2009-06-12 born to edit T-shirt made by the post-editorial way
アンチボットTシャツを1日着ながら考えた
エキソニモのTシャツショップが面白い。
EXONEMO ANTIBOT T-SHIRTSトップページ
ネットで買い物をしたりするときに、ぐにゃぐにゃしたランダムな文字配列の画像が表示されて、それを読んで入力させられることがありますよね。あれはCaptchaと呼ばれるチューリングシステムで、機械では読み取れない文字を入力させることで、情報をオペレーションしているのが意志をもった人間かどうかを判別するものなんですね。BOTとはコンピュータを悪用するために書かれたプログラムで、まあ、我われが気づかないところでさまざまな悪事を働いている、と。そのセキュリティー対策として考案された仕掛けです。
で、エキソニモはその図像変換システムを使ったオーダーメイドのデザインTシャツ屋さんをネット上にオープンしてしまった。さすが、目のつけどころがエキソニモ。
で、ぼくもさっそくオリジナルTシャツをつくりました。
メッセージはBorn to edit 20回くらいポチって、いい感じのをオーダー。
で、1週間で実物が届きました。さっそく着てみます。
昨日着ていたらさっそく「エキソニモTですね」と反応してくれた人がいました。
*
さて一日着ながら考えたことなどを以下書き記しておきます。
このTシャツ屋はいくつかの点で、とっても素晴らしい。
◎まずデザイン的な斬新さ。文字だとはわかるが瞬時には読みにくいランダムなフォントの配列が、見方によってこんなにもパンクだとは。ジェイミー・リードがコピー機とカッターナイフとペーパーセメントでやっていたデザインが、ワンクリックでだれでもできる、という手軽さ。
◎発想の意外性と批評性。もともとセキュリティーを目的としたシステムをTシャツのオリジナルデザインに使うという意味の変換の小気味よさ。アンチボットのTシャツは、世の中のセキュリティー・システムやアーティストTシャツというプロダクトやデザインそのものの意味(=ありがたみ)に対する皮肉や痛烈な批評でもある。見た目だけでなく意味そのものとしてこれはダダでありパンクなのだ。
◎DiY的要素と偶然的要素の出合い。購入者が自分で好きな文字を入力でき、色やデザインも選べるので、自分のメッセージTシャツがつくれる。ボディの色が選べ、文字色もカスタムできるが、そこから先のレイアウトとデザインは機械まかせなので、そのあたりは作家主義へのアンチテーゼとして「ぼくは機械になりたい」と言ったウォーホルや、ジョン・ケージのチャンス・オペレーションも連想させられる。実際、気に入るまでやりなおしボタンをクリックするときの期待感はまさに当たるも八卦!──おみくじや占いに近いものを感じた。
◎情報共有の仕組みの正しさ。自分のデザインは公開してシェアすることも、世界に1枚しかないものとして以後封印することもできる。クリエイティブコモンズによるCシャツ・プロジェクトの継承発展形として見ることも可。
Tシャツがウェラブルなメッセージ・メディアであることは言うまでもないが、すでに制度化したそれを固定的な意味から解き放ち、仕組みとしてオープンにする。この流動的でふわふわとしていて全体的に漠然とした感じになんとも言えない魅力があるのは一体何なんだろう。
Born to editと記しておきながら、逆にふと思いついたのは、post-editorialという言葉だ(通常、新聞などの社説editorialを指す言葉だが、ここはあえてpost-industrialの語感にも引っ掛けて)。
アンチボットTシャツの流動性は従来のフィジカルな編集物のソリッドな感覚とはまったく異なる、情報空間で時々刻々と生成され続ける情報編集のありかたと似ている。大方の部分を機械に頼りながらそれを人間が操作し選択するというプロセスにおいてもまさに。
ポスト・エディトリアル(脱編集)──今後のテーマとして掲げてみるかも。
*
▼同好のナチュラルボーン・エディターのみなさん、1枚いかが。
