カートを見るオンラインヘルプはじめての方へ
 
 
 
 
ゲームミュージック
スィープレコード
 └試聴コーナー
M'sアート(古川もとあき)
ZUNTATA RECORDS
アイエヌエイチ
WAVE MASTER
その他GM
アニメ
DVD
ブルーレイ
CD
特集アーカイブ
ご利用案内
お問い合わせ
会社概要
利用規約(古本市場オンライン)
会員規約(古本市場オンライン)
Powered by
= WARNING =
本サイトは 株式会社テイツーが運営しています。会員サービス、商品詳細、カート、ご購入に関するすべての手続きは、株式会社テイツーが運営する「古本市場オンライン」にて行います。サイトのご利用規約、プライバシーポリシーは全て「古本市場オンライン」に準じます。
協力サイト リンク
sweeprecord
古川もとあきSTATION
ZUNTATA OFFICIAL SITE "Z-Field"
株式会社アイエヌエイチ
株式会社ウェーブマスター

2009.11.11

 
ゲームやロボットにあこがれていた少年時代
ゲームミュージックにまつわる思い出話
浪人中にゲーム業界デビュー
NMKに飛び込み営業をかけて入社
「さんたるる」の名を一躍とどろかせた「雷龍2」のBGM
100メガショック作戦を遂行!「オペレーションラグナロク」

みなさんこんにちは。ゲーム業界歴16年の生きた化石こと、鴫原盛之です。前回のコメントで「攻略の仕事がしたい」とボヤいたら、なんと今月になって攻略本の仕事が舞い込んでただ今絶賛大忙し中。こんなときこそ、仕事中のお供としてゲームミュージックCDは欠かせません。お気に入りのゲームミュージックさえあれば、どんなにキツイ執筆作業でもヘノカッパですよ(多分)!


   <出席者紹介>
並木学 (さんたるる)
1992年にNMKに入社し、以来数多くのゲーム作品でサウンド制作を手がける。その後ライジングを経て独立し、現在はベイシスケイプを通じて精力的に活動中。主な作品には、「バトルガレッガ」「怒首領蜂 大往生」「虫姫さま」「デススマイルズ」シリーズなどがある。
   

 
●ゲームやロボットにあこがれていた少年時代
   
鴫原: まずは並木さんが音楽に興味を持ったきっかけから教えてください。
   
並木: 子どもの頃に、先日亡くなられた加藤和彦さんが歌っていた「帰ってきたヨッパライ」とかをカセットテープで繰り返し聞いていたのは今でもよく覚えてますね。歌詞も声も独特ですごく面白いなあって。それからテレビ番組でヒットした「およげ!たいやきくん」や、児童向けの雑誌に付録でついていたソノシートなんかもよく聞いていました。
   
大野: 並木さんの年齢だと、「帰ってきたヨッパライ」はリアルタイムで聞いていたわけじゃないよね?
   
並木: そうです。テープは親が若い頃に買ったものですね。
   
大野: 両親からピアノをやりなさいとか、何か習い事とかをすすめられたりはしなかったの?
   
並木: いえ、習い事とか楽器演奏の経験はまったくないですね。小学生になってからは、テレビのベストテン番組とかを人並み程度に見るようにはなりましたが、自分から進んで音楽の道を目指そうとは思っていませんでした。5年生のときに、学校の放送委員会の仕事として登下校中やお昼休みに校内放送で音楽を流す係をやっていまして、そこでYMOやザ・ドリフターズとかイモ欽トリオとかのレコードとかをかけてたら、みんなから喜んでもらえた記憶がありますね。今思うと、これがきっかけでYMOに興味を持つようになったのかもしれません。
   
鴫原: 当時の小中学校って、どこに行っても絶対1枚はYMOのレコードが置いてある時代でしたよね。
   
並木: ええ、運動会で「ライディーン」が流れたりしましたよね。あと自分の場合、小学生時代は音楽よりもむしろ「ドラえもん」とかマンガのキャラクターの絵を描いたりするほうが好きでした。実は、「毎日小学生新聞」のイラストコーナーに自分が投稿したイラストが載ったことがありまして、景品で万年筆をもらった思い出があります。確か、園山俊二原作の「がんばれゴンベ」の絵を描いたら採用してもらったような?
   
