2009年12月02日

コミュニタリアニズム批判

・コミュニタリアニズム

バタリアンよりも根本的な所からリベラルを否定しにかかってきた
第二の批判勢力がコミュニタリアン(共同体主義)である。
中にはリベラルとコミュニタリアンは実は対立していないとする人もおり
実際コミュニタリアン自身がそのように言う場合もあるが、逆もまた然りであるので
ここではとりあえずは対立するものとして扱う。
また自分は「リベラル・コミュニタリアン」であり政治的立場は中道左派だと
自称するコミュニタリアンも、その主張を聞いてみれば
リベラルとは相成れない程に遠いものである事が少なくない。
その意味では私はリベラルとコミュニタリアンは実は対立していないという見解には
あまり賛同していない。コミュニタリアンはその思考の根底からしてリベラルと相成れないものを備えている。
ただしリバタリアニズムの項と同じく、妥協できる箇所、
同意可能な箇所についても、あれば積極的に見出していきたいと考えている。

しかしコミュニタリアニズム(長くて面倒なので以下日本語)とはそもそも何であるのかと改めて考えると
実はどうにもよく分からない、分かりにくい思想である。
経済的には社民主義に近く左派的であり、それ以外に関してもリベラルの枠内にあると説明されるが
私見では共同体主義者は人格的精神的自由に関してはリベラルとは似ても似つかない保守的な主張をしている事が多い。
人格的自由と経済的自由で右左を判別する私の方法から言えば、共同体主義は
二つの自由を共に尊重しない立場という事になる。(ただし私において経済的自由を尊重しない事はむしろ善い事である)
この意味では新しくない方の保守主義と同じである。

また別の言い方をすれば共同体主義は自由を軽視し、平等を尊重する。
これは一部の社会主義者にも似ている。そして自由を徹底的に追求するリベラル、リバタリアン、アナキストなどとは
犬猿の仲であろう事が想像される。実際共同体主義の批判はリベラルにだけ向けられたのではなく
リベラルと喧嘩していたリバタリアンにも向けられたのであり
その意味では共同体主義はリベラルとリバタリアン共通の敵とも言える。
リバタリアン「にも」どころか、共同体主義者や論争の解説者によっては
共同体主義の批判の大半はリベラルではなくリバタリアンにだけ当てはまり、リバタリアンに向けられたものだと
される場合もある。繰り返すように私個人は共同体主義の主張は十二分にリベラルにも喧嘩を売るものだと解しているが。

では共同体主義がリベラル・リバタリアンのような自由主義者、個人主義者に対して
ぶつけてきた批判とはどのようなものだったのか。キーワードとしては
負荷なき自我、歴史主義、伝統主義、共通善、シティズンシップ、参加民主主義、多文化主義などの概念が挙げられる。
共同体主義は歴史主義・伝統主義・保守主義的な観点からリベラルやリバタリアンの価値概念、正義概念、自我観といったものを
批判するのである。加えて共同体主義がその最大の価値基準、こう言ってよければ彼らなりの「正義」として置くのが
「共通善」と呼ばれるものであり、リベラルやリバタリアンが認める善の多様性を批判する。
また政治参加は人間の本質的な喜びであるはずだとして人々が市民として積極的に民主主義に参加すべきと説く。
加えて市民として相応しい判断力や徳を備える義務があるとも言う。
また多文化主義とは世には多様な文化、共同体があるべきであり、
それらを普遍的なるもので一色に染め上げようとする事は許し難い暴力だとする考え方である。
既述の歴史主義・伝統主義・保守主義的観点からそもそもそういう普遍的なもの自体が存在しないともされる。

さて順々に一つずつ検討していってみよう。

最も頻繁に挙げられると思われる自由主義批判、個人主義批判こそが
「負荷なき自我」批判であるが、これは共同体主義者の常套句であると同時に
保守主義者や伝統主義者の常套句でもある。先に挙げたキーワードの最初の四つはセットのようなものであり
彼らが批判する負荷なき自我、負荷なき善の代わりに来る理想的な基準こそが共通善である。

