒まで済ませて戦闘に加わるし、ナイフの刃などは筋肉を引き締めれば一ミリも進入できない。自律神経を調節すれば、毒ガスを吸引しても心臓を止めてまた再稼動させられる。
 またこれらの変化は肉体に留まらず、精神にも及ぶ。彼らはいかなる姿形の妖物をも恐れず、精神奇生体などは寄生されたその場で、逆に焼き殺してしまう。
 かくて〈新宿〉の警察官達は、その個々の戦闘能力と精神の異様さ、軍隊顔負けの重武装を持って、わずか十余年で世界でも最強クラスの“〈人外生命体〉用戦闘部隊”として世界中の軍隊や、退魔組織、宗教団体にその名を轟かせている。
 そして〈新宿警察〉最強・最恐・最凶・最狂と四つの“きょう”を誰もが認める恐るべき超人にして最高の魔界刑事“屍刑四郎(かばね けいしろう)”は、二〇〇×年一月末日から二月の半ば頃に掛けて、〈新宿〉には居なかった。 
 〈新宿〉から遠く離れた冬木市の、二つに区分される市街のうち“新都”にあるビジネスホテルに宿泊している屍は、〈新宿警察〉装備課所属・平平助(たいら へいすけ)から届けられた装備を満足そうに確認していた。
 ベッドの上に置いた特大のジュラルミンケースの中身をしげしげと見つめる屍の姿は余人が見たらさぞや理解に苦しむ光景であろう。
 身長一八五センチ以上のドレッドヘアの大男が、下を向いて薄く笑っているのだ。誰が見ても真っ当な人間には見えないし、おまけに着ているものと来たら本物の花をあちこちにはりつけた絢爛たるシルク地の擦り切れたコート、黒光りするレザーの上下に銀の滑車が付いた黒革のハーフブーツ。左目には刀の鍔が当てられ、この男が隻眼なのだと教えている。
 しかし今顔を上げた屍の相貌から滲み出す圧倒的な凶暴性とそれを押さえつける鋼の精神力と理性の不思議な混在。途方も無いパワーを体の奥底に隠しても、霞のように滲み出ているかのような気迫に満ちた肉体。それらを視界に認めた時、この男が、破壊に身をゆだねたらどれだけの死と破壊が世界に撒き散らされるか、そんな危うい考えに囚われてしまうような言語に絶する男であった。
 ジュラルミンケースからいくつかの装備をチョイスした屍がおもむろに部屋の入り口に向かって歩き出した。これから魔界刑事の仕事の時間なのだ。犯罪者を逮捕ではなく退治する魔界刑事の。
 懐に超規格外巨大リボルバー、通称“魔銃ドラム”を。そのコートには超高性能爆弾である花々を。その鋼鉄の肉体には世界最古の古代武道“ジルガ”の超絶の秘技を。その精神には、もはや人の範疇に収まらぬ苛烈な正義感と犯罪に対する憎悪を抱いて、屍はホテルの従業員の好奇の視線を引き剥がしながら、冬木市の朝の光の中へと歩き出した。
 屍がこの冬木市に来たのは、政府の新政策である、普段貢献著しい公務員に、三週間の有給休暇を与えるという屍にとってはありがた迷惑な話の対象に選ばれたのが切欠だ。この際、屍だけがこの冬木市に行くよう指定され、またこの街で〈新宿〉区民が過去に行方不明になった事件が起きているので屍も了承する次第になったのである。
 この街に来る前に〈新宿警察〉のデータを洗い、〈高田馬場魔法街〉で話を聞くと、この街は普通の街ではなかった。およそ二百年前から、魔術士たちが血で血を洗う戦いを繰り広げていたのである。これはおよそ六十年ごとに行われ、七人の魔術士がそれぞれサーヴァントという通常の使い魔とは大きく異なる超常の存在をこの地で召喚し、最後の一組になるまで殺しあう、血生臭いものであった。
 これの勝者に与えられるのは何百番目だかに“教会”に認められた“聖杯”。あらゆる願いをかなえる“聖杯”だという。過去四回の戦いにおいて誰もが望み、誰もが得られなかった願望機“聖杯”。コレを求めて戦いが行われるがゆえ、この戦いをこう呼ぶ“聖杯戦争”と。
 たった七人の魔術士の争いだというのに『戦争』と呼ばれるのは、魔術士である参加者が召喚し使役するサーヴァントの、その凄まじい戦闘能力が原因だ。彼らサーヴァントは人類の歴史の中偉業を成し遂げ、人々から信仰・崇拝される英雄達が死後、“英霊の座”と呼ばれる高次元に登録された者達だ。
 “聖杯戦争”では“聖杯”の力を借りることによってその英霊本体から情報を転送しコピーを召喚し、彼らと共に召喚した魔術士=マスターが争うのである。
 過去・現在・未来の英雄である彼らは、“英霊の座”本体のデッドコピーにも関わらず、そのシンボルたる“貴き幻想―ノーブル・ファンタズム―”宝具を持ち、その英霊たる超絶の戦闘技能と知恵と機転、経験を持って戦う。
 その戦闘能力は世界の“闇”側に置いても一固体としては最強ランクに位置し、現代の魔術や装備では到底太刀打ちできない存在として認識されている。
 だが何事にも例外があるように、生きた生身の人間でありながら彼らと戦いうる超人魔人もまた世界には存在する。その一人が、屍刑四郎。あらゆる犯罪者妖魔の背筋を凍らせる“凍らせ屋スパイン・チラー”であった。
 朝の清々しい光と空気の中を、屍は冬木市の警察署目指して歩いていた。過去の不自然な行方不明や殺人事件を頭に叩き込むためである。昨夜に、サーヴァントと思しき男と戦ってから、屍の中では凄まじい戦闘本能と一般人に対して危害を加えているかもしれない魔術士どもに対する苛烈な敵愾心と正義感とが、太陽の中心部よりも熱く激しく燃え滾っているのだ。
 署員から不気味がられる視線を平然と跳ね除けながら、屍は小一時間ほど書類やパソコン画面と睨めっこしていた。さながら猛獣がパソコンをポチョポチョやっているようなものだ。何気に見ていて微笑ましかったりする。
 屍が注目したのは、十年前に起きた数百人の死傷者を出した大火災と、定期的に発生し、間隔が短くなっている行方不明の事件。それと最近起きているガス漏れ事故と槍か長い刃物を用いた一家惨殺事件だ。論理的な思考と同時に、屍の犯罪に対する異常極まる鋭い直感が働いていた。
 書類を元に戻し、パソコン画面から眼を離し、出された緑茶を一息に飲み干してから、

