健忘する脳と消えてゆくエピソードと断片化 by無愛着女
無愛着な接し方に悪気がない事なんか周囲の人には関係ない。おそらく無愛着な態度が実体としてそこにある限り、周囲の人は傷つきが止まらない。
施設を出た子で結婚しない子がいた。その理由を「結婚すれば生活は楽になるのかもしれない、でも結婚は重たい」と彼女は言っていた。わたしは「いざとなれば別れればいいんだからそんな重たいもんじゃない」と思っていた。人と付き合う事にいちいち一生もののスパンで考える人なんかいるのだろうか?と考えていた。
でも子どもが出来たらそんな事は言っていられない。子どもが出来たら荷を下ろすように捨ててしまうわけにいかない。子どもを作らない事のその理由を漠然と意識して文章化すれば、かつて施設を出た子が言った「重たい」事を出来ないんだという理由につきあたる。
無愛着は治療よりも個人努力
捨てられて無愛着になった人に治療が必要であるか分からない、でも個人の努力は必要。捨てられて無愛着になった人は自分で愛着作りを努力しなくてはいけない。でも、自分の努力を超えたものを感じる時がある。ここまで無愛着がしっかりと強く作られてしまうと、そうでない濃い人間関係を作る自助努力そのものが非常なプレッシャーになり、ウツ気味な気持ちへの誘導になる。
どれほど人から思われても自分は同じ重さの思いを相手に返す術を持たない。その感覚が身に付かなくて個人的資質かと諦めそうになる。日々戦いだ。
そしてもう1つは、健忘してしまう事も無愛着に拍車が掛かる。健忘し覚えられない脳味噌は、特に人間関係を消去していく。その人との熱心な語り合いは、その人と別れたとたんに断片化し、次に会った時にはほぼその人とのエピソードを覚えていない。その人が親しげに「この間は楽しかった」と言う時、そこまで親しそうにされる謂れを感じないので、一瞬ムッとしてしまう。
同じ映画を違う男性と見に行ってしまい「映画のこの場面をどこかで見たことがある、既視感だ」と勝手に解釈してしまうくらいの物忘れ。後に夫から指摘された。
もちろん努力もした。忘れてはいけないからと日記を付ける癖を身に付けた。でもわたしの日記は暗号化されている。登場人物の具体的な名前も出来事も直接表されていない。特に施設時代の日記はそれが顕著で、施設時代の日記を読んでも過去を思い出せない。あまりに詩的すぎる内容に自分でも困惑している。
大人になってからの日記には苗字が出てくるようになった。仕事がらみが多いせいもある。誰とどんなやり取りがあったかを書かないと仕事に支障が出ると心配し、なるべく書いていた。でも今読むと、その苗字に心当たりがない。
健忘する脳味噌と自助努力
無愛着は心理だけじゃなく、脳も無愛着な働きをする。子どもの頃不必要と断定してしまった項目(固定された人間関係、愛着関係など)を、これから先、自分の脳が必要な事としてインプットされてくれるかは分からない。
「この人を覚えるべき」と意識が命令しても脳の方は容易に応じてくれない。又無理に命令し続けると、その時の不快感と共にその努力している状況の方を優先して覚えてしまうので、努力そのものを拒否するようになっていく。そして全部投げ出したくなってしまう。
それでも努力すべきだろう。無愛着を治す事は個人努力と周囲のたゆまぬ忍耐におうところが多い。又無愛着な人間が希少な為、周囲に思い当たる人がいない。汎用されてほしい努力の為のワークが見つからない。
無愛着が治療項目として広く認知されていない以上、無愛着を治すのは個人的努力なのだ。まだまだ誰も知らない話なのだと認識している。子ども時代の全てを掛けて無愛着になったのだから大人時代の全てを掛けて修正しなくてはいけないのだ。
・・・・
・・・ただ「つきまとったあげくに呪い殺すくらいの情熱的な女」になる必要は感じない。だから夫の要求には応え切れない。「呪い殺す=情熱的」と捉える彼の感性と憧れの女性像を聞かされるとさすがにちょっと、そこは違うんじゃないかと思うのだ。でも無愛着女を妻にした事の影響かも知れないとも思う。まずは、ともかく平均的な愛着を目指そう。わたしはストーカーになりたいわけじゃないから。
| └ 愛着障害・無愛着 | 06時57分 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