昨日、珍しく(私の生活の規則正しさをご存知の方なら、これがレアなことだとご理解いただけることでしょう)IRCチャットで夜更かししてまいりました。
主催は宇佐原 椎/はりねずみさん、Twitter上のHNはLucas0315さん。自己紹介欄によりますと、自民党員(議員ではありません)でありJ-NSC員。最近は自民党古賀俊明都議会員事務所に入り浸っております。カトリック教徒。とのこと。
切身魚以外の参加者は、にくやさいいため(Twitter上のHNはniku831)さん。自己紹介欄によりますと、らのべすきー。ニコ厨。のはずがなぜか規制関係ばかり。なぜだ。とのこと。
大熊 元治(Twitter上のHNはbuzz2300)さん。自己紹介欄なし。今回のIRCまで存じ上げない御方でしたが、フェアな議論を活発にしようとしていらっしゃるようでした。
あきおさ(Twitter上のHNはakiosa)さん。自己紹介欄によりますと、コンピュータソフトウエアエンジニア(非サラリーマン) 政治・経済・法律も勉強中 とのこと。
tenten1さん。Twitter上のHNは探し当て切れませんでしたが、ログ公開に賛成していただけたことは本当に心強いことです。
このIRC会議は、宇佐原さんのblog記事(http://tdls.atgj.net/ 都議会説得 青少年育成条例改正案について、ヽ(゚∀゚)メ(゚∀゚)メ(゚∀゚)ノ<Congress!)及び、条例改正案(上手いリンクが見当たりませんので、個別検索をお願いいたします)を前提情報に開催されました。お読みになる際は、せめてこの二つをお読みいただき、できれば『ポンコツ家族の取扱いマニュアル』(http://ponkotsukazoku.blog45.fc2.com/blog-entry-311.html 母親の皆さんに 児童ポルノ法&東京都青少年健全育成条例改正問題について)もご一読願います。
そして、立場は違っても協力できることや話し合いはできるはずだ、という参加者の想いを汲み取ってくださいますように。
結論を出すためではなく、『我々の意見は一致していない。だが、敵になる必要はないのだから、同じテーブルで話をしよう』という態度は、どの様な政治的意見の持ち主でも持っていただきたいと考えております。
私の立ち位置を明確にするため、本日のタイトルをつけました。また、上記のように各参加者の立ち位置を記したのは、それらを踏まえて【こういう場所もあるよ】という風にIRCログをお読みいただきたいためです。
私の立ち位置、それは次の問いに端を発します。(長文ですので、早くログをお読みになりたい方は最下段までスクロール推奨)
私の立ち位置、それは次の問いに端を発します。
「実在ペドフィリアやレイピアンからの性的虐待を受けるというのは、すごーく嫌な経験の一つです。でも性的情報メディアを規制すれば、その被害は防げたでしょうか?」
「素直で、漫画など読みもしない女の子」を、「年齢が上の人間は敬うべきで、老人には親切にすべき」という常識や、「君のことが好き、一目ぼれ」と美しい言葉を用いて、性的に虐待する85歳老人はいなくなりますか?
親の離婚騒動で、『性的興奮を誘うポーズの女性の裸体を多数収録した雑誌』が読み放題の小学6年生男児が、下級生の女の子を自宅に連れ込んで『雑誌』を見せ、相手に同じことをさせようとすること。その後、同様あるいはもっと巧妙化した行為を繰り返そうと試み、40歳以上になった現在地区の父母全員に性癖が知れ渡り、小学校にあがるまえの子どもを持つ地域の母親達全員が口伝で自主防衛を余儀なくされること。
性的情報メディアを規制すれば、そういったことがなくなりますか?