鴫原: 私も一時期その新聞にハマッてましたよ。いや~懐かしいですね!
   
並木: それから、子どもの頃は「鉄腕アトム」とかのマンガの影響でロボットにすごく興味を持っていたので、小学生のときに日本橋の高島屋でやっていた「大ロボット博」を見に行ったりしてました。そこで当時ナムコが作ったマッピーとかニャームコとか、マイクロマウスと言われていた迷路脱出ロボットを動かすイベントとかを見た思い出がありますね。このロボットたちがまた可愛いくて……。で、ここでこれらのロボットと「パックマン」とかのゲームを作ったのが同じ会社だと気がついたのが妙に嬉しくて、その場にいたコンパニオンのお姉さんとかに、「ナムコって、ひょっとして『パックマン』とかのゲームも作ってるの?」とか聞いてみたら、「ボク、なんでそんなこと知ってるの?」って言われた思い出がありますね。
   
  (一同爆笑)
   
鴫原: 私も当時、「小学○年生」とかの雑誌で「大ロボット博」の記事を読んだ思い出があります。当時の子どもにとって、やっぱりロボットはあこがれの的ですよね~。
   
並木: で、そうこうしているうちに自分の興味がマイコンブームの方に向くようになりまして、行動範囲内にあった駄菓子屋や本屋さんとかにゲームが置かれるようになると、やがて友人たちと遊んだり音を聞いたりするようになりました。
   
鴫原: で、ゲーム機から流れてくるサウンドにも徐々に興味を引かれるようになったと?
   
並木: はい。ゲーム機から流れてくる電子音が、当時あった他のどのメディアからも聞けない独特の音に聞こえましたから、ゲームってそういう異質な音が鳴る機械なんだな、と徐々に興味を持つようになりました。
   
大野: パソコンを自分で買って、BASICとかで音の鳴らし方とかも覚えたりしたのかな?
   
並木: いえ、当時はパソコンを買ってもらえない「ナイコン少年」でしたので、まだそこまではいかなかったですね。そうそう、昔は日曜日なると母親におにぎりとかを作ってもらって、近所のデパートに出かけて電化製品コーナーにあったパソコンをずっといじっていた思い出がありますね。で、お昼になったら屋上に行ってお弁当を食べて、終わったらまた戻って来て一日中ずっと遊んでたりしてました。
   
鴫原: 私もガキの時分には、遠くの町のゲーセンとかに遠征するときにはまったく同じ作戦を用いてましたね(笑)。
   
並木: 多分、お店からはスゴイ煙たがられてたと思いますけど、今考えると当時の大人って随分と優しかったなあと(笑)。別に買うわけでもないのに、ず~っといじり続けていても怒ったり追い出したりされたことがなかったですから、ホントにいい時代でしたね……。
   

 
●ゲームミュージックにまつわる思い出話
   
鴫原: 当時からゲームセンターとかにもよく遊びに行っていたのですか?
   
並木: はい。千葉県の松戸市に住んでいましたので、地元にあった「メクマン」(※)とかにも開店当時から通っていました。ただ、当時のゲームセンターって小学生の子どもが行くと店内は真っ暗だし、タバコの煙がものすごくこもっていたりして、何だか恐ろしい雰囲気がありましたよね……。なんとなく、「お子様は出て行け!」みたいな雰囲気があったりして。
※「メクマン」:「ディフェンダー」や「カルテット」などといったレトロゲームが今でも現役で動いている、一部のマニアでは有名なお店。
   
鴫原: 少年時代に、特に影響を受けたゲームのタイトルは何でしょう?
   
