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[19433] 腹黒魔女の落とし方~奮闘記160号~ (異世界学園魔法ラブコメモノ)
Name: とりす◆bdfaf7a6 HOME ID:ea56ae31
Date: 2010/06/10 17:55
 人は死ぬとき、脳裏に何を思い浮かべるのだろう。
 よく聞くのは、いわゆる走馬灯というやつだ。過去に自分が体験した記憶を、子供の頃から順番に思い出していくという人生のリプレイ鑑賞。
 それは多分、意識して思い浮かべるのではなく、死ぬと身体が察知したとき、自然と始めてしまう現象のようなものなのだろう。
 けどそれは、つまり死ぬと思ってから実際にそこに至るまで、わずかながらでも時間がある者にだけ与えられる権利だ。
 致命傷から死まで刹那でも意識が残っていれば、過去を振り返るには十分すぎるほどの時間が作れる。しかしそれすらも奪われた者は、何を感じればいいのだろう。

 すなわち即死の状況に陥ったとき。
 人は何を残す権利があるというのだろうか。

 『死』とは生物全てに平等に与えられた権利……なんてよく言うけれど、その過程は人によって天と地ほどの差が出てきてしまう。
 幸福に寿命を全うするものもいれば、不運の交通事故でこの世を去るものもいるだろう。
 それら全員をひっくるめて『死』一つで片付けてしまうのは、あまりに横暴すぎやしないだろうか。不公平、不平等、不当差別である。

 ……いや、例えそれがどんなに不幸な事件だったとしても、不注意とか、交通事故とか、誰かに殺されたとか、そーいう現実的な死は、まだ許そうじゃないか。諦めもつくさ。
 けど隕石が頭にぶつかって問答無用で即死ってのは流石に神様にも一言物申さないと気がすまないぞ僕は!
 ありえなくない!? 漫画やアニメじゃないんだからさ!
 歩いてたら後頭部に空から落下してきた光が直撃して意識がぶっ飛ぶって、そりゃないでしょいくらなんでも!
 僕の人生ってなんだったの!? 新聞に『死因は隕石直撃による即死』って書かれてお茶の間で笑いものになるために生きてきたっていうの!?

 そんなの死にきれないに決まってるじゃないか!
 納得できるはずがない、これで終わりだなんて思いたくない!
 僕はまだまだやりたいこともあったし、伝えてないことも沢山あった!
 こんなことで――こんなところで!
 あっけなく終われるような安い生き方してたつもりはないんだよこのファック神様ッ!





「…………っ」

 ゆっくりと、まどろみから意識がさめていく。
 目が覚めたとき、最初に感じたのは、風の匂いだった。

「……あ……え……?」

 自分でもわけのわからない呻きをあげながら、顔をしかめる。
 鼻先を、何かがくすぐっていた。寝ぼけた意識が次第に覚醒していき、その正体が純白のカーテンであることが分かる。

「…………風が……」

 すぐ傍の窓が大きく開いていて、そこから風を呼び寄せているようだった。はためくカーテンは、まるで大海を漕ぐ巨船の帆にも見える。
 ……いや、何を恥ずかしいことを言っているんだろう、僕は。
 ようやくネボスケの頭が働いてきたようで、僕は額に手をあて、自分に聞かせるように静かにため息をついた。後頭部の柔らかな感触が、今にして少しだけくすぐったい。

「……夢、かぁ。ま、そりゃそうだよな……」

 もう一度、今度は安堵のため息。
 そりゃそうだ、隕石にぶつかって死ぬことが現実であってたまるものか。
 しかし妙にリアルな感覚だった。光が空からものすごい勢いでこちらに迫ってくる映像が、今でも脳裏に焼きついている。
 僕はただ、道を歩いていただけで……次の瞬間、痛みを感じるより早く視界が殺されていた。なんというか、気色悪いくらいリアルな夢だったと思う。
 けれど、ほっとした。
 だってそれがどんなにリアルでも所詮はただの夢でしかなく、本当の「現実」は今ここにある。
 そのことが何より嬉しくて、僕はいつもより気分よく身体を起こすことができた。
 ふう。さて、急いで用意して学校に行かないと――
 そんなことを思いながらベッドから出ようとして、ふと動きを止める。

「……え?」

 ベッド?
 そんなはずはない。うちにはそんな大層なものはなく、いつも敷布団で寝ているのだから。
 けれど視界には、確かに真っ白なシーツと、掛け布団の間に挟まる自分の上半身が見えている。見覚えのない、若干ぶかぶかの青いパジャマを着て。

「……!」

 僕は慌てて周囲を見渡した。
 壁際に置かれた箪笥に机、そしてこのベッド、部屋に敷かれたカーペット、その下から見えるフローリングの床、……それ以外は何もない、殺風景でシンプルな部屋。掃除は行き届いているようで、部屋全体から清潔な香りと“気遣い”が感じられる、けれどどこか人の匂いがしない場所――

「……どこだ、ここ……」

 まるで知らない部屋だった。
 思わずぞくりとしたものが脳裏と背筋を走る。
 得体の知れない恐怖が、一瞬にして僕の心臓を鷲掴みにした。
 どうしよう、とか、なんとかしなきゃ、とかそういった明るい思考は微塵も思い浮かばず。
 ただ混乱と恐怖だけが僕の身体を支配し、その場に留まらせていた。
 ――と。
 このベッドからちょうど真向かいの位置にある扉が、何の前触れもなくがちゃりと開いた。

「……あら?」
「うわあごめんなさいごめんなさい!」

 何がなんだか分からず錯乱状態に陥った僕は、“とりあえず困ったら謝っとけ”という祖母の言いつけを忠実に守り、とにかく扉に向かって大声で頭を下げた。
 怖くて顔なんて上げることすらできず、そのまま目を瞑って硬直する。
 すると、頭の先で、くすくすと小さな笑い声が響いた。
 女の子の声だった。

「困りましたわ。突然謝られましても、わたくしもどうしたら良いやら。とりあえず頭をあげてくださいな。それではお話もできませんわ」

 それは自然と透き通るような美声で、僕の恐怖心に満ちた心にすうっと溶け込むように入ってきた。だからなのか、僕は気付いたらその声の主に従い、目を開いて、ゆっくりと顔を上げていた。

「…………」

 目も眩むような美少女が、そこにはいた。
 艶やかな黒髪を腰まで伸ばし、頭には大きな白いリボン、整った顔立ちの中にどこか愛くるしい子供のような可愛さを兼ね備えていて、部屋に届く風が彼女のサマードレスの端を静かに揺らしている。
 美少女の口元には微笑が浮かんでいて、その瞳はまっすぐとこちらのほうを捉えて離さない。
 ……いや。捉えて離さないのは、僕のほうかもしれなかった。

「ご気分はどうですか?」
「……え、いや、その……」

 そんな美少女に声をかけられているのが自分だと思うと、なんだか途端に恥ずかしくて、僕はもじもじと視線をさ迷わせながら、結局は俯くことでその挙動不審を落ち着かせた。

「驚きましたわ。わたくしが歩いていたら、貴方が道の先に倒れていたんですもの。一応お医者様には診てもらっていますが、特に外傷はなかったそうです」
「……そ、そうだったんですか。あ、ありがとうございます……」

 彼女の視線に耐えられず、俯いたままお礼を述べる僕。なんて失礼な奴なんだ。
 ……けど、道端で倒れていた?
 ということはやっぱり、あの隕石は夢なんかじゃなくて……そこで気絶した僕を、彼女が助けてくれたということなんだろうか。

「やはりまだ、体調があまりよろしくないようですね。今日はゆっくりとなさってください」

 少女が、こちらに近寄ってくる。
 僕は慌ててベッドにもぐりこんだ。掛け布団をきちんと肩までかけ、これ以上彼女にいらぬ世話をかけまいと真っ赤な顔で必死な努力を見せる。
 そんな僕の様子がとても滑稽だったのだろう。彼女は楽しそうにくすくすと笑っていた。

「ふふふ。では、家のものに食事を持ってこさせますわ。気が向いたときにお食べになってください」

 こちらを見下ろしながら、ベッドの傍で彼女が微笑んでいる。
 さっきよりも断然顔の位置が近くて、僕の脳は沸騰寸前だった。
 それを悟られまいと、なんとか話題を作って興味をそらそうと試みる。

「え、えっと、ここって街のどの辺なのかな? 僕も学校があるし、場所によってはすぐに出かけないと……」
「ここは天常の屋敷です。ご存知ありませんか? 泰馬町ではわりと有名なのだと思いますけど」
「え? た、たいまちょう?」

 知らない町名だった。ご近所にも、そんな名前の街、あっただろうか……?