彼らの言い分はこうだ。リベラルやリバタリアンといった自由主義者・個人主義者が想定する人間は
抽象的で非現実的な負荷なき人間である。それは現実の歴史的文脈、伝統、共同体から浮き上がった
裸の個人、アトム的個人である。そういう人間は実際には存在しないし、そんなものを想定して
作られた契約論的な正義論自体が下らないおとぎ話なのであって、そのような正義には何の説得力も有効性もない。
人間は全て社会的な、共同体的な存在なのであって、誰もが共同体の中で生まれ共同体の影響を受け
共同体的に自我を形成する。そのような自我観を持ってこそ正しい負荷、正しい責任を負う事ができ
それが正しい正義、正しい自由をもたらす。

さて共同体主義というのが大体どのような考え方をする立場か分かっただろうか。
しかしこれまで多くの思想や正義論に触れてきた我々にとってこのような共同体主義の言い回しは
もはやそれ程珍しいものにも見えないだろう。実際「負荷なき自我」という用語自体は
共同体主義が生み出したものではあるが、全く同じ事は大昔から保守主義者や伝統主義者といった
右翼や、さらにはアナキスト、マルクス主義者といった左翼にも散々言われてきた。
だから我々はこれまでも似たような考えを検討してきたし、私は既にその批判をこなしてきた。
こうして見ると共同体主義とはやはり単なる保守主義なのではないか、という気がしてくるが
既述のように左翼にも共同体主義者はいるのでそれは暴力的な決め付けという事になる。
というより、共同体主義が本当に多文化主義を採用するなら所によってその道徳は変るはずである。
その意味では、普遍主義に反対するという点を考えても共同体主義は私が本書で
まず最初に退けた相対主義の要素も備えていると言えるかもしれない。

さて、共同体主義からの負荷なき自我批判に関しては二つの異なる論点から応答する事が出来ると思う。
一つは「そうですね」と答える事。もう一つは「そうでない事に意義がある」と答える事だ。
前者はリベラルが共同体主義に対して自らの非を認め折れるような降伏宣言とは異なる。
むしろ厳密には「そんな当たり前の事は言われなくても織り込み済みだが」というのが正しい意味である。
あるいは「確かにその指摘は事実ではあるが、それが何か」と言えばさらに分かりやすいだろう。
後者はあくまで共同体主義の自我観に抗うものであるが、この場合も共同体主義の自我観が事実に反していると
言うわけではない。共同体主義の自我観、即ち、人間は全てある特定の共同体の中で共同体の影響を受け
共同体的に自我を形成するとしても、あえてそうでない自我を想定してあえて非現実的な契約論の論理から
あえて普遍的な正義を構想する事に意義がある、という事だ。それは私が一章で契約論擁護のために使用した論理に近い。
というより同じものである。

展開していこう。何故共同体主義にあれ程に惹かれる人間が多いのか私にはなかなか理解できないが
共同体主義はまず多くの人の実感に沿った人間観を取っており、さらにそれを根拠に
彼らに馴染みやすい道徳だけを肯定し、彼らに馴染まない道徳、発想や行為を排除する。ここが受けるのではと思う。
今の批判は的を外していると思うだろうか。そう見えるならまだまだ教養と創造力が足りないのだ。
言うまでもなく既に挙げられた諸性質だけで、共同体主義は一章で散々批判したような保守主義などと
全く同一の問題を備える運命にある。共同体主義はその本質上必然的に人間のあるべき自由を抑圧する事になるのである。

だがおかしいではないか。共同体主義は私が言うような反自由主義のファシストまがいの悪思想であるはずがない。
共同体主義はもっと寛容な思想であるはずではないか?しかも多くの共同体主義者は
自分がリベラルデモクラシーの枠内を出ない事を強調し、決して共同体という全体のため個人を犠牲にするような
全体主義でないと抗弁する。自分はあくまで左翼であるとすら強調する。
そうでないと強調し抗弁するという事はしばしばそういう理解をされるという事だが
そういう理解をされるのにはそれなりのわけがあると言える。確かに共同体主義はしばしば多文化主義という
限りなく寛容的な政治的立場を同時に採用している。実は大半のリベラルも条件付きでそれを採用する。
一体どこのリベラルがリベラルの名札をつけながら、特定の文化や特定の人種を軽蔑し、破壊し、征服したり
同化したりする事を望むだろうか。多様性への寛容はむしろリベラルが守ってきた徳である。
無論それはリベラルの専売特許ではない。では共同体主義は自身が想定するほどに寛容的な思想であるのか。
私は否と言っている。そんな事は我々の近くに現に存在する共同体主義者が一体何を言っているか
リベラルやリバタリアンが自由権を行使する時、それにどれ程に文句を言い、どれ程にその自由を制限しようとしてきてるか
これらを考えればすぐ分かる事である。彼らの何が寛容なのか。彼らの何が多文化主義なのか。
彼らの何が反普遍主義なのか。