私はそうは思いませんし、どう理屈をこねても思えないのです。
この事例だけでも、家庭教育の問題、性教育と自己決定の問題、『見たくないものを見ない自由』の問題、『子育て』の問題。さまざまな問題が内包されていますね。それに『上からの健全化』には、『上からの民主化』以上の危険が伴います。民主化には、『非・民主主義者』でいる自由も担保されますが、健全かそうでないかの判断を行政に代行されたら、それ以外の価値を論ずる自由がなくなるからです。
情報メディア以外の部分、例えば性犯罪者に対する教育プログラムや所在追尾といった法整備をしてもなお、性犯罪を根絶することは不可能だろうことは、人類史からみて既に明らかです。でも今の現状は、実在する人類(私がこのように表記するとき、それは何も幼児、児童、生徒に限った話ではなく、老若男女全てを指します)に対する性的虐待があきれるほど少ないのです。
「マスメディアには沢山の子どもや他の対象への虐待がニュースになっているのに?」
そうです。マスメディアが、『虐待はあってはならないことだ』とニュースにするようになったからです。
私が実在幼女だった時代、親も教師も取り合ってくれませんでした。今もそのことを問うと、「覚えていない」の一点張りです。誰しも自分が『その当時の常識範囲内では、限界のある人間だった』とは認めたくないのでしょう。
昔に比べたときの『いま』が、ことさらに悪化したわけではございません。
むしろ、『闇に葬られてきた虐待』が、『日のあたる場所に引っ張り出された』ことを私は喜びます。
「私の知らないこと、無かったこと、無関係なこと」にしようとする人の数が減り、
「虐待者は特別異質な人間でもなんでもなく、自分と同じような人間であり、私とても何か事情が重なれば同じ間違いをするかもしれない」
と自己点検を行い、規範意識を醸成してくれることを、心から願います。
すごーく嫌な経験は、人間に大変な苦しみをもたらします。私が何に苦しんだかといえば、主に3つあります。憎しみと自己否定と殺意です。
幼い人間なら、嫌なことをされても覚えてないだろう、とお考えになる向きには、「違います」とお答えしておきます。
「小さい子どもには、どうせ分からないだろう」とか思って性的虐待をする人(老若男女不問ですよ!)は、大変な勘違いをしています。
「そのとき」は分からなくても、「分かるような年齢になった」とき、大変な苦しみがやってくるのです。
「誰に」嫌なことをされたかは覚えてない。
覚えてないから、憎しみと殺意は「老若男女」のうち、不特定全ての「老若男」に向かいます。 時には『取り上げようとせず、無かったことにしよう』としたり、『細部を答えられないということは構ってちゃんの作り話ではないか』という人々にも向かいそうになります。
殺意を実体ある人類に向かわせずに済んだのは、私が暴力的・犯罪的・アナーキズムな内容の創作物やメディア情報から、『ばれない方法でSATSUGAIするのは不可能』『独裁者スイッチは私がもっとも忌避すべきもの』と理解したためです。
それと、『表現の自由』を謳歌して、暴力的・性的内容の18禁表現物を別HNで描きまくれたお陰です(当然、18歳以下と、異なる趣味の持ち主のアクセスをお断りする現状最善のサーバー運用つき)。
PTSD(心的外傷後ストレス症候群)は強烈で、性格の根幹を捻じ曲げるほどです。
たとえば、私は基本的に善を希求する生き物ですが、死刑は廃止してはならないと考えております。
矯正困難な性犯罪者を公費で養ったり、再犯のリスクを社会に(特に性犯罪の対象にされそうな全ての人に)負わせてまで生かしておくことは、よい税金の使い道ではない。自然災害ごときで追尾不能になる追尾システムも然り。
そういったコストとリスクより、死刑という方法で『世の中の実在する人間へ、もう絶対に悪いことが出来ない状態にする』ことは、『善ではないが、現状でもっとも有効な社会正義の達成手段』だと考えます。
一方で税金の使い道として、性的情報メディアへ規制を行うことは、『善ではないし、現状では有効性の疑われる、社会的ムダの達成手段』に思えるのです。
こうした背景ゆえに、公開Mixi日記のコメントで親友とやりとりしたとき、私は荒野で誘惑されたイエスの気分に近い気持ちでした。
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Applejam 2010年03月21日 00:40
ペドフィィリアや猟奇嬲りとかそういうジャンルまで擁護は出来ません。
にゃーくんはそういうのも規制ナシで良いとおもいますか?
Nya-kun@切身魚 2010年03月21日 08:52
リアル人間への性的虐待や性的搾取は困る。
というか、そういう連中を現実世界に侵食させないように、
二次元があるなら容認する。
ただしそこには、『規制』という単語ひとくくりではなく、3つくらいの条件があります。
1.趣味嗜好を同じくしない人の前に、突然出て来て驚かせないようにしましょう
2.偶然情報を引っ掛けることの無いようにしましょう
3.リアル人間を虐待したり搾取したりする同志が出ないよう、しっかり相互監視しましょう
4.その上で、世の中全体にとっての良いことを沢山しましょう 。
あなたの趣味を叩く人は、あなたの趣味そのものではなく、『あなたが』『あなたの振る舞い』が嫌いなのです。では、あなたを嫌う人のほうが頭おかしい、と思われるような人になりましょう。
おおっと4つだった!まさかのときのスペイン宗教裁判官!
