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[19605] 【正直】BLACK OR WHITE?【すまんかった】
Name: 縄口圭心◆52f18317 ID:1cf981f1
Date: 2010/06/17 19:57
 お初の方はお初です。おこしやす。
 と申しましても、拙下に京都人の雅な血が流れているわけでもなく、でんがなまんがな、大阪人サラブレッドで御座いますでんがな。

 人類共通の無意識と堪忍袋に働きかけるような鬱陶しい茶番はそこそこにしまして。



ここに誘った某友人が「調子乗りすぎwww」と、拙下の…ああもう拙下とか面倒臭い。俺で良いや、俺で。
まあ、ともかくこの板の状態がよろしくないと。

せめて前書きをどげんかせんといかんというわけでして。



淡白に前書き!

・チラシの裏から始めろと言われました!ごめんなさい!
・一話がMixi日記版の三倍濃縮した文章量!正直、暇つぶしに読むには長かった!ごめんなさい!もう読まれている方もいらっしゃると思うんで、今までのには手をつけません!次からは三倍希釈します!
・そんな感じのトコロ含めて、評価感想批評カモン!

それでは失礼しました!



[19605] BLACK OR WHITE?~プロローグ~
Name: 縄口圭心◆52f18317 ID:1cf981f1
Date: 2010/06/16 21:30
木という木が影を落とし、人を拒むかのように森は闇に覆われている。

差し込む光と言えば、空であざ笑っている紅い満月。フクロウが何かを警告するかの如くフゥフゥと鳴き、遠く、狼の嘆き声が山々にこだまする。

パチパチッ

薪の弾ける音。そこに男が独り。いや、正確に言えば、更に季節はずれの蛍が一匹、その男にまとわり付いている。

男はボロボロのロングコートと帽子をまとっていた。右手に白い手袋、左手に黒い手袋をそれぞれ着けて、腰にはランタンと黒銀の銃、隣にはそこそこの荷物を置いている。男は旅人であった。長い道中、疲れたのであろう。焚き火に当たりながら、体を縮ませて眠りにつこうとしていた。

パチパチッ

闇は深い。ランタンはおろか、焚き火の光、果てはタタラの焔ですら食い殺す。それは、明らかに他とは違う「闇」。意思を持ち、那由多の彼方に生命を連れ去る、ペテンの様な闇。なぜか、ただ蛍だけが、それに惑わされず煌々と光を放っている。

「世界が黒と白に分かれるなら、今は黒の時、朝は白の時だ」

昔、戦争があった。

世界を白と黒にわけた、モノクローム・ウォー。白魔導士たちは天使と、黒魔導士たちは悪魔と契約し、血で血を洗う戦いを千年続けていた。今でこそ両者は和解し共に歩む道を選んでいるが、つい十年ほど前には、互いを憎みあい、人として扱わなかったものだ。

「なら、灰色は・・・」

忌わしい記憶。真っ赤の部屋。錆び付いた鉄の様な臭いが鼻を突く。今のそれよりも小さな両腕には、更に小さな、純白の少女・・・

パチッ

瞬間、全てが静まり返った。夢と現実の狭間にまどろんでいた旅人は、はっと目が覚める。蛍が慌てた様に、彼の周りを喧しく飛び回った。

パキ、ガサガサ

何かが来る。彼は黒銀の銃を左手に、ランタンを右手に持った。蛍は相変わらず、飛び回っている。

ガササッ!

「誰だ」

音の方向へランタン光が走る。その先にそれはいた。

「ひ・・・と?」

人の声、それも少女の声だ。光の先には、年端も行かぬ娘が、一人たたずんでいる。小奇麗な服を着た、長髪の女だ。

「良かった・・・。皆とはぐれた時はどうなるかと思いました。あの、旅の御方ですか?よろしければ、ご一緒させてもらって・・・」

キュインッ

澄んだ音が空気を裂いた。黒銀の銃口からは硝煙が出ている。はらり、と少女の髪が落ちた。後ろを見てみると、木には新しい穴が出来ている。

「な・・・何を・・・」少女は、糸が切れたように腰から砕け落ちた。

「下手な芝居はやめろ、化け物」

「え・・・?」

「なるほど、肖像画とソックリだな。クリスティーナ嬢に。当然だな。中身だけ喰って、皮を被ってやがるんだからな。」

「あ・・・あの・・・、何をおっしゃって」困惑の表情。男は気にも留めず続ける。

「彼女の失踪からこの森で、連続失踪事件が起こっている。あらかた歩き回ってみたが、何人分か骨があった。その中で、お前だけが生き残ってるのは不自然だとは思わないか?」

「そ・・・んな、貴方はとんでもない勘違いをしています!」もっともな反応。だが旅人は続ける。

「それにその服。何日も森にいたにしては、ほつれどころか泥もついていない。顔色もだ。森での生活を知らない貴族令嬢にしては顔色が良すぎる。それに・・・」

「貴方・・・貴族に向かってその口の訊き方・・・無礼です!」

「それに、黒い魔力がプンプン臭うんだよ。クソ悪魔」

「!?」

・・・わずかに沈黙。森中の生命が息を呑む。

「・・・くはっ、くくく・・・アハハ・・・」

少女の表情が冷徹に、残酷な薄ら笑いを浮かべた。先ほどまでのあどけなさは瞳から消え失せ、代わりに邪悪なものが宿っている。

「貴様ァ、何者だァ?」

人を見下した目、笑い。それがふさわしい顔。彼女の中で何かが吹っ切れた。

「白導教皇庁、対魔導災害駆逐部隊所属、クロード=スティグマン。貴様を消す男の名だ。」


「ほほう、教皇庁ときたかァ・・・。弱ったなァ、そこまでばれてると・・・」

と、少女の背中がみきみきと盛り上がっていく。彼女の中身はもう「クリスティーナ」ではなく、異形の化け物。・・・悪魔。

「貴様を喰うしかないじゃないかァァ!!」

「中身」が姿を現した。あの少女の中にいたとは思えない巨体。龍の如く裂けた口に鋭い牙を覗かせながら、禍々しく笑ってるそれは、クロードの倒すべき敵。全ての元凶。

黒銀の銃を構えるクロード。

「馬鹿め!銃などが我に通用すると思うか!?」

悪魔はその長い四肢でもって、男に飛びかる。並みの人間には捉えられない脚力、力を持つ獣だ。イバラの鞭を思わせる一撃を食らえば、その先は目に見える。逆に、その生命力は人の手で尽きることは無い。だがしかし・・・

「普通の銃なら・・・な」旅人は微笑する。

キュイキュインッ!

二発の銃声。それは妖の額と胸を捕らえた。

「無ぅ駄ァァ!あ・・・!?」

と、着弾点より白い煙がごうごうと昇った。その量に比例して、化け物は見る見る弱ってゆく。ついには、森の枯葉の上に倒れこんだ。

「あで・・・?な・・・んで・・・?いっで・・・エェ・・・」

経験の無い苦痛、寒気。視界はぼやけ、次第に紅く染まる。悪魔には到底思いもよらない状況だった。あぁ、これが死か。闇に帰る時か。

「法儀礼済みの銀弾に、俺の白魔力を流し込んだ特別製だ。これに敵うのは神か魔王か・・・それ以上の馬鹿だ」

「ちっく・・・しょう・・・」

薄れゆく意識の中、哀れな獣が見た光景。紅の中、漆黒と純白の翼を広げながら、今まで喰らってきたどの人間よりも悲しい顔をした、灰色の魔法使い。

「き、さ・・・燃え・・・か・・・す」

化け物はいない。先ほどまでそれが横たわっていた場所には、ただ砂か灰の様なものが、さらさらと風に流されていた。

「・・・アーメン」

東の空に光が見える。今日もまた、白の時がやってきた。焚き火は消えている。クロードは何事も無かったかの様に旅支度を始めた。

「楽勝だったね、クロード」蛍が男に寄り添い、語りかける。いや、蛍ではない。白い羽に人間の姿・・・小さな天使である。

「黙れ、蚊トンボ。お前、何もしてないだろーが」男が気だるそうに返す。

「蚊トンボとは失礼ね。貴方だって私がいないと白魔法使えないでしょ?感謝してもらいたいくらいだわ」

「はいはい、わかりました。あり~がとう、ルナ」上の空で、心のこもっていない返事。

「むかつく~!なんだったら契約解消しても良いんだからね!だいたい・・・」

ルナが不満をたれているうちに、クロードは支度を終えていた。

「おい、置いて行くぞ」

「んぁ!ま・・・待ってよ!」

白と黒に分かれた世界。彼らはその狭間でさまよい続ける・・・



”BLACK OR WHITE?”プロローグ 完



[19605] BLACK OR WHITE? 2~魔封じの城の魔王女~
Name: 縄口圭心◆52f18317 ID:1cf981f1
Date: 2010/06/16 21:31
戦後十年。各地にもたらされた被害は甚大である。

それは、瓦礫の山や傷跡のように目に見えるものから、心の病のように目に見えないものまで。召喚された悪魔たちは地上を跋扈し、瘴気にさらされた天使までもが血肉を喰らう。それは、戦災という、新たな敵であった。

その中で、急速な復興を遂げる場所がいくつか存在する。

魔封石の採掘場である。

魔封石とは、その名の通り「魔を封じる石」だ。下級の悪魔や天使は、触れただけで命を落とし、あらゆる魔法を吸い取る鉱物。それ故に、魔法による攻撃は一切効き目が無い。

しかし、この石は物理的な攻撃に対しては脆い。更には、戦局を左右する代物であるため、敵地が所有する採掘場は徹底的に攻め落とされた。

ところが、終戦後は一転。各国境に設けられた不可侵領域の防衛や悪魔、天使よけのために需要が急増する。そのため国家を挙げての最優先復興対象に認定。今や、各国の主要都市になるまで発展したのである。

「・・・それで、何で俺たちがこんなトコまで来なきゃなんねぇんだよ?」

クロードが気だるそうに不満を垂れた。白導教皇庁、対魔導災害駆逐部隊に所属する彼にとって、このような町に訪れることはまず無いはずなのである。

「仕方ないでしょ。なんでも、悪魔が夜な夜な人を襲ってるらしいんだから。それに、私たちが一番近くにいたし」

クロードの契約天使、ルナがなだめる。魔封石の影響を避けるため、ランタンの中から。普段とは違うこもった声が響いてきた。

「つっても、今まで死者はおろか、怪我人もゼロ。中には、脅し返したら向こうが逃げ出したって話もあるじゃねーか」

荒事専門の彼には、本当に縁の無い話である。すると、ランタンから叱りつけるようにルナのこもった声。

「死人が出てからじゃ遅いの!どんなに下級でも悪魔は悪魔!いつかきっと、被害者がでるわ!わかってんのアンタ!?」

(ある意味、俺が被害者第一号の様な気が・・・)

「何か言った???」

天使は人や環境に対して敏感である。純粋であるが故、些細な変化が精神に影響するコトだってある。

「いや、別に。つうか、大体どうやってそんなの探すんだよ?こんなの、前みたいにおびき寄せるなんて無理だぞ?」

クロードの潜在魔力は部隊でもトップクラス。放射魔力は抑えられるとして、そんなビビリの悪魔が、銃を持った軍人を襲うとは思えない。そう思うのは当然のことだ。

「アンタね・・・資料見ときなさいよ、ほら・・・」

しぶしぶ送られてきた資料を見るクロード。石英画面の通信機を取り出し、映し出されたお堅い文章に目を通した。

この町の郊外には、戦前から魔封石でできた「魔封じの城」があったらしい。その城には強大な力を持った悪魔が封印されているとの伝説があり、地元の人間は誰一人として近付く者はいなかったそうだ。先の戦争で城は破壊され、現在も放置されたまま瓦礫があるばかり。その頃から悪魔は出現するようになっており、事件の発生現場はその城を中心とした円形状に分布している。

「なるほど・・・、この城に攻め込むってわけか」

「ピンポ~ン♪」得意げに答えるルナ。お前が調べたわけでもないだろうと思うクロード。

最後の方に、子供たちが悪魔を虐めて遊んでいるという情報もあったが、これは関係ないだろう。まったく、教皇庁の仕事はいつも真面目すぎる。

「とっとと終わらして、帰るぞ。だるい」

「もぅ!ちょっとはやる気出してよね!」



城までの道のりは、長年にわたり人が通らなかったせいか、草が生い茂っていた。それでいて悪魔が潜むとは思えないほど、程よく陽の光が差し込み、小鳥のさえずりが聞こえてくる。森林浴向けの、健康的な森とはこのようなものを言うのであろう。

「なぁ・・・ここに本当に悪魔がいるのか?スゲー拍子抜けだけど・・・」

「わ・・・私も自信がなくなってきた・・・かも・・・。でっ、でも一応城まで行こうよ」

正直、無意味な気がしてならない二人だが、ここまで来ては後戻りする気も起こらなかった。吹き抜ける風が心地良い。仕事というより、ごく一般的なピクニックという方が相応しかった。

(でも、デートみたいで良いかも♪)そう思うルナがいる。

「!」

この一歩を踏み出したとたん、二人に寒気が走った。空模様が怪しい。見る見る黒い雲が空を覆い、稲妻が天空を走った。

来る。

銃を構えるクロード。目の前には黒い煙のようなものが渦巻きながら、形を成してゆく。そしてそれはこちらに語りかけてきた・・・


「がおー。わらわは大魔王ルシファーの娘、リリム。魔界の王女なるぞー。がおー。命が惜しくば、ここから立ち去るのじゃー。がおがおー」

・・・なにやら気まずい空気が流れた。

二人の目の前に現れたそれは、黒い影のような、薄っぺらい幽霊のような悪魔であった。顔はまるで新聞を破いて穴を開けたような感じ。そのわりには女の子の様な声だ。大して魔力を持っているわけでもなく、威圧感すら微塵もない。あっけにとられる二人・・・。

「きゃははー。どうした?わらわが恐ろしいかー。逃げるなら今ぬ・・・今の内じゃぞー」

・・・噛んだ。

「さぁ、早く逃げぬと、お主らは、わらわの一撃を食らって、おぎゃーと叫びながら死ぬはめに・・・」

キュイキュイキュイキュイキュイキュインッ!

「オギャー!!!!」

クロードの銃が火を噴いた。オギャーと叫ぶ羽目になったのは悪魔のほうだ。全弾外れ。全く運の良い悪魔だ。

「きっ貴様、ななななな何をする!わらわを誰だと思うておる!?リリムじゃぞ!?ルシファーとリリスの間に生まれた魔界の・・・」

「うるさい黙れ。お前のせいで仕事が増えたと思うと、銀弾が六発も無駄になったと思うとイライラする。とりあえず死ね」

こうなると、子供の件もあながち嘘ではなさそうだ。間違いなく、子供より弱い。倒すのが可哀そうなくらいだ。

再び銃口を向けるクロード。今度は外さないように狙いを定める。

「ひっ、や・・・やめてたもれ!」

キュインッ! バシャッ!

手ごたえあり。銃弾は悪魔の心臓を捕らえた。着弾点を中心に、悪魔はバラバラに飛び散った。

「・・・なんか、殺す必要無かった気がする・・・」さすがのルナも、今回ばかりは悪魔を哀れんでいるようだ。

「下級でも悪魔は悪魔って言ったのはお前だろ?さぁ、帰って報告を・・・」

「待~て~!」

「!?」

なんと、悪魔は何事も無かったかのように元の場所にいた。確かに弾は命中して、吹き飛んだはず・・・。得意げに薄ら笑いを浮かべながら悪魔が言う。

「なぁ~んてのぅ。これはわらわの影じゃ。影を何回討とうが、わらわ自身を倒さぬ限り、わらわは死なぬぞ!きゃはは」

死なない相手・・・。弱いとはいえ、これほどの能力を持った敵に会うのはクロードにとって初めての経験である。しかし、ルナはあることに気付いた。

「なるほど、つまり本体を倒せば良いのね」

・・・あれ?・・・・・・

「し、しまったーーーーーーーーっ!!!わッ忘れるのじゃ!!」

「馬鹿だろ、お前。そうと分かったら、さっさと行かせてもらうぜ」

一時はどうなるかと思ったが、いや、きっとどうにもならなかっただろうが、口を滑らせてくれたおかげで一気に解決しそうだ。

「ま、待て!わらわの本体は強いのじゃぞ!魔封じの城に封印され、今でも身動きが取れないとはいえ、決して子供に虐められるまで弱っておらぬぞ!!」

「よし!情報の裏がとれた!じゃあな!!」

恐ろしく正直な悪魔のおかげで、いろいろと有益な情報を得たクロード。心なしか、足取りが軽い気がした。城の方向へ一直線に走って行く。

「んなぁーーーーッ!止まってたもれーーーーッ!!」

断末魔の如き叫びがこだまする・・・



二人は城の跡地に到着した。真っ白な魔封石の瓦礫が戦争のすさまじさを物語っている。陽の光が反射して眩しい。

「はっ、はぁ・・・くうっ!!」

ルナの様子がおかしい。走ったわけでもないのに息が切れているようだ。

「おい、大丈夫かルナ!?」

「こ・・・ここの魔封石の純度・・・高すぎる・・・げほっ!!耐え・・・られない!」

「わかった!お前は離れてるんだ、良いな!?」

ルナの入ったランタンを魔封石の影響が出ない場所まで置きに行くクロード。顔色が悪い。が、呼吸は落ち着いたようだ。

「こんなとんでもない魔封石に囲まれて、生き続けている悪魔・・・」

背中に冷たいものが走る。ヤツは間違いなく大悪魔。それも魔王、サタンに匹敵するほどの・・・。

「見つけたぞ・・・やっと、見つけたぞ・・・」

クロードの目。いつもなら、冷静に物事を見つめている青い目が、新しいおもちゃを見つけた子供のように輝いていた。



再び城へ向かう。契約天使と離れると大した魔法は使えなくなるが、どのみち、これだけの魔封石だ。意味はない。

城の中心部には、まだうず高い壁が残っていた。おそらく、ここに本体はいる。

「どうした?わらわは逃げも隠れもせぬぞ?」

影のそれと同じ声がそこから聞こえてきた。幼い。まるで子供の声だ。声のする方へ、瓦礫をぺキパキ踏み鳴らして進んでいく。

「待っておったぞ。悪魔祓いの魔法使いよ」

そこにいたのは五歳くらいの、黒髪の少女だった。首、両手、両足を鎖で繋げられ、身動きがとれないようだ。

「嫌に落ち着き払っているな。これから死ぬかもしれないんだぞ?」

「フン、わらわとて魔族の長じゃ。最期くらいは示しをつかねばなるまい?」

その雰囲気は、影の時とは打って変わって「貴族」または「王族」を思わせる、威風堂々たるものだった。力強いその瞳は、まっすぐにクロードを捕らえている。汗一つかかない。彫刻と見間違うほどだ。

「しかし、わらわも貴様ら人間と寸分違わぬ魂を持っておる。死にとうないのが本音じゃ。そこで、一つ取引をしたい」

「ん、何だ?」

「ときに貴様、”燃えカス”じゃな?」

「!!」

燃えカスとは、すなわち灰。黒魔導士と白魔導士の間に生まれた混血を指す差別用語である。多くの場合、悪魔と天使の両方と契約が可能で、黒白両方の魔法が使える。クロードはまさしく、この燃えカスに当たる魔法使いであった。

「知っていたのか?」

「弱ったとはいえ、わらわは魔族じゃ。白でいくら誤魔化そうとも、黒は灰色となって残るものじゃ」

リリムは氷のように冷たく微笑んだ。まるで、世界の真理を見つめているかのような瞳。なるほど、目は本物のようだ。

「で?取引ってなんだ?」

「わらわが貴様の契約悪魔になるのを考えてやっても良いぞ。その代わり、わらわを自由にしてたもれ」

「・・・だろうと思ったぜ」

おもむろにクロードは少女の自由を奪っている鎖を調べだした。鍵穴のようなものは無く、代わりに、隅々まで呪文が刻まれている。白魔導系の封印のようだ。

「この手の封印は内部からの力でしか壊せないな・・・。ちょっと待ってろ」

リュックをガサガサ探る。と、黒い首輪の様なものを取り出した。それをリリムの首につける。

「ん・・・ちと苦しいぞ。何じゃこれは?」

リリムが不満そうに言った。

「今から俺の黒魔力をお前に注ぐ。これはその媒介だ。それで封印は破れるはず。
黒魔術はまだコントロールが効かない。気をつけろよ」

「フン、誰に向かって言うておる?」

クロードは首輪に左手をかざした。黒いオーラが怪しげに放たれる。城を起点に、四方八方へ溢れ広がるオーラ。その全てが、幼い体に全て注がれていく。

「嗚呼、これじゃ。この力、悠久の昔より待ち望んだ・・・はぁぁぁ・・・」

少女であった体が、次第に成長していく。しなやかに伸びた四肢。女らしさを存分に放つ体。白く、透き通るような肌。男を誘惑する表情・・・。リリムの所業に相応しい容姿である。

「はぁぁぁ・・・この姿は二百年ぶりじゃ」

二百年前までその姿を維持していたのか!?これはとんでもない大物だ。

「さぁ、もう鎖を壊せるはずだ」

リリムが拳を強く握る。と、次の瞬間には鎖が蜘蛛の糸のように引きちぎられた。リリムが自由になった瞬間である。彼女は嬉しそうに黒い翼を広げ、空を飛び回った。

「きゃはは!自由じゃ!自由じゃ!!わらわを縛り付けるものなどもういない!!
空も海も大地も!
全て!
わらわのものじゃ!!」

「・・・それはそうと、俺との契約はどうなったんだよ!?」

黄昏になりつつある空に向かって叫ぶクロード。この取引は、クロードとリリムの契約によって終結する。

「おお、そうじゃった。貴様の名は?」

「クロードだ!クロード=スティグマンだ!!」

「クロードか・・・貴様はまったく・・・



何と馬鹿な男よのう!!!」

「な・・・っ!?」

「すっかり騙されおって・・・。わらわほどの大魔族が人間に使役されるとでも思うておるのか!?きゃはは!!傑作じゃのう!」

「お前、魔族の誇りはどうした!?約束を守らないのは恥じゃないのか!?」

「何じゃそれは?人間の思い描く魔族像など知らぬわ!それにわらわは”契約を考えても良い”と言っただけで、”契約してやる”とは一言も言うておらぬわ!!きゃはは!礼を言うぞ、クロード。そして死ね!!」

リリムの策略。手のひらに魔力を集める。木々が恐怖するかのようにざわつき、大地は悲鳴を上げている。これほどまでの魔力・・・。魔封石に守られているとはいえ、それはクロードの命を奪いかねない、地獄の業火。

「出来れば穏便にことを運びたかったんだがな・・・。残念、それも来ると思ったぜ」

クロードが左手をリリムに向けた。

「戻れ、俺の魔力!!」

すると、リリムの体からごおっと黒いオーラがあふれ出した。それはそのままクロードの左手に向けて集結していく。それに伴って、リリムの体が、元の少女に戻っていった。

「な・・・力が抜け・・・」

とうとう、最後の一滴まで魔力を奪われた。空への飛翔を可能にしていた翼が消え、少女に戻ったリリムが真っ逆さまになって落ちていく。

「きゃあぁぁぁあぁぁぁーーーーーーっ!!!!」

ゴシャっ

生々しい音が撒き散らされる。人間なら死んでいるが、悪魔であるなら・・・。どちらにせよ、想像を絶する激痛を伴う。

落ちた方向へ向かうクロード。瓦礫をぺキパキ踏み鳴らして、血まみれになった魔族の長の元へ、ゆっくり、ゆっくり近付いていく。

「・・・う・・・うぁ・・・ああぁぁああーーーーー!!!!痛い!痛い!いたい!イタイ!・・・」

クロードの足が少女の頭に乗る。屈辱。その感情が彼女を支配した。

「貴様ぁ!!な・・・にをしたぁ!!??」

「お前に着けた首輪はな、魔力を与えるための媒介でもあり、魔力を奪うための媒介でもあったんだよ。
さてと、これからどうするか・・・指先から切り刻むか、臓腑を一つずつ見せてやろうか・・・」

悪魔以上に悪魔・・・。リリムはこの時、生まれて初めて恐怖を知る。

「嫌・・・じゃ。たっ助けてたもれ!!何でも・・・そうじゃ!今度こそ契約をしてやろう!!わらわの力があれば・・・これから・・・!!」

つい先ほど罠にかけた男に助けを求める。そこに王の威厳はなく、ただ、死を恐れた生き物がいるだけであった。

「力?人間の子供に負ける今のお前に力があると思うか?」

クロードの足が次第に少女の頭を圧迫する。

ギリ ギリ ギリ ギリ ・・・

嫌じゃ・・・こんな・・・無様な死に方!!

止めどなく頬を流れる熱い涙。悔しさ、恐れ、怒り・・・様々な感情が混ざった涙はこんなに熱いものなのか。

ギリ ・・・

止まった。生きている。状況が飲み込めず、視線はクロードへ向かう。

両手を突き出している。ただ、左手には黒銀の銃を持ったままであった。

「・・・?」

「右手を差し出すなら、俺は喜んで右手で迎えよう。左手を差し出すなら、俺は喜んで左手で止めを刺そう。
お前が選ぶんだ」

西の空が赤く染まり、斜陽が二人の影を長く長くしてゆく。太陽は完全に沈みきった・・・



翌朝・・・

「ちょっとクロード、コイツ誰よ!?」

ルナはすっかり元気になって、いつものようにクロードをどなりちらしている。そこには見慣れない、黒髪の少女がいた。

「コイツとはなんじゃ無礼者。わらわはリリム、魔族の王女じゃ。貴様プリンシパリティーじゃな?フン、下級第一位天使の分際で大きな口をたたきおるのう」

「~~~ッ!!クロード!ねぇ、これどういうこと!?」

「何って、契約した」

・・・はぃ・・・?

ありえないし。確かにクロードは混血だけど私というものがあるわけで、いまmmまでもうまくいってtttたし・・・あれあれあれ???

突然のことに、ルナ処理不可能。

「良いか!?わらわは仕方なく貴様に付いて行くだけじゃ!貴様はいつか殺す。絶対殺すぞ!分かっておるな、人間!?」

「はいはい、やってみろっての・・・」



”BLACK OR WHITE” 魔封じの城の魔王女 完



[19605] BLACK OR WHITE? 3~クロード暗殺計画記録~
Name: 縄口圭心◆52f18317 ID:1cf981f1
Date: 2010/06/16 21:33
今宵の月は美しい。嫌なことを何もかも忘れさせてくれるようじゃ。それにこの森の闇の深さ・・・なかなかじゃのう。しかしじゃ、焚き火の炎とこの男が、わらわの安息を許してはくれぬ!

わらわはリリム。ルシファーとリリスの間に生まれた、魔界の長になるべき者。・・・そう、わらわは王となるべき器なのじゃ!なのに、何故こんなことになっておる・・・

「リリム。腹減った。飯食わせろ」

こやつはクロード。横暴にも汚い手を使うて、わらわに契約を・・・あまつさえ、奴隷として使役しよる男じゃ。良いか!わらわはリリムじゃ!魔界の王族なのじゃぞ!?何故このような羽目になるのじゃ!?殺す!絶対殺す!!この首輪さえ無ければ・・・

キュイン!

「うおぅ!!!?」

こっ、こやつ、射ちおった!?

「へ・ん・じ・は?」

こやつ・・・どうあってもわらわを支配したいようじゃな。じゃが・・・

「料理など、出来るわけがなかろう!?生まれてこのかた、包丁すら握ったことがないのじゃ!!」

誰が貴様のために料理などするものか!・・・いや、実際できないのじゃが。これで納得する・・・

キュイン!

「うおぅ!!!?」

「返事は、”お願いですから作らせてください、ご主人様”か”無能な私を墓穴に埋めてください、ご主人様”だ」

・・・理不尽じゃ・・・。理不尽じゃ!理不尽じゃ!!血も涙も無いのか、こやつ!?涙が・・・出てくるわっ!!

「クスクス・・・あんまりリリムを虐めちゃ可哀そうよ、クロード」

「!!・・・貴様!笑うたな!?プリンシパリティーの、下級第一位の分際で!!わらわを笑うたな!?」

「うふふ・・・あっかんべ~、だ!」

ルナ・・・。今のわらわよりチビのクセに、大きな口をたたきよる。にしても、子供じみてはおるがムカつくのう!今は力が足りんが、こやつも必ず殺す!!

「出来ぬものは出来ん!!どうすることも出来んじゃろ!?」

不毛じゃ・・・。こんな言い争い・・・。

「ニスロクでも召喚すればいいじゃねーか!馬鹿!」

「・・・あ、なるほどのぅ!じゃがしかし・・・」

ニスロク・・・懐かしい名じゃのぅ。かのベルゼバブ殿の臣下で魔界一の名料理人。鷲頭の、元プリンシパリティーの堕天使じゃ。ヤツなら料理などわけないじゃろうが、わらわはベルゼバブ殿がどうも苦手でのぅ・・・。しかし、こやつ、悪魔に詳しいのぅ・・・

キュイン!

「うおぅ!!!?」

「さっさとしろ」

「わ、わかっ・・・」

キュイン!

「うおぅ!!!?」

「私は料理も出来ない能無しです。どうかニスロクを召喚させてください。お願いです、ご主人様。・・・は?」

・・・・・・

「わわわわ私ははははぁー、り、料理も出来ない・・・ののののののの能なな無しです・・・!!どどどどどどうかににににニスロクをしししししししょうか召喚んさせせせせてください・・・!!うぉ、ん・・・おおお願いでででです・・・!!ぐぉ、ぐぉぐぉぐぉご主人ささ様ぁぁぁ・・・!!」

「よし、ギリ合格な」

「はぁ、はぁ、はぁ~・・・」




・・・・・・殺す。

殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す!!!!

殺す!!!!

殺す!!!!

今すぐ殺す!!!!!!!!

「どうしたの?さっさとやっちゃってよ、新人さん?」

フン、生意気言うてられるのも今のうちじゃ!!

「・・・しばし、待ってたもれ」

召喚円は・・・こうして、こうして・・・ここは・・・多分こうじゃったはず・・・。あぁ、違うた!ここはこうじゃ!

「おい、大丈夫か?こんなでたらめな召喚円、見たことないぞ?」

「当たり前じゃ。人間界には伝えられておらぬ、魔界秘伝の召喚円じゃぞ。悪魔同士で使うものでのぅ、召喚時の代償が必要ないのじゃ」

「便利ね~。天界にはそんなの無かったわ」

完成じゃ。さて・・・



「ニスロク~!わらわじゃ!リリムじゃ!ちと来てたもれ~!」



「・・・なんか、もっとすごい呪文とか期待してた」

「私も・・・」

円の中心から黒い霧が噴出されておる。魔界の瘴気の中に、ほんのり香る馳走の匂い・・・。間違いなくニスロクじゃ。

「これはこれはリリム様。お久しゅうございます。姫様につきましては本日もご機嫌麗しゅう・・・ってあれ?姫様?どこにいらっしゃいますか~?」

「・・・下じゃ」

「下・・・?って・・・え?」

・・・・・・ニスロクがでかい・・・じゃなくて、わらわが小さいのじゃ。

「・・・あまりジロジロ見るでない・・・」

「どっ、どうなされたのですか!?こんなに可愛らしくなられて・・・」

最もな反応じゃな・・・。じゃが、本当のことを話して赤っ恥をかくのは癪じゃ!

「長い話でのぅ・・・。それよりニスロクよ、この者たちに馳走してやってたもれ!」

「はぁ・・・かしこまりました。しかし、わたくしはこれからベルゼバブ様の食事を・・・」

「良し!頼んだぞ!!」

「えぇ~、そんなぁ~!わたくし本当に・・・」

「貴様ら!ニスロクは調理中の姿を見られたくないとのことじゃ!決して覗くでないぞ!?」

「お・・・おぅ・・・」

「わかった・・・けど・・・」

「良し!行くぞ、ニスロク!!」

「いやあの、姫様・・・」




草むらの方に回って・・・。うむ、ここなら声も届くまい。

「姫様・・・わたくし時間の方が・・・」

「うわぁぁぁーーーーーん!!ニスロク!!助けてたもれーーーーーっ!!」

「エェ!?い、いかがなされました!?」

「あやつら、わらわを騙しよって無理やり契約させたのじゃ!その上、わらわを奴隷のように扱いおって・・・。力も奪われて抵抗も出来ぬのじゃ!!」

「さ、左様でございますか!?ルシファー様がお聞きになられたら大層お嘆きになりますよ!!」

「ちっ、父上はわらわに溺愛じゃから良いが、母上には黙ってたもれ・・・。お咎めが怖いのじゃ・・・。そんなことより、あやつらから逃れるためにも、お主の協力が必要なのじゃ!!・・・お主、人間にとって毒なもの・・・特に、死に至る毒は持っておるか?」

「勿論でございます。近頃、ベルゼバブ様は普通の食事に飽かれまして、毒を調味料に使った料理に凝っておられるのです。そのため、古今東西ありとあらゆる毒をそろえております。不死の実を召し上がっていらっしゃいますので、死の心配もございませんし」

・・・あの蝿食いしん坊ゲテモノ魔王め。さすがは七つの大罪、食欲を司るだけのことはあるのぅ。じゃが、助かったぞ!!

「ならば、その料理を出すが良い!主君の料理も作れる上、わらわも自由になれる!一石二鳥じゃろ!?」

「かしこまりました。あ、ですが昨日の残りがございますので、そちらでよろしければ・・・」

「良い良い!早く行くのじゃ!!」

「では、後ほど・・・」



さぁ、最期の晩餐じゃぞ・・・クロード・・・!!



・・・

「あ、戻ってきた!・・・あれ、ニスロクさんは?」

ルナめ・・・。わらわを呼び捨てにしておいて、ニスロクには「さん」を付けおるか!?ニスロクめ・・・魔界に戻った時は覚えていろ!!

「料理を取りに魔界へ戻ったんじゃ。じきに戻る」



・・・

「遅いな・・・。おい、どういうことだ、リリム?」

「さ、さぁな!!やつは昔からどんくさいものでのぅ!!ははは~」

何をしておるニスロク・・・!このままでは、わらわが殺されかねんぞ!?



!・・・この香りは?

「いやぁ、お待たせしました!温め直したのは良いものの、味付けが気に入らなかったもので・・・」

「ニスロク、遅いぞ!客を待たせるとは貴様、それでも料理士のはしくれか!?」

おかげで、わらわはこの空気と戦う羽目に・・・!!

「いやぁ、面目ありません・・・」

(無味無臭の毒を加えておきました。これで気付かれないはずです)

(おぉ!でかしたぞ、ニスロク!!主君の食事もあるじゃろう。もう戻っても良いぞ)

「それでは、ニスロク特製シチュー、どうぞごゆっくりご堪能くださいませ。御機嫌よう・・・」




「ニスロクの料理か・・・。こりゃ、期待できるな」

「良い匂いね!早く食べましょ♪」

フン、そう言ってられるのも今のうちじゃ!生意気に銀食器など使いおって!!ますます鼻につくやつら・・・

・・・ん?銀食器!?

「んなぁーーーーーーっ!!止めてたもれーーーーーっ!!」




「・・・ん、スプーンが黒ずんでるけど・・・?」

「リリム、まさかあんた、私たちに毒を・・・!?」

う・・・迂闊じゃった!銀は毒に反応しやすいんじゃった!!食器もこっちで指定すれば・・・!!

「な・・・何のことかのぅ?わら、わらわは知らぬぞ!?ニスロク・・・そうじゃ!!ニスロクのヤツが勝手に・・・!!」

キュイキュイキュイキュイキュイキュイン!!!!

「うぎゃぁーーーーーーっ!!」

「・・・今日のメインディッシュは・・・リリム・ミート・ボール。・・・異論は一切認めん」

「ま、待てクロード!!誤解じゃ!!本当にニスロクが・・・!!」

「問答無用。ミンチになって千回死ね」

キュイキュイキュイキュイキュイキュイン!!!!

「ぎゃぁぁぁぁあああああぁぁーーーーーーーッ!!!!!!」





・・・暗殺記録第一回目

父上、母上、今日はなんとか生き延びました。逆さ吊りと鞭打ちだけで済んだのが不思議なくらいです。
今回は失敗しましたが、いつかやつらを殺して、魔界に戻ります。

そのときは、「頑張ったね」って頭を撫でてください。抱きしめてください。ついでにニスロクを殺してください。

じゃないと、もう生きてゆけません・・・。

早く帰りたいです・・・。



BLACK OR WHITE? 3~クロード暗殺計画記録~ 完



[19605] BLACK OR WHITE? 4~霧の都の切り裂き魔~
Name: 縄口圭心◆52f18317 ID:1cf981f1
Date: 2010/06/16 21:34
その女は草木も眠る真夜中にやって来た。

全身をフード付きの真っ黒いコートで覆い、夜中であるにも関らず丸いサングラスを掛けている。雪のように白い肌はこの世のものとは思えない美しさ。右肩には彼女の背丈に合った黒い棺桶らしきものを携えていた。

霧がかかる中、彼女はその街一番のホテルに入った。

「いらっしゃいませ・・・あ・・・」

棺桶が支配人の目に留まる。

「スウィートで。無期限滞在を・・・」

はっ、と我に返ったように支配人が返事をする。

「お・・・お客様、当ホテルといたしましては、そのようなお荷物はちょっと・・・」

「あ、すみません。これ、ギターケースなんですよ」

床に棺桶を降ろし、開けて見せる女。なるほど確かに、中にはクラシックギターやら楽譜、譜面置きにメトロノームなどなど、ギターに関するものが入っていた。その他、最低限旅行に必要な物がちらほら。だが・・・

「申し訳ございませんが、たとえギターケースでございましても、そのような・・・」

「・・・何か・・・問題でも?」

女の紅い瞳が、彼の青い瞳をじっと見つめている。不可思議な感覚。まるで、脳の裏側まで見透かされるような・・・男は体の自由を失っていた。

「ノー・プロブレム・です・・・」

「の・・・ノー・プロブレム・です」

支配人の口が、女の言った通りに動いた。その目は虚ろで、先ほどまでの紳士的なものは消えている。

「あら、そう?じゃあしばらくお世話になりますよ。・・・これ、気持ちばかりですが・・・」

そう言って、支配人の手にチップを握らせた。女が去った後も、男はそこに呆然と立ち続けていたという。





・・・

「今月に入って、もう十三人目だぞ!?」

「対策本部は何をやっている!?」

王立国教会議・・・白と黒、どちらの教皇庁にも属さないこの国独自の政府機関である。

この国で、長らく話題をさらっている出来事があった。全国民を震撼させた、その者の名は・・・

「切り裂きジャック・・・一体何人の命を奪えば気が済むんだ・・・」

その名を聞いて、知らぬ者などこの国にはいない。霧の都に現れた、連続殺人鬼である。被害者は一様に、腹を切られ、内臓を引きずり出され、血液を搾り取られた状態で死亡していた。

犯行の手口からして、吸血鬼が犯人である線が濃厚と見られている。被害者を吸血鬼として甦らせないために、血の一滴まで吸い取り、更には再生不可能にまで痛めつける・・・。吸血鬼を、自身を良く知る者の犯行。

「フン、吸血鬼どもを保護なぞしておるから、このような事態になる」

「キルスティン卿、それは人権侵害ですぞ!」

先の戦争によって急増した吸血鬼。戦争に勝つため、国のために体を売った者たち。かつては黒側に属していたこの国で、彼らは最大の被害者として治療、生活保護をうけている。

「報告すべきことがあります」

対策本部長、マーチャーシュ=ヘルシングが論争に割って入る。

「ヘルシング卿、報告したまえ」

ヘルシング卿は、得意げに紙を取り出した。この国への出入国記録である。

「件の連続殺人事件が始まる前日の出入国者の記録です。この・・・アルカ=ティープスという女・・・吸血鬼、である可能性が高いとみました」

一瞬の沈黙、そして会議室が騒然となる。

「何故、そのようなことが言える?」

「目撃者の証言によると、彼女はまるで、陽の光を避けるように全身を黒いコートで隠し、サングラスまで掛けていたとのことです。更には、巨大な棺桶らしき物を担いでいた・・・。吸血鬼は、自分の生まれた土地の棺桶の中で眠ると聞きます。わずかに覗かせる顔も、陽に当たったことも無いような白だったそうです」

吸血鬼・・・かつてこの国を襲った危機が、再び来襲した。

「まさか、伯爵では!?」

「それは有り得ません。我が偉大なる先祖、エイブラハム=ヴァン=ヘルシングが確実に、一切の生命を絶やしました」

ヘルシング家は代々続くヴァンパイアハンターの家系。かの悪名高いドラキュラを倒した英雄の家系が一。それ故に、彼は対策本部長に立候補したのである。

「・・・それはそうと、つきましては議長、彼女を重要参考人として拘束する許可を願いたいのですが・・・」

「しかし・・・だな・・・」

何の確証も無しに動くわけにはいかない。

「た・・・大変です!!」

男が一人、扉を開けて走りこんできた。あまりに急いでいたためか、息を荒げて膝をついてしまった。一同、静まり返ってその男の方を向く。静寂を破る議長の一言。

「ジェファーソン卿、今は会議中だ。混乱を招くような行動は・・・」

「被害者が・・・また一人被害者が出ました!今度は犯人の目撃情報もあります!!」

「!?」

犯人の目撃情報・・・。今まで何の進展も無かった事件に決着をつけうる情報!皆、息を呑んだ。マーチャーシュが問いかける。

「それで?犯人はどのような・・・?」

「全身黒尽くめの、色白の女です!真夜中だというのに、サングラスを着けていたそうです!!・・・被害者の血液を・・・舐めて・・・いたそうです!!」

「!!」

事件の点と点が、線になった。アルカ=ティープスが犯人であることは疑いない。

「ヘルシング卿、拘束とは言わん。発見次第射殺しろ!裁判などと悠長なことは言ってられん!殺られる前に殺るんだ!!」

「了解しました・・・」

マーチャーシュの顔から思わず笑顔がこぼれる。不謹慎であるのは承知だが、これで何もかもが決着するのだ。その一歩一歩を踏みしめて、ゆっくりと会議室を後にした。




・・・

「・・・良い月夜ね」

ホテルのスウィートから、女は都会の夜景に酔いしれていた。霧深く、街の灯は確認できないが、月明かりだけは、優しく夜空にある。彼女は人のそれよりも広い記憶の海から、始まりの日のことを思い出していた。寝巻きを着て、ワイングラスを片手に、紅い液体を口にしながら・・・。

あの日・・・

命を落としかけていたところを助けてくれたのが、彼女のマスターだった。オスマンの進行にも負けず、国を守り続けたルーマニアの英雄。彼が、その永久とも言える命を落としたこの地にいること・・・、なんともいえない感覚が、全身に満たされる。

「マスター、貴方は最期まで勝手過ぎます・・・」

私から太陽を奪ったマスター。私に永遠をくださったマスター。私に黙って旅に出たマスター。私に黙って消えたマスター。

「これは私の罪なのでしょうか?それとも、私をこんな体にした、貴方の罪?」

遠い昔、まだ幼かった彼女。男を追ってたどり着いたこの霧の国で、無理やり老人の血を吸わされて・・・

・・・よそう。永遠を手に入れた私でも、答えを見出せるはずなんてない。

それに、四年前に来た彼が言っていた。「過去に縛られるなよ、今できることは何か考えろ」と・・・。

自暴自棄になっていた私の心に、光を差してくれた・・・


バラララララララララッ!!バラッ!!バラララララララッ!!


機関銃の音が響く。弾は、彼女の部屋に向かって放たれていた。

「良し、突入しろ!!」

銃を構えた軍人たちが、どっと部屋に流れ込む。部屋には大量の血。黒い棺桶が宿泊客を物語っている。

ところが、部屋に女はいない。棺桶の中はもちろん、シャワールームにも。支配人を問い詰めて、客の出入りは確認済みだった。女は部屋にいたはずだ。何よりも赤黒い血がそれを証明している。

「ちっ、化け物め!探せ!まだ遠くには行っていないはずだ!!」

「棺桶がある以上、ここに戻ってくる可能性は十分ある!!お前たちはここに残っていろ!!」

静かだったホテルが騒がしくなった。

・・・

「く・・・はぁっ・・・!まったく・・・手荒い歓迎がお好きなようで、ジョンブルって人たちは・・・。ツゥッ!・・・おかげで何発かイイの食らっちゃったよ・・・」

アルカはいつの間にかホテルの屋上にいた。寝巻きはボロボロになって、血で紅く染まっている。彼女は夜族、銀弾は彼女の体を蝕む。

「せっかくのワインが・・・それにこれ、お気に入りだったんだけどなぁ・・・」

と、寝巻きを脱ぎ捨てると、体を黒い霧で包んだ。霧が晴れると、彼女は黒いスーツを身にまとっていた。こういう時、吸血鬼の変化能力は便利である。

「さっきのは対策本部か・・・なるほど、そういうこと・・・」

彼女の体から、漆黒のコウモリが一匹、また一匹と飛んでいく。大群のコウモリが、ある場所を目指して一直線に飛んでいく。霧に消えてゆくコウモリたち。ホテルの屋上には、彼女が脱ぎ捨てた血だらけの寝巻きだけが風にたなびいていた。




・・・

「これで良かったんですか、ヘルシング卿?」

「あぁ、よくやってくれたな、ジェファーソン卿。これで切り裂きジャック事件は解決。あとは、私が国外へ逃れるのみだ」

人気の無い路地裏。霧が一切の進入を拒む中、街灯の元にいたのは目撃情報を報告したジェファーソンと対策本部長のヘルシングであった。

「そ・・・それでは、私に・・・永遠の命を・・・!!」

「あぁ、そうだったな」

ダンッ!!

銃声。ヘルシングの手には拳銃が握られ、目の前にいるジェファーソンの額を貫いた。倒れこむジェファーソン。

「これで、真実を知る者は私一人・・・。私の血を現場に残して、計画は完了する・・・」

「へぇ?それでマーチャーシュ=ヘルシングは死亡。堂々と国外逃亡ってわけね・・・」

「ッ誰だ!?」

声のするほうを見ると、コウモリの大群が渦を巻いて飛んでいる。一匹、また一匹とその数を減らしていくコウモリ。やがて、霧の中から黒いスーツの女が現れた。色白の顔を微笑ませて・・・

「アルカ=ティープス・・・!?」

「そうです。貴方のご依頼で黒導教皇庁から派遣された、アルカ=ティープスです。・・・驚いているようですね。残念ながら、神祖より賜ったこの体、並みの銀弾では滅びませんよ」

あの銀弾の雨を耐え抜いた!?「計画」には無いシナリオに困惑するマーチャーシュ。

「馬鹿な・・・どうやってここがわかった!?」

「血の匂いです。人はそれぞれ特有の血の匂いがあります。しかし、私たち吸血鬼は、それまでに吸ってきた血の匂いを全て記憶するため、複雑かつ濃厚な血の匂いがするんです。その匂いをたどったら、ここに着いたんです」

「本当か?なら切り裂きジャックはここに・・・?」

「切り裂きジャックは貴方です」

「!?貴様・・・」

「貴方は隠していた・・・。長い間、自分が吸血鬼になったことを。当然ですよね。吸血鬼を追う者が吸血鬼になったなんて、冗談にすらならない。血も吸わず、太陽の下で、人間として振舞うのは大変だったでしょう。
しかし、限界が来てしまった。
一般人を襲って血を吸ってしまった。
被害者が吸血鬼として覚醒すれば、証言でばれる上、捕まってしまう!
そこで貴方は吸血鬼として覚醒しないように血を吸い切り、内臓もズタズタにした。切り裂きジャックとしてね・・・」

「何を・・・馬鹿なッ!?」

「私を呼ぶ前は、遺体を燃やして証拠隠滅をしたんでしょうね。
しかし、この生活には限界がある。
そこで、全ての罪を私になすりつけるため、行方不明者捜索及び原因究明の名目で教皇庁から私を呼び出た。その日から吸血鬼とわかる証拠を残すようにした。
更には、自ら対策本部長という隠れ蓑に立候補し、誰にも気付かれないように陽動しながら、犠牲者を増やしていった。どおりで犯人に会わないわけよ。
その上、国外逃亡の時のために、きっと、資金を対策本部から横領でもしてたんだろうね。
そして、貴方は何者かによって殺害され、何の気兼ねも無く次の生活を送る・・・」

「し・・・証拠はあるのか!?私が切り裂きジャックであるという・・・私が吸血鬼である証拠は!?」

アルカが黙った。マーチャーシュに勝利の笑顔が浮かぶ。しかしその後、アルカは目の色を変えて言う。

「もうやめなよ。エイブラハム=ヴァン=ヘルシング教授」

「・・・!?」

「名前を聞いた時、まさかとは思ったけどね・・・。忘れたとは言わせないわ・・・。マスターを追ってこの国に来たあの夜・・・。貴方、私に無理やり自分の血を飲ませたでしょう!?吸血鬼になって、マスターを倒すために!!」

ヘルシングの目が驚きで丸くなる。目の前にいる女は、かつて、自らの勝利のために利用した少女・・・。ドラキュラの娘。

「・・・くくく、なんという運命の悪戯だ!!伯爵を倒すために協力してくれた少女が、敵となって戻って来たとはな!!」

「協力!?ふざけないで!!貴方みたいな化け物に協力なんてするもんか!!」

「結果的には同じようなものだ!・・・さぁ、気が済むまで月を見たか?何もかもが今日で見納めだ!!さっさとくたばれ、このフリークが!!!」

ヘルシングの拳が、アルカの心臓めがけて迫ってくる。吸血鬼の弱点。更に、吸血鬼の怪力・・・。しかし、アルカは全く動かない。

「ハッ!昔と同じだな!今でも臆病者か!!」




「・・・ひざまずけ」




「何・・・だと?」

拳が止まった。ヘルシングは、アルカの言われるがまま跪いている。

「これは・・・貴様、一体何をした!?」

答えの代わりに蹴りが入る。吸血鬼の怪力だ。ヘルシングが、遥か後方へ飛ばされていく。

「ガハッ!」

ヘルシングの元へ歩み寄り、心臓の上に足を置くアルカ。

ギリ ギリ ギリ

次第に圧迫されていく。

「最期に教えてあげるわ。吸血鬼が人間の血を吸って吸血鬼にした場合、絶対的な主従関係が成立するの。私が主人で、貴方が下僕。でも、ごめんね。貴方みたいな出来の悪い奴隷は必要無いの」

ギリギリギリギリギリギリギリ!!

「や・・・やめ・・・」

グシャッ!!





・・・・・・翌朝

[ヘルシング卿、殺害される!!]

[切り裂きジャックは対策部長!!]

このような見出しの号外が、あちこちで配られていた。

「あ・・・もう配られてないみたい・・・。惜しいことしたなぁ・・・」

今日帰国するアルカ。昼間なので、全身コートに棺桶を携えた姿は、かなり浮いている。同僚に自慢するべく号外を求めていたのだが、さすがにもう配り終わったようだ。

「あ~、太陽がウザイ・・・。早く帰ろう・・・」

永遠の命を手に入れた彼女。しかし、代償として二度と陽の光を拝むことはできない。

・・・

何故、ヘルシングはあのような凶行に及んだのだろう?
私も、人からヴァンパイアになった身。それなのに、何故彼はああなったのだろう?

「マスター・・・」

私にはマスターがいてくれた。対して、私は彼の傍にいてあげられなかった。・・・結局は私の罪なのだろうか?



ふと・・・四年前のあの日のことが思い出される。マスターがいない城にこもって、お腹が減ったら近くの人間を襲う日々・・・。白黒の魔法使いと小さな天使の二人組み・・・。

「早く殺してよ!永遠なんて耐えられない!私は死ななきゃ・・・!死ななきゃならないのよ!!」

「・・・馬鹿じゃねえの?」

「・・・?」

「引きこもって逃げたら次は、死んで逃げるのかよ?何があったか知らねぇけどさ。過去に縛られるなよ、今できることは何か考えろ。過去は変えられないけどさ、今から何とかなることだってあるんだ。それが生きるってことだろ?」

「・・・何で、そんなことが分かるの?」

「・・・目が、昔の俺とソックリだから」

そして、彼は両手を出した。

「外で何かを変えたいなら、右手を出せ。本当に今すぐ死にたいなら、左手を出せ。ここから、お前の世界を決めていくんだ」

・・・

そうだ、過去は変わらない。今から何か変えるんだ。私が決めていけるんだ。あの時、心に誓ったじゃないの。





「マスター・・・貴方がくれた命、大切に使わせていただきます。きっとそれが、貴方への、教授への償いだと思うんです」





夜族に体温は無い。冷たい体だ。しかし、だからこそあの時の右手の温もりを、今でも覚えていられる。

「でも、日差しの量を決められないのは、ちょっと残念・・・ウザイ・・・」




BLACK OR WHITE? 4~霧の都の切り裂き魔~ 完



[19605] BLACK OR WHITE? 5~天才と狂気の狭間~
Name: 縄口圭心◆52f18317 ID:1cf981f1
Date: 2010/06/16 21:36
「嫌じゃ嫌じゃ!誰が白側の教皇庁などに行くものか!!」

リリムが駄々をこねている。日常化しつつある風景。クリスティーナ嬢、リリムについてなどなど、報告のために一度教皇庁へ戻る必要があるのだが・・・

「もうっ!駄々こねないでよ!こんな街中で恥ずかしくないの!?子供じゃないんだからね!!むしろ圧倒的に最年長でしょ!?」

ルナの言いたいことは分かる。クロードは二二歳、ルナは大体二千歳、対してリリムは約一五○万歳。本来なら、一番どっしり構えても良い様な年齢である。それでもリリムは折れない。

「嫌なものは嫌なのじゃ!!」

ゴツッ!!

「ンぎゃ!?」

街中であるためか、クロードは普段の銃ではなく拳骨を放った。そろそろ銃弾に慣れてきたリリムにとっては、まさかの奇襲攻撃である。

「黙って付いて来い。返事は”かしこまりました、ご主人様”か”気絶させてでも・・・」

ピーピー、ピーピー、ピーピー・・・突然、リュックの中から無機質な音が聞こえてきた。

「・・・チクショウ、また仕事かよ」

クロードはリュックから石英画面の通信機を取り出した。あの電子音はこれからしていたのである。仕事・・・つまり、帰らなくても良い。リリムが勝ち誇った笑みを浮かべる。呼び出しに応えるクロード。

「こちら、クロード=スティグ・・・」

{やほぉ~♪クロちゃん、元気してるぅ~?アタシぃ~♪分かるぅ~?}

教皇庁のお堅いオペレーターとは明らかに違うテンションで返事がきた。音声のみで画面表示が無い時点で教皇庁ではないが。妙に親しい応答に、ルナもリリムも目が点になった。この馴れ馴れしい感じは・・・

「お前・・・まさか、シュタイン博士!?」

{もぉ~!そんな野暮な呼び方やめてよぉ~!フランちゃん、って呼んでちょ♪}

「やめろ、虫酸が走る。それより、何でお前がこれの番号知ってんだよ!?しかも一般回線から繋がらないんだぞ!?」

{そこは・・・あれじゃん?天才のなせる業ぁ?}

「・・・まぁ、お前なら出来そうだけど・・・。掛けてきたなら何か用があるんだろ?何だよ?」

{クロちゃんの声が聞きたかったのぉ~♪}

「切るぞ」

{いや、ちょっっっ!!待っ!!もぉ~、冗談だからぁ~♪クロちゃんセンス無いぞぉ~♪}

面倒くさいと思う一同。

「もったいぶるな!話せ馬鹿!」

{もぉ~、照れちゃってさぁ~♪可愛いぃ~♪え~とねぇ~、頼まれてた物が出来たんだけどぉ~、ちょっちトラブっちゃってぇ~♪まぁ、とにかくぅ、アタシの研究所の近くに村あったじゃ~ん?詳しくはそこでってことでぇ~♪じゃ~早く来てねぇ~♪バイバ・・・プツッ}

あまりの面倒くささに、相手がさよならを言う前に電源を切ってしまったクロード。ふと見ると、ルナの顔色が悪くなっていた。

「ねぇ、シュタイン博士ってまさか・・・」

「・・・アイツ以外にいねぇだろ」

「い・・・嫌よ、私!!あんな変人のトコなんて、二度とゴメンだわ!!」

これまでに二人が見せたことの無い動揺ぶり。ふつふつと日頃の鬱憤が湧き上がるのを、リリムは感じていた。仕返しのチャンス!

「のぅ、どうした?童のように駄々をこねおって・・・。こんな街中で、恥と言うものを知らぬのかのぅ?きゃはは!」

「~~~~~~っ!!クロード!!」

「・・・よせよ、ルナ。今回ばかりは俺たちの負けだ。それに、アイツに頼んでおいた物・・・今のうちに手に入れといた方が便利だし」

・・・勝った?あの忌々しい二人に、わらわが勝った!?やった・・・やったぞ!!今回の勝利は小さな勝利ではあるが、今後の大きな勝利に繋がげてみせる!!

「今、負けを認めたな!?ならば、貴様らは今日からわらわの下僕・・・」

ゴツッ!!!!

「ンぎゃ!?」

「調子に乗るな、馬鹿」

お・・・おのれ・・・さすがに落ちぬか・・・。まぁ良い。これで教皇庁に向かうのも延期になったわけじゃ。

「そうそう、お前は初めてだろうから忠告してやる。・・・シュタインを怒らせるなよ?アイツに気に入られるなよ?それだけは守って行動しろ」

「ん?・・・わ、わかったのじゃ・・・」

これまた、いつになく真剣に注意をするクロード。必死さがヒシヒシと伝わる表情が重々しく、リリムは無意識に了解してしまった。

シュタインとは、一体何者なのだろうか?





その村は昼間だというのに薄暗く、寂れた感じがした。枯葉が風に舞い、やけに多い黒カラスがカァカァガァガァうるさい。

「ほぅ、この村の近くに住んでおるのか・・・。シュタインとやら、わらわと趣味が合いそうじゃのぅ」

リリムが目を輝かせている。封印から解き放たれて以来、楽しい思い出など皆無に等しかったのだ。クロードにああ言われて少し心配だったが、今はシュタイン博士に会うのが楽しみのようだ。

「おい、気を引き締めてかかれよ?」

「わかっておるわ、たわけ。さぁ、シュタインよ、相見えようぞ!」

クロードの注意も上の空・・・。

「あ~、嫌だ嫌だ・・・。帰りたいよ・・・」

対して、ルナはルナでこの調子だ。これでは先が思いやられる・・・。

「あの、もしかしてクロちゃんご一行様ですか?」

声の主は、眼鏡を掛けた青年だった。顔の左側に縦一文字の傷を持っている。両腕と左肩に歯車を付けた、頭に電極のある男・・・。

「そうだ。・・・お前、シュタインの作品だな?」

「え、わかりますか?」

「わかるよ。見た目がアイツの趣味満載だ。あのパッチワーク女・・・。人造人間は違法だってあれほど言ったのに・・・」

クロードの表情が曇る。やっぱり関るべきではなかった。と、顔に書いてある。すると突然、人造人間の表情が捕食者のそれに豹変した。

「僕のことは良いですが、フランの悪口はゆるしませんよ!」

・・・や、やべぇ、コイツ、目がイってやがる・・・。

「わ、悪い・・・」

ここは素直に謝らないと、ヤツの作品だ。どんなことしてくるかわからねぇ・・・。

「・・・」

あのクロードがここまで従順に・・・。しかも、こやつはシュタインの手下に過ぎんのだぞ!?ククク、シュタインめ・・・どうやらわらわの想像以上のつわもののようじゃ!

「ところで、シュタインはどうした?見当たらねぇけど・・・」

「フランなら、この先のセーフハウスにいます。この村の人たちは彼女を快く思ってないみたいで・・・」

でしょうね・・・。貴方を造ったってことは人攫いか墓荒らしをしたってことだもの・・・。

「そうか。それと一つ言っておく。俺は断じてクロちゃんじゃねぇ!クロード=スティグマンだ!」

「あ・・・ルナです」

「リリムじゃ!」

「これは・・・失礼しました。申し遅れました、僕はヴィクター号です。さぁ、こちらへ。フランが待ってます」





案内にしたがって進むクロードたち。目的地へ近付くにつれて黒いカラスの数が徐々に増えていく。ヴィクターが止まった。そこには、他の家屋とはグレードの違う家が建っている。おそらく、ここがセーフハウスなのだろう。

「フラン!ただいま!クロードさんたちを連れてきたよ!」

下部としたにしては馴れ馴れしい態度。この挨拶一つで、彼女が彼を造った目的がよく分かる。

「おかえりぃ~っ♪ヴィクター、外の人に虐められなかったぁ??」

家の中から女が出てきた。電極の付いたぼさぼさ頭の天辺に申し訳程度の髪留め。顔やら体が継ぎはぎだらけで、目の下には隈が出来ている。白衣を着たその女は間違いなくシュタイン博士だった。

「僕なら大丈夫だよ。心配掛けてごめん」

「あらぁ、クロちゃんお久ぁ~♪ルナルナも元気ぃ~?」

「こ・・・こんにちゎ・・・ハハハ・・・」

「お前、俺の名前くらいちゃんと教えておけよな・・・。つうか、人造人間は違法だって言っただろ!?また務所に入りたいのかよ!?」

「イィじゃん、別にぃ~♪今は生きてるヤツぅ、材料には使ってないしぃ~、リサイクルだと思えばさぁ~♪それにさぁ、眼鏡男子って萌えないぃ~?・・・あれぇ?・・・この子誰ぇ?」

シュタイン博士は好奇心の塊。会話をするにしても、次々と目に付いた人に話しかけるため、たどたどしくなったりする。リリムと彼女の目が合った。二人は初対面である。

「お初にお目にかかるのじゃ。わらわはリリム!魔王ルシファーとリリスの間に生まれし、魔界の王族じゃ!!」

・・・わずかに静寂。と思えば、シュタイン博士の目が光った。

「萌えぇ~~~~~~っ♪」

・・・はぃ??

シュタイン博士がリリムを抱き上げて、その場で回りだした。

「何この子ぉ!?超かわいぃ~♪ロリっ子、つるぺた、おてんばお姫様キャラに悪魔っ子で角と尻尾付きぃ!?オマケにツンデレの可能性高スぅ!!クロちゃんってば、シスコンからロリコンに転向でありますかぁ~!?ラブリぃ~♪」

「ちゃんと俺たちの分かるように話せ。そして落ち着け」

まずい・・・、何だか知らんがリリムが気に入られた!リリム、早く離れろ!