「ぼ、僕、御門市に住んでるんですけど……」
「御門市?」

 彼女は僕がそうであったように、不思議そうに小首をかしげ、呟いた。

「そんな名前の町、ありましたかしら……?」
「あ、やっぱり……。実は僕も、泰馬町って名前に、心当たりがなくて」

 正直に吐露すると、少女はその整った柳眉をわずかにひそめた後、こちらを安心させるようににっこりと笑みを浮かべた。

「分かりましたわ。こちらで、その御門市という街の位置を調べてみましょう」

 ああ、なんと出来た人なのだろう。僕はどうやらとんでもない善人に拾われてしまったようだ。
 自分の幸運に思わず感謝しつつ、彼女には最大限の感謝の意を込めてお礼を言わねば。

「ありがとうござ――」
「オープン!」

 少女がぱちんとその人魚のような麗しい細腕で指を一つ鳴らすと、宙に漆黒の色で染まった魔方陣が高速で描かれ、少女の前方に展開された。

「……っ!?」

 あまりの衝撃的な映像に思わず言葉を無くす僕を尻目に、魔方陣からすぅっと立体映像のようなものが浮かび上がる。それはくっきりと、メイド服を着た女性を映し出していた。

『お呼びでしょうか、お嬢様』
「御門市という街の場所を調べてもらいたいの。頼めるかしら?」
『しばらくお待ちくださいませ』

 メイド服の女性が深々とお辞儀すると共に、映像が消え、その下に敷かれていた魔方陣もふわりと消滅する。

「これで大丈夫ですわ。どんなに離れていても、すぐにわたくしの転移魔法で送ってさしあげますからご安心ください」

 ふわりと天使のような笑みをこちらに向けてくる少女。……その笑みが、僕にはついさっきまでのものと、まったく違って見えていた。

「……え……いや、その……」
「どうかされましたか?」

 ぱちくりとまばたきをする少女に、僕はどう返してよいやら迷う。先程の気恥ずかしさはどこかに吹き飛び、今はただ、別の意味で彼女と目を合わせづらかった。
 ……いや……ナニ? アレ……。
 僕はさっきの不可思議な現象を思い出す。
 突然空中に現れる魔方陣。浮かび上がる立体映像。
 およそ現実離れした内容だった。
 ……夢?
 じゃあここで今こうしてるのも夢なのか?
 この目の前にいる美少女も妄想の産物?
 あの隕石も夢?
 ……一体どこまでが夢で、どこまでが現実なんだ……?

「うわああ……」

 情報に耐えられずパンクしそうになる頭を両手で押さえ、思わず唸る僕。
 そんな様子を、少女はどこまでも不思議そうに眺めていたが、ふいに彼女の傍でまたあの魔方陣が開かれ、少女の身体はそちらのほうに向いた。

『お待たせいたしました、お嬢様』
「それで、どの辺なのかしら」
『お嬢様、この日本の市町村全てを検索致しましたが、御門市なる場所は一件も該当がありません』
「……なんですって? 本当なの?」
『間違いありません。世界各国のどこにも、そのような場所は存在しておりません』
「そ、そんな馬鹿な!」

 聞き捨てならない言葉に思わず僕は身体を起こし、まったくの無意識で、その立体映像のほうに手を伸ばした。
 魔方陣から浮かぶその映像に指先が触れた、その瞬間――

「……ッ!?」
「きゃっ……!」

 魔方陣の構成が狂い、陣が掻き消えた。当然そこに浮かんでいた映像も途絶える。

「あ……」

 どう考えても僕のせいだ。
 なんだかとんでもなく悪いことをしてしまったような気分になり、慌てて少女に頭を下げる。

「ご、ごめん! な、なんかよく分かんないけど、消しちゃって……!」
「…………」

 少女からの言葉はない。怒らせてしまったのだろうか。
 おそるおそる顔をあげると、彼女は呆然としたような、信じがたいものを見たかのような顔で、こっちをぼうっと見つめていた。焦点が僕に定まっていない。
 美少女をそんな表情にさせてしまった罪悪感で、僕は穴があったら入りたい気分だった。

「……あの……」
「………しを」
「え?」

 少女の口から何事か漏れたようだったが上手く聞き取れず、思わず聞き返す。
 彼女は先程までの表情とは違い、真剣そのものな表情を携え、しっかりとこちらの顔を見据えて言った。

「お話をお聞かせください。貴方のこと、――その全てを」





 言われるがまま、僕は自分の身の上を喋っていた。
 香取一郎という名前。住所、友人、幼馴染のこと。
 そして自分に起きた、あの不思議な光との衝突事故を。
 ベッドの傍で、部屋にあった丸イスに腰掛け全てを聞き終えた少女は、そのふっくらとした桜色の唇に指をあてて、何やら考察のポーズをとっていた。
 話し終えた身としてはどうすればよいか分からず、彼女の次の言葉を待つしかない。
 少女はしばらく間をあけて、ようやく顔を上げてくれた。

「……なんとなく、ですが。一郎様の事情は飲み込めましたわ」
「えっ?」
「そこにどんな力が作用したのかは分かりませんが……恐らく」

 少女はゆっくりと立ち上がると、そっと右の手のひらを上に向けて、こっちに差し出してきた。

「……?」

 わけがわからずその手と少女の顔を見比べていると、少女がぽつりと言葉を紡ぐ。

展開オープン

 その言葉と共に、差し出された手のひらの上に、小型の魔方陣が光の軌道を描いて展開された。

「うわっ」

 思わず上半身を後ずらせる僕に、少女は悪戯が成功した子供のような顔でにこりと笑う。

「やはり、見覚えがありませんのね。この力を」
「え? う、うん……当たり前だよ。そんな魔法みたいなの」
「みたいなもの、ではありませんわ。れっきとした『魔法』なんですの」
「……へ?」
「それも一郎様が居た『世界』とは違って、ここではこの力が当たり前に存在するものとして認知されている、いわば常識なんです。この『エテル』を使った魔法術式は」

 エテル? スペルコード?
 何を漫画みたいなことを言っているんだ、と一笑に付すのは簡単だった。
 目の前でありありとその力を見せられていなければ、当然取り合わなかっただろう。

「……何を……言っているんだ? 君は」

 それでも、俄かには信じられなくて。
 僕はそう言うしかなかった。自分の価値観、存在意義、培われた一般常識を守るために。
 けれども、一見失礼ともとれる態度をとった僕に怒ることなく、むしろ彼女は駄々をこねる子供に言い聞かせるように、僕の瞳を見て、しっかりとその言葉を口にした。

「一郎様。端的に申し上げますわ。わたくしの推測でしかありませんが、……貴方はこの『世界』の人間ではありません。少なくとも、このエテルが通じない場所からやって来た、異界の方なんですわ」

 ――意識が飛びそうになった。







※某物語のIF、なんですがそっち知らなくても全然問題ありません。
作者が急激なラブコメ欠乏症にかかったため、その薬としてコレが生まれました。
異世界学園魔法ラブコメモノなんて手垢のついたネタなんで、開き直ってとにかくただラブコメ分だけを補給していきます。
基本はとらぶってToLOVEってトラブるだけの話です。



[19433] 第01話:「異世界と少女」
Name: とりす◆bdfaf7a6 ID:ea56ae31
Date: 2010/06/11 06:53
 風が頬をなでる。
 真夏の最中でも、この場所には緩やかな風が運ばれていた。
 天からは灼熱の日差しが容赦なく降り注ぐが、それを我慢できる程度には、ここは涼しい。
 だからといって、こちらの問題を解決する術には何一つなりはしないのだが。