自分の居る場所を尊重して欲しいなら、誰かを怪物視して追い立ててはいけない。
どんなに気持ち悪くても、彼らには彼らの自然がある。
例を挙げれば、SNAF系のフィルムといえど、実は本当にはSATSUGAIしてない(中にはガチ犯罪もあるから、危険視されるのは致し方なし)。
そうした世の中のありようを理解しようともせず、「不快だから」と私憤を義憤にすりかえて法律と、天下り法人を作ろうとするのはよろしくないと思うのですよ。
Applejam 2010年03月21日 12:58
そこまでの覚悟があるなら反対もやむなしだな。
ネットの多くの反対論は、余りにも感情的で扇動的だ。
賛成派にしても恣意的感情的で、余りにも幼稚過ぎて辟易してたんだよ。
Nya-kun@切身魚 2010年03月21日 19:43
有難う、Applejamさん。
いくら良い判断や、未来の文化的自由ためであっても、
『やり方』が拙いと逆効果になってしまうよねぇー!
まさに「余りにも幼稚過ぎて辟易」ってなっちゃう。
幸い、私の周りの人々は
「よくよく考えた上で、嫌いなジャンルのことも勘案してみるけど、
やっぱりこういう『私怨』が入りやすい法律はイカンよな」
って感じで反対なさってる様子。
(コピーここまで)
性的情報メディアを規制すれば、実在幼女だったわたしの被害は防げましたでしょうか?私は「No」と考えております。
性的・暴力的情報発信を規制すれば、わたしの殺意や強烈な憎悪は鎮火したでしょうか?私は「No」と考えております。
「Yes」
と即答する方は、下記事例にいかがな見解をお持ちでしょうか。
児童に性的虐待を行った欧米の聖職者の例はいかがでしょうか?アフリカの聖職者にも同じ問題がある、と指摘されているのですよ?(http://www1.voanews.com/english/news/europe/Catholics-Express-Solidarity-for-Pope-Benedict-XVI-Despite-Sex-Scandals-93890014.html や http://www1.voanews.com/english/news/europe/Vatican-Posts-Online-Guide-Against-Sexual-Abuse-by-Clergy-90697914.html など)
ボーイスカウトの少年に性的虐待を行い、司祭に告戒した後も虐待を続けた米国のボーイスカウト・サブリーダーはいかがでしょうか?協会はこうした小児性愛者をリストで把握しておきながら放置していたことで、訴えられています。賠償金額は大変なものになるとか。(http://www1.voanews.com/english/news/usa/Boy-Scouts-of-America-Found-Negligent-in-Sex-Abuse-Case-90776519.html )『聖書』や『ボーイスカウトの誓い』は有害な情報でしょうか。 ちがうでしょう?
彼らを性的虐待に走らせたのは、彼ら自身の衝動と精神の力学であって『有害情報』ではないし、『有害情報』を規制すれば、被害にあう子どもが救われて手厚くケアされることにはならない。無関係な場所で無意味な法案を提言されても、児童保護や教育の現場で魂の悲鳴を上げる子ども、職員、親や周りの大人達には何もとどきません。
むしろ、非実在青少年の規制先進国としてのアイルランドは、映画『マグダレンの祈り』にあるとおり。そして、
(引用ここから)
The Commission to Inquire into Child Abuse (CICA)。
http://en.wikipedia.org/wiki/Commission_to_Inquire_into_C...