「お主、大好きじゃ!」

あぁ~!ダメだ!チクショウ、満面の笑顔浮かべんな!!てゆうか、お前そんな顔できたんだ・・・。

「んじゃぁ、改めましてぇ、アタシがフラン=K=シュタインでぇ~す♪フランちゃんで良いよぉ~♪よろしくねぇ~、リムリムぅ~♪」

「よろしくのぅ!フラン殿!・・・」

熱烈なハグを交わす二人。不敵な笑みをクロードに向けて放つリリム。・・・分かっている。彼女はリリムの手におえる人間じゃない。何か企んでても成功するはずが無い。お前はシュタインを知らないんだから。

「まぁ、立ち話も何だからぁ、中に入ってよぉ~♪」

家の中は村よりも暗かった。蝋燭のおかげで、やっと足元が見えるくらいだ。フランはリリムを抱きかかえたままだ。

「そういやお前、また継ぎはぎが増えてないか?」

「えぇ・・・?あぁ、これぇ~?この前の実験でぇ、こう、スパンッ、ていっちゃってぇ~♪血ぃドバドバぁ~♪今もちょっち貧血かもぉ~♪ドバドバのクラクラぁ~♪」

彼女は首を擦りながら、昔の思い出を語るように言った。首が切れて生きてるとは、どんな人間なのだろう。クロードもルナも、突っ込む気になれなかった。

「まぁ、その実験のせいでややこしくなったんだけどねぇ~♪さぁさ、座って座ってぇ~♪」

椅子に腰を掛ける一同。ヴィクターはテーブルの高さに合わせるため、リリムに台座を用意してやった。こういう接客は彼に任せているのだろう。

「・・・それで、例の物は?トラブルって何だよ?」

教皇庁の通信回線を使ってまで伝えなければなかった緊急事態。そして依頼の品。苦手な相手とはいえ、さすがに気になる。

「・・・すー、すー、すー・・・」

・・・寝てる・・・のか?

「しらけた。帰っても良いか?」

「す、すみません!フランは本当に貧血なんです。このままそっとしてやってください・・・。僕から説明しますから」

紅茶を出しながら、ヴィクターが止める。澄んだ赤色に、やわらかい香り・・・。意外なことにクロードは足を止めた。どうやら、紅茶の趣味は皆と共通のようだ。砂糖とミルクをたっぷり入れて、早速、リリムは紅茶を飲んでいる。

「じゃあ、話してもらおうか」

「はい、ご存知の通り、クロードさんのご依頼の銃は完成したのですが、同時進行させていた実験が失敗しまして・・・。そのせいで研究所から避難せざるをえなくなり・・・。その・・・」

「俺の銃は今も研究所にあるってことだな?」

「はい・・・。申し訳ありません・・・」

「で・・・、その実験って何だ?」

「それはぁ、アタシから説明させてぇ~♪」

突然、博士が目覚めた。貧血のせいか、だるそうにアゴはテーブルにのせたまま。しかし、自分の研究成果を話さんとするその口元は嬉しそうに笑みを作り、目は今日一番の輝きを見せた。

「実はちょっと前にぃ、かなり状態良さげな悪魔ちゃんと天使ちゃんの死体が手に入ってさぁ~♪細胞掛け合わせてみたらどうなるかなぁ~?ってぇ♪名付けて人造魔人ちゃ~ん♪・・・相性悪かったのかなぁ?色々生体機能が不完全でさぁ~、アタシの研究成果の粋を集めちゃったよぉ~♪んでんで、クロちゃんの銃も完成したしぃ・・・あ、名前は『ヴォーティガーン』って言うんだけどぉ~・・・、完成したからお祝いにお目覚めタァ~イム!・・・ってやったら、寝起きは不機嫌なタチなのかなぁ?命令系統がおかしくなっちゃったのかぁ、首スパァーンの血ぃドバドバぁになったわけぇ♪」

話を進めるうちに元気になっていく博士。人造魔人を可愛い我が子のように思っているのだろう。首を切られたのを何とも思っていないどころか、楽しい思い出と思っているようだった。

バンッ!!ガチャン!!

「うおぅ!?何じゃ、急に!?」

「ク、クロード?」

急にクロードがテーブルを叩いた。あまりに突然のことでルナもリリムも唖然としている。リリムに至ってはティーカップを落としてしまった。歯を食いしばったその表情は、怒り、悲しみ、嘆きに打ちひしがれているようだった。

「ん~?どうしたの、クロちゃん?」

博士一人だけが、この気まずい空気に飲まれていなかった。あくまでマイペースに問う。

「・・・お前、自分が何をしたのか分かってるのか!?」

「あぁ~、銃を忘れたことは謝るけどさぁ~・・・」

「違う!!実験のことだ!!」

「ん~?何が起こるか分かんないんだからぁ、実験するのは当然でしょぉ~?」

「っ!もういい!!お前ら、行くぞ!!」

ここにいる誰もが、クロードの怒りの原因が分からなかった。人造生命は確かに人道と神に反することだ。だが、ヴィクターとの温度差がありすぎる。

「ま、待ってよクロード!」

ルナが慌てて付いて行く。

「いってらっしゃ~いぃ♪アタシぃ、貧血だから休んどくねぇ~♪」

「わらわもフラン殿と残っておくぞ」

キュイキュイン!!

「あひゃぁ~!!」

「うおぅ!?」

黒銀の銃が火を噴く。

「お前らも来い!!」

「ま・・・まさかアタシの作品に撃たれるとはねぇ~・・・♪いやぁ、バスカヴィル、絶好調だねぇ~♪ヴィクター、荷物準備してちょ♪」

「わかったよ、フラン」

いそいそと支度を始めるヴィクター。部屋の奥から大きなクーラーボックスを担いできた。博士はヴィクターのさっきのセリフが気に入ったのか”萌え”ていた。

「・・・仕方ないのぅ。わらわも行ってやろうぞ」



ガコン ガコン ガコン・・・

鬱蒼とした森の奥、切り立った崖の上にその屋敷はある。太陽が滅多に顔を出さず、常に雷雲が渦巻いている、そんな場所。さっきまで、あれほどうるさかった黒カラスたちは姿を消している。近くにあるのは共同墓地。あまりに不気味な雰囲気を出しているため、その場所に足を運ぶものは殆どいなかった。

「ほほう、これがフラン殿の住まいか?やはり、わらわとは趣味が合いそうじゃのぅ!」

「あぁ~、わかるぅ~?誰も来ないから集中出来るしぃ、雷で電力確保出来るしぃ~♪実験の環境としてはサイコーなんだよねぇ~♪」

後ろの方ではそれなりに盛り上がってるようだが、先頭を行くクロードとルナは・・・

「うわぁ~・・・、いつ見ても不気味なトコ・・・。瘴気流れてない?ちょっと息苦しいんだけど・・・」

「・・・」

屋敷の正面玄関に着いた。化け物を外に放たないためか、鍵だけはきちんと掛けてある。

「あぁ~、クロちゃ~ん?鍵は適当にぶち抜いちゃって構わないからぁ~♪」

キュイン!!

そう言い切るか言い切らないかでクロードの発砲。

「も・・・もうちょっち遠慮が欲しかったかもぉ~♪」

ピシャッ!ゴロゴロゴロゴロ・・・

ガコン ガコン ガコン・・・

稲妻の音に混ざって、歯車のかみ合う音がする。壁から覗く巨大な歯車。奇怪な建物の中には無造作に書籍が山積みに、大量の紙切れが床に散乱している。廊下に並べられてるのは骨董の騎士鎧ではなく、現在の家主が趣味で生み出した、化け物の標本がずらりと並んでいる。かつて大貴族の邸宅のあったその場所はその者の研究所に成り果てていた。

「おぉ、こやつ、ニスロクにソックリじゃ!きゃはは!見てみろクロード!なかなか面白いぞ!!」

リリムは本当にここが気に入ったようだ。遠足気分とはこのことである。奇妙奇天烈奇想天外な化け物たちの姿は、リリムに故郷である魔界を思い出させていた。クロードは気にせず、靴をカツカツ鳴らして屋敷の奥へと進む。

ガコン ガコン ガコン・・・

「あ、そこの階段降りてちょ♪」

地下室・・・彼女は実験をここでやっているらしい。なんでも、今回生み出した生物は巨大な図体で、実験室から出られない。だから、近隣の村にも知られず、被害も出ず、教皇庁にも知らせが届かなかったらしい。

カツン カツン カツン・・・

ガコン ガコン ガコン・・・

階段を一段、また一段と降りていく一同。彼らの足音と息遣いの音に重なる、歯車の重々しい音が不気味に響いている。寒い。地下へ向かってるのも理由の一つではあるが、それ以外のものが空気を冷たくさせている。

「・・・この扉の向こうが実験室だよぉ~♪」

そう言いながら扉を開けたフラン。だがしかし・・・



一面触手だらけ。ヌルヌルネバネバしたツタのようなものが森の植物の如く生え、蛇のような、ミミズのようなクネクネとした動きを見せている。と、こちらに気付いたのか、先端をこちらに向けて、一斉に動きを止めた。

「閉めろ!!!!」

触手の軍勢が襲い掛かってくる。一番力のあるクロードとヴィクターが扉を閉める。・・・どうやら、間一髪のところで最悪の事態は免れたようだが、触手たちは執拗に扉を破ろうとする。

ドンッ ドンッ ドンッ!!

「おい、マッドサイエンティスト!!これどういうことだよ!?」

「ん~・・・。培養液垂れ流しにしてたかなぁ~?あれ使うと細胞分裂が進んで進んでぇ~♪・・・デッカクなっちゃったぁ♪みたいな?」

「ふざけるなぁ!!!!」

ドンッ ドンッ ドンッ!!

「フラン、いつまでもこうしてられないよ!?」

「わかってるよぉ、ヴィクター♪」

フランは白衣の下からメスを取り出した。頼りないくらい小さな刃だが、美しく研ぎ澄まされた銀色は、空気でさえも切り裂きそうな鋭さだ。

「リリム!どこ行った!?ちょっと手ぇ貸せ!!」

見回してもどこにもいない。下を見るとリリムはクロードの足にしがみついていた。ドアを押さえるのに必死で、今まで気付けずにいた。

「ビビッてんじゃねぇよ!それでも王族か!?手を貸せ!!」

「ビビッてなどおらぬ・・・。辛いのじゃ・・・」

「・・・何?」

ここは彼女にとって居心地の良い場所であったはず。意外な返答にあっけにとられた。

「扉を開けた瞬間、あやつの感情が流れてきおった・・・。怒り、悲しみ、・・・天使でもなく悪魔でもない、自分が何者なのかと言う苦悩じゃ・・・。クロードよ、貴様の怒り、わらわにもわかるぞ。これは命がどうこういう問題ではあらぬ・・・自らの存在の問題じゃ!」

ルナが続けて言う。

「天使も悪魔も、生まれた時から自分の役割を知っているわ・・・。でも、彼は天使と悪魔でありながら、天使でも悪魔でもない・・・。どこへ向かうべきか分からない苦痛は計り知れないわよ」

「クロードよ、今回だけは協力してやるぞ!魔族の長として、ヤツは、わらわがこの手で・・・!!」

悪魔であるリリムと天使であるルナ・・・。彼女たちは、この場でアレの苦痛を分かってやれる数少ない存在なのである。

「あらぁ~、リムリムったらやっぱりツンデレ・・・」

「黙れ!心を無視した貴様など大嫌いじゃ!!」

リリムが一蹴する。先ほどまでは親しく接していたが、彼女の所業がよっぽど気に入らなかったらしい。

「・・・ありがとう、リリム。厳しい戦いになる。ルナはランタンの中に入ってろ」

「わかったわ!」

今までに見せなかった優しい笑顔。リリムも思わず笑みがこぼれる。そして彼は左手を差し伸べた・・・





「・・・開けるぞ!!」

扉が解き放たれたと同時に傾れ込む触手の大群。

ズバッ!!

「うぬぅ・・・。何じゃこれは?ベトベトしおって気持ち悪いぞ!!」

大人に戻ったリリムが最前線に立ち、触手を切り裂いて行く。粘りのある培養液の感触がまとわりついてきた。

シュンッ シュンッ!!

「あ~あぁ・・・ロリロリの方が可愛かったのにぃ~・・・」

フランが不満そうに言った。メスが触手をまるで紙切れのように切って行く。ある意味、最も肉を切るのに適した刃物であろう。

「えぇい!!面倒じゃ!!わらわの魔弾で焼き払ってくれるわッ!!」

掌に魔力を集めるリリム。この姿の彼女はサタンにも並ぶ強大な力を得る。収束された魔力が風を巻き起こす・・・

「ダメぇーーーーッ!!!!」

あと一息で放とうとする時、フランが割り込んだ。

「退け!!貴様も業火に身を焼きたいか!?」

「ここにはアタシの全てがあるのぉ!!そんな簡単に燃やすなんて言わないでよぉ!!人造魔人ちゃんだけ殺すのぉ!!」

「貴様・・・!つくづく勝手な女よのう!?」

「・・・!!後ろ!!」

「な・・・っ!?」

キュイキュイキュイキュイキュイン!!

リリムのすぐ後ろまで触手が迫っていた。が、クロードの射撃がそれをフォローする。

「リリム、今は彼女の言うことを聞いて!!炎が薬品に反応したらどうなるか分からないわ!!」

「それに、俺の銃がパァになる」

博士の研究室には様々な薬品が溢れている。発火性のあるものや、毒性を持つ物まで。その真っ只中に魔弾を放つなど無謀である。それに、そのせいで銃を失うなど、クロードにとっては本末転倒だ。

ズバッ ズバッ ズバッ!!

「しかし、これではきりが無いではないか!!」

際限なくかかってくる触手の群れ。それを薙ぎ払い続けるリリム。彼女の魔力も無限ではない。このままではいずれ時間切れでこちらの負けだ。

シュンッ シュンッ シュンッ シュンッ!!

「薬品・・・ッそうだぁ~♪ヴィクター、薬箱に使えそうなのあるぅ~?この際サンプル回収無視しちゃって良いからぁ~♪」

ヴィクターが持ってきた巨大なクーラーボックス。その中には大量の薬瓶があった。

「待って・・・ッ!フラン!!一三番の瓶はどう!?」

「もぉ~、ヴィクター天才ぃ♪それ、ありったけ注射器に入れちゃってぇ~♪でもって、出来るだけ奥でこの子にプスッとやっちゃってぇ~♪」

「わかったよ!クロードさん、援護お願いします!!」

「任せておけって!!」

ズバッ ズバッ ズバッ!!

シュンッ シュンッ シュンッ!!

キュイキュイキュイキュイキュイン!!

先頭のリリム、フランが道を作り、クロードが銃で余計な触手を始末する。三人で作った突破口をヴィクター号が突き進む。即席とはいえ、なかなかのコンビネーションだ。

「喰らえ!!」

注射針が刺さった。一三番の薬品が、触手の根元に注がれる。

・・・

触手の動きが止まる。と、次の瞬間には溶け出した。シュウシュウと煙を上げ、硫黄やアンモニアの腹からこみ上げてくる臭いが部屋に充満する。とうとう、何百と部屋にビッシリはびこっていた触手たちも数本を残すのみとなった。

「なぁ、お前、あの薬って何だよ・・・?」

「そぉ~ねぇ~・・・所謂、知らぬが仏ぇ?」

「ックロード!あれ!!」

ルナの言われるまま、視線を部屋の奥に向ける一行。そこにいたのは、白と黒の翼を持ち、半機械化された化け物であった。腕は太いのが二本、細いのが背中から一本。その巨体には不釣合いな、弱小の脚を持ち、その場を動けずにいるようだ。

「グォォォォォ・・・ガァァァァァ・・・」

湿った唸り声を上げている。薬がまだ効いているようで、体は半分溶けていた。時折浮き出てくる泡は、弾ける度に毒々しい臭いを放っている。

「哀れな被創造物よ・・・。わらわがお主の苦悩、救ってやろうぞ!!・・・ん?だんだん天井が高く・・・?」

時間切れだ。触手を払うのに力を使いすぎたのだ。魔力を使い果たした彼女は、次第に子供の姿に戻っていった。

「お・・・おのれぇ~!クロード!!もう一度じゃ!!」

「俺だってそんなに黒魔力残ってねぇよ。お前に殆ど使ったんだぜ?」

「グォォォォォ・・・ガァァァァァ・・・」

化け物の崩壊が止まってきた。薬が反応しきったのだろう。それでも苦痛は続き、苦しみ悶えていた。

「あぁ~、良いとは言ったけどぉ、サンプルは欲しかったかもぉ~・・・」

後悔する博士。未だに反省の色を見せない彼女に、クロードは苛立ちを覚えていた。ふと、銀色の物体が目に留まる。

「これって、まさか・・・」

「ん?あぁ、そうそう~、それがクロちゃんの銃『ヴォーティガーン』だよぉ~♪近くに弾丸もあるはずだよぉ~♪」

フランの言う通り、すぐ近くの箱には大口径の弾丸が詰まっていた。そのうちの一発だけを右手のヴォーティガーンに込めるクロード。死滅した細胞で滑りやすくなった床を、一歩一歩、確実に怪物の元へ歩み寄って行く。

「ヴぉレば、ガベガブガァァァァァ・・・」

喉に何か詰まった様な声で、何を言ってるか耳では分からない。しかし、口の動きがこう告げていた。

「俺は、誰なんだ・・・」

しばらく黙るクロード。そして優しく、それでいて厳しい声で答えた。

「お前は人間の欲望だ。身勝手な科学者が、自分の好奇心を満たすためだけに造った、悲しい存在だ。その欲望は計り知れない。いつかは創造主を脅かしかねない危険な存在だ・・・」

「・・・クロード」

ランタンの中で、ルナがつぶやいた。彼も白でもなく黒でもない存在。この二人は、ある意味似たもの同士なのかも知れない。

「お前がお前であるために、足りなかったのは愛だ。家族の様に、本当の親のように、我が子として愛してくれる人・・・」

「ちょっとぉ~!アタシはそれ位愛して・・・」

「お前は黙っていろ!!!!」

「・・・ッ、ご、ごめん・・・」

クロードはこちらを向いていない。だが、背中から溢れる怒り、威圧的な声が、鈍感なフランを黙らせた。リリムには、その背中がどこか悲しげにも見えた。

銃口を怪物の額に向けるクロード。と、人造魔人の目から涙が落ちた。

「愛が欲しい」

それの口がそう動いた。

「・・・神は、全てを愛してくださる。とても慈悲深いお方だ。・・・今、連れて行ってやるからな」

引き金が、ゆっくり引かれる・・・

「・・・ありがとう」

キュバシュ!

最期の口が告げた言葉・・・彼は、救われたのだろうか?皆に分かること・・・それは、この世で彼が救われなかったという事実。

チンッ チリリリリリ・・・

薬莢が床に転がる、澄んだ音が嫌に大きく聞こえた。





「ふぅ~♪こんなもんでどうかなぁ~♪」

フランとヴィクターは、何事も無かったように、研究室の掃除をしていた。あの怪物の痕跡は、一欠けらも残されていない。クロードは化け物を撃った場所から動いていなかった。

「さぁてと、やらなきゃいけない実験が山ほど・・・」

「フラン=K=シュタイン、お前を拘束する」

見ると、クロードが右手に白銀の銃を持って、銃口をこちらに向けていた。空気が一気に張り詰める。今まで陽気だった博士の目が、冷淡になった。

「へぇ・・・何の罪でぇ?」

「人造人間の創造及び、それ以上の禁忌を実行した罪だ」

「心配ないよぉ?今回のを考察するからぁ、二度と同じ失敗は・・・」

「そういうことを言ってるんじゃない!!」

普段無表情なクロードがここまで感情を露にすることは珍しい。その瞳には怒りが宿っていた。呆れた様にフランが返す。

「はぁ・・・。嫌だねぇ、人間ってぇ。すぐ感情的になっちゃうんだからぁ・・・。良いぃ、クロード=スティグマン?どんな仕事も、それを全うするには心を無、ないしは鬼にする必要があるのぉ。君の仕事はその典型かなぁ?ある成果のために、信じられないような犠牲が要るんだねぇ。

でもって、あらゆる不確定要素の中で、最もタチの悪いのが感情なんだぁ。特に君みたいに、無感情を装っているようで、実は人一倍情緒豊かなやつってさぁ・・・

早く死ぬよぉ?

フフフ・・・」

「そうか?お前みたいなブリキ女も早死にするようだぜ!?」

チキキキキキ・・・

「やめて!クロード!!」

「そうじゃ、貴様が手を汚すことなど無いぞ!!」

二人の声も届かない。彼の感情全てが、目の前の博士に向かっていた。銃のトリガーが引かれる。フランは懐のメスに手を伸ばした。そして・・・



「やめろぉ!!」



二人の間に割って入ったのはヴィクター号だった。両手を広げて、フランをかばうように立っている。突然のことにうろたえるクロードと博士。

「フランを撃つなら、先に僕を倒せ!!」

「ち・・・ちょっち待とうか、ヴィクター?貴方は下がっといて・・・」

「嫌だ。フランを見殺しにするくらいなら、僕は君を守る!!」

長い沈黙が続く。クロードの引き金はいつ引かれてもおかしくない。射線上にあるのは、フランの心臓ではなく、ヴィクター号の腹部・・・。

と、フランが白衣を脱ぎ捨てた。相当数のメスを忍ばせていたためか、カチャカチャと床に当たるたびに金属音がする。そして両手を挙げて一言。

「いゃ、参ったぁ♪超降参♪お手上げぇ♪」

一同、あっけに取られる。彼女の目は、いつものフラン=K=シュタインに戻っていた。

「アタシもまだまだだねぇ~♪鬼だの無心だの言っといて、こんなに彼を愛してるんだもん♪・・・愛、満更でもないかなぁ~♪ささ、連れてっちゃってよぉ~♪もう、どこにでも行っちゃうんだからぁ~♪」

あまりに素直。あまりに犠牲的。ヴィクター号の行動が、彼女の心を動かしたようだ。しかし、望んでいない結果に戸惑うヴィクター号。

「え・・・フラン、どうして・・・?」

「ありがとう、ヴィクター♪かばってくれた時、嬉しかったよぉ~♪でも、気付いたんだぁ♪アタシも、ヴィクターと同じ気持ちなんだってぇ♪ヴィクターが、アタシの身代わりに傷つくなんて耐えられないのぉ♪んじゃあ、もう自首するしかないじゃん♪」

「そんな・・・ダメだよ、フラン!!」

「ごめんね、勝手なことばかりだけど、アタシ、君を愛する資格なんてないよぉ・・・。あの子のことは愛していた、でもそれはモルモットとしてであって、クロちゃんの言う家族愛みたいなのは全然無かった・・・。

・・・スンッ・・・あれぇ?

・・・あの子が死のうが、何とも思わなかった・・・。そんなアタシが、君だけ好きでいるなんて・・・ヒグッ・・・ずるいでしょ?・・・あぁ、そうか、これが失敗だったんだ・・・ん・・・

さようなら、ヴィクター・・・

あれぇ?おかしいなぁ・・・嬉しいのに・・・グスッ・・・君の気持ちが分かって、嬉しいはずなのに・・・

泣くなんて、いつが最後だったっけぇ・・・ウ・・・あ・・・

・・・ごめんなさい。

みんな、ごめんなさい・・・」

うずくまって、声を殺して泣く博士。時折漏れる泣き声が綺麗になった研究室にこだまする。人の心は捨てたのに。愛玩用に造った人造人間が、心からの言葉をくれた。今までで、一番知りたかったこと。ボロボロの体、隈の出来た目。彼女の流す涙は、綺麗なガラス色だった。

「・・・ごめんねぇ♪行こう・・・クロ」

「しらけた」

「・・・え?」

銃をだらだらしまうクロード。いつものポーカーフェイスが復活している。

「何だこれ?三流のラブストーリーじゃあるまいし。吐きそうだ」

リュックを背負って、帰る準備は万全だ。

「ルナ、リリム、帰るぞ」

「え・・・えぇ」

「う・・・うむ」

「ち・・・ちょっち待とうかぁ?アタシを拘束しなくて良いのぉ?」

「執行猶予ってことにしといてくれ。それに、紅茶の趣味が合うヤツは少ないんだ。じゃあな、また世話になるかもな」

クロードは一回も振り返らなかった。まっすぐ研究室を出て階段をコツコツ上がる音がひびいている。

「・・・ぷっ!

くくく・・・フフフ・・・あはははは!!

クロちゃん、ジョークのセンス最低ぇ~♪拘束に執行猶予なんて無いよぉ~♪あははははは・・・最高♪」





コツ コツ コツ・・・

「やはり、貴様は早死にするタイプじゃのぅ、クロード?」

リリムがニヤニヤしながら言った。その笑いは、いつもの悪巧みからきたものではない。相手を見直した笑顔であった。

「悪いか?」

「いや、嫌いではないぞ?きゃはは」

コツ コツ コツ・・・

「しかしあれじゃな!貴様が語る愛に動かされるアヤツもアヤツじゃな!!きゃは・・・」

ドサッ!!

「ぐぇ!!」

リリムの真上にリュックが落とされた。銃弾が追加されて、いつもよりも重くなったリュック・・・。押しつぶされるリリム。

「ヴォーティガーンだっけ?重くて肩凝るなぁ・・・。おいリリム!運んでおけよ!」

コツ コツ コツ・・・

・・・

「やはり、貴様も嫌いじゃ!!」




BLACK OR WHITE? 5~天才と狂気の狭間~ 完



[19605] BLACK OR WHITE? 6~誰が為に騎士は行く.part1~
Name: 縄口圭心◆52f18317 ID:1cf981f1
Date: 2010/06/16 21:51
広い会議室に、たった四人がひっそりと人目を避けるかのようにいた。一人は会議室奥の一際豪華な玉座に座り、一人はそのすぐ隣に、残りの二人はその前にひざまずいている。玉座に座っているのは、厳かな会議室の雰囲気には不釣合いな、まだあどけない少女であった。

「教皇猊下、現在、人民ならびに国力の疲弊が認められることはご承知でしょうか?」

ひざまずいている片方が少女に向かって申し上げた。男の役職は枢機卿。白の国家を統率する白導教皇の補佐をしている。この少女は、若くして教皇という地位に就いていたのだ。

「はい、それは重々に承知していますが・・・」

「前置きは良い。要件だけ聞こうか、枢機卿」

彼女の傍らにいた男が、会話に割って入る。白い翼に、エンゼルクラウン。腰に大剣を携えているその男は、紛れも無く天使であった。

「・・・私は、税金の引き上げが必要だと考えております。総本山たる帝国を建て直すには、先立つものが必要となりますので」

十年前まで、世界を二極に分けた戦争があった。血で血を洗う闘争。両者に深手を負わせて終結し、今なおその傷は癒えていない。復興の兆しが見えるものの、すぐに隠れてしまう。彼の提案は、この現状を打破するためのものだ。

「また・・・税金ですか・・・」

少女が困ったように言った。彼らからこの提案を受けるのは何回目だろうか。税金以外に言葉を発することが出来ないのか?

「枢機卿、それに大司教殿・・・貴方たちの夕食は?」

税金とは全く関係のなさそうな質問。枢機卿と大司教は互いに顔を見合わせて、しばらく考えていた。・・・教皇の問いに答えないわけにはいかない。

「・・・私は、ハムステーキとロールパンにスクランブルエッグ、ワイン、リンゴを」

「私は、ステーキにポテト、コンソメスープですが・・・」

こんなこと答えて何になる?全く、猊下の言うことは分からない。

「そうですか・・・私はサラダにキッシュ、ローストチキン、デザートにケーキが付いていました」

自分の食事について語るその表情は曇っていた。自らの行いに悔いるように歪んだ目・・・。

「もしも、食事がパン一つだけだったら、残りの分のお金はどうなっていたのでしょうか?」

「ど、どうなっていたかとおっしゃられても・・・」

「我々は税金から日々の糧を得ています。贅をそぎ落とせば、その分民衆に反映されるはず」

「私どもに毎日パン一個で過ごせとおっしゃるのですか!?」

大司教が慌てて問い返す。

「そんなはず無いだろう。我らが復興の為に、目一杯の食事をする権利はある。要は、贅沢な食事を制限する、ということだ。そうですね?ヨハンナ」

天使が教皇の伝えんとするところを代弁する。彼の言葉に、ヨハンナはうなずいた。

「えぇ、ミカエル。・・・現在の税金だけで、国民の生活はギリギリまで追い詰められています。今、我々に出来ることは、不必要な出費を削減し、そこから開発事業の運営金を集めること・・・そして、大勢の労働者を雇用し、戦後不景気を打開することだと、私は考えているのです」

民の為に身を削る。確かに導き手の鏡の行為だ。ここまで考えているとは、若干一六歳とは思えない。それ故に教皇としての資質を持っているとも言えるが・・・。

「しかし猊下!それでは・・・」

「枢機卿、最終決定権は私にあります。予算配当に再考の余地がある以上、教皇としてこの案を受け入れるわけにはゆきません!」

断固たる決意。枢機卿を見つめるその目は一点の曇りも無い。頂点に立つ者の風格が、ひざまずく二人に向かっていく。

所詮まだ子供か・・・何も分かってはいない・・・。

「わかりました。この話はまたいずれ・・・。今日はもう遅いですね。貴重なお時間を割いていただき、申し訳ありません、猊下。おやすみなさいませ」

今日のところは引き下がっておこう。事は確実に運ばねば。

「はい、おやすみなさい。お二人とも・・・」




教皇と天使、大司教と別れた枢機卿は、たった一人で薄暗い廊下を歩いていく。灯は、点々とある蝋燭が放つ、やわらかい橙色と、月の冷たい明かりのみ。会議室の特異な匂いから一転、嗅ぎなれた日常が鼻を満たした。

カツン・・・

ふと、彼は足を止めた。窓から夜空を見上げる。未来を案じるように、視線は月よりも遠くに向けられていた。

ヨハンナは経験も何も無い。それの心は、そこいらの女の子と何の変哲も無い。普通だ。無垢だ。だが、無垢な者ほど夢見がち。毎日のように本を読み漁って・・・努力は認める。だが、今の彼女では駄目だ!

再び歩み始める枢機卿。彼は、ゆっくりと廊下の奥の闇に消えていった・・・




「久しぶりに帰って来たわね、ヴァチカン」

皇都ヴァチカン。白導系国家を束ねる神聖ローマ帝国の首都だ。中央に教皇本庁の白い城が眩くそびえており、そこから円形状に街並みが広がっていた。その大通りを城へ向かって進む、クロードとルナ、リリムの三人。

「ううぅ・・・着いてしもうた・・・。明るい。何もかもが明るい・・・」

リリムがうなだれた。悪魔が敵の本拠地に堂々と立ち入るわけにもいかず、全身をマントで包んで変装している。暗闇に育った彼女に白い街並みは目の毒であるのだろう。いつものような元気がない。

対して街は活気で溢れていた。小麦に色とりどりの野菜、菓子・・・ここには各地から食材が集まってくる。戦後復興を成し遂げつつある都市。これだけを見ればそう思える。

「おや、クロードじゃないか!それにルナちゃん!久しぶりだねぇ!」

声をかけてきたのは、果物売りのおばさん。クロードがひいきにしている店の女将さんである。たくさんのオレンジをかごに入れて売り歩いていた。久しぶりの再会。血の巡りが良くなる感じがした。

「やぁ、女将さん。しばらく出張に行っててさ。予定外のことが多すぎて、帰るのに時間がかかったんだよ」

普段よりも砕けた口調。いつも仏頂面なせいか、笑顔がどこかぎこちない。ここにいるのは軍人ではなく、クロード=スティグマン個人であった。

「そうかいそうかい!ご苦労様だねぇ。ほら、新鮮なオレンジだよ!持っていきな!」

「いつも悪いなぁ。貰ってばかりでさ」

「何言ってんだい。いつも仕入れを手伝ってもらってんだ。これくらいしないとお天道様に顔向けできないよぉ!」

意外と庶民的なのじゃのぅ・・・。

普段見せない一面に、リリムは目を丸くしていた。

「おや、誰だい?この子」

おばさんがリリムを見つける。彼が近所の子供と一緒なのはよくあるが、見ない顔だ。覗き込もうとすると、リリムは驚いてクロードの後ろにさっと隠れた。ひょっこり頭だけ出して、おばさんを見ている。

「あぁ、ちょっとワケありで・・・。しばらく預かることになったんだ」

何を!?汚い手を使って、わらわに無理やり契約させた口の言える台詞か!?

「へぇ、可愛らしいじゃないの。お嬢ちゃん、何て名前だい?」

「リリムっコホン・・・リリじゃ」

本名といつもの歌い文句、ルシファーとリリスの云々は言わない。言ったら、白の中心都市である。何をされるか分からない。

「よろしくね、リリちゃん!あたしは隣の通りで店をやってる、ヘレンさ。おばさんでいいよ。・・・弱ったねぇ、こっちに来たお祝いにっても今はオレンジしかないからねぇ」

気さくで明るい性格。彼女はここの名物おばさんだ。

「いいんだよ。こいつなんか祝うまでもないさ」

しれっとした顔で、さらりと言い放つクロード。最近、彼女を虐めるのが楽しい。薄ら笑いを浮かべている。彼女は怒りと悔しさの混ざった視線をぶつけた。

「相変わらず毒舌だねぇ。そんなんじゃ友達も彼女もできないよ?ほら、遠慮せずに持っていきな」

苦笑いを一つ。昔からの付き合いだ。この性格は変えようがないことは知っている。かごから、色と形の良いオレンジを十個ほど選んで渡してきた。

「余計なお世話だっての。ありがとう、もらっておくよ。また手伝いに行くからさ」

「おやおや、これじゃあ親切合戦も終わらないねぇ!」

軽いジョークを交わして、二人とも声を上げて笑った。化け物相手に日々戦っている人間とは思えない。思わず、二人も噴き出してしまった。

「じゃあ、おばさん。名残惜しいけどそろそろ行くから。頑張ってくれよ!」

「そうかい。呼び止めて悪かったね。またいつでも来なよ!こっちは大歓迎だからね!」

軽く手を振って、三人は人ごみの中に消えていった。




「うぅ~ん♪やっぱりヘレンさんが選んだだけあるわ♪美味しい!」

早速、もらったオレンジを食べている。一つ一つ味わいながら食べている二人を、物欲しそうにリリムが見ていた。すると・・・

「ほら、食えよ」

リリムにオレンジを手渡すクロード。予想してなかったことに戸惑いを隠せなかった。とりあえず受け取る。

「え・・・さっきは祝う必要など無いと言うておったではないか?」

「お前の為にくれたんだから、味の感想くらい言えるようになっとかなきゃな」

きょとんとして、クロードを見つめ続けている。はっ、として目をそらすと、顔を赤らめて恥ずかしそうにした。

「・・・に、人間界の物の味などたかが知れてるが・・・そうじゃな!礼儀はきちんとわきまえねばのぅ!」

礼儀がどうこう言ってはいるが、実は嬉しかった。いや、傍から見ても嬉しそうだ。顔に書いてある。

橙色の皮をむくと、爽やかな特有の香りが広がった。みずみずしい果肉は、甘味と酸味が程よく溶け合って、口の中で弾ける。冷たい果汁が喉元を過ぎる感覚が、たまらなく心地良い・・・。味の余韻に、思わず顔を緩ませてしまった。

「どうだ?美味いだろ?」

ニヤニヤこちらを見下ろしているクロードを見て、慌てて顔を引き締めた。咳払いをして、平常心。

「ま・・・まぁまぁじゃのぅ。人間にしてはやるではないか」

「素直じゃねぇな。まぁ良いけどさ」




道を進むに連れて人気が少なくなっていく。建物も消えて、道はいつのまにか広場に変わっていた。広場の向こうには教皇庁の白い城壁が見える。

門の前に着いた。様々な種族が勤務しているのだろう。人が通るにしてはあまりにも巨大だ。装飾に大粒の水晶玉がところどころに付いている。本来このような場所には警備兵がいるものなのだが、そのような影は無い。

クロードが目の前の水晶に触れた。

「クロード=スティグマンおよびルナ=エル、ただ今帰還した。開けてくれ」

声に応えるように、水晶が青白い光を放つ。これは、声紋や魔力の波長によって個人を特定するためのいわば認証キーである。これによって警備兵を外に配置する必要が無くなり、防衛のリスクも最小限になった。

「・・・認証完了。オ帰リナサイ、くろーどサン、るなサン」

ゴゴゴゴゴ・・・

機械的で無機質な声。その後、重々しく空気を震わせて、分厚い門が開いていく。その向こう側には白い建造物がそびえ立っていた。

「時代の流れとは恐ろしいのぅ。このような発展を遂げるとは夢にも思わなかったぞ」

リリムが門に感心する。戦争が始まる以前から城に幽閉されていたのだ。彼女にとって、この世界は見るものの殆どが新鮮であった。下賎な人間の造ったものなどに心を躍らせてはいけないとは思っても、好奇心が抑えきれない。

「置いていくぞ」

「あ・・・ま、待ってたもれ!」

いつの間にか、クロードもルナもずっと遠くまで行っていた。名残惜しそうに門に目をやって、リリムはトコトコと二人のもとに駆け寄った。

あたかも街の様に建物が並んでいる。そのうちの、対魔導災害駆逐部隊庁舎の扉を開けると嗅ぎなれた匂いがした。普段なら気付きもしないようなもの。が、長い間訪れていなかったために、妙に強調される。帰ってきたと実感できる瞬間。

ガヤガヤ・・・ ザワザワ・・・

一階のエントランスは天井が吹き抜けになっている。各階に勤めている役員の話し声が反響していた。皆、白い制服。中には勲章という出で立ちの者もいる。

「時にクロードよ、貴様は何故ここの者どもとは違う格好をしておるのじゃ?貴様も軍人なのだろう?」

ボロボロのコートに帽子・・・明らかに場違いで浮いている。リリムが不思議に思うのも当然だ。

「俺の部署は任務の性格上、軍人であると意識させない方がやりやすいんだよ」

「表情硬いのと拳銃すぐ撃つせいで、大体ばれるんだけどね」

「うるせぇよ」

横槍が入って、極まりが悪くなる。その様子にリリムは必死で笑いを堪えていた。一発殴りたいところだが、教皇庁内で問題行動は出来るはずもない。握った拳をゆっくり解く。仏頂面の目つきが更に悪くなり、舌打ちを一つした。

階段を上る。人類課の部屋は二階にある。小隊ごとに部屋が割り当てられており、三人が向かったのはその内の『バートン=バナー小隊』と書かれたドアであった。向こうから騒がしさが伝わってくる。

ノックを二回。そしてドアを開ける。



「クロード=スティグマン及びルナ=エル、ただ今帰還しました」

ドアを開けると部屋の中は更に騒々しく、隊員は皆、右往左往している。戦後十年、未だにこの部隊の需要は尽きることが無い。

「おう、お帰りっ!行ってきます!」

「ルナちゃん、お帰り!行ってくるわね!」

「ごめん、ちょっと通して!」

「おい、この書類おかしくないか!?」

「すみません!修正しておきます!」

「良いよ、俺がやっとくから!ほら、次つぎ!」

長い間、ここを後にしていたので、この喧騒に懐かしさすら覚える。狭い中を走り回っている人々を、ひらりはらりとかわしながら奥にいる人物の元へ歩み寄る。リリムはかわすコツを掴めずにいた。

「バートン大佐、ただ今帰還しました」

帽子を取って、目の前に居る強面の巨漢に敬礼する。バートン=バナーは歴戦の猛者だ。大佐に就いた今でも小隊長に身を置き、戦後復興の最前線で活躍している。野太い声で返事が来た。

「遅いぞ!!貴様、あの程度の災害処理に一体どれだけかけるんだ!?理由を述べてみろ!!」

怒り心頭な様子・・・か。

「え~、イレギュラーが重なりましたから・・・」

「黙れ!言い訳など聞かん!!」

言い終わるか終わらないかで一喝。奇妙な光景にリリムは開いた口をふさげずにいる。

「・・・とまぁ、いつものお約束はそこそこにしてだな。よく戻ったな、クロード曹長。任務ご苦労!ガハハっ」

「お変わりが無いようで何よりです、大佐。ハハ」

更に予想外の出来事。更に口が開いて、目がまん丸になるリリム。バートン大佐は実力もさることながら、人柄の良さでも支持を集めている。

「イレギュラーか・・・。土産話がてら聞かせてくれるか?場合によっては報告書が増えるがね」

小隊長とはいえ、外に出る機会は戦時よりも格段に減った。出張帰りの隊員から聞く話が、彼の楽しみだ。

「勘弁してくださいよ。ただでさえ疲れてる・・・」

「きゃぁぁ~っ!誰、この子!?可愛い~!」

後ろの方から悲鳴に似た歓喜の声が上がる。見ると、人だかりができていた。女性ばかりが何かに群がっているようだが・・・

「すっご~い!ほっぺたプニプニ~!」

「うおぅ!?何じゃ、貴様ら!?やめんか!やめろと言うておるのじゃ!!クロード、助けてたもれ~!!」

可愛いものに引き寄せられる。これは習性というのだろうか?持ち場を離れ、荒んだ心を晴らすために幼女に群がっている。

・・・リリム・・・あの馬鹿・・・

「・・・あれは何だ?」

「・・・イレギュラーその一です」

軍事基地には不釣合いな光景。部屋の中央だけが一際眩しく見える。周りは黙々と仕事を続けていた。

「よぉ、クロード。何だあの子、お前の連れか?」

一人の男がやって来た。彼はクロードの同僚だ。ニヤニヤしながら、からかうような口調で話しかけてきた。

「うるせぇよ、ルチアーノ。お前には関係ないだろ?」

「やるねぇ、ロリコン男爵」

「っ、テメェ!」

「はいはい、そこまで。全く、アンタっていつまで経ってもガキなんだから・・・。大佐、報告書仕上がりました」

「ん、あぁ、そこに置いててくれ」

リリムの登場に目もくれず、自分の仕事を淡々とこなすこの女も、クロードの同僚である。ルチアーノとは正反対。真面目な仕切り役といったところか。

「誰がガキだよ!・・・ははぁん、ソフィア~、実はお前も触りてぇんじゃねぇの?」

「そ・・・そんなことないわよ!この忙しい時に・・・。クロードもさ、ここはいつから託児所になったわけ?」

「ちょっと訳ありでさ」

まだだ。ここで本当のことを話すのは得策じゃないからな・・・。

「ふーん・・・。じゃあ大佐、私、休憩入ります」

「まだ取ってなかったのか!?早く休め!」

ソフィアは良い隊員だ。いつも期待と給料分以上の仕事をしてくれる。皆からの信頼も厚い。ただ、仕事に熱心すぎて自分を省みないのが玉に瑕。

「じゃあ・・・。ちょっと~!次は私の番よ!」

まっすぐ群集に向かって行く。彼女は嘘をつくことが苦手らしい。タイミングから偽り方までダメだ。

「恥ずかしがることねぇのになぁ。なぁ、相棒」

「誰が相棒だ」

いつも陽気なルチアーノ。誰とでも馴れ馴れしく振舞う、遊び人気質。この部隊のムードメーカーだが、時々うっとおしくなる。

「じゃ、俺も休憩入りま~す」

「お前はダメだ!!そんな口は溜まった書類全部出してから聞け!!」

「うへぇ~い・・・」

仕事、特に書類を提出しなという意味では隊の邪魔者。気だるそうにデスクに戻った。

相変わらずリリムの周りには人がいる。とうとう男まで加わるようになった。さっきまで仕事に追われていた現場が一転。今度は和やかムードになった。

「なぁ、俺も良いかな?」

「僕も、姪っ子のことを思い出すなぁ・・・。丁度、こんな目でさ」

「あ!ちょっと!!次はアタシの番だって!!」

・・・

「貴様らァーっ!!!!」

大佐の怒号が響く。和気藹々としていた職場は一瞬にして静まり返った。心臓の鼓動が速くなる。冷や汗が止まらない。

「連日連夜、心も身体も疲れ切っていることは分かる。だがな!!今は勤務時間だ!!給料分の仕事はしろ!!良いな!?」

皆、頷く。見事なまでに揃った。

「返事!!」

「サー、イエス、サー!!」

「・・・持ち場に戻れ」

しぶしぶ仕事を再開する隊員たち。しかし、しばらくすると元の喧騒が戻ってきた。大佐の指導力は素晴らしいものだ。脅迫にも思えるが。

「大佐・・・私たち休憩組は良いですよね?」

ソフィアが問いかけてくる。

「ん・・・あぁ、休憩室でなら構わんが、クロード曹長に聞いてみないことには・・・」

「クロード、お願い!」

「別に良いけど?」

「やったぁ!私もほっぺた触りたかったんだぁ~!・・・あれ?」

抱きかかえている女の子を見ると、プルプル震えていた。部屋を出ようとしていた足を止める。耳を澄ますと、何やらブツブツしゃべっている。

「どこか痛いの?医務室行こうか?」

心配そうにソフィアが顔を覗き込む。周りの休憩組も、何事かと緊張が走る。と、急に彼女が頭を上げた。唐突の出来事で、ソフィアの顎に鈍い音をたてて激突した。

「だっ!?」

激痛のあまり、女の子を離してしまった。自由になった四肢でもって、彼女をくるんでいたマントを脱ぎ捨てた。

「・・・貴様ら、いい加減にしろ!!先ほどから無礼であろう!?わらわを誰じゃと思うておる!?リリムじゃぞ!?魔王ルシファーとリリスの間に生まれた魔界の王族じゃぞ!?本来ならば、貴様らのような下賎な者どもには触れることすら許されな・・・い・・・む?何じゃ、静まりおって?」

喧騒が再び消え去った。そして次にはざわつき。悪魔が白の本拠地に足を踏み入れている!しかも、拘束もせずに!

「お前・・・しゃべるなって言っただろ・・・」

「・・・おあっ!?わっ、忘れるのじゃ!!」

「無理だよ・・・それ。だから私は反対したのよ・・・」

どういうことだ?悪魔だって?確かクロードってハーフよね?それじゃあ・・・。それは無いだろう?でもさ、殺してないんだから契約してるんじゃ・・・?まさか・・・

「クロード曹長、これはどういうことだ?悪魔を、しかもそんな危険極まりないものを始末せずに連れ帰るとは?」

大佐が問う。皆、クロードの回答を息を呑んで待った。

「・・・ばれちゃあ仕方ないな。そうさ、俺はコイツと契約している」

騒然となる室内。ある者は立ち尽くし、ある者は口に手を押さえた。各々反応は違うものの、根底にある感情は共通している。恐怖、驚き・・・否定的な感情ばかりが湧きあがる。

「ですが、危険ではありません。今のコイツは子供との喧嘩でも負けるくらい弱っています。魔力も俺からの供給でしか回復しません。このままで問題は無いかと?」

「大有りだ!弱小とはいえ、我々の敵である悪魔だぞ!?教皇庁にいるだけでも問題だが、よもや契約までしているとはな!」

「だから?何が言いたいんですか?はっきりおっしゃってください」

「おい、クロード、もうやめろ!」

「そうだよ!今からでも契約破棄しなよ!じゃないと・・・」

ルチアーノとソフィアが止めに入る。ルナも何か言いたげだったが、グッと堪えた。クロードの想いがヒシヒシと伝わる。あまりの気迫に、黙るしかなかった。

「異端審問・・・か?」

異端審問・・・。白導の黒い歴史である。古くは己の教義に反する者を弾圧するための裁判制度に端を発する。戦時においては、その役割は敵国のスパイを燻り出すための一斉捜査及び拷問を指した。容疑者でも、とにかくただでは済まない。

「今ならまだ間に合う。契約を解消しろ。これは最終警告だ」

「残念ですが、大佐殿のご命令でも俺は契約を絶とうと思いません」

上官を挑発すると、普通なら少なからず恐れるものだ。が、彼は目線を逸らさない。顔色一つ変えない。むしろ挑発に乗るのを待ち望んでいるかのようだ。

何を企んでいるんだ・・・?

「そうか・・・残念だ。三人を拘束しろ!!」

誰も前に出ない。悪魔と契約したとはいえ、つい先ほどまで仲間として共に過ごした男だ。そう簡単に捕まえられるものではない。

「何をしている!?速くこいつらを・・・」

「さっさと捕まえてくれ。俺は抵抗も何もしない。なぁ相棒」

大佐の言葉に割って入る。その言葉はルチアーノに向けられていた。その目は心にまで訴えてくるような鋭さだった。

お前のことだ、何か考えがあるんだな!?

頷いて、手錠を掛けた。

「クロード=スティグマン。貴方を異端容疑で拘束します」

「ちょ・・・ルチアーノ!」

今度はソフィアへ視線が行く。断固たる想い。この流れを壊されるのを拒むような、威圧的かつ願うように儚い眼光・・・。止める理由はあった。でも、それすらも否定されるような感覚に支配される。彼を止めることは出来ないだろう。

「・・・ルナ、ランタンに入って。その上で施錠するわ」

「・・・」

彼らが次々と捕まっていく。リリムを捕まえようとする者が現れるのに、そう時間はかからなかった。

「クッ、クロードよ!死刑は御免じゃぞ!?」

男は何も答えない。

「さぁ、クロード=スティグマン。異端審問だ」



夜の闇には慣れている。森の雑草の青臭さにも、枝々を通り抜ける風が奏でるざわめきにも。孤独なんかはどこかに行ってしまった。焚き火の赤橙色は温もりをくれる。それでも、その温度故に思い出してしまう。

パチパチッ

焚き火が爆ぜる音。時折顔を出すこの音は意外にも大きい。炎の勢いも強くなって、ゴウゴウと唸る。

「…ん、何じゃ?まだ起きておったのか?」

リリムがその音に目を覚ます。隣には、ルナがランタンの中でスヤスヤ眠っている。まどろみながら目ヤニを落として、ツーっと流れたよだれをゴシゴシ拭いた。最初は、わらわに野宿をしろとな!?なんて文句を垂れていたが、最近は腹をくくったのか慣れたのか、素直に眠るようになってくれた。

「寝てて良いぞ。見張りなら俺とルナが交代でやる。お前はもしもの時に役立たずだからな」

「うぐ…否定できぬ…。わらわとて力さえ取り戻せば、貴様らなど足元にも及ばぬのだからな!」

見ておれ…いつか、今までの辱めを兆倍にして返してやろうぞ!

「時に、何を見ておるのじゃ?」

見ると、彼はロケットを開けて何かを眺めていた。絵画のような、しかし、それにしては実物に近過ぎる。野宿の日に焚き火に当たると、何気なくこれを見てしまうのだ。懐古に浸る彼の表情…滅多に見せない穏やかで寂しさのある顔。そんな気持ちにさせる物は一体何なのだろうか?

「何だお前、写真知らないのか?」

「シャシン?…貴様、わらわが千年以上封印されておった事を忘れておらぬか?」

時代に取り残された感覚は、何とも言えない疎外感がある。悪魔の彼女には慣れっこなことなはずなのだが、この千年での変化は前例無く著しい。今まで気にならなかった時の流れを痛感せざるを得なかった。

「そうか、千年前はカメラ無かったな…」

「かめら…また貴様、わらわの知らぬ言葉を…。…まぁ良い。要は実物同様の細密画であろう?この二人は誰なんじゃ?」

写真に写っていたのは優しそうな微笑の女性、そしてその腕には小さな女の子が抱えられていた。しっかりしたがたいの…恐らくは男性であろう、肩しか入ってなくて分からないが、一緒に写っている。あまり目立たなかったので、リリムは気にも留めなかった。

「俺の母さんと妹だ」

「プッ!成程、フランが貴様をシスコン呼ばわりしておった理由が分かったぞ。しかし、これではマザコンと呼ぶ必要も…」

ジャキッ!!
彼が無言で銃を構える。

「じょっ、冗談じゃ!撃つでない!…この笑顔から貴様が生まれたとは信じ難いのぅ」

チキキ…
無言で引き金が引かれる。

「っ!?そ…そうじゃ!二人はどうしておる!?相当古い物のようじゃが、妹はさぞ美しくなったことであろう!?」

彼の手が止まった。銃を降ろしてしばらく沈黙が続く。遠くを眺めて、次に出た言葉。

「俺の…手の届かない場所さ…」

子供の頃、家族との記憶。明るくて料理の上手だった母さん。泣き虫だけど人一倍優しい妹。暖かな思い出は時の彼方に置き去りにされた。彼の元に残っているのは、白黒の古ぼけた写真一枚。

「…すまぬ。悪気は無かったのじゃ…」

怨むべき相手だとは言え、苦い過去を掘り起こして気分の良いものではなかった。彼女に流れる王の血が、それを許さず、拒んだ。気まずい空気が流れる。

「構わないさ。どうせいつかは知られることだったんだ。・・・それに、少しは取り戻せるかもしれないからな」

「え…?」

彼の顔が不適に歪む。例えるならそれは、獲物を目前にした捕食者。かつて、彼女が追い詰められた時の笑みとは違う。焚き火の作る影が不気味に揺らめく。彼女に一抹の不安が湧いてきた。

「どうした?」

「あ…いや…」

思わず視線を逸らしてしまった。笑った時の目が心を見透かしているようで、わずかながら恐ろしい。ここにいるのは本当にあの男なのかという疑問さえ出てくる。

「そうか。今日はもう寝ろ。明日は早いぞ」

「うむ…。…のぅ、貴様…」

寝床に戻る途中、振り返って問う。

「ん、どうした?」

そこにあったのは、、いつもの無表情。やはり、貴様は貴様じゃな。

「いや、もう良い。おやすみ」

「あぁ、おやすみ」

彼がどこかに行ってしまったように思えた。だがそれは思い過ごしだと、安心して眠りに落ちた。

…リリム、ヴォーティガーン。条件は全て揃った。あとは教皇庁でどこまで上手く立ち回れるかだ。…首洗って待ってろよ、エル=シャッダイ。何が全能の神だ。両手両足失っても、喰らい付いてでも取り戻して…っ!


…きろ…


…何だ…?この声は…?


お…だ…


あれ?体中痛ぇ…


「起きろっつってんだよぉお!!まだ、くたばってねぇだろうがよぉお!!」

顔に拳が飛んで来る。その衝撃で、微かにクロードの意識が戻った。目の前にいるのは狂気に満ちた顔。暗闇には違いないが森の中のようではない。ここは?…誰だ、コイツは?

「っ!!」

体中に痛みが駆け巡っている。体の自由が利かない。…まだ頭がクラクラする。朦朧とする中、男は徐々に状況を掴んでいった。

そうか…俺は…




どれくらい前の事だっただろうか?こんな場所では時間感覚が働かない。

円形ですり鉢状の法廷にいたのは教皇庁政府の高官達、それも、中年以上の者のみだった。名だたる枢機卿や大司教らが物々しい雰囲気を醸し出している。

カン、カン

ざわめきを審問長の木槌を打つ高い音が沈める。

「これより、異端審問を始めます。被告人、クロード=スティグマン。黒導国家からのスパイ容疑」

クロードが法廷の中央に連れられて来た。憲兵二人の拘束の元、魔封石を埋め込ん手錠を掛けられている。荷物や、物を隠せそうなコートや帽子は全て押収されたのか、シャツとズボンだけの姿だった。

「驚いたな。冗談のつもりだったんだけど、まさか本当に異端審問されるとはな…。せいぜい軍法会議だと思ってたんですが、高等官僚の面々は相当お暇なようですね。ギルバート枢機卿長猊下」

嘲笑を交えて審問長に語りかけるクロード。自分が窮地に立たされていることを感じさせない余裕は、一体どこから湧いてくるのだろうか?ギルバートが冷静に一蹴する。

「静粛に。被告人、勝手な発言は控えるようにしなさい」

「証人席がガラ空きですね。まともな審問をしない、俺と真っ向から向き合わないという意味では?俺が燃えカスだからですか?」

忠告を無視して、皮肉を述べ続ける。不自然に空いた席に目をやった。本来なら証人喚問された人がいるべきそのスペース。そこに誰もいないという事が何を意味するのか…。保守派の古臭い頭の持ち主が周りにいるこの状況から容易に推測出来た。

「静粛に!発言を続けるようであれば、強制退場させますよ!」

「へいへい…」

枢機卿長が一喝入れる。法廷がクロードの、たった一人の男のペースに巻き込まれていた。依然として彼の心に揺らぎが無い。嫌疑をかけられた人間にしては堂々とし過ぎている。異様な存在感があった。審問長の咳払いが一つ、そして審問は再開する。

「さて皆様、今回この男に容疑がかかった理由をご覧に入れましょう。あの者を連れて来なさい!」

何を企んでいるかは知らんが、最初から貴様の容疑は決定的…。そもそも容疑と呼ぶのがおかしい位だ。

彼の言葉の後、憲兵が何かを抱えてやって来た。念入りにロープでぐるぐる巻きにされたそれは、抵抗しているのかウネウネと動いている。聞き慣れた声で「放せ!」、「馬鹿者!」を連呼している。クロードの目の前へドサッと乱暴に放り出された。

「痛っ!?貴様ぁ!!魔族の長たるわらわにこのような処遇…後で覚えておるのじゃぞ!!」

放り出されたそれが、怒りの形相を露にして吼える。封印を解かれて以来、気に入らない事だらけであった。だが、これ程までの屈辱は今まで無かった。噛み付かん勢いである。

「皆様はご存知であろうと思います。かの魔王ルシファーと、我らが祖先たるアダムを裏切ったリリスの娘!大悪魔リリムでございます!」

場内が再び騒然となる。無理も無い。教皇庁に悪魔がいるのだ。しかも、特に強大な力を持つ悪魔が!怪訝の表情を浮かべる者、物珍しく感じる者…何であれ、彼らが根底に抱くものは恐怖であった。

「はぁー、張り切って縛ったもんだなぁ。怖がらなくても、今のコイツには欠片ほども力なんて残ってませんよ」

「き、貴様、よくもまぁそこまで落ち着いてられるのぅ!?」

相も変わらず気の抜けた声でクロードは見下した言葉をかける。命の危険を感じているリリムからすれば、考えられない行為である。と、また木槌の高い音。

「黙りなさい!さもないと…」

「はいはい、分かってますよ。黙ります」

三回目だけあって、ギルバートもそろそろ苛立っているようだ。声が怒鳴る時のものになりつつあった。それを大人気無いと言わんばかりに、クロードは呆れ顔で応る。審問長が荒々しい咳払いをして続けた。

「…問題はここからです。この男、クロード=スティグマンは、こともあろうにこの悪魔と契約を交わしているのです!」

ざわめきがワッと大きくなる。ハーフとはいえ白導の軍人が悪魔と契約を結んだ!?動揺を隠し切れない大司教、枢機卿ら。そして、そこから連想される言葉は…

「故に、ここに黒導国家からのスパイの疑いが浮上したのであります」

戦争は十年前に終結した。各国首脳の会談により平和条約も締結された。これだけ聞けば両者は和解していると言えるだろう。

しかし、会談は国のトップが行っていること。和解など表面上の話。十年ぽっちで、民衆が抱えた千年の憎しみが消えるはずなど無い。共に歩むなどという言葉は建前である。戦争終結の理由も、両者が力尽きたためであった。そのため、現在でも両国家群は静かな緊張状態にある。国境間に緩衝区域を設けている事や、災害駆逐部隊や戦災復興部隊の存在は、民衆の敵意を沈静し、時期尚早の戦いを避けるためであった。

その中で、悪魔と契約を結んだ者が白導教皇庁に現れた。ただならぬ事態である。今、次の戦のために重要なのは軍事力よりも情報力。状況から、スパイの疑いが出るのも頷ける。一歩の遅れが自らの敗北と向かうのだから。

「しかし…」

ある大司教が立ち上がって問いかけた。

「何故、悪魔が教皇庁に進入出来たのでしょう?国防部隊は何をやってるんでしょうかね?」

「それは、彼の特異性が関係しているかと」

別の大司教がそれに応える。

「彼は白と黒、両方の魔力を持っています。そのため、門を通る認証後には黒魔力探知機がオフになる…。その隙を通ったかと」

「フン、これだから燃えカスは…忌々しい」

「そもそも、何で燃えカスなんかが軍にいるんだ?」

「軍規を見直す必要がありますな」

「軍規のみならず、法も変えるべきではないか?燃えカス如きに人権など必要ないのですからな」

官僚たちの本性が露になる。黒に対する拒絶反応が一気に広がった。戦時を嫌というほど経験した者たちだ。燃えカスと一緒の空気を吸っているだけで虫酸が走るのであろう。ついには「殺してしまえ!」と、声を揃えるようになった。

「何じゃ、こやつら…。本当に白導の者どもなのか!?」

彼女の中で白側の人間といえば、清らかさを誇張した人々であるというイメージがあった。その人種が、ここまで憎悪という醜態を曝け出している…。先入観が無くとも衝撃的な光景だ。リリムがショックを受けたのは言うまでもない。そこにこれまでよりも激しい木槌の音が鳴る。

「皆さん静粛に!!これでは審問が続けられません!!」

法廷が静まり返る。集団をまとめるのは一苦労であると、深いため息をついた。シュッと最後の一吹きを済ませて、審問に臨む。

「それではクロード=スティグマン、ここからが本題です」

これまでとは空気が一変する。

「君の目的は何なのか教えてもらいましょう。依頼元、報酬もしくはそれ以外の動機…スパイ活動をする上での全てを吐いてもらいましょうか」

…やっぱり、スパイであることが前提か。分かっていてもウンザリするぜ。

「何なら、君をダブルスパイとしても良いですよ。ブラック共にばかり良い思いをさせてはなりませんからね。勿論、それでも相応の罰は受けてもらわなければなりませんが…。分かりますね?」

クロードがしばらく考え込む。そのフリをしている。正直、こんな奴らのやり方は気に食わない。証拠をリリム一つで済ませようなど、常軌を逸している。それがまかり通るのが保守派の脳みそだ。だが、それ故に読み易い。ここまでは彼のプラン通りに事が進んでいる。ここからどうなるか、だ。

「良いですよ。何もかも話しましょう。…ただし、一つ条件があります」

不敵な笑みを浮かべた。圧倒的不利な状況下での交渉だ。普通の頭なら、こんなことを考える馬鹿はいない。大胆な試みに、周囲がまた騒ぎ出した。

「はっ、燃えカス如きが交渉だと!?」

「図に乗るな、売国奴!!」

カンカン、と木槌の高音。

「静粛に。…良いでしょう。言ってみなさい」

ギルバートは快く返事をした。情報が全てを担う時代である。いかなる条件であろうと有益な結果に繋がるはずだ。所詮は一介の軍人…安いものだろう。彼はそう考えていた。

「それでは…」

にやけた顔を落として隠す。そして顔を上げて言い放った言葉は…

「本審問に、教皇猊下のご参加を希望します」

「!?」

く、クロードよ、まさか貴様、それだけのためにこんな大事を起こしたのいうのか!?全く何を考えておるのじゃ!?