「……はぁ……」

 所詮微風では誤魔化しようのない額に流れる汗をぬぐいながら、僕は今日何度目になるかも分からないため息をつく。
 ため息をつくたびに幸せは逃げていくというが、既に幸せが底を尽きた人間からは何が逃げていくのだろうか。これ以上、僕から抜けるものがあるというのか。
 見下ろす視界からは、この泰馬町と呼ばれる町が一望できる――僕を拾ってくれた彼女の家は町から少し離れた小高い丘の上に建っており、屋敷から数分歩けば、このように町を展望できる場所にたどり着ける。
 それもまた、僕にとってはとんだ皮肉だった。

「……丘の上公園だよな……どう見ても」

 彼女から貰った町の地図を片手に、また嘆息。何百回見たって結果は変わらないだろうに、僕はもう一度地図のほうに視線を向ける。
 地図には見慣れ構図が記されていた。はっきりいって、こんなものを見なくても町の全貌は把握できている。
 何せここに記されている土地は、僕が生まれ育った町そのもののカタチをしているんだから。
 ただその内容は多少違っている。商店街や学校の位置など、同じ場所も数多くあるのだが、それと同じくらい僕が見覚えのない建物や道が存在している。
 例えば今僕が立っているここも、僕の住んでいた町なら小さな公園になっていたはずだ。それがここでは、丸ごと天常家という何やらお金持ちの私有地となってしまっている。
 そして真っ先に地図で確認した僕の家は、ここではただの空き地になっていた。

「……なまじ似てるだけに、酷いよなあ……なんていうか」

 肩を落とし、またまたため息。下に広がる自分の記憶と似ているようで違う町を見つめながら、僕はただ、自身にふりかかった不幸を嘆くしかなかった。
 僕は一体、これからどうすればいいのだろう。





「……一郎様」

 いつまでそこで黄昏ていただろうか。
 太陽も気にならないくらい馬鹿みたいに町を見下ろし続けていた僕の背後から、可憐な声が響いた。まるで機械的に、僕はその声につられて振り返る。

「一郎様、お屋敷に戻りましょう。ここにいても、何も始まりませんわ」

 流れる黒髪を押さえながら、白い少女が微笑んで言う。きっと僕を元気付けるためにくれた笑顔だろうに、僕はそれを直視することができず、目を逸らすしかなかった。

「……どこにいたって、僕の居場所なんかないよ。だって僕はこの町じゃはみ出し者で、ただの部外者だ。此処には住んでた家もないし、友達もいないだろうし、……何もない。どうしてこうなったのかも分からないし、帰る手段もないし、これからどうしたらいいのかも分からないし……はは、なんかもう、どうでもよくなったよ」

 人間追い詰められると笑いしか出てこないというのは本当だった。
 僕の口からは意識することなく乾いた笑いが漏れ……その声は自分が聞いても酷く、滑稽だった。
 彼女の顔なんて見れるはずがない。
 こんな情けない男に、彼女はきっと憐憫の表情を見せているだろう。それを見ることは、何より辛かった。
 早く此処から居なくなって欲しい。僕を一人にして欲しい。それだけが今の僕の願いだった。
 ……いや、それも違うか。
 本当は助けて欲しいんだ。僕を拾ってくれたみたいに、彼女がまた、僕を助けてくれるんじゃないかと淡い期待をしているんだ。だからこの屋敷から離れず、彼女が声をかけてくるのをずっと待っていた。そうしないと、その支えがないと、心が折れそうだったから。
 何もすがるものがないこの『世界』で、彼女だけが僕の唯一の頼りだったんだ。

「帰る手段なら、ありますわ。一郎様」

 ……だから。
 彼女の透き通った声は、余計に僕の全身に浸透し、揺さぶった。

「……え」
「帰る手段ならありますわ、一郎様。貴方が願い続け、貴方が努力するのなら、きっと」
「本当!?」

 気付けば僕の足は駆け出し、彼女の両肩を掴んでいた。
 汗臭い男に間近に迫られ、彼女は嫌悪しか抱かなかったろうに、そこに浮かんだ笑みは、今までよりずっとずっと、魅力的なものだった。





「先程お見せしたとおり、この世界には一郎様の世界にはない『力』が存在しております」

 再び屋敷の、さっきの客室に戻ってきた僕達。
 一息ついた後、彼女の言葉はそんな文句から始まった。

「えっと、確か……エテル、だっけ」
「はい。エテルとは空気中に漂う粒子の一種です。目に見えず、肌で感じることもできない、人体には無害な微小の存在……ですが、これにある特殊な『数式』をはめ込むことで、その粒子を反応させ、特定の指向性を持たせることができるのですわ」

 少女は片手を掲げ、静かに何事か呟いた。瞬間、僕と彼女の間の空間に、あの魔方陣が展開する。

「一郎様が魔方陣と呼ぶこれがその数式、『魔法術式スペルコード 』です。エテルは術式に従ってあらゆる能力を発現させます。それは物理法則をも超越した、絶対的な現象。術式が完全であれば、まず間違いなく、その術式に込められた通りの現象が発生しますの」
「……本当に、魔法みたいだ」
「はい。ですからわたくし達は、エテルを用いて行う行為を『魔法』と呼び、その研究を続けてきました。この粒子が発表されたのは、もう100年以上も昔になりますわ」
「あ、それでも結構、最近なんだね」
「その通りです。百余年前から始まった『魔法文明』ですが、まだまだエテルには謎が多く、術式も発展途上といえるのです。今でも世界中で次々と新たな術式が発見され、教科書が書き換えられておりますわ」

 そこで一度言葉を区切り、少女はぱちんと一つ指を鳴らした。それに反応するように、魔方陣……いや、魔法術式がその姿を消す。
 そうして彼女は僕の目をみて、はっきりとした口調で言葉を続けた。

「魔法は無限の可能性を秘めておりますの。一郎様がご自身の世界で遭遇なされた衝突事故……そこにいかなる運命が宿っていたかは存じませんが、それはエテルが関係する『魔法』だったのでしょう。一郎様は数奇なる運命に導かれ、エテルでこの世界へと飛ばされてしまった……ならば、その逆もまた、エテルでなら可能な筈です」
「つまり……異世界に戻るための術式を、この世界で探す……と?」
「一郎様が戻りたいと願うのならば。エテルはきっと応えてくれることでしょう。可能性が途絶えることはありません。それが、魔法という名の神秘ですわ」

 にっこりと笑って、彼女はそう締めくくった。





「うわあ……」

 目の前に広がる光景に、思わず眩暈がする。
 いや、なんとなく、こんな感じのものがあるんだろうなとは期待していた感もあったけど、流石にこれは予想以上だった。
 ……真夏の太陽の下に何時間も立っていれば、当然汗だくになるのは避けられない。
 そこで彼女は、言外に「汗臭くて汚らしいお姿でこれ以上屋敷に居座るのはやめてくださいますか? 早くお風呂にでも入ってきてくださいこの浮浪者」というニュアンスを込め(完全に僕の被虐妄想であるのであしからず)、僕を屋敷のお風呂へと案内してくれた……のだが。
 いや、馬鹿みたいな広さだった脱衣所からも想像できていたけど、その中はまさしくお風呂というより温泉と呼ぶに相応しい。壁の上に巨大な獅子の頭がとりつけられており、その口から滝のようにお湯が流れ出ていた。獅子の眼下には優に泳いで遊べるほどの浴槽が広がっていて、まさしく誰もが想像するような、『金持ちの風呂!』を如実に具現化したような光景だった。
 当然、庶民であるところの僕には馴染みが薄すぎて場違い感が否めない。

「本当に入っていいのかなあ……」

 とりあえず銭湯みたいに幾つも取り付けられているシャワーとバスチェアの一つを借りて軽く身体を洗ってから、おそるおそる、浴室の湯に身体を沈めていく。

「ふいぃ~~」

 肩まで浸かって、大きく一息。
 湯気でところどころ霞んで見えるが、やはり見渡してみると、どう考えても大人数で使用することを前提とした造りになっているようにしか思えない。
 そういえばここの家の人はどうしているのだろうか?
 彼女の他には、屋敷を出入りする際に何人ものメイドさんとすれ違ってきたが、家の人間らしき人とは一度も出会っていない。
 まさかこんな馬鹿でかい屋敷で一人暮らし……ということもないだろうに。

