「誰もいない事を寂しがる気持ち」を後付けする作業
「寂しがらない女は最低だ」と夫が言うので
「しつこく付きまとわれた上に呪い殺されるよりは良いでしょう?」と答えたら
「それくらい強烈に愛されてみたい」と彼は言う。
わたしは人に固執する機能が構築されていない上に、愛着と固執の論法で挟み撃ちにされると逃げ場がない気がする。わたしが今結婚生活から逃げ出していないのは微妙なバランスの上でコントロールを保っているからであって、愛着が育ったのとは違う。ただ、愛着は育ってはいないけれど夫との関係性を考えたなら、今、急に行方知れずになる事が大変迷惑を掛ける事くらいは理解できる。それに彼は何よりも善良な市民で、わたしの身の上は常に安全である。だから逃げ出す根拠もない。こういうのを世間では「しがらみ」と表現するのかな?と想像した。
寂しがらない女が寂しがる女になる事は難しいかもしれない。それと同じように寂しがらない児童を寂しがる児童へ育てていく事は大変な偉業とすら思える今日この頃。愛着付けは親から捨てられた施設の子にとっては後付けなので、最初の人生で「この環境下では必要ない事」として身に付けずにきた事を、どう「昔はともかく今は必要な事」と位置づけられるだろう。
大人のわたしが考えに考え抜いても、人生の初期パターンとも思える「自分らしく思える環境」へ逃げ戻りたくなる。誰もいないけれど誰もが適当に「がんばれよ、応援してるぞ」と声を掛けていき、自分も相手が誰であろうが「ありがとうございます、がんばります」と答え、そのゆるい関係性の中ですごくその辺を適当に過ぎ去ってきてしまった。
今寂しいという夫は寂しくない環境を知っている。でもわたしも又寂しくない環境しか知らない。
2人は共に寂しくない環境で生きてきた。彼は固定された親との関係の中で生きてきたし、わたしはスクランブル交差点のど真ん中で生きるような人とのすれ違いの中にいた。それが日常だった。
でも2人はあまりに違う環境で育った。わたしが物心付いた時にいた施設という環境は、家庭で虐待を受けた子にとって親との離別というトラウマ体験を付加される場所。家庭の子は虐待の傷とは又違い、今度は施設入所という体験が新たに傷となって心に残る。わたしにとって誰もいない集団生活は傷(非日常、エマージェンシー)ではなく日常だ。
寂しくない女の取り扱い方は放置に限る。でも、家庭育ちの夫は絶えず関わられて生きてきたので交流を絶えず求める。大人だから寂しいなんて感じないだろうと高をくくっていたら、それは大きな間違いで、大人でも寂しいという気持ちを持っているらしい。
常にあり続けた彼は絶えず失う事を恐れている。
常に誰もいなかったわたしは失う恐怖を体験していない。
無愛着は自分自身は傷を負わないが他人を傷つける。人への関心の無さを関心を持つようにしなければ子どもに対しても関心が持てないままとなる。訴えて求めて何とかなる世界ならとっくに何とかなっていたと思いかけ・・・これいじゃいけないと考え直す。
これのくり返しだ。Maria・・・「人は1人で生きてはいけないけれど、1人で生きて来てしまったらもう1人で生きるしかないのか」とも思っちゃうよ。でもね、自分を動かしているOSを再インストールしたい時がある。無愛着はこの国ではまだまだ一部でしか問題視されていないから、当事者も暗中模索な状態だと思った。
| └ 愛着障害・無愛着 | 09時32分 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑
小休止しながら
Maria、おはよう。
心の生活習慣病だという事は確かにそうだね。子ども時代の全てを掛けて無愛着になったのだから、大人時代の全てを掛けて修正していくものだと思う。
養護施設では無愛着の為のケアは行われない。いや、違う。無愛着者が量産されるのだ。社会的弱者としてスキルもなく社会へ放り出されるのに、さらに無愛着では最低限度の生活を生きていく事すら困難だ。
| レイ | 2007/07/03 07:02 | URL | ≫ EDIT