「絆のある世界」がもたらす非日常感覚に関する整理
日常と非日常について軽く分類
日常: 誰もいない世界、固定されない人間関係、せつな的、流動的、暫定的
非日常:固定された相手がいる、固定された相手が善良である、規範がしっかりしているなど
えらく乱暴だけど上記について「わたしが日常と感じる事柄」は過去の時代に身に付いたものであり「わたしが非日常と感じる事柄」は今現在わたしが、絆作りを成功させる為に構築&獲得しなくてはならない環境であると考えている。
相手を傷つけた感がない事
絆相手との関係がとても善良で優しく*1今まで扱われた事もない言葉の声掛けや接し方であるにも関わらず、わたしの場合は8年もの間、彼らを「非日常」と捉える感覚がありつづけている。
彼らが側にいるのに傷つけてしまい、これでは(無愛着)いけないと反省し歩み寄り、良好な関係を続けそうになった時に、強烈に「自分らしく感じる世界観」へ戻ろうとする衝動へ駆られ、さっきまでニコニコ話を聞いていたのに急に不機嫌な気持ちになり、せっかくのあたたかい雰囲気をぶち壊してしまう。
そして怒られ反省し
多くの人はこの時点で無愛着者とまともに会話する気も失せると思う。人は愛着を示してくれる相手に親密の感情を持ち気持ちを共有できるそうだ。でも無愛着な人はその感情の共有をとことん排除する面を持っているので相手の人の傷つき度は尋常じゃない。しかもそのような世界を日常と感じているのだから、当人は何故相手がそんなに傷ついているのか分からない。
でもほんの少し前まで優しく楽しく接していた相手から急に冷や水を浴びせられ、当人にとっての対象者である親(親的役割り含)や夫や友人は奈落の底へ一気に突き落とされた気分になるのだと表現する。賽の河原の石積みとWolfが言うのもそのためだ。
明らかに良い環境の変化もストレッサーとなる
でもどうして絆のなかった人に絆相手が出来てもうれしいばかりとは限らないのだろう。わたしの感じ方をトレースすると、まず、ストレスというものを単純に考えれば客観的に好ましい環境の変化であったとしても、当事者にとっては「非日常への移行に伴うストレス」を感じてしまうという事実がある。結婚や新築の家を建てるなど、外から見て良い環境の変化もストレスとなりえる事から、単純に環境の変化に適応する作業そのものがストレッサーになるのだ。
又、養護施設の世界観を日常の感覚として携えているわたしは、現環境への適応努力を迫られているのは自分ばかりという怒りへ直結し、適応努力を必要としない夫などに対して、これまたわたしだけが過去の育ちを拒否されているように思え、彼に対して一方的で理不尽だという気持ちになる事もある。
養護施設で身に付いた自分にとっての三次元的なスケール感覚は、なかなかしつこいもので「わたしらしく感じる事と一体化」している。子ども時代に世界の中の一番小さな空間である自分を取り巻く養育環境(わたしの場合は養護施設)を捉える為に身に付けてきた、そしてそれが子ども時代の育ちの中で構築されていったので丁寧に認知作業をしている。
固定された親との連続した密着を経ずに、集団の中をひとりで渡り歩いているのが自分らしさとうけとった過去の世界観が、それを「わたしの日常」という認知へカテゴリ分けしてしまった気がする。
そして子ども時代は早や過ぎ去り(里子などにとっては施設時代は過ぎ去り)新しい環境を非日常と認知するのじゃなく、日常として認知しなければならなくなった。
自分側も特に出会ったばかりの頃は適応への努力をするが、やがていっぱいまで伸びたゴムのようになり、ある日反動が起こりパチンと過去の感じ方へ引き戻されてしまう。それがあたたかい交流を破壊する心の動きへ繋がり、又1から努力をしなくてはならなくなる。新しい環境へ適応するのを拒む力が働く為だ。絆を作る努力をしている自分の状態に驚き「ハッと我に返る」気がする時もある。
解釈の書き換え作業
そこで少しずつ努力目標も固定化させる必要がでてきた。
此処は「固定された人間関係を作る場所」「絆を作る場所」「固定された場所に住み続ける場所」
この人は「親密さを示しても困らない相手」「一生というスパンを視野に入れる相手」
無愛着というキーワードを簡単には上書きできないとしても、自分の気持ちの動き方に対してもう少し整理し、文章化し、そうする事で近しい人を無自覚に傷つける事を避けられると思う。
そうそう。
これら記事は汎用性があるわけじゃなく個人的なものを元データとしています、念のため。
*1 説明の必要はないかもしれないですが、ソウルメイトも夫もわたしにとり、善良で優しく規範がしっかりした人々なのでその出会い自体にも驚いている次第です。
| └ 愛着障害・無愛着 | 10時14分 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑
自分の知性は低くて哀しくなるよ
Maria、掻いても掻いても頭蓋骨の外から脳味噌を掻くようなもどかしさを感じる。
「まだ整理できてないなあ」とこの親記事を見ると少し思う。わたしはWolfさんから「今更感」という感覚を持っている事も指摘されたの。けど、やはり今更感がまだピンと来なくてね。
雑踏の中を誰も対象者がおらず1人生きる心理が施設の要養護児童の心理パターンとして定着している事も、今改めて考えると「施設」というよりも「孤児院」だという気持ちに近いの。
「施設」という単語はわたしの中では、もっと目的意識がある。○○施設、△△施設、というように本来は目的意識を持ったものだと思う。なのに単に問題ある子どもを集めて放置しているだけ。児童養護の目的を持った施設にすらなってない。いえ、家庭虐待児童の緊急保護場所にはなっているけれど、ケアや治療施設にはなっていない。だから施設内暴力はあり続ける。
わたしの場合も、親が育てない=捨てたのだから「孤児院」ならばすんなりと整理が進むのに、被虐待児も虞犯もありとあらゆる問題を持った子がいる児童養護施設にいたことが整理を少し難しくさせている。
養護施設という存在が要養護児童が孤児として認識する事さえも阻害していると感じる・・・。ああ、うまく言えない、もどかしい。
もう1つの心の癖は、日本語?の表現の中の1つの部分を意味のきちんと通じる単語として認識させようとがんばりすぎる時が多い。それに疲れて考えられなくなることがある。
施設という言葉だって、単に施設としてスルーすれば良いのに、そうはいかない、施設という自分が本来持っているイメージがあって、それが今一般社会で頒布されて表現されている「それ」と共通と思えない。
こういう言語的な遅れ?に伴うかと思われる反応も、整理作業の遅れに繋がっている。わたしは知性は低い、ごめんね。でもがんばるけれど。
| レイ@まだ整理できていない | 2007/06/24 06:56 | URL | ≫ EDIT