これは簡単に分かる事だ。リベラルはある種の普遍主義、絶対主義を確かに採用しているが
その勇ましい名称の割りにひどく寛容的で柔軟な発想をする。普遍主義と相対主義は真っ向から対立する主義であるはずだが
リベラリズムはいわば最も相対主義に近いギリギリの地点で普遍主義を唱える立場だ。
もっと言えばリベラリズムとは多様な価値観、多様な善がそれぞれに良く、それぞれに尊重されるべきという
相対主義的な理念を守るために、多様な善を共存させるための普遍的な正義を考える。
対して普遍的なものはない。絶対的なものなんてないと言う共同体主義は一見普遍主義などよりも
ずっと謙虚で、従って寛容的に振舞いそうに見える。だが実際はどうだろうか。
同じような反普遍主義は保守主義者や、それがさらに悪化した長所を発見するのも困難なほどの種類の右翼にも
広く採用されるが、果たして彼らはそんなに寛容的だっただろうか。自分の主張に対して、自分の信じる道徳に対して
彼らはそんなに謙虚だっただろうか。

いや、保守主義や共同体主義、その他右翼は常々、多様な価値観や個人の自由といったものには
不寛容であってきたし、常々伝統的な道徳だの常識的な道徳だのを迷う事なく押し付けてきたのである。
確かに保守主義はそのようなものであるかもしれないが共同体主義はもっとマシなのでは?と思うかもしれない。
だが同じである。例えば日本のある共同体主義者は親の子供に対する口調や子供の親に対する態度に腹を立て
その苛立ちを共同体主義で正当化する。またある共同体主義者は単に自分が過去の社会の感じが懐かしくて好きだからという理由で
伝統的に続いていたはずの感じを取り戻せと共同体主義的伝統主義的に自分の懐かしみを正当化する。
一番最悪かつ実在する共同体主義者はなんと大学で生徒が飲み物を買いにいった際、自分のだけを買ってきて
教授である自分には買ってきてくれなかった(勿論頼んではいない)という理由でモラルの低下を感じ
共同体主義を賛美する本の執筆を決心する。…共同体主義者の実態とは所詮はこのようなものなのだ。
私は彼らを些かなりとも寛容だとも自由主義的だとも考えない。
彼らが擁護する共同体の秩序、共同体の共通善、共同体の伝統というものは容易に自由を抑圧し否定するものなのである。
それでも彼らはそれを擁護する。何故か。何故なら彼らにとって自由は本質的な価値を備えているものではないし
自由が普遍的価値なわけでもないからだ。尊重されるべきは常に共同体のルール、共同体内部で現在罷り通っている常識
共通善とかいう漠然としたもの、共同体で伝統的に続いているとされるシキタリなのである。
それ以外は所詮はそれに反しない範囲、二の次でしかない。

何故共同体主義はこのようであるのか。恐らくそれは彼らが何を言っても、共同体という主体でしかものを考えないからである。
つまり彼らは確かにある種の多様性の保護を訴えるが、それは決して個人の多様性ではない。
共同体主義者はものを考える時の、多様性を口にする時の、単位はいつでも共同体なのである。
それは時に国であり、それは時に町であり村である。そこはどっちでもいい。問題はどこまでも単位が個人でなく
共同体だという事である。少し考えれば分かるではないか。保守主義者や伝統主義者や共同体主義者、また民族主義者のような
右翼は、侵略主義的でないならこう言うだろう。我々には我々の文化がある。君らには君らの文化がある。
我々の文化には君らの文化は合わない。だから押し付けないでくれ。我々も押し付けないから。
これだけ聞けばこのように言う右翼はある種の多様性を認めているし、それなりに善く見える。
実際侵略主義的な、差別主義的な右翼に比べれば随分マシで随分道徳的である。