「お邪魔した」

 と低く渋く、男臭い声で礼を告げて屍は警察署を後にした。屍が辞した警察署では、署員や一般人、抑留中の連中に至るまで一人の例外も無く安堵の溜息を漏らした。屍の姿を見ていないものでさえ、〈新宿〉の魔性や凶悪極まる犯罪者どもを震え上がらせる屍の存在感に、すくみあがっていたのだ。
 署長から、二度と〈新宿〉の刑事を中に入れるな、と厳命が下ったのも仕方あるまい。



 昼を近くのマックのトリプルハンバーガー五個で済ませ、一・五リットルのペットボトルのコーラを軽く一気飲みしてから屍は冬木市全体を歩き回った。
まずはガス漏れ事故が起きた建物を皮切りに、一家惨殺事件の現場に足を向け、犯人の遺留品や物的証拠を屍流に探した。結果から言えば、物的証拠は無い、無いが屍の勘に触れるものがあった。
 いわば霊的な、超常現象に属する何かの残り香のようなものが。一家惨殺事件の現場で一人居間に立ち尽くしながら、屍は呟いた。

「昨日の晩の奴か、その同類の仕業か?」

 この戦いにおいて、不運な目撃者の運命は魔術士が握っている。即ち、目撃者は殺すか記憶だけを消して命は取らずに置くか。どちらにしろ、屍の魔銃“ドラム”の咆哮が、犯人に放たれるのには変わりない。
 屍の右目に、立てかけられた写真立てが映った。写真の中で、父親と母親と、二人の子供が笑っていた。これからも続く、たくさんの喜びと少しの悲しみと、幸せとが約束された在りし日の一家の輝かしい姿。だが、それはもはや永遠に失われている。この一家の与り知らぬ事情で、理不尽に、無残に、唐突に。
 屍の隻眼に灯った光を、人はなんと呼ぶか。少なくとも犯人は、この眼を、死んでも悪夢として永遠に見続けるだろう。この刑事に出会った運命を永劫に呪い、自らの行いを、地獄の業火の中で悔やみながら。

「仇は討つ。それしかオレにはできん」

 屍の精一杯のたむけの言葉か、それだけ言って“凍らせ屋”は平凡な、けれど確かに人の幸せを得られた一家の日常が営まれていた家を後にした。もう二度とかつての日常が戻らない家を。その背中は魔界刑事ではなく、己の無力を嘆きながらも決して絶望しない、自らの使命を知る男の背中だった。
 屍が現場を後にしてから、深山町の辺りをウロウロしていた。何の根拠も無いわけではなく、行方不明事件の最後の目撃談が比較的集中している地域を回っているのだ。
 とある公園に足を踏み入れた時、ぞわっと肌を冷たいものが撫でていった。十年前の大火災の跡地に立てられた公園だった。

「十年間ほったらかしか」

 無論、壊滅した跡地には立派な公園が建てられ、整理されている。屍が言ったのは霊的な措置についてだ。一般人には見えないだろうが、〈新宿〉の刑事である屍には、ここで死んだ人々の怨念、悲哀、憎悪、絶望が薄い霧のように漂って、訪れる人々の臓腑に染み入ろうとしているのが見える。
 時折屍にまとわりつく白いモヤのような怨念を手で振り払いながら、公園の出口に向かった。モヤのいくつかは明らかに人の顔と分るものもあり、いずれもが赤い血の涙を流している。その中にはまだ、ほんの五歳位の子供の顔もあった。
 一種の異界と化した公園を後に、屍は低く唸った。唸り声は言葉であった。

「あのガキ、十年間何してやがった」

 “あのガキ”とはこの地の管理者、遠坂凛のことである。“あのガキ”呼ばわりは、この地の管理者として、土地の“浄化”を怠っているとしか思えなかったからだ。当主になったのが6,7歳の子供の頃としても、十年経った今の彼女は一級線の魔術士なのだから“浄化”の方法くらいは心得ているだろうに。
 それとも来たる聖杯戦争に向けての準備の方が余程重要だったのか。後で詰問し、答え次第では骨の一つもへし折ってやる、と屍は決めた。それとは別に高徳の僧か高田馬場のでぶの魔術士でも呼ぶか、とも考えていた。

 そんなわけで、虫の居所が悪くなった屍と、彼らが出会ったのは、彼らにとって大きな不幸だった。加えて、屍が何故“凍らせ屋”と恐れられているか、そもそも屍刑四郎という名を持つ男がどんな人間か知らなかったことも。

