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鳥取

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とっとりの美:県立博物館から 因幡画壇の息吹 /鳥取

 鳥取の美術の歴史を見たとき、18世紀後半から19世紀前半にかけて実力のある画家たちが続々と登場していることは注目に値するでしょう。たとえば、土方稲嶺(ひじかたとうれい)(1741~1807)は、中国から流入した新しい写生の技法を江戸に出て学んだ画家で、黒田稲皐(とうこう)(1787~1846)や小畑稲升(とうしょう)(1812~86)といったその流れをくんだ画家たちを生み出しました。また、江戸時代を通して8代にわたって藩のお抱え絵師であった沖家にも、沖一峨(いちが)(1798~1861)という秀でた画家が誕生し、華やかな画風を展開、彼はまた根本幽峨(ゆうが)(1824~67)という優れた弟子を育てました。さらに、長崎に生まれ、諸国を巡遊し、鳥取藩西館の家臣である片山家に養子入りした片山楊谷(ようこく)(1760~1801)、江戸時代を代表する南画家・谷文晁の弟で、のちに鳥取藩江戸御留守居役の島田家の養子となった島田元旦(げんたん)(1778~1840)も、江戸時代の因幡画壇を語る上で欠くことの出来ない人物です。

 これらの画家たちは、どうしてこの時期、集中して誕生しているのでしょうか。鳥取にみるこの画壇の活況は他藩においても同じように見られるわけではありません。

 その理由をひも解くのに、各画家と鳥取との縁の持ち方が一つのヒントとなるかもしれません。鳥取出身の稲嶺は、江戸や京都で一画家として名声を得たことで鳥取の藩絵師に登用されることとなりました。また一峨は、もともとは江戸の画家として活躍していたところ、鳥取藩に召し抱えられ、沖家七代を継ぎ、沖家の黄金時代を築きました。さらに楊谷は、巡遊先の一つであった鳥取で多くの弟子を作り、その評判を耳にした池田冠山(鳥取藩池田家の分家である西館の藩主)に引き留められたといいます。

 このように彼らは、今で言うヘッドハンティングされて鳥取藩(あるいはその支藩)に登用されており、当時の鳥取藩の文化レベルが高かったこと、また、人を見る目を有していたことを表しています。

 現在、県立博物館では、「楊谷と元旦~因幡画壇の奇才」という、鳥取と深い縁をもった長崎出身の楊谷と江戸生まれの元旦の画業を広く紹介する展覧会を開催しています。2人は因幡画壇の中でもエキゾチックな作風を展開した画家で、楊谷は、京都のエキセントリックな画家・曾我蕭白(そがしょうはく)にも通じる奇抜で力強い作品を多く描いています。また元旦は、現在のアニメにも通じる表現や色鮮やかな世界が魅力となっています。今年は楊谷の生誕250年という記念すべき年であり、また約60点もの楊谷の作品が一堂に紹介される初めての展覧となっています。この機会にぜひ、当時の鳥取画壇の力強い息吹を感じていただければと思います。(美術振興課・山下真由美)

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 「楊谷と元旦~因幡画壇の奇才」 20日(日)まで(7日のみ休館)、県立博物館で。一般600円、学生以下と70歳以上は無料。同館美術振興課(0857・26・8045)

毎日新聞 2010年6月3日 地方版

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