しかし彼らは内部に対してはなんと言っているだろうか。
いやもっと言えばそこで言う「我々の文化」とは何なのだろうか。
この国でも実に多くの右翼が真顔で次のような事を言う。「日本人らしさ」
「日本人の伝統的精神」「日本人には合わない」「日本の道徳観」…だがなんなのだろうか、それは。
そこで言う日本人とは一体誰なのだろうか。当然に日本人という名前の日本人はいない。
実に多くの、そして実に多様な、日本に住まう人々がいるのみである。
彼らの共通した特徴こそが日本人の特徴だろうか。例えば日本的な名前、日本人の肌色だろうか。
それをこそを我々は伝統として死守していくべきなのだろうか。実際保守主義者の中にはそういう事を言う者もいる。
夫婦別姓という自由の善き拡大をもたらすような政策に対しても伝統を破壊するだとか
同性に馴染んでるのに嫌だなどと言って反対する。実は夫婦別姓は日本ではごく最近採用されたものであり
伝統でもなんでもないのだが…。だが万歩譲ってそういうものはいいとして
(伝統が伝統ゆえに正しいとは微塵も思わないが確かに日本人の大半が日本的な名前や肌色を共有しているのは事実だ)
果たして精神や価値観、道徳観といったレベルにおいてもそのような共通性があるだろうか。
少なくとも、彼らが言うような日本人らしい精神に「私の精神が含まれた事は一度もない」。

彼らの言う日本人の精神に含まれず、彼らの言う日本人らしさに当てはまらない日本人は私だけだろうか。
違うだろう。そんな人はいっくらでもいるのである。にも関らず彼らはその多様性を無視して
日本人なるものを、日本人なるフィクショナルな存在を勝手に想定する、自分に都合のいい
自分のお好みの人間像に理念としての日本人としての名前を当てて、それを強く正当化する。
全ての日本人はこの日本人像に合わせるべし!・・・まさしく右翼の論法とはそのようなものだが
時に左翼を自認する共同体主義がこれに当てはまらないかというと私にはあまりそうは思えない。
私が共同体主義の欠陥として指摘したい最大の事は今言ってきたような事である。

共同体主義はリベラルの普遍的見地、普遍的人間観を批判し
人間の必然的な特殊性を強調する。人間はあくまでどうあっても特定の共同体にしか生まれない。
そして特定の自我、特殊な道徳を形成するのであり、普遍的な自我や普遍的な道徳などは不可能、想定する意味もないのである。
だがそうだろうか。そう考える事の実際的弊害はないのだろうか。いや、あるからこそリベラルは
わざとそういう特殊性を廃して普遍性を追求したのではないか。

例えば共同体主義や保守主義によってアトム的個人、負荷なき自我の想定として最も槍玉に挙げられるのが
ロールズの無知のヴェール論である。それは現実に存在し様々な特殊な特徴、特殊な利害を持つ人間を想定すれば
如何に社会契約を結ぼうと十分に公正で平等な契約は結べないという理由で、全ての人の特殊性を覆い隠す
無知のヴェールを被せた上で契約を結ばせるという発想である。つまりもしこのようなヴェール
自らを非現実的で普遍的な誰にでもなりうる単なる人間と考えざるをえないようなヴェールを被せなければ
契約を結ぶ人々は自分が金持ちであるかどうか、自分が強者であるかどうか、自分が少数民族であるかどうか
、そして何が自分の利益になるかを知ったままになってしまう。当然その中に
金持ちである自分がさらに得をする制度、弱肉強食の世界になるような契約が結ばれるよう意識する者が表れるだろう。
万人の利益ではなく特殊な利益、自分だけの利益、あるいは自分達だけの利益をエゴイスティックに追求するという事が起こるだろう。

それを避けるためにロールズは無知のヴェールをかける。それはなるほどフィクションである。
それは確かに全く非現実である。それを共同体主義者は非現実だと攻撃し否定しているのだ。
だがどうだろうかこれは。十分にロールズの想定にも理解できる理由があるのではないか。
これに対してそれは嘘じゃないかと指摘する事は、この事の意味を分かっていないというかナンセンスというか
なんでそんなこと言うの?という気がしないでもない。

