アメブロで、ご自身をアスペルガー症候群として、その経験から得られた教訓を書いていらっしゃる女性がいる。
今回、そのブログが出版されることになったとかで、まぁ普通に考えればメデタイ話だ。
しかし(俺は以前から読ませて頂いてるのだが)、そのブログには腑に落ちないところが多々あった。
何故なのか、考えてみた。
俺は最近、幼少期の生育環境を重視するようになってる。特に、
「親に、自己欺瞞があれば、それは子供に継承される」
ということが重要だと思う。
自己欺瞞の多くは、親が子供に対して「お前のため、お前のことを愛せばこそ」と言いながら、実は世間体などの「親の期待」を隠しているケースだ。それは「厳しい躾」という形をとるかもしれないし、漠然とした雰囲気だけのこともあるだろう。あるいは「無視(ネグレクト)」という形もそうかもしれない。
おそらくは多くの場合、虐待などと認識されることのない程度の、しかし根の深い欺瞞だ。
そして、子供は本音を言えなくなる。
そのような環境に育った子供の多くが、同一性不安を持つに至る。つまり自分が何者であるのかが不明瞭になり不安を抱えるようになる、と俺は思う。
コミュニケーションに困難を覚え、周囲の人間を怖がるようになる。そのような状況に陥らせた当の親に対する不満を意識していれば、まだ良い方で救いもある。しかし多くの場合、周囲の「冷たく」感じられる人間よりも、(実際はもっと冷たい)「親」との関係に温かさを感じるようになる。
つまり、親の操作に屈服した結果、自分の本音が意識の奥に隠されてしまうのだ。
隠され、抑圧された本音は、それが隠されれば隠されるほど、破壊的な力を持って表面に出てこようとする。
それが、原因不明の感情の爆発であったり、自傷の衝動だったり、希死念慮だったり、各種の心身症的な身体症状や、抑うつ感情だったりする。これが重症の場合は、隠され抑圧された本音が別の人格を形成することすらある。多重人格、解離性同一性障害だ。
これは突飛な理論ではない。
PTSDは、戦闘、災害、レイプなどに関するものだが、長期にわたるトラウマ形成に至る機制は「複雑性PTSD」と呼ばれる。また、フロイト以降の精神分析理論では常識的なことでもある。
アスペルガーに限らず、発達障害という考え方、捉え方は、「親の責任」を隠蔽し続けるのに有効だ。だって、問題は「親のせい」ではなくて「生まれつき」ということになるでしょ。物事を言葉通りに受け止めたから、とか、誤解し易い性格が災いしたんだとか・・・
「それに気づいたから、問題にまっとうに対応できるようになった」、というのなら問題はない。
しかし、最初に紹介した女性の場合でいえば、まず、うつ病、強迫性障害、買物依存症、摂食障害などで苦しんだと自己紹介にある。ところが、それが「発達障害」という診断によって改善されたとは、どこにも書いてないんだよ。それよりも、自分の辿った苦境を是認する方向の日記ばかりだ。暗い過去を消し去り、あるいは敢えて隠そうとしているように感じられてならない。
要は「それで良かった」、「自分なりに頑張った」「乗り越えた」ということしか書いてない。ご本人は、「同じアスペルガー」の人に対しての「励まし」にするため「マイナス面は書かない」ともおっしゃってるが、それじゃぁ発達障害として悩んでいる人を突き放すだけじゃないか?とも思う。励まされるんだろうか。もし励ましを感じたとしたら、それは(俺の考えでは)親や教師や周囲の人間への敵意を隠蔽する後押しをするだけだと感じる。
もしも発達障害というものが存在するとして、その概念からは、「発達障害は、適応すると(心の)病気になる」という言葉があるくらいで、社会に無理に適応しようとすると本人が歪んでしまうものだ。だからこそ療育とか、環境側が患者に歩み寄る必要があるのだ。
知的障害のない自閉が、アスペルガーとか高機能広汎性発達障害とか呼ばれるが、「知的障害がある」ケースを考えてみれば分かりやすい。親や周囲の人間は、その子供が受け入れやすい方法を工夫するのが本筋であって、問題行動は、決してその子供の責任でもなく、かつ親の責任でもないとするだろう。それは多分正しい。
しかし、
