「虐待されていないわたしは価値がないという思い込み」からの脱却
わたしが養護施設で職員から怒りを向けられていた理由(記憶の断片から類推)のひとつに、無愛着という態度があったのではないかと想像する。その無愛着な態度が職員の怒りに触れていた可能性はある。・・・変な話だけど家庭育ちの職員よりももっと養護施設の環境に適応している捨てられた児童の態度が、親との愛着を知っている職員をどこか苛立たせていたとは気付かなかった。
だから家庭で育った夫の反応などから類推する極めて個人的なデータを、養護施設で働く家庭育ちの職員へあてはめてみる・・・。
虐待を受けた子は捨てられない為に虐待環境に身を置かざるを得なかった。親の様々な要求に悲しいほど答えようとがんばる。その痛ましさに共感し、追い求めるが故の様々な苦しみに共感し、職員自身がその子らの傷に飲み込まれてしまっているような気がした。
養護施設は確かに無愛着を量産する環境だ。でもそれは同時に養護施設に措置されてきている家庭で虐待を受けた子らにとっては、虐待親からの心理的肉体的引き離しの空間になると思う。このビジネスライクな距離感覚を与えられる事によって家庭から来た子は冷静になり、自分がいかに親によって心理的にも肉体的にも支配されていたかを客観的に考える場になる。
虐待親とだけ対峙せざるを得ない環境下で、捨てられる事への恐れを植え続けられた子らには、全てを受け入れるしかなかった。小さな頃は特にそうだった。養護施設が殊更無機質で人の距離間が遠い事は、家庭虐待の子等にとり、心理的なクッションの役割を担うように思える。
ただ、その環境は同時に養護施設しか知らない子を無愛着なまま切り捨てる事にもなる。
わたしは恐らく児童養護施設の意図的な無愛着な環境下で、どれだけ職員たちの心に潜在している怒りを引き出したのだろうかと想像している。今、わたしとリアル世界で付き合っている人、特に夫の怒りは底知れない。捨てられる事は恐怖に近いのかもしれない。捨てられない為ならば虐待的でもいいと彼は言う。共依存的で抜き差しならない、でも離れる事が難しい関係になりたがっている彼に、わたしは虐待環境を望んではいけないというスタンスを取り続けるつもりだ。
職員の場合はどうだろう。
職員は、本気で自らの育てられ方を把握してほしい。養護施設にいる親から捨てられた子へ怒りを吐き出していないか、今一度、トレースしてほしい。何故なら児童養護施設には親から捨てられ、無愛着になってしまった子らがいる。職員の共感を呼ぶものではないから、無視されがちな、見えない子ども達がいる。
もう一度、捨てられただけの子らにも思いを至らせてほしい。傷は見えない、たんに自分の事は自分でする自立したその子に、時々、怒りの念が生じる時があるなら、その子はたんに児童養護施設へ適応して生きている「だけ」である事を、少しでも知ってほしい。
わたしは
「虐待されていないわたしは価値がない」と思う心の癖があった。
そんな心の癖からは脱却したい。
虐待された事実を持つ子を、虐待されたゆえの存在価値とリンクすべきじゃない。いくら心が引きずられようとも子どもの出来事にレッテルを貼らないで、その事実のみに冷静に対処してほしい。子どもの虐待の痛みを我が痛みと混同しないでほしい。職員は子どもの出来事に引きずられないでほしい。(引きずられている事をせめて自覚してほしい)
職員の心の有り様が施設に住む子どもにレッテルを貼る現実がある。家庭の虐待はそもそも許されない犯罪行為。虐待された子は被害者だ。でもその事実は存在価値とはそもそも関係ない。施設職員の怒りのベクトルは捨てられた子ではなく、家庭で自分を虐待した親に向けてほしい。
ただ、虐待されていない自分は価値がないと思う心の癖、それは、間違っている心の癖。大人のわたしはどこで身に付いた心の癖か想像できる。職員は無自覚に子ども達を差別している。虐待の傷をあらわにしている子ども達を前に痛みを覚えても、たんに捨てられた子には想像が及ばない。
何故なら施設職員も又、かつての被虐待児だったから。捨てられないようにひたすら痛みに耐え続けた子どもだったから。だから、捨てられた子の心理にはあまり意識が向わない。
でも、虐待される間もなく捨てられた子ども達は職員の怒りのゴミ箱ではない。捨てられる痛みを感じる前に捨てられた子どもに痛みの神経が備わっていないと思うなんて、それこそ勝手な思い込みだ。ミュンヒハウゼン代理症候群のように、傷ついた子どもにしか意識が向わない職員たちとの断片的な出来事を分析するに至って、わたしはつくづく考えた事がある。
それは、家庭で虐待を受けた子の傷を施設職員の表現ツールにしないでという事。
今のわたしの養護施設に関する主観について述べてみた。正しいかどうかじゃなく、そう感じた気持ちのままに。
| 養護施設にいる間の問題 | 13時28分 | comments:4 | trackbacks:0 | TOP↑
さすがに悩む
わたしの文は少し断定的すぎるかもしれない。たんなる主観なんだから、もう少しやわらかい表現にした方がいいのかもしれない。後から何度も修正し、よけいにおかしくなったりする。
学術論文には実験とデータと分析の部分が必要だと思うのに、わたしは全て類推なんだから・・・。
斬新な論旨の展開と、既存のあるべき論的から飛躍した斬新な論理がみえるわ。
ん?自分で書いててナンだけど、斬新か?というか、ほんとのところ分からないけどありがとう。
だだ、コダワリを止められない時は、コダワリの理由を突き止めないとダメみたい。これもわたしの心の癖だね。Mariaの文章は簡潔・シンプル・分かりやすい・深い・明晰・資料使いが絶妙・その他。いつも素晴らしいと思っている。そんなMariaから少し進歩したと誉められてうれしい、ありがとう。
眠かったね、ごめんね、ちゃんと寝てね。
| レイ | 2007/07/04 11:45 | URL | ≫ EDIT