中日−日本ハム 250セーブを達成しお立ち台でポーズをとる岩瀬=ナゴヤドームで(小嶋明彦撮影)
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中日・岩瀬仁紀投手(35)が16日、日本ハム4回戦(ナゴヤドーム)で今季16セーブ目を挙げ、通算250セーブを達成した。5−3とリードした9回に登板、無失点で逃げ切った。286セーブの高津臣吾(ヤクルト)、252セーブの佐々木主浩(横浜)に続きプロ野球史上3人目。中日一筋で名球会入りを決めたのは、高木守道、谷沢健一、立浪和義、山本昌広に次いで5人目となる。
クールな岩瀬が感情をほとばしらせた。センターへの大飛球に大島が追いついた瞬間、左手と右手のグラブを同時にグッと突き上げる。花束を手にナインと抱き合う。その手で握ったウイニングボールの数は「250」個目。高津(286セーブ)と佐々木(252セーブ)しかクリアしていない至高の境地についにたどり着いた。
「プロに入るときは想像もしていなかった。自分がやったとは思えない。実感もない。一つ一つ積み重ねてきた結果がこうなった。もっと格好良く終わらせたかったけど、それもボクらしい」
くしくもナゴヤドームの歴史に残る試合だった。雨で中止となった5月26日の日本ハム戦(富山)の振り替えで急きょ決まったゲーム。告知期間も短かったこともあり、観客数は97年の開場以来最少の6947人。熱心なファンへ、偉業達成が最高のプレゼントになった。
「前回は失敗している(7日の西武戦で9回に3失点で逆転負け)。記録よりも、失敗できないという気持ち。投げることに必死でした」
「抑え」としてのスタートは最悪だった。04年、就任初年度の落合監督が迷わず決断したセットアッパーからの配置転換だったが、開幕直前に左足中指を骨折。復帰後のシーズン序盤は散々に打ち込まれ、5月末の時点で防御率は「5・48」に沈んでいた。
「抑えに戸惑いはなかったけど、何をやってもうまくいかなかった。調子が悪くて打たれているのか。そうじゃないのかもわからない。あの時期が一番苦しかった」
クローザー転向は30歳を迎える年。20代半ばと比較すると、投げるボールは変わりつつあった。例えば「スライダー」。かつては「わかっていても打てない」と言われた“代名詞”。年を追うごとに「絶対」ではなくなっていた。
「若いころと同じボールは投げられない。スライダーをホームランされることもあった。『岩瀬=スライダー』というイメージが邪魔だと思ったこともある。昔のイメージでスライダーを待たれれば、打者は打ちやすいと思うはずです」
岩瀬との勝負で打者はスライダーを強く意識する。キレを欠けば打たれた。それでもスライダーなしでは抑えられない。一時は袋小路に迷い込んだ。そんな岩瀬が活路を見出したのは「モデルチェンジ」だ。
「スライダーというイメージが強いなら、それを利用してやろうと。相手も研究してくるし、ずっと同じことをやっていたらダメ。こっちも変わっていくしかない」
ほぼ真っすぐとスライダーだけで打者を牛耳ってきた岩瀬がシュートを投げ始めた。近年は毎年のようにチェンジアップやシンカーに挑戦している。実績のうえにあぐらをかかず、「変化」を求める姿勢。これが250セーブの源になった。抑え転向からわずか6年余りのハイペースでの金字塔。最近2年間のセーブ成功率は90%を超える。そのタフネス、その信頼性。「名球会」の称号にふさわしい。
「昔は先発をやってみたいと思ったけど、最近は全く思わない。抑えの魅力にはまった。これから先は自分との戦い。ためている“引き出し”をどうやって開けていくか。落合監督からは250は通過点。300になったら初めて緊張しろと言われましたよ」
記録や数字には無関心な男。「セーブ」を意識したのは2度しかない。05年10月1日の広島戦(ナゴヤドーム)でシーズン最多セーブの日本記録を更新する「46セーブ」を挙げたときが最初。そして今回の「250セーブ」だ。王手をかけてから11日目。プレッシャーから解放された鉄腕はほがらかに笑っていた。 (木村尚公)
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