 人気の無い路地を歩いていた屍は、女の子が二十歳前後の男三人に絡まれているのを見つけたのだ。どこでも良くある光景と言えなくも無いが、男共の悪意が強い。いずれも流行の服装で、似たり寄ったりのために逆に個性がない。劣悪な工業製品みたいに同規格の格好である。
 女の子はまだ学生らしく、制服から見て穂群原学園の生徒だろう。ぽにゃっというかぽやっというかほくほくっというか、とにかく柔らかい擬音語が似合う娘だ。下校時刻には早いが、通り魔事件や一家惨殺事件、行方不明など物騒な事件が相次いでいるから学園の方で早引けさせているのだろう。
 気弱気だが、なかなか可愛らしい顔立ちだ。けれども今は困惑と不安を交えた表情を浮かべている。苛立ったのだろう、男の一人が強引に女の子の腕を取った。

「っゃあ、い、痛いです!」

「いいからいいから、俺達とあそぼーよ? 気持ち良いこと教えてあげるからさぁ」

 男の肩に、優しく屍の右手が置かれた。四人の耳に、鋼の芯を通した穏やかな声が届いた。

「女性に対する礼儀が成っちゃいねえな。クソ餓鬼共」

 また優しく、屍がこう言った。

「放してやりな」

「あ……あぁ…」

 ゆっくり、引き剥がすように男の手が女の子の肩から離れた。めり込んだ屍の指が、言葉にも出来ない激痛で男の脳髄を苛んでいるとは、屍と当人にしか分らない。突如現われた屍の格好と、理解しがたい威圧感に、その場の全員が怯えた。
 懐からIDカードを示して屍が言った。

「警察だ。婦女暴行の容疑でしょっぴくぞ」

「けっ警察!?」

「はっそんな格好の刑事がいるかよ!」

 ギロリ、と屍が一瞥すると口にチャックがついているかのように黙りこくった。屍の登場に呆然となっている女の子に、打って変わって優しい声音で屍が立ち去るよう、促す。

「早く行きなさい。今日のことは、そうだな外れクジでも引いたと思って忘れると良い」

 先ほどまでとのギャップの為か、女の子が屍の言葉を理解するのに、しばし時間がかかった。ハッとしてから、この怪しい風体の救い主に、困惑と不安の混じった表情を向けた。

「で、でも」

「いいから、行きなさい」

 戸惑う女の子に、屍が右目で軽くウィンクし、苦笑交じりで諭すように言った。いざとなれば、猛獣や殺人狂でも命乞いをしだす表情を浮かべる顔が、苦笑を浮かべると妙に人懐っこいように変わった。貞操を守り抜くオールド・ミスでも口説けそうだ。女の子に決意させたのは、ソレかもしれなかった。

「あ、あのすぐお巡りさん呼んできますから!」

 背を向けて走り出した女の子に向かって、また苦笑を浮かべた。同僚が見たら奇跡だ! と言うだろう。

「オレも警察の一員なんだがな」

 さて、と呟いて屍は残った男共を見た。屍の瞳に冷たい光が宿るのと同時に、彼らの背筋にも、泣きたくなる位冷たいものが走った。それを恐怖と呼ぶか戦慄と呼ぶか。どちらも出会わずに済むなら、だれもが泣いて哀願するだろう。そして屍の瞳が語っていた。

“オレがお前らを人間扱いするなんて思うなよ”

“お前らは人間じゃあない。犯罪者という名の別の生き物だ”

「抵抗は無駄だ。……いいや、抵抗(・・)しろ(・・)」

 男の一人のポケットには飛び出し式のナイフは入っていた。他の二人もそれぞれスタンガンとメリケンサックを持っている。ゴタゴタ手間を掛けさせる獲物を黙らせてきた凶器だ。
 そして彼らの最大の過ちは、彼らの人生で初めて浴びせられる殺気に、彼ら自身気付かぬうちに、それらの品々に触れていた事だ。凶器に触れてしまったのだ、屍の前で。
 ニヤリ、と屍の唇の両端が吊り上り、表情が歪む。今三人の男達は、逮捕ではなく退治される犯罪者と見なされたのだ。

 三十分後、偶然巡回中だった警官を見つけた先刻の女の子が戻ってきた時、既に屍の姿は無く、両手両足の骨と顎を粉砕されて失禁しながら気を失っている男三人だけが残されていた。

 女の子が戻ってくる前に、その場を後にした屍は、遠坂家以外にこの地に住まう魔術士の血統であるマキリの一族の家を訪ねた。もっとも誰もおらず、家の中にも気配がしないので、また別の機会を待つしかない。
 くるりと背を向けた屍が、ふと背筋の辺りがむず痒いような感覚を覚えて、直感に従ってマキリの屋敷の、その地下の辺りを見やった。

「…………気のせい、か?」

 納得していないような口調で呟いた屍が、マキリの屋敷を後にしてから、その屋敷の中から安堵するような気配が生じた。屍の勘は外れていなかったのだ。キチキチ、キチキチ、と数千、数万の虫達の啼く声と、こすれる無数の体が立てる音は、それが行われる光景を見るだけで人間の精神を狂わせるには十分だろう。
 数多の蟲の中、炯炯と輝く光点が二つ。それは人の瞳と見えなくも無かった。欲望と狂気とに蝕まれた人間だけが浮かべられる瞳の光。

「おお、おお、蟲達がざわめいておるわ。かくいうわしも怖気が振るいよる。これは慎二にきつく言い置いておかねば厄介なことになろうて」

 蟲の支配する屋敷のどこかで、しわがれ枯れきっているようなのに、生々しく精気に満ちた老人の声が陰々と響いた。



 今のところ、屍が得られた手がかりや情報は少ない。一体のサーヴァントと交戦するも取り逃がしたし、今日は第五回聖杯戦争に影響であろう事件を調べて、直感的な手応えはあるが具体的な情報が無いのだ。後は“高田馬場魔法街”一の魔術士トンブからの情報くらいだ。
 となると

