バンコクに住んでから、クラシックのコンサートに行く機会が増えました。ポップ&ロックのほうが好きなんだけど、いいライブが少ないんだもの……。タイ・アーティストのCDを聴いて、「このバンドはいいかも!」と期待してコンサートに行ってみても、ステージはぼろぼろ、なんてことが多々。海外アーティストの来タイ・コンサートも年に数回あるけど、ひどい時は明らかに手を抜いたステージを見せられたりして。  | 告知ポスター |
そこで、タイで観ることのできる良質なコンサートを探すと、必然的にクラシックになるというわけです。欧米の実力派オーケストラはいくつも来るし、世界的に有名なソリストだって来る。掛け値なしの上質な音楽に触れられるのです。 昔はクラシックなんて敷居が高いと思っていたのですが、FMラジオでロンドンの「クラシックFM」とのジョイント番組を制作する機会をいただいてから、考えを改めました。以前は、交響曲などは30分以上あるものを延々と聴かなければいけないと思っていたんですが、クラシックFMから送られてきた音素材はショッキング! サビ(最高に盛り上がる部分)の5分だけでぶった切り、ジングル(曲と曲の雰囲気がガラリと違うときに間に挟む15秒くらいの音)をあてて次の曲にさっさと行ってしまったり、オペラのアリアで、歌手が歌っている合間に、歌詞の内容と会話するようなナレーションをかぶせてきたり。  | 土田定克さん |
あまりにも衝撃的な演出にぶっ飛んだけど、考えてみれば、演出手法は私たちが普段、ポップ&ロックでやっていたことと同じなんです。素材がクラシックというだけで畏まっているのもおかしなこと。今でこそクラシック、古典と呼ばれているけど、元々は各時代のヒット曲なんですよね。無数の作曲家が数え切れないほどの作品を生み出した中で、大衆に受け入れられて生き残ってきた作品ばかりなワケですから、魅力的なのは当然です。 ということで、クラシックのコンサートにも足を運び始めました。東京では毎週、何かしらの公演があるのに、バンコクでは2か月に1回くらいでしょうか。生がムリだとしても、NHK芸術劇場みたいなTV番組もないし。なんとまぁ、文化的に不毛な場所に来てしまったものかと嘆いたものでした。  | モスクワ音楽院大学院に留学中に、恩師と(左が土田さん) |
◆信念の駐妻さん 嘆くばかりの私に対して、行動派のすごい人がいらっしゃいました! ピアニストの田畑直美(たばた
なおみ)さんです。ご主人の転勤で、3年前からバンコクに住み始め、私と同様の不満を持たれたそうです。「もっと気軽にクラシックを聴けたら良いのに……。子どもたちにも幼い頃から良い音楽に触れてもらいたいし」との思いが募った彼女は、土田定克(つちだ さだかつ)さんにバンコク公演を依頼しました。 土田さんは何と、あのラフマニノフ国際ピアノコンクールで優勝したお方! 数あるピアノコンクールの中でも、特に難しいと言われている最高峰です。自らも演奏家として活躍したラフマニノフは人並みはずれた大きな手を持っていたと言われるので、そんな人が作曲した作品を演奏するのは、小柄な日本人には不利。身体面ももちろん、情熱と哀愁を宿した美しい旋律を表現する精神性、ピアノという楽器の可能性を最大限に引き出すことのできる驚異的な演奏技術を必要とするコンクールなのです。 「ラフマニノフ・コンクールは、日本人にはまずムリだと言われていたんですよね。でも、土田さんが第3回のコンクールで優勝して、騒然となりました」とおっしゃる田畑さん。そんな世界的な演奏者に来タイ公演を頼めちゃうあなたって、一体、何者? 聞けば、子どもの頃に通っていたヤマハ音楽教室の仲間だったとか。と言っても、単なる習い事のレベルではなく、音楽家の養成を目的とした、作曲などの課題もガンガン出るような「専門コース」の選抜生だったそうです。私もヤマハで9年もピアノを習っていたのに、そんなコースがあることすら知らなかったよ。  | ゲストで登場するヴァイオリニスト、グレース・ユンさん |