「うーん、変なトラブルに巻き込まれないといいけど」

 彼女の厚意でお風呂まで借りてしまったが、こーいう屋敷に住まう人間だ、僕のようなどこの馬の骨とも分からない奴が敷居を跨いでいたら、不快に思う人が居てもおかしくない。
 僕だって自分の場違い感は先刻承知だ。言われたら裸で屋敷を出て行くことも覚悟の上である。

「いや……流石にそうなったら困るけどさ」

 適度な温度で身体を暖めてくれるお湯の快楽さに溺れ、自身の境遇も忘れて大きく伸びをする。

「ん~~~~っ」

 状況はいまだ絶望的だ。帰る手段は何一つ分かっていないし、今後の展望もまるでない。
 けれど数十分前に立ち尽くしていた頃と比べたら、幾分心は晴れていた。
 可能性は……少なくとも、ゼロじゃない。
 今はそれにすがるしかない。エテルなんて未知のモノにどこまで頼っていいのかは分からないけど……その力は、本物だ。
 彼女が語る言葉が真実なら、案外早く帰ることができるかもしれない、なんていうのは楽観視しすぎだろうか。

「とにかくエテルって力を調べてみないことには始まらないよなぁ……。とりあえず図書館でも行ってエテルのことを調べてみて、後はなるようになれだな」

 なんて軽い口調で言葉にだして、自分を安心させたりなんかしていると、ふと脱衣所の方角で何やら物音がした。
 不思議に思ってそちらを見ると、立ち上る湯気に隠れてよく見えないが、何やら脱衣所の透明ガラスに、すらりとした影が映っている。
 しまった、屋敷の人だろうか。僕みたいな部外者がのうのうと風呂を占領していていい顔をするわけがない。早々に上がってしまおう、と身体を湯船から引き上げようとして、ふとどうでもいいことに思考が至った。

 まさか……。
 いやでも、このシチュエーションって、普通、漫画なら……こう、お背中流しにきましたー、みたいな乱入者が現れるのがお約束である。
 ……いやいや、何を言っているんだ僕は。主人公気取りですか? イタい人じゃないんだから。
 でもこんな真昼間からお風呂に入るっておかしくないか? それならまだ、僕を外に迎えにきた彼女が汗を流すために風呂に入るほうが自然……いや何言っちゃってんの僕!?
 僕の理性とは裏腹に、一瞬にして少女のあられもない姿が脳裏に妄想で構築される。悲しき男の性よ。
 いやいやいや何をやってるんだ僕は! 彼女は命の恩人にも等しき人だぞ! それを汚らわしい妄想の糧にするなど恥ずかしいとは思わないのか! 失せろ邪気!
 そうこう悶えてる間に影は濃くなり、ついに脱衣所の引き戸をガラガラと開く音が風呂場に響き渡ってしまった。
 僕は慌てて視線を逸らしつつ、精一杯両手を振って抵抗を試みる。

「いやそんな駄目だよ! 僕にも心の準備ってものが――」
「お背中を流しに参りましたわ、坊ちゃま!」

 バーン! と脱衣所の扉を開け放って、メイド服姿の女性が元気よく声高に宣言した。
 …………誰?




(幕間)

「……正気ですか? お嬢様」
「ええ、勿論ですわ。困っている方には手を差し伸べてあげるのが当然でしょう?」

 そこは天常家の屋敷、その現在の主の部屋にあたる場所。
 傍に立つメイドがいれた紅茶のカップを持ちながら、部屋の主人は優雅に腰掛け、くすくすと笑いながらその自慢の黒髪をかきあげた。

「エテルを探るのでしたら、今後あの方に『オズ』の名前は有利に働くはず。何も問題はないでしょう?」
「だからといって……かりそめとはいえ、あのような身元不明の者を、天常家に迎え入れるというのは……同意しかねます」
「あら、身元不明ではありませんわ。『異世界者』という、立派なご身分がありますもの」
「それも本当かどうか。我が屋敷に潜入するために用意された工作者ということも考えられます」
「ありえませんわね」

 メイドの言葉を、彼女はきっぱりとした口調で否定した。
 口元にカップを寄せて中のアールグレイで喉を潤すと、少女は静かにカップを元の位置に戻し、両手で頬杖をついてその上に顎を乗せる。

「エテルに感応できるのは女性だけ……それはこの世界の不文律であり、この100年一度も例外のなかった事実ですわ。だからこそエテルを操れる女性は『魔女』と呼ばれるのですから。それが――貴女も感じたでしょう? 通信に割って入った、“あの方のエテルを”」
「…………」
「そう、それこそが、あの方がこの世界の住人でないことを示す、最たる証拠……そして」

 くすくす、くすくすと。
 少女は楽しげに、愉快そうに、口元を釣り上げ――ただ、心ゆくまで嗤っていた。

「面白くなりそうですわ。この世界に、唯一の“エテルに感応できる殿方”が現れたんですもの。せっかくの希少なサンプル、――我が天常の下に置いておかなくてどうするというんですの?」

 少女の言葉に、メイドはただ無言で、件の少年の運のなさを心の中で哀れんでいた。







※術式と書いてコードと読む。
ハァハァ、薬を……ラブコメを、一心不乱のラブコメをォォッ!……というわけで、薬が実際に補給できるまで、こっちの更新にかかりっきりになると思います。

あ、ちなみに前回書いた「某物語のIF」っていうのは、作者がここで連載させてもらっている別の作品のことです。
二次創作IFというわけではありませんので、紛らわしい表現で申し訳ありませんでした。



[19433] 第02話:「魔女との契約」
Name: とりす◆bdfaf7a6 ID:ea56ae31
Date: 2010/06/15 20:07
 ごしごし

「……あの、えーっと……は、原田、さん?」

 ごしごし

「はいっ! なんでしょうか、坊ちゃま!」

 ごしごし

「いやその、さっきも言ったと思うんだけど、自分で洗えるんで……」

 ごしごし

「何をおっしゃいますか! 初日から坊ちゃまに不自由させたとあっては、大旦那様にも、そして命を受けたお嬢様にも申し訳が立ちません! 坊ちゃまはただ成すがまま、私にお体をお任せしていればよいのです!」

 ごしごし

「だからその、さっきから気になってるんだけど、僕はこの屋敷の人間じゃなくて、ただの客で……」

 ごしごしぐにゅ

「いやどこ触ってるんすか!?」
「あ、失礼致しました坊ちゃま。泡で手が滑ってしまいました」

 むにゅむにゅ

「洗ってたの背中でしょ!? どんだけ滑ったらそこに行き着くの!? ていうかせ、せなか当たってますから!」
「まあ坊ちゃま! 私のような給仕の者の衣服にまで気にかけてくださるなんて……なんとご立派な!」
「何が!? ねえ何が!? それを言ったんじゃないですし何もかも違いますから!」

 ……つ、疲れる。
 なんで僕、風呂に入ってこんなに疲れないといけないんだ……。
 突然風呂場に乱入してきた、紺を基調としたドレスと白いエプロン、そしてカチューシャを身にまとった女性――メイドの原田と名乗ったその人は、こっちの話にはまったく聞く耳持たずで僕を浴槽から引き上げてバスチェアに座らせ、有無を言わさず背中を洗い始めたのである。
 なんとか止めさせようとしたけど暖簾に腕押しといった感じで、スマイル全開のままちっとも言うことを聞いてくれず、結局解放されたのは全てを洗われてしまった後だった。

「うう……もうオムコにいけない……」
「ご安心を坊ちゃま。天常のお家はお嬢様が継がれますから、婿養子でも問題ありません」
「だから、僕は天常家とは何も関係ないんですって!」

 浴槽の縁に上半身を預けて力強く否定する僕に、すぐ傍で待機するように立っていた原田さんは、初めてその表情を変化させた。
 満面スマイルから、どこか苦笑いするような……あるいはこちらを案じているかのような、そんな複雑な笑顔に。

「――いいえ、坊ちゃま。坊ちゃまは天常家の人間なのです。本日、この日から」
「……はぁ?」





「て、天常さんっ!」

 力任せに扉を開き、駆け込むように部屋へとなだれ込む。
 そこには、部屋の中心に添えられたいかにも豪華そうな丸テーブルを挟んで、優雅に腰掛ける彼女の姿があった。
 少女は唐突な侵入者の登場にも動じることなく、手に持っていたカップを静かにテーブルの碗皿に戻し、それからこちらを見てにっこりと完璧な角度と笑顔で微笑んだ。