「夜か」

 トンブ曰く、聖杯戦争では一応人目を避ける最低限のルール位はあるらしく、参加者達は夜になってから行動するだろう、と教えられている。現状では夜に動き出すマスターとサーヴァントをとっ捕まえるのが一番有効だろう。ちなみに遠坂邸に行ったところ、既に凛の姿は無く、事前に用意した隠れ家か何かに姿を眩ましたのだろう、と推測している。
 一度ホテルまで戻り装備の再確認を済ませて、屍は日が落ちるのを待ってから再び街に繰り出した。“ドラム”の咆哮は果たして狩るべき獲物を捉えるか否か。
 足音一つ立てず街頭に照らされる夜道を歩く屍の姿は、死に対する餞の花を纏った死神のように、鬼気すらまとって冬木の街を探った。

「さて、オレの勘はどこまで当たるかな?」

 捜索を始めて二時間ほど経ってから屍は血臭を嗅ぎつけた。手遅れか? 考える前に体が反応して駆け出す。凄まじい破砕音と、ぶつかりあう強大な気配がどんどん近付いてくる。何者かが交戦しているのだ。そしてその正体は問うまでもない。ニヤリ、と屍の唇が獲物を見つけた狩人の笑みに変わる。
 角をいくつか曲がり、五百メートルほど走るとその現場に到着という所まで来た。その手前で屍は足を止めて、余計な人間がこの付近に近付かないようにスト退散用の異臭を放つカプセルと人間の意識を逸らし、近付かないようにする“迷路”の護符をその辺の地面や電柱に貼りつけた。これで朝までは無関係な人間が来るようなことはあるまい。
 ジャリッと意識してか、わざと音を立てて屍は姿を見せた。その足音に気付いてその場の視線が屍に突き刺さった。
 対峙していたのは三組。片や鉛色の巨人と十歳かそこらの少女。かたや銀の甲冑を纏った金髪緑眼の少女剣士と、赤毛の少年。それに冬木の管理者遠坂凛。どうやら少年と凛は手を組んでいるのか、共闘している様子だ。困惑で彩られた目線で見つめてくる全員を無視して、屍は職務を全うすることにした。

「警察だ。全員その場を動くな。ただしそこのでかいのと君は携帯している武器を手放せ」

 何時の間にか右手に握っていた“ドラム”の銃口を上に向けながら、屍が巨人と鎧を纏った少女に警告する。凛は明からさまにゲッという顔をしている。屍がギロリとそっちを睨んで意味ありげな笑みを浮かべた。“後で嫌というほど詰問してやる”と言った所か。凛の顔が青褪めた。屍と出会ってから、目下胃潰瘍まっしぐらだ。

「な、あんた危険なんだ。早く逃げてくれ!」

 これは赤毛の少年だ。切迫した表情で屍に訴えかけてくる。その声を、巨人を連れた銀髪に赤い瞳が印象的な妖精のように儚い少女が遮った。外国の人間のようだが日本語の発音は及第点を付けられる。この少女もまた魔術士か。

「なによ、折角良いところだったのに。つまらない。バーサーカー、アイツから潰しちゃえ!」

 ブーブーと頬を膨らませて文句を言った後で、少女が傍らの巨人、“バーサーカー”に命じた。途端に膨れ上がるバーサーカーの気配。対峙するものに圧倒的な“死”の匂いを振り撒く絶望を体現したようなその姿。士郎や凛が、思わず体を竦ませた。

「イリヤ、止せ!! くそっセイバー!」

「はい!!」

 『イリヤ』。少女の名だろう。赤毛の少年がイリヤを制止しようとするが、聞く耳は持たれず、少年を守るように立つ甲冑の少女の名前を呼んだ。
セイバーと呼ばれた少女は、心得たとばかりに、手に剣を持っているかのような仕草で、跳躍せんと姿勢を取る。しかし彼らの耳に届いたのは屍の、どこか笑みを含んだ声だった。

「良く抵抗してくれた」

 屍の右手がバーサーカーに向けられた瞬間を、果たして誰が認められたかどうか。“ドラム”の銃口からは五十センチもオレンジ色の炎が噴出し、巨象も一撃で射殺する猛弾がバーサーカー目掛けて殺到した。バーサーカーと屍以外の全員が腹を抑えて、苦しそうな顔をする。“ドラム”の銃声は鼓膜ではなく腹の奥底に響くからだ。バーサーカーの体の表面に、火花が六つ生じるのを見て屍が少し眉を寄せた。弾丸は全て対妖物弾頭だったのだ。

