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韓民族は満州から日本まで支配していた騎馬民族1. 名無しさん :2010/06/17(Thu) 21:45:54 騎馬民族、満州の原野から日本まで 2010年6月15日火曜日22時16分46秒 韓国 newscj.com ニュース天地 天地日報 キム・ジユン記者 http://www.newscj.com/news/articleView.html?idxno=46981 ※日本語機械訳意訳
資料写真 http://www.newscj.com/news/photo/201006/46981_40285_2017.jpg ▲ 慶州天馬塚で発見された天馬図(写真提供:韓国文化財庁)
騎馬文化、北九州に流入した時期は西暦2世紀頃
韓日の歴史学界において、 我が国の馬文化が日本に伝えられた、という理論が引き続き提起されている。
ホン・ユンギ韓国外大教授は『古朝鮮扶余族は古代扶余(古朝鮮の古代満州)から 韓半島まで勢力を伸ばし、南に下ってきた』としながら 『また、すぐ下の海の彼方にある島国の倭国にまで勢力は拡張した』と説明した。
日本の考古学者の三上次男も『日本国家を作った 主体となる大部分は狩猟民族の扶余、すなわち騎馬民族である』としながら 『騎馬民族が韓半島から北九州に流入した時期は西暦(BC)2世紀頃』と話した。
ホン教授と学者の三上、および古書によれば、我が国は本来騎馬民族だ。 騎馬民族は上手に馬に乗って弓を上手に撃ちながら 夫余の地である満州原野を駆けた。 扶余は古朝鮮時代、韓国人たちが率いた広大な国土であった。 その中でも、馬に上手に乗って弓を上手に撃つ人物は朱蒙だった。
今から約2000年前、東扶余の金蛙王(クムァワン)の王宮で 朱蒙(シュモン)は自らの身を守るため、馬に乗って南へ向かい、卒本州に到着した。 ここを拠点に国を建て、国号を「高句麗」と命名した。 これから400年あまり後に扶余、過去に失われた失地を回復することとなる 広開土大王と長寿王が大高句麗時代の扉を開いた。
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2. 名無しさん :2010/06/17(Thu) 21:46:25 | 韓国人が馬に上手に乗る騎馬民族という事実は、 高句麗古墳に記された壁画の騎馬図など、 馬を大切にあつかう様々な絵が証明してくれている。 また高句麗だけでなく伽揶・新羅・百済などの遺物においても見受けることができる。 古代新羅人たちが使っていた様々な馬具の装飾を調べれば、玉虫装飾の馬の鞍、 鐙の他にも慶州(キョンジュ)天馬塚(チョンマチョン)などがある。 ホン教授は『新羅、高句麗、百済とともに、 満州原野を駆けた一つの血筋の騎馬民族である』と話した。
去る1992年には、慶南(キョンナム) 咸安郡(ハマングン)伽揶邑道項里で馬の鎧が出土し、 やはりここでも伽揶人は騎馬民族であるということが確認することができる。 馬の鎧は魚鱗のような四角形の鉄片が、 一方に340余りから構成した鋳鉄鉄鱗で作られていた。 これは戦場に出て行く馬の体に巻いて、 敵の矢や槍剣が刺さらないようにするための馬の鎧だ。
ホン教授は『我が民族は、軍馬を大切にした騎馬民族』としながら 『伽揶古墳で発見された馬の鎧は昔、 高句麗古墳の平南(ピョンナム)龍江(ヨンガン)の 双楹塚に描かれていた馬の鎧と全く同じだということができる』と伝えた。
扶余と韓半島を率いた騎馬民族は、 海の彼方の島国の倭国にまで勢力を広げていった。
実際に、1990年から発掘調査がされてきた、 金海(キムヘ)大成洞(テソンドン)古墳群で環頭の大刀などの武器類、 および甲冑類など、騎馬と関連した遺物と共に、 巴形銅器・碧玉類など倭系統の遺物が出土した。 当時、伽倻と日本が交流していたということが考えられる。
日本の著名な考古学者である故、江上波夫は 『韓半島の騎馬民族が倭を征服して新しい国家を作った』と主張した 『韓半島を経てやってきた北方騎馬民族が日本の大和政権を成立させた主役である』 との説だ。これらは近年においてのみ主張されてきたわけではない。 すでに、江戸時代にも騎馬民族説が提起されていた。 18世紀の考証学者である藤 貞幹(1732年〜1797年)は 『日本人の大部分は百済人である』と主張したことがある。
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