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株式会社アイエヌエイチ
株式会社ウェーブマスター
2009.08.05
 
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●夢は東京でライブ! 千葉はほとんど東京か?
   
安部: このころのニュース・ソースはやっぱりラジオだったんですか?
   
松前: このころはフールズメイトですね(※現在も続くロック雑誌、当初はプログレ専門誌)。
   
大野: フールズメイトの取材の立ち会いとかやったなあ……。音楽誌がいろいろ出てくるころ……80年にさしかかるぐらいだよね?
   
松前: 高校生の時代が、79年から82年なので、そうですね、日本でもニューウェーブなものが出てきて。高校時代はとにかく大量の音楽を吸収しました。
   
大野: それで、受験は……。
   
松前: 音大に行こうか考えたんですけど、音楽の先生に相談したら、「君の実力じゃ全然行けない」って言われて(笑)。確かにそうだし、学ぶことも自分のやりたいこととは違うだろうな、と思って。当時は東京に行ってライブハウスで徐々に客増やして、プロのミュージシャンになるというイメージがあるわけですよね。当時はそれしか手段がないと思っていたので、東京に行こうと。それで千葉大学の工学部画像工学科という所に入学しました。東京に行くつもりが行き過ぎちゃって千葉に(笑)。地図上だと、千葉から東京って近いし、快速に乗れば30分で東京に行けるそうで、それならほとんど東京だ、って思ったんですよ。ところが、その快速電車は少ないし、30分っていっても東京駅なんですよ(笑)。音楽やるのに何の意味もないでしょ?(笑)。新宿、渋谷などはもっと遠い。結局一時間以上かかる。大阪に住んでいる時にはそれに気がつかなかった。だまされた~って気分でしたよ。(笑)
   
安部: 大学の学部、遠藤雅伸さんと一緒ですね。
   
大野: 知らなかった(笑)
   
安部: あとは『Rez』の杉山圭一さんとか、『バーチャストライカー』の宮本英明さん、ササキトモコさんも同じ学校ですね。すごいですね、千葉大サウンドクリエイト研究会(※サークル名)。
   
松前: そうそう。後輩もすごくたくさんいるんです。スキージャンプペアのアナウンサーの茂木淳一(千葉レーダ)や、スカイフィッシャー、デッドコピーなどのバンドも千葉大サウンドクリエイト研究会の後輩なんですよ。
   
安部: このときのお住まいはやっぱり千葉?
   
松前: ええ、千葉に居ました。津田沼という所ですね。大学より少し東京寄りですが。
   
安部: 結構遠いですよね、東京まで。
   
松前: そうそう、それがさっきの話ですよ。千葉大って総合大学だから、学校の中で快適に生活できちゃうんですよね。サークルの部室に入り浸って、安い定食食べて。大阪のかなり田舎から出てきたので、東京でなくても十分に刺激的。楽しくてしょうがなくて、東京に全然出られない。
   
大野: 津田沼って、東京に出られないイメージなの!?(※東京までは電車で小一時間です)
   
松前: 当時の僕の感覚としてはすごく遠かったです。学生にとっては電車賃もバカにならないし。
   
安部: 実は僕も千葉大って受験したことがあって、ここなら東京で遊べるなって思ったんですけど、全然東京じゃないの(笑)
   
大野: 中央線でいうと八王子みたいな感じかな?
   
安部: デパートがない八王子(笑)
   
大野: ららぽーととかあるじゃない。
   
松前: ららぽーとはクルマがないとなかなか行けないですよ(笑)
   
大野: そっか……。そのサークルというのは?
   
松前: サウンドクリエイト研究会というんですけど、僕が入った年にできました。たまに僕が作ったと書かれている事があるんですが、実際は僕じゃなくて、僕が1年生のときに、4年生の人が作ったサークルです。プログレとか、テクノポップ、ニューウェーブとか、その他、普通の音楽サークルで浮いてしまうような人が集まって。あとは電気工作、エンジニア、シンセとか、全部……総合的に、いままでの音楽サークルにないような活動をやるサークルとして82年に設立されました。ここで、ノイズをやろうと。
   
安部: すっかりノイズの人になっちゃったんですね。
   
松前: はい……現代アートとかパフォーマンスとかにも興味を持っていた時代だったので。現代音楽的なものも好きで。
   
大野: ノイズというと、アート・オブ・ノイズぐらいしか知らないんだけど、あれはノイズじゃないの?
   