「■■■■――!!」

 二メートル半はありそうな巨体が、右手に握った岩の塊から削りだしたような巨大な剣を打ち振るう。大の大人が5,6人でかからねば持ち上げることも出来そうにない剣が、烈風の速度で屍の頭目掛け振り下ろされる。
 刃風にドレッドヘアを煽られながら屍がステップバックし、“ドラム”が再び火を噴いてバーサーカーの体表に火花が散る。何がしかの防御手段の持ち主であることは間違いない。
 コンクリートに長さ五メートル、深さ数十センチの穴を穿った巨大な剣を引き抜いて、バーサーカーが横殴りに屍を襲った。ジャケットの前の部分が刃風に荒々しく引き千切られ、その下の屍の鋼の筋肉を傷付けた。血が噴出すが、筋肉が早くも止血と再生を始め、被害の拡大を防ぐ。
 横に飛び退いた屍が、右足の踵で塀を引っ掛けるように蹴ってその上に飛び上がる事で回避し、神速の連射で“ドラム”がバーサーカーを射った。両目、口腔、手足の指、咽喉、心臓、睾丸、人体の急所に尽く群がった六〇口径の巨弾はバーサーカーに尻餅こそ着かせたものの、ダメージは一切無い。
 当面の敵はこの巨人、と屍が見定めた。凛とセイバーは、屍が戦っているうちに撤退しようとしているのだが、それを赤毛の少年がゴネているらしい。
“ドラム”に弾丸を再装填しながら、聞えてきた会話を分析すると、屍を置いていくのが、利用し見捨ててゆくようで気が咎めているようだ。お優しいことだ。
 トンと屍が塀を蹴って、トンボを切って飛び退く。さっきまで屍が立っていた所に電光石火の速度で巨剣が唐竹割りに落とされて、コンクリートを粉砕する。太刀筋こそ膂力にまかせた技も考えもない駄剣だが、その破壊力と速度は屍から見ても瞠目に値する。
 空中で迸る屍の超高速クイックドロウ、バーサーカーの頭部にアフリカゾウの突進を止める“ドラム”の魔弾が五発。ダメージは無くてもその衝撃までは殺せないのか、物理法則に従ってバーサーカーが片膝を着いた。夜目にも鮮やかな銃口の花火。
 屍が着地しながら射った魔弾がバーサーカーの足元に炸裂した。途端に広がる大輪の炎の花。〈新宿〉の超科学が実現した拳銃弾サイズの対戦車装甲弾頭HEAT弾だ。
 凹凸のライナー部分から対象内部に炸裂する二万度の超高温が、バーサーカーの足元のコンクリートを溶解させ、バーサーカー自身に挑む。実際霊的存在であるサーヴァントにHEAT弾は効果がないのだが、地面の上に立っている以上足元を崩せば隙を造るくらいはできる。
 屍がコートに貼り付けた花を無造作にいくつか毟ってアンダースローで放った。それぞれに最高位の大僧の祈りと、祝福儀礼、魔術処理を施した対霊的存在用の一品だ。今朝届けられた装備品の目玉の一つである。
 バーサーカーの周囲の民家に被害がギリギリ及ばない程度の威力の花を選んで投げつける。カチッとスイッチの入る音が花からした。
 ドカン!! という轟音と共に広がった紅蓮の火花に、青や紫の光が混じるのは霊的処置の影響だろう。民家の一軒くらい吹き飛ばす高性能火薬の炸裂は果たしてバーサーカーに通じるや否や。
 この隙に撤退を考えていた凛達も、屍の所業に眼を丸くしてポカンとしている。戦争映画の中のような馬鹿げた破壊の光景に、多少脳の処理が追い付かないらしい。マスター二人を尻目に、セイバーは屍を値踏みするように警戒を込めて見つめていた。
 ゆっくりと炎の中の人影が動くのを見て、屍が舌打ちと共に“ドラム”のシリンダーをスイングアウトして弾丸を込めていった。一発二発三発、やがて六発を越えて十発、十二発、十四発まで込められた。
 いくら“ドラム”が巨大な銃とはいえ六〇口径の弾丸は精々六発までが限界だというのに、あっさりそれを覆した光景だ。
 炎の中から姿を見せたバーサーカーは流石に効果があったのか、体表が焼け焦げて体内の構造をあらわにしている。だがそれが見る見るうちに塞がって再生し、無傷のバーサーカーがそこにいた。

「……あっ、よくやったと褒めてあげるわ。バーサーカーをにダメージを与えるなんてね。けど次からは無駄よ。一度乗り越えた試練はバーサーカーの前では無駄なんだから」

 呆気に捕らわれていたイリヤが、ようやく自分を取り戻して、自慢げにバーサーカーを称えた。イリヤのセリフに、凛が何か引っかかるものを感じたのか考え込むような仕草をしてからまさか、といった風に呟いた。

「まさか蘇生魔術の重ね掛け!?」

「あらまだいたのね。そうよリン。これがバーサーカーの宝具“十二の試練(ゴッド・ハンド)”、十二回異なる試練でこいつを殺すか、一度に殺しきらない限りあなた達に勝ちは無いわ」

チラリと屍がイリヤを見た。

「わざわざ敵に知らせるか。マスターは足手まとい、とはよく言ったもんだな」

「なんですって!?」

 イリヤが屍の言葉に冷たく、押し殺した声と瞳で反応する。彼女の矜持を傷付けるには十分な言葉だった。

「そうカッカしなさんな。ところで後十二回で良いんだな?」

 軽く屍が言う様子に、他の面々は驚いたようだ。十二回の異なる手段での殺害。おまけに相手はあの鉛色の天災のような巨人だ。屍がどういう神経をしているのか、この場の誰もが理解に窮している。
 他人の反応は一切考慮せず、屍が十五発目の弾丸をポケットから取り出した。特殊プラスチックの薬莢には赤い丸と、その周囲に扇のようなマークが三つ囲んでいる。
 このマークの意味は、この国の人間は知っていなければなるまい。ちょっと考えてから、またポケットに戻した。カチリと、緩やかな動作でシリンダーを戻して屍が最初っから燃えっぱなしの闘志を更に燃やす。

