10月6日、学(まなぶ)の葬儀が滞りなく終了したことを御通知致します。
葬儀は仏式で行われましたが、式の中に特別に時間を設けていただいて、簡単なコメントのあと、10年前、まなぶが12歳の時に弾いたピアノ曲のテープを流しました。曲はベートーベンのソナタ「悲愴」第一楽章です。その当時は年端もいかぬ子供にベートーベンとは、おこがましい、というか恐れ多いというか、そんな気もしていたのですが、考えてみると、その曲をきっかけとして、短い生涯であったにしろ、まなぶのその後の方向が決定されたような気がしています。
発病の時に手掛けていたのは、同じベートーベンの「テンペスト」と呼ばれる17番ニ短調のピアノソナタでした。この曲に対しては、まなぶの思い入れは、かなり深いものがあり、多分一年計画でモノにしようと頑張っていたと思います。
但し、それも半年目にして放棄せざるをえない羽目になりました。第2楽章は全く手をつけておらず白紙の状態で、第1楽章は半分程の仕上がりのまま、然し、第3楽章は、ほぼ仕上がっており、もう2度3度のおさらいでテープに入れようか、という段階に達していたと思います。---そんな事でプロの演奏家の弾いたその第3楽章を、列席の方々に聴いていただくことで、まなぶの無念の気持ちが少しでも軽減されるのではないかと思い「悲愴」に続いてテープで会場に流させてもらいました。そして又、その曲を父親の私から亡き息子へ贈る「鎮魂の曲」とさせてもらいました。
夏の暑い日、上半身裸になって、凄まじいとしか言えないような顔つきでピアノを弾いていたまなぶの姿が、現在も私の目に焼き付いています。この曲に関しては誰が弾いているにせよ私の耳には、まなぶが乗り移って弾いているとしか思えないような心境でもあります。
入院時、ピアノが弾けなくなるので右腕には点滴用の針を刺さないでくれというまなぶの病院側への哀願がありました。当初の頃は勿論その願いは聞き入れられていましたが終末近くには、それが許される状況ではなくなり全身いたるところに容赦なく無情に針は次から次へと突き刺されていったものです。その時々の、まなぶの胸中はどんなものであったか、それを察するにつけ私の気持ちは深く大きく今でも痛み続けています。
9月中頃、意識に混濁が見られるようになり、やがてそれも途絶え、完全に意識を失ったまま十数日後に、まなぶはねむるようにして長い旅路につき、私の許から去っていきました。
葬儀では、読経の合間にまなぶの創った「38万キロの虚空へ」という曲のテープを流し続け、今はもう苦しみから開放されて、のびのびとピアノが弾けるようになっている筈だと思い38万キロの彼方へ旅立ったまなぶの姿を、心の中で、じっと見据えながら静かに葬儀を終了させていただきました。
以上、略式ではありますが葬儀終了の御報告と私の心境の一端をお伝え申し上げました。
1992.10.12 斎藤 彰
※なお同封の弔辞は故人の勤務先であった会社の社長さんのものであります。合わせてお目通し下されば幸甚であります。
今は亡き 斎藤学君に対して株式会社システムサコムを代表致しまして謹んで哀悼の意を表明致します。
学君が、当社にアルバイトととして入社してきたのが彼が高校時代の頃でした。とても真面目でおとなしそうでしたが、どことなく熱意と自信を感じさせる高校性だったと記憶しています。
それから約5年間コンピューターミュージックの担当者として活躍してまいりました。学君は、正味3年間の間に実に2000曲以上の作曲をこなし20タイトルのコンピューターパッケージを世に送り出してまいりました。その中でも1990年には、東芝EMIよりパッケージタイトル「38万キロの虚空」を全国のレコード店で発売いたしました。又、電子機器とコンピューターミュージックの橋渡しといわれるMIDIインターフエース、これを駆使したパッケージソフトを担当したのも学君でした。当社が日本でどのソフトハウスよりもいち早くMIDI対応ソフトを販売出来たのもその成果の賜物です。
学君の天才的な才能は、目を見張るものがありました。1年目にして早くもミュージックのサコムと言われる程当社は、ミュージックでは有名になりました。このように学君のミュージック業務を通して会社の発展に貢献した業績は上げれば枚挙に暇がありません。学君には本当に感謝致します。
音楽をこよなく愛し、片時も音楽から離れる事のなかった学君、コンピューターを友にし、作曲を職業に選び、そしてミュージックエンターテナーとして活躍した日々の実感は、君の一生の想い出として胸の中にしまわれただろうか。もしそうだとしたら私達の心は幾分晴れる気が致します。
学君、君の一生は無念ながら終わってしまいました。これまで書き連ねた素晴らしい曲をこの世に残していってしまいました。でも私達は、心より祈っています。今度こそゆったりとした充分な時間の流れのなかで、もっともっと素晴らしい曲を思う存分創れますようにと。
学君、さようなら。心から御冥福をお祈り申し上げます。
平成4年10月7日 株式会社システムサコム 代表取締役 伊佐 弘
最初で最後になった斎藤学作曲集CD(東芝EMI)「38万キロの虚空」
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38万キロの虚空 302件(2007.07)
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高校2年、及び3年、二度、ウイーン国立音楽大学に短期入学、ピアノと作曲を教わってきた。
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(2008.03)
「ピアノソナタ第31番変イ長調 ベートーベン」 について
〇ベートーベン晩年に創られた三つのピアノ.ソナタ、30番、31番、32番、それらの曲に共通して流れている中身を一言で言えば「枯淡の響き」だと聞いた事がありますが、加えて言えば「哲学的な深さ」「無限の思索による結晶」「瞑想・思惟の芸術」...etc、そんな事が言えるかも知れません。「運命」とか「熱情」とかで表現された、激しくダイナミックな曲の動きはここには見当たりません。観念的、内省的、そして抽象的、などなど、と、後世、加えられた解釈で言われるように底知れぬ何か蒼茫とした重い存在感を持つ傑作です。
〇31番の曲は他の2曲と全く同じ評価が下されています。違っているとしたら、この曲は従来の形式からはかなり逸脱しているので、楽章の区切りがはっきりせず、昔の解説では全体で4楽章だとなっているのに、現在では最後のフーガを3楽章の中に含めて全体として3楽章と明示してあります。因に、かってのLPレコードのラベルには3楽章の表記がしてあるのに、ジャケットには4楽章と書いてありました。混乱していたのです。
〇第3楽章の途中に出てくる旋律は、ベートーベン自身が書き入れた通り、変イ長調のパートですべての者は「ここで涙する」と言われるように、確かに悲痛きわまりないメロデイで、やりきれない哀しさを感じます。ベートーベンは当時極端な難聴に取り付かれ精神的肉体的にどん底の状態にあったわけですから、その苦悩の反映がこのメロデイになったと思われています。
〇最初のウイーン行きで、学は若さにまかせてこの曲を引っ提げて偉い先生の前で弾いたとの事です。、勇気がある、と誉める以前にその無謀さに呆れ返りました。
然し、それはそれ、今更それを云々しても仕方がありません。ウイーンの風に乗せて、この31番がヨーロッパに流れた小気味良さは学と私が共有出来る想像上の数少ない歓びになっています。
〇二度目のウイーン行きでは、ランクを下げ、10番を弾きこなして持っていきました。10番とは申せ、それがどれ程の高度な曲か、知らないのは当人だけでした。先生の評価はどうであったのか、こちらから聞く勇気はついぞ湧かず永久に分からずしまいで終わりになりました。
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ベートーベンピアノソナタ17番「テンペスト」 41件
(2008.03)