場内が今まで以上に騒がしくなった。もはや、誰が何と言ってるのか分からない。それもそのはず、白導教皇はいわば神に選ばれし全人類の指導者。そのお方を呼び出そうなどとは全く恐れ多い行いである。枢機卿長であるギルバートなら出来なくもないが、その彼でも毎回ためらってしまう程の事なのだ。…それだけなら良い。ためらう程度なら。だが事はそれだけではない!!慌てて言葉を返す。

「そ、それは出来ない!!」

ッ!?最悪のパターンかよ!?簡単にはいかないと思っていたが…何だ?様子がおかしい。

教皇に会わないでは、彼の目的が達成されない。彼の顔色が初めて悪くなった。周りの反応も気になるところだが、今はそんなことに構ってられない。ここは意地でも食らい付くしかなかった。

「何故ですか!?俺はハーフとはいえ白導の人間です!教皇猊下の御前であれば何もかも包み隠さず、真実のみを語ります!その方が、貴方たちにとっても都合がよろしいかと思われますが!?」

「そんな馬鹿な真似が出来ると思うのか!?教皇猊下だぞ!?き、貴様のような一介の軍人、しかも異端審問にかけられた者の要求を受け入れられる筈がない!!大目に見てやったら良い気になりおって!!」

正論だ。確かに、謁見するにしても身分が違いすぎる。あまりにも分の悪い賭け。しかし、より早くに目的を達成するには、これ以外に手段が無かった。より早くに頂点に近付くためには、より高みの存在に近付く事。軍法会議レベルの事を起こすしかなかった。

最悪だ。これじゃあ、わざわざ審問に来た意味が無い!!

「頼む!!教皇に会わせてくれ!!じゃないと、何のために俺は…!!」

乱暴に木槌が振り下ろされる。何度も、何度も。

「やかましい!!…そこまで猊下にこだわるか!?」

ここまで固執するなど異常である。教皇に会って何をしようというのだろうか?燃えカス、悪魔との契約…導き出される答は…

「クロード=スティグマン!!貴様をスパイ及び教皇暗殺未遂で拷問刑に処す!!」

「!?」

飛躍された話である。可能性の段階に過ぎないというのに、普通ならこのような判決が通るはずが無い。それでも、周囲は「そうだ!」、「拷問刑だ!」の一色であった。保守的な官僚と、燃えカスの容疑者というアンバランスな環境がもたらした結果である。

「何じゃと!?貴様ら、それでも白導の伝道師か!?真実が明らかになる前にそのような…不当じゃぞ!!」

「黙れ!証拠品が喋るな!!」

もはや、結末は見えている。

「憲兵!!こいつらを連れて行け!!これにて閉廷する!!」

憲兵が三人、法廷に入って来た。一人はリリムを抱え、残りはクロードに付いた。当初は潔過ぎた態度であったが一変、最後の抵抗に、憲兵の腕から逃れようとするクロード。しかし、魔力を封じられた彼にはどうすることも出来ない。扉へと引きずられて行った。

「畜生!!こんなので終わってたまるかよ!!教皇に会わせろ!!俺は…あいつに話があるんだ!!あいつに会わなかったら何も始まらねぇんだよ!!」

最後の叫び空しく、彼の声は扉の向こうに追いやられた。やれやれ、困ったものだ、手こずらせるなと、緊張の糸が切れた官僚が漏らす。

「それでは、ご多忙の中お越しいただき、ありがとうございました。これにて解散といたします」

カンカンと、木槌の高い音が鳴った。



対魔導災害駆逐部隊の庁舎は、いつに無くどんよりと重い空気が漂っていた。正確に言えば、二階人類課、バートン=バナー小隊だけが異様な雰囲気に包まれている。皆、浮かない顔をしていた。
クロード達が連行されてから一時間ほど経っている。審問の証人喚問があるなら、もうそろそろ来てもおかしくは無いはず…。

ガチャ…

ドアノブが回る音。隊員が一斉に扉の方へと目を遣る。板の向こうから出て来たのは、若くて無表情の官吏だった。バートンが敬礼して応対する。

「ご苦労様です。今回はお手数を掛けて申し訳ありません。早速ですが、証人喚問について…」

「…」

その男は聞き入れる様子も無く、手にしている伝令書を黙って広げた。派手な装飾が目に付く。教皇庁の公式文書用に使われる紙だ。淡々とそれを読み上げる。

「え~…『今回の我が国の兵士の不祥事は実に遺憾であり、対策に緊急を要する非常事態である。しかしながら、現在、敵国に我らの醜態を曝す事だけは全力を以って避けなければならない。したがって、今回の事態は第一級機密に指定し、秘密裏に処理するものとする。それに伴って、対魔導災害駆逐部隊は本件の守秘義務を負い、その上で平常通り業務を遂行せよ』…以上!これ、厳重に保管してください。それでは」

周りが目を丸くする中、官吏は書類をポンと隊長に渡して、気だるそうに出て行った。ドアの向こうの足音が消えていく。皆、唖然として声を出せなかった。静寂をルチアーノが割る。

「あーらぁーらぁ…要するに『来るな』って事、だなぁ…」

「隊長!!私、納得いきません!!」

バンと机に手を叩きつける音。ガタッと席を立ち、ソフィアが怒鳴った。興奮で前のめりになり、目を引ん剥いている。

「落ち着け!こんな事で取り乱すな!」

「これが落ち着いてられますか!?何で証人喚問が無いんですか!?それどころか、そんな紙切れ一枚よこすだけって…これは明らかに違法ですよ!?いくら彼がハーフだからって…政府の決定とは言え理不尽です!!隊長は何とも思わないんですか!?」

分かっている…分かっているんだ。ここにいる誰もがそう思っている。クロードらハーフが保守派にとって邪魔である事。今回の出来事が彼に限らず、全てのハーフ排斥にうってつけである事。

バートンが紙切れを握りつぶす。圧力を跳ね返す様にソフィアを威圧し返し、訴える。

「わしだってそう思う!だがな、あそこで異論を唱えてみろ!?下手をすれば隊員皆に咎が及ぶやも知れんのだぞ!?」

すかさず彼女が吼え返す。眉間にしわを寄せ、更に表情を厳しくした。

「そんなに自分の部下が大切だったら、何でクロードを摘発したんですか!?貴方なら、かばう事だって出来た…!!」

言い終わる前に言葉が来る。

「奴には問題があった…言い逃れようの無い、とんでもない問題がな!仮に隠蔽したとしよう。発覚した時はどうなる!?それこそ隊の終わりだ!!」

「だからって…!!」

「クロードが良い奴だというのは分かっている!わしは奴の上官だからな。…それでも、あの時はそうするしかなかった!わしに残されたのは、せめて証言で刑を軽くする事だけだったんだ!」

己の手が潰れそうな程に拳を握り、それでドンと壁を殴った。背をを向けていて表情は分からない。だが、時折打ち震える身体が、彼の心情を物語っていた。

「隊長…」

いつもの豪傑ぶりとは正反対。自分の無力に打ちひしがれる姿は、大佐ともあろう者には不釣合いだった。席に戻り、深い溜め息をついて、組んだ指に顔を隠した。

「わしだって悔しいんだ…わしだってな…」

私は何を考えていたんだろう…。隊長が訳も分からずにこんな事する筈無いのに。あの決断が、この人にどれだけの重圧を掛けたかも知らないのに…。私は、大馬鹿者だ…

ギリ…と歯を食いしばる。申し訳無い思いで一杯だった。

「はいはい、どんよりムード禁止!!」

突然、場違いな調子の声がやって来た。声のする方を見ると、いつもの様にルチアーノが軽々しい笑顔をして突っ立っている。

「おいおい何だよソフィア?景気悪くてお先真っ暗な顔だな?可愛くない顔が更にブサイクだぜ?」

この一言にカッとなって、ソフィアは彼の胸ぐらを掴みかかる。勢い余って彼を押し倒す形になった。

「こんな時によくヘラヘラしてられるわね!?少しぐらい落ち込んだ顔をしたらどうなのよ!?前から馬鹿だと思ってたけど、ここまで酷いとは思わなかったわ!!馬鹿…!!」

悔しさと悲しさ、怒りで顔をしかめた。と、彼女の目から込上げ滴る大粒の涙…

「ソフィアお前…」

先程から一転、キリリと表情を引き締めるルチアーノ。真剣な眼差しをのしかかった女に向けた。

「胸…デカくなったか?」

「え?」

見ると、二人の体の間に彼の左手が挟まっていた。がっちりと彼女のを捉えている。何とも言えない時間が流れた…

そして、天地に響く絶叫。肉ねじれ、骨がきしむ鈍い音が三発がそれを続き、男の断末魔が悲しくも庁舎に消えていった。

「エッチ!!スケベ!!変態!!アンタって最ッ低!!」

思いの丈余す事無く吐き捨て、s期に戻る。二人が倒れ込んだ場所には、鼻血と涙をダラダラドクドク流す残骸が取り残された。時折ピクピクと動いているから死んではないだろう。

「ふ…不可抗力だ…ぜ」

彼を哀れむ者などいない。こんな状況になってまでふざけた事をしている人間にかける同情はこれっぽっちも無かった。冷ややかな目で見る者や、視線すら送ろうとしない者までいる。彼を非難する声もちらほら。

「こんな奴は放っておけ。各自、仕事に戻るんだ」

バートンが怒りを通り越して呆れた様子で、隊員達に指示を出す。

「なぁ、隊長さん、テメェもテメェだぜ?あんな紙にビビッてんじゃねぇよバ~カ」

ルチアーノが復活して、突然、彼を罵った。今度ばかりは彼に目が行く。上官を馬鹿にするなど、ましてやこんな時にか!?空気が張り詰めた。どんどん愚者が孤立する。

「馬鹿…と、言ったか?」

「あぁ、バカだね!アンタの事、熱い男だと思ってたけど、とんだ見込み違いだったぜ!隊員一人守れねぇで、仲間を大事に思ってるような口きくんじゃねぇよケツアゴ蛸坊主が!」

「アンタ、それ以上言ったら…!!」

ソフィアが彼を黙らせようとした。八つ当たりか知らないがいくらなんでも限度がある。しかも隊長相手に…放ってはおけない。が、大佐は右手を少し上げて、彼女を止めた。険しい目つきで部下の目を見た。

「ルチアーノ…貴様、上官に向かって…本気で言ってるのか!?」

「はぁ?マジで!?部下がマジかどうか区別もつかねぇ、ってか!?」

「…」

言い返そうとするが、間髪入れずに次の罵声が来る。

「おいおい、俺、部下の心すら把握してないボンクラの下に就いてたのかよ!?マジ情けねぇし!!」

「…!」

「髪の毛が無けりゃ脳味噌も無ぇ…無い無い尽くしの頭だなぁオイ!!」

プツン、と、彼の中で糸が切れる音がした。

「…ッ!!さっきから聞いていれば図に乗りおって!!もう良い!!貴様など知らん!!さぁ、何処へでも行け!!クビだ!!二度とその面見せるなよ!!」

「あぁ、良いさ!!むしろ清々するぜ!!もう俺とお前らは赤の他人だ!!好き勝手やらせてもらおうじゃねぇか!!」

舌打一つと捨て台詞を吐いて、自分の机にズカズカ戻って行った。周囲は圧倒されて、ただただその光景を見ているだけ。適当に荷物をまとめる。戸をバタンと乱暴に閉めて出て行った。

「ふぅ…。騒がせてすまなかったな…。皆、仕事に戻ってくれ」

戸惑いながらも、隊長の言葉に従う隊員達。信頼する指導者が冷静であば、例えどんな状況でも導かれる側は付いて来るものだ。が、たった一人、ソフィアだけは違った。

「た…隊長!彼も酷いとは思いますが、状況が状況です!情状酌量の余地はあると思います!」

「…だったら追いかけるなり呼び止めるなり好きにしろ。わしは止めも咎めもせん」

この言葉に一瞬迷ったが、頭を振って気を引き締めた。扉を開け、振り向いて一礼する。

「…失礼します」

閉まりゆくドアの隙間から、駆け出して行く彼女の後姿が見えた。パタンと、完全に閉まってからしばらくして、皆が仕事に戻る。その最中、バートンは口元を組んだ指に隠していたのだが、それがわずかににやけて歪んだ。

全く、何も考えてない様に見えてアイツめ…。確かに、わしの部下には勿体無い人材だな…。



「…もう、アイツ何処に行ったのよぉ…。世話焼かせないでよね…」

教皇庁中を探し回ったにもかかわらず、ルチアーノの姿は何処にも見えなかった。彼がサボる時に良く行く庭園や、倉庫裏にも。仕方が無いので軍部に戻るソフィア。

ひょっとしたら、もう外にまで出ているのかも知れないわね…。早退届を出して探そうかしら?…いやいやいやいや!馬鹿げてるって!そもそも勝手に出て行ったのはアイツで…。…でも、アイツまでいなくなるのは嫌!!…とにかく戻ろう…

「よぉ、ソフィア!何だお前、サボりか?」

戻ってみると、ルチアーノが庁舎の門の横にもたれかかっていた。考え事をしていた所に、急に声を掛けられて背筋が冷えた。

「うわぁっ!?…あ、アンタこんな所にいたの!?探したんだからね!」

「こんな所って…探すも何も、俺はココから離れてないぜ?」

「え!?」

落胆の表情を浮かべ、膝から崩れる。今までの苦労は一体、何だったんだろう…?

「どした?」

彼が覗き込んで様子を伺う。

「…何でもないわ。それより、今からでも戻って来なよ、ルチアーノ!あの状況だし、隊長も分かってくれるって!」

必死に説得を試みる。一日で仲間を三人も失うのは耐えられない。その思いが彼女を動かしていた。

「放っておけよ。お前には関係無い事だろ?」

その思いも空しく、しれっとした態度で一蹴された。空の方を向いて、彼女と目を合わせようとしない。見方によっては自暴自棄になっている様にも見えた。
…彼のためにも、このまま引き下がる訳にはいかない。強引に腕を掴んで引っ張って行こうとした。

「関係あるわよ!良いから早く…」

「ルチアーノ、言われた通りにしてきたぞ」

突然、後ろの方からしわがれた声。振り返ってみると、そこには年老いた大司教がいた。服装からしてかなりの高官である。慌てて気を付けをして、敬礼を送るソフィア。

「ふ…、フィリップ大司教様!?何でこんな所に…!?」

「おぉ、思ったより早かったな!サンキュー!」

「ッ!?コラッ!大司教様に向かってアンタ、何て口のきき方…!」

バートン隊長でも危ないのに、こんな高官に馴れ馴れしくするなど自殺行為である。いくらなんでもこれは酷過ぎる。これでくびになったら、もう助けられない。ソフィアが覚悟を決めた。が…

「何言ってんだ、ソフィアちゃん。俺だよ、俺」

みるみる大司教の姿が変化して、真っ白でひょろっとした物になっていく。エンゼルクラウン、翼、それに天使とは思えない位歪んだ副笑いのような顔…。見覚えがある、と言うか一度見たら忘れないその顔の持ち主は…

「え、タミフル!?何してるの!?」

ルチアーノの契約天使、タミフル。自由過ぎる天使の異名を持つ彼は、あらゆる物に、それこそ自由過ぎる程変化出来る天使だ。フィリップ大司教だと思っていたのは、彼であった。

「いやね…聞いてくれよ、ソフィアちゃん。コイツさぁ、いきなり呼びつけて異端審問覗いて来いって言ってきたんだよ…。信じらんないよ…自由過ぎる天使から休み時間奪うとか!欠席してる大司教探すのも大変だったんだからな!」

「え…?どういう事?」

状況が上手く飲み込めない。色々な事が結びついてくれなかった。ルチアーノを問い詰める。彼は決まり悪そうに頭をボリボリと掻いて、「タイミングは悪かったな…」と、タミフルに聞こえない程度の声でボソッと言った。隠すのを諦めたのか溜息を一つついた。

「…コイツの言う通りだけど?」

「そうじゃなくてさ!何でこんな危ない事するのよ!?ばれたら大変な事になるのよ!?」

「分かってるって。だから除隊したんだよ」

「…?」

何が何だか分からない。タミフルに審問無断出席させるのが危険だから除隊…?ルチアーノが続ける。いつもの様に、くだらない世間話をする調子で。

「さっきの伝令…つまりは隊員じゃなくなれば守秘義務もへったくれも無いって事だろ?それにそうすれば、ばれても俺個人の行動って処理されて皆に責任が及ぶこともないし。俺が除隊されれば自動的にタミフルも除隊させられるから無理をさせられるし。思い切り審問覗ける、クロード助けられる手がかりあるかも、って寸法さ!」

そ…そのために人生を棒に振るような真似を!?前から馬鹿とは思ってたけど、ここまで来たら手のつけようが無いわね。…いやいや、まだそれだけでは説明出来ない事があるわ。そういう考えがあったとしても、これは許せない!

「じゃあ何で隊長にあんな酷い事言ったのよ!?除隊するだけなら他にも方法があったでしょう!?」

「それはあれさ。お前がそうだった様に、さっきまで周りも隊長のこと良く思ってなかっただろ?仲間を告発したんだからなぁ…そりゃ、恨みの一つや二つ買うさ。でも、バートン=バナーは偉大な男、これは間違い無い!俺は尊敬してるぜ、熱いおっさん!だから…どうせ除隊するんだ、恨みなら俺が全部買ってやるし、喜んで悪役になってやる。後々、隊の連携にも関りかねない事だしな…」

いつもの彼らしからぬ自己犠牲…。陽気で、馬鹿で、うざったいとすら思う事があった。何も考えてないで、フラフラしているだけとも。だが、彼は彼なりに考えて行動している。彼が誇らしく、大きな存在に見えたのに対し、皆のために何もしてあげれない自分が恥ずかしく、ちっぽけに思えてきた。

「勝手な事言わないで!!」

歯を食い縛って、下を向いて、震えながら手を握って…。考えるよりも先に言葉が溢れてくる。飾りっ気の無い想いをぶつけた。

「だからって、自分を追い込むような真似はしないでよ!!クロードやルナがいなくなってしまうかも知れないのに、アンタまでいなくなったら…私、どうしたら良いか分からなくなるじゃない!!何でもかんでも一人で背負い込もうとしないで!!…お願いだから…」

「ソフィア…」

彼女がどんな顔をしているかは分からないが、時折零れ落ちる涙が心情を表していた。泣きじゃくっているところを、彼はそっと抱き包んで、頭を優しく撫でた。彼の鼓動が聞こえる…力強く、速く…平静を装っていても、内ではこんなにたぎっていたのか…。それに追いつこうとするかのように、彼女の鼓動も加速する。

「全く、今日は泣いてばかりだな…。ゴメンな、心配かけて。ただ、これだけは分かってくれ。…政府のやり方にも、こんな選択しか出来なかった事にも、今日の出来事何もかもに合点がいかねぇ!」

瞬間、腕の締め付けが強くなる。温和な彼が、眉間にしわを寄せていた。一方彼女は、顔が次第に熱くなるのを感じていた。

「だから、納得いくまでやらせてくれよ。…って言うのも勝手か?」

腕を解いて、赤くなってぼんやりしている彼女に言った。ハッと我に返って返事をする。涙を拭い、精一杯の強がりな笑顔を作って…

「勝手にしなさいよ、馬鹿…」

暖かな雰囲気が二人を包む…

「何と言う疎外感!」

タミフルが強引に二人を引き戻す。完全に二人の世界にいたので、不意を突かれた驚きをを見せた。彼女はさっと距離を置いて、咳払いをする。彼は残念そうに肩を落としてタミフルとの会話に戻る。

「あー…悪い、忘れてた。本題に入ろうか」

「マジむかつく反応…。まぁそれよりだな、大変なんだよ!クロードの奴スパイと暗殺の容疑で拷問刑だってよ!!」

空気が一変、緊張が走る。予想していた最悪の事態が現実となったのだ。

「マズイな…。拷問なんて死刑と同じようなもんだぞ!?」

「は、早く何とかしないと!!…あれ、待って!暗殺って誰の!?」

スパイ容疑はまだ分かる。だが、暗殺は対象が分からない限り立証し得ない。拘束の時には、その様な様子は無かったはずだ。

「…ヨハンナ教皇猊下だ」

「何だって!?」

「何ですって!?」

ほぼ同時に同じような驚き方をする二人。天使に詰め寄る。

「何だってそんな事が分かるんだよ!?枢機卿長は正気か!?」

「クロードの奴が教皇の審問出席を要求したんだよ」

「だからって、突飛な話じゃない!?」

「聞くならギルバート卿に頼むよ!とりあえず二人とも冷静になってくれよ!顔、近いんだよ!!」

全く意味が分からない。上は何を考えているのだろう?ひとまず、タミフルの言う通りに落ち着いて考えてみた。この判決をもたらした要因は一体…?そもそも、クロードは何で教皇の出席を願ったのか…

「なぁ、タミフル…何かこう…変わった事は無かったか?ほんの些細な事でも良いから」

ルチアーノが問う。

「変わった事?…う~ん、そう言えば…奴が猊下の出席を申し出た時の周囲の反応が妙に…こう…取り乱してたな。それから急に話が進んで判決が下った」

「…成程ねぇ。それで?」

「クロードは、『教皇に会わないと始まらない』…みたいな事言ってたな。何でそこまで固執するかねぇ…」

本当に些細な事だ…。彼は、そこから何か導き出そうとした。沈黙が続く。それを天使と女は心配そうに見守っている。と、男が口を開けた。

「きっと官僚側には、教皇に知られてはいけない『何か』があるんだな…。そして、クロードの目的は教皇に会う事が鍵だった…。両者の思惑がぶつかり合って、最終的には立場の弱い方が負けた…」

「それは分かったわ!それで、どうすれば良いの!?」

「クロードの事だ…教皇に今回の事を伝えただけで何とかなるようにしてるとは思うけど…」

「…」

そんな事、出来る筈が無い。教皇は厳重な警備の奥底、教皇庁の最深部とも言うべき場所にいる。タミフルの変化能力を以ってしても、正式な謁見手続きや厳しい出入管理の前には歯が立たない…。兵士には到底手の届かない所にいるのだ。

「そんな…、それじゃ私達は手をこまねいて見てろって事!?」

ルチアーノは黙ったままだ。絶望に、彼女の表情から生気が抜けていく…。

「…悪魔だ」

「…え?」

「タミフル、リリムって悪魔の居場所は分かるか!?」

何かに気付いたのか、急に大声を出した。

「い…いや…だけど、大体の見当はつくぞ」

「ね、ねぇ!助ける方法が分かったの!?」

顔の血の気が戻っていく。かすかな希望に、彼女の期待は膨らむ。

「検討もつかねぇ!だけど可能性を残してるなら、あの悪魔以外考えられねぇよ!タミフル、お前は悪魔を探してくれ!俺は万が一に備えて教皇謁見の方法を考える!」

「分かった」

天使は憲兵に化けて、二人の元を後にした。

「ねえ、私は!?」

彼女だってうかうかしてられない。仲間を助けられるかも知れないのだ。日常を取り戻すために、戦う気で一杯だった。

「お前は仕事に戻ってろ」

予想に反する答だ。一瞬、言葉を失ってしまったが、すかさず反論する。

「何で!?クロードを助けられるかも知れないんだよ!?それなのに何で私だけ…!!」

「俺が除隊した理由は!?言ってみろ!?それに、お前が業務ほったらかしにしてるだけで嫌疑がかかりかねないんだ!!」

「ッ…!?」

彼の想い…仲間に迷惑をかけたくない。汚名を被るなら自分ひとりで十分。ソフィアが手伝えば、その意志を踏みにじる事になる。手助けしたい…だが、そうする事によって逆に迷惑になる…何とも歯痒いジレンマだった。

「分かったわ…。絶対、絶対皆で戻るのよ!」

そう言って、彼女は庁舎の扉の向こうに消えていった。背を向けてから振り返る事無く…。

「あぁ、勿論さ」

一人残った彼が、ニヤッと笑う。風が、その足元を通り過ぎていった。



ガチャ…

ドアノブの回る音。それに注意を払う者はもはやいなかった。与えられた仕事を淡々とこなす、日頃見慣れた光景。二つの空席を除いては…

「ソフィア=テンダー、ただ今帰還しました!」

バートンの机の前まで行き、敬礼をする。隊長は敬礼を返して、言葉を続ける。

「ご苦労。…で、どうだった?」

先程までのやり取りが浮かんでくる…。彼の心は十分受け止めた。後は、彼を信じて待つ、それがソフィア=テンダーに出来る事だ。

「…あんな奴、好きにしたら良いんですよ」

迷いの無い瞳、ルチアーノへの信頼を乗せて、バートンに微笑を送る。

「そうか」

全てを悟って、彼も不器用な微笑で返した。

「ソフィア=テンダー、ただ今を持ちまして、通常業務を再開します!」





BLACK OR WHITE? 6~誰が為に騎士は行く.part1~ part2に続く



[19605] BLACK OR WHITE? 6 ~誰が為に騎士は行く.part2~
Name: 縄口圭心◆52f18317 ID:1cf981f1
Date: 2010/06/16 21:59
殆ど誰も来ない。それどころか知る者さえ少ない。光の届かぬ地下への階段。長年手入れされていないため、蜘蛛の巣が張り巡らされていた。それでも人は通っているようで、階段の中央付近には埃があまり積もっていない。
大人二人がやっと通れる通路を、枢機卿長と専属憲兵四人がカツンカツンと下りて行った。じめじめとした空気が鼻腔と肌にまとわりついてくる。ここにいて良い気分ではない。蝋燭の炎が唯一、気分を紛らわしてくれた。
息苦しさが増してきた。空気の状態もあるだろうが、何よりも、この下にいる誰かからのプレッシャーが大きい。知らぬ間に表情が険しく、冷や汗がたらりと流れ落ちた。

下りきったその先には、頑丈な鉄のドアがある。それの鍵を開けると、その向こうには更に分厚く強固な鉄の扉が二つあった。と、何やら音色が響いてくる。

鼻歌…

微かに男の声で鼻歌が聞こえる。軽快なリズム、スタッカートを利かせて楽しそうだ。ドアを開ける音に気付いたのか、一層明るいアレグロを歌う男…。一人が息を呑む。中には身震いする者までいた。これ以上、進んではいけない。と、本能が囁いてくる…。引き返そうとする足を、無理やり前へ進めた。

鼻歌はそのうちの左側の向こう側から聞こえるようだ。枢機卿長は鍵を懐からジャラジャラ出して、三つの錠前を上の物から丁寧に一つずつ開けていく。…最後の一つが取り払われた。ゴゴゴ…と、唸り声のような音を上げて、扉が開放される…。



その部屋は先程の雰囲気とは一変して、白くて清潔感のあるそれなりに広い空間だった。床、壁、天井…至る所に魔封石があしらわれているためである。脆弱な石の強度を、レンガや岩石が補っている。ベッドに整頓された本棚、洗面台…鉄格子で区切られたその先には足枷を付けられた男。

「珍しいじゃないか。予定以外に人が来るなんて今まで無かったのにさ。…ひょっとして、頼んでた本もう届いた?」

その部屋の住人は、長髪の男だった。見た目は若い。二十代前半であろか?椅子に座って、鼻歌まじりに新聞の殺人事件の記事を切り抜いていた。薄ら笑いを浮かべて、牢獄越しにちらりと来客に目を遣って迎える。枢機卿長が応えた。

「キュルテン、貴様に仕事だ」

「仕事…?この僕に?ここに閉じ込め腐りやがった枢機卿長様直々に?…へぇ、仕事ね…。で、何?」

気味が悪い笑い声を漏らすものだ…。目線は新聞に向けられているというのに、眼光の鋭さがこちらにも伝わってくるようだ。この部屋全体にまで神経を張り巡らせているのだろうか?

「す、スパイ容疑のかかった人間が出てな…。知っている事を洗いざらい喋らせてもらい…」

話の途中だったが、キュルテンが顔を変えて返事をした。はしゃいだ子供のような表情だ。

「あぁ!成程なるほど!…って事は、そいつを僕の自由にしても良いって事かい?」

「あぁ、殺さなければ何をしても良い」

「なぁんだ…つまらない。でも久々だなぁ、おもちゃ。壊さずに済むかなぁ…」

手を額に当てて、高らかに笑い声を上げる男…。その狂気に満ちた表情は、一同を怯ませた。魂を抜かれたように、笑い転げる男を呆然と見続ける。と、思い出したように一人が小声で枢機卿長に聞いた。

「ギルバート様、申し上げ難いのですが…わざわざ彼に拷問を任せる必要があるのでしょうか?…あんな男に」

「あくまで人知れずに、だ。彼ほど今回の対処に適任なのはいないと思うが?」

「ですが、彼は危険です!万が一の事があれば…!」

「聞こえてるよ?ひそひそ話」

ビクッと、背筋に冷たい物が走った。いつの間にかキュルテンは笑い終え、憲兵に微笑みかけている。相手は牢の中といえ、息をするのも忘れてしまう恐ろしさ…

「ねぇ君…体を一切傷付けず、窒息させる事無く、言葉で心を壊さずに人をいたぶる方法、知ってる?」

突然、意味不明な質問を投げかけるキュルテン。何の脈絡も無かったため、男は「分からない」と返事をする事さえ出来なかった。呆れたように続ける。

「まずはね、対象に血を抜いて殺すって伝えておくんだ。その後、剃刀と血の受け皿を見せて、目隠しをした状態で磔にする。手首を切らない程度に剃刀を当てて、人肌に温めておいた水をそこに少しずつ流す…。水の滴る音がする位で丁度良い…。そしたらね、心が勝手に出血していると勘違いして、最悪その人は死んでしまうんだよ。面白いだろ?…そんな事も知らないくせに、口出ししないでほしいよ。全く…」

「かっ、…それとこれとは関係無いだろう!?いたぶり方どうこうが問題ではない!!いかに外部に漏らさずに出来るか、だ!!本来なら貴様のような危険人物に頼む必要も無い…!!」

「それでは、君が拷問をしてくれるかね?燃えカスとは言え半分は我らの仲間…傷付ければ神は大層お怒りになる事だろう…。血を浴びて穢れるが良い」

ギルバート枢機卿長が話に割って入る。

「そ、それは…」

言葉に詰まってしまった。血の穢れは古来より、あらゆる宗教で忌み嫌われてきたものだ。戦争が続いたためにそれが持つ意味は薄れてしまったが、それでも同胞の血を浴びる行為は現在でも禁忌とされている。

「そう、お前にはためらいがある。対して奴には無い。それもまた、彼を推薦した理由だ」

鍵の束を憲兵に預け、全員を鉄格子に向かわせる。

「それで、引き受けてくれるかね?ペーター=キュルテン」

最後の質問が投げかけられた。

「…えぇ、勿論」

不適な笑みを浮かべて答えるキュルテン。そして、最後の扉が開かれる。

…異端審問直前の出来事であった―



「離せ!離さぬか、無礼者!」

憲兵の小脇にリリムが抱えられてやって来た。精一杯の抵抗をしてみせるが、縄で縛られている上に力を失っている状態。どう足掻いたところで脱出は不可能だ。鬱陶しかったのか、男から拳骨が飛ぶ。ゴツンと良い音を立てた。

「んがッ!?」

「大人しくしてろ!下級悪魔の分際で!」

「かかかか下級じゃと!?今、このわらわを下級悪魔とほざきおったな!?誰に向かって口をきいておる!?魔界の王族、リリムじゃぞ!?本来ならば貴様ら人間如きが触れるのも叶わぬ崇高なる…」

更にもう一発。ゴッと鈍い音を立てた。痛みに耐えられず悶え苦しむ。

「くおぉぉぉ…!!」

「何が王族だ、何も出来ないくせに。どうせハッタリだろ?まぁ、そのお陰で燃えカス排斥の口実が出来たんだがな。ククク…」

「全く、狂っておる…!貴様、軍人であろう!?仲間が拷問刑にされて何とも思わぬのか!?」

「仲間ぁ?勘違いするなよ。確かに所属は軍になっているが…俺は憲兵だ。秩序を保つのが仕事。むしろ、混乱の原因を取っ払えて清々するぜ」

「貴様があやつの何を知っておるというのじゃ!?軽々しくその様な言の葉吐き捨てるでないわっ!!」

言い争いが続く。互いが互いを挑発し合いながら。見るからに拳を出せる憲兵の方が有利なのだが、それでもリリムは怒鳴り続ける。怒鳴らなければやっていけなかった。

そうこうしている内に、軍内留置所に到着した。他には誰もいないようだ。悪魔用の監獄なのだろう。鉄格子に結界の呪文が刻まれている。憲兵はその内の一つの扉を開けて、乱暴に抱えていた少女を放り入れた。

「くっ!」

鍵をかける男。じゃじゃ馬を相手に疲れたのか、肩を回して溜息をついた。すぐ傍の椅子に腰をかけて、このまま見張りもするようだ。

「貴様!覚えておれ!四回じゃ!審問の時放り投げたのと二発殴ったのと、今放り投げたので四回じゃ!力が戻った時は真っ先に…」

「リリム!?リリムなの!?」

聞き覚えのある声が牢の外から聞こえる。

「その声は…ルナか!?」

鉄格子に向かって行って確かめようとした。が、結界が作用して電流が走ったような感覚に襲われてしまう。ギリギリ結界に触れないように外を覗くと、見慣れたランタンが向かいの牢の壁にかけられていた。

「貴様、そんな所におったのか!?」

「えぇ。それより、クロードはどうだったの!?教皇猊下にお取り次ぎはしてもらえたの!?」

ルナが知っておるという事は、教皇との謁見…やはり何か計画しておったのじゃな…。じゃが、それが分かったところでどうにもならぬ!

「いや、それどころではない!クロードは教皇暗殺未遂容疑で拷問刑じゃ!」

「えぇっ!?そんな事する訳無いじゃない!!だって、クロードは教皇猊下の…ッ!!」

何か言おうとしたルナ。だが、一瞬憲兵の方を見て、口を手で押さえた。心臓が激しく鳴っている。呼吸を整えて、焦り早打つ胸を静めた。憲兵は怪訝な顔で彼女の入ったランタンを覗き込む。

「…何じゃ、どうした?」

「い…いいえ!何でもないわ!」

ランタンの中では表情が覗えないが、明らかに動揺している。しばらく沈黙が続いた…。落ち着きを取り戻しはしたが、代わりに理不尽な現状が飛び込んでくる。彼がもうすぐこの世を去るかもしれない喪失感、恐怖。目の前にいるのは彼ではなく、計画の鍵を握る悪魔…事の発端たる悪魔…

「…どうしよう、クロードが…。あんたが…あんたが素性黙ってないからよ!!」

「何じゃと!?貴様、わらわの所為だと言いたいのか!?」

「えぇ、そうですがぁ!?何か間違ってたかしらぁ!?いつもいつも親がどうだとか血筋がこうだとか…それしか能が無いのかしらねぇ!!」

「かかかか下級第一位の分際で!!どの口が言うておる!?戦う事すら出来ぬ貴様よりはマシだと思うがのぅ!?」

「っ!?言ったわね!?あんただってクロードに魔力もらわなきゃ何も出来ないでしょう!?この単細胞!!」

「フンッ!!チビのくせに口だけは大きいようじゃのぅ!!」

女二人、鬱憤のぶつけ合いが延々と続く…。堪りかねた憲兵が止めに入った。

「黙れ黙れ!!お前ら自分が置かれてる状況分かってんのか!?囚人は大人しくしてれば…」

「そっちが黙れ!!」

衝突し合う二人ではあったが、この台詞はピタリと揃った。小悪魔の方は、血走った目、額には青筋、牙を剥き出しにして睨みつけている。息を荒げて、文字通り怒髪が天を突いていた。ひょっとしたら本当に大悪魔なのだろうかと思わせる。一方、ランタンの中の天使。中がどうなっているかは不明だが、溢れ出す気迫が男を威圧する。牢屋越しとはいえ、わずかに身の危険を感じた。

「あ…はい…」

けなし合い罵り合いはまだまだ続く…。



この階段は、一体何処まで続くのだろうか?蜘蛛の巣だらけで埃まみれ…全然居心地の良いものではない。憲兵二人に導かれるまま、クロードは歩みを進めていた。体は何故か傷と青あざだらけ。息も絶え絶えである。

と、クロードが突然歩みを止めた。残された力を振り絞って、抵抗を示す。何とかして引き返さないといけない…こんな所で終わるわけには…。しかし、それを軍の監視者は許さない。警防で男の体を叩きのめした。

「がはっ!」

「全く…いい加減にしろ!!さっきから何回目だ!?潔さの欠片も無いな、裏切り者の燃えカスが!!」

テメェには分からねぇだろうけどよ…俺は、今死んだら駄目なんだ!約束を守…

声を出し過ぎて喉が枯れかけている。それ以前に、声を出す体力が無くなってしまった。焦点が合わない…体が重い…。力尽きて、ついに膝から崩れ落ちた。

「あーあぁ、お前、やり過ぎだって!血ぃ出てるじゃねぇか!浴びさせんじゃねぇぞ!」

「大丈夫だって。穢れるのは同胞の血を浴びた時だろ?こいつ、半分は黒だし、教皇暗殺しようとしてた奴だ。神様も大目に見てくれるって!」

「そ…そうかぁ?…まぁ、そうかもな。でも、これどうすんだよ?運ぶの面倒だぜ?」

「運ぶ必要なんて無いだろ?引きずってさ…」

「馬鹿だな。こういうぐったりした奴を引きずる方が返って労力使うんだよ…。オラ、起きろ!!」

無理やり体を持ち上げられ、立たされるクロード。そのまま手を離すとまた倒れてしまいそうだったため、二人がかりで支えて進んで行く。

畜生…。声にならない声で恨みの一つを述べた。

下りきった先にある鉄の扉の鍵を開ける。その向こうには更に二つの扉。その内の右側の扉の方から鼻歌が聞こえてきた。キュルテンはご機嫌なようだ。人の気配に気付き、より一層高らかに歌う。明るい曲調なのにもかかわらず、この言い知れぬ嫌悪感は何だ?雰囲気とミスマッチだからか?だが、そんな事は今のクロードにとってはどうでも良かった。

右の扉には結界の呪文が刻み込まれていた。その向こうの部屋にはペーター=キュルテンと、数々の拷問器具が待ち構えている。彼は器具の手入れをしながら客人を迎え入れた。

「やぁ、思ったより随分遅かったじゃないか。何かあったの?」

「すまない。こいつが抵抗するもんでな、色々手こずったんだ」

傷だらけでぐったりしている男に目が行く。その瞬間、彼の表情が一変した。今までの薄ら笑いとは正反対の、怒りの形相。手入れをしていた釘を握り締めた。刺す様な瞳が憲兵を捉える。

「へぇ、僕より先に手を出したんだ…」

…何て目だ。本当に人間の目だろうか?逃れなければならないと思いながらも、吸い込まれてしまいそうな、奈落のような目。殺気がヒシヒシと伝わった。

「そ、それよりギルバート様からの伝言だ…」

「…何?さっさと言ってよ」

「生きてる時も、死んだ後も好きにして良い…との事だ」

驚いたのか、目を丸くした。釘を落とす。チリンという金属音。同時に、彼は整った表情が歪む程の笑いを発した。それを形容するには、魔王、という言葉が適切だろう。

「最高ぉーだ!!公認のおもちゃが手に入った!!それならそうと早く言ってくれよぉ!!」

すっかり機嫌を直した男は、二人からクロードを半ば強引に受け取った。そして、部屋の中央にある十字架にかける準備を進める。鼻歌も忘れて、野獣の様に乱暴な笑い声を漏らしながら…。気が狂ってしまいそうな光景を、憲兵はただただ呆気に取られて見続けた。

「…あのさぁ」

キュルテンががっかりした声で言う。

「僕は一人で、ゆっくりと、遊ぶのが、好きなんだ。気を利かせられないものかなぁ?」

ビクッと背筋を正し、軽く敬礼。そのままこの場を離れる憲兵。一刻も早く出たい、外の世界の空気を吸いたいという思いは共通だった。

ドアが閉ざされていく…

「今度のは、どれ位持つかなぁ…?心と体、どっちが先に壊れるかなぁ…?」

ペーター=キュルテンの笑い声が、鉄の向こうに響き渡った。



着々と拷問の準備が整う。傷だらけでヒュウヒュウと弱々しい息を漏らしている男。その肩に、手首に、胴に、足首に、革のベルトが巻き付けられ、十字架に磔となった。虚ろな瞳は、目の前で道化の様に笑い踊る長髪の男を捉えている。
彼は道具の手入れを続けていた。酒臭いのはおそらく消毒用のアルコールだろう。念入りに釘を磨いている。他にも薬も塗り付けているようだ。薬の瓶が何個かある。
先程まで狂人の様に笑い転げていた時と比べれば、今は落ち着いている方である。代わりにやたらと楽しげな鼻歌を奏でている。それでも歓喜を抑え切れないらしく、時折「クククッ」と声を漏らした。

「ん…ここは…?」

鈍痛が残る頭を苦しそうに持ち上げ、クロードが目覚める。一体、手入れにどれだけ時間をかけているのだろうか?彼が朦朧とした意識から自然に回復したのだから、相当手間をかけているに違いない。

「アハッ、気が付いたみたいだね。お寝坊さん」

声に気付いた長髪の男が、彼の近くに歩み寄る。相変わらず笑っていて気持ちが悪い。

「お前誰だ?…あれ、ていうか俺何で縛られて…?…!」

ここ数時間の記憶が蘇る。拘束、連衡…異端審問…ここに至るまでの経緯。そうだ、俺は拷問刑に…って事は、ここが拷問室か。…で、この気味の悪ぃ奴が…

「初めまして。僕の名前はペーター=キュルテン。君の扱いを任された男だよ」

「っ!?ペーター…キュルテンだと!?」

まだ頭がハッキリと冴えていなかったが、彼の名を聞いて一気に血の巡りが良くなる。そこらの目覚ましよりもずっと効果があった。

「へぇ?僕の事知ってるのかい?」

「当たり前だ。ペーター=キュルテン…戦後まもなく、軍人でありながら国民を、それどころか友軍まで手にかけた殺人狂…。被害者は一様に血を吸われるか抜かれた痕跡。故に二つ名は『白導の吸血鬼』」

不敵に笑うキュルテン。全てを吸い込みそうな、奈落の様な目をした。

「良く知ってるね。僕ってそんなに有名かな?」

それに負けず、殺人鬼を睨みつけるクロード。

「死刑になった、って聞いたが…こんな所でなりを潜めてやがったのか?」

「違うね…正確にはそうじゃあないよ。僕は穢れを嫌う潔癖症の官僚のために、君の様な罪人を処刑するために生かされてるんだよ。…飼い犬ってのは気に入らないけど、君みたいなのが現れる度に公認のおもちゃを貰えるのは願ったり叶ったりだね。

…あ、それと間違いついでにもう一つ…」

と、突然クロードの顎下を力強く掴んで、彼の頭を十字架に押さえ付けた。ミシミシとと顎の骨が音を立てるほどの力を込めて。握力もそうだが、腕を繰り出すそのスピードから、彼の実力が覗える。
顔を近付け、底無しの瞳を更に深くして磔の男に言い聞かせる。

「僕の事を『吸血鬼』って呼ぶのは止めておいた方が良いよ?僕は人間だ。殺すのも血を吸うのも、僕自身を満たすためだ。不死の倦怠に飲み込まれて、何を果たすわけでもなく片手間に人を襲うような…あんな生きてるのか死んでるのかよく分からない化け物と一緒にしないでもらいたいね」

しばらく睨み合いが続く。どんなに払拭しようとしても命を握られている感覚は否めない。相手は涼しい顔を崩さないが、囚われの身である彼の額から冷たい汗が流れる。思わず息を止めてしまった。天井から水滴が滴り落ちる音が大きく聞こえる。

と、キュルテンはニッコリ微笑んだかと思うと、先程まで手入れをしていた道具を置いている方へ下がった。何を使おうか悩んでいるようだ。直後に、頭を力無く降ろしてゼエゼエと荒い呼吸をするクロード。
「死」が形を得てそこに居る…。このまま飲み込まれそうだ。…ここで果てるわけにはいかない!焦って気持ちが先走ってしまう。
息が整わないまま、口を開ける。

「あぁ、確かに吸血鬼は違うな…」

「?」

「俺の知ってる吸血鬼は、もっと泣き虫で、色んな事に苦しんでて、腰が低くて…。お前みたいなただの怪物と一緒にしたら、あいつに申し訳が立たねぇわ」

この言葉を聞いたとたん、これまでのムカつく笑顔は消え失せて、完全に無表情になった。それでも陰のある威圧感を放っている。その時、ある釘が彼の目に映る。鉄製で先端が鋭く尖っているのは他と変わりが無いが、胴体に大きな隙間が設けられているという、奇妙な形状。迷わずその釘を手に取って、悪態をついた男の左の掌に思い切り突き刺した。

「ガアァッ!!」

苦悶の表情を浮かべ、叫び声を上げる男。間髪入れずに執行人が鉄鎚を打ち付ける。より深く刺さり、丁度手が隙間の部分に達した。異物が圧迫したため手の骨が一本へし折れたらしい。更に大きな、声にならない絶叫が部屋に響き渡った。

「おもちゃのくせに、なかなか大きな口を叩くね。自分の立場分かってるの?」

言葉の代わりに眼光で返ってきた。息が途切れ途切れで、脂汗が噴出している。どうにも頼りない姿であるが、瞳だけは力強かった。

「…どうやら、徹底的に教える必要があるみたいだね。決めたよ。極限まで時間をかけて、苦しみながら思い知るが良いさ。それから死ね」

もう一本、同じ釘を手に取る。今度は右の掌に当てて、嬉しそうに説明を始めた。

「この釘はね、僕が作ったんだよ。普通の釘を刺したところで血は止まっちゃうからね。こうして隙間を作ることで血が出続けるようになってるんだ。…だから、名付けて『吸血鬼』さ」

心臓の鼓動から一呼吸遅れて、血がリズム良く流れ落ちる。釘の隙間を伝って、パシャッ、パシャッ、と床に零れ、少しずつ紅い色を広げていく。それにしても、一向に血が止まらない。更に話が続く。

「でも、それだけだと血が固まって流れなくなる。…だから、先っぽに蛇の毒を塗ってあるんだよ!」

感極まって、けたたましく笑い上げた。だが、クロードにとってはそれどころではない。…毒!?時間をかけるとか言っておきながらどういうつもりだ!?いよいよ終わりだろうか?

「安心して良いよ?出血毒ってのは基本的に細胞を破壊するのと血液凝固を阻むの、二種類の酵素で出来てるんだけど、血を固めないのだけを使ってるからさ。すぐに死ぬ、って事は無いよ」

男の青ざめた表情を見て、満足げに続きを語る。すぐに死なないにしても、出血が止まらないのは厄介だ。痛みだけでも吹っ飛びそうな意識が保てない…。

「訂正するぜ…。お前、化け物以下だ」

平静を保つための一言。だがそれが狂った相手に火を点ける。

「…悲鳴は我慢してくれるなよ?僕の楽しみなんだ。さっきのじゃあ全然駄目だ。…今度はどんな風に歌ってくれるかな!?」

鉄槌で吸血鬼が打ち込まれる。肉を裂き、骨を砕く音と共に再び激痛が走った。理性など消えてしまいそうだ。耐え切れずに絶叫を発する。吹き出る血を舌で直接舐め取り、白導の吸血鬼は恍惚の表情に歪んだ。錆びた鉄の様な味…この味は久しぶりだ。

「さぁさぁ、まだまだ始まったばかりだよ!?蝉の様に鳴いて、蝉の様に死んでくれ!」

鉄同士がぶつかる音がする度に、拷問部屋から痛々しい叫びが響いた。



一方、監獄は静まり返っている。

つい先程までは、リリム対ルナの言葉の暴力が飛び交っていたが、「貴様など知るか!!」「もう知らない!!」の一言で一応の決着。引き分けという結果に落ち着いた。目を合わせないように互いに背を向けている。
見張りの憲兵はというと、女同士の醜い争いにすっかり怯えて、隅っこの方でうずくまって、ガタガタ震えていた。思い出したくないのに、あの戦いの事が蘇る。その度、「女は怖ぇ…」と漏らすのであった。…全く、哀れとしか言いようが無い。

…こうしている間にも、クロードの命が危険にさらされているのよね。ランタンの中で、パートナーの身を案じるルナ。何とかして救出する事が出来ないかと頭を回転させるが、考えても考えても自分独りで出来る事が無い。非力な己を恨みさえする。

「癪だけど、リリムに頼るしかないわね…」

渋々、向かいの牢獄にいるリリムに声をかける。

「ねぇ、リリム?」

真っ先に反応したのは憲兵だった。またあの修羅場が訪れるのではないかと、恐怖で体が強張ってしまった。

「ん~?何じゃ?」

以外にも上機嫌なようだ。明るい口調で返事をした。縛られているため、ゴロゴロ転がって向きを変える。その顔といったら、幸せでたまらないと顔に書いてある程だ。慌てて指摘する。

「ちょ、あんた!何よその顔!?クロードがピンチなのに不謹慎過ぎない!?」

「いや…これはこれで悪くはないと思ってのぅ」

気の抜けた表情…完全にリラックスした顔。あまりに状況にミスマッチで、怒りが込上げてきそうだ。修羅場の臭いを嗅ぎ取った憲兵が後ずさり。

「何が悪くないのよ!?このままだと…!!」

「クロードが死んで、わらわは奴から解放される!万々歳じゃ!きゃはは!ざまぁ見ろ、じゃ!」

あー…そういえばこいつ、クロードを嫌ってたわね…。色々ありすぎて忘れてたわ…。

「さっきは俺の事、狂ってるって言ったくせに…」

恐る恐る憲兵が言う。

「あぁ、気にするでない。戯言じゃ」

ちょっと前までは目の敵にしていた相手にもこの対応…。彼が死ぬ事でここまで上機嫌になれるのは、さすが悪魔といったところか。協力を得るためにも、少しあおってみた。

「でも良いの?クロード死んじゃったら、次はあんたの番じゃない?」

「フフフ、わらわには秘策があるのじゃ!」

秘策、ねぇ…。あぁ、やっぱりこいつ、当てにならないかなぁ?

と、カツンカツンと、誰かが階段を下りて来る足音。扉から出てきたのは別の憲兵だった。

「お疲れ。ほら、交代…」

「った、助かった!こんな二人、相手にしてらんねぇよ!!」

交代が言い終わる前に鍵を渡す。呆気にとられてる交代の男を後にして、憲兵はそそくさと留置所から出て行った。

「…何か、思ってたより上手くいったな」

ランタンがかかっている方の牢獄の前まで、男が歩み寄って来た。中にいる天使に語りかける。

「いよぅ!ルナちゃんご無沙汰!元気してた?」

「いや、あの…誰?」

初対面のはずだ。こんな顔は知らない。それなのに、何でこうも馴れ馴れしくするのだろう?

「あ、悪い忘れてた。…これでどうだ?」

憲兵の姿が変化していく。顔のパーツの配置がおかしい。ひょろ長い体…。忘れるはず無い。あまりに特徴的な天使。

「え、タミフルさん!?」

「改めて久しぶり。つか、お前ら何やったらあそこまで見張りをビビらせられんだよ…」

呆れてるのだろうが、ここまで顔が崩れていては表情が分からない。勿論、こんな事は口が裂けても言えないが。

「何じゃ、知り合いか?」

急激な変化を見せたそれに、リリムが興味を持ったようだ。何とか顔を見ようと牢屋の中をゴロゴロ転がり回っている。後姿からして天使なのは分かるが、隠れていて、しかも体の自由が利かないとどうも気になるものだ。

タミフルが振り返って悪魔に声をかける。が、顔を見るなり硬直してしまった。

「へぇ、クロードの野郎が契約したからどんな悪魔かと思ったけど、何だ、可愛いもんじゃあねぇか。初めまして、嬢ちゃん。俺はタミフル…人呼んで自由過ぎる天使だ!」

しばらく沈黙…。と、小さい方が尻尾の先で指して一言。

「何と恐ろしい顔じゃ!!貴様、本当は悪魔ではないのか!?」

「うるせぇ、この顔は生まれ付きだ!失礼な!…ルナちゃん、こいつ堂々と人の悩みの種を刺激しやがったよ!?」

彼の顔の事に触れるのはタブーだ。それくらいは見たら分かるのに、それを包み隠さないのは正直というか人の気持ちが分かってないというか…。今度は表情が分かる。涙が出ているから悲しいんだろう。

「あんたねぇ、失礼でしょ!ほら、謝って。あと、自己紹介くらいしなさい」

「フン、天使に謝罪するための言葉は持ち合わせておらぬ!…まぁ、我が名を知りたいのであれば教えてやろうぞ!わらわは…」

「はいはいリリムだろ?異端審問傍聴してたから聞いてるって」

「んなっ!?わらわの台詞…」

人の歌い文句が盗られると、こうもモヤモヤした物が残るとは…。肩を落とす。

「ていうか、謝んないからこいつ殴って良い?ルナちゃん」

「今は堪えて…」

小さい喧嘩などしている場合ではない。一刻を争う状況のはず。だが、それを感じさせない程、和気藹々としたやりとりが繰り広げられる。

ハッとして、ルナが問いただした。

「ところで、何で貴方がここに?それに傍聴してたって…」

「あぁ、ルチアーノに頼まれて…クロード助けるために悪魔探して来い、って」

願っても無い幸運だ。しかも、牢屋の鍵は彼が持っている。天使の方は喜びで表情が晴れ渡る。一方、自由になれると有頂天になっていた悪魔の方は一転。千載一遇のチャンスが奪われ、落胆とも焦りともとれる感情が襲った。

「やった!さすがルチアーノさん!やってくれる事が一味違うわ!じゃあ、早く私達を出して!」

「いやいやいやいや!無理だし!そんな事したら俺が死刑だし!」

とんでもないと言わんばかりに手を振る。

「解放してやれるのは、早くてもクロードの無実が証明されてからだって!」

「そんなぁ…」

気落ちしたように弱々しい声が、ランタンからした。

「な、何じゃ、我らを助けられもしないのにノコノコ来おったのか!?もう良い、とっとと帰るのじゃ!」

憎き相手を救い出されては、彼の魔の手から逃れるという夢は果たせない。悪魔は、早くこの厄介者を追い出したい想いで一杯だった。

「ところがそうは問屋が卸さないのだよ、お嬢ちゃん」

その想いも空しく一蹴される。

「ルナちゃん、クロードが審問への参加を要求してる、って教皇猊下に伝えたら、あいつは助かる。…それで良いか?」

「…えぇ、確実に。とりあえずはね…」

他にも何かを言いたそうだったが、それさえ分かれば十分だ。

「…さて、そこでだよ。リリムちゃん。牢屋にいながらにして、監視を掻い潜り、教皇猊下に言伝する方法を知ってるはずだ。それが何か教えてもらおうか?」

「フン、何じゃ世迷言を言いおって…。そんな物は知らぬわ!それ以前に不可能じゃ!それに、知ってても教えるはずが無かろう!?」

「うわ、何その態度!?お前クロードの仲間じゃねぇのかよ!?」

「誰があやつの仲間になどなるか!わらわは…わらわは無理やり…っううう…」

彼と初めて会った日。騙された上に殺されかけて…思い出しただけで涙が溢れてくる。

「何か想像ついてしまうのが…やり切れないな…。でも弱ったな…ルチアーノの奴も謁見の方法を探してるけど、頼みの悪魔が駄目じゃ万に一つも…」

「一つだけなら手があるわ!」

二人の目がランタンの方に向く。

「マジで!?」

「フン、そんな方法があるわけ無かろう?」

「何言ってんのよ!リリム、ほら影!」

「…あぁ、成程のぅ」

他人事の様に聞き流した。が、タミフルが何の事かと彼女を見続けている。あの顔で見つめられると気分が悪い。堪りかねて影を動かして見せた。ウネウネと影が陽炎の様に揺らめいたかと思うと、牢屋の外に伸びて人の形を作る。
影と本体がしゃべった。変なステレオの様に聞こえる。

「確かに、これならば結界だろうと何だろうと関係無いのぅ」

「しゃべった!気持ち悪っ!」

生まれて初めて見るしゃべる影に、戸惑いを見せるタミフル。

「貴様に言われとうないぞ!」

「どういう意味だコラ!?…何にせよ、これならいけそうだ!!教皇猊下の所まで案内してやるから付いて来いよ!」

「断る」

「えっ!?」

言い終わるか言い終わらないかで拒絶された。やっと見つけた希望なのに、こうもアッサリ消えてしまうなんて…。

「何でだよ!?」

「もう忘れたか、鳥頭め。わらわはあやつの仲間などではない!よって、助ける義理も持ち合わせておらぬ!」

「馬鹿か!?このままだとお前も危ないんだぞ!?」

「きゃはは!わらわには秘策があるのじゃ!クロードが死んで、わらわは自由になる…これを成し遂げるためにも、貴様らに加担などせぬわ!」

不敵に笑い声を上げる影と本体。音の反射もあって、エコーがかかった様に聞こえる。ふと、気になって怪訝な顔のルナが聞いてみた。

「で、秘策って…何?」

「い…言ったら秘策ではなくなるではないか!」

今はあおる材料が必要…。利用出来る情報はとことん搾り出す。

「怪しいわね…。本当は口先だけで、そんなの考えてないんじゃないの?」

「なっ!?わらわは本当に…!」

「そうよね~。だって、普段は見るからに馬鹿だし!クスクス…」

屈辱的だ。このままけなされてばかりでは、彼女の中の王の血が黙っていない。己の力を…威厳を示すためにも、ここは一つ驚かせておくのじゃ!

「良かろう…聞いて驚くが良い!…これより、家臣を召喚出来るだけ召喚して教皇庁を強行突破するのじゃ!!」

「!?」

二人の驚愕ぶりに満足げに踏ん反り返る影。得意げな顔の本体。どうじゃ!?驚いて声も出まい!!

顔を見合わせる二人。それからリリムの方に向きなおして…

「あはは、無理無理」

二人が声を揃えて完全否定。乾いた愛想笑いと哀れむ視線が痛々しい。

「なっ、何が可笑しい!?召喚円なら尻尾と血で描く事が出来るぞ!?代償も必要無いのじゃぞ!?」

「だって…なぁ?プクク…!」

「うん、無理だもん。クスクス…」

馬鹿にした目、馬鹿にした笑い…。我慢しようとしているところが余計に腹が立つ。

「お、おのれぇー!!笑うていられるのも今の内じゃぞ!?」

尻尾を軽く噛んで、血を流す。その血で、悪魔秘伝の召喚円をせっせと描く。縛られているとやはり動き難い。その脇で笑い声を漏らす天使二人。それでも図形を完成させ、家臣の名を唱えた。

「腹も空いた事じゃし、まずは…ニスロク!!」

…召喚円がピクリとも反応しない。描き間違えも無いし、普段なら黒い煙をモウモウと出しながら悪魔が現れるはず。何事かと近付いてみると、突然ポンッ!と小さな煙を上げて、中から小さな鳥の雛の様なのが出てきた。エプロンを着けているという事はまさか…

「ぴよ」

雛がひざまずく。

「…ニ、スロク…なのか?」

「ぴよぴよ」

首を縦に振る。

「どっ、どういう事じゃ!?召喚円は完璧なはずじゃぞ!?」

その様子があまりに滑稽過ぎて、とうとう二人の天使は我慢の限界に達した。爆笑が牢獄に響き渡る。

「だから無理だって言っただろぉ!?ぎゃはは!!」

「だって…だって教皇庁全体に結界張ってるから成功しても皆そんな感じに…そ、そんなチビっこいのになっちゃうんだもん!!あはは!!」

予想外の事態である。完璧だと思っていた計画に、こんな落とし穴があったとは…。目の前でトコトコ走ってはコテンとこけている雛を、青ざめた目で呆然と眺め続けた。

「もう良い…。ニスロク、帰れ…」

「ぴよ?」

自分がどんな姿になっているかすら、何も理解していないニスロクはそのまま召喚円に消えていった。

「…無念じゃ」

落胆を隠せない。

「それで?どうする?クロードは仲間じゃないから助けないんだよね?」

勝ち誇った笑みを見せてルナが問う。といっても、ランタンの中は何も見えないのだが。

「な、仲間ではない…仲間ではないし、助ける義理も無いが、あやつを殺すのはわらわじゃ!!他の誰でもない!!わらわ自らが殺さねばならぬのじゃ!!故に命を取り返しに行くのじゃ!!」

助けに行かないわけにはいかない。計画が破綻した以上は、そうしなければ自分も危ないのだ。必死に言い訳を取り繕うリリム。

「お前、調子良いな…」

アホらしくて多くは語らない自由の天使。これはこれで扱いやすくて良いのだが。影の方に歩み寄った。

「よ…良きに計らえ!それより、早く案内するのじゃ!事態は一刻を争うぞ!」

「へいへい…。じゃあ行ってくるわ、ルナちゃん」

「リリムを頼みます!タミフルさんも気を付けて!」

憲兵に変化して、監獄を後にするタミフル。その影に紛れて、リリムの影が付いて行った。扉が閉ざされ、カツカツと階段を駆け上る音が遠のいていく。

「私は何も出来ないけど…信じて待ってるわ。二人とも…」

静かになった牢屋で、ランタンの中から成功を祈るルナ…



…



「まぁ、わらわの本体はここにいるわけなんじゃがのぅ…」

噛んで傷付いた尻尾を舐めながら、向かいの牢屋にいるリリムが言った。

「あぁもう、ややこしいわね!」



教皇庁大図書館。一般向けの小説から閲覧禁止の本まで、様々な書物を網羅した、白導でも最高峰の図書館である。一般向けと言っても、教皇庁関係者限定での話だが。
ここでは他にも歴史資料や内政動向記録等といった、重要ないし極秘の情報を管理する資料館の役割も果たしている。故に、ここは白導教皇庁情報部隊の管轄となっていた。空調は勿論、監視の目も最新鋭の設備を導入している。

図書館の空気は、他のどの建物とも違うものだ。入った瞬間、閉塞感に喉を詰まらせる。薄暗い。夏には生ぬるい空気が包み、冬にはわずかに冷たい程度しか暖房を効かせない。しかしながら、年中空気は乾いている。本の保存には最高の環境だが、それでも人の作った物…かすかにかび臭さがある。
一見、居心地の悪い場所の様だがそんな事は無い。壁が音を吸い取っているのではないかと思えるほど静かだ。空調も慣れれば不快とまではいかないし、何より、優しい息苦しさと薄暗さが睡眠には最適なのだ。そのため、ここはルチアーノの定番サボりスポットになっていた。



その彼が熱心に本を読んでいた。それも分厚く難解な法典、解釈書、あと何故か赤い薔薇が一輪などなど…。彼が仮にここで本を読んでいたとしても、いかがわしい内容の物しか読まない筈だ。が、今日に限っては起きていて、しかも彼の人柄からは思いもよらない真面目な本に目を通している。普段のだらしない昼寝の風景とは正反対のその光景に、嫌でも周囲は目を疑ってしまった。妙な…いや、図書館なのだから当たり前なのだが、沈黙が辺りを包む…。

バンッ!!…と、突然彼はいかにも苛立った顔を見せて、読んでいた本を乱暴に閉じた。静かであっただけに音がやけに大きく聞こえた。その音に驚いて、周りの人々の背筋がビクッと伸びた。本の中に吸い込まれた意識が、一瞬にして体に戻ったような…目が覚めた時と同じ感覚。すると「シィーッ」と、場違いな騒音を非難する声が彼に向かった。

「あ、失礼…」

顰蹙を買ってしまい、気まずくペコペコ平謝り。そそくさと薔薇だけを持ってその場を離れる。残されたのは机にばら撒かれた大量の本。この後、彼が本を戻しに帰って来る事は無かったと言う…。



うん!さっぱり分からん!!

