http://anond.hatelabo.jp/20100620125253
もう判子の角度とか写真の張り間違いとか読めない字とかそういうことにストレス感じてるなら、全部マークシートか、PC出願にしてくれ。
そこそこ英語のできる日本人、TOEIC900+ぐらいでちょっとした留学経験のある人には、往々にしてこの認識が欠けている。
まさに、このあたりにいる日本人なんですが耳が痛いですね・・・。
でもさ、海外でビジネスしている、(もしくはしようとしている)日本の一流企業に勤めている人ですら英語が使えないことに対する問題意識の低さはびっくりするよ。そういう人たちは入り口にすら立ってないんだから。
それは実践している企業は現地海外法人の幹部を現地採用していたりしますね。
最近は自分語りしてからクソどうでもいい結論を書くのが流行ってるのか?まるでマスメディアが「偉い教授のところへ分かりきった結論を聞きに行く」手法のお手本みたいだなおいw
「言葉の力」は人間が関わるあらゆる局面で重要な役割を果たす。例えばスティーブ・ジョブズの経営者としてのカリスマを支えているのは、まぎれもなく彼の言葉の力だ。しかし仮にジョブズと同レベルの才能を持つ日本人経営者がいたとして、英語を用いてその才能をジョブズ並に発揮するのはまず不可能だ。
どうかな。カルロスゴーンはブラジル生まれでフランスで教育を受けているが日産で経営手腕を発揮している。
フランス語やポルトガル語を使わず英語を使って従業員とコミュニケーションしているはずだ。
学校ではモテたし、彼女もいたし、キモオタを馬鹿にして笑いも取ってたし、
勉強も出来たし、クラスのカワイイ女を4人抱いた。そのうち1人は今モデルやってる。
でも俺は学校を辞めた。あんなに毎日が楽しかったのに。
そりゃ尊敬されて当たり前なんだけどね、俺。
別にそいつのことは嫌いじゃなかった。むしろ好きだった。
結果が出なくてもあきらめずにがむしゃらに努力するし、笑顔が無邪気だった。
あいつは一度もサボらずにバスケ部にいき、練習をした。でもレギュラーになれなかった。
当たり前だ。練習の仕方が悪い。要領が悪い。頭が悪い。
俺もバスケ部だったが、当然レギュラーだ。サボりが多かったのに。
だからあいつは俺を尊敬した。そんながむしゃら姿は、俺から見てもすがすがしかった。
お前は才能がない、クズだ、バカだ、将来絶対成功しない、
練習の仕方が悪い、効率を考えろ、アホの言いなりになるやつがアホだ、
頭を使え、俺を見習え、顔がキモい、動きが気色悪い、声が癪に障る、死ね。
あいつは泣きそうなのに、無理やり笑って「ありがとう」と言った。
だから俺は最後に一発殴って去った。そしてそのまま学校を辞めた。
次の日、そいつからメールが来た。なぜ辞めたのかと。俺はシカトした。
あいつはその1年後、バスケ部のレギュラーになった。俺の罵倒の内容をしっかり考えて
練習のやり方を変えたらしい。そこからめきめき上達したらしい。そんなメールが来た。
7年が経つが、実家住まいなら食費くらいは負担できるようになった。
そして、今から3日前、あいつと偶然会った。
あいつは驚いていた。そしていろいろと聞いてきた。なぜ辞めたのか。今何してるのか。
俺はそれに嘘で答えた。そしてあいつは、聞いてもいないのに、その後の学校の様子を言ってきた。
みんな泣いていた。バスケ部が弱くなった。クラスの盛り上げ役がいなくなり、静かになった。
目を輝かせて言ってきた。
俺はあいつをボコボコにした。途中で警官が来て、俺は取り押さえられた。
あいつは俺をかばったが、傷害罪は親告罪ではないため、俺は逮捕された。
無抵抗の相手を殴り続けたということで、実刑となった。
あいつに嘆願書でも貰えば執行猶予になったのだろうが、そのことをあいつには告げなかった。
そして約1年後の釈放の日、門の前であいつが待っていた。俺は無視して通り過ぎようとした。
そのとき、あいつが俺を思いっきり殴った。そして走り去っていった。
俺は痛みを感じつつ、あいつの後姿に叫んだ。
「ありがとう!」
こんな人と付き合いたくないなぁ。人としてどうかと思う。
http://anond.hatelabo.jp/20100620143255
ネイティブに混じって、向こうで(ふつうにビジネスを)やって行くということは、基本的には、
「二級市民」としてやっていく、
ということだと思います。
でなければ、特殊技能で勝負するか、
異なる文化圏(禅やサムライ)からやってきた「変わった人」(芸人)として生きていくのが、
ありうる戦略だと思います。
テスト的なもの
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* anond:20060923210701
* はてなの名でやるような事でもない
* ああああ