1936年以降のアイルランドにおける児童虐待の問題を調査する委員会。
これが、今年ローマ教皇にも児童虐待を認めさせた団体でもある。
このように、実在の子供達の性的虐待を救おうとする試みは大事だ。
しかし、それを非実在の表現にまで及ぼそうとするのはなぜか。
エセル・クエール博士も本当は、こういう児童虐待から子供達を救いたい、という気持ちから研究をしているのだと思う。
しかし、どこかでボタンを掛け違えている気がする。
それが悲しくて仕方がない。
(引用ここまで)
と、趣味SNSの友人が書いたとおりのことが起きています。友人は、カトリックが好きで、アイルランドが大好きで、だからこそ独立の過程で、彼らが自らの持つケルト文化やローマ文化、キリスト教との融和を否定してきたことに心を痛めています。
「自分達の文化、表現の自由を弾圧されてきたことを知っていてなお、何故自分達も弾圧を行うのか」と嘆いています。
子どもに何を見せたくないか、年齢に応じて何を見せようか、禁じようか。
そういう判断は、子どもの発達段階と同時に、お家によって千差万別です。父さんがOKと言うことでも、母さんは眉をひそめ、祖父母はヒステリーを起こす、という風に、世代間での価値観・教育観ギャップもあります。
そしていずれの立場も、『子どもの性と向き合い、子どもを尊重しながら性的内容も含めた家庭教育』というものに向き合わずに済ませたい、楽して育てたい、という願望を持っています(それゆえに、母親へ押し付けられる過剰負担が問題視されるのです)。
仮に規制改正が行われ、行政が『これは好ましくないと分別』したところで、
「『ウチの子がどういう情報にアクセスしているか』をチェックする手間」
は変わらないし、
「『これはリストに載っているのか、いないのか』をチェックする手間」
という手間が増えるだけでしょう。子どものことを想う親御さんやご家族が熱烈に支持するだろう、と楽観できないのは、ここに一つの理由があります。
人間誰しも、新たな手間が増えるのは嫌、なのです。
教育系大学出身で今は主婦、という人は結構居るのですが(中には二世代オタクで腐女子でという方もいます)、彼女らは『理想とする教育のありかた』がしっかり心の中にある。あるからこそ、現実の子育てでそれはままならないものだ、と知り、知るほどにストレスを溜めるのです。
また、現在の保育士や教師、市町村担当者の過労業務を知るにつけ、お金を使うべきところは『条例の改正』で提案するようなことではない、と感じております。教員採用の腐敗問題がクローズアップされた大分県在住だからこそ、腐敗を生んだ原因と現状には無関心ではいられません。
一方、『面倒くさく、時によっては戸惑うことだらけ』でも、『新たな手間』が必要な場面もあります。
それは、子どもの発達段階に応じたきめ細やかで行き届いた性教育であり、恋愛やコミュニケーションを通じて加害者にも、被害者にもならないための教育という『場面』です。
人々が目をそむけ、『規制を論じる』のに耽っているのは、『発達段階に応じたきめ細やかで行き届いた性教育に自分で向き合いたくない』からではないか、と懐疑的になることもございます。
表現の自由を云々するなら楽です。自分の性癖や他人の性癖について価値判断(教育観)を交えつつ話す必要がないのですから。
児童ポルノ撲滅を云々するのも楽です。自分の子育てのことを考えずに、他所の問題、他者の問題行動として非難していれば、何かしら自分は善いことをしたのだという気分に浸れるからです。
ですが、子どもといえど、自己決定の権利があります。それは、成人したら投票する政党を選択し、投票先を親きょうだい相手といえど秘密にする権利のことだけではありません。
たとえば、職業選択の権利があります。
親や家族として、子どもには『いい仕事』について欲しいと思うことでしょう。
でも、それは『稼ぎがいい』という意味ではなく、「子どもが自己実現できるかどうか、職業を通して世の中に良いことをなすかどうか」で判断することです。親が就かせたい職業を、どのような形であれ『強いれ』ば、それは子どもの身上書に勝手にマジックで『この職業です』とカキコすることに繋がってしまうのではないでしょうか。
私の住む県には、漫画・アニメコースもある四年制大学があります。彼らが将来全員、『健全な』漫画家やアニメクリエイターになるかどうかは、誰も口を挟むべきではありません。
「その職業がどれだけ安い給料でこきつかわれ、労働権の侵害を受けているか」を周知することは出来ても、エロ漫画家になろうが、エロゲームの開発者になろうが、その職業選択の道を、誰かが価値判断して閉ざすことはあってはならないことです。
また、性は七色、と申します。LGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーの頭文字。私は彼らの性的自己決定権を心から尊重します。)だけでなく、『実在人類に対する性的関心が極めて希薄な』無色透明の人間もいるのです。
「子どもが減ったら国が滅ぶ」というのは我が祖母の口癖ですが、「遺伝的子孫の人数が増えればいいって話でもないでしょ」なのです。むしろ、「子どもの絶対数は減っても、子どもを産まない女性や、そもそも産めない男性全員が子育てに参加して、『自律的な子ども』を育てるために、母親に偏った負担を軽減してあげる」ことをしなければいけません。
そして、自立した子どもが『自分は同性愛者だ』と自覚したとき、治療や矯正や弾圧を行う大人ではなく、『同性愛者でも、善い人間であれば、社会の成員として生きる資質は十分だ』と認めてあげられる大人が必要なのです。
ネイティブアメリカンの文化には、トランスジェンダーを上手に受け入れ、結婚も認める文化的な手順がありました。インドのアウトカーストにも、(アウトカーストという、差別的取り扱いの是非はさておき)『ヒジュラ』という、同性愛者やトランスジェンダーが社会に容認される居場所があります。
自立した子どもが(実在人類に迷惑をかけない範囲での)どのような性癖を自覚しようとも、
「君の性癖が私と違うことは認めよう。私は違う性癖だけど、君の性癖を強要しないでくれるなら、君が自律的市民として生きる自由を私は尊重する」
ということが出来ますか?