並木: 駄菓子屋に置いてあった「ギャラクシアン」や「クレイジークライマー」、それから「クラッシュローラ」「ジャンプバグ」「カンガルー」なども印象深いですね。特にお気に入りだったのは、「パックマン」になるでしょうか。これらのゲームは基本的にBGM自体が存在しなくて、やられたときの効果音とか短いジングルみたいなものしかなかったですけど、それだけでも当時の自分には衝撃的でした。あっ!「カンガルー」はちゃんとBGMありましたね。
   
鴫原: 子どもの頃って、ほかの人が遊んでいるを見ていたり音が鳴るのを聞いているだけでも楽しかったですよね。
   
並木: ええ。お金を持っていないときでも、ゲームがある場所に行って音だけを聞いたり画面だけを眺めたりしてましたしね。それこそどんなゲームでも、片っ端から遊んでは音を聞きまくるのが日課みたいになってましたし、学校でも授業中にずっと頭の中にゲームのことがあるような状態でした(笑)。
   
鴫原: ゲームのBGMを、純粋に音楽として意識するようになったのはどの作品からですか?
   
並木: 曲として初めて意識したのは、やはり「ニューラリーX」になりますね。多分このゲームのBGMが、自分にとってゲームで遊びながらメロディを口ずさんで楽しめるようなった最初の作品だったと思います。
   
鴫原: で、そのうちにいろんなBGMの耳コピーができるようになったりしたわけですね?
   
並木: いいえ、当時はまだそこまではいかなかったですね。遊びながら聴いて、口ずさんで、それだけで満足でした。
   
大野: 「ニューラリーX」の曲を作った大野木(宣幸)さんによると、あの曲は自分の頭の中ではブラスバンドの演奏で鳴っているイメージがまず先にあって、それを機械でも鳴るようにしたらあんな曲になった、みたいなことを言ってたね。
   
並木: なるほど、そうだったんですね! そうそう、確か「ニューラリーX」の曲といえば、「大橋照子のラジオWAアメリカン」(※)で、リスナーのハガキを読むコーナーのジングルとして使われてましたよね? 実はこの番組を聞くようになったきっかけは、ゲームの音楽をラジオで聞けるからだったんですよ。まだ小学生の頃でしたから、深夜の放送開始までずっと起きたまま待てなかったので、目覚まし時計を放送時間に鳴るようにセットしてからいったん寝て、時間になったら起きてラジオを聞いてからまた寝る、みたいなことをしてました。
ちなみに、投稿したハガキを読んでもらえたこともあったり、新橋ヤクルトホールでの公開録音イベントに参加したこともあるんですよ。
※通称「ラジアメ」。当時ナムコがスポンサーをしていた。
   
鴫原: 初めて買ったゲームミュージックは何ですか?
   
並木: 中学生のときに買った、ナムコゲームの曲を収録した「ビデオゲーム・ミュージック」です。確かお店で予約して、発売日にLP盤で買ったように記憶しています。手に入れたときは本当に嬉しかったですね。
ビデオゲーム・ミュージック
細野晴臣がプロデュースした、史上初のゲームミュージックレコードとしてあまりにも有名。「ニューラリーX」の曲も収録されている。
   
大野: 予約するときに、レコード屋さんに商品名をちゃんと言っても「何それ?」みたいなことを言われたりしなかった?
   
並木: ええ、まさにそう言われました。「発売予定にありません」とかって言われて、そんなことはないだろうって必死に食い下がりました(笑)。多分ほかの同業者のみなさんもそうだと思いますけど、このレコードがあったからこそ今の仕事につながっているのかなあって今になって思いますね。
   
大野: このレコードが出るっていう情報はどうやって知ったの?
   
並木: 「アミューズメントライフ」という雑誌で読んだんだと思います。この雑誌は当時としては数少ない、アーケードゲームの貴重な情報源だったんですよね。あ、もしかしたらナムコの直営店に置いてあった「NG」で最初に見たのかも? 初期の頃の「NG」には、ゲーム以外にもロボットの情報なんかが載っていたのでよく読んでたんですよね。
   
鴫原: 高校とか大学とかの学園祭でライブをやった経験とかはありますか?
   