「一郎様。レディの部屋に許可なく入るのはマナー違反ですわよ?」
「え、あ、ああ、これは失礼……じゃ、じゃなくて!」

 慌てて少女のほうに歩み寄ろうとして……すぐに立ち止まる。
 少女と僕を挟んでいたテーブルの前に、更に挟むように女性が立っていたからだ。
 さっきまでは、確かにいなかったはずなのに……いつのまにか。
 そうとしか表現できないほどに“いつのまにか”、彼女は少女の姿を僕の視界から隠すように、ぬっとその場に現れたのだ。
 定規のようにまっすぐと背筋を伸ばしたその女性は、先程の原田さんとまったく同じ格好……すなわちメイドの姿をしていた。彼女は瞳を閉じ、こちらに向かって深々と一礼する。

「……申し訳ございません、一郎様。許可なくお嬢様の部屋に入るのはそこまでとさせてくださいませ」

 ようするに、そこから一歩も動くなということだ。
 顔を上げたメイドさんは、瞳を閉じたまますっと無駄のない動きで身体を横にずらした後、少女の後ろにまで下がる。その動きは上半身がまったくぶれておらず、まるで訓練された兵隊みたいな動きだった。
 その言動に呆気にとられていた僕だったが、すぐに用件を思い出し、少女のほうに向き直る。そうだ、こんなことしてる場合じゃなかった。

「……あーいや、まあここでもいいよ。天常さん、どういうこと? 僕が、その……この家の人間になるって」
「言葉の通りの意味ですわ、一郎様。一郎様には今日から『天常一郎』として、この屋敷で暮らしてもらいます」

 あっさりと言い放つ少女に、流石に僕は眉をひそめ、声を荒げてしまう。

「そ、そんな勝手な!」
「お言葉ですが、一郎様。ここは一郎様が住んでいた馴染み深い町とは違い、身寄りも助けもない異郷の地。これから当てもなく、どのようにすごすおつもりですの?」
「それは……でも……」

 彼女の言葉は真実だ。僕という存在は、この町どころかこの世界にとっての異物。
 行く当てもなければ住む場所もなく、ついでにいえば身元を証明するものすらない。
 ただの浮浪者にも等しい僕が、これから生きていく保証なんて、何もありはしないのだ。

「それに異世界に帰る術式コードを探るといっても、市民図書館の本にご丁寧にその答えが記載されているわけではありませんわ。市販の本など所詮はただの一般公式。何の参考にもなりませんもの。一郎様が術式を調べるには、より魔法に深く関われる繋がりが必要となるのです」

 そして、と言葉を続け、彼女はこちらを見やって笑みを濃くする。

「わたくしの『天常』という名は、その貴方の助けとなる繋がりを所有しておりますの」
「僕の助けになる……つながり?」
「――“オズ”」

 端的に、少女はその単語を口にした。

「『魔女の血統』を意味する、この世界での特殊な名誉……みたいなものだとお考えくださいませ。世界魔法連盟《Wiz》によって発行される、世界的貢献をもたらした術式学者や魔女の一族に与えられる名前――それは魔法学に対して絶対的な優先権利をもたらします。『オズ』の名があればあらゆる魔法書が閲覧可能となり、世界中の魔法研究施設への優遇が利く……まさに、未知の術式を探ろうとする一郎様には、必要不可欠な要素ではありませんの?」
「い、いや、いまいちよく分からないけど……そんなに凄いの? 天常家って」

 なんだか言ってる内容はちんぷんかんぷんだけど、とにかく『凄い』ってことだけは言葉の端端から伝わってくる内容だった。なにより彼女の口調には、自らを自負する絶対的な自信がありありと満ちている。

「エテルをこの世界で最初に発表した五人の研究者。彼らは『五賢帝』なんて呼ばれておりますが……そのうちの一人が、わたくしのお祖父様なんです」
「えぇっ!? そ、それって世界的発見じゃないか!」
「はい」

 にっこりと、今まで以上にご満悦な表情で微笑む少女。その祖父という偉大な人と、それに列なる自分という存在にどれほどの念を抱いているのかが分かるような表情だった。

「オズの授与は最近始まったばかりですから、その名を持っている者は世界中でもほとんどおりませんわ。その名誉を――貴方に差し上げます。貴方が帰る道標となるために」





「……どうして」
「はい?」
「どうして、そこまで僕にしてくれるんだ? そんな偉大な家に、僕みたいな無法者を組み込む……それほどまでのことを、どうしてついさっき会ったばかりの僕に?」
「人が人を助けるのに理由なんて要りませんもの。……けれど、そのような陳腐な言葉では、一郎様は納得してくださらないようですわね」

 僕の表情を見て、くすくすと楽しそうに少女は笑った。
 今の僕の顔は、さぞ疑念の意が渦巻いていることだろう。それを隠す余裕がないくらい、訝しげに眉をひそめ、唇を尖らせて目の前の恩人に不快極まりない思いをさせているに違いなかった。
 だって、どう考えても不自然だ。
 彼女の口調から、天常という家、そしてそれが持つオズという名が、どれだけ偉大で価値のあるものなのかが理解できる。その家に、少女が自慢を持っているのにも。

 であればこそ、僕のような場違いな人間を、その家に「取り入れる」ことに疑問がわく。
 彼女の言うとおり、僕が元の世界に帰るためには、その『オズ』という権利はとても魅力的に違いない。必須と言ってもいいだろう。
 だけどそれは、あくまで僕の事情に過ぎないわけで……オズを持つ彼女にしてみれば、所詮は他人の問題事だ。仮に僕を助けてくれる意思があるのだとしても、わざわざ世間を偽って僕に天常を名乗らせる必要はない。横で彼女が手を貸してくれればいいだけなのだから。
 僕が「天常一郎」という名前であることが、彼女にとって意味があるのだ。
 それは、恐らく……

「では一郎様の合点のためにも、こう言っておきましょう。『異世界への扉を開くという、前代未聞な世界的発見をもたらしたのが天常家の人間であるほうが、わたくしにとって都合が良いから』だと」

 少女はさらりとそう口にし、カップに残っていたお茶で喉を潤した。
 音を立てずにまたカップを元に戻し、小首を傾げて小さく微笑する。

「一郎様は元の世界に戻るために。わたくしはその見返りとして研究成果を頂くために。相互の利得をかなえるための契約――という形にしたほうが、よっぽど『人助け』なんていうふわふわした理由よりも説得力があって素敵ですわよね?」

 ……この子。
 ようやく僕は理解し始めていた。
 この目の前にいる、美少女でお嬢様で、そして笑顔が可憐な、この少女のことを。
 この子は……とんでもない食わせ者だ。

「ふふ、本当は、身寄りのない一郎様を案じてこの屋敷に匿うことにした心優しい女の子……という設定でいこうと思っていましたのに。やはり一緒に住まうことになるんですもの、そのようなストレスの溜まりそうなことはやめたほうがよさそうですわね。バレるのも早そうですし」
「僕はそっちのほうが夢が見れててよかった気がするんだけど……」
「あら、こうさせたのは、一郎様のせいでもあるんですのよ? 一郎様があまりに鋭いものですから、こちらも予定を変更せざるを得なくなったのです。さすがは天常家の人間ですわ」
「よく言うよ……」

 楽しそうだなあ、この子……。
 なんだかはしゃいでるようにも見えるその子の笑顔に、僕は脱力したように肩を落とすしかない。
 彼女の真意は分かったけど……だからといって、それを払いのける力は僕にはなさそうだった。
 どのみち甘んじるしかないのだ、彼女の誘いを。
 僕が帰るために、僕も最大限利用しなくてはいけない。
 天常という立場を……オズという名前を。

「ああ、そうそう一郎様。不躾で申し訳ありませんが、今おいくつですか?」

 突然、思い立ったように彼女は尋ねてきた。

「へ? えーっと、今年で17歳……だけど?」
「まあ。それでは“お兄様”ですわね」

 ぽんっと両手を合わせて嬉しそうに微笑むと、すぐ傍で控えていた例のメイドさんが、音もなく動いて彼女のイスを引いた。それを待って、静かに彼女が立ち上がる。
 少女はすたすたと僕の目の前まで歩み寄ると、優雅にスカートの裾を両手で持ち、そっと軽く持ち上げ、それから気取ったようにお辞儀をした。
 それはまるで、お姫様のように。