私はそれをします。
ゾーニングの問題がある。それは認めます。『見たくないものを見ないで済む自由』は『表現の自由』と等価に保証されるべきです。情報技術の進化は、情報統制やDPI技術の導入ではなく、個人のエンパワーメントと相互尊重に用いられるべきです。
同時に、現実の人間(青少年、ではありません。私がそれを問題にするときに男女の別、年齢国籍は不問なのです)に対する性的虐待や、搾取は許されるべきではありません。 『闇の子供たち』という映画/小説は、よい教訓を与えてくれます。
でも、美名と善意がベースだからといって、戦前の特高が行った言論弾圧と変わりない、あるいはそれが可能になるような法律を作られては困ります。 もっと検証してください、反対されるにはそれなりのわけがあります、と申し上げたくなるのです。
彼ら──私と違う趣味、嗜好の持ち主が居る。彼らに彼ら自身の好みがあり、巣があるならその内部で、どうぞお楽しみください。私は干渉しません。
同様に、私は私の好みや趣味というものがあり、それはわざわざお知らせして回ったりしないのですから、異なる価値観の人々に干渉されたくありません。
お互いに敬意を持ち、互いに尊重しあって距離を保てるようにすること。それが『世界と調和する知恵』であり、『世界全体を調和させる知恵』です。
「あなたの個人的ストレスの問題を、世の中の違う趣味嗜好の人に投影して怒るのはやめてください。
あなたの子供が『そう』であることを、世の中の創作物のせいにしないでください。
あなたのやっていることは、恣意的で自分勝手な価値判断の押し付けです」
ここで言う『そう』、の中身はさまざまです。
同性愛者であること。
トランスジェンダーであること。
バイセクシャルであること。
逆に、現実世界の人体に嫌悪感を抱く傾向が強いこと。結婚なんて断固拒否であること。
オタクであること。趣味が合わないこと。
ギャンブルもパチンコもやらず、酒もタバコもやらず、話がまったくかみ合わないこと。
でもこうした事柄は、どの様な家庭にもある悩みです。 これまでの歴史で、子どもが『親の知らない情報や価値観を持つようになった』といって、悩まなかった親御さんは居ません。
どんな子供にも幅広い個性があり、それは親といえど完全には理解できないことだってあるのです。
そのことにイライラしたり、思い通りにしようと無理じいしたりするのは人生の浪費であり、世の中に不幸な人間が増えるだけなのです。子離れができてない親ほど、自立した人間の足引っ張りはございません。
それなのに、
「子供の個性が自分には容認しがたい。同性婚なんて認めるものか。子供は病気なんだ。
子供の価値観が自分には理解しがたい。現実の人間に性的魅力を感じないなんて、頭がおかしいに違いない。
子供らが『そう』なったのは、絶対に、断じて、 私 の せ い じ ゃ な い 。
たとえ私が母親として色々失敗して、尊敬できない大人の振る舞いをしていたとしても、子供らが『そう』なったのは、絶対に、断じて、 私 の せ い じ ゃ な い 。
みんな『私の嫌いなモノ』が悪影響を与えたせいだ!