それはさておき、田畑さんのもう1つの関心事がボランティアであることから、コンサートはチャリティ公演にすることが決まりました。収益金で地方の学校に文房具を寄付する予定だそうです。世界的な音楽家にもかかわらず、「タイの人たちのお役に立てるなら」と、ギャラがほとんどない状態でOKした土田さんも素晴らしい。 しかし、理念がどんなに崇高であっても、イベントを開催するには資金がいります。会場費、けっこう高いしね。ということで、田畑さんはスポンサー探しに奔走。「まったく経験がなかったので、『企画書や計画書がないと信用されないんだよ』ということまで、スポンサードをお願いしに行った相手の方に教えていただきました」とのことで、必死で英語の企画書を書き上げ、メイン・スポンサーを獲得。ここまでの道のりを、一人で成し遂げたのです。その後、田畑さんの活動を聞きつけた協力者が一人、また一人と増えていきました。彼女の音楽にかける情熱とコンサートを成功させようという信念が、人の心を動かしたんでしょうね。 ◆至近距離で世界的な演奏が見られる! その後、「日タイ修好120周年記念行事」のひとつとして大使館にも認定された昨年の第1回公演。フォーウィングス・ホテルのロビーで開催され、大好評を博しました。私は残念ながら行けなかったのですが、鑑賞した友人によると、「さすがはラフマニノフ・コンクールの優勝者! 私はクラシックに詳しくないけど、なんか引きつけられた。距離も近くて、指づかいまではっきり見えて感激したよ!」とのこと。ピアニストはすばらしかったけれど音響がイマイチだったので、田畑さんは「今年はホールでやりたい!」と、トンローのプリディ・パノムヨン劇場をブッキングしました。ここのキャパシティは約280席とのこと。今回も、演奏者との距離がすごく近いものになります。日本では、土田さんのコンサートは3000人クラスの大ホールで行われるので、なんと贅沢な! 「当初は、タイ文化センターでやりたかったんですよ。でも、予算的に不可能で、交通の便も音響もいいところを探し回ったんです」とのこと。もしタイ文化センターを会場にしていたら、ガラヤニ王姉殿下のご逝去にともなって閉鎖中だから、危ないところでしたね。  | 手探りでコンサートを実現させた田畑直美さん |
ところで、会場の問題がクリアになったところで、新たな問題が。会場が当初の予定より小さいところになったので、2回公演にする必要が出てきたのです。通常、ソロ・コンサートは90分くらいなのですが、特に、超絶技巧を必要とするラフマニノフの曲ともなると、1日2回の公演をこなすのはムリ……。 そこで、少しでも土田さんの負担を減らそうと、ゲストにヴァイオリニストのグレース・ユンさんを迎えることに。グレースさんもバンコクで自分のオーケストラを持って活躍している演奏家です。演奏時間は15分程度で、演目はエルガーの「愛の挨拶」とバルトークの「ルーマニア舞曲」。田畑さんによると「ルーマニア舞曲はあまり耳にする機会がないかと思いますけど、ユニークな表現がいっぱいあって面白いですよ。2曲目にはヒューッと幽霊が登場するときのような音が入っていたりして」だそうです。期待大ですね。 田畑さんもピアノ伴奏で登場します。もともと、ソロのピアニストとして練習を積んできたけれど、近年は「メインの方をいかにしてサポートできるか、伴奏のほうが面白くなってきたんですよね」。お子さんが生まれた頃からそう考えるようになったそうで、母性が新しいキャリアを引き出したのかもしれません。ソリストの頃はレッスンでも「もっと個性を出して!」と指導されてきたそうですが、伴奏者は逆に個性を抑えて、メインの演奏者の魅力を引き出す演奏が求められます。ピアニストという肩書きは同じでも、全く方向性が違うんですね。 ゲストの演奏が入ることで、いろんな種類の音が楽しめるし、子どもたちも飽きずに観られるという利点も。自らも3児の母である田畑さんは、お子様にも是非、観て欲しいとおっしゃいます。「親御さんの膝の上に座られるのでしたら、チケットはいりませんから、ぜひ! 一流の演奏に触れてください」とのこと。 それにしても、田畑さん。にこやかで穏やかで、でも目的を達成する強さも持っている素敵な女性です。ソリストとして成功することだけが素晴らしいのではなく、こんな風に音楽に関わっていく幸せってあるんだなぁ、となんだかホンワカした気分になりました。 そう、田畑さんに伝えると、「土田さんの方がホンワカした人ですよ。素朴で、ホッとするような感じで。昨年のリサイタルでは、『ロマンティックなラフマニノフを得意とする人だから、きっとキザな感じの人だと思っていたけど、村人みたいな人が出てきてピアノの前に座ったからびっくりした』というお客様がいらっしゃいました」とのことです。ルックスと演奏のギャップも魅力の一つ!?
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