だが誤解しないで欲しいが、私は必ずしもロールズの無知のヴェールに賛同してはいない。
いや、理想的だと思うがやはり非現実であるから、さしたる意味がないと考えている。
つまりこの理論に従って公正な契約、公正な正義を理論的に導き出しても
現実の人間には無知のヴェールはかかっていないし、かからないのだから
一般の多数派に対する実際的な説得力は皆無に近い。所詮は机上の理論なのである。

このように考えるからには私も多少は共同体主義の批判を受け入れているわけである。
少なくともそれは事実であるとは認める。確かに人間は誰もがどこぞの共同体に埋め込まれていると言えるし
(自由に抜け出れるべきだと考えるが)契約論はフィクションである。それは間違いない。
だが恐らくロールズもその他のリベラルもそんな事は重々承知なのである。
契約論は起源からして元々フィクションなのであって、それを史実だと信じて主張した契約論者は恐らくゼロである。
あくまで思考実験、より公正な正義を導き出すにはどうすればいいかと考えた時に
編み出されたのがこの考え方なのである。その「あえて特殊でない普遍性を備えた正義を導出するため
あえて想定される前提」にケチをつける事はなかなかにナンセンスに思えるのだ。

だがまぁいいだろう。私がここでナンセンスナンセンス言っていても共同体主義者は
そう思わないというなら話は進まない。それにさっき述べたように私も非現実的な想定は現実的有効性は薄いと考えている。
その意味では何らかの対策は必要なのだ。では共同体主義はこのように指摘して、一体どのような代案を示してくれるのだろうか。
言ってしまえば我々にとって本当に重大なのは正義が導出される過程よりも
正義の内容、それが我々に対してどう振舞ってくるか、であるかもしれない。
少なくとも私としては共同体主義がアトム的個人を批判し、契約論や普遍主義を否定しようが
私の自由を侵害してこなければ最終的にはどうでもいいという気はする。
その過程がどうであれ、十分良心的で寛容的で自由な正義を導出してくれるなら
必死で敵対する必要もなく思えてくる。だが共同体主義の出す正義の代案はそのようなものであってくれるのか。

言うまでもなくそのようなものではないのだが、共同体主義はリベラルと異なる価値基準として
「共通善」なるものを持ち出す。だがこれがこんなものを書く程度には共同体主義を少し勉強した私でも
未だ説明に窮するほどに曖昧で、よく分からない概念である。これが共同体主義が最も価値を見出す概念であり
全ての判断基準であるにも関らず、なんだかよく分からないのである。
それは必ずしも私のせいには思われない。私以外にもこの共通善というものを曖昧だ、よく分からないと
指摘する人はいる。従って私はそもそもこの共通善とやらは大した内実を伴わない
本質的に曖昧なものであり、それを根底に置く共同体主義自体が曖昧なイデオロギーなのだと理解しているが
さすがにそれで済ませては問題なので、もう少し言える事を言ってみよう。

共同体主義は正と善の区別を批判する。共通善とはその区別の克服のため言われるものである。
正と善とはリベラル独自の言葉遣いとでも言うべきもので
簡単に言えば「多様な個人の多様な善を調停するための正義」が必要であるとし
むしろそれだけが必要とする考え方である。私は必ずしもこの言葉の用法を統一的には採用していないので
本書では好き勝手に善の語を使用しているが、ここで言う善とは「個人の価値観」「個人的な好み」「個人のライフスタイル」
とでも理解すると分かりやすいかと思う。リベラルはそういった価値観については「人それぞれ」であると見なして
特定の善を押し付ける事を避ける。様々な価値観、様々な好み、様々な生き方があるにも関らず
特定の価値観を正しいもの、立派なもの、望ましいものとして押し付け、これを好めこれを嫌え、こう生きろと
強要する事は自由の侵害でありパターナリズムだと判断される。自由主義としては至って当然の考え方である。
このような考え方を採用しないならいよいよもって何が自由主義なのか分からなくなる。

ではしばしばあくまでリベラルデモクラシーの枠内の思想であると強調する
共同体主義はどう考えるのか。共同体主義は以上の区別、以上の自由主義に、反対する。
即ち、我々の善は多様でないし、多様であってはいけない。それが共通善の思想である。
12・2から続行