『私の嫌いなモノ』は、教育的ではない、不道徳だということにしよう。
規制して排斥してしまおう!」
と騒ぐことは、いい大人のやることでもなければ、やっていいということでも、ないんじゃないでしょうか。
ただ、そこまで追い詰められる状態になることに、私は心からの悲しみと同情を覚えます。子育てには、もっと実効性のある支援が必要だ、とも思います。『性教育に悩むお父さんお母さんに、答えを代理で出したり誘導したりはしないが、悩みを聞いてあげる場、相談したり、色々な事例を紹介してもらえる場』が必要だな、とも。
「自分が気持ち悪い、嫌いだと思う表現物は、『子どもに悪影響を及ぼす』とか『女性に対する暴力を助長する』といった大義名分をつけて、世の中からなくしてしまおう」
という、一見すると善い意図に思える言葉で、自己中心的な要求を行政に代理させようとする傾向は問題視すべきです。子どもと女性以外、つまり『全人類』という次元での善を、意図的に回避しているようにも思えます。
「子どもを支える大人の意識改革」ではなく、「子どもと『ともに生きる』大人の意識改革」を課題として頂きたいものです。
最後に申しますが、荒野で誘惑されたイエスの気持ちがしたからといって、私は自分をオタク代表とも、腐女子代表とも、百合スキー代表とも、LGBT代表ともみなしてません。
そんな思い上がりは『絶対したくないこと』ですし、そのように扱われたら居心地悪すぎです。おそらく大半の同人者もそう感じることでしょう。
人脈なんて皆無です。漫画評論家の藤本由香里さんがMixiに居るのは存じていても、コミュには参加しておりません。百合痛車大好きのあまり、東北ヲ祭りの実行委員までやる友人はいても、彼は『愛すべきオタ友』であって『人脈』とみなすことはしたくありません。
「独立した一個人」として、政治に口を出すけれど、大連合は作らない。『生産=消費者』としての情報発信をするサークルや個人にとって、今回のような規制案は自分達に向けられる危険性が大きすぎる。だから反対の大合唱をするのです。
そこに集合はないので、利害団体、権益構造はありません。別の案件では利害対立することもありえる人々です。政治的権力を志向する人にとっては、さぞややり辛い相手であることでしょう。
『団体』『層』とみなして、利で釣ったり煽ったりはできない/コストに見合わないのです。2ちゃんねるですら、支持政党の話をしたがるのはお客さん、という暗黙の了解があります。
チョット話はそれて矛盾した表現になりますが、実は無党派『層』の歓心を買うことは、できない/コストに見合わないわけではなく、とても簡単なことです。
「既存の社会システムの枠組みでは把握できない、ロングテールの経済を支える個人消費者、消費=生産者」を認識していただくこと。『第三の波』でトフラーが自身が定義した『消費=生産者』は、トフラーの意図からは外れるかもしれませんが、同人界の理解に役立ちます。
「本当に善や社会正義を達成するために、行政ができる部分、やってもよい部分をよく検証し、提案すべきでないことは提案しない」こと。
「それでも提案すべきだと思うことは慎重に、どのような思想信条の持ち主にとっても『より高次の善』の達成のためになら、同意できる内容にする」こと。
つまり、誠実に、相手を侮辱せずに、国家が国民に約束した『憲法』を改正しようとせずに、今この世の中の状態がどうであるかを弁えて(どうあってほしいか、ではございません)、本当に実効性のある社会正義の達成手段を提案すればよいのです。
党利や党略、政治家同士のしがらみ、遺恨や個人的価値判断がちょっとでも感知できたら、とたんに無党派層は反発します。「今回の件で手紙は送る、感謝もする。だからって『政党』を支持するとは言わないし、聞かないでくれるかな?かな?」
という反発を誘発しないことです。ね、彼らの歓心を買うことはとても簡単でしょう?
今回の条例改正案が、カーチャンたちからも、当の子どもたちからも反発される理由を、意固地にならずにお考え戴きたいのです。
「お前らの子育て失敗だな!」
と侮辱されて、気分のいい親御さんは居るでしょうか?
「お前らの子育ては失敗だ!お前の親も子育てに失敗したってことさ!」
と侮辱されて、自分の親が、子どもの成長にあわせて悩んだり、試行錯誤してきた思い出を「うん、失敗だね☆」と認める人は居るでしょうか?