俺は英語学習オタクだ。これまでの人生の中で大量の時間を英語学習に費やしてきた。中学校から始めて、日本にいてできる英語学習法は殆ど試したと思う。高校時代には学習参考書や問題集を二百冊以上終わらせた。ネイティブの個人家庭教師がついていて、さらにマンツーマンの英会話スクールにも通った。大学は迷わず英語学科を選んだ。大学在学中にTOEFLのスコアは640を超えた(厳密には覚えていないが、目標が640でそれを超えたのは間違いない)。
大学を卒業後、アメリカの大学院の博士課程に留学した。ここでも俺の英語は「通用した」。授業に問題なくついて行き、ディスカッションにも十分に参加できる。タームペーパーや授業でのプレゼンの評価はAかA+。学会での口頭発表もすんなりとこなすことができた。
しかし、留学中のいくつかの出来事が、俺の「自分の英語力」に関する認識を変える。
ひとつめ。在学中に指導教官(英語ネイティブ)と共著で論文を書くことになった。俺が最初のドラフトを書き、指導教官がそれをチェックするという形で、共著と言っても実質俺の論文みたいなものだ。しかし、ドラフトを書き上げ、指導教官に送って、それが戻って来たのを見て愕然とした。ほぼ全文、誇張じゃなくほぼ全文に渡って英語表現が訂正されているのだ。論文の主張や論の構成はそのまま、しかし英語の表現は徹底的に変えられているのである。そして、元々俺が書いたドラフトと、指導教官による修正版を並べて見れば、その差は歴然としていた。俺のドラフトの英語表現は拙く、いかにもネイティブじゃない人間が書いたのがはっきりと分かるようなものだった。
ふたつめ。TA(ティーチングアシスタント)としての仕事の一貫として、学部生相手の授業を何コマか受け持つようになった。授業自体は問題なく進んでいた。しかし、学期末の学生による授業評価がかなりきつかった。学生は皆「あいつの英語はおかしい」「アクセントが強くて聴いているのが疲れる」「表現が稚拙で繰り返しが多すぎる」といった不満を述べてきた。「頑張ってるのは分かるけど、英語があれでは尊敬できない」とも書かれた。
ある学問領域における学生の仕事としては、言っていることの内容が通じればそれでよい。評価はその内容の質に基づいて下される。しかし、実は世の中には、「同じ内容をどのように伝えるか」が遥かに重要になる文脈の方が多いのだ。そして、「通じる英語」と、「上手に伝える英語」の間には、ものすごく深くて広い河がある。そこそこ英語のできる日本人、TOEIC900+ぐらいでちょっとした留学経験のある人には、往々にしてこの認識が欠けている。
その後俺はPh.D.を取得し、日本に帰ってきて大学に就職し、今でも仕事の中で日常的に英語を用いている。しかし、自分の英語力は、ネイティブの言語能力には遠く遠く及ばないものだという認識がある。「通じる英語」は問題なく使いこなせる。自分の学問分野においては、俺は英語で実績を上げていて、俺の名前は国際的に認知されている。しかし自分には、英語を用いて「言葉の力」を利用するのは難しい。例えば人を説得したり、納得させたり、なだめすかしたり、楽しませたり。そしてそれは、俺の努力が足りないせいでも、ましてや日本の英語教育が悪いせいでもない。第二言語として英語を学ぶ日本人の限界なのだ。(というか、ネイティブですら、話下手や説明下手は山のようにいるのだから、第二言語学習者については何をかいわんやである)
「言葉の力」は人間が関わるあらゆる局面で重要な役割を果たす。例えばスティーブ・ジョブズの経営者としてのカリスマを支えているのは、まぎれもなく彼の言葉の力だ。しかし仮にジョブズと同レベルの才能を持つ日本人経営者がいたとして、英語を用いてその才能をジョブズ並に発揮するのはまず不可能だ。ジョブズが英語でやってるのと同レベルの仕事を日本語ではできないのと同じように。
「通じる英語」を身に付けたばかりの日本人は、しばしば全能感に浸って事の本質を見誤る。得意げに日本の英語教育にモノ申してみたり、「英語ができない日本人」を問題視する発言をしてみたりする。しかし、英語の世界において、言葉を武器に戦うためには、「通じる英語」では全然足りないのである。その意味では、TOEIC600と900の違いは誤差でしかない。結局勝負を分けるのは「どれだけ優秀なネイティブの参謀を捕まえられるか」なのだ。
...いや、何だろうね、どうも最近の「日本人は英語ができるようにならんとグローバル化を生き残れない!」って風潮にイラっとくるものがあったので書いてみた。俺に言わせれば、「日本人は英語ができないことを前提にして、それを補うシステムを設計しないと生き残れない」ということになるね。英語以外の言語についてはごく自然にそういうスタンスを取るのに、何故か英語についてだけは個人の努力に責任を負わせようとする傾向があるんだよね。俺はそれは間違いだし、無い物ねだりだし、中途半端に英語ができる人間の勘違いを助長して結果として不利益を生むだけだと思っている。