2009-05-30 In public, on public
オープンユニバーシティ開講します
6月の毎週土曜日に公開講座を開講します。
「情報共有時代の芸術──メディアとアートの新しい公共性を考える」
日程=2009年6月6日〜6月27日の毎週土曜日
時間=10:30〜12:00 定員30名
場所=首都大学東京飯田橋キャンパス
受講料=9,700円(+会員登録料3000円)
講座の説明
情報のデジタル化とインターネットによって、いま芸術と社会には新しい関係性が求められています。本講座では20世紀の都市空間におけるパブリック・アート(公共美術)から21 世紀の情報空間のパブリック・ドメイン(公共財)への変化をテーマに、現代の美術、身体表現、音楽、映像などさまざまなメディアを用いた表現を鑑賞しながら、情報社会のイメージ共有のメカニズムを読み解いていきます。さらに、リミックスやマッシュアップといった編集的な手法による新しい表現、YouTubeなどのトピックを紹介しながら、誰もが情報の発信者や表現者になることのできる時代のアートの可能性を探ります。
講座スケジュール
回 実施日 講座内容
1 6/06(土) パブリック:公共性とアート
2 6/13(土) アノニマス:匿名性とアート
3 6/20(土) リミックス・カルチャー:編集と文化
4 6/27(土) クリエイティブ・コモンズ:情報共有の新時代
2009-05-27 Mosquito and Crane
千羽鶴とモスキート──広島のシンボルと若者排他装置
少し前の話になりますが、Chim↑Pomの「ピカッ」騒動の顛末とさまざまな意見からなるテキストを収録した本が3月末に出版されました。ぼくも拙稿「ピカとドン―閃光と爆音 あの雲について、蔡國強との対話から」を寄せています。この本です。
- 作者: Chim↑Pom,阿部謙一
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2009/03/27
- メディア: 単行本
- 購入: 1人 クリック: 30回
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見返しには千羽鶴。帯のコピーは天才バカボン調。辞書風の造本デザインは手にした感じが意外にいい。そもそもハードカバーで立派な本は彼らには似合わないし、ソフトビニールカバー装は学習意欲を刺激するというか、繰り返し調べるように読む行為をアフォードする、のかもしれない。
先週発売された『美術手帖』2009年6月号でChim↑Pomの「広島!」展と本書のレビューが掲載されているので、この機に少し記しておこう。
この本の最大の功績は、この本が出る前と出た後の美術界の空気を入れ替えたことだ。実際この本が出る前はぼく自身も悶々した思いを抱えていながら文章に表出しづらい抑圧感や緊迫感を感じていた。アーティスト自身も、他の関係者も、思うところある人びとはみなそうだったのではないか。それらをまとめて一気に噴出させた爽快感が、本書刊行と「広島!」展にはあった。
ただ、あまりにスッキリしたせいなのか、誰もが安堵し脱力し、広島の平和芸術と表現の自由の問題についてさらなる議論や行動を活発化させているかというとどうやらそうでもなさそうなあたりが自分でもちょっと不満だったりする。
たむろ防止装置「モスキート」の排他性について
この先議論を続け、問題解決に向かって駒を進めて行くためには、さらに他の事象に果敢に接続していく必要がある。いまの世の中にはもっと得体の知れない抑圧的なシステムが張り巡らされようとしている。
たとえばこれ。
◎たむろ防止装置:騒ぐ若者に不快高周波 自治体初、東京・足立区が公園に設置へ(5/19付・毎日新聞)
コンビニなどの店頭にある例は知っていたが、公園に行政が導入するのはどうなんだろう。ある特定の年代にだけ騒音に聴こえる高周波装置は、野宿者を排除するための寝そべり防止柵のついたベンチの延長線上ではあるが、可視か不可視か、フィジカルか電波かといった特性においてかなり次元が違う。若者を電波で排除するとはまるで害虫扱いだ。技術としては、テレビ放送でサブリミナル効果が禁止されているように、公共空間での使用は自粛なり制限されるべきものなのではないか。
