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作家の獅子文六(しし・ぶんろく)は鮎(あゆ)に目がなかった。淡泊な川魚で養生する気はさらさらなく、好物をとことん食す口である。長良川で塩焼き26匹を平らげたのは58歳、胃潰瘍(いかいよう)の手術から半年後だった▼どんなごちそうも、残念ながらのど元を過ぎるまでの短命。古今東西の食いしん坊は、一口の至福をいかに重ねるかに心を砕いてきた。金と時間が許しても、胃袋のかさと健康が美食の夢に立ちはだかる▼さて、「やせ薬」ができるのだろうか。東京大の宮崎徹教授らが、体脂肪を減らすたんぱく質を見つけたという。脂肪を作る働きを抑え、ため込んだ分を使わせる効果があるそうだ。肥満のマウスに与えたところ、人に換算して5週で20キロの減量が確認された▼成人病の予防や治療のほか、やせたい所に注射すれば美容にも役立ちそうだ。ただ、教授は思ってもいないだろうが、飽食のためにこの発見を用いるのは気が引ける。食べては吐いた古代ローマの貴族を思い浮かべてしまう▼人の体は、生きるのに必要な甘みや油脂をおいしいと感じ、貪欲(どんよく)に吸収するようにできている。私たちの遺伝子には「空腹の記憶」が刻まれているらしい。そのくせ、食べ過ぎない本能は脳が都合よく抑え、ついつい太る。美味は罪深い▼江戸前期の儒学者、貝原益軒(えきけん)は養生訓で腹八分目を説いた。〈珍美の食に対すとも、八九分にてやむべし。十分に飽き満(みつ)るは後の禍(わざわい)あり〉。二分の空きは体のため、そして何より次の食事を楽しむためだろう。胃薬にもやせ薬にも頼らない、これぞ正しい食い道楽である。