松前: あれはノイズ・ミュージックじゃないですね(笑)。そこで「耳から回虫」ってバンドを作って。お昼休みに学生が一番集まる食堂の広場に出て行って、ガガガーッって不快な音鳴らして帰って行くみたいなゲリラライブとか。今考えるとちょっとはずかしいけど。
   
  (一同笑)
   
安部: 大学生になって、機材には変化があるんですか?
   
松前: System-100Mを手に入れました。あとはサウンドクリエイト研究会にもいろんな人が機材を持ち寄ってて、それを使えたんです。実はMS-20と出会ったのもこの時期なんです。
   
安部: おー。最近の松前さんとは切っても切れないシンセですね。
   
大野: デジタル・シンセはまだ出てこない時代?
   
松前: いや、耳から回虫をはじめた次の年、1983年にDX-7が発売されました。これをアルバイトしてローンで買いましたよ。音作りとか全く新しい概念だったので勉強して。
   

 
●総武線のせいで大学休学、亀戸移住!? そしてきどりっこ結成
   
大野: で……大学はちゃんと4年で?
   
松前: いやいや。
   
大野: (笑)
   
松前: やっぱり千葉が楽しすぎて、東京になかなか出られないんですよ。たまにライブハウスに出るようにはなったんですけど、ちょっとだけ。でも、ノイズをやっていて、果たしてこれで僕はミュージシャンになれるんだろうか? と。当時はまだまだ歌謡曲の世界でしたからね。
   
大野: ベストテン(笑)
   
松前: そういう世界に行くことはないだろうとは思っていましたけど。でも、ノイズ系で自分が食えるとも思えない(笑)。あと千葉から出られない事にとにかく自分の中で問題意識を持ってて。いや、自分で行動すればいいだけなんですけど。でも弱い人間だから「総武線」の責任にしちゃうわけですよ(笑)。それで2年大学に行った後、2年休学する事にしたんです。
   
大野: 2年行って、2年休学? 落第したからじゃなくって。
   
松前: いや、ホントは落第したからなんですけどね(笑)。落第したついでに休んで、東京に出てちゃんとやろうと。亀戸というところに住んだんですけど。バンド活動の為にメンバー探しに明け暮れて。最初の一年はメンバー探しばかりやってました。
   
大野: 当時、音楽をやる人が集まる町ってあるじゃない。中野とか下北沢とか。そこで亀戸ってのは、選択肢としてどうなの(笑)
   
松前: 復学のことも考えていたんで……逆に復学したときに新宿、渋谷とか秋葉原なんか通ったら誘惑多すぎるでしょ(笑)。でも、この亀戸という場所が、のちに重要な人物との出会いを果たすきっかけになるんですけど。
   
大野: それが何年?
   
松前: 84年ですね。で、メンバー探しをずっとやっていて84年の末に、ある男女の2人に出会って。それで「きどりっこ」という三人組を作る事になったんです。
   
大野: メンバー募集って、雑誌とかの?
   
松前: サンレコですね(※Sound&Recording Magazine)。
   
安部: きどりっこって、サンレコが縁なんだ!(笑)
   
松前: そうなんです。キーボード二人とボーカルのユニット。
   
大野: 女性ボーカル……。
   
松前: はい。それで、たまりにたまっていた「行動しなくちゃ」欲が爆発して、とにかくいろんなものに応募しました。コンテストとかライブに出て、自主制作カセット作って。当時は留守番電話が出てきた時代だったので、再生機能を使って、テレフォンサービスまでやってました。バンドの情報が聞けるサービスなんですけど、録音テープの更新も毎日メンバーがやってました。そうやって、ライブハウスで徐々にファンを増やしていきました。1年ぐらいで軌道に乗って、インディーズで有名なライブハウスなんかに出られるようになってですね。エッグマンとか。高校時代に目標に置いていたライブハウスですね。その時にヒカシューの事務所の子と知り合ってスピノザ・ミュージックという所に所属させてもらいました(※ヒカシュー、パパイア・パラノイア、グレイトリッチーズなど在籍)。
   
大野: きどりっこのリリースはインディーズで?
   