「何よ、強がり言って、そんな事言っても無駄よ。あなた達はここでバーサーカーに殺されるの」

 イリヤの声を無視して、屍が絢爛な風の如く駆けた。荒れ狂う台風のように吹き付けてくるバーサーカーの狂気は、むしろ屍の闘志を燃やすようだった。
屍を叩き潰すために振るわれた巨剣を大きく横に跳んで回避し、身を捻りながら射った三発の粘着溜弾がその巨剣目掛けて襲い掛かり巨剣の表面に弾頭が粘着して、剣内部に衝撃をぶちまける。大きく揺さぶられる巨剣がほんの少しバーサーカーの動きを止めた。
“ドラム”がアーチャーに痛手を負わせたトンブ特製の大宇宙のエネルギーを内包した退魔弾をバーサーカーの頭部目掛け発砲。“ドラム”の咆哮は大気を震わせ、風に乗る妖精たちも昏倒させているかもしれない。
 着弾と同時に大宇宙の神秘的超エネルギーは、最高峰の英霊の一体たるバーサーカーに、余すことなくその力を殺戮のパワーとして叩き込んだ。柘榴のように内部から弾けるバーサーカーの頭部、だがこれでもう二度とこの弾は彼には効かないのだ。
 再生するよりも前に、と屍が獣のような俊敏性でバーサーカーの懐まで近付いて“停止心掌”を叩き込む。いかなる装甲も通過し、内臓を破砕する“ジルガ”の技は、しかしその威力を発揮しはしなかった。

「ちっ、装甲の問題じゃないって事か」

 舌打ち一つで無駄にした時間の代償は、バーサーカーの左腕の豪拳だった。懐に飛び込んできた屍目掛けて振り下ろされる。間一髪でかわした屍だったが掠めた左肩が粉砕骨折していることに、苦笑いを漏らして、五メートルも後ろに跳躍してバーサーカーを睨んだ。 
その間に屍の左腕は再生を終えていた。事前に使った注射の効果が現われているのだ。ドクター・メフィストが開発した再生細胞は十ccの注射で三十回の再生能力を与える。もちろん再生不可能な場所もあるので、頼り切るのは危険だ。
 バーサーカーが人の高み、“英霊の座”に昇った者の力で戦うならば、屍はこの世に出現した魔界、〈新宿〉の魔性が培った異形の技術と超人の戦闘能力、この世ならぬ戦闘経験で立ち向かう。
 月の光が地に這わせる影すらも威圧に満ち、バーサーカーは再び立ち上がった。荒々しい唇からは、猛獣の類が二本足になって逃げ出しそうな唸り声が漏れ出し、屍を睨みつける。

「来な、クレイジー・ジャイアント。〈新宿〉の刑事が今の世界のルールって奴を教えてやるよ」

 やはり屍はどこへ行こうとも屍刑四郎だった。今日何度目かの笑みを、屍は浮かべた。実に頼もしく恐ろしい“凍らせ屋”の笑みを。
 一方、屍がバーサーカーと互角に渡り合う様子を、信じられない思いで見ていた凛たちにも動きがあった。凛にアーチャーから念話が繋がったのだ。現在アーチャーはセイバーから数時間前、出会い頭に与えられた負傷を癒す為霊体化していたのだ。

(凛、あの刑事とバーサーカーが戦っている間に退避しろ。そこの愚か者の言うことなど気にするな。一発首をへし折るつもりで延髄を叩け。いいか、くれぐれもへし折るつもりでだぞ?)

(……アンタ、ホント衛宮くんのこと嫌いなのね。まぁ言う通りにはするけど)

 チラっとセイバーに目配せするとこの愛らしくも恐るべき戦闘能力を誇る剣の騎士は、渋々といった感じで頷いた。彼女自身、マスターである衛宮士郎の行動に困っていたからだ。よしやるか、と凛が気合を入れる。

「衛宮くん」

「え、ああ何だ遠さかっ……!?」

 音を表すならズドッだろうか。凛の放った手刀が士郎の首筋に決まり、失神して倒れこんだ士郎をセイバーがお姫様抱っこの形で抱えた。

「見事ですリン」

 短く、しかし賞賛のまなざしでセイバーが凛を褒めた。それくらい見事な一撃だったのだ。まあね、と満更でも無さそうに凛が答えて少しだけ後ろめたそうに屍の姿を見てから駆け出した。セイバーもそれに続く。かくて彼らは士郎の頚椎を痛めただけで撤退することが出来た。

「……あっ」

「? どうしましたリン」

「ナンデモナイワヨ。ウン、ナンデモナイ」

「??? はぁ」

 この時凛は、屍が生き残ったら自分の事を、さぞや彼流のやり方で詰問してくるであろうことに気付いた。ただでさえ胃潰瘍になるんじゃないかと心配しているのに。そして凛は屍があのバーサーカー相手でも生き残ることを、根拠はなしにほぼ確信していた。
 そして屍は左半身を朱に染め、右のこめかみからも赤い筋を一つ流していた。骨折も少なくない。再生細胞の効果が切れだしたのだ。
 “ドラム”の姿が霞み、眼にも止まらぬスピードでバーサーカーの口内、全く同じポイントへ巨弾が四発着弾する。同じ箇所への連続射撃だ。だが、それすらもバーサーカーに効果は無いのか、口の中の弾丸を吐き出してからバーサーカーが屍目掛け巨剣を振り下ろした。

「ちぃ、下手なサイボーグ共よりも馬力がありやがる!!」

 バックステップで回避し、飛び散ったコンクリートの破片をコートの裾で打ち落とし、ポケットからドングリのような形の手裏剣を取り出して、強く握り締めてからバーサーカー目掛け投げつけた。
 霊的攻撃思念を込めた、“ジルガ”の飛び道具だ。銃弾に負けず劣らずの速度で投擲されたドングリは、バーサーカーの体表に火花を散らし、その上からドリルのように回転して肉を破ろうとするがそれ以上進むことが出来ず、わずらわしいとばかりに振るったバーサーカーの左腕で砕かれる。
 その間に屍は、バーサーカーを中心に、半径六メートル以内に、円周上になるよう“ドラム”の弾を射ち込んだ。結界魔術を施した空間隔離用の特殊弾だ。これでバーサーカーから半径六メートルから外には、中でどんなことが起きても(限度はある)、ある程度は影響がないはずだ。
 一瞬バーサーカーの視界が屍からそれて、次の瞬間跳躍した屍がバーサーカーの上半身に飛びつく。左手で蓬髪を掴み、右手の“ドラム”をバーサーカーの口の中に突っ込んだ。