「お前は読んではならないものを読んでいる!市民、それは反逆です」
と思想警察に断罪されて、『図書館戦争』を取り上げられたら、反発を覚えない子は居ません。
「マルクスを読むだと?アカだな!」
といわれても、私の愛読書は4バージョン(日本語の古い訳語版、新訳語版、異なる翻訳者の英語2バージョン)ある『マルクス』・アウレーリウス・アントニーヌス陛下の『自省録』です。それ違うんですけどー、と苦笑いを禁じえません。『資本論』を読むなら英文で読みます。『純粋理性批判』や『メディア論――人間の拡張の諸相』などは日本語訳のほうが難解ですからね。
自分がオタクのなかでもけっこう異端な部類だろうこと、重々理解したうえでIRCチャットに臨みました。
個々人のレベルにまで分解したとき、共通の趣味嗜好を持つ『オタク』『腐女子』ですら集合を現す記号たりえないのです。
「現実世界の人体に嫌悪感を抱く傾向が強いこと。オタクであること。単なるジャンルというよりも深い部分で、世の中の大半の人とは趣味を楽しむ深さ、時間、方向性が違うこと。ギャンブルもパチンコもやらず、酒もタバコもやらず、サッカーも野球もオリンピックすら見ないこと。たまにNHK教育の『ハーバード白熱教室』やドキュメンタリーを見ては、情報ソースになった英語のサイトを見て回るのが趣味なこと。」
が日常となっている個人だからです。哲学、歴史、文化史、倫理学と美学は知的好奇心のために好んでおりますが、政治に口出しするために、ロックの社会契約を日常的に意識せざるを得ない現状を憂います。
そして、理想家肌で美文名目に騙されやすい自分を自覚しております。
だからこそ、「私が別HNでできることは、他の誰にでもできる」と常に自戒してネットの海を泳いでます。今回のIRCログ公開の後、名無しHNで叩くこともできるし、擁護することもできる。実際にはしないでしょうけど、宇佐原 椎/はりねずみさんが私の発言を都合よく抽出し、規制推進派議員に「生の声でーす」と提出することも出来る。逆もまた然り、Vise versa。(長期的利益において嘘はコストに見合わない『損失』なので、私達は規制に関してどちらの立場であっても、そんなことをしないのです)
あるいは捨てアドでIRCに突撃し、荒らしの限りを尽くすこともできる。私に可能なことは、他の人にも可能なことです。『可能であってもそれをしない、思ってもみない』人が参加してくださったことを、匿名のネット社会における倫理意識の高さの表れとして、私は心から喜んでおります。
次のIRCももう既に予定されているご様子。
互いに敬意をもち、前提情報をキチンと共有した上で参加する。規制を推し進める人とも情報を交換し、認識の相違点を話し合うことは可能であり、それこそ民主主義の根幹を健全に遂行することです。
「何を言ったところで、都合よく規制推進の言い草にされるだけ」
という否定的な匿名のご意見を良く拝見するのですが、本当に『そう』なるかどうかは、やってみないとわからないことでしょう。
サバイバーとしてカミングアウトすることはとても苦痛です。
その苦痛に見合うだけの成果が長文blogや議員さんあてのメール送付、IRC参加にあると信じるのは、私の自由です。誰かがその信を悪用しても、それは他人の悪であって、私が『ちょー風変わりで理屈っぽいヤツだけど、根はすごくイイやつ』である自由は侵害されえません。
やれる範囲での最善の一手を指します。
人生の楽しみは尽きませんのぅ!はっはっはっはっ。
あ、忘れるところでしたが、ログは下記からどうぞ。
【権利情報】
内容無改変・記名つき・非営利での転載、ファイル形式の変更、公開、転送、ダウンロードは無条件許可します。営利目的利用及びメディア紹介の際はTwitterのDMで、Kirimisakanaの事前許可をできるだけ得てくださいますよう、お願いいたします。知財管理技能検定の勉強に、悪い意味で役立つ事例を提供しないでくださいますように!
切身魚/Kirimisakana
Firestrage(保存期間7日)
テキストファイル
http://firestorage.jp/download/f5c35e53ea992f7321c8a1d79061ac0da1965588
都条例改正案IRC会議ログ.pdf
http://firestorage.jp/download/665a40ab559bd32fbc93273a88da634f6a83f213
自サイト
http://nekomimi.staba.jp/public_html/NIC/kisei_con_20100620_2.txt
http://nekomimi.staba.jp/public_html/NIC/都条例改正案IRC会議ログ.pdf