公園への「モスキート」導入を容認する社会は、公共空間にアーティストが飛行機雲で落書きすることを許さない排他性にそのまま重なる気がする。いや、もしかしたら逆に、ネット住民が集う場所で形成されるネット世論とでもいうべきある価値観に対して、即座に別の文化的な価値観をきちんと提示できなかった美術関係者のほうこそを、不良少年たちを恐れる「モスキート」の設置者に重ねてみることも必要だ。
ここでは旧来のマスメディアvs.スペシャリスト、新興のネットメディアvs.活字メディア、という二項対立における是非ではなく、それぞれのメディアにかかわる人びとに内在する「モスキート」=排他的な装置についての是非がモンダイであり、少なくともその取り扱いにあたっての論議が必要なのではないか。
それはネット世論に投じられた活字のボムだったのか
ところで、川崎昌平の書評(『美術手帖』2009年6月号pp112-113)においては、本書は「多くの執筆者たちはChim↑Pomそのものを特に意識してはおらず、むしろChim↑Pomが起こしたアクションを契機として多様な視点から21世紀に生きる私たちが次に考えるべきことを説いている趣が強い」そして「もし本書がChim↑Pomが自分たちについて語る本だったり、誰かがChim↑Pomを延々論じる本だったりしたら、おそらくつまらない本になっていたに違いない」と書いている。これは冷静に的を射た褒め言葉だしまったく同感だが、書き手の立場から言うと本書がそうならざるをえなかった理由はおそらくふたつある。
ひとつは、まだChim↑Pomの完成作品を誰も見ていなかったこと。正確にいうと、刊行と作品発表が同時に予定されていることは知らされていたので、見たい気持ちをつのらせながらも、見ずに書くことが暗黙のルールとなっていたように思う。
もうひとつは、出版企画書等には明文化こそされてはいなかったが、本書の刊行が中国新聞やネット上でのChim↑Pomや現代美術に対する心ないディス(軽蔑的攻撃)に対して活字で応戦するというミッションを暗黙裏に帯びてしまっていたことだ。
「広島!」展でその作品の全貌をようやく知ることができた後とその前では、言論の環境がずいぶん異なる。川崎さんは「多くの執筆者が『作品としてまだ完結していない』事実を文中に挙げていたが(中略)これはさして重要ではない」と冷静かつ温情のある言葉も添えてくれているが、確かに「広島!」展以後となったいまでは本書のいたるところに頻出するそのエクスキューズはいくぶん奇異に映る。ただ、ぼくを含む執筆者はみな完成作品のイメージをまったく知らない状態、すなわち暗闇を手探りするかのように筆を進めるしかなかった。Chim↑Pomについての評ではなく、それぞれが専門や興味とする関連テーマについて書くことになったのは仕方のないことだったし、20数名の筆者がそうやって言論の戦火を拡大することによって、一元的な倫理観や感情論からなるネット世論を封じようという戦略や戦術が、ある時点から編集者と執筆者相互の編集プロセスのなかで着実に組み立てられていった感触が残っている。その意味ではこの本は共同編者としてChim↑Pomと名を連ねている阿部謙一さんの技量と力量とそして度量によって成立させられた感が強いことはここにぼくが明言しておきたい。
だが、それゆえにこそ逆の見方をしてみるなら、前述したように美術関係者のほうが実は「モスキート」設置者に重なるのではないか、という自戒はそこにある(むろん、そういう両義性を含めて本書はモンダイ作として面白いのだが)。加えて言うなら「美術関係者」といっても到底ひとくくりにできるものではなく、少なくとも本書の出版前の美術界においてはChim↑Pom擁護派のほうがどう見ても少数派だった(多くの評論家やジャーナリストは、ネット上でChim↑Pom以上に「現代美術」があれだけディスられていても口を閉ざしてやり過ごすか知らぬ素振りで無視するかだった)のは一体どういうことだったのか──そのあたりに「現代美術」の弱さが露呈されていたことも認めざるをえない。