「やれやれ、あまり使うわけにはいかない弾なんだがな。まぁ、たっぷり堪能してくれ」

 ガチンと“ドラム”の撃鉄が鳴った。同時に屍は膝でバーサーカーの顎をかちあげて閉ざし、大きくバーサーカーの体を蹴って離れる。その顔にはまたもや凶悪な、背筋を凍らせるあの笑みが。
 次の瞬間、バーサーカーの体内から、太陽の爆発にも似たとてつもないエネルギーが炸裂した。屍が射ったのはポケットに戻したあの弾だったのだ。すなわち拳銃弾サイズの『核弾頭』。
 この星を死の星に変えられるといわれる核兵器には何らかの概念が込められていたのか、バーサーカーにもその人の作り出したメキドの炎は思う存分荒れ狂い、その業火を味あわせている。ひょっとしたら通用したのは屍が射ったからかもしれない。〈新宿〉という地球に生まれた魔界で、人からも妖魔からも恐怖される“凍らせ屋”屍刑四郎だからこそ。
 〈新宿警察〉装備課・平平助が作り出した屋内用核弾頭は、きっかり半径五メートルを核の炎の地獄に閉じ込め、五メートルから先には少しの余熱も漏らさない。加えて先ほどの人形娘謹製の結界弾が、核の影響を防いでいてくれている。
 手早く屍が懐からカプセルを取り出して周囲に撒いた。放射能除去剤である。カプセルの中から粉末が零れて、たちまち青く光る放射能を吸収・中和して無害にしてゆく。念のためとりあえず一か月くらいは封鎖して、処理班を呼んだほうが良さそうだ。

「さて後何回殺せばよいかな? お嬢ちゃん」

「!?」

 イリヤが驚愕に顔を染めて、炎の中を見た。ユラリ、バーサーカーが立ち上がる。やはり霊的攻撃手段ではない核弾頭ではバーサーカーを殺しきれなかったらしい。既に再生を終えたのかバーサーカーが一歩踏み出す。
 やれやれと屍が首を振って、再び“ドラム”に弾を込めた。まだ諦めてなどいないのだ、この男は。なにか、これ以上の戦いを恐れるように、イリヤが自分でも理解しがたい衝動に駆られてバーサーカーを止めた。

「止まりなさい、バーサーカー」

「どういうつもりだ?」

「……今日はここまでにしない刑事さん? まさか人間相手にバーサーカーが殺されるなんて思わなかったわ。そのご褒美に見逃してあげる」

「ほう。見逃す、か」

 ビクリと震える体を押さえつけてイリヤが交渉を続けた。

「タダとはいわないわ。えぇっと何だっけ、シホウトリヒキってやつよ」

「司法取引か。バーターだな。で、どんな味のバターだ?」

 司法取引はようするに、犯罪者が情報と引き換えに自分の罪を見逃してもらう、という手段だ。アメリカ辺りではしょっちゅうやっている手法だ。よく考えなくても卑怯な手段である。

「そうね、柳洞寺に行きなさい。何かの事件の犯人に会えるわよ」

「……」

「ソレで良いでしょう。それじゃあね、バイバイ」

「待ちな」

「何よ、まだ戦うつもりなの!」

「お前さんの名前は? フルネームで頼むぜ。オレは屍刑四郎だ」

「カバネ? 変な名前、まあいいけど。私はイリヤスフィール・フォン・アインツベルンよ」

「聖杯御三家の一家か。イリヤスフィール、次は逮捕するぞ。オレなりのルールで裁かれるのがいやなら自首するんだな」

「知らない」

 プイっと顔を背けてイリヤがバーサーカーを伴って屍に背を向けた。バーサーカーが一度だけ屍に目を向けた。大した男だと、認めているように見えなくも無かった。屍は一度もイリヤに銃口を向けなかったのだ。そうすればあっさりと決着がついたというのに。



 翌日、屍としてはそのまま柳洞寺に殴りこんでも良かったのだが、消費した装備の補充と、情報の確保、また使用した核弾頭の後始末で多くの時間を割かなければならなかった。 
 それらからようやく開放された屍はとりあえずエネルギーの補充はしっかりしておかなければなるまい、と考えて喫茶店の一つに入り、注文を済ませてから目の前の獲物をゆっくりと堪能すべく、口を動かした。
 黒茶色の液体を、帯のように纏わりつかせ、白くねっとりと蕩けたその姿は、銀色のスプーンの上で甘く蟲惑的な香りを清楚に立ち昇らせている。そしてそのふたつが屍の口の中に飲み込まれた時、口一杯に甘く、味覚の全てを甘く犯す毒のように広がった。
 赤く色づくサクランボが、山のように盛られたバニラアイスの上に鎮座し、カットされたバナナが花びらのようにアイスを飾る。アイスの下では程良い量のフレークが器の中で、口に運ばれるのを待っている。