どうしても果たさねばならない事を諦めた後、こうも清々しい笑顔が出来るのだろうか?人の命が懸かった使命を負っているとは思えない。さらりと流れる汗と、くるくる回している薔薇が余計な爽やかさを演出していた。
本棚と梯子の迷路をスルスル潜り抜けて行く。

俺、あの類の本読んでるとイライラしてくんだよねー。ていうか、エロス以外がテーマの本なんて触りたくもねぇし!
しかし、面白いくらいに掴み所が無ぇな。今の所、頼みの綱は悪魔だけ…か。…まぁ、大体、教皇庁がこんな目に付く場所に弱みを曝してる筈も無ぇけど。

くるくる薔薇を回していた指先の動きが止まる。間の抜けた表情をキッと引き締めた。おもむろに手帳を取り出す。それにはビッシリと女性の名前や詳しいプロフィールが書き込まれていた。その中のある女性の名前に薔薇の茎の切り口を指す。ヘンリエッタ=フーバー…。

事はややこしくしたくなかったんだけど…やっぱ、核心に迫るネタが必要だな…。



受付では数人の情報部隊員が黙々と、貸し出し、返却、新刊入荷などといった事務をこなしていた。魔導計算機を駆使し、キーボードに情報をカタカタ打ち込んでいる。

その中でも一際目を引くのは、貸し出しの応対をしている彼女だ。謂わば図書館の顔とも呼べる立ち位置であるためか、ただの偶然か、十中八九の男が見れば美人だと思えるような顔立ちである。顔だけではない。仕事もてきぱきこなす上、人当たりも良い彼女は、周りも認める才色兼備である。

「それでは、二週間後に返却をお願い致します」

にっこり微笑んで利用者を見送った。この笑顔を拝む為に、借りようとも思わない本をわざわざ借りに来る男が少なからずいるとかいないとか。

「次の方、どうぞ…え?」

見ると、次の順番を舞っていた男は本の代わりに、一輪の赤い薔薇を差し出していた。屈託も無く彼女にニッコリ微笑みかけて、親指を外の方にクイクイと指している。困ったようで嬉しそうな苦笑いと、薔薇を受け取る事でで応える女。その場に居合わせた同僚に声をかける。

「ゴメン。私、ちょっと用事が出来ちゃって…。少しだけ頼んで良い?」

「え…?あぁ!!はい、少しだけなら…」

男と女…この構図を見て察したのか、快く応じてくれた。本来このような理由で抜け出すのは規則違反なのだが、人間というのは軽い規則など平気で無視するものだ。
軽く手を振って彼が外に出る。しばらくして、彼がここにいたことを知る者が少なくなったのを見計らって、彼女は彼の後をゆっくり追った。



図書館脇の広場、隅の方のベンチに彼は座っていた。青々とした緑の庭園が印象的な憩いの場。男の傍に、長い髪を掻き分けながら彼女が歩み寄る。

「ルチアーノ、薔薇なんて急にどうしたの?仕事中だからあまりこんな事…」

女の澄んだ声に気付き、彼もまた彼女の元へ歩み寄る。彼女の言葉を受けて、少々決まりが悪そうに応えた。

「おいおい、こんな事だなんて心外だな、ヘンリエッタ」

抱き合う男女。彼とこういう事は何度もやりあってるが、何と言っても好意を抱いている相手だ。彼の体温に、ヘンリエッタは未だに胸の高まりを抑えきる事が出来ない。夢の様な時間に頬が熱くなる。
と、ぼんやりしていると、ルチアーノの指が彼女の顎を捉えた。僅かに上に持ち上げて、二人の視線を合わせる。徐々に彼の顔が近付いてきた。穏やかな吐息の温もりが、女の鼓動を速くする。

「あ…」

言葉が出る前に唇が口を塞いだ。血液が湧き出ているのではないかと錯覚するくらい心臓が膨れ上がる感覚。その脈動が鼓膜にまで響いてくるみたいだ。身体が燃える様に熱い…。

「ん…」

一時は自らの急激な変化に戸惑っていた女だが、次第にそれを受け入れ、男を求めた。互いの唇と唇、舌と舌、唾液と唾液が絡み合い、二人の境界がとろけて消えそう…息をするのも忘れてしまった。

唇が離れる。呼吸を止めていたため、微かに息が上がった。彼はいつに無く神妙な面持ち。キスの刺激とそれによる内分泌系の活性化のため…と言うのは無粋だろうが、それらが彼の表情を男性としてより一層愛おしい物に錯覚させる。

「ヘンリエッタ…頼みたい事があるんだ」

「…何?…」

陶酔の世界に浸かっているのだ。受け答えも少々上の空。ただ、こうして一緒にいられるだけで十分だと思っていた。

「地下の書庫に入れてくんない?」

「うん…地下書庫…、って!!駄目よ、それは!!」

甘く淡い空間から一気に意識が戻って来た。自分だって、仕事の責任、立場というものがあるのだ。いくら想い人と言えど、出来る事と出来ない事があって当然だ。彼を突き放そうとしたが、そこは現役軍人の男と情報部隊の女…力の差で軽く抑えられてしまった。

「えー、何でー?減るもんじゃねぇーだろー?」

先程までのスマートな彼から一変、ブーブーむくれて大人気無い。そんな姿を見ると、男への熱も急激に冷めてしまった。

「そういう問題じゃないわよ!!あそこはただの書庫じゃないの!!許可を貰えるどころか、そういう階級でもない人間を入れる訳にはいかないわよ!!」

「…俺の事、嫌い?」

すかさず悲しげな表情を作って、情を誘おうとする。ここまで見え見えな演技を見せられて、もううんざりだった。こうも見え見えだと、ある一つの疑念さえ浮かんでくる。

「騙そうとしたってそうはいかないわよ。…どうせさっきの薔薇も、き…キスだって…ご機嫌を取る為だったんでしょう!?私の為じゃなかったんでしょう!?」

「え!?、あ…いやー、そんな事は無いって!!俺は…ッ!!」

「嫌っ!!放してよ!!」

好きだった。心から愛していた。だからこそ、彼からの仕打ちが身を焼く様な辛さだった。これだけ瞳が熱くなった。涙を流せた。精一杯暴れて、大声を出して、彼の両腕から逃れようとする。が、体力の差、人気の無い事が災いして、どうしようも出来なかった。

「おい!!待っ…、ちょ、聞けよ!!」

「嫌!!もう何も聞きたくない!!」



「二度と会えないかも知れないんだ!!」



「…え?」

ヘンリエッタが静かに抵抗を止めた。二度と会えない…?その言葉の意味が分からなかった。大人しくなったのを見計らって、ルチアーノが続ける。滅多に見せない真剣な表情…嫌でも大人しく聞き入ってしまう。

「…クビになったんだ。ここ…」

「クビって…、そんな!!何で!?」

ついさっきまでは彼を拒絶していたが、予想だにしない展開に、彼の事が心配でたまらなくなった。いざこざなんてものは何処吹く風…もうそれどころではない。

「ちょっと上司とトラブルがあって…で、だな…」

「だからって…二度と会えない事はないでしょう?教皇庁には入れないだろうけど、ヴァチカンに住む事くらいは…。!貴方、その場しのぎの嘘じゃ…!?」

「違うって!!いい加減疑わないでくれよ!!」

「ご、ごめんなさい…」

ここまで怒られるとは思わなかった。どうせ嘘だろうと思って出た言葉だったのだが、彼は本気だ。気迫と剣幕の威圧感にたじろいで、思わず目を逸らしてしまった。

「…いや、俺の方こそ怖がらせてごめん。ちょっとイライラしてて…。確かに、ヴァチカンに残る方法も考えた。だけど、知ってるだろ?地方から仕事を求て来た人だらけだ。求人の状況は他と比べたら良い方だけどさ、殆どの奴が仕事に就けないんだぜ?こんな所に住める訳無ぇだろ?」

「お、お金が心配だったら私が何とかして…!!」

「君に迷惑は掛けられない」

「構わないわよ!!だって私達…」

「それじゃあ俺の両親も面倒見てくれるって言うのか?俺の仕送りで生活してたのに…このままじゃ…」

「えっ…?それは…」

言葉に詰まる。彼が仕事を見つけるまで、自分の家で一緒に生活を送る…。自分と彼だけなら問題は無い。だがそれに、彼の家族が生活出来るだけの仕送りを考えると…どう考えても無理だ。

「…な?もう、ここにはいられないんだよ」

彼の微笑みが「仕方が無いんだよ、君は悪くないんだよ」と告げている様で、その優しさに再び目が熱を取り戻す。無力な自分が悔しかった。スンスンとすすり泣く乙女を男の両腕が優しく包んだ。

「泣くなって。俺まで悲しくなってくるじゃねぇか…」

「…だって、ルチアーノが…いなく…なるなんて…」

しばらく静寂が続く…。スンスンと彼女が泣く声と、そよ風に吹かれた葉っぱが擦れ合う澄んだ音。腕の中で、女が力無く震えているのが良く分かる。抱いてくれている男もまた、僅かに震えている事に彼女は気付いた。これだけ近いと、彼の心音が良く聞こえる。トクトクと、速く愛らしい音…。

お互い、ある程度落ち着きを取り戻してきた。彼の腕がそっと離れる。涙を見られるのはみっともないと思ったのか、指先で雫を取り払った。

「ごめん…」

声の方を見ると、彼が背を向けていた。

「だから、せめて誰にも邪魔されない場所で君と過ごしたかったんだ…。最後の時間を…」

「ルチアーノ…」

「確かに騙してたかもしれない。君を悲しませたくなかった…いや、それ以前に俺は、自分を満たすだけで精一杯だったんだ…。時間も無かったし、あれしか手段は思い付かなくてさ…。だけど、結果はどうだ?君に余計な心配を掛けて、嫌な思いをさせて、挙句の果てには泣かせてしまった!エゴなんかの為に…」

「…」

「最低だな、俺…。…さようならだ」

音も無く前に歩み出るルチアーノ。普段は大きいと思っていたが、今やどこか寂しげで小さな背中が、段々、段々遠退いて行く。手の届かない場所に行こうとしている。こうもあっさりと…。

…耐えられない。

「ルチアーノ!!」

彼女が彼を追い駆け、後ろから抱きしめて引き止めた。…震えている。ただ、先刻の様に力の無い震え方ではない。感情が溢れ返って、堪え切れなくなった…そういう力を感じ取れるような、そういう震え方だった。

「少しだけ…ほんの少しだけなら…、良い…よ…?」

振り返ろうとするも、彼女のか細い腕が、もう少しだけ力を加えて抱きしめる。今の顔を見られたくないのだろう…。そう思い、彼は背中から語りかけた。

「…ありがとう、ヘンリエッタ…」

優しく、暖かな声。勿論、その様な言葉を呟く本人もその様な表情…

かと思いきや、明後日の方向に目を向けて、舌をチロッと出している。悪戯小僧の表情であった…。

ヘンリエッタには悪い事したなぁ…。また、女の子リストが薄くなるぜ…。

ちなみにルチアーノの両親は、ちゃんと自分達で生計を立てている。至って健康な者であったという…。





ピチャン、ピチャン…タタタッ、タタッ…

天井から水が滴り落ちる音と、血が床を叩く音が不規則なリズムを刻む。クロードの両手両足には出血毒を塗った特製の釘、『吸血鬼』が打ち込まれ、ドクドクと血液が流れ出ている。手の方は毒が切れ掛かっているのか、比較的出血量は少ないようだ。それでも、この短時間でとは考えられない量の血液を失った。拷問室は、カビ臭さと消毒用アルコールの鼻を突く臭い、血の錆びた鉄の様な臭いの混ざった、不可思議な臭気で満たされている。

ジュル、ジュルル、ペチャペチャ…

痛みなら今まで何度も味わってきた。手足に突き刺さってるこの苦痛は間違い無く今までで最悪だが、我慢出来ない訳ではない。歯を食い縛って声を殺せば…。だが、今、足に作った穴から出る紅い血…それを舐め取る男の舌が肌を伝う感覚はどうにも気持ちが悪い。吐きそうだ。

ひとしきり血を飲んで満足したのか、みっともなく口の周りに付いた紅い液体を拭き取って、キュルテンは語り掛けてきた。

「どうしたァ?楽しくなさそうだなァ…ククク」

久々の新鮮な血液に興奮したのだろう。どこか幼さを残していた喋り方が乱暴になり、より狂気が前面に出て来ている。瞳がぶれている…焦点が定まらないのか?何にせよ、普通じゃない。侮蔑の視線を狂人に送る。それが気に入らなかったようで、クロードの頬に平手が右、左、右、左…と続いた。

「蝉の様に鳴いてくれよォ!!もっと聴かせてくれよォ!!僕は、五感を満たしたいんだよォ!!」

楽しさが過ぎて息を荒げる拷問官。殺さないように、長く楽しめるようにと思っていても、ついつい過激になってしまう。快楽物質が体中を駆け巡る心地良さに我を忘れてしまうのだ。一通り殴りつけて、何とか手を止める事が出来た。息も絶え絶え、傷だらけのクロードが口を開く。

「…あぁ、だから…お前の要望…に、応えようと思ってな…」

「…うぅん?」

「蝉ってのは、地上に出てから命…の限り鳴くんだ。こんな…真っ暗な地下で鳴い…てしまったら、蝉に…悪い…」

ニヤリと、出来る限りの口答えをする。思ってもみなかった台詞に、初めて白導の吸血鬼がうろたえた。が、それも一瞬。あっと言う間に歓喜の表情を浮かべて嬉しさに声を漏らす。

「…フフフ、良いねぇそれ!!悪くない回答だ!!模範解答にしても良い!!」

感動、恍惚が吹き出してしまう。その余剰な力が体の動きに出ていた。飛び跳ねながら、釘が並べられている所に向かう。彼が手にしたのは、その中でも特に長くて細い釘だった。

「君の口からそんな綺麗な言葉が流れ出るとは思わなかった!!…これは、もうちょっと楽しみたくなってきたなぁ…ッ!!」

釘の先が磔になった男の右胸を貫いた。胸から背中へ、肉に穴が開く苦しみが体を突き通る。

「…っ!!!?」

死…今度こそ…。その考えは挑発の男によって打ち消された。

「安心して良いよ。臓器の位置は分かってるんだ。内側を傷付けず、痛めつけるだけだから、これで死ぬ事は無いよ」

…とりあえずはこれで良い。タイムリミットが僅かでも伸びれば望みはある。今は、ただひたすら耐えるんだ!

体はボロボロだが、睨みつける目はまだ生気に満ちている。それがいつまで保てるか…それが、キュルテンにとって楽しみで仕方が無かった。二本目の釘を手にして、歪んだ笑顔を見せる。

「さァて…蝉の幼生さん、いつまで地中に潜ってるのかな!?」

二本目の先端が彼に向かう。その様子を、冷たい鉄の処女だけが見守っていた。





一方、教皇庁大図書館地下書庫…

ここでは最重要機密である書物が多数保管されている。その為、映像記録が残るのを防ぐ為に、監視カメラは全く存在しない。その代わり、入庫記録は教皇の部屋並みに厳重で、そう簡単には侵入出来ない場所であった。悪く言えば、入ってしまえばこっちの物なのだ。

「ハァ…ハァ…」

その書庫の隅の方に、身に着けた衣類を全て脱ぎ捨てた女性が横たわっている。周りには彼女の洋服が散乱し、申し訳程度に上着を掛けられていた。汗を流し、頬を赤らめ、先刻までの快楽の余韻に意識が飛んでしまっている。幸せそうな、悲しそうな表情…。最後…で、あるはずの行為だったた為、想い入れも相当だった事であろう。今、彼女は夢の彼方で何を見ているのだろうか?

そこから少し離れた場所で、男は黙々と資料を漁り続けていた。一応、証拠が残らないようにハンカチで越で触りながら…これが難しい。綺麗に一ページずつめくれないのだ。

官僚どもが教皇に反応して今回の件は急進した…。現教皇が本格的に政治に参加し始めたのは三年前…。何かあるならそこだろうな。

めくってもめくっても、書いてある事は普通の政治。全く、こんなつまらない物を重要視してるなんて上は何を考えてるんだろうか?

「ん?」

ルチアーノの目が留まる。異端審問についての改定案…?これは…

「これだ…!」

見つけたぜ…官僚のスキャンダル!!待ってろ、クロード!!それまで耐えてくれよ!!





BLACK OR WHITE? 6~誰が為に騎士は行く.part2~ part3に続く



[19605] BLACK OR WHITE? 6 ~誰が為に騎士は行く.part3~
Name: 縄口圭心◆52f18317 ID:1cf981f1
Date: 2010/06/16 21:58
昼を過ぎ、太陽は次第に傾きつつある。

白導教皇庁の中心部、公邸ヴァチカン宮殿。帝国会議事堂に隣接する、教皇の住居である。巨大な城壁に囲まれた教皇庁を一言で言えば「圧巻」であるが、その内部にあり、同じく壁に囲まれたその建物には「神秘」という言葉がふさわしい。外界から隔絶された空間からすらも隔てられているためであろう。

そこへの唯一の出入り口に向かう近衛兵…タミフルとリリムの操る影。勝手に動く影を見た者は殆どいない…只でさえ目立つ。そのため、悪魔は天使の影に溶け込むように身を隠していた。紙を破ったような目と口、それに、後方に伸びた影の細い尾が少しばかり不自然さを残す。

「…まるで、白銀の鳥籠の様じゃな」

宮殿を覆う大結界、近衛兵の規模は最大級を誇り、徹底した出入管理…ここに居たら、身の安全は完全に保障されたのと同義であると言う程であった。あながち彼女の発言は間違っていない。絶対の対外防御は逆に、内側からの脱出も困難であることを意味していた。もっと踏み入って言及すれば、有り得ないくらい贅沢な牢屋と言うところか。

と、兵士のかかとがパックリ割れて、口が現れた。小声でボソッと影に呼びかける。

「おい、喋る影があるか!?誰かに聞かれたらどーすんだよ!」

「…裂けて口を利くかかとも無いと思うのじゃが?貴様、果てし無く気味が悪いのぅ…」

「シッ!門に着くぞ」

門前警備に当たっている兵隊は十人。そして入管に四人、門の両脇にそびえる監視塔に三人ずつ。合計二十人の門番が待ち受けている。これだけでも相当なものだが、有事に備えて有能な騎士らが数多く待機しているのだから、侵入するにしても死ぬ気…と言うより、確実に死ぬつもりでなければならない。ある種、現世と冥界の扉だ。



接近する不審者に、番人が黙っている筈が無かった。たとえ自分達と同じ服装をしている者でも、まずは疑う。教皇の守護者になるという事はそういう事だ。十人の内の二人が槍の先を交差させて、男を門から離れた場所で止めた。

「止まれ。こんな所で何をしている?猊下に謁見する者がいるとは聞いていないぞ?」

…この二人で素性確認、もしもの時も考えて後ろの八人の為に間合いを作る、か…。全く、機械の様に優秀だよ。

「いやぁ、今日は実に天気が良い!そう思わないかい?え?兄弟!」

「…何だと?」

「素晴らしい日だ!今日は鬱陶しい物もそうでない物も、何もかもが清々しい!キューピッドが放った、たった一本の矢がこうも…こうも私の人生を変えてくれるなんて!!そうだ!この日を記念日にしよう!!この喜びを、私達以外の人々にも存分に…」

「怪しい奴め…。さっさと引け!さもないと…」

精巧な歯車の様に冷ややかな顔をして、片割れが槍の切っ先を、惚気に現を抜かした男へ向けた。こうなったらたまらない。顔は青ざめ、「ひっ」と軍人とは思えない情けない声を上げて、そそくさ逃げて行った。

「へ~んだ!!テメェら、彼女いないから羨ましいんだろ!?バーカ!!」



バタバタ逃げる奇怪な男の背中を、ただただ見送る門番二人。くだらない。くだらな過ぎて拍子が抜ける。

「…何なんだよ、アイツ」

「気にするな。戦後十年、平和ボケも恋愛ボケも最盛期なのさ」

「畜生、あんなの守る為に軍人なったわけじゃないぞ」

「あぁ、あの類は気にも留めなくて良い。俺達が守るべきは教皇猊下だ」

「ハッ、そうだな」

何事も無かったように談笑、持ち場に戻る教皇親衛隊の二人。その影にはリリムの影の尾が繋がっていた。

…その通り。こんな子供騙しにかかる貴様らは平和ボケじゃ。

警備で定まった配置に戻る。ここまで来れば容易に忍び込める。が、不審人物が去ったばかりで、彼らの緊張、注意力はまだ臨戦態勢から戻っていない。

…成程、平和ボケは訂正しよう。さすがに教皇の身辺警護を任されただけの事はあるのぅ。

警備兵の死角から様子を覗うリリム。障子に穴の開いたような目では、堂々と観察出来ない。背中越しにしか分からない。だが次第に、男達の中で張り詰めていた糸が緩み、殺気が消えていった。

もうそろそろ、動いても良かろう。

ここまで来れば忍び込む事など造作ではない。白導一の鉄壁もあくまで対人、対魔の代物。影が忍び込むと考えた人間はいないのだ。マニュアルやセオリーを徹底したところで、全ての穴が埋まる訳が無かった。真面目に見張りをしている親衛隊を尻目に、門の隙間をちょちょいと潜り抜ける。

気配とも言えぬ気配…と、一人が振り向き、影の通った跡を見た。

「?おい、今何か動かなかったか?」

「何って、何が?」

「…いや、気のせいだな。疲れてんのかな~?」



「…ねぇ、今どうなってるの?」

牢屋にはリリムとルナの二人だけ。何もしていない小さな天使に出来る事と言えば、進行状況を聞いて一喜一憂する事くらいであった。

「丁度、宮殿の門を潜ったところじゃ。…あぁ!もう喋りかけるでない!!ここまで影を伸ばしたのは久し振りなのじゃ!!気が散る!!」

「わ…分かったわよ…」

気が散るも何も…牢屋中をゴロゴロ転がって、尻尾を振ってるだけじゃない…



…さぁて、後は小悪魔ちゃんに任せて、っと。

監視の目が届かない所まで来たのを見計らって、建物の陰にサッと身を隠す。周りに目を配る。…誰も見ていないな。タミフルは懐から小型の通信機を取り出し、別行動を取る相方に連絡を入れた。

「あー、アローアロー、こちらタミフル。ルチアーノ、応答しやがれ」

僅かに間が入る。プッとスイッチの入る音を発し、音質の悪さでザラザラとフィルターのかかった様な声が続いた。

「おぅ、タミフル。そっちはどうだ?」

「首尾は上々。後は小悪魔次第、ってトコだな」

「良し、グッドタイミングだ!今すぐ憲兵隊庁舎に来てくれ!色々探してる内に面白いのが見つかった!」

「面白い物?何だそれ?」

「詳しく説明する暇は無ぇよ!無駄口叩いてる暇あったら来い!」

「へいへい、了解っと。…オーバー」

通信を終え、すかさず憲兵の姿に変化する。憲兵隊に一体何があるのだろうか?…いや、俺が考えた所で何にもならない。今は黙って走れ!誘導はハッキリと先の見えている奴に任せておけば良い。

だけど、あっちに駆けて、こっちに走って…こりゃあ、謝礼はタンマリ頂かねぇとなぁー…。



門の向こう側は、それこそあの世ではないかと見紛う情景が広がっていた。
これだけ巨大な防壁に囲まれているというのに、薄暗さが全く感じられない。暖かく黄色がかかった陽光が、ここ一帯の空気を包んでいた。ユラユラ日光が揺らいでいるのは、大結界による魔力の歪みが作用している為だろう。水面下から太陽を見た様な感覚。夕方はそう遠くないというのに、朝日の清々しさと、白昼の太陽の温もりを合わせた様な不思議な空間。庭園には色とりどりの季節の花が咲き乱れ、庭師の剪定鋏とチロチロさえずる小鳥の歌のハーモニーが貴族のアンニュイな午後を彩るのにもってこいだ。

うおぅ!?明るい!!明る過ぎるではないか!!

我々人間が好む様な環境は、悪魔達の生活する世界とは大きく異なる。暗闇を好み、荒れ果てた魔界の大地に慣れている彼女にとっては、ただひたすら居心地の悪い、劣悪な場所なのだ。

た…例え影であろうと、こんな所に居続けては精神が参るわ!!一刻も早く教皇を探し出さねばなるまい!!

庭師の目を盗んで、庭園脇の廊下へ飛び込む影リリム。さすがにここには陰が出来ている。生まれた場所に満ちていた安堵感をゆっくりと取り戻した。やはり、闇の中の空気は肌に馴染む。髪の毛の先まで、この心地良い冷たさを堪能しておこう。

しかし広いのぅ…。とても人間一人の為の物とは思えぬ。まぁ、父上の万魔殿には及ばぬが。それでも、まともに探していては日が暮れてしまうのじゃ…。

使用人達が目の前を通り過ぎて行く。やはり、移動するにしても誰かの影に紛れてでないといけない。かといって、紛れた影の主が教皇の元へ行くとは限らない…。はて、誰に付いて行けば良いのじゃろうか?

カツカツカツカツ…

ふと音の方へ目を向けると、トレイにティーセット一式と、ナッツが香ばしい焼きたてのビスコッティー二、三切れを乗せて、メイドが姿勢正しくスタスタと歩いて来る。

美味そうな匂いを撒き散らしおって…。

どうやら食の好みは人間と大差は無いらしい。捕まってからは何も食べていないから尚更である。

しかし、一体誰が…こんなご時勢にティータイムなど、随分と優雅じゃのぅ。

…ティータイム、…優雅…



…教皇!!!!



間違い無い。教皇の騎士らが食する物にしては数が少な過ぎる。番兵が、教皇が誰かと会う予定が無いと言った以上、これを口にするのは教皇のみだ。

きゃはは!今日のわらわは冴えておるのぅ♪

一片の迷いも見せず、メイドの影に潜り込む。彼女が気付く様子も無い。
貝の様に難攻不落の城壁も、中に入ってしまえば脆い物だ。

思ったより、早く終わりそうじゃな。

給仕の女は悪魔を連れているとも知らず、いつも通りに教皇の下へ向かって行った。すれ違う執事ら使用人も、巡回する騎士らですら誰も異変に気が付かない。良い調子だ…このままなら上手くいく!!



何かがおかしい。そう思ったのは近衛兵でもなく、庭師でも、悪魔の近くに居た使用人でもない。展望塔の中腹にて、最も教皇の近くに控える熾天使ミカエル。異変に気付いたのは、己の剣術を磨いている最中であった。

黄金と銀、そして天界の清らかな神の焔によって鍛え上げられた諸刃の剣。かつて創世の時代、ルシファーら堕天使の反逆を食い止めた力である。人間には余りある巨大な魔法の結晶を、その天使は易々と右手一本で操った。振るう度に橙色の火花を散らし、蝋燭を傷付けずに灯を点す。彼の部屋の闇を切り裂くそれは、武器と言うよりも神の奇跡、あるいは芸術である。史上で最も困難な剣舞の一つであろう。更には焔の熱…。にも係わらず、彼は汗一つ掻かなかった。

ユラリ…

突然、ほんの一瞬だが、剣が吐く聖なる焔によどみが生じる。同時に、背中をネズミがかじった様な悪寒。瞬間、剣を止めるミカエル。並みの剣士ならば勢い余って振り下ろしてしまう所を、この天使は、止めようと思えば何処でも止める事が出来る。ピタッと止めるとは正にこういう事だ。

「…ネズミが紛れたか」


階段に光源らしい物は窓くらいだというのに、相変わらず薄暗さは感じられない。神の御許に一番近い場所…それに相応しい場所だった。

階段を上り、展望台へ向かうメイド。トレイを片手に乗せて不安定なはずなのに、姿勢は一切崩れない。少なくとも彼女はメイドとしては一流なようだ。

じゃが、教皇の身辺を任された者としては半人前にも満たぬ。

「止まれ」

階段上から男の声が響いて来る。カツンカツンと下りて来る足音。姿を現したのは、鞘から剣を抜いた天使、ミカエルであった。端正な顔立ちと、その手に持つ刃にも劣らない鋭利な眼差し。偉大な天使を前に、女はすかさず一礼する。

「これはミカエル様、ご機嫌麗しゅう御座います。これから…騎士様方を御指南なさるので御座いますか?」

ミカエル…?あの天界でも一、二を争う力を有するミカエルか!!…成程、父上のおっしゃる通り、よく似ている。やはり、侵入は一筋縄ではいかないか…。

「…そのまま動くな」

「はい?」

返事をするかしないか、次の瞬間には目の前にいた彼は消え、いつの間にか彼女の足元に剣を突き刺していた。石造りの階段に、バターにナイフを入れるかのごとく剣先が沈む。

「きゃっ…!!」

凶器が自分に向かって来た事に怯え、メイドは後方にバランスを崩した。それを間髪入れずに大天使が支える。しかし、ティーセットを乗せたトレイは弧を描いて落ちて行った。ガシャンガランと不愉快な音を立てて、せっかくのビスコッティーも台無しだ。

「い…いきなり何をなさるんですか!?」

「馬鹿者。悪魔を連れておきながら気付かないとは何事だ?」

「え…?」

使用人の影が歪に伸びて行く。紙を破いた様な、間の抜けた目と口を露にしてニンマリと二人に笑いかけた。

「きゃはは!!さすがは父上を倒しただけの事はあるのぅ!!褒めて遣わすぞ、ミカエル!!」

「な…何ですかこれは!?私の影が…!?」

「何者だ?」

剣を引き抜き、悪魔に切っ先を構える。それにたじろぐ事も無く、影は子供の様な笑い声を上げながら、ウネウネと揺らめいていた。

「きゃはは!!普段なら答えておくところじゃが、今は急いでおるんでのぅ!!さらばじゃ!!」

そう言い残し、不気味な影は通り道に尾を残しながら、最上階を目指して螺旋階段を突き進んで行った。すかさずそれを追うミカエル。

「あぁ、そうだ」

と、彼は急に振り返ってメイドに語りかけた。

「猊下に新しいティーセットを御用意しろ」

「あ…、あの、そういう場合じゃ…」

「自分に出来る事で最大限の御奉仕をするのが我々の天命だ」

主人の身が危ないというのに、至って冷静に命を下した。余裕なのか馬鹿正直なのか、とにかく、彼が敵を追う後姿が安心感を与えてくれる。給仕の女はそのまま階段を下りて、まずは散らかったポットやカップの破片等の掃除に取り掛かった。



「…追って来る様子も無い。何じゃ、買い被ってしまったか」

後ろを見ても、ただ階段と、己が残した痕跡のみが続くばかり。これだけの速度で上っているのだ。奴が追い着く訳が無い。あの男の姿を見た時はどうなる事かと思ったが、余計な心配だったみたいだ。

「買い被っただと?」

「!?」

塔の外から聞いた声がする。所々に設けられた窓から覗くのは、八枚の翼を広げて侵入者を追う天使の長。冷ややかな目が突き刺さる様だ。その表情には哀れみにも似た余裕が浮かんでいた。

いつの間にこんな所まで…ッ!?

「私も、安く見られたものだな」

次の窓にさしかかった所で、斬撃の横殴りが襲い掛かって来た。鍛錬時の様な微かな火花ではなく、太陽の様に燃え盛る焔を纏い、壁ごと影に斬りつける。が、そこは変幻自在の影。ユラリと体を曲げて、難なく攻撃をかわした。

「…ふぅ、油断したのぅ。ミカエル、やはり貴様は強い!!…じゃが、実体である貴様が、虚像であるわらわに追い付ける…」

「何か言ったか?」

粉塵が舞う中から、瞬く間にリリムの前に現れる剣とその持ち主の顔、エンゼルクラウン。第二波が来る!!

「うおぅ!?」

間一髪、顔に当たる部分を縦に裂いて突きを避けた。予想を遥かに上回る実力…確かに安く見ていたようだ。封印されている間に見る目を失ったか?



「こ、これは本気を出さねばのぅ!!」

牢獄では本体の動きが先程の十倍は活発になっていた。獄中を所狭しと転がり回り、時には跳ねて、時には壁にぶち当たって…。尻尾の動きに至っては何と形容すれば良いか分からない。そんな体験した事の無い状況を把握できないでいるのはルナである。

「ち…ちょっと!?一体何があったっていうの!?」

「えぇい!!話し掛けるなたわけ!!今、良いところなのじゃ!!」

「あ、あぁ、そう…」

良いところ…?どういう状況よ、これ?



頂上を目指す悪魔と、それを追う天使。…僅かに後者の方が速い。次第に距離が詰められていった。

…何という奴じゃ。わらわの影よりも速いじゃと!?

階段の幅は狭い。それ故にミカエルは存分に翼を広げる事が出来なかった。つまり、これは彼の本気ではない。しかるべき場所でならきっと…。追跡者の視線が彼女を捉えて放さない。

えぇい!!まだ着かぬのか!?

既に彼の間合いに入ってしまっている。一撃必殺を狙っているのか、中々攻撃に出ない。と、剣を構え、振りかざした。…来る!!父を撃った一撃が振り下ろされる!!その時、目の前に細密な彫刻が施された扉が現れた。神の子の復活を描いた、奇跡を表現した作品…。

ここか!!

ここに来て、最後の力を振り絞り走る。間合いが崩れた事に意表を突かれ、男の剣に一瞬の迷いを生ませた。もう一度間合いを確保しようとしても遅い。扉の隙間を通り抜けようとする影。それを阻まんとする刃の追撃!!

「ッしまった!!」

目に飛び込むは神の子の像。エル=シャッダイに仕える者である以上、これを傷付ける訳にはいかない。緊急事態に何を迷う事がある?だがしかし、神に絶対の忠誠を誓う彼には決して出来ない事だった。それの破壊は全能者への裏切りを意味する。

「クソッ!!」

天使の手が、ドアノブに伸びた。



その部屋には、数多くの書物が積み上げられていた。聖書、魔術書、政治理念を記した物などなど、多岐に渡る内容だ。壁には歴代教皇の肖像画が並び、邪まな物を一切寄せ付けない神々しさが漂っている。奥の方にはベランダに続く出入り口。その向こうには、身の丈よりも長い槍を持った長髪の女が景色を眺めている。

「貴女ですか?さっきから騒々しい…」

振り返った顔はまだあどけなさと幼さを残した少女であった。リリムの存在に始めから気付いていたのか、驚く様子は全く無い。それどころか、自分から近付いて来たのだから驚きである。…いや、それ以外にも何か引っかかった。

この女…どこかで…

「猊下!!お離れください!!」

ほんの微かな隙だった。彼はそれを見逃さず、悪魔の首を刎ね飛ばす。続いて胸、腕、腰…

「ぎゃあぁぁーッ!!!!…って、もう良かろう?」

「!?」

手応えが無い…?確かに斬った筈の敵の身体が、見る見る繋がっていった。闇と闇が溶け合うように、体は元通りの姿を取り戻していく。

「これは影じゃ。本体ではない。幾ら影を斬り付けても、本体には傷一つつかぬわ!きゃはは!少々退屈だったんでな、遊ばせてもらったぞ!」

ペシペシと薄っぺらい腕で剣士の頭をはたく影。高貴な彼がここまで馬鹿にされる事など滅多に無い。さすがに冷静さを失って、怒りの表情を垣間見せた。

「ッ貴様!!」

「下がりなさいミカエル。これは悪を成す者ではありません」

「ですが猊下!!」

「私の部屋を戦場に変えるつもりですか!?控えなさい!!」

子供であるにもかかわらず、最上級の天使に向かって遠慮も無く威光を発揮する…教皇の器はある程度完成しているようだ。

「…失礼しました」

剣の構えを解き、一歩下がってひざまずくミカエル。彼が生を受けてから稀に見る屈辱に唇を噛むが、グッと堪えて、悪魔を睨み付ける程度に抑えた。だが、そんなもの痛くも痒くもない。真っ黒い舌をビロンと垂らして挑発し返した。

「…それで、わざわざここまで来たのだから、何か用があるのでしょうね、小悪魔さん?」

険しい顔を優しく柔らかく…魔力もあるかないか分からない彼女に語り掛ける。

「小悪魔ではない!!わらわはリリムじゃ!!小さいのは貴様の方じゃ!!本物の教皇かどうかも怪しいのぅ!!」

「無礼を働くとは…ッ!!」

「ミカエル!!」

再び従者をなだめる少女。あの栄光の四天使の一人がかしずく程なのだから、相当な大人物である事は覗える。リリムという名前に反応したのか、今度は威厳のある王の顔で応えた。

「…私は正真正銘の現教皇、ヨハンナ八世です。成程、かの大悪魔がわざわざ来てくださったのだから、重大な事が起こったのでしょうね」

「ふむ、良い心掛けじゃ。やはり長には長に相応しい対応という物がある。どこかの誰かとは大違いじゃ。…話が逸れたのぅ。お主、クロード=スティグマンと言う男が異端審問で拷問刑になっておる事は知っておるか?」

「!!クロード、って…が、異端!?」

相当ショックだったのか、開いた口を手で塞ぐ。慌てふためく様子はまだまだ子供だ。教皇とクロードに何かがある事は疑いようが無い。思わず素の彼女自身が出てしまった。

「有り得ない!だって異端審問は…!!貴女、騙そうとしてもそうはいかないわよ!!」

「だ、騙すつもりなど無い!!悪を成さないと言ったのはお主じゃろう!?嘘だと思うなら、枢機卿長に聞いてみるが良い!!」

「そんな事を言って…。大体、それを私に伝えて貴女に何の得があるの!?白導の軍人を助けたら、黒導の為にはならないんじゃない!?」

「奴を助けなければ、いずれわらわもルナも処刑される!!だからじゃ!!…クロードは言っておった。お主が来なければ、何も始まらないと!お主に言わなければならない事があると!!」

「…!!」

言葉が出ない。悪魔の言葉を受けてから、彼女は背を向けてしまった。小さな肩をうち震わせている…?直接は見えずとも、時折目元に向かう手が、涙を物語っていた。

悲しいのか?嬉しいのか?何故泣く必要がある?全く、分からぬ教皇じゃ…

「猊下、この様な輩の戯言に耳を傾けてはなりません!」

影が語った事は全て真実だ。偽りの無い事に傾聴してはならないと言いたいのだろうか?神の使いとしてあるまじき発言である。最早、眼前の敵に対する嫌悪と、己のプライドを拠り所にしているとしか思えない。しかし、そういった曇りのある思いは主人に届く筈も無かった。

「…約束…」

「…?」

突然、教皇が口走った言の葉。彼女の脳裏では、自身の過去、これまで歩んで来た道筋が再起されていた。彼は覚えていてくれたのだ。幼き日に交わした、夢の様な誓いを…。

「…確かに、あのスターン卿ならやりかねない事ですね」

「ッ!?猊下!?」

若き指導者は振り返り、契約天使に命令を下す。

「ミカエル、これからスターン枢機卿長の元に向かいます。この者の言う事が真実かどうか…直接確認するのも悪くはないでしょう」

「猊下…」

「それに、もしもこれが本当なら私の威信に係わる問題です。…貴方は、神に選ばれた者が地に着くのを望んでいるのですか?」

「…滅相も御座いません」

「ならば、参りますよ」

「御意」

命を下すその姿は、彼女本来の姿なのか?一瞬垣間見せた素の女、一人の女として疑い、泣いた時の彼女は本物であった。それが今、威風堂々たる極彩色の仮面で押し殺して、命令を発している。その下にある想いは一体何だ?今、歩み行くそれは「約束」を大切そうに言った筈だが…それが望んだ物である様には思えない…。

クロードよ、貴様はこれで良かったのか…?わらわには分からぬ。

魔物の影は、そのまま教皇の作る陰影に溶け込んで行った。



人がたった一人で職務を行う部屋として、これは広過ぎるという言葉でも不足する。教皇庁の重鎮ともなれば、それでも尚、狭いと感じる事があった。ギルバート=スターンもその一人だ。

彼の場合は、その空間を余す事無く使っていた。多忙を極める枢機卿長という仕事柄、膨大な報告書や法案、嫌と言っても毎日増え続ける最新の情報が舞い込んで来る。それらの保管場所を確保するには、一見無駄の様に思えるこの部屋が丁度良いのだ。一枚だけでは薄っぺらい紙だが、群れを成すと威圧感を放っている様に思えてくる。息が詰まりそうだ。

それに臆する事無く、書類にサインを綴る老体。重圧を跳ね返すわけでもなく、飲み込むわけでもなく、それを受け入れて一体化していた。長年の経験から自然と導き出した答えだ。理想的な集中力を保持するには、働きかけず、働きかけられず…。



「ちょ…困ります!やめてください!」

外が騒々しい。集中が乱れ、羽根ペンの動きが止まる。紙ににじみゆくインク…全く何ともみっともないサインになってしまった。一体、警備は何をやっているというのだ?老人は扉に阻まれた先を睨み付けた。

と、扉が乱暴に開かれる。警備兵を軽々と押し退け、八枚翼の天使が入ってきた。火焔の意匠を施した光輪と盾、そしてミカエルのそれによく似た剣を携えて、部屋の奥に待ち構える男に遠慮無く睨み付ける。

「ギルバート=スターン枢機卿長…話がある」

枢機卿長という高位にある者に対して、物怖じするどころか堂々たる態度…。身に着けた物のイメージ通りに燃えたぎる思いを胸に押さえ込み、手を出すまいと震える両腕が只事ではないと伝えている。

その後ろからヨロヨロと護衛の者が二人、槍を杖代わりにやって来た。四大天使が一人を相手にしたとはいえ…全く、大の大人が情けないものだ。

「も、申し訳御座いません…。勝手に御入室なさるのはお控えして頂くようにと申し上げたのですが…」

「…もう良い、下がれ。どうやら、相当に重大なお話があるようだ」

「はっ…」

頭を下げて、静かに退出する兵達。兵隊らしい覇気は最早、微塵も残っていなかった。

フン…腑抜者共め。

「…しかし、ノックも無しにいらっしゃるとは。穏やかではありませんな、ウリエル様」

「こうでもしないと憲兵をまとめ上げる者としては勤まらんのでな。それに、さっきの騒ぎがそれの代わりにはなっただろう?」

相も変わらず高圧的な態度。老人を見つめるその目は、罪人に向けられた厳しい物だ。一体、何が彼を駆り立てる?一体、私が何をしたというのだ?白であれ黒であれ、自らの罪を疑ってしまうのは良くない。あくまで、潔白であると思う余裕を持って望まねば飲み込まれる。今まで、そういう輩を異端審問で見てきた。

「ともあれ、立ち話も何で御座いましょう。場所を変えて…」

「気遣いは無用。お互い、暇を追い駆けても逃げて行く立場だろう。ここで良い」

「…それで、御用件は何でしょうか?」

と、熾天使は深呼吸を一つ。落ち着かせたつもりなのかは知らないが、額に青筋が浮かび上がっている。これ以上は我慢がならない。遂に、怒りの焔はくびきを破った。ズカズカと机の前まで歩み寄り、バンッと右腕をそれに叩きつけて問い詰める体制に入る。



「貴様…本当に、異端審問制度はまだ続いているのか?」

「…」



―ウリエルが枢機卿長の部屋に向かう少し前…憲兵隊庁舎、ルートヴィヒ=ラムシュタイナー将軍室

「悪魔を連れ込んだ若造…か。全く、世も末だな」

自身の契約天使を背後に控えさせて、部下からの報告書に目を通す将軍。やや後退し始めたロマンスグレーの頭髪、薄めの眉毛が鋭利な眼光を更に引き立てている。その風貌もさる事ながら、胸を彩る数々の勲章もまた、彼が幾多の修羅場を乗り越えてきた猛者である事を物語っていた。

クロード=スティグマン…白と黒の混血。人造人間密造の検挙、悪質な吸血鬼との和解に、先日のクリスティーナ嬢行方不明事件の解決…。燃えカスである事以外、これと言った汚点は無い。むしろ、そこらのヒヨッ子どもより数段優秀だ。何故、この様な男が悪魔と契約を交わしたのだろうか…?

「こんな者に限って…というのは当たり前ではあるがな」

「今更だな。我々の仕事は往々にして、純白に溶け込んだ黒を疑う事だ。そうだろう?ルートヴィヒ」

「あぁ、そうだなウリエル。全く、年を取ると勘が鈍っていかんよ」

入れたてのストレートティーをすすり、苦笑いで以って、背後の天使に語り掛けた。熾天使もまた苦笑いで受け応える。

「何を言ってる。年を取るのはたしなみだと言ったのは貴様だろう」

「時には若さへ、懐古にも似た嫉妬をする。それもまた人間だ」

気を取り直して、再び書類に目を走らせる。一度は見た内容だ。ササッと再確認を済ませて、サインを書こうと羽根ペンにインクを浸した。ペン先が書面に向かう…。

得難い人間を失ったな…。



コンコンッ!



やや強気なノックに指の動きが止まった。と、拭い損なった余分なインクが、その反動で紙に滴り落ちる。…何とも不細工なシミを作ってしまった。咳払いを一つ、顔をキリリと引き締めて、来訪者を招き入れる。

「入りたまえ」

ガチャ…

「失礼します」

男が二人、入って来た。一人は天秤の意匠を取り入れた腕章…即ち、法の下、平等に動く憲兵隊。もう一人には手錠が掛けられていた。十字架をかたどった腕章は…対魔導災害駆逐部隊の者か。部下の方が敬礼をした。

「どうした?」

「はっ。この男…不届きにも、ラムシュタイナー将軍は教皇猊下の御心に叛いた等と言い放っていまして…」

「ほう、そうか」

ウリエルの右手が剣に伸び、ずいと前に出る。が、それを軽くあしらう将軍。もう少し聞こうと言わんばかりに、後ろに下がらせた。指を組んで、リラックスした体勢で連行された男に問いかける。

「…確か、対魔導災害駆逐部隊員には動かないように通達した筈だが?」

「辞表を出せば、それも関係無いでしょう?」

肩をすぼめて、やや自嘲気味に答える男。おかしな男だ。

「フン、成程。…それで、貴様は何故、この私が猊下に逆らった等と思ったのだね?えー、と…?」

「ルチアーノです。ルチアーノ=イディオクラン」

「では聞こうか、ルチアーノ君。何故だね?」

「…これを御覧ください」

ルチアーノが手錠で自由の利かない腕を無理に動かして、ポケットの中を探った。やっとの事で取り出したのは乱雑に折りたたんである紙切れ二枚。それを直接手渡そうとするが、憲兵が間に入って中身を確認する。危険物は無いかどうか…粗方調べた上で、それを上官に手渡した。

これは…内政動向記録!?

「第一種重要機密文書ではないか!これを一体どうやって…」

「将軍、今重要なのはどうやって手に入れたかではありませんよ。そこに書かれていない真実です。貴方と、猊下の名誉が係った真実です」

口はまぁ良い。目上の者に向かって、ここまで堂々出来るのは馬鹿だからか?それとも…

「話したまえ」

「それに書かれているのは御察しの通り、異端審問制度を撤廃するか否か…それについての会議の記録です。これはその始まりの部分と終わりの部分に当たります」

「あぁ、教皇猊下の御提案だ。お若いながら、勤めを果たさんと御奮闘なさっているのが印象深くてな。良く覚えている。…確か会議の結果は、そのまま制度は残す。ではなかったかな?」

自分の子の事の様に語る将軍。行政に一番近い軍隊を束ねているだけの事はあって、さすがに詳しい。彼の忠誠心は本物だ。だからこそ、己の忠義に泥を塗る事態は何であるのか…こうして耳を傾けている。

会議の結果は書類を見れば一目瞭然。ルートヴィヒの言う通りだった。

「そう、確かにそこにはそう書いてあります。ですが…違和感がありませんか?」

「違和感?」

「こんな紙、二枚ぽっちじゃ分かり難いでしょうが…将軍、政界にも御精通なさっている貴方なら何か感じませんか?」

不敵な笑みを浮かべる男。自分が捕まった事等どうでも良い、とさえ感じさせる。何だと言うのだ?コイツが握っている物は、一体何だと言うのだ?リラックスしていた男だが、自然と眉間に力が入ってしまった。

「もったいぶらなくて良い。さっさと話せ」

「…現教皇、ヨハンナ八世猊下は史上類を見ない程に慈悲深い教皇猊下にあらせられます。それは、戦時中の捕虜の扱いの見直し、戦死者の遺族手当、撤廃には至らずとも死刑制度の基準を高く設ける等など…。かの御方が政治に御着手なさってから、人の命に係わる事項の改革は目覚しいものです。御自身から発案なさった事に至っては、完全にとは言わずとも、ある程度の改善はなさってます。



…そんな猊下が、自ら発した異端審問制度の改正をなさらずに、そのままでお見送りになった…」

「…!」

「どうですか?ここまで申し上げれば、もう御理解なさってますでしょう?」

「異端審問はもう廃止されている…。今の制度は、議会のでっち上げだと言いたいのか?」

「先の異端審問ですが、クロードは猊下との謁見を要求したそうですね。しかし、その申し出をスターン枢機卿長猊下を始め、全官僚が却下しました。そしてこの会議以前に、裁判制度の整備を進める動きがありましたよね?それが廃止への布石だと考えれば、可能性は益々濃くなります」

「待て」

焔の天使が割り込んで来た。主の命令がまだ解かれていない為か、前には出ずにその場から、様子を覗う様に問い掛ける。

「仮に貴様の言う事が真実だとしよう。確かに由々しき事態だ。猊下の名誉毀損は勿論の事、枢機卿、大司教らの不敬罪…それに、知らなかったとは言え、我らも教皇猊下の御意向に背いた事には変わり無い。帝国が揺らぎかねないスキャンダルだ。

だが、証拠が無い。
貴様がダラダラ述べていた事は全て、状況から推察した妄想に過ぎないではないか!将軍も、こんな戯言に聞き入る必要は無い!」

彼の言う通りだ。ルチアーノが自信満々に散々言い放った事は、全て状況証拠から導き出した憶測でしかない。そんなもので、軍の監視者たる憲兵隊が動ける訳が無かった。しかし、男はそれでも揺るがない。それどころか、ウリエルの言葉を受けて更に自論を述べ続けた。

「証拠なら、白を裏付けようが黒を裏付けようが、必ず向こうからいらっしゃいますよ。俺の予想が正しかったらですがね。…ギルバート=スターン卿の下へお出向きになってみてください。そこで、事の真偽が明らかになると補償しましょう!」

…そんな主張をしたところで何の意味も成さない。ハッタリか?…いや違う。嘘を吐く時の目の色ではない。それどころか、真に迫る感じだ。

仕事の性格上、虚実が織り交ざっている中に身を投じてきた将軍と天使。長年の経験上、目の前にいる男が無意味に嘘を吐く類の者でも、嘘を吐いている人間にも見えなかった。信用ならない雰囲気は漂っている。だが、決して害敵の臭いでもない…。

「…どうする?ルートヴィヒ」

耳元で囁く大天使。それを聞く将軍の視線は、目の前にいる得体を捉えられない…例えるなら煙の様な男に、ジッと向けられていた。目に映る彼は、説得力と胡散臭さが入り乱れた道化…。

「…良し。ウリエル、お前はギルバート氏から話を聞け。真実だとしたら許し難い事だ。それに…官僚の高々した鼻っ柱を小突くのも悪い気はしない」

ラムシュタイナー将軍の口元が思わずほころんだ。その割には目付きが険しい。皮肉を込めた言い回しからは、日頃の鬱憤を込めたのがうかがい知れる。

「了解した」

彼の従者は、それを咎める訳でもなく、素直に頷いた。情報提供者と部下の脇を通る…。一瞬、笑ったか?ルチアーノは、擦れ違いざまに見せたその表情に一抹の不安を覚える。…まぁ、どうでも良い。天使はそのまま敬礼を一つして、部屋を退出した。

「いや~、良かった良かった!話の分かる御方で!」

さっきまでの高圧的な物腰から一転、ニヘラニヘラと腑の抜けた姿勢と笑顔で場の緊張を緩める男。目線を上から下へと自由に操る…何処からが本気なのか読めない。彼にとって一番苦手な相手だ。

「辞表に偽の部下…ここに来る為とは言え、わざわざ二人でこんな回りくどい演出をしてくれたんだ。それだけの価値はある話と見た」

「え!?」

将軍の一言に慌てふためくルチアーノと憲兵。特に憲兵は顔を青ざめて、気持ちの悪い汗をダラダラと滝の様に流している。二人して、必死にその場を取り繕おうとした。

「あ…アハハハハ~!!嫌ですよ将軍殿!!二人って…俺は一人で乗り込んだんですよぉ~!!」

「そ、そうですよ!!それにこの私が偽者だなんて…またまたご冗談を~…!!」

「第一に」

懸命な努力も空しく、彼らの言い訳はたった一言に掻き消された。

「私の部下なら、あんなうるさいノックをしない。万が一でも、機嫌を損ねた時の私がどういう者か知っているからな。
第二に、我々憲兵隊員は上官を馬鹿にされた程度では気にも留めん。無視をするように言ってあるからな。良くても煙たがられるだけだろう。
第三に、仮にそれでも連行する馬鹿者がいても、まずここに連れて来る訳が無い。
第四に、不審者が提示した物を上官に手渡すのもいただけないな。これは現役の奴等でも出来ないのがいるがな。
第五に…」

「あ…もう良いでス。十分分かりましタ」

「お…俺の変化が見破られる…なんて…」

諦めたのか、二人ともガックリと肩を落とした。偽者と言われた方は変化を解いて元の姿を露にする。タミフルの落ち込み様と言ったら、完璧だと思っていた自身の変身に思わぬ穴があったのだ。その場にしゃがみ込んで、ギョロリとした目玉から大粒の涙をボロボロ流しながら床に「の」の字を書き続けた。それを見て、肩を叩いて健闘を称える相棒…。感情が豊かと言うか安定しないと言うか…。どうも押されがちであった初老の男だったが、滑稽な彼らの様に笑みが零れる。

「まぁ、こちらも状況証拠からの推論に過ぎんがな。生憎、あやふやな事件を一度に二つも相手にする程、我々は暇ではないのでね。ウリエルの報告次第だが、当面は君達の事を大目に見よう」

ホッと胸を撫で下ろす。何とかその場を持ち堪えた喜び。それをハイタッチという形で露骨に表す男と奇怪な天使。

「ただし、どうあれ機密文書を持ち出した罰、我が憲兵隊員を語った罰は、どの道受けてもらうがな!」

「あ…ハイ…」

鬼の形相を露にした将軍を前に、二人はただただ生きる事を望んだと言う…。



「どうした?黙ってないで答えたらどうだ?」

異端審問の存在を巡る尋問が、枢機卿長室で繰り広げられている。あの男は、証拠なら自分からやって来ると言っていた。が、それらしいものは見当たらない。奴を本当に信用しても良かったのであろうか?小さいながらも、その疑念が心の底でくすぶっていた。…疑うまでもない。主が信用したのだ。従者が信用しなくてどうする?

「何故、その様な疑惑が浮かび上がったのですかな?」

ギルバートはどう揺さ振ろうともビクともしない。長年、枢機卿として一国を支えてきただけの事はある。表情、態度、何気ない咳までをも詮索の対象とするも、これらを見る限り怪しい所は無い…。

対してウリエルは焦っていた。来ると聞いた証拠がまるで見当たらない。見切り発車だったか…?だがしかし、あの男の言う事が真実ならば、事態は一刻を争う。クロード=スティグマンが死亡してしまったら、憲兵隊の汚名は拭えなくなる。怒りも勢力も全て偽り…だが、そうでもしなければ何もいぶり出せない。名も守れない。嘘でも優勢である事が必要だ。

「まず、先の審問制度継続という結果だが、これはあまりにもヨハンナ猊下らしくあらせられない。命を重んじる御方が、この制度に何も御手を加えられず御見送りになるなど考え難い」

「あぁー、アレには私も驚かされましたよ。死刑制度にはあんなにかたくなであられたのに…まぁ、議論を御聞きになって、最善を御選びになっての結果でしょうがね」

…そう来るか。

毅然とした態度は変わらず。まるで山を相手にしている気分だ。幾ら踏もうが掘ろうが、彼にとっては僅かに削られた程度でしかないのであろう。…明らかに不利だ。証拠も無いこの状況では、押し潰されるのが関の山…。虚勢でも良い。今は少しでも探る!

…辿り着ける訳が無い。奴が持ち出したのは状況証拠だ。何か掴んでいるなら、核心から突いても良い筈。仮にジワジワ追い詰めるつもりならば、それなりの余裕がある。だが、コイツにはそれが無い。只の虚勢だ!

「そして、クロード=スティグマンの要求への対応。武器も魔力も奪われた彼に、猊下の暗殺は不可能だ。謁見を拒否し、その上、半ば強制的に審問を終了したのは過剰防衛。それは疑いようが無い。そこまで敏感になる必要は無かった!」

「何をおっしゃる?猊下の御身は唯一無二、我らの至宝で御座いましょう。警戒が足りる事などあり得ませんよ」

「…ッ」

「どうしました?黙ってないで証拠を出したらどうですか?それがあるからわざわざいらっしゃったのでしょう?…それとも、状況証拠のみで、私にあらぬ疑いを掛けた…とでもおっしゃいますか?

四大天使が一だと思って図に乗るな。堕天昇りが」

これまでか…。全く、どうかしていた。あんな何処の馬の骨かも分からん男の話に乗って…



「証拠ならここにあります」



「ッ!?猊下!?」

老人の顔が生気を失う。心なしか老けた様にも見えた。振り返ると、そこにはブロンドの長髪をなびかせた幼き教皇ヨハンナ八世。その後ろに、彼女の契約天使であるミカエルが控えていた。

「猊…下?」

証拠が…来た…?

「証拠は私自身です。私は、確かに異端審問制度撤廃を議会で宣言しました。皆が聞き違えるという事態は考えられませんね」

「…ッ!」

一気に枢機卿長の表情が曇る。何も言い返せない。ギリッと歯軋りをするしかない。焦りで、視点が定まらなかった。頭を抱え込む。…もう終わりだ。



きゃはは!きゃはははは!



「!?」

子供が笑う声がする。指の隙間から垣間見ると、教皇の影から何かが伸びている。それは「あっかんべ~」と赤目と黒いべろを見せ付けて、扉の隙間にスゥ…と消えて行った。

…ッあの悪魔…!!

席を立ち、僅かに後ずさりをする。

「猊下…猊下は騙されているのです!!悪魔の声に耳を傾けてはなりません!!これは…これは陰謀だ!!」

「やかましい」

ミカエルの剣先が、追い詰められた男に向く。更に後ろへ逃げようとするが、その先は窓。そもそも、老いた体で逃げ切れる筈が無い。そのまま切っ先は年輪を刻んだ喉元へ…。

「枢機卿長、往生際が悪いぞ。それに、猊下の正気は私が証明する」

敗北に顔が、心が歪む…。帝国第二位に至る権力が見る影も無い。剣を下げると、ヘナヘナと花が枯れるように崩れていった。

「借りが出来たな…」

焔の天使、ウリエルがミカエルの肩に手を掛ける。不甲斐無い自分を恥じてか、少々申し訳無さそうだ。

「そんなつもりで来たのではない。第一、我らにそんな煩わしい物は必要無い筈だ」

「そういう訳にはいかん。意地でも借りを返させてもらうぞ」

「…勝手にしろ。それより、後は貴様らの仕事だ」

「あぁ」



教皇が、座り込んでしまった老体の近くまで歩み寄る。ふと、老人が見上げてみると、これまでのあどけなさなど欠片も感じさせない。卑しい物を見る様な冷たい下目使いを突き刺していた。

「さぁ、クロード=スティグマンは何処ですか?」



夢を見ていた。

特別な夢なんかじゃない。空を飛ぶわけでも、空から真っ逆様に落ちる夢でもない。大好物を山ほど食べる様な夢でも、巨大な怪物に一飲みにされる夢でも…。母親や妹の夢でも、父親の夢でも…。

あの日の夜の出来事。正直、夢に出て来るまで忘れていた。それ位にどうでも良い出来事。

思えば、リリムとまともに話をしたのは、あの時が初めてだっけか?

真夜中の森に、焚き火の温もりが一つ。パチパチと火の粉が舞い上がって、満天の星の中に消えて行く。淡い橙色の光とほんの少しの肌寒さが、昔話をしたい気分にさせたのだと思う。隠そうと思えば隠せた身の上だが、その日に限っては話してしまった。

嗚呼、こんな時に見る夢がこんなのかよ。



…こんな時?



今、どんな時だっけ…?



…きろ…


…何だ…?この声は…?


お…だ…


あれ?体中痛ぇ…


「起きろっつってんだよぉお!!まだ、くたばってねぇだろうがよぉお!!」

顔に拳が飛んで来る。その衝撃で、微かにクロードの意識が戻った。目の前にいるのは狂気に満ちた顔。暗闇には違いないが森の中のようではない。ここは?…誰だ、コイツは?