並木: ええ。高校時代、ちょうど20年前の今頃の季節に、渡辺人君という同級生を中心に友人数名と、文化祭でゲームミュージックのコピーバンドをやってました。彼はシンセサイザーやサンプラーを持っていて、それにゲーム音楽にも詳しかったのですっかり意気投合しました。それと、当時はサイトロンのゲームミュージックCDをたくさん買い集めていたんですよ。アルファレコード時代のものも含めて、アルバイトで稼いだお金をほとんど全部つぎ込んでましたね。多分、「1500シリーズ」はほとんど全部集めていたと思いますよ。
   
大野: とってもエライ!(笑) ちなみに、ライブではどんな曲を演奏してたの?
   
並木: 「ニンジャウォーリァーズ」のメインテーマや、「アウトラン」「アフターバーナー」「ミッドナイトランディング」などの曲ですね。もっとも、演奏は満足にできないのでキーボードを片手で2,3本の指だけで弾く程度でしたけど(笑)。
   
大野: 「ゲームミュージックフェスティバル」を見に行ったことはあるのかな?
   
並木: はい、1990年のときに見に行きました。それとこぼれ話になるのですが、「ゲームミュージックフェスティバル」のライブアルバムを渡辺君が買ったときに、それについての手紙をサイトロンに送ったことが実はあるんですよ。自分たちは当時かなり血気盛んでしたから、「内容についてまったく納得いかない!」みたいな相当ひどい文章を書いて送ってしまいました。そうしたら後日、大野さんからすごい長文の手紙が送られてきて、読んでみたら「お前はまだ何もわかっていない! 制作時の苦労はどうのこうの……」みたいな内容でしたね。
   
大野: 本当に?なんて大人気ない奴なんだ。
   
  (一同爆笑)
   

 
●浪人中にゲーム業界デビュー
   
鴫原: 将来、ゲーム開発の仕事がしたいと意識するようになったのはいつ頃ですか。
   
並木: 駄菓子屋に通っていた子どもの頃からもう意識してました。ただ、サウンド制作の仕事をしたいとまでは考えてませんでしたね。そもそも、サウンドを作るという仕事自体が存在するかどうかもわからない状態でしたから。「大ロボット博」でナムコのロボットを見たりもしてましたので、こういう会社に入れば子どもに優しいオジサンたちがきっとたくさんいるんだろうなあって、子ども心に何となくいいイメージを持ってました。当時は「科学万博つくば’85」も開催されたりして、子どもに輝かしい未来が示されていた時代だったように思いますが、マイコンブームやゲームについてもまたしかりで、グラフィックもサウンドもどんどん進化していましたから、自分も将来はそういう流れに乗って未来的な仕事に関わるんだ、という漠然とした使命感みたいなものは持ってましたね。
   
鴫原: 高校は工業系の学校に進学されたのですか?
   
並木: いえ、何をしたらそういう仕事に就けるかまでは考えてなかったので、高校は普通科の進学校に進みました。結局、親からの理解が得られなかったんですよね。「何かやりたいことがあるんだったら、まずは勉強して大学に進んでからしなさい」ってことですよね。もっともなんですけど。(笑)
   
大野: じゃあ、学生時代はずっとマジメな生徒だったんだね?
   
並木: いや、それがゲームに夢中になっているうちに、中学生あたりからだんだんテストの順位が下がってしまいまして……。当時は塾にも通っていたのですが、同じ塾の友達といっしょにゲーセンに行って、「ファンタジーゾーン」とか「バラデューク」とかでよく遊んでました(笑)。
   
鴫原: 並木さんのホームページを拝見しますと、最初にゲーム業界で仕事をしたのがアルュメでのアルバイトとありますが、これはどんなきっかけで始めたのでしょうか?
   