「改めましてご挨拶申し上げますわ、お兄様。わたくしは天常家長女、名を嶺佳と申します。天常家の誇り高き魔女にして、貴方の掛け替えのない妹。――これからは気軽に嶺佳と呼んで下さいませ、お兄様?」
「……ああ、こちらこそよろしく……僕の、妹」



 こうしてこの日、僕と彼女……嶺佳との、最初の契約が結ばれた。
 魔女と結ぶ契約――その代償を、知らないままに。






[19433] 第03話:「翌朝」
Name: とりす◆bdfaf7a6 ID:ea56ae31
Date: 2010/06/17 13:47
 暖かな日差しが、カーテン越しに顔を照らす。
 そのぬくもりに揺り起こされるように、僕の意識はゆっくりと覚醒した。
 ……朝、かぁ……。
 ぼんやりとした頭でそれだけを確信し、瞬きを数回。
 昔から、寝起きは悪いほうではなかった。とはいえ、目覚まし時計なしに自然に起きたのは、随分と久しぶりな気がする。
 あれ、そういえばどうして目覚ましをかけていないんだろう?
 昨日かけ忘れたのかな……。
 いまいち昨日のことを把握できないまま、いつもの時計が置いてある位置にあたりをつけ、適当に手を伸ばしてみる。二度寝はしない主義だが、もしかしたらという怖い考えが頭をよぎったからだ。
 しかしその手は時計を叩くどころか、床すらもスルーして空を切る。
 ……んん? おかしいな、なんで畳に手が当たらないんだ……? 時計に手が届かないにしても、布団の周りは畳しかないはずなのに……。

「……?」

 不思議に思って、目をこすりながら、僕は初めて視界を開く。
 そこは、見慣れない部屋だった。
 自分の記憶にあるオンボロアパートの間取りなんか比べ物にならないくらい広い洋風の造りに、必要最低限の家具。そしてベッドの脇に控えるメイドさん。全てが馴染みのない。

「って、えぇっ!?」

 メイドさん!?
 驚いてベッドの中で身をよじると、彼女はこちらに深々と頭を下げる。

「おはようございます、坊ちゃま。お早いお目覚めですね」
「は、原田さん……?」

 くすんだ感じのない、純粋なブロンドへアを極太のおさげにして腰まで垂らした、メイド服の女性。そのやや幼い顔つきに似合わない美しい碧眼が、顔を上げ、まっすぐに僕を見つめた。

「坊ちゃま、申し訳ありませんでした。気付きませんで」
「はい?」
「坊ちゃまが朝一にまず女性の胸を揉みたがる特殊な性癖である方とは知らず、離れた場所に待機してしまいました」

 ベッドの横にだらりと下がった僕の手に視線を落とし、淡々と原田さんは言った。
 そうして胸の前で拳を握るとガッツポーズをとり、意気込んだ様子で満足げに頷く。

「ですがご安ください。明日こそは必ず、坊ちゃまが伸ばした手がジャスト私の胸に届くよう万事調整してお待ちしております!」
「一生待たなくていいんでとりあえず部屋から出てください、着替えますから」

 半眼で即答し、上半身を起こす。
 ああ、おかげで完全に思い出した。
 そういや僕、この屋敷の子供だったんだっけ。昨日から。

「……一夜にして、貧乏生活から資産家の息子か」

 それもまた、随分と突飛な理由によって、である。
 運命のイタズラだとかいう笑ってしまうようなフレーズも、今の僕にはぴったりくる。
 けどそんなケッタイなものに、いつまでも身を委ねている僕ではない。
 そうさ、同じく笑ってしまうフレーズで返すならば。
 運命なんてもんは、変えるためにあるのだから。

「坊ちゃま、お着替えの手伝いを」

 ところでなんでこの人こんな鼻息荒いの?





 原田さんに案内され、通された食堂は、こりゃまた学食を思わせるような広大な奥行きで広がっていた。全員座れば20人はいけそうな長いテーブルに白いクロスが敷かれ、その一番奥で一人だけ席についているテーブルの利用者が、朝のひと時を楽しむように、静かに紅茶を口に運んでいる。その後ろには、昨日彼女の部屋で出会ったメイドさんもいた。

「あら? おはようございます、お兄様。随分とお早いんですのね」
「ああ、おはよう。……まあ、遠足前の子供と同じ心理だよ」
「なるほど」

 くすくすとあどけなく笑うその姿は、歳相応の可愛さを見せている。
 今日も僕の妹は、朝から完璧な美しさを保っていた。

「さ、おかけになって。すぐに食事を用意させますわ」
「えーっと……どこに?」
「どこでも構いませんが、あまり遠すぎるとお話ができませんもの。こちらに」

 そう言って、自身のナナメ前を指す。
 特に断る理由もなかったので、素直にその席につくことにした。

「坊ちゃま、どうぞ」
「あ、ああ……ありがとう、原田さん」

 常に半歩先を先導していた原田さんに椅子を引かれ、少し慌ててそこに座る。
 僕に一礼すると、彼女はそれが定位置だと言わんばかりな自然な動作で僕の席の後ろに下がった。
 ……なんというか、慣れない。
 そんなぎこちない僕の態度がおかしかったのだろう、嶺佳は口元に指をあてて笑いを堪えている様子だった。

「そのご様子では、天常としての振る舞いに慣れていただくまで、まだまだ時間がかかりそうですわね」
「そりゃそうだよ……。突然こんなことになったら、誰だって戸惑うさ」

 少し不貞腐れたように唇を尖らせる僕に、嶺佳は「あら可愛い」と楽しそうに笑みを浮かべる。まったく、これじゃあどっちが年上なんだか。

「夏休みが終わるまでには慣れてくださいな。9月からはお兄様も学校に通ってもらい、世間的にも正式にお披露目デビューなさるんですから」
「まあ頑張ってはみるけど……あと2週間くらいだよね?」
「はい。それまで、必要最低限のマナーと知識は身につけてもらわなくては」

 ……天常一郎という存在の設定は、こうである。
 異世界への扉を開くという未知なる術式を完成させるため海外留学に励んでいた天常一郎は、まだまだ文化が発達していない海外にはこれ以上手がかりはないと踏み、日本での研究に着手することを決め、この夏休み期間中に日本へと帰国した――確かそんな感じの話だったはずだ。

「しかし驚いたなあ。エテルの研究が一番進んでいる国が、この日本だなんて」
「たまたまエテルを発見した最初の研究施設がお祖父さまが居た日本にあったから、という理由に過ぎませんけどね。その後先進国がこぞってこの国に施設を設け、次第にそれは世界中に存在する粒子であることが判明しましたけど……結局、今でも最新の研究はこの国で行われておりますの」

 それは、エテルに関する重要人物――すなわち『五賢帝』と呼ばれる存在が、常に日本で研究を進めていたことが大きいという。5人のうち、2人が日本人であったことも関係するのかもしれないが、この辺は当然僕の知識にはないことなので、詳しいことはまだ分からない。
 でも、分かっていることが一つある。僕が非常に有利な場所に立っているということだ。

「嶺佳……つまり天常の屋敷がここにあるってことは、その研究施設、この泰馬町にあったんだろう? ということは、世界中の学者がこの町に集まっている、ってわけだ」
「流石お兄様。その通りですわ。泰馬町にある羽間堂学園は、日本で初めての魔法養育機関でもありますの。施設も常に最新の物を取り揃えておりますし、なにより世界中の魔女達が集まっております。きっと、お兄様のお役に立つと思いますわ」

 ちなみにわたくしもその学園に通っていますのよ、とはにかむ姿はとても魅力的なんだけど、そんな摩訶不思議な学園に通うことになる自分への不安で僕の胸は張り裂けそうなんだけど。

「心配ありません。殿方はエテルに触れられませんから……お兄様に、エテルでの害はありませんわ」

 話の途中に食事が運ばれ、僕の目の前にずらりと朝食が並ぶ。
 よかった、食事文化は少なくとも僕の知っている通りのものらしい。
 嶺佳の前には紅茶しか置かれていないのを見ると、既に食事は終えた後なのだろう。