「っ!!」

体中に痛みが駆け巡っている。体の自由が利かない。…まだ頭がクラクラする。朦朧とする中、男は徐々に状況を掴んでいった。

そうか…俺は…



両手両足に打ち込まれた巨大な釘『吸血鬼』。毒が切れたのか、血が固まり始めて出血が止まりつつある。それでも、床を真っ赤に染め上げるだけの血液を失ったのだ。人間は全血液量の二割を急速に失った場合、死に至る事もある。危険な状態には変わらなかった。

更には、所狭しと身体を貫く数十本もの釘。内臓と内臓の間に異物が擦れる感覚が気持ち悪い。中身を傷付けていないとは言え、感覚が受容する痛みはとっくに限界へ達していた。しかも、釘が身体に一本、また一本と刺さる光景を見続けていたのだ。精神的ダメージも計り知れない。

事実、クロードの思考はほぼ止まっているも同然だった。

まず頭に入るのは五感からの刺激。全身を襲う苦痛。拷問室はまるで、血液とアルコール、そしてカビの混合物に満ちた瓶の中の様。色んな臭いが充満して、まるで、それらにどっぷり浸かっている気分だった。光無く、虚ろに開かれたその目に、目の前の狂人じみた笑顔の男が映っている。けたたましい笑い声が、ぼんやりと一枚壁を隔てた様に聞こえた。

それだけである。そこから何も感じる事が、考える事が出来ない。嫌な苦しみ、嫌な臭い、嫌な顔、嫌な声…そう思っていた事も、今や只の事象としてしか分からなかった。傍に立っている鉄の処女と何も違わない。



満身創痍でグッタリとしている男の髪の毛をむんずと掴み、無理矢理に顔を上げさせるペーター=キュルテン。異様なまでの冷静さや狂気に近い無邪気さは既に失い、自制の利かない野獣が脳を支配している。目は血走り、呼吸は荒々しく、痙攣が起こったみたいな笑いを漏らす様は、化物以上に化物らしい。磔になった男の頭を滅茶苦茶に揺さ振って楽しんでいる。

「どぉしたぁあ!?さっきまでの威勢は何処に行ったぁあ!?さぁ、気の利いた台詞を言ってみろよぉお!!これまでみたいに、悪態吐いてみなよぉお!!」

どれだけ挑発しても、何の反応も無い。目に生気は残っておらず、口も半開き。何とも無様でだらしない様だった。それ以前に、彼が身体に触れているのに対して何の抵抗も示さない…。見る見る悦びの熱が冷め、長髪の男は元の冷静さを取り戻した。玩具に向ける目は、これっぽっちも興味を示していない。

「…飽きた」

髪から手を放し、後ろに用意した釘の元へ向かう。縛り付けられた男の頭は、糸の切れた操り人形の様にだらんと下りた。手に取ってのはその中でも一番太い、握り拳程の太さのある釘…これは最早、杭だ。執行人はその黒鉄で出来た杭を丁寧に舐め回した。

「もう少し、楽しめると思ったけど…。やっぱり、人間は壊れ易いなぁ…」

一しきり舐め終わると、死の一歩手前に立つ。左手の杭を彼の胸に、右手の鉄槌を振りかぶった。致命傷を与えるそれの先端が僅かに肉をえぐり、つーっと、なけなしの鮮血を流す。その先にある心臓の鼓動が伝わって来た。死の半歩手前。鉄の処女は何も言わず、何にも動じず、事の行く末を見つめている。

「まぁ、でも楽しかったよ。…好意を以って、バァイバイっ!!」

最期への一撃を振り下した。ここで、彼の何もかもが終わる。終わってしまう。消えそうな意識であるとは言え、さすがに胸に軽く突き刺さった痛みが何を意味するのか、男には分かっていた。

ここに来て、彼は謝り続けていた。神への懺悔ではない。最も身近であった人達への、最期の言葉。



ごめん、エミリー。ごめん、母さん。ごめん、ルナ。ごめん、皆。…ごめん…

おいおい、何で最後に出てくるのがお前なんだよ?リリム…ごめんな。



ザンッ!!



「!?」

鎚が振り下ろされ切る直前だった。爆発音にも似た拷問室の扉が斬り破られる音に、白導の吸血鬼の動きが止まる。振り返ると、分厚い鉄のドアは見事に真っ二つ。断面はまるで業火で焼かれたかの様に赤く熱を帯びていた。

粉塵が舞うその先に人影が二つ。そこから出て来た一つは八枚翼の大天使ミカエル。神の焔を纏った大剣を携えていた。恐らく、彼の一撃がこの頑強な戸を打ち破ったのだろう。刃を執行人に向け、そのまま、後ろのもう一人の為に道をあけた。ブロンドの長髪に、その身の丈よりも大きな槍…

「へぇ、随分と唐突で乱暴でワガママな御登場じゃないか。新しい教皇」

教…皇…?

風前の灯だった彼の意識が。、その言葉に再燃する。重たい頭を辛くも持ち上げると、夢にまで見た清らかな姿がすぐ近くまで来ている。ハッキリしない意識の中では、幻覚が混ざって更に脚色されていた。

しかし、不敬な言葉遣いだ。これは絶対の自信からだろうか?それも、彼女の天使の目には愚かな行為にしか映らない。剣を構え、臨戦態勢に入った。

「ミカエル、ここは私に…」

「…御意」

たった一言で四大天使をなだめる。そうでなければ教皇は務まらない。そこから、手にした槍の先を長髪の男の喉元へ真っ直ぐに向けた。ふざけた態度を取る相手に対し、冷徹な眼差しを送る。

「ペーター=キュルテン…確か、私が即位する前に死刑になった重犯罪者だと聞いていますが…」

「帝国は広いだけじゃない。貴女が思っているほど、底は浅くないのさ」

「えぇ…今日はその事を嫌と言う位、思い知らされました。まだまだ私が教皇として未熟だと言う事なのでしょう。ですが、目の前で不当な扱いを受けている者を見捨てるまでに未熟であるつもりはありません!」

「この男を解放しろ…って?フフフ…こんな脅迫紛いの方法を取るなんて、白導の指導者としてどうなんだろうねぇ?」

顔色一つ変えない…。人の領域から這い出た者の証…その片鱗を見た気がする。自分の置かれた状況を理解しているとは思えなかった。

「分かってますか?この槍は神の御子の命を奪った槍ですよ?只の人間が受けて、無事で済む様な代物ではありませんよ!」

「なら殺せば?造作も無いんだろう?ほら、あと一歩前に出なよ。それで済む」

「…ッ!!」

視線をクロードに向ける。荒くも弱々しい息遣い、開けるのも困難な目、そして彼の血の錆臭さが充満する部屋…。一刻の猶予もならない。だが、彼には辛うじて意識がある。それが問題だった。想いが迷いを生み、迷いが彼女の動きを殺す。

「図に乗るなよ、小童」

とうとうミカエルの剣までが彼の喉を捉えた。動く度に火の粉を振り撒く聖なる刃…ここまで近くにあると、その熱がビリビリと伝わって来る。

「ミカエル…」

「猊下、全てを御背負いになる必要は御座いません。貴女様には私めが付いております。今の内に彼を…」

「…そうですね。ありがとう、ミカエル」

槍を下げ、付き人に微笑み掛ける少女。命を何とも思わない男を睨み付けながら、その横を通った。男はそれに笑顔で応じる。…気持ちが悪い。だが、今はそんな事などどうでも良い。ボロ布の様になるまでいたぶられた彼の元に駆け寄る。身体に刺さった釘、殴られた痕…痛々しい有様に、思わず目を逸らしたくなった。

「こんな…酷い…!」

か細くすすり泣く声がした。見るも無残な彼の頬に手を添える。淡い白の優しい魔力が、癒しの温もりとなって彼女の手から注がれた。

「隙だらけだねぇ…。今なら僕と引き換えに教皇を殺れる」

キュルテンが言うと本気に聞こえるから怖い。教皇の騎士に武器を向けられていながら、よく言えたものだ。

「生憎、私はそれよりも速い」

その挑発に応えるミカエル。真面目過ぎるのが玉に瑕だ。



「なら…試してみるかい!?」

突然、鉄の杭と鉄鎚を振り上げる!



ザザンッ!!

焔の軌跡を残し、愚者の装備を両断。油断と身体の鈍りがあったとはいえ、人間の方は身体が付いて行けなかった。驚く暇も無い。

「もう一つ、これは心ばかりのプレゼントだ」

と、男の長かった髪が、肩から下にバッサリ切れた。これにはもう言葉が出ない。得物を斬られたのは分かった。だが、これは一体いつの間に…?ニヤッと笑い、天使に軽い拍手を送った。

「凄いなぁ!滅茶苦茶に速いなぁ!アハハハハ!」

楽しい遊びを満喫した後の子供の様に、無邪気な笑いを上げる。腹の底から上げる、満足の笑いだ。それを大天使は怪訝な表情で睨み続けた。





目の前で少女が泣いている。彼の名を必死に呼び続けている。吐きそうな位に気持ちの悪い血の臭いはいつしか消えて、懐かしく柔らかい花の様な香りが鼻を優しく喜ばせた。

泣くなよ…。俺は、そんな顔を見たかった訳じゃ…そんな声を聞きたかった訳じゃないんだ…!

頬を包む小さな両手。この暖かさは治癒魔法の心地良さか、彼女自身の体温か…。傷だらけの身体に、清く白い力が駆け巡った。苦痛が身体から抜けて行く様で気持ちが良い…。

畜生…暖けぇ…な……

涙が零れ、彼女の手に伝って落ちた。





…闇。真っ暗だ。

今、自分が立っている場所…町外れの小さな教会だ。俺が燃えカスだから、皆が虐めるから…。母さんがいなくなって、何処にも行く当てが無くて、あいつに連れられるがままに、ここに来たんだ。それは分かる。だけど、そこ以外は真っ暗で、教会は昼間な筈なのに太陽も見えない。夜空よりも真っ暗だ。

ガキの時の俺がいる。そこの神父と手を繋いでいる。この人の事はそんなに嫌いじゃない。だけど、あの時だけは大嫌いだった。

「少年、強くなれ」

目の前には、ローブを身に纏った天使がいた。剣を腰に、右手に大きな槍を持っている。小さな女の子と手を繋いでいた。うつむいて、悲しげな表情。こっちに視線を合わせようとしていないけど、くりくりとした目が潤んでいるのが分かった。…小さな時のエミリーだ。

何で泣いてんだよ?そいつ誰だよ?

何で…こっちにいないんだよ?

「登って、登って、登り詰めて、ここまで来い!そして、私に勝て!私よりも上を目指せ!その為にも強くなるんだ!」

何言ってんの?意味分かんねぇ…。

その言葉を最後に、天使と妹は行ってしまった。振り返って、真っ暗の中に、どんどん、どんどん、どんどん…

「ま、待てよ!!」

それを追い駆けようとした。追い駆けようとしたのに、クソ神父が俺の手を放そうとしやがらない。それどころか、もっと強く握ってきやがった。

「畜生!!放せよ、この野郎!!」

そうしてる間にも、天使は妹を連れて真っ暗な中に消えて行く…。

「待て!!待ってくれ!!…!!」





「エミリーっ!!」

「ブホぅッ!?」



「…ハァ、ハァ…ハァ…」

呼吸を整えるクロード。…教会じゃない。何故かベッドの中にいる。両手を見ると、ガッチリとギプスで固定されていた。それだけじゃない。点滴の針が挿入されてあるし、全身包帯だらけで、両足にもギプスがはめられている。清潔感のある部屋。白い天井と壁。だが、それ故に味気無い。

病院か…?何で病院なんかに…?

次第に記憶が再生されてきた。異端審問、拷問室で殺されそうになった事…教皇に助けられた事。

そうか…。俺、助かったのか…。

両手で頭を抱える…が、ギプスが邪魔で変な格好になってしまっている。良かった…。安堵にゆっくりと崩れ落ちる。湿っぽい…?見ると、シーツに橙色の粒々が散乱している。

…何だ、これ?

「え、エミリーなどではない。わらわはリリムじゃ!」

声の方に目を遣る。部屋の白さに似合わない黒い服を着た悪魔が一匹いた。見舞いの品だろうか、フルーツバスケットが傍にある。そこからオレンジを取り出して、皮を剥いていた。

「リリム…」

「全く、世話の焼ける奴じゃ。わらわがおらなんだら、貴様、助からなかったんじゃぞ?一つ貸しじゃな!きゃはは!」

「そうか…」

「クロード!!」

彼の声を聞きつけて、ベッド脇に吊るしてあったランタンからルナが出て来た。喜びのあまり、怪我人の顔面に飛び込んでしっかりと抱き締めた。

「もうっ!!心配したじゃないの!!貴方、三日もずっと寝てたのよ!?…もう、二度と目を覚まさないんじゃないかって…私、何も出来ないから…ッ!!」

むせび泣く小さな天使。大切な人が長い眠りの淵から帰って来た嬉しさと言ったら、比べる事など不可能であろう。心が揺さ振られて、その振動が涙腺を刺激して仕方が無い…

「…感動するのは良いけどさ…、邪魔…」

「え…あぁッ!?ごっ、ごめんなさい!私ったら…」

小悪魔がそれを見て笑い出した。それに釣られて、思わず二人からも笑いが零れる。何でもない事だが、こうして笑っていられるのが奇跡で、幸せだと感じた。

「で…何か言う事があるのではないか?」

一しきり笑い終わった後、剥き終わったオレンジを一つ、口に運んだ。モッキュモッキュと、瑞々しい甘酸っぱさを堪能している。何とも無邪気で幸せそうな顔だ…。

「あぁ、今回は助かった。ありが…」

ん?オレンジ?

「なぁ、お前…気になってたんだけどシーツのこれって…」

「あっ!?」

リリムの様子がおかしい。慌てふためいて、何か必死に言い訳を探している。この様子からバレバレなのだが。…そう言えば、目が覚めた時に「ブホぅッ!?」って…。

「こ、これは貴様が悪いのじゃ!!突然、大きな声を出すから驚いたのじゃ!!断じてわらわの所為ではないからのぅ!!」

「……テメェ」

クロードの怪しい眼光!歪みの無い笑みが恐ろしい…。

「ひっ!!」



―対魔導災害駆逐部隊庁舎、バートン=バナー小隊室

この部署は相変わらずやかましい。舞い込む任務、報告書の数々…てんやわんやも良いところだ。誰かがぶつかり合ってもおかしくない状況で、誰も衝突しない…慣れであろう。いつもと変わらない風景。唯一つ違うのは、クロードの席にリリムの影がいる事だ。

「小悪魔ちゃんからは今日も連絡無し…か」

頬杖を突いて、ルチアーノがつまらなさそうに影を見つめる。目の前には始末書の山。同僚を救い出す為とは言え、やりたい放題やった罰である。憲兵隊に情報部隊…たった二つの部隊からこれだけ出されると嫌になった。

「こぉーら!あんたはそれより始末書を仕上げなさいよ!」

ソフィアが爽やかな笑顔で、彼の肩をポンと叩いて励ました。ここ最近、彼女は妙に上機嫌である。この忙しさの中では気に留める者なんて誰もいない。が、毎日毎日、何かしらの形でちょっかいを出されている人間は例外である。

「お前、そう言うけどさ…。これ全部書く俺の身にもなってくれよぉー」

「それはあんたが悪いんでしょ!隊を出た上にこれだけやっといて、二等兵で復隊出来ただけでもラッキーなんだからね!贅沢言わない!」

「へいへ~い…」

ぶーぶー文句を垂れながら、幸運の男はペンを手に取った。

「ブホぅッ!!」

突然、何かを吐き出す様な、あるいは吹き出す様な声が響く。その部屋に不似合いな音の方向へ、一同の顔が向いた。悪魔の影である。凍り付く時間。隊長を始め、皆が息を呑んだ。

「皆の者…」



「…」



「クロードが目を覚ましたぞ!」

瞬間、小隊室は歓声に沸き上がった!肩を組み合う者、ハイタッチをする者、ガッツポーズをする者…小さな部屋の中が、一種の大きな祭の状態だ。特に仲の良い二人の喜び様なんて、この中でも一番と二番を独占している。



ルチアーノの場合…

「やりましたよ、隊長!!これで万事解決万々歳っすよ!!」

「あぁ、そうだなルチアーノ!!」

「こりゃ、隊を挙げてお祝いー…とか!?」

上官が上機嫌なのを確認し、自分の欲望を解放する姑息な男…それが彼である。

「あぁ、良いぞ!!」

「勿論、無礼講で!!」

ここで一気に加速をつける!

「良いぞぉ!!」

「始末書と俺の階級も何とか!!」

本命!!

「駄目だ!!」

「そんなぁーッ!!!!」



ソフィアの場合…

「やったね!リリムちゃん、やったねッ!!」

薄っぺらい影と両手を合わせて、乙女の様な喜び方をする。これで完璧だ!元通りのバートン=バナー小隊だ!とても嬉しそうなはしゃぎ様に、ついつい悪魔の方は踏ん反り返った態度を取ってしまった。

「きゃはは!これも一重にわらわの活躍があっての事じゃ!敬うが良いぞ!!」

「そうねッ!今度、オレンジいっぱい買ってあげるッ♪」

「おぉ!!お主、大好きじゃ!!」

そもそもの原因って悪魔だよな…?
と、突っ込もうとしたルチアーノだが、その後の展開を考えて、その台詞を飲み込んだ。リリムを抱き上げて、楽しそうにくるくる回ってる彼女を見ていると、そう言うのがはばかられる。
…泣きっ面に蜂、って言うし。

…ていうか、実体無いのにどうやって持ってんだソフィアは?



「ひっ!!」

影の様子がおかしい。情けない声を上げたかと思うと、元々悪い顔色が、更に黒く青くなった。ガタガタ震えている…。回転を止めて、心配そうにソフィアは声を掛けた。

「リ…リリムちゃん?どうしたの?…回るの、速かった?」

「…」

「リリムちゃん…?」

「ぎゃあああぁぁぁーッ!!!!」

「きゃあぁーッ!!」

突然暴れ出す悪魔の影。室内を所狭しと、縦横無尽にコミカルに駆け回る…漫画のキャラクターの様だ。実体が無いというのは助かる。どれだけ暴れ回っても、部屋の装いに傷一つ付かない。

「だ…誰か来てたもれーッ!!」

「おい、どうしたんだ?小悪魔ちゃん」

「クロードに殺されるぅーッ!!うぎゃあああぁぁぁーッ!!尻尾は…尻尾はやめてたもれぇーッ!!」

先程の大騒ぎから打って変わって、部屋の中が静まり返る。

心配して損した…。何だ、元気じゃないか…。…だけど、良かったよな?ある意味、こうでなきゃクロードじゃないよね?…

ぽつぽつと沸き起こる笑い声が次第に大きく育って、部屋を丸々占拠するまでになった。そうだ、これが普通だ。いつもの彼だ。こうでもなきゃ、待ってた甲斐が無い。

笑いを何とかして抑えつつ、大佐が声を張る。

「よし、ソフィアにルチアーノ!見舞いに行ってやれ!」

「了解っす!ハハハッ!!」

「了解!ウフフッ!!」

「つ…角も駄目なのじゃぁーッ!!」

腹がよじれそうだ。お陰で足元が覚束無い。よたよたとドアまで歩み寄り、敬礼を一つ。影と一緒に、衛生部隊属帝国立大病院へ向かった。

「貴様らも、いつまでも笑ってないで仕事に戻れぇ!!」

「サー、イエス、サー!!」





BLACK OR WHITE? 6~誰が為に騎士は行く.part3~ part4に続く



[19605] BLACK OR WHITE? 6 ~誰が為に騎士は行く.part4~
Name: 縄口圭心◆52f18317 ID:1cf981f1
Date: 2010/06/16 22:03
ヴァチカンには大きな病院が二つある。一つは帝国立ヴァチカン大病院。こちらは国家試験を通った民間出身の医師らが勤める、金持ち向けの施設だ。そしてもう一つは、教皇庁内に建つ衛生部隊属帝国立大病院。こちらはその名が示す通り、軍の衛生部隊が管理する、軍人の為の病院である。クロードは後者の方に入院していた。

両方とも設備面から見れば最高で、どちらも引けを取らない。が、治癒魔法の質で見れば、軍病院の方が遥かに勝る。無理も無い。日々欠かさず軍隊式の魔力コントロール訓練をこなしているのだ。対して、通常の医学知識と、そこそこの魔法を利用する通常の医者。比べ物にならなかった。

病院の廊下をあるく二人と影。光と開放感に溢れた、清潔感のある空間が続く。院内には消毒薬の独特の匂いが広がって、ピリリと気持ちを引き締めさせた。擦れ違う患者らの中には、片足を失った者や腕の無い者、包帯でグルグル巻きになった顔等など…戦争の傷痕をこれでもかと目の当たりにする場所が、この時代の病院だ。だが、少なくともこの廊下に出て来る人々は絶望してなどいなかった。この先の為に、待っている人たちの為に、必死になって、元に近い生活を送ろうと訓練に励んでいるのだ。

「あれ?小悪魔ちゃん、さっきから変に大人しいな」

ついさっきまで「ギャー!!」とか「死ぬー!!」とか叫び回っていた影だが、今は至って静かだった。病院という環境に配慮が出来る類の者ではない事は分かる。故に、ルチアーノは違和感を覚えたのだ。

「いや…のぅ…。ハァ、ハァ…。クロードじゃが、ハァ…暴れ過ぎてのぅ…」

「ど、どうしたの?」

散々全力で暴れ放題暴れた後だけの事はあって、息が上がっている。薄っぺらい身体がピラピラと、宙を舞う紙の様に揺らめいていた。影は途切れ途切れに説明を続ける。



「……テメェ」

クロードの怪しい眼光!歪みの無い笑みが恐ろしい…。

「ひっ!!」

両者動かず。互いに隙を覗い合った。もう何度も彼の癇癪に付き合ってきたのだ。嫌でも慣れてしまう。瞬き一つせず、冷や汗も拭わず、ピリピリした時が流れていった。この久し振りの空気…ルナはなだめるのに必死だった。

「ちょ…ちょっと!起きて早々それは無いんじゃない!?怪我人は大人しく…!」

彼の目は、獲物を目前にした肉食獣のそれと化している。あるいは、玩具を目の前にしたペーター=キュルテンの方が正確かも知れない。

あ…駄目だ。完全にスイッチ入っちゃってるよぉ~…。

当然の事だ。彼にとって悪魔をいたぶるのは酒や煙草の様な嗜好品と同じである。拷問で抵抗も出来ず、ただただ相手の為すがまま…。そんな目に遭って、彼の我慢は限界に達していた。張り詰めに張り詰めた所で何とか保っていた堪忍袋の尾が、噛みかけのオレンジのシャワーでプッツンと切れたのだ。

目を逸らすでないぞ!背を向けて逃げるでないぞ!今の奴は、刹那の隙でも飛び掛って来るのじゃ!!

そう自分に言い聞かせている所に…

「リリムもほら!素直に謝ったらどうなのよ!?」

「ッ!?馬鹿者!!今は話し掛けるでな…!?」

一瞬の気の緩みがいけなかった。助け出した男は、今まさに命の恩人へと牙を剥こうとしている。両腕にはめられたギプスが彼女を目掛けて迫り来る!

「ぎゃあああぁぁぁーッ!!!!」

こうなったら逃げるしかない。脇目も振らず、男の魔の手から逃れようと駆け出した。涙目になって、顔色を青くして、本気で退却する姿に、魔界の長の雰囲気など塵ほどにも無い。ギプスが悪魔の両脇を捕らえた!

「ひぎゃ!?」

もう駄目かと思った…が、ギプスが邪魔をして掴む事が出来ない。そのままスルリと、猫のしなやかさで腕から抜けて行く。

「きゃはは!今度ばかりは、わらわの勝ち…」

余裕を振り撒き、後ろに振り返る。もう男の手の届かない所まで来たのだ。心配は要らない。

だが、その淡い期待とは裏腹に、彼はすぐ後ろにいた。点滴の針を引き抜き、ベッドから文字通り身を投げる。そこまでして憂さ晴らしをしたいという心は、常人には分からない。麻薬にも似た中毒が、思考を支配している。

…じゃが、腕は使えん!!まだ逃げれるのじゃ!!

意表を突かれたものの、まだ余裕は十分あった。間合いを見計らい、ギリギリまで待って、特攻をかわす!

両足もあの状態じゃ…今度こそ…

と、後ろに引っ張られる感覚。尻尾に違和感がある。恐る恐る振り返ると、クロードは歯を立ててリリムの細い尻尾に噛み付いていた。

な…、口…じゃと…!?

彼女の愕然とした表情を見るや、彼は嬉しそうにニカッと笑いを送る。そして、今までの半生の中で一番力の篭った歯軋りを永遠と繰り返した。

「うぎゃあああぁぁぁーッ!!尻尾は…尻尾はやめてたもれぇーッ!!」

強烈な痛みとこそばゆさが織り合った奇妙な感覚に悶える女悪魔。ドタドタバタバタ暴れ回って、何とか逃れようとするが、男は怪我人とは思えない力で歯を食い縛っていて放さない。どれだけもがこうと、どれだけ騒ごうとお構い無しに、拷問やら審問の鬱憤をぶつけた。

「も…駄目なのじゃぁ~!!こ、これ以上は…あああああぁー!!」

何を思ったのか、癇癪持ちが尻尾を放す。訳が分からないが、この小休止の間に何とか体力を戻そうと、小悪魔は目一杯の深呼吸をしておいた。目は点、嫌な汗が体中から噴き出して、全身から力が抜ける…。天井が高い。そしてそこに姿を現す無情の笑顔。

勘弁してたもれ…

泣いても許してくれる筈が無い。そう分かってても自然と涙が流れた。もうどうにでもしてくれと言わんばかりに投げ遣りな顔…。それにも容赦無く、小さな長の小さな角に噛り付いた。

「つ…角も駄目なのじゃぁーッ!!」

幼女を無理矢理抱きかかえて膝に乗せる。その頭をガリガリかじる大人…。傍から見れば犯罪の構図だった。天使は呆れて物も言えない。

全く、何やってんだか…。

ガリガリガリガリ…

「や…やめ…っ!!角が…角が削れるのじゃあぁーッ!!」

羽交い絞めにされながらも、意味の分からない攻撃から逃れようとする。しかし体格に力の差で、それすらも叶わなかった。魔力さえあれば彼女も互角以上に渡り合えるというのに…情けない事だ。せめて一矢報いようと、力を振り絞って身体を仰け反らせる。

ブチッ…!

「…何じゃ?今の音は?」

何かが切れる音。それと共に男の動きも止まった。何事かと思う幼子。すると、背中に生暖かくベットリした感触がする。彼の手の力も緩んでいた。背中に手を回して、その感覚の主を拭い取る。赤く、錆び臭い。

…血?

ハッとして上を向く。張り切り過ぎたのか、白目を剥いて泡を吹くクロード。そのまま床に吸い寄せられる様に倒れてしまった。

「ク、クロードぉーッ!!??」

「た、大変!!ナースコール…ナースコールは何処ぉ!?」



「…つまり、ロリコン大将は良くないハッスルをしちまって、自分で傷口を開けちまった。と…」

「だから今、大人しくしてるのね…。何と言うか…自業自得だね…」

笑うにも苦笑いでさえも出て来ない。ただただ呆れるだけ。彼らしいと言えば彼らしいのだが、もう少し立場をわきまえても良いものだ。

「…着いたのじゃ」

クロード=スティグマンのネームプレートのある病室。他に名前は無い。彼はこの病院でも最高の個室に入っていたのだ。

「うおっ!?マジで!?個室かよ!?」

「教皇が計らってくれたのじゃ。最高の名医付きでのぅ!」



扉が開く。

「いよぅ!!クロード、元気かー!?って、怪我人だったなーッ!!」

勢い良く挨拶。ついでに景気付けのノリ突っ込み。更に女の突っ込み。

「ルチアーノ、笑えないから…」

「え、マジで!?」

部屋の中には影の本体、小さな天使に二人の主人。そして、八枚翼の熾天使。マスクと変形した額帯鏡を着けて、カルテに患者の容体を事細かに記入していた。急に大声を出して入り込んできた輩に、冷ややかな流し目を投げ掛ける。

「院内ではお静かに願います」

「ラ、ラファエル様!?」

最高の名医には違い無い。何しろ、彼は医学を人類に伝授した張本人なのだ。だが、それは彼らの想像の外、まさしく規格外の大物だった。

さ…さすがは教皇猊下…。こんな大物が一言で何とかなるんだ…。

「で、君達は?」

カルテを書き終え、来客の方に身体を向ける。顔の大部分が隠れているので、表情が覗えなかった。が、声色からして少なくとも静寂を破ったのには怒っていない様だ。呆気に取られていた二人だが、すかさず敬礼の構えを取った。四大天使を前に、自然とソフィアに力が入る。

「ルチアーノ=イディオクラン曹ちょ…じゃなかった、二等兵であります」

急に階級下がるとやり辛い…。

「ソっ、ソフィア=テンダー曹長でありますッ!!」

「…だから、お静かに」

「あっ!失礼しました…」

上官を前にして緊張したり、恐縮で頬を赤らめたり…実に初々しい。だからこそ、彼はこの手の人間の扱いが苦手だった。感情的な者は予想外の行動が目立つ。顔が隠れて表情を読まれないのが救いだった。しかし、聞いた名だ。ソフィア=テンダー…。

「フフ、成程、君が噂の…。君なら、そこまで緊張する必要は無いでしょう?」

「いえ…自分はまだまだ半人前で…」

照れ隠しに下を向く女。だが、それが逆に分かり易い。隔そうとすればばれる、言うなれば男の浮気とどっこいだ。

こんな女の子が将来の将軍候補ですか…。

「それより、私はそういう事を聞きたかったんじゃなくてですね…。お見舞いの方々ですか?」

「あ、はい。そうです」

「あの…クロードの奴は大丈夫なんですか?」

ベッドの方を見ると、さっきよりも酷い事態になっていた。全身の包帯が増量されて、見たままのミイラ人間と化している。怪我人の身動きを封じる為に、革のベルトでベッドに縛り付けていた。これでは、拷問の時と全く一緒だ。まだ気絶してるのか、それにも全く抵抗しなかった。ルナが彼を心配そうに見守っている。

「彼は…怪我の具合に相応しくない位に元気でですね。散々暴れて傷が開いてしまったんですよ。今は見ての通り大人しくしてもらってるんですがね。…まぁ、心が健康なのは良い事には違いありません。ですが、果たして、医者としては喜ぶべきかどうか…」

「…ご迷惑をお掛けします」

さすがの大天使も破天荒な男にはお手上げの様で、顎に右拳を当ててお悩みのポーズ。二人はただ平謝りするしかない。深く深く頭を下げ続けた。

「ん…」

そうこうしている内に、話題の彼が意識を取り戻す。噂をすれば何とやらと言うが、満更、嘘でもないらしい。薄っすらと開けた寝ぼけ眼で辺りを見回した。まず始めに小さな天使が映る。

「良かった!目が覚めたのね、クロード!…全く、怪我してるのにあれだけ動き回って、これだもん。笑い話にもならないよぉ!」

「うっす!ロリコン暴れん坊大将!」

「お見舞いに来てあげたわよ」

「ルナ…ルチアーノ、ソフィア…」

思わず微笑んでしまう。目が覚めると、そこにいたのは笑顔の同僚がいたのだ。悪い気はしない。むしろ、療養中の身には最高の贈り物だ。こうして心配してくれる友がいてくれると思うと、身体の痛みも無きに等しい。優しい喜びに浸っていたその時、視界の隅に見覚えのある尻尾が入った。

「ッ!リリムの奴、ぶっ殺す!!」

ついさっきの優しい表情が嘘の様に、怒りの形相へと豹変する。白導の吸血鬼から受けたストレスは最高潮。発散の糸口を探して、今もまだ燃え滾っていたのだ。が、革の拘束具が邪魔で、悪魔に飛び掛るどころか起き上がる事すら出来ない。バタンバタンと暴れる男を、見舞いに来た二人が見かねて押さえ付けた。一方で件の殺傷対象は、被害の及ばない所からその光景を肴にオレンジを食べている。

「ちょ、お前も懲りない奴だな!!」

「それで傷口が開いたんでしょう!?馬鹿じゃないの!?」

契約天使も加勢して、主人をなだめた。

「もう子供じゃないんだから!!シーツ汚された位で怒らないの!!」

「…そんな理由で暴れられたら、医者なんて幾らいても足りんよ」

常識の通用しない男に向かって溜め息を一つ吐くラファエル。この種の輩もまた、彼の苦手な人種だった。軽く目眩がして、額に手を添える。聞き慣れない声の方に、患者の目が向いた。

「あんたが俺を治してくれたのか?」

「いかにも、私が君の主治医です」

「テメェ何こんな中途半端で放ってるんだよ!!馬鹿野郎!!」

「!!??」

命の恩人に向かって何て暴言を吐くのだろう。立場を分かっているのだろうか?こうなったらむしろ、周りにいる人間の方が怖い。ルチアーノがとっさに悪い口を両手で塞ぎ、ソフィアとルナが何度も頭を下げて詫びを入れた。

「テメッ!?ちょっと黙ってろ!!」

「~ッ!!」

「ごめんなさい!!ごめんなさい!!本当にごめんなさい!!」

「申し訳御座いません!!後でしっかり叱っておきますから!!」

「いや…患者の心理状態が不安定なのはよくある事ですし…。それより、静かにして欲しいんですけど…」

怒涛のドタバタ劇場が繰り広げられる。離れた所からそれを眺めていたリリムは、ちょっとした観劇の気分。演目は、トラブルメーカーとそれに振り回される人々。オレンジを口に運ぶ手も自然と速くなる。

「きゃはは!これは愉快じゃ!」

院内の騒動をよそに、教皇庁から見る空の時間はゆっくりと流れた。



―それから暫く…

見舞いに来た筈が一連の騒動に精根尽き果て、来客用のソファに沈む男と女。そして、ランタンの入り口からだらしなく上半身を垂らしている天使。ここ数分の内に老けた様にも見える。ゼーハーゼーハーと息を荒げて、冷や汗と脂汗を流していた。現場の仕事でもここまで体力を消費した事は無い。身体から魂が五センチほどはみ出た気分だった。もう言葉も出ない。

その傍らには、対照的に恍惚に更ける小悪魔が一匹。見舞いの品であったオレンジを食らい尽くし、橙色の残骸を床にばら撒いて横になっていた。果実に満ち満ちてプクッと膨れた腹を擦って、ケプッと噯気を漏らす。満足したのは腹だけではない。魔界の宮廷生活以来の喜劇を楽しめて、横暴な契約主のお陰で荒んでいた心にも潤いがもたらされた。

消耗もせず快楽にも溺れず、この病室で平常を保っているのは残りの二人だけだ。負傷者の方は機嫌を損ねたままで、ラファエルを睨み続けていた。しかし、当の彼はお構い無し。淡々と点滴を付け替えていた。

「なぁ、先生よぉ!あんたならもっと早く治してくれる事だって出来るだろう!?何でこんな回りくどい事するんだよ!?」

「私はヨハンナ猊下から、最高の治療を施すようにと仰せ付かりました。魔力に頼った方法は細胞分裂を急速に促進させて、傷を塞ぐという便利な物ではあります。ですが、地上の生物の細胞分裂は回数に限界がある。寿命の短い人間へその方法を徒に施すのは、全く最高の治療ではない。そういう事です」

「ふざけるな!!教皇の言ってる『最高の治療』ってのがそうとは限らねぇだろう!?そんなテメェのポリシーに付き合ってられるかよ!!」

怒鳴り声をよそに、点滴を吊るし終える。パックの溶液が滴り落ちるのを確認し、視点をベッドの男と同じ高さに合わせて語り掛けた。話をする時、上からよりかは気分が良くなるものだ。

「…早期回復が君の為になるとも限りません」

「…どういう意味だ?」

「君が回復し次第、裁判が開かれます。幾ら審問その物が違法であったとは言え、君が悪魔を連れ込んだ事には変わり無いですからね。しかも今回は猊下直々に判決を下されるそうです。…悪い事は言いません。ゆっくり休んでおきなさい」

へばっていた三人が、少し遅れてご満悦のリリムが、この言葉に飛び起きた。裁判が開かれれば、命を落とさないにしても只では済まされない。目の前の患者を刑罰に送る為、さっさと治療を済ませる事は、癒しの天使としては不服で許せないものだ。興奮気味の男に諭す様な澄んだ瞳で、説得を試みる。

「何だ、だったら早く治してくれよ!」

「!?」

その思いとは裏腹に、クロードはあっさりと提案を却下した。色々なクランケを見てきた熾天使だが、こんな男は初めてだ。不意を突かれて驚きを隠せない。

「馬鹿な…。君、そんなに我が身を危険に曝したいんですか!?」

「俺は教皇に会う為にここまでしたんだぜ!?どんな形であろうと、どんな手段を使ってでも会ってやる!!」

「ですが…」

世迷言でもやけくそで出た一言でもない。彼の目は本気だ。瞳の奥に潜む思いは、例え神であろうとも察する事は出来ないだろう。一体何が彼をここまで掻き立てると言うのだ?

「ラファエル様…ここは一つ、こいつのワガママに付き合っていただけませんかね?」

「ッ!?ルチアーノ、あんた何言って…!?」

「…私からもお願いします」

「ルナちゃんまで!?」

周りが嘘の様に男の願いを後押しした。裁判に臨んだところで何の特にもならない筈だ。それなのに何故…?混乱と迷いを抱いていたソフィア。その肩にルチアーノが手を置く。何も心配無いと言う代わりに、ウインクを一つ送った。

クロードが審問の不正を知っていたとは考えられない。あくまで、教皇に会って目的を達成する…それが今までの言動の根っ子だ。その行為自体に問題がある様子も無いし、ここまで来たら信用してやる他に無いだろ。

「…私もお願いします」

「わらわは…」

「仕方ありませんね…。良いでしょう」

賛成多数。小悪魔の意見は聞くまでも無い。自分の論理に反するのが癪で、イラつきながら治療を始めた。無視をされた彼女が黙っている訳が無い。

「おのれ貴様!!わらわの意見に聞く耳など持たぬと言うか!?」

「静かにしてください」

「うぅ…わらわは魔界の長なのじゃぞ~…」

綺麗につっけんどんな対応をされて、精一杯の反論。口先を尖らせて、小声で己の威信を示しておく。踏ん反り返った大声で「私は小市民だ!!」と言う方がまだ説得力があった。

施術は面白いほどあっけなく終わった。両手、両足、胴体の計五箇所を一撫でしただけ。たったそれだけの事で、全身の痛みが引いた。拘束具が解除され、包帯やらギプスが外された。身体を捻ってみる。手首、腕の動きを確認。ベッドを降りて、軽くジャンプ。

「こりゃあ、すげぇ…。前よりも快調かも知れない」

彼の顔に満足の笑みが浮かんだ。これで夢が叶う!もうすぐにでも叶う!拳を強く握って、確実に一歩進んだ事を改めて噛み締めた。

「それでは、私は失礼しますよ。君の復帰を猊下に報告し申し上げねばなりませんのでね。暫くしたら憲兵隊が来るでしょうから、彼らの誘導に従うように。では、お大事に」

主治医はそう言い残して、最高の個室を後にした。廊下の窓から差し込む光が、今日に限って嫌に眩しく、鬱陶しい。カルテを日除け代わりにして、教皇の元へ向かった。



「あ~、腹減ったな。リリム、何か作れ」

三日の間ずっと眠り続けていて、何も口にしていないのだ。おかしくはない。リリムに無茶を言うところも、いつも通りだ。ただ、妙に軽やかだ。

「ここではニスロクも呼べぬ。そこの果物で我慢せい!」

「また尻尾を噛んで欲しいのか?」

「か、皮を剥くぐらいはしてやっても良いぞ!!」

ベッド脇に駆け寄るリリム。脳裏に焼きついた尻噛み男の恐怖…二度とあんな目は御免だ。恐ろしさに小刻む手でバスケットの中からリンゴを取り出して、慣れない手付きのナイフで皮を剥こうとした。

「リリムちゃん、私がやるわよ」

女がひょいと果実と刃物を幼女の手から取り上げて、慣れた様子でスルスルと皮剥きをした。リンゴの赤い皮が、見事に均等な幅で繋がっている。シャクシャクという音が流れゆく。奇妙な沈黙が包んだ。

「…クロード、一体、猊下に謁見して何をしようって言うの?」

思い切って静寂を破ってみる。それほど覚悟など必要無かったが、こういうのはそれに見合わない緊張を引き起こす時があるものだ。綺麗な白い肌を曝したリンゴを手渡す。

「ん…その内分かるさ」

シャリッと爽やかな音と香りを味わう。彼の内に秘めた物は、リンゴをかじる時の微笑みが靄みたいに邪魔をして見えなくなった。秘密を共有するルナが、彼の未来を静かに願っていた。



教皇庁軍法会議室。または、軍事裁判所。
古くからの悪習であった異端審問を撤廃し、現教皇ヨハンナ八世が創設した司法機関である。
異端審問において被疑者は即悪とされ、その権限も並々ならぬものであった。しかし、軍事と刑事、民事に分割。更に法的要素の強化、宗教的偏見を取り払う事によって、力の均衡を調整。
結果、頂点たる行政と立法、即ち教皇にも迫らん勢いで伸び続けた力を抑える事に成功した。だが、教皇の真意のある所はそこではない。

証人、検察が集い、傍聴席が軍服と祭祀服に埋まってゆく。若い人間が多く、中にはエルフなどの亜人種も見える。保守派である老人たちの影も僅かに覗く。裁判長はまだいない。

「なぁ、知ってるか?今回の議長は猊下らしいぞ」

「本当かよ?将軍でも枢機卿でもなくてか?」

「何でも、直々に御達しがあったそうだ」

「猊下も物好きでいらっしゃるわよねぇ。罪人にわざわざお会いになるなんて…」

重い扉が開く。外から、回復したクロードが二人の憲兵に連行されて来た。まだ数箇所に包帯が巻いてあるが、その足取りは至って軽い。魔封石をあしらった手錠をかけて被告人席に向かっているというのに、クロードは不敵に笑みを振り撒いている。

柵の向こうでざわついていた傍聴席が静まった。言葉の代わりの蔑視が痛い。敵である悪魔と契約した人間だ。当然である。それでも構わず、クロードは堂々と歩み行く。

「何よ、みんなして…。リリムちゃんを見てたら、そんな顔できないわよ…」

「まぁまぁ、本人は気にしてねぇみてぇだし。場外はスルーな」

証人席。不服そうに文句を垂れるソフィアを、気だるい声でルチアーノがなだめた。

クロードが円形の柵の中に入り、被告人席に着く。その両脇にある台座の水晶に、憲兵が手をかざす。すると、柵を取り囲う白いドームが突如として生成され、瞬く暇もなく無色透明に変化した。白導の十八番、結界。

議長席の前に別の憲兵が立ち、高らかに声を上げた。

「神聖ローマ帝国、第一〇五代教皇、ヨハンナ八世猊下の、御なぁーりぃー!!」

着席していた者が一斉に立ち上がり、見事に敬礼を揃える。一気に場の空気が張り詰めた。

クロードから見て向かい側の扉から、教皇が天使ミカエルを連れて入って来る。小さな身の丈を超す長さの槍を地に突き鳴らし、黄金に勝る美しさの長髪は空気を透かす滑らかさ。何にも増して神々しいその人はゆっくりと壇上に着いた。

「皆さん、お忙しい中、ご足労いただきましてありがとうございます。礼を解いて、ご着席願います」

「はい、猊下」

ヨハンナの柔らかな言葉に対して、一人を除いて周囲の反応は至極堅い。言われるがままに、機械的に敬礼を解いて着席した。

クロードだけは、彼女の優しい声色をありのまま受け止めて、同じく優しい表情を送っていた。元々険しい顔の彼だ。見方によっては嘲るようにも映る。しかし、教皇は何もかもを見透かしているのか、少し困った笑顔を返した。

一息置く。

「それでは、これより軍法会議を始めます。検察の方、よろしくお願いします」

「はい、猊下」

一人の検察官が起立し、手元の資料を読み上げる。

「被告人、クロード=スティグマン。起訴内容は悪魔との契約、及び教皇庁への同悪魔の誘導。今回の争点は、被告の一連の行為の意図、そこに悪意はあったか否かであります。なお、被告には黙秘権があることをご了承ください。以上を踏まえまして、検察から提示する唯一絶対の証拠がこちらであります」

別の検察官に目配せする。すると、その男がやる気のない溜め息を吐いて、懐からオレンジを取り出した。彼の背後から爽快な香りを察知して、黒く細い尻尾が覗く。
オレンジを掲げて教皇の前に歩み出た。遥かな天に位置する果実を追い求めて、爪先立ちになった小悪魔も前に出る。手錠はない。男が立ち止まると、悪魔はオレンジを取ろうと必死に飛び跳ね、無駄な努力を重ねた。

「こちらが、被告と契約した悪魔、リリムです。証人は対魔導災害駆逐部隊の皆様方でよろしいでしょうか?」

「えぇ、はい」

バートン大佐が代表して答える。



「何だアレ…。拍子抜け…」

「ガキじゃん…」

「ていうか、可愛いかも…」

「やぁね、滅多な事言わない方が良いわよ?」

傍聴席で、うるさい囁き声が飛び交う。ミカエルは憎き悪魔を無言で睨み続けていた。
ヨハンナが木槌を叩き、乾いた甲高い音を響かせた。

「静粛に。検察の方、続けてください」

「あ…いえ、ひとまず我々からは以上です」

着席。椅子のきしむ音が嫌に大きい。

「それでは、被告人クロード=スティグマン。弁護人は…いないようですが、弁論をどうぞ」

結界越しに伝わる音は、水の壁を一つ隔てた程のおぼろげなものだった。周りの風景も、白い霧に包まれたか強い日差しを受けたように眩しい。いや、クロードのいる空間がそうなのだろう。

沈黙が重い。オレンジを取ろうと躍起になっているリリムは例外だが。

と、被告人は楽しそうに笑った。

「ヨハンナ猊下…」

右足を引き、左手を水平に。視線は一直線に教皇の眼を向き、腰を前に曲げて辞儀の姿勢。

「黙秘など、とんでも御座いません。私は、猊下の御前に限って、未来永劫決して歯に衣を着せないと誓います」

これには傍聴席、証人ら、皆が驚いた。
ルチアーノとソフィアも、思わず口から零す。

「俺は…てっきり、悪態の一つでも吐くのかと………」

「そう…ねぇ…クロードらしくないよね………」



「静粛に」

木槌が再び物申す。

「…それでは、包み隠さず話しなさい」

ヨハンナの顔が曇った事を察知したのは、たった一人だった。
背筋を伸ばし、クロードの弁論が始まった。

「私がこの悪魔、リリムと契約した理由はたった一つです。それは反逆の意志でも、その他いかなる悪意でも御座いません」

「それでは、何故、白導の敵と?」



「私の目的は、猊下との謁見。すなわち、この法廷。これに尽きます」

今度はざわめきでは済まない。隣同士が顔を見合わせて、憶測や議論が飛び交った。
木槌が三度、物申す。今度の高音は、どこか悲しげで、それを見かけの怒りで隠したようだった。

「たったそれだけですか?たったそれだけのために罪を犯して、たったそれだけのために命を危険に曝したのですか?」

「たったそれだけです。一介の兵士に過ぎない私が教皇猊下に謁見できる機会など限られて…いえ、皆無と言って差し障り御座いませんでしょう。ならば、無理にでも機会を作るのみで御座います。私の目的を果たすためには、この方法しか御座いませんでした」

クロードの目は澄んで揺るがない。

「…ただ私に会うだけで終わりではないでしょう?さぁ、ここからどうするのですか?」

ヨハンナの瞳は冷淡に揺るがない。

「…勝手ながら、御願いが御座います」

「…言いなさい」

深呼吸。高鳴る鼓動と歓喜を噛みしめ、平静を保つ。
満を持して言い放った。



「私を、ヨハンナ教皇猊下の騎士にして頂きたく存じます!!」



憲兵が掲げた手からオレンジが落ち、リリムの小さな手の平に乗った。同時に、愛する果実への熱が冷め、主人の発した言葉に耳を疑う。

「………今、何と…?」

罵詈雑言、嘲笑の雨霰。結界を通して伝わる罵声は、その場の人数を何十倍にも感じさせた。

「冗談も休み休み言うんだな!!そんな馬鹿げた申し入れ、猊下が認めるはずがない!!」

「ちょっとコレ本気だったらマジ笑える!!」



「今回ばっかりは無茶に拍車がかかってるぜ…」

さすがのルチアーノも頭を抱えた。

「隊長…」

「ソフィア、黙って見ていろ」



興奮が最高潮に達しようとしている。理性的な法の場は、今や激昂する感情が支配していた。

喧騒の中、クロードとヨハンナのいる距離の間だけは隔絶された静寂の世界。言葉は無くとも、声が掻き消そうと、彼らは分かり合えていた。

彼の心が分かる事が、辛かった。



「その願い、聞き入れましょう!」



雑多に入り乱れる声を押し退ける、力強い美声だった。

「ほら見ろ、やっぱ…れ?」

「…隊長!」

「皆まで言うな」

「オイオイ、マジかよ」



「………これまた、何と…?」



嵐の前の静けさ。嵐が来る前に木槌の高音。

「あらかじめ言っておきますが、如何なる異論も認めません」

「でっ、ですが猊下!!」

傍聴席の老いた大司教が、歳にもかかわらず身を乗り出す。

「ミカエル、剣は如何にして錆びるのでしょうか?」

「は…?」

「御望みとあらば、ここで御見せ致しましょう」

答えが返り、天使の右手が神剣に伸びる。
大司教は勿論、誰も返す言葉が見つからず、静かな法廷に戻った。

ヨハンナ、おっかねぇー…。

と、口に出せないのは明白。ルチアーノは腹の内で消化した。

「心配は無用です。この者は真実のみを口にすると私に誓っています。なら、悪魔の力を使って、私に仇を成すという事は絶対にありません。目を見ても分かります」

そんなもの、幾らでも誤魔化せる。周りの顔にはそう書いてあった。

「それに…万が一でも、私にはミカエルが付いています」

この言葉の方が納得がいった。



「では、クロード=スティグマン。階級が曹長である貴方が名誉騎士公になる方法は承知していますね?」

「はい。ですが…」

「…何ですか?」

「一つ、条件があります」

「…聞きましょう」

不敵な笑みを浮かべるクロード。手錠で自由の利かない腕を持ち上げて、教皇の傍らに控える天使を指した。

「俺の相手はテメェだ。ミカエル」

教皇の言葉もあってか、誰も声を出さない。生唾を呑む音、汗が床を叩く音が、誰にも気付かれずに消えていった。

「聞き違いか…」

ミカエルは壇上を降り、リリムの頭上を飛び、クロードが閉じ込められた結界の前に降り立った。

「まるで、私が相手なら勝てるというように聞こえたが?」

「勝てるさ」

臆する事なく、売り言葉に買い言葉を叩き付けた。切れ味の鋭い両者の眼光がせめぎ合い、緊張の糸は弾ける寸前まで張られた。
それでもクロードは笑う。ミカエルは無を極める。

「良かろう。勝てば英雄、負ければ処刑…悪い話でもないな。…ただし、こちらも条件を付けさせてもらう」

背後で呆然とする小さな黒い影。ミカエルはリリムを片手で軽々と持ち上げて、結界に押し当てた。接触面から黒煙がもうもうと登る。

「ぅぎゃあああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁッ!?熱い!!熱いのじゃ!!」

「貴様一人では物足りん。契約天使…そして、この小うるさい悪魔も一緒に始末してやろう」

「ッ?………へぇ…そうかい」

軍法会議としては異例のケースだった。
結末は判決の読み上げではなく、黒煙と、少女の終わらない絶叫。

しかし、これが司法の歴史に足跡を残す事はない。

足跡を残すのは白導の歴史。
後の決闘である。



天窓から陽光差し込む石造りの部屋。空気は青く冷たく、光は白く暖か。煩わしい要素など一つも無い。

クロードは一人、精神を研ぎ澄ましていた。
得物とランタン、衣服…没収された物は全て返却されている。



やっとここまで来た。

長くかかってしまった。けれど、もう待たせはしない。
俺達の約束は、もうすぐ。手の届く所まで来ている。眠れない夜とも、迷走する日々とも今日でお別れだ。

………。

これまでに得た物とこれから得る物の価値と比べれば、ここに来るまでに払ってきた対価なんてちっぽけな物さ。



白銀の銃を右手に取る。片手で構えるには余りある巨大な拳銃、竜の名を冠するヴォーティガーン。



「………」



プロイセンの森林地帯。

霧深い針葉樹の森。ガスの湧く沼地。人知れずたたずむ古城。

並みの人間が住むには不快なこの場所で、並みの人間から外れたその女は、自分の研究に没頭していた。人道を踏み外した外法の研究が、幾夜となく行われていた。

彼は、その異端者を排除するために来た。

研究室の機材から漏電し、煙が登っている。電灯が点滅して目に痛い。

最早、結果は目に見えている。
彼女の配下、継ぎはぎだらけの実験体は全て床に伏せ、本来の眠りを取り戻していた。屍は屍に帰る。生ける者は、拳銃を構えボロボロのコートを羽織った男と、彼の小さな天使、そして白衣を着た継ぎはぎだらけの女のみ。

女は、緑色透明の液に満ちた培養カプセルを背にかばっている。

「へぇ~♪やるじゃぁ~ん、ガキんちょぉ~♪私のぉプリティ~ベイベェ~達がぁ、一網打尽ン~♪みたいなぁ~♪」

いちいち鼻に付く喋り方だ。

「ボクぅ~?お名前ぇ、教えてくれないかなぁ~?」

点滅する白熱電球に浮かぶ姿。鉄の銃を構えたまま、男が答える。

「白導教皇庁のクロード=スティグマンだ。フラン=K=シュタイン博士」

「あらぁ~ン♪そういう野暮ヤボな呼び方はダぁ~メぇ~♪天才少女フランちゃん、ってぇ呼んでぇ~♪クロちゃ~ん♪」

フランの手が、後ろのポケットに伸びる。

「人造人間の製造は重罪だ。命を手玉に取る…神を神と思わない所業だな」

「やぁ~ん、心外だわぁ~♪ネクロマンサーだってぇ~、同じコトしてンじゃなぁ~いぃ~♪」

「死体使役と一緒にするな。あれも重罪だがな」



「…じゃあぁ~、どっちにしろぉ~、クロちゃんも重罪人だぁ~♪」



「…何だと?」

「だってさぁ~…」

ポケットから黒銀の銃が顔を出した。

「どっちかの材料になるんだからねぇー!!」

火薬の炸裂音。鉛玉がクロードの額に向かう。
光を発する小さな天使がランタンから飛び出して、そこに割って入った。
両手の平から発する見えない壁、結界に阻まれ、銃弾は頼りなく微塵に消える。

「…あれぇ~?」

反撃。クロードの弾丸がフランの手をえぐる。

「痛ぁッ!?」

彼女の拳銃が床に転がった。止めどなく流れる血を押さえ、苦痛でその場に座り込むフラン。

「わ…私のぉ…バスカヴィルがぁー…」

「ルナ、ナイス・ディフェンス」

「どういたしまして。でも今度からは自分で避ける努力もしてね」

そう言い残して、ルナはランタンに戻って行った。



銃を拾い上げるクロード。まだ硝煙の臭いが残っている。

「見た事がない型だな…。自作か?」

相手の銃口が頭に当たる。息を荒げながらも、フランは達観した笑顔で答えた。

「そぉ…だよぉ~…♪だか…らぁ~?」

銃を突きつけたまま、クロードは博士と視点を同じ高さにした。



「条件付で見逃してやっても良いぜ?」



「ッ!?」

「え!?ちょ、何考えてんの!?」

ランタンの中から声が反響して聞こえた。

「見逃すだなんてとんでもないわ!!そんな事したら、最悪、反逆罪で処刑されちゃうわよ!?」

「良いから蚊トンボは黙ってろ!!」

拾い上げた方の銃で、腰のランタンを二、三回殴る。途中まで散々なわめき声を張っていたが、その内、声はしなくなった。
ランタンの中で、はしたない格好をしてルナは失神していた。

「…で、どうする?」

「…条件はぁ~?」

クロードは銃を下ろし、立ち上がった。物事が順調に進んでいる時の笑み。人相に詳しくない者でも分かる。

「一つは、ここから出て行く事。一つは、この城を証拠ごと消す事。そして、最後の一つは…」

この時、彼の表情を見て、一瞬、フランは彼という人間を疑った。



「ミカエルの剣を超える銃を造る事だ」



その疑念は、ある確信に繋がる。

「…アハぁ~♪私ぃ~、自分でも結構イカレてると思うけどぉ~、…クロちゃんも大概だねぇ~♪」

「どうなんだ?出来るのか?」

懐から注射器と薬の瓶を取り出して、それを傷を負った方の腕に突き刺す。

「私みたいなのだってぇ~、聖書くらいは読んだコトぉ~、あるわぁ~♪ミカエルってぇ~、天使ちゃんの中でぇ~、一番強いちゃんなのよねぇ~♪」

「…質問の答えになってないぞ」

「あ、出来るかもよぉ~?」

薬を打って数秒。傷口の細胞が異常な速度で分裂し、痕すら残さずに回復した。まともに戦ったら厄介な相手だ。

「仮にぃ~、あの記述がマジだとするじゃんかぁ~?するとぉ、ミカエルの剣の弱点だって見えるんだよねぇ~♪」

「ッ!!そうか、なら…!!」

「ただしぃ~、クロちゃん条件多いからぁ~、こっちからも一つねぇ~♪」

どうも危機感がない。自分が置かれている状況が分かっているのだろうか?