ところで、ぼく個人の感想としては、「広島!」展で《リアル千羽鶴》を見た後のいまでは、長年追いかけてきた「キノコ雲」のイメージ論よりも「千羽鶴」について書けばよかったとちょっと悔やんでもいる。
ここから先はその千羽鶴をめぐるシンボル=イメージ論について、画像資料とともにちょっと記してみよう。
千羽鶴のシンボル化とイメージ生成について
ちなみにこれがChim↑Pomの《リアル千羽鶴》(「広島!」展での展示)
本物そっくりの造り物の鶴の展示の脇にイーゼルと画材、描きかけの絵画が置かれていた。自作の千羽鶴を客観視する視点(古典的な「美術」の眼差し)を併置した自己批評的なインスタレーションといえる。
* * *
Chim↑Pomが見て着想を得たという旧日本銀行広島支店にある千羽鶴は、ぼくも前回の広島訪問時に見ていた(同所が「旧中2・CAMPヒロシマ」の会場だったからだ)。
見たときにはこれらがChim↑Pomの作品のインスピレーションの源だったということには気づかなかったのだが、気がつくと写真をたくさん撮っていたのでここに公開しましょう。
全国各地や世界中から平和記念公園に寄せられた大量の千羽鶴。
メッセージボード状の”作品”には、平和、Love & Peaceなどの文字が。
後方壁面には「原爆の子の像」の写真パネルが見える
これはChim↑Pomのインスタレーションの原型?
捨てられないので何室もの部屋に膨大量が保管・展示公開されている。
* * *
これらの千羽鶴はおそらくもとは平和記念公園に置かれていたもので、たぶんそれが溜まると旧日本銀行広島支店の展示室に運ばれてくるのだろう。
平和記念公園の「原爆の子の像」のまわりには千羽鶴ブースが設置されている
ガラスのケースは2003年の「折り鶴放火事件」以後設置されたものだろうか
近くに設置された碑。「叫び」と「祈り」が対比・接続されている
「原爆の子の像」のスタチュー部。折り鶴を掲げている
「原爆の子の像」にはモデルがいるが(小学六年生で亡くなった原爆乙女・佐々木禎子)、その逸話が広く知られるようになったきっかけは新聞記事であり、さらに、広島の折り鶴のシンボル生成にはその逸話を基にしたさまざまな創作物(映画や本)も関係している。つまり、ここでは新聞メディアと世論、そして芸術表現は連携的なはたらきをしてひとつのシンボルを生み出したわけだが、いっぽうで現代においてはChim↑Pomの一件を見る限り、新聞とネットと芸術表現の世論やシンボル形成の動きはバラバラである。50年を経たこの変化はいったい何なのか。いまぼくの興味はそこにある。
おそらくは「折り鶴放火事件」のあった2003年あたりが、我われの社会におけるシンボル観のターニング・ポイントなのだ(あくまで仮説的推論)。
ちなみに、2003年がメディア環境の観点ではどんな年だったのかと、インターネット10大ニュースなどを見てみると「家庭からのブロードバンドユーザーが1000万人突破」「blogがブームに、各社サービス開始」といった事象があげられている。それらを社会と人びとの意識の変化に短絡的に結ぶことは控えたいが、当時ネット上では犯人に対する誹謗中傷や悪意の投稿が加熱すると同時に、他方では焼失した鶴に代わる折り鶴をみんなで折ろうという呼びかけが見知らぬ人びとの間に善意の輪をも拡げた。
「祈り」を込めてみんなで折るという「千羽鶴」は、「千」という数的な類似も含めて戦時中の「千人針」を連想させる。アノニマスな創作行為がコンフォーミズムや挙国一致と化していくメカニズムはあたらめて興味深い。
また、「折り鶴放火事件」は大学生の野外での宴会が引き起こした事件といわれているが、それは奇しくも「若者たむろ防止装置モスキート」の設置理由にも重なることには注意しておく必要がある。つまり、平和記念公園はものものしいガラスケースの代わりに目に見えない高周波発生装置「モスキート」を防犯目的で設置するという選択も考え方としてありうることになる(むろん、ぼくは「モスキート」には反対ですが)。