善、即ち、個人の価値観、個人のライフスタイルといったものの多様性を認め
個人が多様であるという現実に対して強引に一つの善、一つの徳を押し付ける事は懸命ではないとするリベラリズムと
共通善や徳を押し付けようとする共同体主義、どちらが賢明でどちらが正当か、どちらが現実に対応した正義理論であるか
私には自明に思えるがどうだろうか。私どもから言わせれば共同体主義の理想は極めて前時代的、時代錯誤であり
脳天気な想定に基づいている。あるいは極めて独善的な願望の正当化であると見える。
何故なら現実にある社会、現実にある個人は現に多様であるし、またそんな多様な現実を無視して
一つの善を全員に押し付けようとすればほぼ必然的に独善的にならざるを得ない事は明白だからである。
だから共同体主義は、しばしば個人のエゴイズム、個人の自由の過剰を批判するにも関らず
自らが最もエゴイスティックで押し付けがましいワガママな独善的主張を唱える事になる。
共同体主義者は現実にいる人々、自分の周囲の人間が多様な価値観を持ち、多様な生き方を選び
多様に振舞う事が許せない。それが認められない。皆が別々の方向を向いて別々の人生を別々の歩き方で
歩むというその事が「個人的に」許せない。気に入らない。なので自分が好む一つの価値観、一つの感性、一つの徳
一つの生き方、一つの言葉遣いといったものを全員に押し付けようとする。全てを自分の好みに合致させようとするのだ。
だがそれではただのエゴイスティックな人になってしまう。だから共同体主義者はそのような自分の願望、自分の好みを
伝統だの歴史だの共通善だの徳だのという都合のいい概念で都合よく飾り立てる。そして正当化し、絶対的なものとして押し付けるのである。

このオゾマシイ醜悪な特徴は全て保守主義と同一のものである。
実際、ある共同体の伝統や慣習を(恣意的である事を隠して)全道徳の根拠とする時点で
またそれを用いてリベラルな正義に反対する時点で共同体主義と保守主義はほぼ同一である。
現に保守派を自認している人間には共同体主義を自認し、共同体主義の常套句を盛んに用いる者が大勢いる。
その時点で例えば共同体主義はよく保守派と誤解されがちだが、それは誤解だ
という弁明は、少なくとも全ての共同体主義者に用いる事の出来るものではない。
初めに述べたように確かに左派的な共同体主義者、さらにはただ人間が共同体的であらざるを得ない事を指摘するだけで
その事を善い事と見なさない共同体主義者も存在する。その意味では確かに全共同体主義=保守主義と断じるのは
問題がある。しかし繰り返すようにしばしばその二つはかぶる。そしてその故に多くの欠陥を持ち、妥当な正義としては採用しえない。

今述べた「ただ人間が共同体的であらざるを得ない事を指摘するだけで
その事を善い事と見なさない共同体主義者」というのは全く賢明な立場に思われる。
このような共同体主義こそがリベラルと対立せず完全に両立する種類の共同体主義である。
既述したが、大半のリベラルは共同体主義者が想定する程に極端な原子論的人間観など採用していない。
共同体主義はリベラルに対して人間は無限に自由で無限に自律的なのではなく必然的に共同体の影響を受ける
共同体的存在なのだ、リベラルはそういった現実的人間観を無視しており、アトム的個人を想定している、と散々ほざくが
大抵の場合、そんなものは想定していない。想定しているなら想定しているそのリベラルが馬鹿なのだ。
馬鹿でないリベラルは誰もそんな想定はしない。我々が必然的に共同体や他人の影響下で自我を形成せざるを得ない事は
反論不可能の事実である。だから私は共同体主義の指摘に対して「そうだね」と即答できる。
これ以外の選択肢は基本的にはありえない。我々は他人である親から生まれ、またある国、ある町に生まれ
またある言語で育てられる時点で、既に無限に自律的な原子論的個人などではありえない。
我々は本質的に社会的である。あったりまえの事だ。