「……ああ、そういやそうなんだっけ。でもなんで男には触れないんだ?」
「さあ? 昔から魔女狩りという言葉があったように、神秘的な力には女性のほうが魅入られるのかもしれませんわね」

 もっとも、大昔の魔女狩りとエテルに関連性があるのかどうかは不明ですけどね、と笑いながら、嶺佳は紅茶のカップに手をとった。





 軽い食事を終え、下がっていく食器を見送っていると、頃合を見計らったように嶺佳が訊ねてきた。

「それでお兄様、本日のご予定は何かありますか?」
「ああ、とりあえず初日だし、町を見て回ろうと思うんだ。知識を詰め込むのもいいけど、まずはこの町のことを知っておきたい」
「そういえば泰馬町の大体のつくりは、お兄様が住んでいた町とほぼ同じ、ということでしたわね」

 興味深いですわ、と呟く嶺佳に、僕は肩を竦めるしかない。

「なまじ知識がある分こんがらがりそうだよ。だから半日は家をあけると思うんだけど……」
「分かりました。わたくしは屋敷のほうにおりますから、いつでもお尋ねくださいな。……それと」

 ちらりと僕の後ろに視線をやり、嶺佳はくすくすと口元をおさえて微笑んだ。

「そこの原田を連れて行ってくださいませ。彼女はお兄様御付の従者ですので、きっとお役に立つと思いますわ」
「……あー。つ、連れて行かないと……だめ?」

 やや苦笑いになるのが自分でも分かる。引きつった口元を隠せずに居ると、嶺佳はこちらの状況を楽しむように目を細めると、

「お兄様が天常家の人間であることを宣伝するにはうってつけですわ。噂を広めるのは、早いほうがいいですから」

 いや、絶対楽しんでるだろその顔は。
 ……うーん、原田さんが嫌いっていうわけではないし、仕事はとても正確だと思うんだけど、いかんせん性格がなあ。
 それが分かってて絶対僕につけた節があるんだよな、この妹……。

「……はあ、まあいいや。それで嶺佳。一つ聞きたかったんだけど」
「はい? なんですか、お兄様」
「この町にオズは何人居るんだ?」

 僕の言葉に、嶺佳はやや驚いたように目を見開いたが、すぐにいつもの穏やかな微笑に戻り、考える素振りも見せずに教えてくれた。

「三人ですわ」
「つまり、二人か。……それでも二人だけかぁ」
「お会いしたいのなら、約束をとりつけることもできますけど?」
「いや、今はやめておくよ。目下、頼りになる最有力候補だ。中途半端な知識で会って怪しまれるってのは一番避けたいからな。それに、学校に行くようになれば会えるんだし」

 腰をあげようと脚に力をいれた瞬間、すっとお尻に触れていた感触がなくなる。見ればいつのまにか近寄っていた原田さんが、椅子を下げてくれていた。
 ……本当にできるメイドってのは、口にしなくてもなんでも応えてくれるんだなぁ。

「それじゃ、行こうか。原田さん」
「はい、坊ちゃま」

 今度は原田さんを後ろに従え、僕は食堂を出ようとする。
 その背中に、妹の声がかかった。

「行ってらっしゃいませ、お兄様」
「ああ。行ってくる」

 首だけ振り向いてからそう告げて、今度こそ僕と原田さんは食堂を出た。




(幕間)

 バタンと食堂の扉が閉じる音を聞いた後、後方に控えていたメイドが静かに口を開いた。

「よろしいのですか? お嬢様。一郎様の本日のご予定は――」
「ごめんなさい、瞑。全てキャンセルしておいてくださいな。……わたくしの余計なお世話でした」

 両手を組んでタワーをつくり、そこに顎を置いて微笑む。
 彼女が機嫌の良いときによくやる、癖のようなものだった。

「ねえ瞑。お兄様のような境遇の人間が抱く心情って、どのようなものなのかしらね? 突然わけもわからず自分の知らない世界に飛ばされ、そこで否応なしに偽りの待遇を与えられ、しかもそこに馴染むよう躾を強要される。更には自分が元の世界に帰るためには、ありもしない手段を一から作らないといけない……」

 独り言のように漏らすその言葉に、メイドは応じる言葉を持ち得ない。
 しかしその沈黙に更に気を良くしたように、彼女は首を傾げ、両手のタワーを枕のようにして頭をあずけると、楽しそうにくすくすと笑い声をあげた。

「お兄様はご自分の足で歩ける方ですわ。わたくしの支えなんて、すでにいらないくらいに……。あるいはあの方なら、もしかしたら残りのオズ二人ともに、協力をとりつけてしまうかもしれませんわね。わたくしが力を貸す、その素質を抜きにしても」
「……一郎様にはお話しなくてよいのですか。あの方が、特異な性質であることを」
「今説明しても、いたずらに混乱させてしまうだけですもの。それにあの方なら……きっと」

 くすくす、くすくすと。
 少女は絶えず笑っていた。その笑顔を、メイドはただ、静かな面持ちで見つめるのだった。






※びっくりするくらい中身のない回なんですがきりがいいので。



[19433] 第04話:「御門市と泰馬町」
Name: とりす◆bdfaf7a6 ID:ea56ae31
Date: 2010/06/18 19:25
 屋敷の外に出ると、肌にまとわりつくような蒸し暑い風と容赦ない日差しが、一瞬でこちらに歓迎の意を示して出迎えてくれた。
 いくらこの屋敷が小高い丘の上に建っているといっても、避暑地と呼ぶには不十分すぎるようだ。
 その自己主張激しい太陽の光を片手で隠しつつ、もう片方の手に持ったこの町の地図に視線を落とす。
 とりあえず適当に足を動かしながら、視線を下げたまま、僕は呟いた。

「さて、まずは……」
「まずはどこから回りましょうか、坊ちゃまっ!」

 何をそんなにやる気まんまんなのか、この8月中旬の日照りの中を長袖のメイド服姿で歩いている後方の連れに、僕は振り向きながら嘆息交じりにうめく。

「あのー、原田さん? やっぱり付き合わせるのも悪いし、戻ってもいいんだよ? 僕が無理やり命令したって言えば、嶺佳も納得すると思うし」
「何をおっしゃいますか! 私は坊ちゃまの御付、死ぬまでお傍におる所存でございます!」

 自分の胸に手を当て、金髪碧眼(でも名前は原田)のメイドはえっへんと胸を張る。その拍子に白いエプロンに隠れたたわわな胸が、まるで頭上の太陽のように頭角を現していた。童顔のくせに、身体だけは外人並の人だ。
 いやていうか、死ぬまで傍にいるのは勘弁して欲しいんですけど。

「……あー、まずは本屋さんに寄ろうと思います。そっから先は、俺の記憶とこの町の地図との差を修正補完する感じですね。けっこう違いがあるようですから」

 とりあえず帰ることはなさそうだと観念した僕は、素直に今後の予定を原田さんに話すことにした。彼女はふんふんと得心がいったように何度も頷いている。

「なるほど! ……しかし既に地図を持っていらっしゃるのに、何故本屋さんに? 術式コードの本でも読みに行くんですか?」
「いや、本屋に行くのは僕の世界の『常識』とこの世界の『常識』の差を埋めるためですよ。さっき今朝の新聞に目を通したんですが、総理の名前や国の名前、でている芸能人の名前とかは僕の住んでる世界とだいたい同じものでしたけど、やっぱり幾つか知らない固有名詞がありましたし、それ以外の分野でも何が同じで何が違っているのかを知っておきたいですからね」
「はぁ、なるほど。私はてっきり、早速坊ちゃまの悲願でもあるエテルの研究にとりかかるためかと……」
「それ関係の本は、わざわざ出向いて探さなくても屋敷に沢山ありましたよ。……それに」
「それに?」

 不思議そうに聞き返す原田さんに、僕はやや小声になって答える。今歩いている歩道はあまり人通りが多いとはいえないけど、もしかしたらということもあるからだ。

「……『天常一郎』はまがりなりにもエテルの研究をするために海外留学に行っていたんですよ? そんな奴が、帰国して早々本屋でエテルや術式の初歩の本を読んでたらおかしいでしょう?」
「ああ、なるほど。それに比べて新聞や雑誌なら、海外に行っていて日本の情報に疎い帰国子女だから……と説明がつくわけですね!」

 今度こそ原田さんは合点がいったという表情でうんうん頷いている。
 ……この人もしかして、ノリで同意してるだけなんじゃないのか?