* * *
原爆乙女のシンボル論にはすでに優れた論考がある。『ヒバクシャ・シネマ』所収のマヤ・モリオカ・トデスキーニによる論考「死と乙女」を再読してみよう。サブカルチャーと原爆のシンボルに関する論考集もあわせてリンクしておく。
ヒバクシャ・シネマ―日本映画における広島・長崎と核のイメージ
- 作者: ミックブロデリック,Mick Broderick,柴崎昭則,和波雅子
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追記。Chim↑Pomのインスタレーション《リアル千羽鶴》と映像作品《広島の空をピカッとさせる》は6月の個展で再び見られるらしい。【ニュース】Chim↑Pomの展覧会『広島!!』再び、NADiff a/p/a/r/tで改めて全容を公開
2009-05-24 Her First Bycicle and My BCCK
すごいぞ!ドライジーネ式自転車練習法
子どもの4歳の誕生日を機に自転車を買って、ペダルを外して補助輪も付けずに、足で地面をキックして乗らせるという練習方法に挑戦してみました。
結論から言いますと、練習3日目、時間にしたら計5時間くらいの練習で自転車に乗れてしまいました。しかもほとんど転ばずに!
自分でも驚くほどの効果があったので、この練習方法を「ドライジーネ式自転車練習法」と名づけて、そのドキュメントをBCCKSで本にして公開しています。自分で言うのもなんですが、なかなか面白いものに仕上がったのではないかと。まあ、見てみてください。
(閲覧ページにジャンプしたら右側のNEXTボタンをクリックしていくと順にページがめくれます)
* * *
今回ぼくがこのBcckをまとめた動機は、個人的な体験をみんなで共有したいと思ったから。ネーミングにはちょっとした問題提起も込められている。──じつは世の中には転ばずに自然に乗れるもうひとつの自転車の練習方法がある。でも、その練習方法がイマイチ世間に広まらないのはそれを指す固有の名称がなかったからなのではないか──と。
そして、なにより「楽チンで楽しい乗り物」であるはずの自転車の練習が、子どもたちにとって痛みや苦痛をともなうものになってしまいかねない現実に対してオルタナティブなもうひとつの方法の提示が必要だと思ったからです。「自転車は転んで覚えるもの。たくさん転ばないと上達できない」というもっともらしい風説を打破するためには、それに代わるやさしい教習法をもっと具体的に記述して普及していく必要があると感じたわけです。
「ドライジーネ式自転車練習法」のドライジーネとは1817年にドイツのドライス伯爵が発明した自転車の始祖といわれる車両で、ペダルやチェーンがない二輪車ですね。自転車を習うには自転車の歴史に倣うべきだ、というのはおそらくは理にかなっている。
ちなみに今回ぼくは東京・竹橋の科学技術館・自転車文化センターに実車が展示されていることを知り、慌ててカメラ片手に取材に行ってきました。あらためて間近に見るドライジーネは一言で言うなら美しい乗り物でした。Bcckに使わなかったアウトテイクの写真で紹介しましょう。
これらのアングルだと背景の解説板のイラストと重なってペダルのない美しい姿が見にくいのがちょっと残念……。アウトテイクになった理由はそれです。
おまけ。話はドライジーネからそれますが、館内にはこんな展示物も……。
現代のフォールディング・バイク(とくに英国製のアレ)にもけっこうよく似た設計の折り畳み自転車が、半世紀前日本で生産され輸出されていたという。
しかもその原型ともいえる日本製の折り畳み自転車の元祖は、戦時中の陸軍落下傘部隊用に開発されていたものであるという事実。これにはちょっと驚き、心境複雑な思いに。写真は館内の展示モニターより。
『すごいぞ!ドラ式』自作解題