 屍の獲物、その名を“チョコレートパフェ”と言った。

 注文を聞いてぎょっとしたウェイトレスが、屍が食べだすのを見て信じられない、といい顔をするが店内の客も全員同じ気持ちだろう。というか顔に出ている。
 当の屍は周囲の反応などどこ吹く風といった顔で黙々とスプーンを動かしている。表情はそのままだから、美味いと思っているのかは分らない。まぁ不機嫌ではなさそうだ。
 喫茶店の入り口のドアに付けられた鐘がカランと音を立てて、新たな客人を三人招いた。穂群原学園の女生徒三人だ。褐色の肌に黒髪をショートカットにした元気の有り余っていそうな子に、切りそろえたロングストレートの髪に、落ち着いた光の滲む瞳とメガネが特徴の色白の子、それにぷにっというような柔らかい擬音語が似合う小柄な子、昨日屍が助けた女の子だ。昨日不運な目にあった女の子を、友人達が元気付けようと誘ったのだろう。三人ともそろって違った魅力のある美少女だ。 
 一度目線だけ動かして、入り口の三人娘を屍は視界に収めた。手はフレークをザクザクとかき混ぜて、溶けたアイスといい感じに混ざり合っている。
 運命の女神とやらは意地が悪いのか、悪戯好きなのか、戻そうとした屍の目線と、小柄な女の子の目線が交差した。あっと女の子が声を上げたのにつられて、連れの二人も屍を発見し、うおっという顔になる。まぁそりゃそうだ。明らかにまともじゃない格好の精悍無比な大男が大盛りのパフェ相手に格闘中なのだ。仕方あるまい。
 昨日の女の子が、友人二人が止めるのも聞かずに屍の方によって来た。良い度胸だ。

「あ、あの昨日はありがとうございました」

「無事なら何よりだ。それに一般人を守るのは警察官の義務さ」

 とセリフは素っ気ないが、優しい声音で屍は答えた。犯罪者に対する地獄の悪鬼と化すこの男は、そうでないもの、弱いものや善良なものに対して無上の守護者となる。それは〈新宿〉でも区外でも決して変わることは無い。
 
「本当にあんな刑事いるんだなー」

「うむ。話を聞いたときは信じられなかったが、私もまだまだ世の中を知らんのだな」

 と言って他の二人も寄ってきた。上から褐色の肌の女の子とメガネの子になる。へー、ふーん、ほー、といった感じでものめずらしそうに褐色の肌の子は屍を凝視し、メガネの子の方は幾分かマシだが、それでも興味深そうにしている。

「なんならIDカードを見せようか?」

 屍なりのサービスだ。

「マジで!? 見せて見せて」

「マ、マキちゃん。刑事さんに悪いよ」

「不躾だぞ。マキジ」

「構わんさ。所で学校はもう良いのか?」

「は、はい。最近良くないことが多いから早く終るんです。あ、あの私は三枝由紀香って言います」
 
 小柄な女の子が今気付いたらしく、慌てて頭を下げて屍に自己紹介した。他の二人もそれに倣って自分の名前を屍に教える。褐色の肌の子が

「あたしは蒔寺楓。よろしく刑事さん」

「わたしは氷室鐘と言う」

 氷室はメガネの子だ。

「ああ」

 と簡単に返事をしてから屍が懐からIDカードを出して三人に見せた。三人とも好奇心に程度の差はあっても、本物の刑事のIDカードなど見たことは無いから、見ようとする。

「シカバネ ケイヨンロウ? 芸名?」

「かばね けいしろう、だ」

 蒔寺の読み方を屍が訂正した。確かに一回で正確な読みができる漢字ではない。特に名字。

「〈新宿警察〉?……あの〈新宿〉なのか屍さん」

「〈新宿〉はひとつだな」

 氷室が言った言葉と、屍の答えに三人娘が硬直する。〈新宿〉は往々にして区外の人間からは、日常とかけ離れた危険と悪徳、そして快楽と興奮を味わえると期待される。実際には区外の人間が想像する危険性の万倍以上の奇々怪々にして人間の悪徳の全てが存在しているというのに。
 三人の反応はそれらの甘い〈新宿〉への認識よりも切実な畏怖と恐怖と嫌悪が滲む。こちらの方が本来あるべき反応なのだろう、この世に生じた魔界に対しては。普通なら。そして彼女らは思ったより普通ではなかった。

「うお~~すげー、本物の魔界刑事だ。サインちょうだい、サイン」

「ふむ。〈新宿〉というと良く魔界だの、異世界だの言われるがコスプレの様な格好をしているだけで人間そう違うものではないな」

「カネちゃんマキちゃん、屍さんに悪いよ~」

 と、ナプキンを差し出してサインを求める蒔寺と、冷静に感想を述べる氷室を、ほんわかした声で制止している。彼女には悪いが効果は期待できそうに無いな、と屍が思ったのは内緒の話だ。
 屍の咽喉の奥で猛獣の唸り声みたいな音がしたが、三人は気付かなかったようだ。屍は吹き出すのを堪えたのだ。IDカードを仕舞って、席を立つ。

「さて、と。盛り上がっているところ悪いがオレも仕事があってな。失礼させてもらおう。物騒なのは確かだからな、遅くなるんじゃないぞ」

 苦笑めいたものを唇の端に這わせて、レシートを手に屍が喫茶店の入り口に歩き出した。

「え~~もう言っちゃうのかよ~」

「ご忠告感謝する。屍刑事」

「えっと、本当に昨日はありがとうございました。お仕事頑張ってください」

「ああ、君たちも学生の仕事をちゃんとやるんだぞ」

 それだけ言うと屍はもう振り返らずに店を出て行った。ただその背中から伝わる闘志が、燃え立つようにより激しくなっているのは確かだった。三人娘は、まさしく屍が守るべき人間達だった。

③につづく
核弾頭の使用は私の若気の至りというほかありませんね。もう4、5年前に書いたものになるでしょうかね。時間が経つのは早いものです。


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