世界に通用するデザインを▽プロダクトデザイナー川崎和男 |
昨年行われた大統領選挙。選挙期間中、全米でも話題になっていたのが大統領選を飾る女性達のファッションだった。その中でも一躍脚光を浴びたのが共和党の副大統領候補、サラ・ペイリンのメガネだった。「ペイリンのメガネのデザイナーと言われるけれど、僕のメガネはそれよりも前から知られていた」。事実、ヒラリー・クリントンにウーピー・ゴールドバーグなど、川崎氏のデザインする眼鏡はすでに各界の著名人の間で絶大な支持を得ていた。
72年、金沢美術工芸大学を卒業と同時に東芝に入社。しかし、78年、タクシーに乗車中、酒酔い運転の車に衝突され、脊髄を損傷後、車椅子の生活となった。「事故の後、会社を辞めることになり、大学時代の教授がえらく心配してくれましてね。この教授がある眼鏡メーカーを紹介してくれました」。これが、眼鏡のデザインと川崎氏を結ぶ第一歩となった。ところが、川崎氏はここでの仕事を数年で辞めてしまう。「ここはいわゆるブランド眼鏡を造る会社で、自分がデザインしたフレームを商品化するなんていう機会は一向に到来しなかったんです」。デザイナーとしての意地。自分のデザインを世に送り出したいという強い思いが、川崎氏をこの会社から遠のけた。
そんな時、声をかけてきたのが川崎氏の地元、福井県福井市に本社を置く増永眼鏡の増永悟社長だった。福井県は眼鏡フレームの製造全国シェア90%を占め、県の主産業の一つとされていた。ところがこの頃、1200社あった眼鏡メーカーが600社にまで減っていた。もともとこの眼鏡産業を福井県に持ってきたのがこの増永眼鏡の創始者、増永五左エ門だった。長年の地場産業としての経験上、福井県には技術がある。「海外で賞の取れる眼鏡フレームを造ってほしい」との増永の呼びかけは、デザイナー川崎の心に強く響いた。
その後は毎年、海外の有名な展示会にも積極的に参加、有名どころの最終選考にも幾度となく選ばれた。「何度出しても、最終選考まで残るのに受賞に届かない。日本人は選ばないつもりなのかと思いましたよ」。デザインで駄目ならと、発想を転換、「眼鏡で発明をしてやろうと思った」。そして誕生したのが『アンチグラビティー』だった。ノーズパットなどに特殊な技術を施すことで、体感重力を感じさせない眼鏡を完成させ1995年にドイツで川崎氏は初の国際的な賞を受賞した。その後、独創的なアイディアにより『アンチテンション』を発明、レンズに応力のかからない設計でレンズの歪みから生じる目への医学的負担をなくすという画期的な眼鏡を作り上げた。この作品により、何度も挑戦してきた念願のパリのシルモグランプリを2000年に受賞した。「シルモグランプリは世界有数の眼鏡のデザイン展で、ここでその年の流行が決まると言われるくらい大きな展示会なんです」。
川崎氏にとってデザインとはいったい何なのか。「デザインというと一般的には、服のデザインとか、何か形あるもののデザインだと思われるけど、デザインとは、人間の夢や希望を具体化するものだと思うんですよ。デザイナーは人間の欲望を刺激するものを造る。しかし、仏教でいう“物欲”をシンプルにしていくことも大切だと思う。必要最小限のものだけを選ぶ、余分を捨てる」。川崎氏の創り出した眼鏡はまさに、彼の哲学を形にしたものだった。柄の長さが自由に調節できるなど、従来の消費者が自分の顔のサイズに合ったフレームを選ぶという状況を、どんな人にも合う眼鏡へと変えた。
川崎氏の才能はなにも眼鏡の世界だけで発揮されてきたわけではない。1990年代にはジョン・スカリー率いるアップル社で直属のコンサルタントとして活躍、インダストリアルデザイナーとしての地位も確立していた。その後も多方面で活躍し、99年には名古屋市立大学にて医学の博士号を取得、現在は人工心臓のデザインも手がけている。
デザイナーとしての成功と共に、仕事の幅もどんどんと広がっていった。しかし仕事がどれだけ多岐にわたっても、デザイナーとしての魂は譲らない。最近では大学で教鞭を振るうことも多くなった川崎氏。「大学では学者同士の争いなどもあるけれど、自分は教授じゃないから、争う場が違う。自分はデザイナーだから」。眼鏡の向うの鋭いまなざしからは、職人とも呼べる川崎氏のデザイナーとして心が映し出されていた。
文・写真 宮本さおり
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■川崎和男氏 略歴
1972年金沢美術工芸大学産業美術科卒業。1972年東芝入社。1978年交通事故により脊髄を損傷。1979年川崎和男デザイン室開設。1991年90毎日デザイン賞受賞。1996年名古屋市立大学大学院芸術工学研究科教授着任。1999年名古屋市立大学で博士(医学)取得。2006年大阪大学コミュニケーションデザイン・センター教授・
兼 大阪大学大学院工学研究科大阪大学フロンティア研究センター教授着任。2007年大阪大学医学部附属病院未来医療センター教授着任。
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