さて、話を『すごいぞ!ドライジーネ式自転車教習法』に戻しましょう。作者自ら自作解題をブログでしてしまうのもどうかと思いますが、アートについて書くのが仕事のはずのぼくが、なぜ今こういうものを書いてしまったかについて少し書いておきます。というのも、この本(Bcck)の背景にはじつはこれまでのぼくが読んできたもの・編んできたもの・書いてきたいろいろなものがあると思うからです。
今回のBcckにおけるぼくの関心は、自転車の発明史と子どもの自転車の練習が重なったところからスタートしています。これまでもヤノベケンジさんや八谷和彦さんの展覧会の作品解説として寄せた文章の多くが過去の発明史と現代の科学技術や近未来のコミュニケーションのかたちを接続したものであったのと同様に、ぼくにとってはこれもまた一種の交通=メディアとしての自転車についての文化論であると同時に、それを基にしたコミュニケーションについてのドキュメンテーションでもあるのです。
個人的にはこのハウトゥ本ともエッセイともつかない文体にはそれなりに工夫と愉しみがあります。テクニカルな手順をレシピのように箇条書きのテキストとして記述していく作業が面白いのは、昔愛読した『おそうざいのヒント』やサーフィンやバイクの本の影響ですね。あるいは、自分の作文作法としては、かつて編集した画材の技法書や、数年前短い間でしたが育児雑誌に連載していた子育てフォトエッセイの延長線上にあるものです。
BCCKSに関してはすでにこのブログでも紹介済みですが、インターネット上でだれでも無料でバーチャルな本の編集と出版ができるサイトですね。
今回、公開3日目にトップページに表示される総合ランキングで1位になったりもしてドキドキ感が味わえました。
この練習方法は自転車=文化の共有につながる
「ドライジーネ式自転車練習法」の実際については、このBcckのなかで詳述したのでここでは説明は繰り返しませんが、せっかくネーミングもできたことだから今後もっともっと普及させてみたらいいと思う(いっそ「ドラ式」と略して呼ばれたらいいのかも)。もちろん誰のネーミングというこだわりはなくコピーレフトの方向で。
そもそもこの自転車の練習方法そのものがいつどこの発祥で誰の発案なのか不明であるにもかかわらず、自転車好きの人の間ではしっかりと普及していることがパブリック・ドメイン的といえるし、さまざまな人の手で改良を加えられている──実際ぼくも練習する子どもと向かい合いながら自分なりに工夫を加えながら実践した──という意味でクリエイティブ・コモンズ的であるともいえる。毎度のオチですがそういう気がしています。
2009-03-18 New writings, new spring
春の書店に並んだいくつかの新しい仕事
先月ずっとやってた仕事が花咲くように次つぎと書店に並び始めました。
月刊『リアル・デザイン』書評欄 これから毎号執筆を担当します。毎月カラー1ページで和洋書新刊をセレクトした上でテーマごとに関連書籍を2、3冊合わせて紹介していきます。最新号(No.35、2009年5月号)ではアンディ・ウォーホルと音楽産業の連関に焦点をあてた展覧会《Warhol Live》の図録と同時刊行されたウォーホルのジャケ仕事のカタログレゾネを採り上げました。
昨年からインダストリアルアートコースに所属していることもあって、デザイン誌からの連載の依頼はタイミングがよくうれしい。コースの他の先生が専門とするプロダクト、空間、グラフィック、メディアなどデザインの諸領域に関する新しい書物と毎月たくさん向かい合う状況をつくることで、僕自身のポスト・インダストリアル体質(<苦笑)をデザイン界の動きと照合しながら、デザイン史の言説にも接続していけたらという秘かなる構想。
Real Design (リアル・デザイン) 2009年 05月号 [雑誌]
- 作者: Real Design(リアルデザイン)編集部
- 出版社/メーカー: エイ出版社
- 発売日: 2009/03/16