並木: そこでアルバイトしていた友人からの紹介です。あるとき、「一気に多くの人が辞めちゃって、手が足りないから一度遊びに来てみないか?」と言われたのが最初のきっかけですね。当時はまだ浪人中だったのですが、親には大学を目指しているフリをしつつ(笑)、ゲーム会社とどう接点を持ったらいいのか全然わからない頃でしたから、もうすぐに行きますって返事しました。で、行ってみたら社長さんが出迎えてくださって、「グラフィックデザインをやる人間がいないから」ということで採用されました。
   
鴫原: プログラミングの知識とかはすでに持っていたのですか?
   
並木: ええ、高校1年生のときにアルバイトして稼いだお金で買ったMSX2でBASICやマシン語とかも少しずついじるようにはなっていました。絵心そのものは全然なかったですけど、マイコンを買ってコンピュータの仕組みはとりあえず知っていたから雇っていただけたんでしょうね。サウンドに関しては、最初はMMLでPSGの音を鳴らしていましたが、それだとすごく平坦な音しか出せないので、マシン語で制御するといろいろ変わった音が出せることを徐々に覚えていきました。確か当時、「MSXマガジン」に載っていた「究極のPSG演奏プログラム」みたいな名前のダンプリストを見ながら、自分で作ったサンプル曲を使って音を鳴らす機能の分析もやってましたね。当時好きだったハードロックやヘヴィメタルの曲に出てくるリフみたいなのを打ち込んで、ちゃんと再現できてるかどうかを確かめる、なんてこともやってましたよ。それでも、当時はまだプログラミングや作曲と呼べるような本格的なレベルからは、程遠い状態でしたけどね。
   
鴫原: ナルホドです。きっと「さんたるる節」の原点は、このときの経験が元になっているんでしょうね。
   
並木: ええ、確かにそういうところはあるかもしれませんね。
   
鴫原: では、アルュメで開発を担当されたゲームは何だったのでしょうか。
   
並木: 「レゾン」というシューティングゲームです。アイテムキャリアとか爆発パターンとかの絵を、エディターを起動してからマウスを使って描くという、いわゆる「ドット打ち」の仕事ですね。当時のアルュメには美大出身のデザイナーさんがいらっしゃいましたので、その方からいろいろ描き方を教わりながら、与えられたノルマをこなしていくみたいな要領で働いてました。
   
鴫原: サウンド制作には関わらなかったのですか?
   
並木: ええ、サウンドは外注でしたので全然やっていないですね。
   
鴫原: 実際に、ご自身が開発に参加した作品が初めて世に出たときのご感想はいかがでしたか。きっとものすごく感動したのではないかとお察ししますが?
   
並木: いえ、むしろやり残したこととか、実力不足で実現できなかったものとかがいろいろあったので、発売されて嬉しいというよりは、もうすぐにでも反省会をやろうかみたいな気持ちでした(笑)。
   
大野: その後、大学には進学したの?
   
並木: はい。でもまあこんな状態でしたので、希望していたところではない、いわゆる滑り止めみたいなところしか合格しませんでした。それでも、親からは大学に行くべきだと言われましたので入学しました。本当はすぐにでもゲーム開発の仕事をやりたかったのですが、まだ理解が得られてなかったんですよね。
   
大野: 最終的に卒業はしたのかな?
   
並木: いえ、してません。結局、大学にはほとんど行きませんでした。自分の居場所はここ(大学)じゃなくて、本当にいたいのはココ(アルュメ)なんだ、心も体も自分が捧げたいのはゲーム開発の方だとずっと考えていましたからね。当時、アルュメのオフィスは学芸大学駅の近くにあったのですが、自分にとっての本当の「大学」はむしろこっちだぞ、と思いつつ通っていました。まったく、学生の本分をそっちのけで。(笑)。

次ページ >
■ベイシスケイプ新譜
くまたんち おりじなる・さうんどとらっく
朧村正 音楽集(初回生産限定盤)【特典:神谷盛治描きおろしスリーブケース&特製イラストステッカー】