騎馬民族、満州の原野から日本まで
2010年6月15日火曜日22時16分46秒
韓国 newscj.com ニュース天地 天地日報 キム・ジユン記者
http://www.newscj.com/news/articleView.html?idxno=46981※ 日本語機械訳意訳
資料写真
http://www.newscj.com/news/photo/201006/46981_40285_2017.jpg▲ 慶州天馬塚で発見された天馬図(写真提供:韓国文化財庁)
騎馬文化、北九州に流入した時期は西暦2世紀頃
韓日の歴史学界において、
我が国の馬文化が日本に伝えられた、という理論が引き続き提起されている。
ホン・ユンギ韓国外大教授は『古朝鮮扶余族は古代扶余(古朝鮮の古代満州)から
韓半島まで勢力を伸ばし、南に下ってきた』としながら
『また、すぐ下の海の彼方にある島国の倭国にまで勢力は拡張した』と説明した。
日本の考古学者の三上次男も『日本国家を作った
主体となる大部分は狩猟民族の扶余、すなわち騎馬民族である』としながら
『騎馬民族が韓半島から北九州に流入した時期は西暦(BC)2世紀頃』と話した。
ホン教授と学者の三上、および古書によれば、我が国は本来騎馬民族だ。
騎馬民族は上手に馬に乗って弓を上手に撃ちながら
夫余の地である満州原野を駆けた。
扶余は古朝鮮時代、韓国人たちが率いた広大な国土であった。
その中でも、馬に上手に乗って弓を上手に撃つ人物は朱蒙だった。
今から約2000年前、東扶余の金蛙王(クムァワン)の王宮で
朱蒙(シュモン)は自らの身を守るため、馬に乗って南へ向かい、卒本州に到着した。
ここを拠点に国を建て、国号を「高句麗」と命名した。
これから400年あまり後に扶余、過去に失われた失地を回復することとなる
広開土大王と長寿王が大高句麗時代の扉を開いた。