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『スタジオボイス』コーネリアス・インタビュー 新譜『CM3』とDVD『SENSUOUS SYNCHRONIZED SHOW』の発売を前に訊いたもので、9・11以降=21世紀の不穏な時代感覚と情報共有の進んだ状況で彼が何を考え、提示してきているのかが、小山田ファンである僕自身の最大関心事だったのですが……詳しくは掲載誌を読んでください。記事タイトルは「共時性の共有から共感へ」──これらのキーワードはコーネリアス本人がとくに打ち出しているわけではないけれど、僕は彼の仕事に「共」の字に象徴されるさまざまな可能性を日々感じています。
STUDIO VOICE (スタジオ・ボイス) 2009年 04月号 [雑誌]
- 出版社/メーカー: INFASパブリケーションズ
- 発売日: 2009/03/06
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『現代アート事典』書籍化 美術手帖の2008年4月号特集「現代アート事典」が書籍化されました。担当執筆項目は「ポップ・アート」、「グラフィティ・アート」、「ネオ・ポップ/シミュレーショニズム」。ポップ/ネオ・ポップに関しては僕の関心領域として言うまでもありませんが、グラフとアートについて公式なかたちでこうして活字にまとめたのは初めて。事典の一項目なのでいずれも長くはないが、1980年代後半にグラフィティがアメリカ絵画に吸収されていったメカニズムが、90年代のブリット・ポップとYBAの関係、さらには2000年代の日本の現代美術がオタク文化を吸い上げていった過程と相似していることなど、これまで美術の文脈ではほとんど語られることのなかった観点を盛り込み&ちりばめてあるという秘かな意欲作です。
事典はじきに定本となり、次なる言論を生み出す礎となるべきものなので、やがて散見されるであろうエフェクトにも期待しながら、自分でも今回の三項目の周辺領域についてもっとまとまったかたちで書いておきたい気がむくむくと湧いてきてはいるのだが、このへんはネタの流動が激しい。1年前の雑誌掲載時にこの事典にバンクシーを入れるのはまだけっこう冒険的だったはずなのに、1年経って書籍化されてみるともう目新しくも何ともないことに、小さく拍子抜けしてみたりも。
現代アート事典 モダンからコンテンポラリーまで……世界と日本の現代美術用語集
- 作者: 美術手帖編集部
- 出版社/メーカー: 美術出版社
- 発売日: 2009/03/04
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アートワーカホリック・アノニマス おっと、連載コラムも忘れずに。『クロスビート』2009年5月号も本日発売。音楽周りの文化表象論「アートワーカホリック・アノニマス」は前回に引き続きオバマの大統領選挙戦の合言葉《Yes We Can!》のルーツをR&Bからソウル・ミュージックから、はたまた「ボブとはたらくブーブーズ」まで文化史的に縦横無尽に接続しています。文中では《Yes We Can!》は日本語に訳すなら、あの居酒屋チェーンの《よろこんで!》か「笑っていいとも!」の《そうですね!》に最も近似しているという珍説を披露してますので、どうぞご笑覧ください。
バンクシーの陰に隠れて米国以外ではイマイチ人気のないグラフィティ出身の画家シェパード・フェアリーのオバマグラフィックについても触れてみました。
ちなみに『クロスビート』誌でのコラム連載は、住倉良樹のペンネーム時代から数えると通算13年目に突入。回数にして150回!? レコジャケに関する独り言はもはやライフワークになりつつあります。
CROSSBEAT (クロスビート) 2009年 05月号 [雑誌]
- 出版社/メーカー: シンコーミュージック・エンタテイメント
- 発売日: 2009/03/18
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あとは、Chim↑Pomの『なぜ広島の空をピカッとさせてはいけないのか』に寄稿したものが今週末に出る。明日3月19日に出版記念パーティーがあります。