「まぁ、聞いてやるよ」

緑の液体が入ったカプセル。それを彼女は大切に抱え、撫で、愛しそうに口付けをした。バイオレットの口紅の跡が付く。

「これは…彼だけは、安全を保障して欲しいのぉ…」

対峙してから、彼女は一貫してふざけた態度だった。だが、その彼女が、真剣な台詞を心からの声で発した。伸びきった灰色の髪の毛で目元は見えない。その時の、博士としてではなく女としてのフラン=K=シュタインが今でも印象的だ。

銃をホルスターに収納。カプセルに寄り添うフランの髪の毛を、クロードが掻き上げた。

二人の視線が合う。

「約束する」

博士の目は熱く濡れていたが、それが零れる事はなかった。
言葉の代わりに穏やかな笑顔が返った。



あれから四年…。

白く輝く銀の銃に、戦う前の男の締まった顔が映っていた。弾倉をセットし、ホルスターに入れる。
椅子から立ち上がり、銃を瞬時に抜き構える。少々重量があるが、使い勝手は悪くない。

やっぱり、奴の腕は確かだな…。

「怪我を感じさせないわね」

暗闇からルナを頭に載せたリリムが歩み寄る。精一杯の明るさを振り撒く天使とは対照に、小悪魔の方は腕を組み、目を反らして不貞腐れていた。

「いよいよだね…。クロード」

「まぁな…」

「…」

二人の近くに寄り、リリムの視点にまでかがむ。ルナは飛び立ち、クロードの肩に座った。
リリムは黙ったままだ。

「どうしたリリム?何か不満か?」

「…貴様はむしろ、権力に唾吐く類の人間じゃと思うておった」

「…それで?」

「貴様は…己の立身出世のために、わらわを利用したのであろう?」

小さな肩が震えていた。

「それで?」

尖った耳の先まで赤く染めて、目から大粒の涙を落とし、真っ向から言い放つ。

「貴様にとってわらわは何なのじゃ!?」

堰を切った言葉が溢れ返す。

「わらわは教皇に会うための、ただの道具だったのか!?ならば、もう用済みなのか!?…貴様が見せてくれた笑顔は、どれも仮面だったのか!?」

口元に力が入り過ぎて、これ以上は声にならない。言葉を発しても、これ以上は本当に泣き喚いてしまうだろう。それでも、力強い真紅の眼光が、彼女の本心を存分に伝えていた。

鼻水が出ていた。

おもむろに、ズボンのポケットからハンカチを取り出すクロード。

「…バカか?」

「…?」

みっともない涙と鼻水を、柔らかく優しい手付きで拭った。
小さな頭を撫で、彼は、今まで見せた事のない、大らかな笑顔で答えた。



「お前は、俺の契約悪魔だ」



「クロード…」

「仮でも契約がある以上、俺達は一緒だ」

天窓の光が強くなった。照らし出される三人の姿は一枚の絵画に似た神々しさを放ち、周りの闇より先の空間とは切り離された三人だけの世界で、三人だけで静かに微笑み合っていた。



「ただし、契約と書いて奴隷と読む」



「貴様あああぁぁぁぁぁぁぁあーッ!!」

「…ぶち壊しね」

暖かな平穏が一転、楽しい騒がしさ。リリムが両腕を回して特攻を仕掛けるも、今のリーチではクロードに遠く及ばない。頭を撫でていた手で、そのまま動きを封じられていた。

とうとう息が切れ、顔を青くして、床へ仰向けに倒れてしまった。

「おい、これからお前だって戦うんだぜ?戦の前に倒れてどうする?」

「っこ…この程度…、ハァ…魔力さえあ、ば…問だ…な……」

「分かったから先に呼吸整えろよ」

天窓の向こうの太陽が眩しい。明るさが苦手なリリムでも、今日だけはそれが憎く思えなかった。深呼吸の音が次第に浅くなる。息に余裕が生まれるにつれて、いつもの笑い声が戻ってきた。笑い過ぎて涙が出ている。
太陽との間を割って、クロードがリリムの顔を覗き込む。

「何がおかしいんだよ?」

「きゃはは!いやのぅ、それでこそクロードじゃと思ってのぅ!きゃはは!」

「言えてる!クスクス…」

「お前らなぁ…」

何がおかしい訳でもなかった。つい先日まで、彼は生死の境をさ迷い、悪魔は処刑へのカウントダウン、天使は見守るだけ…それぞれの抱えた先の見えない不安が、今、ここで、また顔を見合わせるという形に昇華したのだ。この場が本当に和やかで、笑わない方が変だと思った。



「おうおう、決闘前の雰囲気じゃあねぇなァ、オイ」



扉はいつの間にか開いていた。灯を背に受けて、ルチアーノがたたずんでいる。

「一応、ノックはしたからな」

三人は、照れ臭そうに咳払いをした。

「お前…何で…」

「今回の決闘は、猊下の御配慮で御自身と規定の見届け人だけしか見物できねぇからな。…地下闘技場まで付き合わせてくれよ、ダチ公」

クロードが彼の元に歩み寄り、右手を差し出す。

「悪い…今回は借りを作りっ放しだな」

「何ァに、良いって事よ」

手を組んで、それに答えた。



「…もうすぐ時間だ。ルナ、リリム、それにルチアーノ…行くぞ」

「その前に良いか?」

同僚の言葉に足を止めた。言葉の代わりに目配せ。戦う前だからだろうか、クロードの眼力が彼の身を切り刻みそうだった。

「お前がゾッコンな御相手について一言」

ルチアーノは飄々と掴み所なく、小指で耳の穴を掻いている。
クロードの足は止まったままだ。

先行く小悪魔に背を向けた。

「リリム…」

「む、何じゃ?早う参ろうぞ」

「先に行っててくれ。すぐに行く」

「そうか…?良かろう。待っておるぞ」

扉の向こうに消え、駆ける靴音が遠くなる…。



戸を閉めた。

「それで?何が聞きたいんだよ?」

普段は不真面目なルチアーノが、珍しく気合の入れた締まりのある顔になっていた。

「お前は親友だと、俺は思っている。…だが、一つ信用ならない」

開いた口から、冷めた声色を突きつける。
親友は、黙って聞き入れていた。

「教皇に対する思い入れ、お前のそれは狂信、っつっても良いくらいだ。それだけなら、まだ分かる。教皇庁にはそういう古代思想持った連中も多い。…でもな、教皇がお前に肩入れしてる、ってのはおかしくねぇか?」

肩に乗っているルナが口を挟もうとした。しかし、クロードが手を彼女の前にかざして止めた。

「何でそうなるんだよ?」

「ヨハンナ八世は権力を振りかざすなんて真似をするような人じゃねぇ。これまでの内政動向を見れば論理的な人間だって分かる。それがどうだ?お前の事になった途端、ミカエルで脅しかけたんだぜ?お前にとって有利に、有益に事が進むようにな…」

「………で?」

「教皇とお前が、何を企んでいるか…。俺はそれが怖くて、小便チビりそうだ。お前らの繋がりが、俺には信用ならねぇんだよ」

静けさが重く圧しかかる。
クロードは軽く辺りを見回し、ルナと目を合わせた。が、彼女は悲しげな顔をして、それっきり瞳を反らしてしまった。

「…どうやらタミフルも連れて来てないみてぇだな。お前、最初からこれを聞くために来たんじゃねぇか?」

「さぁ?」

…本当に雲みてぇなヤツだ。

ルナが羽ばたき上がって、その場を離れる。向かい合う二人、クロードは片腕でルチアーノの肩を抱え、耳元で囁いた。

「…例え誰も信用できなくなっても、お前は信頼できる一人だ。だからお前には教えてやる。ただし、誰かに言ったら、殺す」

ここまで近くだと、生唾を呑み込む音が大きい。ルチアーノは何も言わない。



「俺と、ヨハンナは…」

天窓の下、光を受ける椅子の上で、小さな天使が耳と目を閉じ、二人に背を向けていた。






今回の決闘は、万に一つも無いが、ミカエルの力が解放される懸念がある。よって、教皇庁及びバチカンの被害を最小限にするために、地下闘技場が使用された。
古代ローマのコロッセウムを再現した広大な地下空間。天井は高く、頂が見えない。

そこに、純白の正装で身なりを正した教皇騎士団。その数五〇名。そして、ソフィアと弓矢を持った天使が一組。一見、一箇所に固まって賑やかだが、こうも広い空間では五〇余人などちっぽけなものだ。どこか寂しさがある。
玉座には二人の近衛兵。教皇はまだいない。

ソフィアの契約天使は落ち着きが無く、半ば宙に浮いて、全身にむず痒さを覚えていた。

「ねぇねぇ、ソフィア!ワクワクしない?曹長なんかが騎士公昇格を賭けてミカエル様と決闘するんだよ!?私、ココに勤めて長いけど、こんな事初めてだわ!!」

「不謹慎よ、ハニエル。同じ隊の仲間がこれから戦おうって時に」

主人は至って冷静だ。
あまりにも素っ気無い態度に、ハニエルは頬を膨らませた。

「えー?ソフィア、ノリ悪いー!そんなだから男が寄り付かないんだよ?私の恋愛レーダーにも、そう出てるんだか…」

「余計なお世話。それにしても、猊下はともかく、残りの二組が遅いわね…」



「あら、お嬢さんは士官学校で習わなかったのかしら?」



艶やかな女声のする方向から、八枚翼の女天使と体格の良い女性が一組、その後ろにはボサボサの頭に管楽器、顔つき以外は良く似た人間と天使が一組、ソフィア達の元へ歩み寄って来た。声の主は女の大天使。

「大物は遅れて来るのが常識よ?」

ソフィアは空かさず背筋を伸ばし、切れの良い敬礼。

「御多忙な中、御苦労様です!ガブリエル様、エティエンヌ将軍!ラグエル様、ブルーノート将軍!」

「ソフィア=テンダー伍長。今日は七大天使とその候補、そしてその契約主として集まったんだから、堅いのは抜きにしないか?」

女将軍、エリザベス=エティエンヌは男性顔負けの締まった体格、強い線の持ち主だ。褐色の健康的な肉体に、年齢を感じさせない美貌、一つに結った髪が活発な印象を与えている。

「いえ、まだ勤務中ですので!」

「ソフィアちゃんったら、相変わらず反応が初々しくて可愛いわねぇ。どうかしら?今度、一緒にお茶でも」

その契約天使、四大天使の紅一点、ガブリエル。透き通るような白い肌に、手に触れようとしても掴めそうにない程に細やかな黒髪、百合をあしらった天輪に目を奪われる。
実に艶めかしくソフィアの頬に手を添え、舌舐めずりをした。

女同士とは言え、心臓が高鳴る。

「はぁ…、まぁ…」

「おいおい、ガブリエル。ソフィア伍長が反応に困っているじゃないか」

手入れをしていない茶髪。丸渕の眼鏡に無精髭を生やした男が、メイナード=ブルーノート将軍。魔導鼓笛隊を率いる人物だが、今一つ威厳に欠けている。良く言えば、偉大な芸術家に多そうなタイプだ。

「それに、お茶なら男との方が楽しーかもよー?」

こちらはウェーブのかかった橙色の髪。気さくな振る舞いの伊達男が、天使ラグエル。
ガブリエルの手を取り、ひざまずいて口を付けようとする。

「あら、私の肌は男子禁制よ?」

が、軽く笑い飛ばされて、唇が辿り着くまでに手も振り解かれてしまった。
その時のラグエルの落胆振りがあまりにも滑稽で、ソフィアは笑いを堪えていた。が、ナンパに失敗した当人に睨まれて目を反らした。

「しかし、残りは我々だけと聞いたが、もう一組はどこにいるんだ?」

エティエンヌが問う。

「今回はミカエル様が挑戦者の御相手になるとの事で、猊下と共に見届け人を御兼任になるそうです」

「そうか…。全く、猊下も御戯れが過ぎるな…」

「まぁ、良いんじゃない?エリザベス。毎日毎日、つまらないデスクワークばっかりで退屈だったし。これくらいの娯楽は必要よ」

「エンターテイメントなら、鼓笛隊があるでしょうに…」

ブルーノートが不服そうに頭を掻いている。



「おい、来たぞ!」

騎士団の一人が入場者を指差した。
挑戦者、クロード=スティグマンと契約天使ルナ。皆が黙って彼らの行進を見守っている。



入場門の陰。腰砕けになったルチアーノが、廊下を照らす蝋燭の炎を見つめながら、心を放して、冷たい大理石の床と壁に身を委ねていた。

「………あんな話、…デカ過ぎて、脅しのタネにもなりゃしねぇよ」

冷や汗を落とす。内心、聞かなかった方が良かったと後悔している自分がいた。
自己の許容量を超えると、人間は笑い出す。



向かいの入場門より、八枚翼の大天使ミカエルがローブをなびかせながらコロッセウムの土を踏み締める。

「団長の御出ましだ!」

騎士公達の反応は打って変わり、小さな歓声が沸き起こった。

「…クロード」

祈るしかない。見届け人である以上、例え友でも手出しはできない。ソフィアにはそれが歯痒かった。



両者、闘技場の中央にて対峙。

「…どうやら、向こうの観客はテメェのファンらしいな。ミカエル」

元々悪い目付きを更に凶悪に細めて、クロードが皮肉めいた台詞を吐いた。

「これからやる事には関係の無い奴らだ。気にするな」

挑発に構う程、愚かではない。

不敵な笑みを投げかけ合う。



「神聖ローマ帝国、第一〇五代教皇、ヨハンナ八世猊下の、御なぁーりぃー!!」

近衛兵の一声で、その場にいた全員がひざまずく。右手を地に突き、右足を引き、左手は水平に。玉座に向かって、教皇を迎える準備は完了した。

息する音さえも無い中、高い靴音が玉座に向かう。ヨハンナ八世が幼いその姿を見せ、どこよりも高い場所から、臣下が侍る姿を眺めた。

しかし、不自然だ。

「クロード=スティグマン!」

巨大な地下空間に、王者の一声が木霊する。
顔を上げ、クロードが答える。

「はっ!いかがなさいましたか!?猊下!」

「貴方の悪魔の姿が見えませんが!?」



「え…!?」



不快な汗が流れた。

「ねぇ、クロード…確かリリム、先に行ってたわよね…?」





溜め息が、ここまで大きく出るものだとは知らなかった。
クロード救出に走った苦労など取るに足らない。いや、むしろあの話が凄まじ過ぎた。

足取りはやや重く、闘技場を後にするルチアーノ。

と、すすり泣く少女の声が反響して来る。

「…教皇庁七不思議か?」

どうせすぐに帰っても、バートン隊長の説教を食らうだけだ。
声を頼りに、地下通路を進む。靴音が暗闇に吸い込まれて行く。

蝋燭の明かりが醸し出す雰囲気は、さながら迷宮。何かしら化け物がいてもおかしくはない。教皇庁の内部という点であり得ないのだが。

泣き声が大きくなってきた。声の主はもうすぐそこだろう。

「それにしても、この声、聞いた事あるような…」



「ゔあああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!ブヂアーボおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」

足に何かが襲いかかった。子供ほどの大きさしかないそれは、悲しいくらいに非力にルチアーノの右足を締め付ける。

「うおおおおおおおおっ!?何だ何だッ!?」

足にしがみついて小刻みに揺れるその物体。顔を上げると見覚えがあった。ただし、彼が知っているそれからは、かなり表情が崩壊している。止めどなく涙と鼻水を垂れ流して、チワワの目で泣きじゃくる小悪魔…。

「リリムちゃん…?」

「迷ったのじゃここはどこなのじゃ一人で怖かったのじゃああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁッ!!ゔあああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

…本当に悪魔だよな、この子…?

足元で身震いするリリムを肩車し、元来た道を辿る。

「はいはい。闘技場はこっちだからねー」

「うじゅ…えぐ…」

リリムはしっかりと、唯一頼りである男の頭にしがみつき、存分に出てくる涙やら鼻水、ヨダレを彼のショートヘアに落とした。まだ震えている。脳味噌が揺さ振られて気持ち悪い。

今日は、損な役回りしか来ねぇ…。





BLACK OR WHITE? 6~誰が為に騎士は行く.part4~ part5に続く



[19605] BLACK OR WHITE? 6~誰が為に騎士は行く.part5~
Name: 縄口圭心◆52f18317 ID:1cf981f1
Date: 2010/06/16 22:08
闘技場に向かう途中、急に腹が痛くなってきた。



嗚呼、闇だ…。例え白の領域であろうと、強い光の下には濃い闇があるのだな…。久しく忘れていたが、わしを体現する真理だ…。



闇は語った。リリムにしか分からない言葉で。彼女にも聞こえるか分からない、微かなかすれ声で。



嗚呼、何たる鬱積であろうか。何と徒然なる日々年月であったか。あまりに膨大なる余暇を潰すも、語り尽くせぬ不平不満を申すも、全ての相手がわし自身であった。

「…何者じゃ、貴様は?」

忘れたと言うのか?今まで長く、これから永い付き合いであろうに!



闇は喉の奥で笑った。
闇の世界に生まれ落ちた、闇の長でさえも、自分ではどうしようもできない闇の巨獣。

姿は見えぬ…いや、ひょっとしたら既に見ているのかもしれぬ。気配があると言うよりも、わらわ自身が気配の中にいるのか…?

「何者じゃ!?王族を前にしてコソコソと!無礼者め!姿を現せ!わらわに平伏せ!!」

辺りを見回しても、そこら中に気配があり過ぎる。気配を消される以上に厄介だ。警戒と身体に入る力、腹痛が次第に強まり、冷たい汗が石造りの地下道に滴り落ちた。



まぁ…そう恐れるでない。わしは貴殿に手を出さん。出したくても出せん。

「………ッ」

ただ、やっと声が出せるようになった。それが我ながら爽快でな…。何ぁに、ほんの式礼だ。堅くならんで良い良い。

「…フン、式礼だけに御挨拶じゃな!!それに加えて臆病者じゃ」

…何だと?

「姿も見せん、名も名乗らん!!これが無礼な臆病者以外の、何だと言うか!?」

………



闇が黙した。返事がある様子もない。松明が爆ぜる音。地下水が染み出す音。腹で何かがのたうつ苦痛だけが残った。

「何だったのじゃ…?」

構うほどのことではない。先を急がねば…。

「…ッ!?」

腹の内側から何かが押し出て来る。正気を保てない苦しみ。両手で腹を押さえながら、リリムは値に伏してしまった。瞳孔は絞られ、口から止めどなく、糸を引くよだれを垂れ流した。

声が…出ぬ…っ!!

小さな腹に心臓を飼っているかのような脈動。外に出ようとする体当たり、体当たり、体当たり…。



力もまだ充分ではないというのに…。しかしながら、姫の御所望とあらば、いた仕方あるまい。



腹を押さえた手を、腹から出て来た何者かの手が、丁寧に払い除けた。

艶のある黒髪、ヤギの如く曲がった角、紅い瞳、耳は先が尖り、笑う口元から覗く牙…。知っているそれと違う所は、文字通り雪のような肌と、黒い目。



馬鹿な…!?これは………!!



「よう、久しいな。わし」



幼いリリムの腹から、大人のリリムが破り出た。歪んだ笑みを押しつけて、幼い方を押し倒す。

「やめろ…!」

長い舌で、顔を舐められた。



「やめろおおおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」





「なぁ、小悪魔ちゃん…」

先刻、目の前に現れた悪夢から目を覚ます。
リリムを肩車したルチアーノが、地下道を進んでいた。

「俺の頭にしがみついてくれるのは構わねぇ。それに、そのまま震えて脳震とう起こそうが、泣いて俺の髪型をダメにしようが、一向に構わねぇ」

小さな顔が紅潮する。
慌てて彼の頭から手を放し、涙を拭った。

「ばっ…馬鹿者!!誰が泣くか!!それにこれは武者震いじゃ!!」

「どうでも良い、っつの。つーかさぁ…」

松明ではない光。地下闘技場の灯。
リリムを肩から降ろす。と、怪訝な顔で首筋を擦った。



「ココ、妙に湿ってんだけど…まさかお前、漏らした?」



時は凍る。

そして、リリムの満面の笑み。
彼の両太腿を鷲掴みにする。



急所にヘッドバット。

男の時は、凍る。



「オゥあ!?…マイ……シンボ、るゥ……ッ!!」

顔面蒼白。腹の底から、魂の抜けた悶絶の声。男の象徴から脳天に激痛が貫いた。
シンボルをかばいながら地に崩れ落ちるルチアーノ。リリムは容赦なく、彼の前髪を掴み上げると、青筋を浮かべて冷ややかに男を睨んだ。

「今の内に別れの言葉を贈ることじゃな。この次は、シンボルの明日が無いと思え。たわけ」

薄れ逝く意識。焦点を合わせることすら難しい。かすれた視界に見えたのは、闘技場の光の中に消えるリリムの後姿だった。

つ、角が…ジャ、ス………ヒッ…!!

ここで俺、ルチアーノ=イディオクランの記憶は途切れる。次に目覚めるのは、ケツを上げて股間を押さえながら、白目を剥いて泡吹いて失神してるところに第二発見者が来る時だ。
この日を境に、教皇庁七不思議「泣き姫」が「泣き姫の玉遊び」と名を変えることになったのは、また別の話。

じゃあ俺は失神する。てか、させ、…て…。





光を抜けると、地下とは感じさせない、明るく広大な空間だった。
頂が見えないまでに高い天井。ローマのコロッセオを模倣した闘技場。玉座に教皇、客席には五〇数名の見届け人たち。そして中央に対峙するクロードとルナ、そしてミカエル。

一瞬、本物の武者震いが出た。しかし…



み、見るからに出遅れたのじゃ…。クロードに殺される…。

もう一歩がなかなか踏み出せない。



「…ようやくお出ましか」

入り口の影から見え隠れするリリムを逸早く見つけ、ミカエルは呆れ顔で言った。
クロードが振り返る。

「リリム…!」

「お、大物は遅れて来るのじゃ…!!」

笑顔が引きつる。
我ながら、苦しい弁明なのじゃ…。

「リリム!」

対して、駆け寄る彼の笑顔は爽やか。

何じゃ…要らぬ心配じゃったか…。



白と黒の拳銃を抜く。

「泣いて詫びろこのクソがあああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

修羅の殺気を振り撒き、笑い狂って突進して来た。

「のじゃああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

やはりこうなるのかやー!!

入場口へ、脇目も振らずに逃走。

「泣き喚くはクリアだ!!さぁ、詫びろ!!全力で詫びろ!!」



「…騒がしい連中だ。ルナ=エル、貴様も苦労が絶えんな」

「すみません、ミカエル様…いつものことなんで」

影の向こうで銃声が反響している。リリムの叫び声とクロードの怒号。決闘をする空気ではない。
その内、銃声が痛々しく鈍い音に変わる。

…静かになったな。



「おいテメェ、ルチアーノに何しやがった!?」

「ま、待つのじゃコレはッ…!!」

一際鈍い音。骨がきしむ音まで聞こえて来た。
ミカエルらが扉の向こうの光景を知る由もなかった。

「何か…応援する気も萎えたわ…」

客席。同僚であるはずのソフィアでさえも呆れて頭を抱える。溜め息が出た。

「それはそれで結構なことだよ」

丸渕眼鏡をハンカチで拭きながら、メイナード将軍が語る。

「ああ、我々は見届けるだけ。どちらかに肩入れするなど愚の骨頂だ」

つまらなそうな大きいあくびを一つ。エリザベス将軍が付け加える。

ソフィアは返事の代わりに流し目で答えた。





「それで貴様ら…茶番は済んだか?」

「ぢゅ…じゅーびだいぞーばぼじょ…(じゅ…準備体操なのじゃ…)」

三段重ねのタンコブ、目の上に大きなものも付いている。そして鼻血に、ひびの入った角。立っているだけで震えが止まらない。強がっても、今のリリムには一滴の威厳もなかった。

「それで?決闘を申し込んだどこかの間抜けは、この状況をどう始末するつもりだ?」

予定時刻は大幅に過ぎている。この場にいる誰もが暇という訳ではないのだ。クロードたちにとって、ただでさえアウェーだった会場が、更に重く険悪にのしかかる。高みから望む教皇の青い目も、今では冷たい海の色に見える。

おもむろに帽子を取るクロード。



「お許しください猊下ッ!!」

この程度で、騎士になるチャンスが潰れるとは思っていない。

「最早、言い訳になるような字句も御座いませんッ!!」

だけど、騎士になる以上はケジメってのをつけなきゃなんねぇ。

「こうして、頭を下げることしかできませんッ!!」

だったら俺は、頭の一つや二つ…。

「ですから、何卒ッ!!」

砕いてやる!!



地面が赤黒く染まる。何度も何度も、地に頭を叩きつけ、こすりつける土下座。土の味がよくわかった。
誰もが脳の片隅に置いていたが、騎士公申請の方法にしても、執念にしても、どれを取ってもクロード=スティグマンという男は悪魔じみている。

「クロード…貴様…」

ルナがリリムの肩に座る。

「あなたにはあんな態度ばっかりだけど、クロードったら、実は信頼してるのよ?リリムのこと」

「…そうか」

悪い気はせぬ…な。



額からにじむ血液量が増してゆく。

「に…!!」

教皇ヨハンナが血相を変えて席を立った。両脇に控える近衛兵らがたじろぐ。

穏やかな猊下が、こんな大声で…!?

出かかった言葉を呑みこみ、息を整えて、教皇の話が続いた。

「二度と戻るものではありません。時間の浪費は、確かにもっとも避けるべき行為の一つではあります。ですが、咎めても仕方のないことです」



「嗚呼、何て御優しい御心なんだ…」
「尊い御方だ」
「あのような輩でも、御慈悲を賜るとは…」



「クロード=スティグマン。貴方にこれ以上は何も望みません。時間が惜しいです。決闘の準備を進めなさい!」

…そうだ。それでこそ俺の………。

「恐縮に御座いますッ!!」

最後に軽く一突き、頭を地に着けた。
流れ出る血を荒々しく拭い上げ、赤くなった金髪を隠すように帽子を深く被る。影から青い瞳を、対峙する大天使ミカエルに刺す。

「これで良いのか?あぁ?」

「…上等だ」

…気に入らない。



教皇が左の近衛兵に目配せをすると、手にした書簡を広げて読み上げた。

「今回の決闘の見届け人は、規定通り五〇名の騎士公様方と七大天使及びその候補、そしてその契約者の方々が四組で御座います。また、ウリエル様とラムシュタイナー将軍、ラファエル様とルシュド将軍、ラジエル様とゲイル将軍の三組は職務の都合により御出席されいていません。よって、今回は見届け人の御役目を、ヨハンナ八世猊下とミカエル様が兼任なされます」

「分かりました。次をお願いします」

右手の近衛兵が書簡を手にして前に出る。

「今回、試されるのは猊下を御守りできる力量でございます。挑戦者クロード=スティグマンは、護衛対象リリムを決闘終了までに生存させること。ミカエル騎士団長様は、全力でリリムを殲滅するように願います。またこれは、猊下たっての御所望でもあります。決闘の制限時間は三〇分とします。また、この決闘で死者が出たとしても、ヨハンナ八世猊下の名の下に不問となることを御留意願います」

…つまり、クロードが殺されても、誰も文句が言えない。ってことね…。

ソフィアの顔が曇った。心音が不吉に高鳴る。



「以上です。双方、位置に着きなさい!!」

教皇の声で、クロードたちとミカエルが互いに距離を取る。どれだけ離れようと、肌に痺れる殺気と闘気から逃れることはできない。どこであろうと、この闘技場内では互いの間合いなのだ。

「ミカエル!!」

玉座を向く。

「全力で叩き潰しなさい!!」

「…御意」

大剣を右手一本で軽々と構える。一振りの風が、クロードの頬をかすめた。額の傷に染みる。

「クロード=スティグマン!!」

玉座を向く。

「全力で退けなさい!!」

「猊下の御心のままに…」

右手には白銀、左手には黒銀の拳銃。右手のそれは人が扱うには巨大なもの。ヴォーティガーンの銃口は、ミカエルにはどのように見えているのだろうか?



自らの血の臭いが、鉄の味が、闘争心をかきたてる。流れる血は熱く、巡る血は冷たい。



「それでは、始めなさい!!」



ロンギヌスの槍が床を突き、決闘が始まった。



リズムもメロディーも滅茶苦茶で勝手気まま。蝋燭の火の揺らめきのようにとりとめのない鼻歌は、どこか浮ついている。燭台の灯のみで薄暗い地下室に似つかわしくないにしろ、その揺らぎが何故か心地良い。
鼻歌の傍らには、無秩序に山積みとなったレポートと分厚い資料。ガラス製、円柱状の容器に満ちた栄養液が二本。中にはそれぞれ、墨色と鮮血色の肉片が底に沈んでいた。ただの細切れが確かな鼓動を聞かせる。
伸び放題の髪の毛先を指先でいじりながら、上機嫌のフラン=K=シュタインは文台に向かっていた。

「フラン、紅茶」

蝋燭の火の元に、ヴィクター号の巨躯が映る。
小さめのティーカップから、目にも安らかな湯気が立ち昇っている。茶葉の香りに目もくれず、フランは羽ペンを進めていた。

「あぁ~、適当にぃ~、置いといてぇ~♪」

「置いといて、って…」

目下、実験器具と紙の山。
どこに置けと…?

「…あー、やっぱぁ~、今飲むわぁ~♪」

インクの瓶にペンを挿し、背を向けたまま紅茶の催促。頭越しにティーカップを受け取り、そのまま器用に口元まで運んだ。温かく香り高い茶葉が口に、鼻に広がる。
行儀悪くカップを頭上に吊るし上げ、至高の一滴を舌に落とす。

ようやく椅子の向きを変えて、眠そうな笑みを見せてくれた。

「ヴンダぁ~バぁ~♪ヴィクたん、腕は衰えておりませぬなぁ~♪」

「?毎日淹れてるから下手になるわけないじゃないか」

「んもぅ~、ヴィクたん、ノリ悪すぅ~♪お姉さん、張り切って眼鏡に触っちゃうぞぉ~?」

「あっ!やめっ、指紋つくからさー」

苦笑い。飛び掛ってきた彼女を優しく座り直させる。フランは椅子ごと回りながら、低血圧な戯笑を上げた。

景色が回ると眠くなる。戯笑があくびに。目の下に濃い隈があるだけ余計に睡魔がしつこそうだ。両手と背を伸ばして、両頬に二回ほど気合いを叩き入れた。

「さぁ~てぇ~、ちゃっちゃと済ませましょうねぇ~♪」

紅茶が良かったのかな…?
今度の鼻歌はキレがある。秩序もある。羽ペンをタクト代わりに四拍子を刻む。無駄で大きな動きのせいで、羊皮紙に崩れた文字を連ねていった。



「フラン、今日は随分と上機嫌だね?」

「うん~?…まぁ~ねぇ~♪」

歯を見せる、鋭い喜笑。おもむろに二本の細胞サンプルを掴み、一切の躊躇と力加減を無視して、ヴィクター号に豪快なバックパス。

「ゎちょッ!?うわっ!うわっ!?」

容器が手から滑り落ちる。ヴィクター号はその巨躯に釣り合わない俊敏さで容器を掴む。が、無理な動きとサンプルを守る代償に、重い身体が石の床に落ちた。
ほこりが舞う中、ガラス容器を握りしめた両腕が天井に向けてそびえている。

「痛…。フ、フラン?これって…大切なものじゃなかった、っけ?」

興味の方向はサンプルに向いていない様子で、頂上が人の背よりも高く山積みとなった資料類を、精一杯の力で床へと雪崩れさせる。
勢い余ってインク瓶まで飛ばされたのがヴィクター号の災難で、容赦なく彼の全身を黒塗りにした。

水を濃くした臭い、肌にまとわりつく。

「…フランさんフランさん、掃除片付けをするのは一体誰だと思ってらっしゃるので?」

「お掃除楽しいぃ~♪…って、言ってたぁ~、ダぁ~リンだおぉ~♪」

やっぱり僕なんだね…。あれ?目頭が熱いや…。



起き上がって、顔のインクを上着の裾で落とす。

「あぁ~、そうそうコレコレぇ~♪」

紙の山の下から出てきたのは一枚の設計図だった。人が扱うには大きい寸法の拳銃とその専用弾丸。独特な筆跡で『Vortigern』と記されている。

「これって確か…クロードさんにあげた銃、だよね?」

「うんうん、ヴィクたん物覚えが良い子ちゃんだから大好きちゃぁ~ん♪」

踊る足取りで歩み寄り、インクだらけの身体、というよりは腰に抱きつく。インクの染み込んだ服は粘りが出て、水っぽい臭いがした。豊満で柔らかな肉感が二つ、男の肌を圧迫する。
顔が熱っぽくなる。

「や…ちょ!?ふふふフラン!?インクだらけになるよ!?」

「やぁ~ん♪私のおっぱお嫌いぃ~?」

わざとらしく押し当てる。こすりつける。非常に柔らかい。
熱で融けそうだ。



「…ワクワクするよねぇ~♪」

「…何が?」

「だってさぁ~…」

抱きしめる力が一層強くなった。
腹の底で笑う振動が伝わる。

その時、フランが嬉しそうに発した声色を、僕はきっと忘れられないだろう。
欲に忠実で、快楽を享受する。それが僕の製作者、フラン=K=シュタインの本質であると、改めて実感した。



「私の科学がぁ~、最強の天使をぉ~、最強の御伽を蹂躙するんだよぉ~?」



彼女の顔が見えないことを、これほど幸いに思ったことはない。



◆



「それでは、始めなさい!!」

ロンギヌスの槍が床を突く。同時に、教皇の巨大な結界が闘技場を覆う。
淀みのない、美しいまでに透明な結界だった。

そう、必要なんだ。今回の決闘には。
これがなければ、ただでは済まないんだ。

五十余名いる見届け人の中で、ソフィアだけが固唾を呑んで身構えた。



決闘の両者、眼光鋭く、動かず得物を構える。リリムはクロードの背後に隠れて震えていた。冷や汗が止まらない。
振るう度、刀身から太陽の焔が舞い狂う。ミカエルが剣先をクロードに向けた。

「…ハンデだ」

「あぁ?」

「…貴様の剣がその玩具二つだと言うのなら、分が悪過ぎる」

「ハッ!天下の大天使ともあろうお方が、銃にビビッてんのかよ?」


「…勘違いも甚だしい」


「…?」



「…このままでは、分が悪過ぎる。撃て、小僧。私に歯向かう弾丸、尽く避けずに斬り捨ててやろう」

「…ッ!!テメェ舐めてん…!!」



「舐めている。…ハンデだ」



歯をきしませる。額から更に血が流れ出た。
熱気ばかりが先走る。
客席からの嘲笑が煩わしい。





「あらあら…フフ、ミカエルったら、悪い癖ね」

ガブリエルが口元を手で隠して言った。

「悪い癖?」

「あら、エリザは知らなかったかしら?彼、外面はクールに振舞ってるけど内面はプライドの塊なの。…きっと、猊下の御命令でも人間相手に本気を出すなんてくだらない、って思ってるんじゃない?」

「それは私も初耳だね。…眼鏡の度が合っていたらの話だが、私の目にはそうは…」

目を凝らし、眼鏡をずらし、メイナードはあらゆる方法でミカエルの容姿を捉えようとした。

「そうなものはそうなの」

…全く、兄弟そろってムカつくくらい自信家だわ。

月笑みが、手で隠しきれなくなった。





「向かう弾丸、全部斬り捨ててやるだと…!?」

両手に構えた銃。引き金へかかる指に力が入る。

「じゃあ全部斬り捨ててみやがれこの狗野郎!!」

銃声が乱れ飛ぶ。硝煙に満ちる。だが、戦いの臭いではない。戦いは始まってすらいない。剣を構えすらしないミカエルが、誰よりもそれを理解していた。
銃弾は全て、天使ではなく地面を貫いていた。

トリガーを引いても手応えがない。機構の金属音。空になった弾倉を捨てた。
両方の銃をホルスターに納める。

「…何のつもりだ?」

「テメェにくれてやる弾なんてねぇんだよ!」

「く、クロード!?何を血迷うておる!?撃つ相手が違…!!」

「代わりに…」

そして右手はリリムの頭を掴み、

「んおぉっ!?」

「コイツを…」

大きく振りかぶって、

「おおオイ!?貴様、まさか…!?」

「くれてやるぜええええええええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」

上に投げた。

「のじゃああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁ!?」



「何やってるのよクロード!?」

思わずソフィアが最前線まで駆け出た。結界に張りつこうとするが、触れる前に白い閃光が弾け、あっけなく飛ばされた。
エリザベスは間髪入れずに後方に回り、優しくソフィアを受け止めた。

「馬鹿か!?猊下の結界だぞ!?もっと考えて動け!!」

「…っだけど!!」
リリムちゃんがやられちゃったら終わりなのよ…!?



リリムが弧を描いて飛ぶ。滝の涙が軌道を描いく。両脇に景色が飛び過ぎ去る。
弧の頂点。時間が緩やかに流れる。

「…これが答えなのか?」

落下を始める。

「…八年越しの想いが、この愚行か!?」

「のじゃああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁ!!」

身を締める落胆と怒りに呼応して、猛々しさを増した焔をまとった剣先が、眼前に迫る。

「…買いかぶっていたよ」

初めてミカエルが剣を構えた。
リリムが速度を増して迫る。

「…ようこそ、我が勝利」

ミカエルの間合いに、小悪魔の泣き顔が落ちる。

「…さらばだ、天の反逆者」



神の焔が渦巻く刃。身を焼く熱がリリムを呑み込む。



耳に痛い、悲痛な叫び。



「…私を嘲ったツケは高いぞ」





見ていられない…。

「見ておいた方が良いよ?ソフィア伍長」

メイナードが低い声で淡々と告げた。

「ですがもう、決着が…」

「そうかい?眼鏡の度が合っていたら…クロード君、何かやっているみたいなんだけど…」

「えっ!?」

伏せていた目が再び闘技場へ。





リリムが焔に呑まれてやっと気がついた。
その背後、結界内の空間を、所狭しと暴れ狂う黒い力。

「…そうか、これが答えか」

クロードの左手から解き放たれる膨大な黒魔力。雨後の激流の如く暴れるそれは、片手では制御しきれないほどの力。魔力の流れが教皇の結界に当たる度、小さな地響きが客席を揺らした。





「おい!?何だ!?何が起こっているんだ!?」
「結界が…!!」

とうとう結界にひびが走り、そこから黒魔力が噴出するまでに至った。ひびはすぐに閉じたが、客席の動揺は隠せない。

「ね、言った通りでしょ?」

「…はい、ブルーノート将軍!」

「しかし驚きだねぇ。一介の兵士が持って良い魔力量じゃないよ?ラグエルもそう思わないか?」

「そうだな。さすがは混血、禁忌の子と言ったところか…」





黒魔力が焔の中に吸い込まれてゆく。金色を侵食する闇。二つの力は混ざり合い、紫炎となって互いを打ち消す。

焔の中、力が集まってゆく。



悲痛な叫びはもはや聞こえない。代わりに、けたたましく高い笑い声。

「きゃはは…きゃはははは!!きゃははははははは!!」

焔の壁を黒い霧の腕が破る。
中から出てきたのは、呑み込まれた小悪魔ではなく、黒い霧の翼を広げた、立派なヤギの角を頂いた大悪魔。

「クロードよ!!今回は随分と奮発したようじゃのう!!きゃはは!!覚えておれと言い渡すべきところじゃろうが、今日のところは、受け取った力に放免し、無罪といたそうぞ!!」

「…そりゃ、どうも」

息が上がり、左腕が僅かに震えている。額から流れた血を拭った手を見ると、黒の手袋が魔力で焼け焦げていた。





「おい…どういうことだ!?こんなデタラメな魔力…!?」
「姿も変わって…!」

「ソフィア…あれはヤバいよ」

ハニエルの視線が、闘技場の上空に飛んだ悪魔から動かない。

「…あれが、リリムちゃんの本当の姿」

「君の同僚は、どうやらとんでもない怪物を連れて来たようだね」

「ああ、メイナード。不覚を取られた気分だよ。こんな形で、初めて教皇庁に大悪魔の侵入を許したと思うとね」

「片や、かつての大天使を斬った者。片や、その娘。…フフフ、何だ、ちょっとはエンターテイメントらしくなってきたじゃない」

「ふざけている場合じゃあないぞガブリエル。これではこの結界ももつかどうか分からないんだ。…構えておけ」

「フフフ…いつでも」





「うるせぇな…。リリム、いつものアレやってやれ。こいつらに教えてやるんだ。自分が何者なのか、誰が勝つのか!」

天から全てを見下して、哀れみを孕んだ目を全てに送る。
一瞬、ヨハンナ教皇と目が合った。その目が恐れや慄きを感じさせないことが腑に落ちなかった。が、構う気などない。

肺に空気を満たす。ミカエルの焔で熱を持った大気は、むせ返りそうな不味さだった。
この場を越えて、教皇庁全体に届かせる怒涛の声で、決まりの文句を言い放つ。

「皆の者!!知っておろうが知らぬと言おうが、耳を敏にして聴くが良い!!わらわはリリム!!魔界の王ルシフェルと聖母リリスの下に生まれた、魔界の王族なるぞ!!そして…」

地上で剣を構える天使。天からでは小さく見える。

「勝利はクロードでも、ミカエルのものでもない!!父上の仇を返すのは、このリリムなのじゃ!!」



地上に降り立つ大悪魔、リリム。腕を組んで余裕を振り撒いていた。巨大な霧の翼を羽ばたかせ、砂塵を巻き上げる。生ぬるい風が、ミカエルの八枚翼に絡む。

「影とはいえ、わらわを斬ったツケは高いぞ?」

…小さかったアレと同じに思えない。自信も気迫も魔力も、この肌をかすめる全てが別だ。

敵が余裕を見せている以上、剣を構える気など露ほども起こらなかった。不敵に笑む魔物。切れ味鋭い眼差しの天使。気の抜ける細い音…

っこの臭い…!

クロードが闘技場中の地面に撃ち込んだ弾丸。そこから赤黒い腐乱臭が静かに、しかし確実に、白を蝕まんと、黒に栄光をもたらしに噴出している。

決闘開始数分後、初めてミカエルが苦汁を舐めた。
右手が、剣を強く握り締める。





「今度は瘴気か!?…悪魔といい、君の同僚は次々ととんでもないことをやってくれるな!」

「す、すみません、ラグエル様…」

「まぁまぁ、そう責めないの。悪いのはソフィアちゃんじゃないんですもの。ねぇ?」

ソフィアの背後から、ガブリエルが顔を寄せた。薄い目が妖艶で、その気がなくても調子が狂うから困る。

「放出した魔力が起爆剤になったのかしら?でも驚いたわ…。白導に擬似結界ができるヤツがいたなんて…」

「…貴様の目は一体、何だ?」

エリザベスが一言。

「え…?どういうこと?」

「あんなものは擬似結界じゃないってことだよ、ハニエル。本物はもっと安定した形状を保っている。あんなもの、瘴気と地形を利用した…そうだね、擬似的擬似結界とでも言おうかね」

「…ややこしいです。ブルーノート将軍」





クロードが銃を抜き、両方に弾倉を挿入する。ここまでの事の流れが楽しくて仕方がなかった。
だが、油断はならない。流れ落ちる冷や汗と血の混合液を舐め取った。塩辛さで身が引き締まる。

ミカエルが怪訝な顔で言う。

「…私にくれてやる銃弾はない。と、聞いた気がしたが」

「ああ、あれか。鉛弾はやんねぇ、ってつもりだった」

クロードの一挙一動がミカエルの鼻につく。
しかし、この一言で相手の魂胆は大体わかった。神剣の柄を握る右手の力が強くなる。

白銀と黒銀、両方の銃に弾倉を込め終える。冷たい銃口を、ミカエルに向ける。無言の闘志をしかと目に映し、ようやく片手で剣を構えるミカエル。
額から止めどなく流れる血を袖で拭い、クロードが会場全体に向けて言い放つ。

「待たせたな!前置きはここまでだ!始めようぜぇ、ミカエル!」

「言われるまでもない」

背後から声がした。
クロードに振り向く余裕などない。与えはしない。狂愚にも悪魔と契約し、騎士になろうなどと企てた者には、訳もわからずに死ぬのがお似合いだ。
金色の焔をたぎらせて、神剣を振り下ろす。
目の前が暗闇になる。
暗闇はクロードを包んで、既でのことで燃えたぎる剣の一撃を受け止めた。剣と闇の接触面から紫の炎が上がる。
闇の根源はリリムの背中。彼女の翼だった。伸びた翼に遅れて、リリムがクロードとミカエルの間に割り込む。

「おうおう、いきなりわらわを無視するとは何たる無礼か」

いたずら小僧を見るような困った眼差しをミカエルに作って見せる。翼が焼けて熱い。リリムには余裕など残ってはいない。
動いたと思ったら、既にクロードの背後に迫っていた。
影でミカエルの速さは経験済みだが、あの時は狭い螺旋階段での話。この広い闘技場では、目で追うのも困難だった。咄嗟に翼を伸ばしてクロードを守りはしたものの、何回もできることではない。しかもミカエルは瘴気が漂う中を動いている。
自分が有利、相手が不利なはずだ。だが、力の差は始めから逆転はおろか均衡にすらなっていなかった。
剣が重く、熱い。翼は紫の炎を上げて焼ける。本当に勝てるのかと、リリムの脳裏に不安がよぎった。不安が冷や汗となる。
力で剣を押し退ける。ミカエルは体勢を崩すことなく、自分が瞬殺できる間合いから出る。その距離一〇メートル。

一時、やり過ごしてリリムは理解した。ミカエルは小細工の効く相手ではない。
振るった刀身に舞う至高の焔は、ミカエルを蝕もうとする瘴気を片端から焼き消していた。
致命的な勘違いをしていた。相手は不利にすらなっていない。自分が有利なだけだ。悠然と片手で大剣を構えるミカエルが急に怖くなる。抑えようとしているのに体の震えが止まらない。

「リリム」

クロードの声で我に返る。耳元の囁き声と同時に銃のグリップで頭を軽く小突かれた。

「ミカエルの攻撃はこっちで防げる。俺は気にしなくていい。全力で奴にぶつかってくれ」
「正気か?」
「正気で勝てる相手か?」

リリムの目はミカエルから離れていない。とうとう剣の焔は周囲の瘴気を引き寄せて、全てを燃やし消そうとしていた。
最悪過ぎる。最悪過ぎて苦笑する。クロードの言う通りだ。

「確かに、まともな考えを立てて勝てる相手ではないのぅ」
クロードが問う。
「じゃあ、この中で一番まともじゃねぇのは?」
「貴様のことか、クロード」
「ご名答」

腹がよじれるほど笑いたいところだが、今は微笑で我慢しよう。この馬鹿と一緒だと、絶望的な状況でも何故か勝機が見える気がする。と、リリムは思った。

「ならばこの決闘に勝つのは貴様じゃな。狂気の騎士よ」
「そゆこと」

リリムの目の色が変わる。たった今、闘争の空気が完成したと、ミカエルははっきりと認識した。神剣が放つ焔の勢いが数段増す。間合いに踏み込もうと、利き脚で地を踏みしめる。
だが、リリムが先に駆け出す。黒い霧の翼で巨大な腕を作り出し、猛火を放つ大剣を掴む。紫の炎で翼を焦がしつつも、剣の動きを殺す。
胴体に向けて、リリムの右拳が飛ぶ。難なくミカエルの左手が受け止める。ミカエルは顔色一つ変えず、淡々としている。

「…そろそろ待つのにも飽きたところだ」
「安心するが良い。今度は息つく暇すら与えぬ」

リリムの左拳が黒い火球をまとい、無防備になったミカエルの胴体に襲いかかる。が、結界に攻撃を阻まれる。それどころか結界は拳の炎を吹き飛ばしてリリムの左肘までを焼いた。皮を剥ぎ取られるかのような苦痛に奥歯がきしむほど顔をしかめる。
左手が引く前に、霧の翼が焼け落ちる。ミカエルが大きく剣を振りかざす。リリムは身を引いて避けようとするが、右拳をミカエルに掴まれて逃げることができない。

「伏せろ!」

とっさにクロードの指示通り動く。白銀の銃から二発の銃声。くすんだ白の弾丸は、バターのように斬り捨てられる。切断面から腐臭を撒く墨色の液体が飛び散った。
普通の銃弾を斬った時と手応えが違う。硬すぎる。更にこの液体の色と臭いは、よく嗅いだことのあるものだ。
やはり思った通りだと、ミカエルは確信する。

リリムの右拳に黒い炎が上がる。炎がミカエルの白い肌を焦がす。初めてミカエルに傷を、苦悶の声を上げさせた。
傷口が瘴気を吸い、瞬時にリリムの翼と左腕が再生する。剣を押さえたところで隙ができるわけではない。ミカエルの間合いの外から翼と黒い火球による連続攻撃でたたみかける。
正面から火球でねじ伏せようとも、後方から翼で不意打ちをかけようとも、ミカエルは全てを見通すかの如く全てを斬り捨てる。翼を斬られる度にリリムに火傷と刃の傷みが響く。彼に届くのはせいぜい翼の返り血程度だった。翼を斬る度に黄金の焔は紫に変わり、限りなく黒墨に近い赤の血を浴びる。何度も嗅いだことのある獣じみた臭い。
リリムの後方からはクロードの支援射撃がミカエルに降り注ぐ。黒銀の銃バスカヴィルから放たれる銀弾はミカエルの足元を狙い、彼の動きを制限する。白銀の銃ヴォーティガーンから放たれる白い弾丸はミカエルの身体を貫こうと飛びかかる。対するミカエルは宣言通り自分に向かう白い凶弾を尽く斬り捨て続けた。黄金の焔をまとった剣の軌跡は軽やかな舞のよう。だが手応えは硬く重い。飛び出る墨色の液体は焔に焼かれて紫色の炎となる。思い出すのも忌々しい臭いが吹き出た。
リリムが前衛で余すことなく暴力を行使し、クロードが後衛でミカエルの行動を制限、隙をうかがってはヴォーティガーンの大口径弾を撃ちこむ。観客席が思わず息を呑むほどの、見事な連携だった。だが、見事な連携では至高の剣舞を崩すことはできない。あらゆる真向勝負を、誘導を、不意打ちを、息をするかのように雑作もなく斬り捨てる。その度に墨色の液体と紫の炎、不愉快な臭気が吹き出る。
だが、ミカエルは笑った。健気に攻め続けるクロードが滑稽なダンスを披露する道化に見えて仕方がなかった。
白い大口径弾を斬り捨てる。

◆

「対天使専用大口径拳銃ヴォーティガーン♪」

同時刻、人の気配がない森の中。フラン=K=シュタインは自らの研究所の中で、ヴィクター号に拳銃の設計図を広げて見せながら高らかに自分の理論を語り尽くそうと意気込んでいる。

「撃ち出される白い弾丸はぁ~、外殻が悪魔の骨格でぇ~、内部に腐食させた悪魔の細胞を仕込んでるのぉ~♪」

自慢げにヴォーティガーンの機能を語るフラン。ヴィクター号はうんうんと頷きながら聞き続ける。

「更にぃ~あり得ないくらい大口径にしたからぁ~、反動を抑えるのはぁ~クロちゃんの魔力の噴射を利用しないといけないのよねぇ~♪」
「なるほど。本当の意味でクロードさん専用なんだね」
「ピンポンピンポぉ~ン♪大正解ぃ~♪」

フランは子供のようにはしゃいで、椅子の首を回転させる。

「だけど、これのどこがミカエルの剣を超えた武器なんだい?」

悪魔の体組織を利用した銃弾、威力を追及した大口径化。結界による防御に特化した天使たちに有効なのはわかる。だが、これだけでは最強の天使の異名を持つミカエルに勝つ要因にはならない。
フランが椅子の回転を止めて、説明を続ける。

「聖書にはこうあるわぁ~♪」

右手を挙げる。

「これ、天使ちゃんたちねぇ~♪」

左手を挙げる。

「これ、悪魔ちゃんたちねぇ~♪」

力加減もせず、両手を揉みくちゃに絡ませる。

「むかぁ~し昔のそのまたまたまた昔にぃ~、神様へと反逆したルシファーちゃんたちはぁ~、ミカエルちゃんが率いる天界の軍隊と対決しましたぁ~♪ミカエルちゃんはぁ~神様から貰った焔の剣でぇ~悪魔ちゃんたちをバッサバサにしてやんよぉ~♪ってな具合でぇ~♪何だかんだでぇ~ルシファーちゃんにぃ~、人生で初めての大怪我を負わせてぇ~、魔界に撤退させましたぁ~♪ちゃんちゃん♪」

語部の才能は感じられないが、大体の流れはわかった。つまりは天使軍が悪魔軍に勝利した時の物語である。

「…何か変じゃねぇ~?」

フランが微笑む。上目遣いでヴィクター号の瞳を覗きこむ。

「変、って何が?」

「何でミカエルちゃん、ルシファーちゃん殺さなかったのぉ~?」

言われてみれば奇妙なことである。天界の三分の一の軍勢を引き連れて発起した神への反逆。その首謀者たるルシファーが殺されずに、ただの重傷を負わされた程度で終わって良い戦いではない。仮にかつての仲間への慈悲だとしたら、ミカエルや神は陳腐なヒロイズムに毒された理想主義者に成り下がる。
ならば、とヴィクター号が答える。

「疲れたとか…ミカエル自身が満身創痍で、ルシファーにとどめを刺す力も残ってなかったとか?」

「ブブブぅ~♪何万って大群を正面突破したんだよぉ~?消耗してたら改心の一撃なんてぇ~そうそう出ないわよぉ~♪」

もっともだ。と、ヴィクター号は思った。間髪入れずにフランの自論は続く。

「私はぁ~とどめを刺したくてもぉ~、刺せなかったんだと思うのぉ~♪」

「どういうこと?」

「悪魔ちゃんたちを斬り続けてくうちにぃ~、剣がボロリンチョしちゃったんじゃないのぉ~?」

あり得る話だ。悪魔の組織にはあらゆる物の腐食を進める作用がある。更に骨格は非常に硬い。並大抵の剣ならば、壊れるまでに一体倒せるかどうかも怪しい。しかし…。
ヴィクター号の顔に一抹の不安が現れる。

「だから、悪魔から作った銃弾、か。だけどフラン。君は一体…」

◆

一体、何発撃つつもりなんだ?リリムの猛攻とクロードの精密な射撃を尽く切断しながら、ミカエルは心の内でほくそ笑んだ。
確かにこの剣、神から賜ったものとはいえ悪魔の身体を斬り続ければ刃はこぼれる。そのうち折れる。
ただし何千、何万と斬ればの話だ。途方もない話だ。彼方の話だ。
貴様の弾丸一発一発は一体、悪魔何匹分になるというのだ?そのちっぽけな骨と肉の弾を、貴様はあと何発撃つことができるというのだ?それは、勝機を得るに足る数なのか?
くすんだ白の弾丸、悪魔の弾を両断する。腐った悪魔の肉の臭いが鼻に刺さる。
研究熱心なのは認めよう。腕も良い。私を追い詰めるための術もよく考えている。正直、最初は感心したよ。クロード=スティグマン。
だが、浅はかだ。貴様の手持ちを全て返したところで、私には及ばない。どれだけ貴様が一途であろうと、どれだけ過去を渇望しようと、今の貴様はひ弱が過ぎる。

クロードが弾倉を交換する瞬間。ミカエルは見逃さなかった。
神剣に金色の焔が収束する。その姿はまさに焔の剣だ。ミカエルにできた僅かな隙。
今しかないとリリムは思った。正面から黒い火球、左右後方、上方を霧の翼で作った壁が覆いかぶさる。既に吸収できる瘴気も少なくぼろぼろの翼だが、敵の判断を鈍らせる程度には役立つはずだ。
退路を失ったミカエルを襲う無数の火球。リリムの脳裏に勝利の二文字が瞬いた。そして、本物の光が瞬く。ミカエルが大剣を振るっていた。火球の黒い光は神剣から放たれた焔の波にアリの如く潰さる。リリムの意識はそこで途切れた。
クロードの後方、遥か彼方。闘技場の対極に位置する結界に、リリムのか細い四肢が叩きつけられる。末魔をを断ったかのような絶叫が闘技場に響く。翼は消し飛び、背中から紫の炎が燃え盛る。落ちる。いとも呆気ないものだった。力を使い果たしたリリムは吐血し、するすると幼い姿に戻ってしまった。
クロードにリリムを気遣う余裕はない。ミカエルの剣の切先が眼前まで迫っている。



「終わったな、今度こそ」

メイナードが言う。

「あら、もうちょっと期待できると思ったのに」

ガブリエルが落胆した声で言う。

「…そう言うけどさ、誰か忘れてないかしら?お二人さん」

そう言ったのはハニエルだった。



焔が唸る神剣を振り下ろすミカエル。
だが、刀身はクロードの一歩手前で止まった。先に進めようにも、何かが阻んで剣が動かない。
クロードが何かを仕掛けているわけではなさそうだ。彼は悠々と弾倉を詰め替えている。
と、クロードの腰にかけてあるランタンが光り輝いていた。
深呼吸。一筋だけ流れた汗を拭ってクロードが言う。

「助かったぜ、ルナ」

ルナの張ったごく小さな結界がミカエルの攻撃を止めていた。さすがの大天使ミカエルも驚きを隠せない。下級天使の結界が自分の剣を止められるとは思ってもみなかった。



これには客席もざわめいた。

「あの小さい子…見た目以上にやるな」

エリザベスが目を見開いて感心している。
自慢げにハニエルが語る。

「ルナエルは確かに魔力量では最低クラスよ。でもその絶対的な弱点を補うために努力を惜しまなかったわ。
本来なら全方位に展開する結界を一点に集中させて出す。さらにそれを多重展開して魔力強度を増幅させる。それがルナエルの導き出した答えよ」



「…極結界の多重展開か。それは予想できなかった」

ミカエルは淡々としている。
ランタンの光が小さくなる。代わりに荒い息が大きくなる。

「クロード…も、限界…」

息も絶え絶えにルナが伝える。

「あぁ、これで仕舞いだ」

結界と神剣の端競り合い。金色の焔は火花となって飛び散る。ヴォーティガーンの銃口がミカエルの剣を捕らえ、バスカヴィルの銃口はミカエルの心臓に向く。
それでもミカエルは鼻で笑い、小馬鹿にした口調で言う。

「また悪魔の弾か?クロード=スティグマン」

クロードも鼻で笑い返す。言葉はない。
その油断が命取りだ。過剰な自信が己を殺すんだ。
弾倉の中で撃鉄が落とされる時を待ち構える弾丸。その色は鮮やかな赤だった。

◆

「君は一体、何発撃ったらミカエルの剣が折れると思っているんだい?」

フランは、ほらきたよ。とでも言いたそうな呆れ顔だった。そして、堂々と指を一本、天に向けてかざして宣言する。

「一発ぅ~♪」

ヴィクター号の理解の範疇を超えている。出せる言葉がなかった。構わずフランが続ける。

「ヴィクたんが言いたいこと、わかるよぉ~?私の理論が正しかったとしても、何万匹って悪魔ぶった斬らないと折れないもんねぇ~♪」

けらけらと子供のように笑い上げた。
ヴィクター号は、未だに何が何だかわかっていない様子である。声すら出ない。
そんな彼もまた愛おしいとフランは思った。

「じゃあ、言葉変えてみよっかぁ~♪悪魔、バツ。堕天使、マル。っつ~ことでぇ~♪
私ぃ~、ミカエルの剣は悪魔ちゃんに反応するってゆ~かぁ~、むしろ天使ちゃんに反応するんじゃないかと思うのよねぇ~♪」

「…!?それはどういう…」

「講義中は静かにぃ~♪」

やっと出た言葉も、唇に人差し指を押さえられて止まってしまった。
講義は続く。

「考えてもみなよぉ~♪神ちゃまったら、自分が一番信頼してた部下に裏切られたばっかじゃぁ~ん♪疑惑は、ミカエルちゃんにも共通する思考って考えるのが普通じゃないぃ~?」

唇を押さえられたまま、ヴィクター号は頷いた。

「神ちゃまはぁ~、ミカエルちゃんが裏切る可能性も考慮したのよぉ~♪
天使ちゃんを斬れば折れる…いいえ、天使ちゃんを斬り殺してしまう直前で、何らかの化学反応を起こして分解される剣♪それがぁ~、ミカエルの剣の弱点よぉ~♪」

唇から指が離れる。

「質問タぁ~イム♪」

「じゃあ、何で悪魔を斬って折れたの?」

「堕天使ちゃんって考えないとぉ~♪堕ちても天使の要素がゼロになるわけないじゃぁ~ん♪まぁ、副作用ってトコかなぁ~♪」

納得できる答えだ。

「…じゃあ、あれとは別に銃弾も?」

「そう♪こぉ~れ♪」

フランがポケットから赤い弾丸を取り出した。

「対悪魔用弾丸…ってのが表向きでぇ~♪もとい、対ミカエル用弾丸ちゃんだおぉ~♪
ヴォーティガーンはぁ~、銃身とこの弾がセットになって完成する拳銃なんだぁ~♪」

「そうか…だから赤い竜の名前を付けたんだ」

「そゆことぉ~♪」

フランが弾丸を指で弾く。天井近くまで上がった銃弾は、そのまま床に急降下し、澄んだ金属音を立てた。

◆

ヴォーティガーンが火を噴く。
ミカエルの神剣を折る、赤い凶弾を放つ。

◆

研究室から外へ続く階段から拍手が鳴り響いた。

「素晴らしい。さすがは私が見込んだ科学者だ、フラン=K=シュタイン」

声の主がゆっくりと階段を降りて来る。暗闇から蝋燭の光の下に現れたのは、悪魔を模した仮面を被った黒マントの人物だった。声からして男であろう。
ヴィクター号の知らない人だった。

「あらぁ~、D様ぁ~よく御越しでぇ~♪」

Dと言うらしい。Dは拍手を一回止めて、再び三回だけ平手を叩いた。

「だが、九九パーセントだ。それも、戦いにおいては敗北に直結する」

その言葉を聞いた途端、フランの表情が豹変した。真面目で不機嫌、なおかつ冷静な科学者の顔だった。

「何、それ?」

口調もいつもと違って引き締まっている。

「シュタイン博士。貴女は科学者としては最高の勝利をものにしたことだろう。だが、科学者だからこそ完全な敗北を喫する」

「…どういう意味よ?」

更に不機嫌になる。

「貴女の公式で正しいとは思う。物質世界においてはね。だが、相手は天使だ。精神が物質に勝る世界の住人だ」

「そんなん知るか。私の科学がお伽に勝つんだ」

「だから貴女の負けだと言うのに…」

Dが笑う。腹の奥底から込上げる笑いだ。失礼と思ってか、腹の中で留まらせている。それがフランの不機嫌を加速させる。
立ち上がって、椅子を蹴り飛ばす。

「何よ?D様だからって私の理論を否定させないわよ!?」

「神が反逆を疑っている。それはミカエルに限らず全ての天使に対してだ」

Dが手を上げる。フランの講義の確認だった。

「…そうよ」

「ミカエルが味方である限りは、裏切り者の排除も請け負うはずだ」

「そうね」

「だが、天使を斬っただけで折れる剣では不十分な任務だと思わないか?」

「…だったら、別の天使がやってるんでしょう?」

「ミカエルも別の天使も関係ない。全ての天使の武器に言えることだ」

仮面で表情はわからない。しかし、きっとDは勝ち誇った笑顔だろうとヴィクター号は思った。

「武器崩壊のファクターは、君が言った通りだ。天使を傷つける。そして、もう一つ重要なファクターが感情」

苛立ちが頂点になった。

「感情!?は?馬鹿にしないで!感情なんて必要ないわ!科学だもの!」

「だが、相手はお伽だ」

フランが言葉に詰まらせる。

「続けよう。
その感情は広義で言えば悪意、狭義ならば恨み、怒り、私欲など…。これらが一致して初めて神への反逆は完全に成立する」

確かにDの方が正確だ。これなら、反逆者を始末できる上に、自分が反逆すれば武器は無力と化す。

「よって、君は九九パーセント勝利した。だが、勝負においては一〇〇パーセントの敗北を喫したのだよ」

苦虫を噛んだようなしかめ面。フランが拳で怒りを机に叩きつけながら言い放つ。

「そんなの、科学じゃないわ!!」

「そう。サイエンスではない。相手はファンタジーだ」

Dは哀れむ。完敗に打ちひしがれるフランの背中を、震える背中を哀れに見下ろした。

◆

赤い銃弾は、白い銃弾と同じように斬り捨てられた。
神剣は刃こぼれ一つない。ただ、大量の悪魔の血液と、少量の天使の血液を浴びただけだ。
クロードの思考が止まる。思っていた結果と違う。
剣は健在。いままで淡々としていたミカエルが、憤懣に歯の根を鳴らしている。

「…貴様。私の同胞に何をした!?」

ルナの極結界が崩れる。神剣はクロードの左肩から入り、肉を焼きながら肋骨を絶ってゆく。





BLACK OR WHITE? 6~誰が為に騎士は行く.part13~ part14に続く



[19605] BLACK OR WHITE? 6~誰が為に騎士は行く.part6~
Name: 縄口圭心◆52f18317 ID:1cf981f1
Date: 2010/06/16 22:12
刹那が、永遠かの如く振る舞う。
誰の耳も聞こえず、誰もが脈動すら忘れそうになっている。ミカエルが焔をまとった剣を振り下ろす雄姿を各々の瞳が捉え、各々の心が美しさに動く。この美麗な舞のために、その他の身体機能は止まっていた。
クロードの左胸は肋骨を露にするまでえぐれている。肉が焔に焼かれたため、傷の見た目に反して出血は少ない。膝が地に落ちる瞬間までもが、ミカエルの剣舞を引き立たせるために輝いていた。
恐ろしい。人が死ぬ光景のはずだった。だが、客席はそれを絢爛と感じてしまった。己の心が為したものなのか、神が生み出した至高の使徒が為す業なのか。ソフィアはおろか、将軍格のメイナードとエリザベスまでもがその一瞬に見惚れ、見惚れてしまった事実に正体不明の恐れを感じた。
永遠が終わる。一枚の絵画の様に美しかった場面から解放された客席が最初に聞いたものは焔が爆ぜる音と、クロードが地に倒れこむ鈍い音だった。
うつ伏せになったクロードが、ミカエルの足で仰向けにされる。生気のない顔、見開いた目、開ききった瞳孔。時折痙攣を起こしている。絞った呼吸が唇の隙間に擦れて、細い音を立てている。
クロードの腰にぶら下がったランタンが開き、中からルナが形振り構わず飛び出て来る。クロードの名を叫びながら、泣き顔で大きな傷口に寄り添う。僅かな光の力で、瀕死のクロードの身体を癒し始める。
剣の焔を沈め、ミカエルが言う。
「…肺には届いていない。ルナエル、そのまま治しておけ」
動揺が一転、客席の騎士たちからぽつりぽつりと歓声が沸き起こる。五〇人の喝采を背中で受けるミカエル。視線の先にはヨハンナ教皇が座している。
「猊下。終わりました。これ以上は不毛に御座います」
ヨハンナは黙って、首を横に振った。
「まだ、悪魔とは決着していません」
ミカエルがリリムのいる方へ向く。気絶はしているが、小さくなった身体は残った瘴気を全て吸収して傷を塞いでいた。
ヨハンナの声が闘技場に響く。
「ミカエル、わかっていますね?」
「…御意」
ミカエルはローブを翻し、地に伏すリリムに歩み寄る。