松前: キャプテン・レコードっていう、宝島(※当時はサブカル雑誌だった)がやってたレーベルで1枚まず出して。その後、インディーズのバンドが集まる「子どもたちのCity」ってイベントがあって、インディーズ時代の筋肉少女帯とか、GO-BANG'S、ZIN-SAY!(電気グルーヴの前身)、ばちかぶりとか、ナゴム系を含むそういったバンドが10バンドぐらい出るもので。そこにきどりっこも入っていて、結構盛り上がったんですよね。僕は2枚目が出る前に脱退することになるんですが。
   
安部: キャプテン・レコード。雑誌社がレコード・レーベルを持ってるという特殊な例ですね。インディーズバンドを多く紹介していたから、それをカセット・ブックで売り始めたという。
   
松前: ひとまず、僕が目指していた「ライブハウスで徐々に有名になって」ということでのスタートは切れたんです。収入はこの頃はパチプロで生活していましたけど(笑)。
   

 
●(おそらく)日本初のGMバンド、G.M.O.バンド誕生
   
松前: それとは全然違う流れで、きどりっこ以前に僕がメンバー募集で「デイブ・スチュアート&バーバラ・ガスキンのような音楽やりたし!」っていうのを出していたんですが、それを見て、亀戸にわりと近い所に住んでいる岸野雄一(スペースポンチのリーダー、ワッツタワーズ、ヒゲの未亡人)が「面白いことをやってるヤツが亀戸に住んでる!」ってことで……手紙が来て。
   
安部: え、それはどこで?
   
松前: これもリットーミュージックのキーボード・マガジンのメンバー募集欄ですよ。
   
安部: 本のコーナーで文通! そういえば昔はそうでした!
   
松前: それで、はじめて見に行ったライブがNYLON100%(※渋谷にあった伝説のロック・カフェ)。そこで、岸野や、常盤響とかと出会って。岸野のやってたコンスタンス・タワーズ(※現スペースポンチ)に僕も参加するようになったんです。きどりっこと並行で。コンスタンス・タワーズはサエキけんぞうさんや、手塚眞さん、加藤賢崇などと交流があって。パール兄弟のデビューの前の時代に、クロコダイルで前座をやらせてもらったり。今でも仕事を一緒にやってる連中と、ここでたくさん知り合うことになるんですね。
   
安部: きどりっこもかけもちですよね。
   
松前: はい。あとは、きどりっこでライブをした時に、もすけさんっていうすごく面白いバンドと対バンをしたんです。ここでキーボードの山口優と知り合うんです。岸野もNYLON100%で山口とは知り合いだったので、実はみんなつながってたんですけどね。当時はライブハウスで打ち込みでライブをやるバンドがそんなに多くなくて、それで、打ち込みを使うバンド同士の結束が強くなっていった所もありますね。
   
大野: そんな人たちが、なんでゲーム・バンドをやることになっていったんだろう?
   
松前: ある日、山口がゲーム・ミュージックの演奏仕事を請け負うんです。……ゲームショーでしたっけ?
   
大野: ゲームショーじゃないんだよ。マル勝ファミコンの何周年かのイベント。晴海だったかな……。そこでステージがあるから、ゲームバンドやらない? って。
   
松前: それが大野さんとも知り合うきっかけにもなる、ゲーム関係への突然のきっかけだったんです。
   
安部: これは何年ごろのお話なんですか?
   
大野:
& 

松前:

85年?だったかな?
   
安部: ということはマル勝ファミコンが創刊した年ですね。
   
大野: 僕はもうG.M.O.レーベルを担当していたときだから……86年かな?
   
安部: G.M.O.の1枚目は何でしたっけ?
   
大野: 『ファミコン・ミュージック』。
   
安部: 86年5月25日発売ですね。
   
大野: 夏だったのは覚えてるんだけどな……。
   
松前: 86年ですね。
   
大野: そこで、山口くんともう一人、キーボードが居て。
   
松前: 後藤浩明くんですね。実は彼も別の関係で知り合いだったんですよ。僕自身はそのイベントについては全く知らないんですが。
   
大野: 篠崎さん(※アルファ・レコードに居た女性ディレクター。のちにEXPOも担当)にピックアップされた感じなのかな?
   