知的障害のない自閉というものを仮定してしまうと、そこに多くの他の障害、心に傷を負った多くの人たちが押し込まれてしまうのではないかという気がしてならない。
件の女性も、自身のブログに、親や先生から「努力が足りない」「もっと、ちゃんとやれ」といつも怒られた結果、オーバーワーク気味の努力を重ねることで、やっと、普通のことができるようになった、と書いている。
そういう、本意とも思えない経験が幼い子供の心にどう影響するか?「傷つく」と考えるのが順当ではないか?彼女は、それを自分の生まれつきの性格傾向のせいだと断じている。変わった子供だったから、親も教師も困っただろうし、彼らには何の責任もないと言っているように感じられる。このように、
心ない親や教師の行為を正当化、合理化するのが、発達障害という、今流行りの幻想なのではないかと、俺は思う。
PTSDのような極端な(心的)外傷経験では、悲惨な経験を否定したり、忘れようとする気持ちが働く。記憶を失うことさえ珍しくない。そして、より緩慢な外傷体験でも、同様にその苦痛だった経験を否定したり、その経験を(行為者に代わって)正当化し、自分を納得させようとするのは良くあることのようだ。
前に一度、彼女に直接メッセージを送ったことがあった。「頑張り過ぎではないか?」と心配するとともに、「上手く行ったことだけ書くと、適応できずに苦しんでいる人は、余計傷つくのではないか」という内容だったと思う。それに対して、彼女からの返信では「アンハッピーエンドの結末のものも敢えて書くので大丈夫」というものだった。後日、その「アンハッピーエンド物語」を読ませて頂いたが、結局、表現されているのは「不遇な境遇の中でも最後まで諦めずに前向きに生きる」彼女の生き方だけだと感じた。つまり、
アスペルガーという診断名に一度しがみついてしまうと、自分にできる工夫は表面的な処世術とか、生活の知恵のようなものに限定されてしまうのだ。もしも、心の奥底に根の深い問題を抱えていたとしても、それら一切が無視されるのだ。
発達障害が流行る理屈を見たような気がする。
・深く考えるのはやめよう(悩まない)
・前向きに工夫しよう
・加害者(親や教師)は悪くない(知らなかっただけで罪はない)
つまり、八方丸く収まるのだ。
もうひとつの流行りである「うつ」にも同じことが言える。
・誰にでも罹る可能性のある心の風邪
・抗うつ薬を飲んで、十分に休養をとれば必ず治る
そして、心の傷をもたらした加害者の責任は問われない。
俺のブログに何度か書いたが、職場のパワハラ被害で半年も休職した女性が、新たに俺の部下として復職したが、彼女は医師から抗うつ薬を処方され、休養を指示され、自宅療養に専念したが、一向に良くならず、配置転換を希望した。そりゃそうだ、嫌な上司の居る元の職場に戻れば、具合が悪くなるのは当然でしょ。彼女のような人に「敵を許せ」とか「嫌なことは忘れろ」とか「社会に出たら、それくらいのことは我慢するのが当然」などと思う人も多かったらしい。彼女は負けず嫌いで、スキルもあり、「許せない」から気持ちが収まらないし、「忘れられない」からつらいし、「我慢できるようなものではない」から苦しいのだ。眠れないし、食欲もない、自分は社会に不要なダメ人間だと自分を責める気持ちが高まる。そして、ご主人に八つ当たりして、その衝動を抑えようとしてもコントロールできなくなる。そういう反応は病気ではなく、人間として自然な反応だと思う。
そういう至極まっとうな発想を排除し、隠蔽するのが、「発達障害」であり、「うつ」であると感じる。
ちなみに、俺は本物の「発達障害」が存在することや、本物の「うつ病」が存在することを否定してはいない。
ただ、安易に医者の言うとおり、あるいは自己判断で、そのように思い込むと、迷路にはまるようなものだと言っているのだ。
欺瞞に満ちた「プラス志向」は、人を追い詰める。
そして、プラス志向の人は、必ずしも能天気な性格の人だけがなるのではなく、追い詰められた悲壮な気持ちの人からも現れるのだと感じる。件のブログ主の女性がそのひとりと思う。家庭内で、本音を言うことを禁じられた「犠牲者」が、その加害者の肩を持つようなイメージだ。