ここまでするなど、ミカエルは考えていなかった。ちっぽけな赤い弾丸にされた同胞への慈愛が、気付かぬ内に神剣を突き動かしてしまったのだ。
本来ならば、クロードが指一本動かせないようになるまで、いつまでも闘い抜くつもりだった。降参の一言を言わせるだけのはずだった。そうでなければ、ヨハンナ教皇が悲しむからだ。
微動だにしないリリムへと歩み寄りながら、脇目でヨハンナを見る。表情は至って冷静沈着。が、ロンギヌスを持つ手が泣き震えている。さすがに胸が痛くなる。
足元にリリムがいる。敵の間合いに入ったというのに、顔すら持ち上げようとしない。
ミカエルに殺気がないためであろうか。
ここまでの戦いで、これが本物のルシファーの娘、リリムであることはほぼ確定した。王族にあやかろうと、自らの子に皇太子や皇女の名を付ける親は、人間でも悪魔でも少なからずいる。今回もその類かと誰もが思っていた。だからこそ、クロードの勝利条件に『リリムの生存』があった。
だが、本物なら話は別である。リリムを殺すのはおろか、傷つけただけで国際問題に発展する。最悪の場合、黒導国家は総力を挙げて戦争を再開するかもしれない。良くて白導教皇庁の財政が傾くほどの事態は避けられないだろう。
「…封印式、白銀像」
神を称える言葉を紡ぎ、ミカエルの左手から光の魔法陣が浮かぶ。魔法陣はリリムの背中と四肢に軽く焼きつく。と、魔法陣の焼きついた部分からリリムの体が陶磁のような白い鉱物に変化してゆく。白い侵食が幼い身体を多い尽くす。これで、リリムは完全に動けなくなった。
これを黒導教皇庁に護送する。ひとまず、酷く衰弱していたということにしておこう。白導の技術での治療は不可能に近かったから、応急処置として封印式を用いた。上手く運べば、白と黒の隔たりを取り除く鍵になるかもしれない。ヨハンナは平静を保ち、教皇としてシナリオを練っていた。
だが、手の震えは止まらない。ロンギヌスが澄んだ金属音で鳴いている。
こんなことは、これまでに経験したことがない。
ミカエルの手が、石像となったリリムに伸びる。

◆

目覚めると、目覚める前と同じ暗闇だった。
果たして、これを目覚めと呼んで良いものか。それほどの暗黒が広がっていた。だが、手を見ればはっきりと形も色もわかる。立ち上がるための足もある。地面は空と同じ闇色で境界がわからない。実に不可思議な空間に幼いリリムはいた。
「どこじゃ、ここは…?」
独り言が思いのほかよく反響する。自分の声だというのにリリムは僅かに怯えた。しかし、そのおかげで霞がかった思考が晴れ渡った。
「そうか。わらわは闘って…」
ミカエルとの決闘が再生する。死力を尽くしても決定打を与えられなかった。傷付くのは自分ばかり。最後にはミカエルに焔で吹き飛ばされた。後は覚えていない。
腕が震えるまで握り拳を作っても、しかめっ面で大粒の涙を落としても、悔しさは一向におさまらなかった。
何故負けたのじゃ?わらわは悪魔の長じゃ。全ての頂点に立つべき者のはずじゃ。なのに、何故こんな惨めな思いをせねばならぬ?
泣き崩れ、地面にへたりこむ。

「嗚呼、可哀そうに。そういう顔も悪くないがな、そうもばかり言ってられんのだ」
背後から、リリムの自問に答える声がした。地底から唸るような声だった。
「誰じゃ!?」
振り返ると白い城がそびえている。
いつからそこにあったのか。気配も何もしなかった。この目にした今でも存在の感覚が掴めない。だが、色も形もはっきりわかる。確かにあるのに、あると認識できない。奇妙な感覚だった。
城と言ってもそれほど大きくはない。建築から城とはわかるが、実に粗末なものである。これが石造りなのか何なのかわからない。ただ壁面は滑らかで繋ぎ目がない。門はどこを探しても見当たらず、代わりに人が潜れないほど狭い窓が無数についている。
窓の一つから巨大な目が覗く。
「リリム姫、悩む必要などない。わしがいる限り、主は間違いなく頂点に立っている」
目が三日月形に歪んだ。
ひるみつつもリリムが吠える。
「何者じゃ!?」
「おや、お忘れか?折角、迷宮で挨拶してやったというのに」
決闘前、腹を突き破って出て来たもう一人のリリム。そういえば声も似ている。夢でも幻でもなかったらしい。
城の中、もう一人のリリムが続ける。
「しかし無様だな。あれが死力か。たかが天使の一匹の剣で止められるものが死力か。情けない」
鼻で笑った。城の外でリリムはなおも吠える。
「黙れ!そこに篭って戦うことすら叶わぬ貴様に言われる筋合いはない!」
「筋合いならある」
城の窓が全て開く。どろりと濃い黒煙が溢れ出る。
息と言葉が詰まった。ミカエルと対峙した時以上の悪寒が背筋に走る。
「さて、無念を晴らしてやろう。姫よ」
黒煙が轟音を上げて噴出する。黒煙は一つとなって黒の濁流となり、リリムの幼い身体を呑みこむ。あるかもわからない空間の彼方へと、絶叫が消えて行った。

どれくらい流されたことだろう。濁流は全く衰えない。それどころか勢いを増している。が、リリムは荒波に揉まれる度に抵抗する力を付けていった。身体も大人になってきている。もはや流れが苦にならない。それどころか爽快だ。
一点の光が見える。おそらく果てだろう。
迷うことなく光に身を投じるリリム。その隣にも、飛び出す何かがいた。巨木ほど太く長い身体を持った、黒い目の闇の巨獣。
濁流以外の、生ぬるい飛沫がリリムにかかる。
「あ…」
赤黒い血を、体中から流す巨大な黒竜の姿を、光の中に見失った。

◆

ミカエルは、二つの思い違いをしていた。
一つは、ヨハンナの手が悲しみに震えていると思ったこと。これはむしろ、ロンギヌスが歓喜に先走っていると言った方が正しい。
そしてもう一つは、リリムがたった一匹の悪魔だと思っていたことである。
ロンギヌスの振動が、次第に強くなっている。気付いた時には両手で押さえなければならないまでに激しく打ち震えていた。いくら聖遺物に数えられる槍でも腑に落ちない。得体の知れない不安が、ヨハンナの両腕に伝わって来る。
「これは一体、何なの?」
そう言いきるかきらないか、突然にロンギヌスが自らの矛先をリリムへと向ける。持ち主の意に反して動いたため対応できず、ヨハンナの身体が僅かに浮く。思わぬ事態に控えていた二人の近衛兵が後ずさった。
リリムに向かおうとするロンギヌスを、両手両足で踏ん張って留める。が、それでも矛先は前に進む。玉座前の床を、靴が擦って行く。呆けていてはならぬと、近衛兵らがヨハンナの身体を取り押さえる。やっと前進が止まった。
しかし、ロンギヌスはリリムを求めて猛進し続ける。三人がかりで進行は止まっても、リリムを渇望する意志は抑制できない。
教皇として、聖遺物にこのような感情を抱いてはならない。それでも、ヨハンナの理性に反して本能が血の気を引かせる。
神聖の象徴たるヨハンナが、下賎な叫び声を上げる。
「ミカエル、なりません!下がりなさい!」
同時に、白い石像となったリリムから力強い鼓動が放たれた。大気すら押し退ける波動に近い生命力が、ミカエルの肌にしかとぶつかる。
考えるよりも先にミカエルの身体が動く。闘技場の中央に横たわるクロードとルナを抱え、端に安置する。クロードを背後に守る形で、石像となって動かないリリムと対峙するが、自分はおろか相手の間合いにも入ろうとしない。神剣を両の手で握り構える。
ルナには訳もわからなかった。
「あ、あの、ミカエル様…?」
「絶対にそこから動くな」
ミカエルの目はリリムを捉えたまま放さない。クロードとルナに構っている余裕などなかった。今、意図もせず両手で剣を構えている。これだけで現状の説明に余りある。
ミカエルが、本気にさせられた。
客席がざわめく。既に勝負は着いたはず。にもかかわらずミカエルは間合いを取り、剣を両手で構えている。不可思議でならない。結界で守られている客席は、石像と化したリリムの脈動など知る由もなかった。
一際力強い心音が木霊する。ミカエルのローブが揺らいだ。
「…来る」
リリムの背中の魔法陣に亀裂が走る。隙間から怒涛の勢いで噴出するどす黒い魔力。闘技場全体、地上の教皇をも巻き込んで空気が振動し、地響きに似た重低音を伴って闘技場を黒く染める。耳には聞こえないほど低い音だが、皆の心臓が爆音に共鳴して絞めつけられていた。
幼いリリムの石像から、大人のリリムが出る。亀裂から外殻を脱ぎ捨て黒い霧の翼を広げる姿は、蝶の羽化を思わせる。蝶なら良い。生命の神秘と感動すれば済む。だがこれは、禍々しい魔物の誕生に他ならない。
無邪気だった笑い声は、悪意に満ちた笑いに変わっている。
天を仰ぎ、完全に羽化したリリムはミカエルを下目で見て言い放つ。
「不思議じゃのぅ!実に不思議じゃのぅ!不可思議ここに極まるのぅ!」
魔力の噴出は未だに続いている。爆音が声を掻き消してしまうが、高揚感が口と声帯を動かせと命じていた。
「ボロになるまで負けたというのに、もはや負ける気がせぬ!」
どこにこのような力を隠していたのだろうか。魔力は限界を知らぬと誇示するかの如く猛々しくうねり、霧の翼は無限に成長を続ける。リリムの角と牙は更に凶悪に尖り、瞳は鮮やかな紅に光っている。
心から狂い笑い、心から満足した。神妙な面持ちに切り替わり、誰にも聞き取れない小さな声で言う。
「クロードよ、勝たせてやるぞ。わらわが勝って、貴様も勝つ。こやつに勝たねば、虫がおさまらぬ」
リリムは蔑む視線でミカエルを睨み殺す。対してミカエルも睨み返す。ミカエルの頬を冷や汗が一つ流れる。圧倒的な黒魔力は積乱雲となり、電光がほとばしる。まだ魔力は噴出を続けている。翼の巨大化も止まらない。ミカエルの剣を握る手に力が入る。
無言でリリムがミカエルに手をかざす。それに応えて霧の翼が腕に変化し、巨人の雄雄しさを誇っている。
「この屈辱、倍にして返してやろうぞ!まずは貴様も地に伏してもらう!ミカエル!」
かざした腕を一直線に振り下ろすリリム。巨人の腕が侵攻する。ミカエルはやむなしと、剣を振り上げて突撃を仕掛けた。
だが、腕の攻撃はミカエルではなく、玉座の方向を向いていた。
「なっ…!?」
客席とヨハンナはおろか、ミカエルでさえも反応できなかった。黒い豪腕の一撃で結界にひびが生じたが、結界の力が勝って腕は掻き消えた。
雄叫びとともにミカエルが突進して来る。神剣はリリムの左肩を捉え、金色の焔を猛り狂わせながら胸の肉を斬り開く。乳房の肉が破裂し、赤黒い血と紫になった炎のグラデーションが生まれる。花が咲いたようだった。リリムは傷を何とも思わず、ただ呆然と立ち尽くすばかりだ。
花は儚いものだ。瞬時に回復し、傷痕すら残さなかった。
「貴様ァ!!」
ミカエルが怒りに任せて剣を振るう。人の目にはわからないが、神剣が融け出している。赤い弾丸で受けた天使の血とミカエルの怒りが反応した。だが芳しくない。神に従う者としての怒りは、剣も譲歩して大目に見るのだろうか。
再生するリリムの翼と肉体を細斬れにする度に、黄金の焔は紫の炎へと変化する。血飛沫が花と咲く。しかし、花は儚く消えるものだ。
リリムは何もしない。何かが信じられないという表情だった。斬られるがまま、ミカエルの攻撃など取るに足らない事柄に成り下がっている。
「何故猊下に手を出した!?彼女は関係ないはずだ!!例え黒導の王族でも許さん!!」
「…で…い」
精魂の抜けた声でリリムが答える。
「わらわではない…」
ミカエルの剣は止まらない。見るに耐えない、一方的な暴虐だが、リリムには何一つ重要ではなかった。
再び、焔が剣に収束する。ミカエルはリリムをなぎ払った攻撃をこの至近距離で放つつもりだ。
「この期に及んで白を切るなッ…!!」

ミカエルが剣を振り下ろす直前だった。
不意にヨハンナの手を離れ、ロンギヌスが自らの意志で飛ぶ。力の支えを失ったヨハンナと近衛兵らが後ろに倒れた。ロンギヌスはヨハンナの結界を破ろうとしている。結界との接触面で閃光が暴れる。僅か数秒でロンギヌスは糸を切ったかの如く床に落ちる。ピクリとも動かない。
畏怖、それしかない。口は動くばかりで言葉を発せず、腰は抜けて脚に力が入らない。
それと同時にリリムの心臓が激しく、大きく、速く高鳴る。中から胸を突き破る激痛が襲う。動悸が肺を押し退けて呼吸がままならない。焦点は空虚に向き、一点に定まっていない。それらは取るに足らないことだ。
問題は、リリムから放たれている魔力の質が変化したことである。
最初は霧状の黒い魔力が身体中から噴出していた。しかし今は、何もかもを呑み込む漆黒の魔力が湧き出ている。身体にまとわりつく非常に濃い魔力だがその割には透明で、根源であるリリムの姿を容易に視認できる。
構わずミカエルは黄金の焔とともにリリムを斬り捨てようとした。しかし、焔がほんの僅かに漆黒の魔力へ触れた瞬間、消し飛ぶ。蝋燭の火を吹き消すほどの労力もなかった。
ミカエルには信じられなかった。眼前に起こる全てを理解の範囲におさめようとしても、その全てが理解の範疇から逃げて行く。脳が止まる。
束の間の空白。ミカエルの思考が再び起きる。悪意だ。ミカエルだけではない。神の創造物の全てに対する甚大な敵意だ。ルシファーと対峙した時もこれほどの嫌悪を味わったことはない。胃から込上げて来る。
咄嗟にリリムから離れる。両手に残る黒い油のような物体。漆黒の魔力が神剣を伝ってミカエルの指先に触れていた。それは小声でミカエルに語りかけてくる。「返せ、返せ」と。
おぞましい。
何だこれは…?
ミカエルが気付く。これは、リリム以上に危険だ。
「騎士団員二〇名!!直ちに猊下の警護に当たれ!!」
事態を飲み込めずうろたえていた騎士たちの表情が一気に引き締まる。互いに顔を見合わせ、頷く。前列の二〇名がサーベルを抜き、ドーム状の結界を軽く跳躍してヨハンナの下に集結する。
「残りの騎士団員は一〇名ずつ、見届け人と共に結界の補強に当たれ!!」
ソフィアがもたもたしている間にエリザベスとガブリエル、メイナードとラグエルが席を離れて闘技場入り口上に立つ。三〇名の騎士たちが三つのグループに分かれ、見届け人たちの下に集まる。総力を挙げて結界に白魔力を注ぎ込む。
「何ボサッとしてんの!ソフィアもやるの!」
ハニエルの声でようやく事態を把握し、ソフィアが遅れて加勢する。透明な結界が太陽よりも強い光を放ち始める。熱気に満ちた風が踊る。
空を切る絶叫。この世の終わりか、はたまた生きながらにして殺されるという時にしか聞こえてはならない声で、リリムが叫ぶ。立ちすくんでいた身体を抱え、地面に膝を突く。
悶え苦しむリリム背中、翼の付け根から骨でできた枝が無数に伸びる。昆虫の脚にも見えるそれらは皮膚を貫いて、身をきしませながら生長を続ける。きしむ度にリリムの絶叫は止むが、休むほどの間もなく再び阿鼻の叫喚が続く。
枝が生える中心に穴が開く。穴からは濃い漆黒の魔力が止めどなく湧き、巨人の腕と化した霧の翼を巻き込む。翼は一つに縛られる。巨人の両手は指を組んで口を作る。霧よりも邪悪な眼が二つ現れる。
背中の穴から現れたそれは、首に巻きつけた鎖を鳴らし、赤黒い血を身体中から流している。常識外れの量の魔力を垂れ流しながら、己の誕生を喜び、咆哮する。
ヨハンナ警護に当たった騎士の一人が呟く。
「黒い…竜…」
隅で死にかけているクロードや回復魔法に集中するルナは勿論、対峙するミカエルに目もくれず、黒い竜は玉座に向かって突進する。
「させるか!」
ミカエルが立ち塞がる。怒髪天を突き、最大限の力で剣から焔を作る。黄金の焔は巨大な刃の形となって、黒い竜を三枚に下ろす。想像以上に簡単だった。しかし消し炭になったと思った刹那、リリムの背中にできた穴から竜が再生した。
竜がやっとミカエルの方を向く。今し方、初めて存在に気付いた顔だ。
闘技場は騒音に満ち溢れている。魔力噴出の地鳴り、リリムの絶叫、結界に魔力を供給する騎士たちの雄叫び。にもかかわらず黒い竜の声は驚くほどはっきりと聞こえた。
「ほほぅ…久々の外に、誰が待ち構えているのかと思えば…神の従僕か。
カハッ…カハハハッ!
これは滑稽だ。いざ目覚めれば、このわしの眼前に龍殺しの使徒がいる。それどころか、哀れなほどに脆弱な鉄板を振り回して、このわしと、このわしの器を叩き斬ろうとしている。このわしをだ」
黄金と漆黒がせめぎ合う闘技場中央には、紫の炎がたぎっている。ミカエルが神剣の焔を最大放出したまま言う。
「…自分ではない。なるほど、奴は正しかったようだ。貴様は何者だ?」
「生憎、貴様と戯れる暇も惜しい。これほど愉快な宴もそうそうないが、享楽できんのが口惜しい」
「…答えになっていない」
黒い竜は気に留めず、自分の言葉を続ける。
「悪いことは言わん。そこをどいてくれんか」
返事の代わりに、竜の首から上が斬り飛ばされた。だが、首はすぐさま生える。邪悪な瞳は、不本意だと言っている。
「嗚呼、わかった。わかったとも。訂正しよう。そのままで良い」
にわかに竜は首をミカエルへ近づける。呼吸を感じる距離、言葉を一つ吐く度に血の玉がミカエルにかかる。
「死ねよ御前」
言葉の代わりに、顎下から両断される。再び竜は燃え落ち、リリムの背中の穴から再生した。



 黒い竜の頭がミカエルに突撃する。ミカエルは最大の焔をまとわせた神剣で迎え撃つ。焔と共に竜は跡形もなく消え去り、リリムの背中に開いた穴から十何回目かの再生を行う。そしてまた突進。これの繰り返しだった。
 実に単調な、戦いとも呼べない作業である。しかし単純な力の衝突であるからこそ、他を寄せ付けない戦場が展開していた。無味乾燥であるが故にミカエルが黒い竜を考察する余裕もあった。
 まず、斬った手応えがない。すなわち竜が実体ではないことになる。霧の翼と漆黒の魔力が合わさった虚像。意志が乗っただけの、ただの黒魔力だ。
 そして、その魔力量が尋常ではない。ミカエルの剣、神の武器が発する焔があっさりと吹き消されてしまう。ルシファーにもできなかった、未踏の所業である。
 ただ、魔力の噴出元であろうリリムを斬った時ほど焔は弱まっていない。リリムを打倒するなど、認めたくないが現状では不可能だ。
 だが、黒い竜なら勝てる。
 魔力とて無限ではない。リリムの身体から出鱈目に漆黒の魔力を放出し続けていれば、じきに魔力は枯れ果てる。枯渇すれば虚像も消える。
 だとすれば、勝敗は両者の魔力量が左右するだろう。
 無駄に力を垂れ流す黒い竜に対して、自分は的確なタイミングで白魔力を使っている。消費量の差は歴然。過信している訳ではないが、自身の能力は信用に足る。
 勝てる。
 ミカエルが口元を結んだ。常人ならばむせるほどの熱気を肺に送る。精神を研ぎ澄ます。容赦のない黒い竜の猛攻を斬り捨て、容赦なく燃やし尽くし続けた。
 竜の血を浴びたミカエルの服は赤黒く染まりつつある。闘技場では黄金の焔が灼熱を撒き散らし、陽炎が生まれた。

 湧き出る漆黒の魔力が結界に触れ、紫に閃く。ヨハンナが放心し力の源を失った結界を引き継ぐのは、騎士三〇名、将軍二名、一般兵一名と天使が三柱。しかし、それでも教皇の魔力量には及ばない。ミカエルが黒い竜を打倒する傍らで結界の至る所に亀裂が走り、黒魔力が我が物顔で溢れていた。
 エリザベス、ガブリエル側。リリムに最も近い配置にて。
 ガブリエルは八枚の翼を広げて上方から魔力供給している。目を閉じ、より研ぎ澄ました感覚器官でもって、黒魔力の漏れを探索していた。
(エリザ、もうすぐ。八番、上方八メートルくらい)
 ガブリエルが啓示の力を使用しエリザベスの思考へ直接指示を送る。名前を覚えるのが面倒で、自分達に遣わされた騎士ら一〇名を右から番号で呼んでいる。
「八番だな!」
 エリザベスに啓示は使えない。口で返して魔力供給を中断、八番目の騎士の上方八メートル地点に向かう。
 軍服の上着を脱ぎ捨てると、エリザベスの鍛え抜かれた身体と髪の毛一本に至るまでが青白く発光する。褐色の肌と黒髪とは対照的な色合いのためか、眩しさが際立つ。
 光人化と呼ばれる、黒導国家のイェニチェリ部隊が編み出した白導武術である。身体のリミッターを結界によって解除し、筋繊維の一本一本に結界を張ることによって爆発的な運動能力と破壊力、防御力を獲得できる高等魔術だ。
 迅雷の如くエリザベスが騎士たちの合間を縫って疾駆する。駆ける音でさえ落雷のそれだった。秒もかからず、ガブリエルの啓示した地点に到着する。
 直後、その点にひびが入った。内部の黒魔力が漏洩する前に魔力を供給し、結界を修復する。
 地上に降り立ち、光人化を解くエリザベス。息を荒げながらも再び魔力供給に戻った。光人化は体内に張り巡らせた結界が互いに干渉し合うために術者へかかる負担が非常に大きい。
 だが、術を解くなど許されない。
(次、五番の正面)
「…お前、動くこっちに身にもなれ!畜生めっ!」
 再び光人化し、ガブリエルが指示した地点を目指す。
 心外である。ガブリエルが溜め息をついた。
「それはあの竜に言ってくれないかしら?」
 メイナード、ラグエル側。ミカエルら付近の配置にて。
 一〇名の騎士らの後方で、ラグエルは銀のナチュラル・トランペットを、メイナードは草笛を手にセッションを繰り広げていた。ただ士気を鼓舞しているだけにも見えるが、彼らの音楽は路頭で哀れなバイオリニストが弾くものからも一流の楽団の演奏からも一線を隔している。
 白導教皇庁軍鼓笛隊、その旋律は魔法そのものである。
 音階の一つ一つに魔力を宿す。メロディーやコード進行は呪文に等しい。曲のほとんどは幻術や精神強化といった補助的な役割のものである。
 メイナードとラグエルの演目は『大いなる加護』という曲だった。混乱極まる非常時にはそぐわない、悲しげで尚且つ荘厳な曲調だが、結界の魔力結合を強化し、術者の集中力と潜在魔力を引き出す効果がある。
 戦場においては地味な能力かもしれない。しかし、彼らの結界が最も安定している。騎士たちの統率も取れている。時折、ミカエルの剣が放つ熱気が噴出することもあったが、その度にメイナードやラグエルがアドリブを加えて対応する。
 今のところ問題はない。それでも、結界にひびが入る頻度は次第に増してきている。
 どこまでいけるかな。と、メイナードが思った。
 ソフィア、ハニエル側。玉座の対向にて。
 ここが一番に乱れていた。
 丁度、ミカエルと黒い竜の力が正面衝突する場所だ。結界の崩壊も速い。騎士やソフィア、ハニエルが必死になって魔力を注いでも、瓦解は止められない。
 結界に穴が開く。穴から漆黒の魔力が漏れる。騎士がひるむ。魔力供給が途絶える。また結界が壊れる。…悪循環だった。各人の焦りも加速する。
 ソフィアは慌てて良いのか泣いて良いのかもわからなかった。
「ねえ!?ハニエル!?どうしよう!?こ、これ…これ、止まんないよぉ!!」
「落ち着いてよ!今は結界を作ることだけに集中して!私たち、元々こういうのに向いてないんだから、頑張るしかないでしょう!?」
「でも…!でもぉ…!」
 と、ソフィアの左側にいた騎士が突然倒れた。騎士の正面の結界が破れ、漆黒の魔力に曝されたのである。
 絶句。ソフィアには戦意の欠片も残っていない。何を考えるべきか、何を選択し、どんな行動を起こせば良いか。次々と光速で脳裏を回るが、どれにも手を出せない。糸が切れた風にその場に腰を落とした。
「ソフィア!!」
 結界が一部破裂する。もう限界が近い。
(…あー、エリザ?)
 何だ、もったいぶるな。
 ガブリエルの啓示に返事ができないことが鬱陶しい。
(あー、これ何て言ったら…えーと、マイナス四番?マイナス四番からマイナス六番の全体?)
 何だよマイナスって…。
(ソフィアちゃんトコがヤバイから手伝っ…)
 始めからそう言え馬鹿が!!
 光人化。脚力のみでソフィアらの援助に向かう。
 結界が破裂した箇所からはダムが決壊したかのように漆黒の魔力が雪崩て来た。その先には、事態が己の許容範囲を超えて動けなくなったソフィア。
「駄目ッ!!ソフィアあぁ!!」
 ハニエルがソフィアの下へ駆け寄る。結界は間に合わない。身を盾にして守るしかない。
 ハニエルがソフィアを押し倒した。
「…ハニエル?」
 ハニエルは困った様子で笑っていた。
 ああ、私は馬鹿だ。
 やっとわかったことは、今、自分は泣くべきということ。取り返しのつかないことだった。ソフィアは無力を呪った。
 瞬間、雷が轟く。
 光人化したエリザベスが、拳の一つで漆黒の魔力の雪崩を消し飛ばした音だ。術が解けるが、これはむしろ魔力の雪崩に相殺されたと言うべきだろう。
 迫る脅威を抹殺するや否や、エリザベスは結界の再構築にかかる。ソフィアの比ではない。瞬時に崩壊部分の九割以上を修復した。
 立ち尽くすエリザベス。覚束ない足取りでソフィアが立ち上がる。
「あ、あ、あの…ありがとうございます。エティエンヌ将ぐ…」
 突如、エリザベスが膝から崩れる。右腕を押さえて苦しんでいた。ソフィアが身体を支えに寄ると、右拳の骨が折れて手の甲を突き破っている。更には腕があらぬ方向にねじれ、肘までが暗黒に侵されている。
「だ、大丈夫ですか!?」
「…大丈夫に見えたら、お前も病棟送りだ」
 答える声に覇気がない。力なく震えている。危険な状態だ。
「何、心配ない。まだ左手も…両脚だってある」
「で、で、でも!!」
 泣くのか心配するのか、どっちかにしろ。と、エリザベスは思った。決して軍人向きの性格ではないが、だからこそなかなか得られないものも与えてもらえる。不思議と痛みが和らぎ、自然と微笑が浮かんだ。
「テンダー伍長指揮下の騎士諸君に告げる!」
 ソフィアの周りで魔力供給を行っている騎士の内、倒れた一名を除く九名が作業の片手間にエリザベスの言葉に耳を傾ける。
「ただ今より、諸君らは私の指揮下に入ってもらう!テンダー伍長、ハニエルは下がって負傷した者の手当てをしてくれ!」
 当然の処置だろう。だがソフィアは悔しかった。歯の根を噛み、頷いた。
「テンダー伍長、早速だが腕がイカレた。治してくれ」
「…はい!」
 ソフィアがエリザベスを担ぎ、結界修復から離脱する。ハニエルも倒れた騎士を抱きかかえて後方に回った。
 回復魔法の穏やかな光が、エリザベスの右腕を温める。骨折と傷はまだ治せそうだが、この暗黒の侵食はしつこそうだ。
 自分のやれること。それに尽くそう。エリザベスを癒しつつ、ソフィアの戦いがやっと始まった。

「猊下!御気を確かに!猊下っ!」
 魂が抜け蒼白になっているヨハンナの両肩を揺すり、騎士の一人が呼びかけ続けていた。可能な限り失礼のないように配慮して女性の騎士が当たっている。だが、反応がない。床に転がっているロンギヌスを呆然と眺めているだけだ。
 女性騎士が歯をきしませる。畏怖に心地悪い汗を流し、意を決して手を上げる。
「御無礼を御許しください!!」
 乾いた音がした。女性騎士は手を振り下ろして教皇であるヨハンナの頬を打っていた。赤らんだ左頬を撫で、驚いた様子で女性騎士の方を向くヨハンナ。女性騎士は生きた心地がしなかった。
 空かさず床に膝を突いて礼の姿勢になる。
「申し訳御座いません!処罰は後ほど、謹んで受けさせていただきます!
 しかし、事態は困窮の極みに御座います!現在、結界は将軍様方と騎士団員らで維持しておりますが、それもいつまで持つかわかりません!
 我らの無力を棚に上げて進言するのは痛み入ります!ですが、猊下の御力がなければ、地上に悪魔を解き放つこととなりかねません!
 御願い申し上げます!猊下!結界を御張りください!」
 ヨハンナの瞳に光が戻る。何をもたもたしているんだろう。皆が戦っているのに、自分が、教皇が、指導者が前に立たないとは何事だ。
「…ごめんなさい。貴女のおかげで目が覚めました。モンテイユ公」
 叩かれた頬を擦りながら、ヨハンナが立ち上がる。女性騎士モンテイユは顔を上げない。
「私めなどの名を…?恐れ多いことです…!」
「早く面を上げなさい。とにかく貴女も戦いに戻るのです」
 ようやく上げた顔は、闘志に満ちた喜びが咲いていた。
「私としたことが…然様で御座いますね」
 立ち上がり一礼する。そしてモンテイユは仲間の下へ向かった。
 ヨハンナがロンギヌスを拾う。微動だにしない。いつも手にしている聖遺物、ロンギヌスの槍に相違なかった。
 結界の状態は最悪だった。所々で崩れかかっている。ヨハンナなら全修復も容易にできるが、ただ直しただけでは再び壊れる恐れがある。
 ロンギヌスの矛先に額を寄せる。目を閉じ、息を冷たくして、水面が鏡になるまで心を静める。ヨハンナと水面以外は何もない境地で、三聖頌を心で幾度となく唱えた。
「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、 昔いまし、今いまし、のち来たりたまう、主たる神」
 神を称える言葉を連ね、水面の透明度を高める。僅かな邪念も洗い落とす清らかな水が足元にあるイメージだ。
「緊急八鏡議会召集。議題、バチカン霊脈の第一級限定解放」
 ヨハンナを取り囲むように、水中から八つの鏡が現れる。鏡に映ったヨハンナが口を開いた。男、女、低い、高い…それぞれ違う声で満場一致の議決が下る。
「是としましょう」
「…感謝します。アーメン」
「アーメン」
 ヨハンナが境地から現実に戻る。相変わらずの喧騒。渦巻く白と黒は紫となって燃え上がる。結界は崩落間近だ。
 騎士たちを下がらせて、ヨハンナは結界の正面に立つ。身が震える。何かを決断する時の、身体を巡る血が熱を増したような感覚。この高揚感はいつまで経っても慣れない。
「バチカン霊脈を第一級限定解放!結界の補助魔力に回します!」
 教皇の一声と同時にロンギヌスを床に突く。三六の翼をあしらった魔法陣が波紋となって拡散し、バチカンの地下に眠る霊脈を覚醒させる。白い魔力が霊脈から闘技場へと流れ、ヨハンナ結界に直結。大きな地鳴りと共に、透明でドーム状だった結界は白い円筒状に変化した。
 もはや外界から内部を確認することは叶わない。ほぼ完全に隔離された空間である。ただリリムから湧き出る漆黒の魔力の濁流が結界に弾ける音、ミカエルの焔の唸り声だけが聞こえ、その度に闘技場が少し震えた。
 耳が割れるほどの喧騒から、遠い戦火の音に成り下がる。フィルターがかかたように音がぼやけているが、騎士たちの安堵の声とヨハンナへの歓声は皆の鼓膜に確かに届いた。
 一息ついてヨハンナが高らかに声を発する。
「ひとまず静かになるまで霊脈の解放を続けます。これであの悪魔が外に出る心配は、まずありません」
 歓声が再燃する。
「動ける方は、負傷者の手当てに回ってください。病院に搬送といきたいところですが、生憎、決闘の結果が出た訳ではありません。騎士団長ミカエルも戦っています。見届け人の命を受けた以上、皆さんにはそれを全うしていただきます。ごめんなさい」
 歓声は衰えない。騎士は皆、戦士としての誇りを骨の髄にまで抱いている。戦いの中での負傷は数に入らない。
「ありがとう。それとガブリエル」
 呼びかけに応え、ガブリエルがヨハンナの御前に降り立つ。ひざまずいて忠誠を示した。
「いかがなさいましたか?」
「貴女の啓示の力なら、結界の中の状況はわかりますね?」
「…なるほど、承りました」
 ガブリエルが一礼し、結界の方を向く。目を閉じ、優れた感覚器官を更に研ぎ澄まして結界の内部を探る。
 騎士たちが負傷者の手当てに走る中、ヨハンナは神に祈りを捧げていた。そして、聞き取れないほど小さな声で「クロード=スティグマン」の名を呟く。
 ガブリエルにだけ、その声が聞こえたが、特に気に留めることなく結界内の状況を探り続けた。



 例えば、断崖の氷壁が囲む霊峰の頂である。あるいは、空と宙の境界であろうか。記憶を引き止める絶景は、その領域が清浄であればあるほど虚無に近付き、死の世に近付くという。
 だとするならば、ヴァチカン霊脈の途方もない魔力を借りた結界の内部は、百景の高みにあるだろう。
 そこは色が奪われた静寂の世界だった。限りなく無駄を削ぎ落とし、物体の色素までを否定する。ミカエルや、その背後で倒れているクロード、ルナ、リリムまでもが全て白く朧に燈っていた。
 唯一例外はリリムから生まれた黒い竜である。邪悪な漆黒、垂れ流す赤黒い血の色はそのままに猛り狂っている。しかし、未だ脅威とはいえ以前ほどの覇気はない。絶対の結界は世界を隔てるに飽き足らず、湧き出る汚泥の如き黒の力はおろか、竜の身体をも喰らっているのだ。
「ほう、霊脈を繋げたか…。全く、節操のない小娘だ」
 朧白の静寂の中に、黒い竜の轟き声がやけに大きく伝播する。声が意識へ直接届く距離に感じた。
 ようやく衰えの兆しを見せた竜に対して、ミカエルは水を得た魚だ。霊脈の白魔力は天使に恩恵を与え、神剣は限界以上の焔を放つ。
 ミカエルが踏み込む靴音、刃が空を斬る乾いた音、色を奪われた焔の唸りが、妙に耳に迫る錯覚。八枚の翼を広げた大天使が異空間に羽ばたき踊り、焔の剣の一撃で黒い竜の首が宙を舞う。
「さすがに堪えるわい…」
 空中に消え行く黒い竜の呟きになどに耳も貸さず、再生を始めた頸根に追撃が下る。慈悲や手加減など忘れた。黒い竜が、ミカエルを踏み止まらせていたものまで薙ぎ払い、彼の機能を呼び覚ました。
 この期しかない。
 消せ。消せ。消せ消せ消せ。消せ消せ消せ消せ消せ消せ消せ消せ消せ消せ消せ消せ消せ消せ消せ消せ消せ消せ!!
 主たる神に歯向かう者は、有無を言わさず消せ!!塵のように消せ!!
 消せ!!
「うっ…!?」
 肉を破る感触が柄に伝わる。根源たるリリムの腹に剣先を突き通すと同時、刀身からの焔が一帯を呑みこんだ。
 一瞬だけやんだ絶叫が再び轟く。灼熱が血肉を沸騰させる。今度はさすがの黒い竜も苦しみの音を上げている。中で暴れ回る竜が自分を壊し、ミカエルの剣の焔が自分を滅ぼす。二つの生き地獄が入り乱れ、リリムは苦痛以外を知覚できなくなっていた。
 生を訴える顔だった。
 貴賤や誇り、種族などはない。ただ一匹の生物が、死を前にして未来を望む表情だった。
 父上ぇ…母上ぇ…痛い、痛い、痛いのじゃあ…!姉上ぇ…ベルぅ…!
「クロードぉ…!どこじゃ…!?どこなのじゃあ…!」
 最後にこの名前が出るとは思ってもみなかった。もっとも、今のリリムには思考さえ叶わないのだが。
 身体が悲鳴を上げている。肌が消し炭に変わり始めた。足が割れて崩れる音がした。命を望んで伸ばした手の先には、修羅を解放したミカエルの雄叫び。
 枯れたはずの心の底から、涙が一つ、流れ落ちる前に焔で蒸発した。
 伸ばした手が、灰となって消える。

「おのれええええええええええ!!神の従僕如きがあああああああああああ!!図に乗るなあああああああああああ!!」
 瞬間、焔は消し飛び、塵になりかけたリリムの身体が回復する。背中の穴と骨の枝は更に成長し、再生した黒い竜が憤怒に駆る。
「な………ッ!?」
 竜の牙がミカエルの腕に、腹に食い込んだ。傷口から穢れが広がる。目眩に吐き気、自分が自分でなくなる感覚、竜が精神を侵略し始める。神の声が遠くなるり、七色の声をした一つの怨念が血管を逆巡る。
「「「「「「「返せ!返せ!わしを返せ!
 よくも奪ってくれたな!よくも、よくも、よくも!
 手に戻すまで呪い果たしてやろうぞ!恨み果たしてやろうぞ!
 奪い返した暁には、呪い果たしてやろうぞ!恨み果たしてやろうぞ!
 貴様らの生も!貴様らの死も!貴様らが生きず、死なずとも!
 森羅を呪い、万象を恨みつくしてやろうぞ!!」」」」」」」
 邪気に満ちた一四の瞳が、ミカエルの精神を埋め尽くしてゆく。後にも先にもない怖気が背筋に走った。
 ミカエルの手が柄から離れる。じわじわと闇に堕ちるミカエルを噛み砕かんと、黒い竜は頭を天に掲げた。リリムは自分に刺さった剣を虚ろな瞳で見呆けている。既に叫ぶ気力も消え失せた。
 ミカエルの腕がきしむ。
 折れる。
 黒い竜にとっては雑作もないことだった。
 声にならない声で、ミカエルが苦悶する。
 今度は肋骨がきしむ。
 黒い竜がミカエルの血をすすり、「不味い生き血だのう」と漏らしつつも更なる鮮血を求める。

 男が見ていたものは、人生そのものだった。
 春の小高い丘の上で、俺がうつらうつらとまどろんでいる。そよ風が悪戯に帽子を吹き飛ばして、慌てて俺が取りに行こうとすると、風の向かう先には妹のエミリーが立っているんだ。
 それで、俺の帽子と一緒にバスケットを持って言うんだ。
「無理言ってお仕事抜けて来ちゃった」って。
 久方ぶりのピクニック、遅めの昼食を二人で食べる夢。
 ヴァチカンの写真屋で、新しい家族写真を撮るだけだってのに、エミリーがやたらとめかしこんで、予約した時間に間に合わなかった。
 目が覚めたら、エミリーがベッドの傍で待っててくれている。そして「おはよう、お兄ちゃん」と、変わらぬ優しい声で俺の朝を始めてくれる。
 死に際の、過去の再起を走馬灯と呼ぶなら、未来の喚起は一体何だ?

 そうか。
 俺はまだ、ここにいるのか。

 甲高く空気が弾けた。
 鳴らないはずの音が鳴り響く。火薬の弾ける音だった。輝く銀弾が一直線に、黒い竜の喉元を貫く。しかし、蚊が刺した程度でしかない。風穴は何事か気付く前に消え失せた。
 虚ろだったリリムの瞳に勝気な光が戻る。
 忘れる筈がない。この身で以って、受け続けてきた弾雨の音だ。黒銀の銃、バスカヴィルの口から昇る硝煙の臭いだ。むかつく切れ上がった目だ。反吐が出る嘲笑だ。
 何度も滅した身体を奮い起こし、絞った声でリリムが声にした名。
「………クロードぉ…っ!!」
 名の主は左胸の傷を抑えながら、銃を黒い竜に向けていた。
 ミカエルの朦朧とし出した意識でも、はっきりとその立ち姿は見て取れた。
「何故だ……・・・あの傷で立てる訳が………」
「霊脈の恩恵を受けたのは、貴方様だけではありませんよ」
 クロードの背後から、うら若く色白の天使が姿を現す。背丈はクロードの肩ほど。体格は天地を違えるまでの差だが、透けるような金髪と四方に宝石をあしらった天輪は間違いなくルナである。
 理解した。瀕死のクロードが立ち上がれた理由。ヴァチカン霊脈は、小さな天使にも力を貸していたのだ。
「それが…本当の姿か…」
「まさか戻れるとは思ってもみませんでした。けど、今は素直に感謝したい気持ちです」
 ルナが笑ってみせた。が、どこか苦かった。
 思わぬ伏兵に目を丸くしていた竜は、やっと合点がいったのか、山形に目蓋を歪めてクロードたちを見下ろす。
「不運よの。そのまま絶えるか、彼の地の門前に立っておけば良いものを…。そんなに味わって果てたいか?」
「…テメェ、誰だ?」
 恐れもなく、圧倒的な存在に畏まることもなく、クロードは面倒臭そうに問う。
 不意を突かれた間。豪快に笑い上げる黒い竜。大きく開いた口から、ミカエルが零れ落ちる。自力で立てるようではあるが、見る影もない。今はもう剣舞は難しいだろう。歩兵と同じく剣を持って、歩兵と同じく振るうのが関の山だ。
 狂笑する竜を気に留めず、クロードはルナに指示を出す。指示と言っても、ミカエルを顎で指したのみである。しかし、クロードが母親の胎内にいた頃からの付き合いに言葉は要らなかった。竜が笑う直下から傷ついたミカエルを担いで下がり、回復魔法の暖かな光で包む。
 黒い竜は息も忘れるほど笑い倒し、腹をよじらせながら言を発した。
「貴様、勝つつもりか?このわしに?思い違いならすまん、わしに勝つつもりか?」
 返事はない。
「何たる喜劇だ!これから負ける者が、これから勝つ者の名を聞いてどうする?破天荒なまでに滑稽だ!死んだら仕舞いだというのに!名を聞いても残らんともわからんのか?」
「ごちゃごちゃうるせえ。奴隷のクセしやがって」
 竜の熱狂が冷め切った。目が座り、禍々しい荘厳を内に秘めてクロードと対峙する。
「奴隷…と、言ったか?」
「ああ、奴隷だよ。俺の下僕を散々踏みにじって暴君気取りか?ソイツから離れることもできないクセしてか?」
 黒い竜の根元で、リリムが苦痛を噛み締めてクロードを見つめ続けている。腹を貫く神剣を何とか引き抜き捨てた。漆黒の魔力が泥水と化して湧き出る激痛も、クロードが立ち上がってから信じられないくらい和らいでいた。今では歯を見せて笑顔を作る余裕さえある。
「自分の足で立つこともできねぇ軟弱野郎が。テメェはリリムの下僕だ。俺の下僕の下僕だ。そんなもの、俺の奴隷で十二分だぜ」
 黒い竜は哀れんだ。どうしようもなく脆弱で、どうしようもなく浅はかで、どうしようもなくちっぽけな人間が、どうすることもできない存在に健気に楯突いている。神はよくもこんな失敗作を世に放ったものだ。
「もう結構。死んだ後から悔やめ」
 黒い竜の口が開く。漆黒の魔力と赤黒い血が混ざり合って、暗黒の火球が形成される。灼熱が陽炎を生み、空間を歪ませた。
「古今東西、所有者が奴隷に何をしてきたか知ってるか?」
 熱気が嵐を巻き起こす中、クロードは動じない。
 暗黒の火球が不吉な産声を響かせる。
 バスカヴィルを捨て、焼け焦げた黒のグローブを掲げる。
「搾取だよ」
 左手を開くと同時に、リリムの首輪にあしらった純金の十字架が光る。
 後は簡単だった。リリムのありとあらゆる力が渦を巻いて、クロードの左手に集約する。漆黒の泥のような魔力も、放たれた暗黒の火球も、黒い竜の身体までもが、左手のグローブに貪られる。
 意表を突かれ、間の抜けた声を上げたかと思うと、黒い竜は第二、第三の火球を吐く。だが、その全てが左手に咀嚼されて消えた。
 第四、第五、第六…どれも結果は同じだ。リリムから湧き出る異質な力も底を見せ、クロードの左手が竜を頭から喰らおうとかかる。
「馬鹿な!?わしが崩れ……ッ!!」
 自分よりも小さな人間如きが、己よりも巨大な魔獣を喰らって打ちのめす。昔話や伝説でしかあってはならない結末を受け入れる間もなく、竜は砕けてクロードの左手に呑まれた。

 色の奪われた静寂の世界がほぼ完成する。
 竜の名残、漆黒がクロードの左腕で盛る。まだ黒い竜が抵抗しているかと思うほどの激しい痙攣が止まらない。クロードは言うことの聞かない左腕で何とか拳を作り、自身が壊れてもおかしくない力をこめて地面を殴った。痙攣が止まる。
「うん!?」
 何の前触れもなくクロードの顔が青ざめた。本来の力を取り戻したルナの介抱があったとはいえ、相当な無理をしていたのだ。加えて、地面を殴るために取った前傾姿勢が決定打となった。
 胃が空になるまで吐く。酸味の利いた今朝のパンの味がする。
 少なくとも、出鱈目な化け物に勝った後の姿には見えない。
 元凶だったリリムも背中の穴は閉じて骨の枝は砕け散り、ヴァチカン霊脈の洗礼を受けて色が抜けている。あれほど派手に被害を撒き散らしたにもかかわらず、現在は打って変わって気持ち良さそうに寝ている。どこか満足げで、幸せそうだった。
「礼を言う。もう良い」
 ルナの光でミカエルの骨は繋がり、傷は目立たなくなっていた。竜の魔力が血管を黒く浮かび上がらせているが、時間が経てば元に戻るだろう。
 少々気が優れない足取りで、無造作に放置された自分の剣を取りに行く。傍には危機感もなく可愛らしい寝息を立てるリリムがいた。
「ちょ!?クロード大丈夫!?」
 声のする方を向くと、ルナに背中を擦られながら、長々と吐瀉物を出しているクロードがいる。つんと酸い臭いに顔をしかめる。
 ミカエルが鼻で笑う。
 全く、あの喧騒があったのかも疑いたくなってきた。
「一勝一敗…というところか」
「…ああ?」
 誰に向けてともわからぬミカエルの言葉に、クロードが口周りを拭いながら応えた。
「貴様を斬って、私がまず一勝。私が倒せなかった竜を貴様が打倒して、一敗だ」
 クロードは捨てたバスカヴィルを拾って、弾倉を交換しているところだ。呆れた顔で言う。
「何だよソレ。最初のルールと変わってねぇか?」
「…不服か?」
「いや、むしろ納得したぜ」
 帽子を深く被り直して笑ってみせるクロードに対して、ミカエルは冷静に厳しい顔だ。ミカエルはねぎらいやクロードの実力を認めたわけではなく、ただ主観的に状況を述べただけらしい。

 クロードは眠りこけているリリムを引きずり戻し、ルナに預けてミカエルと改めて対峙した。
 生のない空間。ここで決闘をしようなどとは、どうにも馬鹿げた行為に思える。興にそぐわない。だが、まだ願いに届く場所に立つ以上、追い求めなければならない。手に入れなければならない。
「さあ、続きといこうか」
「いや、待て」
 ミカエルは剣を持ってはいるが、構えもしない。
「どうした?そんなに消耗したのか?それとも今更ビビッてんのか?」
 嘲笑を交えて挑発するクロード。ミカエルは無視して天に物を申す。
「ガブリエル!!」
 別の天使の名が、結界の中に大きく響き渡る。
「お前には見えているはずだ!!もはや危機は去った!!猊下に霊脈を沈ませるよう進言しろ!!これでは決闘もできん!!」

◆

 嫌よ。と、興奮に沸き立つガブリエルは思った。にやける口元を必死で手で隠し、熱狂を押し殺している。
 詰まるところ、ガブリエルは今日のこの時まで退屈していた。長らく続いた戦争は終結し、似たような書面と睨み合う日々。黒導国家の動向を千里眼で監視し、「異常はないわ」と報告するばかりの変化のない日常。啓示の能力で、面白いものは粗方見尽くしてしまった。
 今日は違う。異常が跋扈し、不可能が軒を連ねている。最強の名を欲しいままにしてきた、竜退治の伝説さえあるミカエルが、黒い竜を討伐するどころか喰われる一歩手前まで追い詰められた。そしてその竜を退治したのは、そのミカエルに斬り捨てられたただの人間。しかも、左腕の一本を掲げただけで砕き殺したときた。
 これが、喜ばずにいられるというの?
 久々のエンターテイメントが、こんなに愉快だなんて思わなかったわ!何よミカエルのあのザマ!何よあの人間!何よあの悪魔!
 楽しい。楽しい!楽しい!!
 誰にも汚させない。こんなに素晴らしい見世物、他人に見せるなんて勿体ないわ。
 この先の決闘も、きっと極上なんでしょう?そしたら皆、口々に、流行り病みたいに教皇庁に広めるでしょう?「すごかった」とか「ハラハラした」とか言い広めるんでしょう?見えてるんだから。聞いてるんだから。貴方たちの心を。

 馬鹿が!!
 何でそれが戦いを汚すと気付かない!?
 口にした時点でそれは偽りなのよ?目にしたものですら怪しいわ。確かなものは胸にしか残らないのよ。
 誰にも汚させない。こんな身体の芯から熱くなる決闘ならなおのこと!
 私だけが見るんだ!私だけのものにしたい!
 それだけがこの決闘を、あの二人を永遠に輝かせるのよ!

「…静かになりましたね」
 ガブリエルが身悶えを堪えている間に、ヨハンナが隣に立っていた。
「どうですか?中の様子は…」
 ヨハンナは、騒ぎがおさまったら霊脈を塞ぐと言った。
 今回ばかりは譲れない。
「そうですねぇ…まだ何とも………」
 どうした!?見届け人の目に入らなければ意味がない!!さっさと進言しろ!!
 …だから嫌だって。と、ミカエルには伝えないでおく。

 …霊脈を閉じるまで私は動かんぞ!!

「えええッ!?」
「ッ!?どうしました!?」
 うろたえるヨハンナをよそに、ガブリエルが頭を抱えて苦悩する。
 ミカエルの性格なら、霊脈を解かない限り絶対に戦わないわね。もっとも、対戦相手のクロードならその隙を突くことも…いえ、騎士になりたいなんて言ってるからこっちも動かないか。
 ああ!もう!見物側はともかく、当事者が価値を見出していないなんて!
 散々悩み抜き、身体のあちこちを捻ったガブリエルが体勢を元に戻す。享楽的な面持ちから、真剣な眼差しでヨハンナに進言する。
「猊下、一つだけ頼みが御座います」
「…何でしょうか?」
「この決闘、他言無用、評価不要としていただきとう御座います」
「それは何故ですか?」
 不服に眉をひそめ、ガブリエルが申し出る。
「この素晴らしい決闘を繰り広げてくれた二人の栄誉のために。そして何より、私の記憶を美しく留めるために御座います」
 これを耳にしただけでは、ガブリエルの娯楽を保障するためだけの提言にしか聞こえないだろう。それでもヨハンナにはわかった。ガブリエルは自分とは違う意味でこの決闘を確かな栄光あるものにしたいのだ。
「良いでしょう。」
 全てを許す聖なる微笑に緩み、ヨハンナが言った。ガブリエルはかしずき感謝の辞を述べた。
「それで、中はどうなっているのですか?」
「あの竜は、クロード=スティグマンが退散させたようです。ミカエル共々かなり消耗してはいますが、両者に決闘の意志は残っています」
「……………そうですか」
 そう言うヨハンナの顔が、どこか誇らしげだった。
 更に三歩前に進み、ヨハンナが闘技場の面々に向けて言を放つ。
「皆さん、ご静聴願います!」
 混乱の最中に負った傷を癒し合っていた騎士たちの声が、一斉に止む。一しきり辺りを見回し、全員の目が自分に向いていることを確認してから、一息おいてヨハンナの話が続く。
「たった今、クロード=スティグマンの手によって竜は葬られました!」
 束の間の沈黙、誰もが耳を疑っていた。
 予期していた名前と違う。
 嘘………クロードが?と、負傷した騎士の手当てをしているソフィアが思わず漏らした。これが皮切りとなる。
 皆、口々に信じられないやら、騎士団長はどうしたやら、困惑を隠せない。ぽつりぽつりとざわめき始め、やがて闘技場全体に行き渡った。
(へえ、そう。私の啓示が信じられないって言うの?そうなんだ皆。ふうん。そっか、信じられないかー)
 啓示を使い、ガブリエルが騎士たちの心に直接言って聞かせる。玉座は遠いというのに、近くに居るようだ。見下ろす目は冷たく微笑んでいる。が、言葉で表せない思念がその背後で蠢いている。
 結論、ガブリエルは心底怒っている。
 命は惜しいと言わんばかりに、全員が再び口を噤んだ。
 咳払いを一つ。ヨハンナの話はまだ終わりではない。
「両者に決闘の意志はまだあるようです。つきましてはヴァチカン霊脈を塞ぎ、皆さんに決闘を見届けていただきたいと思っています」
 ロンギヌスの槍を床に突く。すると円柱状だった白い結界は徐々にドーム状に縮み、透明になっていった。
「それで一つ条件を加えます。
 今回の決闘では、私たちが想像した右斜め上に進んでしまいました。あの竜は、教皇庁の皆さんはおろか民衆の心にまで不安を撒くでしょう。
 だから、今回の決闘の顛から末に至るまで他言を厳禁とします。評価も許しません。とにかく客観と見届けることに徹し、余計な混乱を招くことだけは避けてください」
「猊下の御心のままに!」
 ひざまずく五〇余名の、切れの良い声が一本通った。
(また上手いこと御纏めになりましたね、猊下)
 ガブリエルがヨハンナにだけ啓示を使う。振り返って表情を見るまでもなく、嬉しさが伝わった。
 ありがとう。と、啓示で返せないことが歯痒かった。

 結界が元通りになる。完全に透明なドーム状の防壁の中で、クロードとミカエルは対峙していた。





BLACK OR WHITE? 6~誰が為に騎士は行く.part6~ part7に続く



[19605] BLACK OR WHITE? 6~誰が為に騎士は行く.part7~
Name: 縄口圭心◆52f18317 ID:1cf981f1
Date: 2010/06/16 22:16
 結界が元に戻る。それに合わせてミカエル、クロードらが本来の色彩に染まり、生の感覚も取り戻した。ルナは手の平大の姿に変わっていた。
「お二人共、ご苦労様です。しかし、生憎と休んでいただく時間も取れません。見届け人の方々もまた、傷付き疲れています」
 クロードもミカエルも、ヨハンナにひざまずくことも、目線を送ることもしなかった。無礼極まりない行為である。ただ、互いに相手の目に穴を開けるばかりに睨むのみ。一度は倒された相手と、自分が倒せなかった敵を倒せた相手が向かい合っているのだ。この一瞬に集中するのは誰であろうと変わらないだろう。
 そもそも、多少の礼の有無など気に留めるヨハンナではない。
「ミカエル、そして、クロード=スティグマンに命じます!」
 ロンギヌスの矛先を振り降ろし、前に突き出す。凛とした神々しい金の音を奏でる。
「一撃で終わらせなさい!」
 闘技場が綺麗に静まる。むしろその静けさが騒がしいくらいだった。空気はギリギリまで張り詰めて、爪で弾いただけで弾け切れそうだ。
「だとさ」
 そんな些細なことに気を遣わないのが、クロード=スティグマンである。
「さぁ、遠慮はいらねぇぞ?どっからでも来て良いぜ?」
 ミカエルは動かない。
 クロードは嬉々として嘲笑を飛ばす。
「何だ?やっぱビビッってんな?じゃあこうしよう。俺はこっちの銃使わねえ」
 クロードは折角取り替えたバスカヴィルの弾倉を抜いて、本体を手放した。鉄塊が地に当たる。
 白銀の銃、ヴォーティガーンをミカエルに向けた。
「俺はこっちのだけで充分だ。…あ、ちなみに舐めてっから。ハンデだよ」
 ミカエルは答えない。
「………そうかよ。なら…」
 これは…。と、クロードが誇らしげな笑みを自慢げに押し付ける。
「俺が勝ったら、教皇は俺だけの物だ」
 ミカエルは無関心だ。
 神剣を構え、黄金の焔を吹く。

 畜生…本当につまんねぇ奴だな…。これだけ煽りゃあ何か反応すると思ったんだがなあ…。
 ちょっとまたあの世に行くか。
 ヴォーティガーンを握る右手以上に、漆黒がたぎる左手に汗を握った。
「ルナ、リリムは任せたぞ」
「ええ」

 焔をまとった剣を振りかざし、ミカエルがクロード目がけて疾駆する。

◆

 同時刻、フラン=K=シュタインの地下研究室。
 必要以上の筆圧で、フランはガリガリと羊皮紙に計算式を書き連ねる。ペン先で机を削っているのではないかと疑ってしまう気迫だった。
 普段なら、流れるように優雅な筆遣いで物を書く。だが、今日は頭を抱え血眼になりながら、猪突猛進に書き進んでいる。
 その後姿を心配そうに見つめるヴィクター号。その背後で更にDと名乗る客人が呆れて二人を眺めていた。
 何を解いているかは知らんが、どうせ無駄だ。と、Dは思った。君の学問は天使はおろか人の心にも精通していない。たった一つの因子を見逃した君の、クロードとかいう奴の負けだよ。
 ミカエルの神剣を破壊するために鋳造した、白銀の大口径拳銃ヴォーティガーン。天使の肉体から削り出した弾丸を斬れば、神剣はすぐさま融けて折れる。成程、化学式は正解だ。だが、その剣は精神世界の物質で構成されている。ミカエルが反逆の意志を持たない限り、天使を斬っても傷一つつかないだろう。
 フラン=K=シュタインは最高の科学者だからこそ、神剣の弱点を九九パーセント暴いた。だが科学者だからこそ、心という一パーセントを見失ってしまっていた。
 この女は、今更ながら、計算によって心を暴こうとしている。ミカエルへの必勝法を練り直している。
 戦う当人は、既に死んだというのに。
 Dは、仮面を通して至高の世と同時に、それ故に醜くなってしまった姿を見ている気分だった。脳にごく僅かなしこりを感じた。
「ああああああああああぁ~ッ!!もうぅっ!!わっけわかんなあぁ~っいぃっ!!」
 フランは鼓膜を破るほどの奇声を発しながら、何十枚と式を立てた羊皮紙を天井高くばら撒く。それに留まらず、癇癪を起こして椅子を蹴り飛ばし、机を引っ繰り返す直前でヴィクター号に引き止められた。
 呆れてDが前に出る。
「もうそろそろよろしいか。私も色々と忙しくてね。頼んだ物を渡してくれるだけで良いのだよ」
 Dの言葉は遠吠えに掻き消されて届かない。理性が飛んで泣きながら暴れるフランだが、ヴィクター号はびくともしなかった。
「何でえええええええええええええええぇ~ッ!?何で勝てないのよおおおおおおおおおおおおおおおぉ~ッ!?」
 そう、君は勝てない…

「これじゃあ…!!これじゃあクロードに勝てないじゃないのおおおおおおおおおおおおおおおぉ~ッ!!」

「…?」
 眼前の乱行をよそに、仮面の奥で全ての感覚が思考に集まる。閃きを超えた一瞬に、無数のD自身の声が脳内を巡る。
 何かの喩えか。
 違う。彼女にそんな余裕があるわけがない。羽交い絞めで動けないにもかかわらず暴れ続けるとは、科学者らしくない。
 なら、ただの戯言か。
 違う。そんな矮小な才能ではない。
 では何だ。

 そして、Dは見る。
 自分は、この世の終末を、堕ちつつある人間を按じたのではない。脳のしこりは、それ故ではなかったのだ。

◆

 四年前。プロイセン。
 霧と沼地のガスが混ざり合った針葉樹林に、ひっそりとたたずむ古城。
 この日、クロード=スティグマンはフラン=K=シュタインの共犯者となった。
「…だからぁ、ミカエルの剣はぁ、天使の体組織で融けるってワケぇ~♪クロりん、わかったかなぁ~?」
 フランは講義と称し、黒板にお世辞にも上手いとは言えない図まで描いてクロードに自論を教え授けていた。クロードとの戦闘で負った傷は薬の効果で既に消え、穴の開いた白衣だけがその名残を語った。
 つまらなそうに大きなあくびを一つ、床にあぐらを掻いて頬杖を突いたクロードが返事をする。
「まあ、何となくな。…理屈から攻めたら、そういう考え方になるのか」
「理屈からぁ…?」
 その単語にフランの耳がひくついた。
「…いや、こっちの話だ。そこまでわかってりゃ、手間が省ける」
 ランタンを揺さ振られ、青い顔になったルナが干し布団の格好でうなだれている。ただの揺さ振りも彼女にとっては、時化の大海原に等しい。
 クロードがおもむろに立ち上がる。頭陀袋を担ぎ、受け取った黒銀の銃、バスカヴィルを新しいホルスターに入れて、腰に巻く。
「…で、どれくらいで完成する?」
「やぁ~、兎にも角にも天下の回り者のアレが…ねぇ~♪」
「そうか」
 どうやら、すぐとはいかないようだ。
 背を向けて、クロードが研究室から出ようとする。
「理屈からって、どういう意味ぃ~?理屈以外の何かあるってコトぉ~?」
 明るく陽気な口調とは裏腹に、不穏が漂うフランの言葉に歩みを止める。クロードは振り返らない。
「テメェは理屈に徹してりゃあ、それで良い。それから先は、俺の番だ」
 上り階段の先は暗闇で見えない。クロードは歩を進めて、研究室を離れて行く。フランは階段上の暗闇よりも底なしの瞳で、彼の後姿を見送っていた。
「一つ言っといてやるよ」
 クロードは止まらない。
「戦い、ってのは、感情的なんだよ」
 一段、また一段と、靴音が離れて行く。暗がりに紛れて姿は見えないが、クロードは確実にフランの視線の先にいる。
 地上へ登る靴音に向かって、自身が不機嫌そうに睨んでいることにすらフランは気付いていなかった。

◆

 太陽に勝るとも劣らない炎熱が空気を斬る。ミカエルは金色の流星の如く、小さな男に向かい、神罰の一撃を下す。
 手加減できる余裕は、とうにない。
 ミカエルは速い。最初は反応すらできなかったくらいだ。手負いの今でも充分の瞬翼である。しかし、
「もう目だって慣れてんだよ!!」
 クロードは焔に向かって、銃を手放した左腕を突き出す。
 帽子が後ろに吹き飛ばされた。熱風に耐え切れず、黒い皮手袋が焼け飛び、爪と皮膚が爛れた。骨がきしみ、肉が悲鳴を上げている。苦痛を噛殺す。目を開けるのも困難だった。
「それで終いか、人間!?それで全てか、クロード=スティグマン!?」
 剣先が迫る。既に衣服の殆どが消し炭と果て、髪や身体に火の手が出始める。
 まだだ…!まだ早い!!
 融けるほどに熱いはずだったが、もうどうにも感じない。全身に、肺にまで火傷を負ってもなお、クロードは待ち続けた。
 神剣の先が、左手の先にまで迫る。

 …今だ!!
 あれほど荒ぶっていた神の焔が、瞬時に消えた。
 闘技場の誰もの記憶に新しい、しかし、過去に滅んだ漆黒の力…
「貴様…ッ、あの竜の力を…!?」
 焔が晴れた先に、焦げた顔を悪魔染みた歓喜に歪ませた男と、漆黒の海を見た。
 堰を払ったように溢れる黒魔力が神剣の刃を退け、左手が刀身を滑る。
 クロードが剣の柄を掴む。
 同じくして、ヴォーティガーンが剣の横面に突きつけられた。
「…なっ………!?」
「素直にキレてくれりゃあ良いのによぉ!!おかげでまた死にそうだ!!」
 人間に、こんな顔ができるものだろうか。少なくとも、今まで人々を見守り続けてきたミカエルは、こんな表情をしたものは悪魔にも見たことがない。
 そして、それはルシファーよりも、あの黒い竜よりも、底知れず、邪悪で、恐ろしかった。

 神剣に心があるとすれば、そして持ち手の心を読むことができるならば、突然にクロードの意識が介入してさぞ驚いたことだろう。この身震いはそのためか。
 ミカエルの隈のない信心でさえも陰るほどの、禍々しくも一途な意識であれば怖気も一入であろう。
 クロードは天使を心の底から憎んでいた。自分から全てを奪った天使を、最後の一滴を奪った天使を。ミカエルを。
 八年前、自分は信ずる者にもかかわらず、神は救うどころか奪い取った。
 立ち向かえなかった自分が許せなかった。
 さも当然に妹を連れ去った天使を、クロードは焼けつくまで呪った。
 妹が去ったあの日、クロードは神を殺した。信ずるべき最上のものを、全て否定した。
 代わりに、クロードは力を信じた。
 弱かった自分を、クロードは握り潰した。
 勝つために、クロードはあらゆる手段を講じた。
 勝つために、クロードは悪魔と契約した。
 自分から妹を奪ったミカエルに勝つために。
 勝って、失ったものを奪い返すために。
 奪われた虚脱を知らしめるために。
 そのためなら、生きてさえいれば他はどうでも良い。

 神を引きずり出して、立てなくなるまで殴ってやる。
 許しを請うまで踏み躙ってやる。

 それまで俺は、テメェらを、絶対許さねぇ。

 神剣の、聞くに堪えない断末魔が響く。
 僅かに天使の血を浴びた刀身が赤熱し、融解し、金属の蒸気となる。
 これは明らかに反逆だ。謀反だ。神への冒瀆だ。こんなものが許されて良いはずがない。消さなければならない。天界の秩序を守るためには消えなければならない。
 そうだ。私は、神剣は、反逆者を消すために、自ら消えなければならない。それが私に与えられた機能なのだ。

 神剣は、自らに課せられた目的を遵守した。持ち主が反逆の意図を持って天使を斬れば、自壊するという使命を忠実に守った。だが、その忠実さ故に錯覚してしまったのだ。
 ミカエルは堕ちていない。神剣が感じ取った思念は、討ち取るべき敵のものだった。
 そして神剣は、本来の持ち主の意志に反して、自らを殺している。
「こんな…」
「馬鹿な、ってか?」
 目を見開いて青く驚愕したミカエルは時が止まったかのように固まっている。クロードがその様を小馬鹿にする。
 そして、ヴォーティガーンの引き金を引いた。
「チェック、だ!」
 拳銃とは思えない銃声が貫いた。
 熱を得た真鋳の薬莢が、ミカエルの目に飛ぶ。
「!?」
 目蓋が焼ける音がした。思わぬ方向からの奇襲、ミカエルがひるむ。隙を突いてクロードがヴォーティガーンを向ける。が、弱っていてもミカエルの速さに敵う人間はいない。クロードの左手を振り払い、神剣を振るう。
 だが、手応えは空を斬るのみ。
 神剣の鍔から先がなかった。
 僅かに間をおき、刀身が弧を描いて、クロードの後方、リリムが寝ている場所から三〇センチも満たない所に立った。
「な…っ!?」
 全く理解できない。ここまで容易く折れる…いや、融けるものなのか。
 剣が銃撃を受けた衝撃さえ伝わらなかっただと…。
「チェックメイト、だ」
 ただの鉄塊に成り果てた剣を振るい抜いたミカエルに対して、ヴォーティガーンはまだ赤い弾丸を残している。その引き金には、クロードの人差し指がかかっていた。
「言えよ」
 今からでも、打開はできるかもしれない。だがこの時間は、実践ではあり得ない。
 既に、引き金は引かれたも同然だった。
「言えよ!」
 何と嬉しそうで、胸糞が悪くなるほどの顔をしているのだろう。
 そうか、これが勝者か。
 そして…この気持ちが…

 ミカエルの手から、柄と鍔だけを残した神剣が落ちる。
 静まり返った闘技場に、ガランと、濁った音がした。
「…私の、負けだ」
 その一言に満足して、クロードはゆっくりと卒倒した。
 壮絶な、それでいて、水面に身を委ねるかの様な、穏やかな終幕であった。

◆

 クロードという人物は、神剣を壊す手段を心得ていたに違いない。と、Dは思った。
 私と同じ考えならば方法は二つ。
 一つは、挑発を繰り返してミカエルに怒りを抱かせること。負の感情を生むこと。だが、これははっきり言って現実的ではない。ミカエルともあろう大天使が、人間の罵声など、子犬が吠えている程度にも思わないだろう。
 もう一つは、神への反逆心を持った者に剣を持たせること。危険度は天地の差だが、確実な手段だ。
 こうして、赤い銃弾を撃ちこまれた刀身は捻じ切れる。
 しかし、こんな馬鹿な方法で挑む者がいるのだろうか?