松前: 篠崎さんとはそのときはまだ全然面識がなかったですね。山口がその仕事をする事になったのは、誰かの紹介らしいのですが。そこで、ゲームの曲を演奏したらしいんですが、その流れの中で、山口が小尾さん(小尾一介。アルファ・レコードでY.M.O.のA&Rやプロデュースを担当し、『VIDEO GAME MUSIC』を制作、その後サイトロン&アートを設立)と出会うんです。
   
安部: このバンドは3人だったんですか? 山口さんと、後藤さんと。あと一人は?
   
大野: 小尾さんがどこかで見つけてきた女の子が一人(笑)。あと、ゲーマーで大堀君(※うる星あんず。現某ゲームメーカー社長)。
   
安部: え、大堀さんは何やるんですか? ゲームやるんですか!?
   
大野: そう、ただゲームやるだけ。
   
安部: アハハ(笑)! すごい!
   
大野: カセットさしかえながらね。
   
安部: カセット・ジョッキー、CJですね! 女子は何をするんですか?
   
大野: 女子はねえ……シンセドラム叩いたりしてたかな。何にもわからない娘を連れてきて。イベントやるって決まってから1週間ぐらいしかなくて、渋谷のマックスタジオってリハスタがあって、大堀くんもリハに来るんだけど、「僕何をしたらいいですか?」って。ハドソンの曲のアレンジ・バージョンとかやってたなあ。
   
安部: 何曲ぐらいやってたんですか? 何にも資料は残ってないんですかね。
   
大野: 4、5曲だとは思うけど。当日、たまたま僕が『グラディウス』を持って行ったんだけど、手元にキャンペーン用の「アルキメンデスバージョン」しかなくって、それがステージの大画面に映し出されてたのは覚えてる。あとね、このときタイトーの広報さんが来て「なんでウチのが無いんですか! ウチのも出して下さい!」って話になったりとか、いろいろきっかけになったイベントで、松前くんより前に山口くんに会ったことは覚えている。たぶん、日本最初のゲーム・ミュージック・バンドだよ。
   
安部: そうでしょうねえ。
   
大野: バンド名は無かったと思う。もしくは……G.M.O.バンド。その一回きりのバンドでしたけど。
   
安部: 安藤さん、「G.M.O.バンド」でググってください!
   
安藤: えーと、「タイトーの広報さんが……」って、これ、ga-coreのZUNTATAインタビューじゃないですか! 大野さんまったく同じこと喋ってますよ!
   
  (一同爆笑)
   
大野: 年寄りになると同じ話しちゃうんだよ(笑)
   
松前: それで、G.M.O.のプロデューサーの小尾さんが、山口にゲーム・ミュージックのバンドを作ろうって話を。山口と僕は友人だったんだけど一緒にバンドを組んだことはなくて、デモテープの交換とかしていて、僕のソロのテープが面白いって言ってくれてたんで、この時にバンド組もうって誘ってくれたんです。
   
安部: これまで松前さんって、ゲームは遊んでいたんですか?
   
松前: 人並みです(笑)。スペースインベーダーはちょっとだけハマった程度で。あとはファミコンが出てきた時も、ベースボールとかテニスをやって喜んでた程度ですよ。でも電子音の使い方とか、現代音楽的なものが好きだったりってことで、どこかゲーム的な雰囲気があったんでしょうね。テープのつぎはぎで音を変えたり、遊び心とか、偶然性とか、そういう事でふざけたことをやっていたので、ゲームっぽい音楽だとはよく言われるんですよ。そういう経緯で、まだ何の形もないのに「アルファ・レコードからデビューが決定しているバンド」に誘われたというすごい話。
   
大野: そういえばEXPOの話があったとき、¥ENレーベルっていうよりも、ゲームっぽい音だから、G.M.O.からリリースすることになったからね、って言われた。
   
松前: ¥ENから出したかったのにな!(笑)。¥ENより少し下の世代だったというのもありますが、やはりゲームと絡めたいという小尾さんの考えがあったんだと思うのですが。
   
  
  次回、EXPO誕生秘話に迫ります!




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★次回 松前公高インタビュー 2/4 は、2009.08.12公開です
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