みえネット 2003.12
ふれあいインタビュー
震災を機に三重に移転、事業を復興
受託製造から独自製品の提案まで
松浦 信男さん
万協製薬株式会社 代表取締役社長
プロフィール●松浦 信男(まつうら・のぶお)
1962(昭和37)年2月26日、神戸市兵庫区に生まれる。兵庫県立兵庫高校を卒業、万協製薬に入社。'88(昭和59)年、徳島文理大薬学部衛生学科卒業、同社に復職。取締役社長室長などを歴任。'95(平成7)年、阪神大震災を機に東洋漢方製薬株式会社に移籍、社長に就任。'96(平成8)年4月、万協製薬の三重県移転に伴い東洋漢方製薬を退職。同年5月、万協製薬社長に就任。
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1995(平成7)年1月17日の阪神大震災で社屋が倒壊。一時期、他社の傘下で事業を継続したものの、三重県に拠点を移して再起を図り、7年で移転当初に比べて売上高で約14倍に業績を引き上げ、最近は独自商品の開発も遂げた松浦さんに話を聞きました。
―事業の内容を教えてください。
スキンケアを中心にした軟膏やクリームなどの外用剤の製造を手がけています。構成は一般用医薬品が85%、医療用医薬品が15%となっています。化粧品などの製造もしています。製品は受託で大手医薬品メーカーの処方に従って製造しています。最近は、独自に開発した薬品を大手医薬品会社に提案、先方のブランドで販売を開始しました。現在の取引先は31社、全国にある薬品メーカーやドラッグストアになっています。自社の販売チャネルを持っていませんので、取引先との競合はありません。ですから、取引先も安心して発注してくれます。医薬品製造のアウトソーシングを実現しています。
―三重県に拠点を持つことになったのは阪神大震災が きっかけだとか。
はい。父親が1961(昭和36)年に神戸市長田区に製剤工場として設立。外用剤ひと筋に取り組んできました。そこでは独自の製法を確立、大手企業に全量を納入していました。しかし、阪神大震災で社屋は地上を約2メートル移動して1階部分が潰れ、生産設備も修理が必要になり、大阪にある同業者の傘下に設備、社員とも移籍して事業を継続しました。しかし、1年半後に自力で事業を行うために三重県に拠点を移して現在にいたっています。
―三重県に移転したきっかけは。
事業再開に当たって、近畿各県の企業誘致の窓口に相談に回りました。なかには、震災で事業を断念したことに対して、特殊な事情を理解して頂けない行政の方もいらっしゃいました。そのなかで、三重県は製薬関連企業を集積して地域振興を展開しようというメディカルバレー構想を持っており、その一環として製剤業者の誘致に積極的に取り組んでいました。当時の薬事振興の担当者に会って相談したところ、丁寧な対応をしてもらいました。その頃は、被災者のひとりとして、周囲に頭を下げてばかりいて、気分的にも非常に落ち込んでいたのですが、産業振興のために「ぜひとも来て欲しい」と言われたことが、心に沁みて、三重県への移転を決めました。
―移転後の事業展開はどうだったのですか。
当初は大変に厳しい状況でした。移転に伴って以前の社員のほとんどは移籍先に残り、売り上げ見込みは非常に小さなものでした。資金面も厳しく、時には営業に出かけるための電車の特急券さえ買えないこともありました。しかし、神戸での操業時代から思い描いていた生産設備が稼動し始め、かつての社員も「給料は無くても働かせて欲しい」と訪ねて来る中で、取引先は徐々に増え、仕事量も安定するに従って業績が上向きになってきました。
―震災という大きな転機を乗り越えて事業に取り組んでいる意欲はどこから出てくるのですか。
ひとつは父親が築き、自分も取り組んできた医薬に関わる仕事を自分でやりたいということ。震災直後に味わった喪失感や衝撃は心の中に明確に残っています。その時の風景や失われた街並みを忘れることが出来ません。もうひとつは、震災に遭ったことで、いったんは挫折した事業であっても再び盛り返すことができるということを現実にしたいということ。これは、あの震災で亡くなった多くの人がいたことを語り続けるために必要な条件だと考えているからです。
―今後についてはどのように考えていますか。
医薬品業界では、仕向け先の処方に従って製品を製造する業者は多くありません。こうした業種が業界で受け入れられるように、さらにシステムや技術の蓄積に取り組んでいきます。さらに、技術の蓄積に伴って、研究面にも力を入れて、オリジナル製品の開発に取り組んでいきます。
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●事業内容= | 医薬品、医薬部外品、化粧品の開発製造、他社承認処方による受託製造
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●年間売上高=約5億1,000万円 |
●資本金=4,000万円
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●住所=多気郡多気町五桂1169−142
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●TEL=0598−37−2088
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●FAX=0598−37−2089
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