 ふと、研究室が先程に比べて静かになっていることに気が向いた。見ると、あれだけ暴れていたフランがヴィクター号に抱きついて子供さながらの泣きべそをかいていた。
「ああああああああああああああああぁぁぁぁぁん!!ヴィクたぁあああああん、わ、私ぃ………、まま、ま、負げぢゃっだあああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁ!!」

 成程、馬鹿は幾らでもいる。
 そうか、そうか。結構なことだ。思ったよりも…フフ、よろしいことじゃないか。

 Dが微かに吐息を漏らす。
「あ………ッ!?ゴイヅ笑っっだ!!私のゴド、笑っだあああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
 随分と良い耳をお持ちのようで。Dは、それを言葉にはしなかった。
 ヴィクター号がフランを慰める傍らでDに頭を下げる。
「すみません…。ちょっと彼女、興奮しちゃってるみたいで…」
「それは構わん。だが、そろそろ泣き止んでいただきたい。そちらが結果を示してくれなければ、渡す物も渡せん」
 と、号泣がピタリとやむ。通り雨、まさにその言葉が当てはまる。通り雨の後は虹が出やすい。フランの顔の模様も、輝かしく反転した。
「…そうねぇ~♪うん、ごめんねぇ~♪待たせちゃったわねぇ~♪」
 鼻水をすすって、耳まで赤らんだ顔、涙の跡以外は、普段のフランと相違ない。
 右往左往と振り回されて処理が追いつかないヴィクター号。それを眺めて可愛らしいと胸を躍らせつつ、机横にある骨董の本棚からファイルを取り出す。ヴィクター号に持たせておいた墨色と鮮血色の細胞サンプルを奪い取って、まとめてDに手渡した。
 サンプルを懐におさめ、ファイルに目を通す。
「実はぁ~、まだ完璧じゃないのよねぇ~♪天使と悪魔の細胞ってぇ~、ソックリなくせにかけ合わせたら拒絶しちゃうのよねぇ~♪」
「…人造魔人?」
「ふへへぇ~♪カッコイイ名前でしょおぉ~♪私が付けたんだよぉ~♪」
 センスの欠片もないな…とは言えない。
「しかし、期待していた分は進んでいるようだな。ご苦労」
 ファイルを閉じ、同じく懐におさめる。
「じゃあ、今度はそっちの番よ」
 いつもは身も心も弛緩したフランが一転、この瞬間に真面目に引き締まる。常時が常時なだけに、より一層切実さが刺さる。
「…無論だ」
 黒マントからDの腕が伸びる。黒尽くめの人差し指をフランの眉間に突き、一言呟く。
「君は、君が望むままのヴィクター=ハルトを望めば良い」
 特に、何かが変わったわけではない。ただの言葉だ。
 と、フランが振り返ってヴィクター号を見る。勿論、何もない。
「…ふざけてんの?」
 不服が如実に現れている。フランが白衣からメスを一〇本構えた。
「まだだ。少しは気を長く持て」
 ヴィクター号の方へ歩み寄り、同じく眉間に人差し指を立てる。身長差で届かなかったが、ヴィクター号が気を利かせて前屈みにしてみせた。
「君は、フラン=K=シュタインの望み通りの君でいろ」
 全く同じことを言い換えただけ。特に変わった様子はない。フランがDにメスを投げようとした時、
「ヴィクター=ハルトの魂は完成した」
 メスが、手を離れる寸前で止まった。
「感動の再会に、第三者は邪魔なだけだろう?私はこれで失礼する」
 黒マントを翻して、Dがフランの脇を通り過ぎる。
「これきりで、私のことは忘れたまえ」
 そう言い残して、Dの足音は階段の闇に消えて行った。

 Dなどもう意識の外に去った。フランも、ヴィクター号も、お互いを見つけ続けるだけだった。方や、信じられないとばかりに胸が高鳴る乙女、方や、自分の身に何が起こったのか理解できない人造人間。
「ヴィクター君…なの?」
 今にも、心から泣きそうな声で、フランが問う。

「・・・・・・・・・・・・・・・フラン…さん?」

 もう疑いようがない。
 これを、もうヴィクター号と呼ばなくて良い。
 ヴィクター=ハルトが、生前にフランを指して使った呼称だ。
「ヴィクター君っ!!」
 フランは再び、いや、久し振りにヴィクターに抱きついて泣いた。クロードに負けた、気持ちの悪い涙ではない。心から湧き出た、暖かな優しい涙だった。
 声にならない気持ちの代わりに、フランは蘇えった彼の名を呼び続けた。長年求めてきた愛しい人の身体を、失った時間の分だけ感じた。

 しかし、当のヴィクターには一抹の暗雲が生まれていた。
 何故、自分は蘇えったのだろうと。そもそも、自分は蘇えったのかと。あのDと名乗る者が何をしたのかと。
「ヴィクター君…」
「う、うん…何だろう、フランさん?」
 咄嗟に穏やかな顔を作って、フランの顔を見下ろす。ヴィクターの腹に顔を埋めたままだった。疑わしいことは多いが、嬉しい展開に変わりはない。もっとよく顔を見ようと、視点をゆっくりと落とす。
 と、唇に柔らかな感触が伝わる。
 フランが爪先立ちになって、ヴィクターと唇を重ねた。
 疑いも驚きも、絡みつく舌とともにとろける。
 今度はヴィクターがフランを抱き、そのまま冷たい石の床に倒れ込んだ。

◆

 切り立った崖の上にあるフランの屋敷。常に雷雲に覆われたその土地に、気品が漂う馬車が一台停留していた。傍には、主人の帰りを待つ悪魔が一柱。
 騎士の格好をした勇壮な悪魔だった。ランスを持ち、旗を背中に携えている。冑の隙間からは三つの赤い瞳が覗いていた。繊細な馬車の雰囲気をぶち壊すには余りある格好だった。
 かつて、大魔導王ソロモンが使役したとされる、七二柱の悪魔が一柱、序列一五番目にして六〇の軍団を指揮する公爵。
「待たせたな、エリゴール」
 屋敷の扉が開き、Dが姿を現す。
「お待ちしておりました。D様。首尾の程は?」
 エリゴールが伏して迎える。
「上々だ。いや、期待以上だ。思わぬ収穫もあった」
「…と、言いますと?」
「…収穫と言っても、即座に口にできる物とは限らないだろう?」
「これは…とんだ御無礼を」
 ただでさえ下がった頭を、エリゴールは更に下げた。
「構わん。…時間の無駄だ。出せ」
「はっ!直ちに」
 エリゴールは搭乗口を開け、Dが座席に着くまでを見届ける。戸を閉め、御者席に着く。鞭を手に取り、黒馬を打っていななかせる。馬車が走り始めた。

 通り過ぎ行く鬱蒼とした森の景色を眺めながら、Dは物思いにふけっていた。
 もしも、クロード=スティグマンという人物が、私の想像通りだとするならば…。まだ断言はできんが…。
 まさにうってつけの人材だ。

「縁があれば逢おうじゃないか。クロード=スティグマン」
 仮面の奥で、Dは笑った。

◆

 まず目についたのは、白い天井と発光系石英の灯だった。次いで窓から差す暖かな日の出、小鳥のさえずり。微風が涼しげに梢を通り抜けている。
 目覚めるには最高の朝だ。
 鼻から頭へ、微かに冷たい空気を通す。薬臭さの中に何やら爽やかな、甘酸っぱい香りがした。深々と、延々と息を吐く。純白のシーツから出ようとした時に、クロードは異変に気付いた。
 動けない。
 腕に、足に、胴体に何かが食い込んでいる。ペーター=キュルテンの拷問を受けていた時に、嫌と言うのも億劫になるほど味わった感覚だ。革帯の拘束具である。
 白い天井、ベッド、拘束具…覚えがあり過ぎる。
 病院か…。
 突然、決闘中に見た妹との未来像が再起する。
 ピクニック、写真撮影、朝の時間…何でもない日常の中で、妹が笑っている光景ばかりが瞬きの間に流れた。
「おはよう、お兄ちゃん」
 ベッドの脇に目を向ける。誰もいない。代わりにオレンジが山積みのバスケットと、淡い桃色のバラを活けた花瓶があった。
「…そう上手くはいかねえよなぁ」
 無駄な期待をした。自分を嘲り笑い飛ばす。腕が動かせたら額を押さえているところだ。
 …そう言えば、俺は勝ったのか?覚束無い脳裏に、はっきりとした疑問が湧く。
 コンコン、とドアをノックする音がした。
「失礼します…おや、やっとお目覚めですか」
 と、返事を聞く前にドアを開けて入ってきたのはラファエルである。マスクと変形した額帯鏡とで顔の大部分を隠した四大天使の一柱。白衣のポケットからカルテを取り出して、慣れた手付きでクロードの容体を記入し始めた。
 未だまどろみが残る声色でクロードが言う。
「なあ、先生よお…。この前は悪かったと思ってる。もう暴れたり先生の方針にケチつけねぇからさ、このベルト何とか…」
 言葉を遮るように、ラファエルが金属のへらでクロードの舌を押さえつけた。
「はいはい。喋り続けるとオエッ、てなりますよー」
 魔力の光を指先に灯して喉の奥を照らす。額帯鏡越しにクロードの喉を覗きこむ。額帯鏡に映ったクロードの顔は、膿でくすんだ脱脂綿と包帯だらけだった。
「うん…まあ、あれだけ声が出ているなら肺と気管の状態は良好ですね」
 へらを舌から離して、カルテにペン先を走らせる。
「な、なあ先生…いい加減、ベルト…」
 傾ける耳はないと言った様子で、ラファエルはクロードの顔に手をかざす。放たれる暖かな光が、包帯と脱脂綿から薄泥色の膿を吸い出す。両腕、胴体、両足へと、空を撫でるように優しく手を動かして、汚れた布から膿を搾り出す。
 光に吸い寄せられた膿の塊が大きめの飴玉くらいになったところで、包帯と脱脂綿は本来の純白を取り戻した。
 角度を変え、異臭を漂わせる膿の塊を観察し、ラファエルが呟く。
「ふむ。治りが早いですね。騎士公たちの応急処置があったとは言っても、人間の治癒速度じゃありませんよ?」
「おいおい、人間であること医学的に否定かよ」
「鼻は吹き飛んだ。皮膚の熱傷深度は三度、呼吸器系は浅達性二度…傷と治療魔法との相性が良かったとは言え、三日で原型を取り戻す人間はいません」
「………三日、か」
 三日も寝てたのか…。
 手の光を強めて膿を燃やすと、肉の焦げる臭いが立ち昇る。むせ返りそうな臭気にラファエルが目をしかめた。
「つか、ベル…トぅおおおおおおおおおおおおおおおお!?」
 ここ最近、無理をして我を通し続けてきたツケが返ってきたとしか思えない。クロードはベルトを外してもらうことさえ頼めない。その上、決闘中にも感じなかった激痛が脳髄にまで響いている。
 柄にもなく涙が出た。何でも良い。苦痛から逃れようと身をよじらせる度に、ベッドが暴れ馬の如く跳ね回った。ベッドの脚が床を叩く度に、振動が傷口へ響いた。
 左胸の触診。丁度ミカエルの剣の一撃を食らった箇所を、ラファエルは執拗に押していた。
「あー、そんなに痛みますか。もしやとは思ったんですけど、さすがに肋骨が繋がるまではいきませんよねー」
 か、確信犯だ…っ!
 コイツ、この顔…絶対、わかってて…っ!
 胸の痛みは、クロードの思考に至っても禁ずる。ラファエルは顔に影を落とし、尚も断たれた肋骨を押し続ける。
「いやあ、『医者の心、患者知らず』って言葉はないんでしょうかねえ。何で治した矢先に大怪我して戻って来るんでしょうねえ貴方。私たちは人の健やかな生活を望んでいるというのに、貴方ときたら…。
 一から医学の精神を叩きこまねばなりませんねぇー」
 目が笑っていない。
 終わった…。
 死なないにしても、ミカエル以上のことされる…。
 クロードは目を閉じ、病室にあって然るべき安穏を諦めた。

「確かに、貴方はもう少し自分のことを考えて行動すべきです。クロード=スティグマン」
 ドアから若い女性の声がした。足音は二人分。床を突く金の音とともに病室に入って来る。
 ヨハンナ八世と、その守護天使ミカエルであった。
 ヨハンナの手には、花瓶のものと同じ薄桃色のバラの束があった。
「ですが、怪我人に教育的指導は酷でしょう?医学のご教授は、退院の後でも遅くはありませんよ」
 本当に安らかな声色だと、本当に慈悲深い笑顔だと、クロードは心臓を熱くして思った。
 ラファエルが身体をヨハンナに向けて答える。
「…それもそうで御座いますね。私としたことが、危うく患者の症状を悪化させてしまうところで御座いました」
 裏のないからこそ恐ろしい発言だ。
 ラファエルが続ける。
「今朝も御早う御座いますね。猊下」
「…正直な話、大人げないのですが………その、結果を早く伝えたいと虫が騒いでしまっているんですよ。
 今日は意識が戻っているか。明日は、明後日は…?そう思うと、毎日お見舞いをせずにはいられません」
「いえ、結構な御気持ちに御座います。この男には勿体ないほどです。
 ですが、それならば一言御伝えいただければ、クロードさんの意識が回復し次第連絡いたしましたのに…」
「や、野暮なことは抜きにしなさい。ラファエル」
 顔を赤らめ、咳払いでヨハンナは話をはぐらかした。
「それで、今朝の診察は終わったのですか?」
「いえ、あとは点滴の交換ですが…すぐに終わります」
「そうですか…それは良かった。
 …しばらく、彼と二人きりにして欲しいのですが」
「…はあ。別に構いませんが………」
「そう。ありがとうございます」
 感謝をするなら、素直に喜ぶべきではないのだろうか。何故、猊下はこんなにも物憂げな御顔をしていらっしゃるのだろう。ラファエルには度し難い。そもそも人間、特に教皇ともなれば腹の内を知ることは骨だ。
「では、ごゆっくり」
 クロードの栄養補助用に点滴を交換し、ラファエルは病室を後にする。大理石の廊下を渡って、靴音が遠くなって行った。
「…ミカエル」
「…心得ております」
 ミカエルは一礼し、ローブを翻して病室を出る。ドアを背にして、誰も入室できないように見張りを始めた。
 その前を通り過ぎる看護婦の視線が痛い。

 静かだった。
 ヨハンナが部屋の内側から鍵をかける。花瓶の花と水を替えて、脇にある椅子に腰かけた。クロードの瞳に、一層色濃くなった物憂げなヨハンナの表情が映る。
「花、お前だったんだな」
「……はい」
 風に揺れる木々のざわめきが耳に迫るようだった。
 ロンギヌスの金輪がチリン…チリン…と鳴っている。
 一分が何時間にも感じた。
 ヨハンナの口が先に動く。
「窓…開けましょうか」
「………ああ」
 ヨハンナが窓を開けると、心地良い風が病室の沈んだ空気を洗い流した。朝日を受けて輝き、柔らかな風になびく金色の長髪。こんなにも見事な髪の持ち主が、こんなにも物憂げである理由がわからない。
「気持ち良い風…。良い朝ですね」
「そうだな。
 …こっち、来いよ。伝えることあるんだろ?」
「…はい」
 再び椅子に座るヨハンナ。
 伝えることがあった。だが、どれから話して良いのだろう。教皇としての自分と、一人の人間としての自分。どちらの口から語れば良いのか。いっそのこと、口が二つあれば良かった。
「どうした?」
 クロードの問いに、ヨハンナは答えない。
 困惑と安心が半々の溜め息を吐き、普段では見せない感慨深い表情でクロードが続けた。
「お前、大きくなったなあ。
 大きくなって、立場も大きくなったのに、中身は昔のまんまだ」
 ヨハンナの心が人間の方へ傾く。
「もう良いだろ。今日は、今くらいは、エミリーに戻って良いんだ。な」
 この時までに溜めていた覚悟が、一気に決壊して、目から止め処なく溢れた。

「兄さん…」

◆

 光と開放感のある病院の廊下。車椅子に乗った者、松葉杖を突いて歩く怪我人がほとんど、看護師、特別入庁許可証を首から提げた一般人の見舞い客らが点々と往来している。
 戦後一〇年。一生ものの傷を負った者は数え切れない。そして終戦処理で負傷した兵は日々その数を増やしている。院内はそこそこ静かでありながら、負傷者で賑わいを見せていた。
「小悪魔ちゃん。クロード、今日は起きてると思うか?」
 人々の間を縫って、ルチアーノはオレンジばかりのバスケットを手に、ルナを肩に乗せたソフィアが幼い姿のリリムを連れて、クロードのいる病室に向かっていた。
 リリムがバスケットからオレンジを一つくすねて答える。
「どうじゃろうな。この際、死ねば良いのじゃ」
「おいおい、随分なお言葉じゃねぇか」
「うむ。真に美味じゃのう。嗚呼、オレンジよ。そなたは何故、こうも甘美なのじゃ?もはや、そちはわらわの生涯に欠かせぬぞ」
 リリムにとって、クロードよりも橙色の果物が大事らしい。幸せそうに黒い尻尾を振っている。
「ルチアーノは大丈夫なの?」
 目の下に隈を浮かべたソフィアが聞いた。
「あん?」
「その………ね。あの…復帰が昨日の今日だし……さ」
 ソフィアがルチアーノの下に目を向ける。赤に紅を上塗りした顔色になって、目を反らした。
「あぁー!ハハッ!なぁに、ルチアーノ様のシンボルは鋼鉄製だぜ!」
 ルチアーノが踏ん反り返って下品に笑い上げている。
「最低ね」
「最低じゃな」
「もうっ!最ッ低!」
 傍を通った看護師が、指を一本口の前に立てる。
「あ、すみません…」
 ソフィアとルチアーノが小声で頭を下げた。
「もう、大声で下ネタはやめてよ…!」
 当の本人に反省する気配はなく、笑って誤魔化すだけだった。
「つか、お前こそ大丈夫かよ。顔色悪いぞ?」
「………うん、まあ」

 決闘の結果は、僅差でクロードの勝利だった。
 騎士団員達からは反対の意見が多く挙がった。あの竜が現れた時点で決闘は不成立だとする声。それ以前に、三対一というのが間違いであるという声。そもそも、決闘の手続き自体が異例中の異例であるという声。…反論は尽きなかった。
 不服な怒りが飛び交う中、ミカエルの一喝。
「私が敗北を認めた!!それで不満か!!貴様ら!!
 それにこの決闘、評価不要と猊下が仰ったのを忘れたのか!?恥を知れ!!」
 一斉に口を噤んだ闘技場を、ミカエルは気を失ったクロードとリリムを抱えて後にする。ルナが慌てて後をついて飛んで行った。
 ヨハンナが決闘終了を告げる。騎士公叙任式の日程は追って連絡することを伝えて、解散を宣言した。
 余談になるが、この時、ミカエルは闘技場の入り口で無様に股間を押さえて気絶したルチアーノを発見していた。しかし無視に徹する。彼が第一発見者。後から来たルナが第二発見者である。
 ルナは慌てて助けを呼びに行き、ルチアーノは病院に搬送。大事には至っていないとのことで、様子見のために二日間だけ入院していたのだ。

 あの決闘から三日経つ。
 対魔導災害駆逐部隊バートン=バナー小隊では、クロードがスパイの容疑者から騎士に豹変したことで半ばお祭り騒ぎになっている。リリムも元の見た目が可愛らしいことから、すぐに隊員と馴染めた。
 あの竜の話…猊下は他言無用と仰っていたけど、もしも話が漏れた場合は………。実際にあの惨状を目の当たりにしていただけに、ソフィアだけは素直に喜べなかった。
 現在、縁もあってリリムとルナは彼女が預かっている。リリムは竜が現れた後のことを覚えていないようで、ミカエルに勝てたことが今でも不思議でたまらないらしい。
 しかし、いつまたあの怪物が現れるかもわからない。ソフィアは眠れない夜が続いて、仕事も思うように進まなくなっていた。

「ん?おい、あれ…」
「え、何?」
 リリムが七つ目のオレンジに手を伸ばす頃に、クロードの病室前に着いた。だが、どう見ても場違いな光景がある。
 ドアの前で、威圧感を剥き出しにしたミカエルが仁王立ちをしている。
「あの…ミカエル様?何をなさっているのですか…?」
 ソフィアが恐る恐る近付く。
「テンダー曹長か。悪いが、見舞いならしばらく待て。
 現在、猊下の御所望でいかなる者の入室も禁じている。猊下が御退室になるまで、例え医者であっても通すわけにはいかない」
 それはどうなのかと、皆が思った。
 八つ目のオレンジを取って、リリムの紅い瞳が不敵に輝く。影が不自然に歪み始めた。
 ほぼ同時に、ミカエルの剣がリリムの足元の床を貫いた。
「同じ手が通用すると思うな。燃やし消すぞ悪魔」
 ミカエルなら一片の躊躇もなくやり遂げるだろう。
 リリムは少し遅れて、力なく地面に腰を落とした。泣きべそをかいて必死に謝り続ける姿には、破壊の限りを尽くした黒い竜を感じさせない。
 少しだけ安心した。少なくとも、リリムちゃん自体は悪い子じゃない。それがわかっただけで、急に眠気がソフィアに襲って来た。大きなあくびと背伸びが心地良かった。
 腰の抜けたリリムを抱え上げて、ルチアーノが一言。
「まあ、教皇猊下たっての御希望とありゃあ、しゃーねぇわな。
 ソフィア、どっか適当に座るトコ探そうぜー」
「あ、そうね。確か院内にカフェがあったはずだから、そこにしない?」
「マジで?丁度良いじゃん!」
「わらわはオレンジジュースが良いのじゃ!」
「まだ足りねぇのかお前!?」
 記憶にも残らないような日常会話が、クロードの病室から遠ざかって行く。

◆

「確か…もう一六だよな」
 クロードがヨハンナ…妹のエミリーに聞いた。
 泣き終えたエミリーは先程と比べて表情が柔らかくなっている。涙をしきりに拭ったせいで目の周りが痛かった。
 エミリーに戻って良い。それがきっかけで、身体の力も口調の固さも抜けた。それでも困惑は拭いきれず、作り笑顔がぎこちない。
「覚えててくれたんだ。兄さん」
「当たり前だろ。たった一人の、血の繋がった家族だぜ」
「嬉しい…」
 エミリーは頬を紅潮させてはにかんだ。
「一六かあ…そりゃ、大きくもなるよなあ…」
「…大きくなっただけ?」
「………その……………可愛くなっ、…た」
「ぷっ…!やだぁ!兄妹なのに何恥ずかしがってるのよー!おかしー!」
「…やっと、良い顔になったな」
「あっ…」
 いつの間にか、どこかに引っかかっていた不安が取れて消えていた。
 ああ、やっぱり私の兄さんだ。エミリーの胸が暖かく、はち切れそうに膨らんだ。
「私だって覚えてるよ」
「ん?何を?」
「兄さん、今年で二二でしょ?」
「お、正解。やるじゃん」
「たった一人の、大切な兄さんだからね」
 子供っぽい、満面の笑みでエミリーは答えた。
 教皇ヨハンナ八世はどこにもいない。どこかの街角で見かけてもおかしくない、一六歳の普通な女の子だ。
「兄さんは、…たくましくなったね」
「そ、そうか?」
「頼り甲斐があって、優しくて…約束だって、ぜっ………」
 言葉が途切れて、エミリーはうつむいた。
「どうした?」
 エミリーは首を横に振った。
 儚げな指先が、時折、赤らんだ目の周りを痛めないように撫でていた。
「絶対、や、約束、く……はっ、八年も覚えててくれて………。
 あはは…何でかなあ…?もう、使い切ったと思ったのに。出てくる。コレ」
「エミリー………」
 羽根が落ちるよりも優しく、エミリーがクロードの胸板に顔を埋めた。それでも左胸の肋骨に響く。

「本当に…本当に………ありがとう」

 震えた声が、切なくて、痛みも引いた。
 身体を縛っているベルトがなければ、力一杯抱きしめているところだというのに…ラファエルは本当に余計なことをしてくれたものだ。
「もう、放さねえ。これからはずっと、一緒だ」
「うん…っ!うんっ!」
 エミリーの抱きつく力が次第に強くなる。激痛のはずだった。だが、苦しくはなかった。
「エミリー、お前、よく頑張ったよ。八年も…。
 だから、もうやめにしないか?」
「…え?」

「もうヨハンナ八世なんて演じなくて良い。俺は軍を辞める。
 だから、一緒に元の生活に戻ろう」

 瞬間、全てが冷たく砕けた。
 春の日のような夢心地の時間はあまりにも短く、呆気なく壊れて、忘れていた凍てつく不安に呑みこまれた。
 エミリーが失意に突き落とされたことなど知る由もなく、クロードがあまりに甘美な言葉を綴る。
「国とか国民とか政治とか、もう一人で背負いこむな。もう充分だろ?お前は普通の女の子なんだから、普通に生きて良いんだ。
 これからは、何でもかんでも自分だけで決める必要なんてない。人並みに、他人を頼って、頼られて生きよう、な」
 突然、血相を変えてエミリーが立ち上がった。
「どうした…?」
「それは…なりません!」
 声が震えているが、口調から子供っぽさが消え去った。
「おい、エミリー、一体…!?」
「私はヨハンナ八世です!!」
 クロードの声を掻き消す、ほとんど奇声に近い荒声だった。
「神の子に代わって十字架を背負ったあの日から、私は教皇になる運命だったんです!それは今も変わりません!私じゃなきゃならないんです!
 最初はただの予感でした…。でも、ロンギヌスを手にして確信したんです!
 これは、私が守らねばならないと!少なくとも、次に十字架を背負う者が現れるまでは守らねばならないと!」
「お前………」
「思い上がるな!クロード=スティグマン!
 貴方は決闘に勝った!私に近づけた!
 だから何です!?何もかも元通りになるなんて本気で思ってるんですか!?
 馬鹿にしないでください!
 貴方が考えているほど、八年は短くないのですよ!!」
 ヨハンナは、エミリーの時にも見せたことがないくらい悲しい顔をしていた。精一杯の大声で悲哀を否定して、強がっているようにも見えた。
 その姿が酷く胸に刺さり、クロードは全身の傷以上の苦痛を覚えた。声が出なかった。
 ヨハンナが荒くなった息を時間をかけて整える。崩れた髪形を手くしで軽く直した。
「…すみません。取り乱してしまいました。
 ………失礼します」
 ロンギヌスを床に突き、クロードに背を向けて言う。
「騎士公叙任式は全快し次第執り行います。勲章も授けます。ですが、貴方を騎士団員にはできません。
 あの悪魔は、あの黒い竜はロンギヌスを狙っていました。そんな危険なものを傍に置く理由がありません。では」
 それだけを言い残して、ヨハンナはドアの向こうに姿を消した。
 ミカエルと、二人分の足音が遠退いて行った。

「………………………………何がいけなかったんだよ」
 窓の開いた病室で、味気ない白天井を眺めながら、クロードが呟いた。
「もう………手遅れだったのかよ」
 新しく替えたバラの花弁が、風に煽られて散った。
「クソ……っ!!何でだよ…っ!!
 クソオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオぉぉぉぉぉぉぉッ!!」
 革のベルトを引き千切ろうと暴れても、びくともしない。自分の無力が情けなかった。理由は分からない。だが、エミリーを傷つけてしまったことが、酷く悲しませてしまったことが許せなかった。これでは、何のために騎士になってまで、妹に手が届く距離へ登り詰めたのかもわからない。
 一人になった病室で、喉が潰れるまで、クロードは号泣した。

◆

 病院を足早に立ち去ろうとするヨハンナの後を、ミカエルが同じ歩幅でついて行く。
 珍しく、ミカエルから話しかける。
「よろしいのですか?」
「…何がですか」
 不機嫌な声が返った。
「無礼を承知で、御二方の御話を立ち聞きさせていただきました。
 …尊兄様の御言葉に御応えなさってもよろしかったのではないでしょうか?彼は、猊下…いえ、エミリー様を取り戻すために、今日まで生きてきたのです。それ相応の報いがあって然るべきではないかと。
 猊下に代わる新たな教皇はこのミカエル、心血を尽く注いででも御探し申し上げます」
「…それは、償いのつもりですか」
 ヨハンナとミカエルが同時に立ち止まる。
 ヨハンナは振り返って、爆発寸前の感情を押し殺しながら言う。
「八年前、貴方は私たちを引き離しました。貴方は私から、私としての人生を奪いました。貴方はクロード=スティグマンの人生を、こんな私に縛りつけました。今更、その罪を償おうと言うのですか」
 人々が行き交っていた廊下が急に静まった。ヨハンナたち以外に誰もいない。窓からの日差しが強まる。ミカエルは、ヨハンナの瞳の底をじっくりと推し量っていた。
 沈黙が破られる。
「私は…我らには、こんな下賎な手段でしかロンギヌスを封じることはできません。神の子がこの槍に屈して以来続けてきたこと…今更、償いなどとほざく口は御座いません」
「では何故!?」

「…八年前、猊下を迎えに参りましたあの日、私は尊兄様に『私を倒せ』と言い渡しました。決闘こそが数ある中で、最も早く教皇猊下の御前に立つ手段だからで御座います。
 復讐心でも良い。最後の肉親を失った彼に、生きる目的を与えるために与えた言葉に御座いました。
 しかし、勝たせる気など毛頭御座いません。そもそも、決闘を行うつもりもなかったのです。
 混血の彼が白導教皇庁軍に入隊する。そして、決闘の手続きを通過する。この二つがまず不可能だと考えておりました。
 仮に決闘に挑む頃になれば、彼も世間を知り、身の程を知った男児となるでしょう。力で圧倒し、徹底的に敗北の苦汁を噛み締めれば、エミリー様を取り返すという夢を諦め、別の道を歩むことだろう。…そう考えておりました。
 が、現実に彼は力技で決闘の機会を獲得し、あまつさえ勝利したのです。
 部下からは彼の勝利に反論する者が多く出ておりますが、戦力は均衡。私は、本気で戦うべき時を見誤っていません。
 私は、人という存在を高く評価しております。一見、ただの無力な、誘惑に弱い生き物ですが、我々にはない弱さと強さを持っています。彼は、己の虚弱に鞭打って、己の強壮に磨きをかけ続けました。そして、彼は天使があり得ないと判断した所業を成し遂げたのです。

 私は、彼を認めます。皆が認めるべきです。
 そうでなければ、あまりにも救いが御座いません」

 ミカエルの目は一厘たりとも揺らがない。何もかもを見透かされているような感覚。ヨハンナは根負けして視線を反らした。
「…それが理由ですか」
 うつむいて、ヨハンナが細い声で言った。
 ミカエルは加減しない。
「それ以上に、尊兄様がエミリー様を寵愛しているからで御座います」
 病室の情景が浮かんだ。確かに、クロードはヨハンナを、エミリーを大切に思ってくれていた。
 不機嫌な口元が、達観した微笑みに変わる。
 ヨハンナはミカエルに背を向けて、再び歩み始めた。
「猊下…?」
「何でもありません。…ただ、私が私に戻ることを拒んだ理由と、全く同じというのが少々滑稽で……」
「…どういうことで御座いますか?」
 返事はなかった。

 病院の外では、一〇名の騎士が待機していた。平伏してヨハンナを迎えると、ミカエルごと囲む陣形を取り、議事堂に向かう。
 藪から棒にヨハンナがミカエルに語りかける。
「それにしても、今日は随分と饒舌ですね」
「どうにも、スティグマン公の味方になりとう御座いまして…」
「貴方、それじゃ従者失格ですよ?」
 ヨハンナが失笑する。
 いつもの淑やかで慈悲深いヨハンナ八世だった。

◆

 騎士らを従えてヨハンナは教皇庁を練り歩く。老若男女、役職を問わず、行く先々に擦れ違う人は尽く、教皇を前にして畏敬の念を示した。
 議事堂前に一〇名の騎士らを待機させるヨハンナ。議事堂内、廊下に敷き詰められた、くるぶしまで沈みそうな柔らかい絨毯の感触が足裏をくすぐる。対して、閉めきった空気が胸に重い。
 教皇執務室に着く。歳月を重ね続け骨董の艶に落ち着いた扉の前をミカエルに任せて、部屋に入る。
 行政のためとはいえ、一人で仕事をするには余りにも広い部屋だった。絢爛豪華なシャンデリア、細やかな装飾のテーブルにソファ…質素な身なりのヨハンナには不釣合いな内装だ。
 この執務室は国賓を迎えるためのものでもある。節制に重きを置くヨハンナとしては贅のある装いが不本意であった。が、帝国内領主や外交官を招致しておいて四畳半の部屋に押しこむというのも理不尽な話である。ヨハンナは、渋々とこの落ち着かない部屋で日々の執政をこなしていた。
 ロンギヌスを魔封石製のケースに仕舞う。革張りの椅子に腰掛け、長い溜め息を吐く。
 おもむろに机に頭を落とした。鈍い音が弾ける。
 僅かに遅れて、ヨハンナの額にじんわりと痛みが伝わった。

「…言い過ぎたかな」

 病院で、クロードはヨハンナに「エミリーに戻って良い」と言った。「元の生活に戻ろう」とも言ってくれた。
 確かに嬉しかった。ヨハンナとしても、望んでいるところだ。
 だが、「エミリー」はそれを拒んだ。兄を慕い、兄に思われ続けたエミリーを壊さないために、汚さないためにあえて拒絶した。
 もっとも、そのために取った方法が問題だらけなのだ。
「思い上がるな!」だなんて………きつく突き放しちゃったら、本末転倒じゃないの。
 教皇としての八年間は、年相応の振る舞いだけではなく、対人関係の距離感をも忘れさせたらしい。
 頭を抱えて気落ちするヨハンナ。こんなに落ち込んだのは、ミカエルが自分と兄を引き離した日以来だ。酷く自己嫌悪にさいなまれ、机に山積みの書類にサインをする余裕すら失ってしまっていた。
「何とか…何とか謝らなきゃなぁ………」
 かと言って、言葉を交わすのはおろか、再び面と向かって会える自信がない。合わせる顔がない。ひょっとしたら、面会する資格もないかもしれない。妹である資格もなくしただろうか。ないない尽くしにもほどがある。
 本当、死にたい…。
 ヨハンナは更に頭を垂れた。

 何の解決策も出てこない。どれだけ時間が経っただろうか。頭から何もかもが消え失せて、それすらも把握できていない。
 ヨハンナが何十回目かの溜め息を吐く。泣き声のようなうめき声を上げる。あらかた悩み抜いたが何も思い浮かばず、疲労がどっと押し寄せて来た。顎を机に乗せてもたれかかる。無力感とはよく言ったもので、これに襲われると本当に力がなくなるらしい。
 と、目の前のインク瓶と羽根ペンが目に留まった。
 すっぽり抜けていた頭の中身が、瞬く間に戻って来る。骨抜きになっていた身体が勝手に起きて、引き出しから羊皮紙を何枚か取った。インクにペン先をつけてからようやく、これからすべきことを理解する。

 手紙を書こう。
 兄さんの具合も良くなってきてるし、それに手紙ならまだ素直になれる。相手に向き合わなくても良い。何でこんな簡単で、良い方法を思いつかなかったんだろう。

 今まで様々な重要法案にサインをしてきた。勅書だって出した。だが、それらとはまた違う緊張で、羽根ペンを握る力が強くなる。
「どう書こうかしら…」
 ペン先が白紙の表面を滑り始める。

 拝啓、兄上様
 蝶が楽しそうに花々を渡る季節となりま

 手紙をクシャクシャに丸めて、ゴミ箱に捨てた。
 ヨハンナが小声で呟く。
「何、このカチカチな書き出し…」
 二枚目にペン先をつける。
「兄さん落ち込んでるだろうし…やっぱり、ここは明るく…」

 やっほー!兄さん、この前はゴメ

 力一杯、手紙を破く。耳の先まで顔が熱くなった。
「ありえないありえない…!何よこのキャラ…?」
 端から知っていたかのように各地から送られる調査書や嘆願書を理解し、難解な重要法案の長短を吟味して調印する。時には、自ら立案し文面を作成することだってある。こうした日頃のヨハンナを知っている者が見れば、ただ謝るだけの手紙を書くことに四苦八苦する教皇というものは実に滑稽な画に見えるだろう。
 現に、ヨハンナ自身がそう思っているのだ。
 気を取り直して三枚目に着手する。

 兄さんへ

 この前はごめんなさい。突然のことで言葉が見つからなくて、あんな断り方しちゃったけど、さすがに辛く当たり過ぎちゃったよね…。
 兄さんと暮らすのが嫌だったわけじゃないの。兄さんと一緒に生活できたら、私、とっても幸せだよ。これは本当だから!
 …でも、それじゃあ兄さんは不幸になる。
 八年間、ヨハンナ八世として暮らしてきたわ。ヨハンナ八世としてあり続けるために、色んなものを手に入れた。…色んなものを手放した。
 昔のままだって言ってくれたけど、私、元に戻るには、変わり過ぎちゃったんだ。だから、一緒に暮らしてしまったら、兄さんをがっかりさせてしまうと思う。
 このままが良いの。このままの関係が一番良いの。このままで、ヨハンナ八世とその騎士、クロード=スティグマンのままでいさせて。お願いだから…

「………………」
 胸が詰まる。いっそのこと、兄に今までの所業を洗いざらい吐き出してしまいたい。今までこの身に蓄えてきた汚毒を、兄に全て受け止めてもらえたら、どれだけ楽になるだろうか。
 しかし、それだけは絶対に駄目だ。
 ヨハンナ八世は、世間が思っている清純な者とは正反対の存在である。そんな下賤に腐り落ちた者がエミリーと同じだと、兄にだけは思われたくない。兄の中のエミリーを壊したくない。
 二つの思いがせめぎ合い、時折ペンが止まった。しかしヨハンナは吐露の一線を越えることなく、確実に字を連ねてゆく。
 思いの丈を伝えきれない手紙。届けたい言葉は幾らでもあるというのに、書いてはならない。行き場のない心の叫びは腹に溜まって、嗚咽を誘う不快感を残した。

 羽根ペンの先にインクをつけようとした時、
「失礼致します。猊下」
 ミカエルが扉を開ける。扉を開ける音にヨハンナの背筋が強張り、勢い余ってインク瓶を倒してしまった。折角書いた手紙が台無しになった。
 半ば逆切れのヨハンナは、声を荒げて立ち上がる。
「なっ、なっ、なっ…、何ですか急に!?ノックくらいしなさい!!ああ…もう、インクが…」
 わかりやすい動揺である。判子型のインク吸取器を押し当てる手つきも慌しい。決闘中でもなかなか怯まなかったミカエルが、出所のわからない気迫に容易く押されていた。
 ミカエルが応える。
「いえ、ノックはもう何回も致しましたが…」
「そ、そうですか…。それで、何の用ですか?」
「スターン枢機卿長がお越しです」
「わかりました。ちょっと片付け終わるまで待ってください」

 手紙だったものとインクを片付けて整頓した執務室にギルバート=スターン枢機卿長を招き入れる。ヨハンナはロンギヌスを手にしていた。二人は備えつけのソファに座る。
 ヨハンナから切り出す。
「お久し振りですね。まずは政務復帰おめでとうございます。
 …少し、痩せましたか?」
 ギルバートは教皇庁でも指折りの高齢である。しわとシミだらけで目蓋を閉じればどれが本物の目か判別できなくなるほどだ。元々が枯木か乾物と良い勝負とまで囁かれる骨と皮だけの細身であるが、今日は更に皮までなくしたかのようであった。
 ギルバートが応える。
「ええ、老いぼれに憲兵隊の聴取は少々酷で御座いました。
 もっと若い頃は、毎日のように憲兵隊庁舎へ通っていたもので御座いましたのに」
「ふふ…。ご冗談がお上手ですね」
 ヨハンナが冷ややかに愛想笑いを送った。
 憲兵隊によってギルバートは勾留された。つい六日前のことである。異端審問と死刑囚ペーター=キュルテン隠匿の責任追求が主な目的だった。が、ヨハンナ直々に「二度と私に歯向かわぬよう、出涸らしになるまで搾りなさい」との命令が下ったため、必要以上の処置がなされたらしい。
 もっとも、老体ということもあり、さすがの憲兵隊も本気を出さなかったようだ。やつれてはいるものの、厳格な覇気は衰えていない。
 ヨハンナが続ける。
「さて、本題に入っていただきます。まさか挨拶回りだけということはないでしょう?」
「ええ…まあ。こちらを進言したく参りました」
 ギルバートはそう言うと、懐から羊皮紙を何枚か取り出した。かなり上質なもので、ツタの細密画が施されている。表題には「経済回復案」とある。
 また、税金の吊り上げなんでしょう…。と、うんざりしたヨハンナが溜め息を吐いた。
 童謡と同じく「読まずに食べ」れたら楽だろう。しかし、意見が出たからには吟味しなければならない。教皇就任時から続いてきた堂々巡りを退屈に感じながらも、ヨハンナは経済回復案を読み始めた。

「…これは?」

 確かに税制改正の記述はあった。だが、ただ税率を吊り上げるわけではなく、階級や役職、地域によって細かに変動させる予定とある。加えて極東鎖国群の開国交渉、新大陸への復興支援要請の検討、外務協会の支援拡大、果ては黒導国家群との相互援助案など…。白導保守派の象徴たるギルバート=スターン枢機卿長が提案したとは思えない内容だった。
 かなり興味深い。順調にことが運べば、戦災復興も夢ではないだろう。ヨハンナは書面に釘付けとなっていた。
「いかがですかな?」
 ギルバートが聞く。しかし返事はない。夢中になり過ぎて、ヨハンナは聴覚すら書類に向けているのだ。
 読破まで、静かな時間が続く。

「……………これは…すごい………。まさか、枢機卿長殿がこれを?」
 羊皮紙をテーブルに置き、興奮冷めやらぬ様子でヨハンナが問う。
 ギルバートは、ふとロンギヌスを見る。
「…猊下は、それをお持ちにならなければ、我々にお会いになることもできないので御座いますね」
 見当違いの答えが返ってきた。ヨハンナが目を丸くする。
「猊下は、本来ならば子供であるべき時期。しかし我々大人によって教皇に祀り上げられました。反面、子供が国家首領の座に就いていることを快く思わない連中も多く御座います。
 故に、私どもが猊下に代わって国家の指揮を執ろうと…さすれば、周りも沈黙するであろうと考えておりました。
 しかし猊下は、我々の予想を裏切り、努めて国事を御身につけられていらっしゃいます」
「枢機卿長殿…何を……」
 初耳とはまた少し違う。ヨハンナは既に、反対派の洗礼を受けているのだ。ヨハンナは、ギルバートですら反対派の一人と疑っていたほどである。だからこそ、ギルバートの口からそんな言葉が出るとは夢にも思っていなかった。
「猊下はまだ幼い。教皇であるためには経験も心構えも不足している。それ以前に、猊下にはもっと子供らしくあっていただきとう御座いました。ですが、ロンギヌスに選ばれた以上は教皇でおわし続けなければなりません。
 ならばせめて、政務の第一線を退いていただき、その分は子供としてお過ごしになっていただこうと、無礼を承知で今日まで…謀反に近い所業を重ねて参りました」
「………だったら、一言だけでも…」
 話をしてくれれば、まだ考えたかもしれない。こんな肩身の狭い日々を送らずに済んだかもしれない。だが…
 ギルバートが苦笑する。
「生憎、申し上げて御傾聴なさる内容とも思えませんで…」
 そう。ヨハンナに話したところで、このように後ろ向きの提案を受け入れるはずがない。確固たる使命感を持って、政治に勤しんできたのだ。
 八年の付き合いは伊達ではない。ギルバートはヨハンナをそこそこ理解している。

「それならばと、示威を致して退いていただこうと考えていたのですが…詭弁だったようで御座いますな」

 厳粛なギルバートが、何かをいとおしむ、穏やかな顔になる。
「猊下は、私めに、この老いぼれに御容赦をなさいませんでした。
 そして、無実のクロード=スティグマンに救いの御手を差し伸べられました。果ては騎士として御認めになった。
 貴賤親疎を隔てず、功を良しとし称え、罪を悪とし罰を与える…寒暖の切り替えとでも申しましょうか。これは最早、立派な神聖ローマ帝国皇帝に相応しい御心構えに御座います。
 私は、罰を下さる猊下の姿に聖処女を拝し申し上げました」
 しわとシミだらけの冷たい手が、ヨハンナの柔らかな手を傷つけぬように包む。
 ギルバートがヨハンナの手を自分の額に寄り添えてひざまずく。以前は近寄り難い気迫を放っていた老人だが、こんなにも小さな身体をしていたとは知らなかった。
「金輪際で終いに致しましょう。このギルバート、猊下の御心に従わせていただきとう御座います。
 もうこれからは一人で御戦いにならずともよろしゅう御座います。突然のことであります故、困難かと存じますが…
 どうか、我らを心から御頼りいただきますよう、どうか…!」

「何でもかんでも自分だけで決める必要なんてない。人並みに、他人を頼って、頼られて生きよう、な」
 病院で、兄がかけてくれた言葉が再起する。九〇過ぎの老人に、二〇代の若者の姿が自然と重なる。

 ああ、そうなんだ。
 どんなに厚い壁が阻んでも、向こう側に必ず兄さんは待ってくれている。

 年月に蝕まれたギルバートの手を包み返し、ヨハンナが語りかける。
 全てを許す、聖母の血潮を髣髴とさせる暖かな表情だった。
「教皇となって…これほど、嬉しく思った日はありません。
 お顔を上げてください、ギルバート殿。皆でこの国を復興させましょう。私も、一人より皆さんと一緒に勤めを果たしたいです」
 ギルバートは畏まりながら、ヨハンナに顔を向ける。
「猊下…御許しいただけるのですか?信じて、いただけるのですか?」
「私もまだまだです。全く見る目がありませんでした。
 まだまだ検討を重ねる必要があります。ですが、ギルバート殿のお考えは国と民への慈愛に満ちています。
 こんなに素晴らしい臣下が傍にいたというのに、気付けないでごめんなさい」
 しわを更に増やし、深くして、ギルバートは涙を噛み締めた。
 ヨハンナの手を傷つけまいと優しく包んでいた両手は、知らぬうちに固く結ばれていた。
「勿体ない御言葉に御座います…!」
 手を介して伝わる激情を受け止め、ヨハンナは微笑む。
「ですが、もう二度と『私のため』とは言わないでください。
『民のため』です。わかりましたか?」
「………御意に御座いますっ…・・・!」
 長年の確執が消えてなくなる。苦虫を噛んで終わったとはいえ、兄との再会を果たした。久し振りに人間になれた気がした。

 やり方は無茶苦茶、本来の目的とは違う。それでも、彼女の兄の行動と言葉は教皇庁を大きく動かした。
 兄さんには騎士にする以上のことをしてあげたいと、ヨハンナは胸中に秘め始めていた。

◆

 夜も更け、議事堂から司教と枢機卿の姿が殆どなくなった頃。ヨハンナはまだ執務室にいた。
 手紙に時間を割き過ぎたこと、通常の政務に加えてギルバートから受け取った経済回復案の検討に熱をいれているため、時間が経つことも忘れていた。スタンドライトの薄明かりの下、何十枚もの羊皮紙を床に散乱させて、ヨハンナは知りえる限りの方面からギルバートの案を吟味している。
 長い背伸びを一つ。凝った肩を回す。鈍重になった目を揉み解す。
 振り子時計は二時を過ぎていた。
「もうこんな時間…」
 そろそろ切り上げないと、ドアの前で待ってくれているミカエルにも悪い。そう思って散らかった羊皮紙を片付ける。

 羊皮紙を一まとめにした時、ノックが聞こえた。
「どうぞ」
「猊下、フィリップ大司教がお越しです」
 扉越しにミカエルの声が返る。
 フィリップとは、ギルバートとともに増税を迫ってきた男である。
「…こんな時間に?
 まあ良いわ。入りなさい」
「…失礼致します」
 扉から、小太りの中年男性が現れる。神妙な面持ちで、フィリップ大司教はヨハンナを見つめていた。
「猊下、夜分遅くに御無礼を御許しください」
「構いません。まあ、立ち話も何です。こちらに」
 ヨハンナがフィリップをソファに招く。
 今度はロンギヌスを手にしていない。
「それで、どうしました?」

 フィリップに、ヨハンナの声は届いていなかった。
 瞳に活力がなく、半開きの腫れぼったい唇にはよだれが一筋。夢遊病であると言われても差し障りない。
「…フィリップ殿?」
 フィリップの脳内では、他の声色が同じ言葉を繰り返していた。
 誰の声かはわからない。だが、フィリップは声の主の言葉が唯一絶対に正しいものだと確信していた。

 教皇を殺せ。声がやまない。

 おもむろにヨハンナに飛び掛り、万年筆に見せかけたナイフを懐から出す。
 ヨハンナに、得物はない。

◆

 扉の向こうから鈍い音がした。
 ミカエルから血の気が引く。
「猊下っ!?」
 形振り構わず、剣を抜いて扉を突き破るミカエル。

「ミカエル…?」
 ヨハンナはロンギヌスを手にして、呆然と立ち尽くしていた。
 足元にはフィリップとナイフが転がっている。出血は全くなかった。
 ミカエルがひざまずいて言う。
「失態です…!もっと身体検査を徹底すべきでした…!」
 ヨハンナはロンギヌスを手放して、ミカエルに駆け寄る。
 それほど謀反が恐ろしかったのだろう。何回も経験しているとはいえども、やはり、命を狙われ、命を奪うことは一六歳の少女にとって辛いのであろう。
 ミカエルの肩を掴んでヨハンナが叫ぶ。

「私は誰!?」

「…?」
 予想していた言葉とは違う。謀反を恐れた様子はないが、別の何かから必死に逃れようとしているようだった。
 ミカエルの顔に、淀んだ涙が降りかかる。
「命令よ!答えなさい!
 私は誰だ!?」
「し…神聖ローマ帝国教皇、ヨハンナ八世猊下にあらせられます」

 ミカエルの返事が、ヨハンナの中の線を何とか繋ぎとめた。しかし、ミカエルの言葉だけでは足りない。ヨハンナは狂笑の一歩手前で踏み止まり、何回も自分に言い聞かせる。
「そうよ!私はヨハンナ八世!エミリー=スティグマンじゃない!エミリーは人殺しなんかしない!だから私はヨハンナ八世!ヨハンナ八世なのよ!
 ねえ、ミカエル!?私、ヨハンナだよね!?教皇だよね!?エミリーじゃないよね!?」
「………猊下……………」
「そうだと、言ってよおぉ………!!」
 声にならない声を搾り出すと、それっきり、ヨハンナは泣き崩れた。
 兄の中で、エミリーは人殺しをする子ではない。しかし、エミリー=スティグマンはヨハンナ八世を騙って、数多くの命を潰し、捨てた。
 彼女にとって、クロードの中でヨハンナとエミリーがイコールと結ばれることが、何よりも怖かったのである。

 ミカエルには、ヨハンナをヨハンナとして認め、エミリーを否定することと、ただ抱きしめてやるくらいしかできなかった。
 クロードの言動は、教皇庁を変えつつある。至るところに波紋を呼び、これからも波紋を作るだろう。
 妹と一緒に暮らしたいというささやかな願いを叶えるため、妹を白導の泥沼から救い出すために、自らを犠牲にしようとしてまで戦った。全ては妹のためだった。しかし…

 一体、本当は誰のために、騎士は行ったのであろう。

 教皇は今、泣いている。





BLACK OR WHITE? 6~誰が為に騎士は行く~ 完



[19605] 【ここから】BLACK OR WHITE? 7~意義と理由は波紋する.part1~【三倍希釈】
Name: 縄口圭心◆52f18317 ID:1cf981f1
Date: 2010/06/17 21:20
 小鳥さえずる農村地帯では、キャベツの収穫期を迎えていた。浮かれた陽気に誘われて、畦道にはシロツメクサが咲き誇る。ミツバチやモンシロチョウも花の惚気に当てられて、ひらひらと蜜を集めていた。
 その白と緑の道を、一台の馬車が駆けて行く。朽ちかけた風車と納屋には不釣合いな、厳格で高貴な黒の車体。馬は四頭引き。轍と蹄が土を蹴り飛ばす。
 馬車の上に、それは座っている。
 全身にボロ布をまとっている。成人男性の三倍はある長身でありながら、その体躯は恐ろしく細い。まるで若い一本杉。
 その背後、御者席に、同じく風化しかけたローブを深く被った者が手綱を持っている。
 白――骨。
 黒導の死霊魔術。
「ねえ」
 馬車の中から虚ろな、しかししかと見開いた瞳が外を眺めて言った。
 返事がない。
「ねえ、貴女に言っているのよ?」
「え…ああっ!はい!すみません…」
 人間が流すどんな赤よりも濃い紅の瞳が、おっかなびっくり遅めの返事をした。
 生命を寄せつけない万年氷の青い髪、車内の暗がりに溶ける男性用喪服を着た吸血鬼…アルカ=ティープスである。
 すっかり疲弊した顔をしている。
「ねえ、何で蝶は飛ぶと思う?」
「………はい?」
 もうこれで何回目だろうか。
 神出鬼没。彼女の意味不明な質問で頭を悩ませるのは。
 あまりにどうでも良い。かつ稚拙過ぎて考えたこともなかった。しかしながら、だからこそどこか核心…盲点に触れるような、高尚な質疑だった。
 高尚が過ぎて雲の上。何百年という年月にも耐えられるアルカの頭でさえもパンク寸前で、ただの返事も遅れてしまう。これこそ、彼女の疲労の主たる原因である。
「いかがなさひまひた?」
 たどたどしいが知性を臭わせる口調で、爛々とした目が答える。
「この子、また私の疑問に答えてくれない」
 アルカが、苦笑いで誤魔化す。
「それはそれは…。して、どのよふな疑問で?」
「…貴方も聞いてなかったのね」
 口調は平時と変わらない。だが不思議と、不満なのは明確にわかる。
「申し訳ござひませふ。してご質問は?」
「何で、蝶は飛ぶのか」
「花が眩しく踊るからでふげ」
 もうこれで何回目だろうか。
 支離滅裂。彼の珍妙な回答にまた頭をひねるのは。
 消耗を加速させる、副次的な原因だった。
「じゃあ何で、花は踊るの?」
「今は、春でふから」
「質問の意図を明確化。何で、春だと花が踊るの?」
「…殿下は、春をどのよふにお考へで?」
「質疑応答が逆転しているわ」
「左様でござひまひた」
「それで?」
「春は、恋の季節にござひまふげ」
「だから?」
「花は、恋の喜びを、身の丈一杯に巡らせてひるのでござひまふげ。花弁の一つや二つ、容易く舞ひまふげ」
「何で、花は恋をするのかしら?」
「殿下と同じ理由にござひまふげ」
「旦那様がいるから?」
 爛々とした目が閉じて頷く。濁った鈴の音が、頷きに合わせて鳴った。
「納得。花も恋をするのね。だから、まばゆく踊って、蝶が飛ぶ」
「ご満足いただけまひたか?」
 虚ろな瞳が、首を横に振る。
「蜂が飛ぶ理由をまだ聞いていないわ」
 針の如く細い指が、車窓の外から不機嫌そうに小突いた。
「いい加減にしろ。一体、どれだけ同じ事を聞けば気が済むのだ。これではゆっくり眠れん」
 一本杉の様なそれが、あくび混じりに悪態をついた。
「あら、貴方は何で眠いの?これから仕事なのに、休養も取っていないの?」
 いや、そこを疑問視するのは失礼ですよ!?というアルカの声なき声は空しく、
「…」
 窓の外で、震える指先から黒い煙が燻る。
 が、無駄だと諦めて、彼女の視界から音もなく消えた。
 胸を撫で下ろすアルカ。生物学上は既に心停止、死亡しているとはいえども、これでは心臓に悪い。命が足りない。
 続いて、呂律の回らない弁明。
「議長の職務は多忙を極めておひででふ。今回の件は突発的かつ予測不可能…。休息などとてもとても…」
「納得。彼の仕事は忙し過ぎる」
「でふから、殿下の好奇心猛々しひこと、存分に理解申し上げまひた故、これ以上のご質問はご遠慮ひただきとふござひまふげ」
「納得。でも、最後に一つ」
 屋根の上から、一本杉の心労と苛立ちの溜め息が聞こえた。
「私たちは、何処に、何で向かっているの?」
 馬車の旅は、思ったよりも長かった。と、アルカは後に語る。


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