「そういうわけです。『天常一郎』のアピールも兼ねてるってことですよ」

 せっかくこの天常家のメイドさんが傍についていてくれているんだ。早いうちから土台を固めておくのは悪くない。
 今後オズと出会った際、彼女たちには精一杯魅力的に見えてもらわないと困るからな。
 この、『天常一郎』ってやつの素性が。
 ……問題はこの街にいる以上、早々に本人と遭遇しちゃって僕が『案山子』だってのがバレちまうっていう可能性だが……。

「ま、さすがにないか。いくら田舎町とはいえ、それなりの広さをもった街だからな」

 特定の人間二人と出会うことは、運命の出会いって奴でもない限りありえないだろう。
 出会ったとしても、すれ違う程度。そこから更に僕が術式やエテルの知識がないことを露呈する可能性なんてゼロに等しい。口にしなければバレないんだからな。

「……まあ、このメイドさんがうっかり大声で言っちゃう可能性もあるけど」
「はい? どうかなさいましたか坊ちゃま? 何かお飲み物でもご用意しますか?」

 なんで天下の往来で自分の胸を下から押し上げながらそんなこと言ってるんだろう、この人。





 僕の記憶にある御門市で一番大きな駅前の本屋さんにたどり着いたのは、それから20分ほど歩いた後だった。ここ泰馬町でも、それはそっくりそのままの形で残っていたようだ。
 店内に入ると同時、身体にクーラーの冷気がふりそそぎ、火照った肌が瞬時にして冷めていくのが肌で実感できる。夏場でもっとも心地よい瞬間である。

「ふ~。生き返りますね~坊ちゃま」
「まったく。夏はやっぱり適当な店で涼むに限るね、原田さん」

 原田さんと会話しながら店内を適当に練り歩くと、幾つもの視線がこっちに集まってくるのを感じた。まあ、それも当然だろう。いきなり平和な本屋にメイドさんが入ってきたら、誰だって視線を寄越すに違いない。
 それもそのメイドが、あのオズである天常家の人間であれば尚更、といったところか。
 当然一緒に歩いている僕にも、不躾な視線が容赦なく突き刺さっているのが分かる。

(この手の視線には慣れてるつもりだったけど、その意味が違ってくると流石に少し違和感を覚えるなぁ)

 まあ、好奇心の視線は気にしないのが一番である。僕の長年の経験からくる法則だ。

「坊ちゃま、この辺じゃなかったでしたっけ? 週刊誌のコーナーは」
「ああ、確かこの奥に……」
『邪魔よ』

 幾つものジャンルごとに区切られた棚の一つに足を伸ばしていたところで、ふいに後ろから声をかけられた。ここの本屋はその雑多ともいえる本の種類に反して店の敷地が小さいから、本棚と本棚の間の道が狭く、たまたま並んで歩いていた原田さんと僕で、そのスペースをふさいでしまっていたらしい。

「あ、すいま――」

 振り向き際に謝ろうとして、僕は思わず声を止めた。
 振り向いても、そこには誰も居なかったからである。慌てて周囲を見渡してみるが、この通路を通ろうとしている客の姿は見当たらない。

「あれ? 今確かに、声が……」
『だから、邪魔』

 再び、何やらくぐもったような声。まるでこの場にいながら遠くから聞こえてくるような、そんな不思議な声が――足元から届いていた。

「へ?」

 声がしたほうに反射的に視線を下ろし……たまらずうめいた。

「うわっ!?」

 足元に、30センチくらいの女の子の人形が直立不動で立っていたからである。そのボタンでできた物言わぬ瞳は、しかし何らかの強い意志を秘めているかのように、首を上げてこちらを見上げている。
 突如遭遇してしまった不気味な怪奇に驚いて後ずさるが、すぐにその人形の頭上に、小さく浮かんでいる紫色のサークルを見つけて眉をしかめる。あれは……

「……術式?」

 間違いない。まるで天使の輪のように人形の頭に浮かぶソレは、人形のサイズに合わせた小柄ではあったが、確かに複雑な模様が描かれた魔法陣――魔法術式スペルコードであった。
 人形は僕の仰天などまったく意に返さないかのように、僕が後ずさってできた原田さんとの隙間を縫って進んで行き、通路の奥へとトテトテ歩いて行ってしまった。
 小さな女の子は、本当に人間のように両足を動かし、確かに地面に脚をつけて、しっかりとした足取りで歩いている。
 そんな小さな背中を呆然と見送りながら、僕はほへえと子供のような感嘆をあげるしかなかった。

「魔法って、あんなこともできるのか……」
「……あれは……」

 ふと見ると、隣に立っていた原田さんも、熱のこもった視線でじっと人形が消えていってしまった通路を見つめている。

「どうかしたの? 原田さん」
「いえ……あの魔法は……」
「……あの魔法は?」
「私達メイドの商売敵ですっ! お使いを人形に代用させるなんて、許すまじですっ!」

 メラメラとした敵意で通路を睨みつけていたメイドのことは放っておいて、僕は目当ての雑誌を購入するため、手頃な本に手を伸ばした。





 結局その後、二時間くらい雑誌を立ち読みし、僕らは本屋を後にすることにした。

「坊ちゃま、収穫はありましたか?」
「まあ、僕が考えていた以上にこの世界は身近なものだってことくらいかな」

 複数の週刊誌や情報誌を片っ端から読んでみた感想としては、エテル関係を除けば、ほぼ僕が住んでいた世界の知識と同じだという結論だった。
 日本の都道府県の名前や世界各国の名前も一致することを地図で確認しておいたしな。

「いかしそうなると分からないなあ。なんでこの町は違うんだろう? さすがに全国の町名までは全部覚えてるわけじゃないから確認できないけどさ、これだけ似てる世界なのに、この町だけ違うなんて」
「やはり、この泰馬町がエテルと深く関わっているから、でしょうか?」
「まあ、そう考えるのが自然かな」

 エテルと関係するものだけ差異がある世界。
 となれば、違いが生まれるのは、エテルが関係する場所だと推測するのが普通だ。
 天常のお屋敷は、まさしくそのエテルが根深く関わる場所なのだから。

「……ということは、逆に考えれば」

 屋敷から持ってきたこの町の簡易地図を広げ、細部にまで目を通す。
 この町の、僕の記憶と違う場所。
 そこにエテルが大きく関わっている可能性が極めて高いということか。

「羽間堂学園……なるほどね」

 確かに、地図上でその学園が記された場所には、僕の知る御門市にも学校があったけど、その名前は違っている。
 この推測でほぼ間違いなさそうだった。

「泰馬町って名前をつけたのが天常家か、あるいはエテルに縁のある人間だったなら町名が違うことも説明がつくな」
「あれ? でも坊ちゃまが昔住んでいらっしゃった場所は、今空き地のはずでは?」
「……あ」

 顎に指をあてて空を仰ぐ原田さんの指摘に、僕は声をあげて気付く。
 そういえばそうだ……。ここに矛盾が生じてしまう。
 いや、現在地図上では空き地というだけで、実際は昔何かの研究所が立っていたのだろうか?

「詳しくは判断できないな……。その辺は、また後日に回そう」
「行ってみないんですか?」
「こっから反対方向だしね。……それに、さすがに自分の目で見るのは、まだちょっと怖いんだ」

 自分の家が、跡形もなく無くなっているであろう姿を確認するのはできれば避けたかった。
 なまじ思い出が強い場所に行くと、思い出してしまいそうになるから。

「そのかわり……と言ってはなんだけどさ。原田さん、そろそろお腹すかない?」
「そういえば、もうお昼時ですねぇ」
「だろ? そこで、行ってみたい店があるんだ」

 僕は笑いながら、簡易地図の一点をそっと指差した。
 そこは、御門町なら何の変哲もないテナントの店が入っていたところ。
 しかしここでは、立派な中華のお店になっているようだった。
 僕の記憶と違う場所……すなわち。
 どこかにエテルが関係しているであろう、その中華料理屋さんに。




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