共同体主義のこのような常套句的批判はあまりに当たり前であるが故に無意味もしくは有害である。
その事はもうこれ以上説明しなくても分かるだろう。もはやこれ以上は繰り返しにしかならない。
我々はある特定の共同体に生まれ、ある特定の共同体の影響を受けるからといって
その共同体の既存ルールに全面的に隷従すべきでもなければ、永遠にその共同体におらねばならないわけでもない。
そして個人が選びうる多様な善を超える画一的な共通善なるものは存在しないし、無理に存在させようとすれば
それは恣意的に選ばれ不当に強要され、それが多くの苦痛を生み出す。一体誰がそれを正義に適った事と言い、
誰がそんなものを共通善だと呼べるのだろうか。共同体主義者の言う共通善とやらが本当に文字通り共通善であるなら誰一人として反対者はいないだろう。
しかし現にここにもあそこにも反対者がいる。それの何が共通善だ、と言う成員がいる。
結局のところ共同体主義の想定する共通善は成員の多様性という現実から浮き上がったものであり
一部の善、恣意的な善を共通であると詐称するものでしかないのである。
もしそのようでない本当の共通善を追求すれば、それはリベラルな結論、即ち個人的善の多様性を認め
それを共存させるような正義だけを必要とする、という結論に至る事になる。
いわば共通善とはそのような正義であるという言い方も出来る。その意味では共通善が放棄されていると批判される
リベラルは実は最も確実な共通善を尊重しているのである。誰にとっても善である事は、自分の特殊な善が
周りから尊重される事であり、従って誰もが自分の特殊な善を出来る限り尊重されるような正義が共通善として支持される。
あるいは誰にとっても善である事は、自分が自分の意志に従って自由に振る舞い自由に生きる事であり、従って
誰もにそのような自由が保障されるような正義が共通善として支持される。
・・・このような言い方であるならリベラルはなんら共通善に反対しないし、むしろ積極的にそれを採用する。
というかこのような意味での共通善は既にリベラルが正義として主張しているのである。
だがリベラルの正と善の区別自体に反対し、リベラルな正義に反対して共通善を唱える共同体主義は
勿論このような用法では共通善という言葉を使っていない。彼らの言う共通善はもっと押し付けがましく
もっと普遍性のない、もっと独善的で恣意的なものなのである。

・・・

このように私の理解では共同体主義とリベラリズムは本質的に熾烈に対立するような性質を備えている。
その最大の原因はよく強調される存在論的な問題というよりも、その後の論理である。
即ちリベラルは「人間が共同体的存在であっても共同体に隷従する必要はない」と考えるが
共同体主義は「人間は共同体的存在であるので共同体のルールに隷従すべきである」と考える、ここに最大の差異と問題がある。
あるいは、もし共同体主義者がこのような批判は事実誤認、曲解であり、我々共同体主義者はそのような
全体主義的主張をしているのではない、ともし反論するならば、(私は未だ共同体主義が大事な所で曖昧な
「よく分からない」思想だと思っているので、勘違いもありうる事を認める)
いよいよもってリベラルと共同体主義の違いは分からなくなる。
その時こそ、共同体主義がいわゆるリベラル・コミュニタリアニズム(リベラルと対立しない共同体主義)になる時であろう。
そのような共同体主義には私も他のリベラルも反対する事はない。もし全ての共同体主義は実はそのような共同体主義であると
言うのなら、全ての共同体主義はリベラルの枠内にあり、そしていよいよもって意味の分からない思想という事になる。

言うまでもなく、リベラリズムは共同体主義に反対するからといって、共同体を軽視するわけではない。
多様な共同体の存在や、その中で個人が幸福になる事にリベラルは反対する理由を一切持たない。
リベラルはただそれが個人を抑圧する場合を問題にするのである。
単に共同体を尊重するのが共同体主義であるならばそれはリベラルと何一つ変らない。
あるいはこれに「個人が原子ではなく社会的だ」という存在論的認識、人間観を特徴に加えるとしても
これすらもがリベラルと両立しうる特徴である。人間が社会的であるという事実を真っ向から否定するような
リベラルは馬鹿以外には存在しない。つまりここまで挙げた二つの特徴はなんらリベラルと異なるものではない。
では一体何がリベラルと共同体主義の決定的な違い、対立点なのか。
既に何度も述べている事だが、それは恐らく共通善に関る。善の多様性を認めずある特定の善を
共同体の共通善と詐称して押し付ける。そこに共同体主義最後の特徴があるとすれば
それがリベラルと共同体主義の最大の違いであり対立点である。
しかしこれすらもが、もしそれを詐称せず真の共通善だけを求めるなら
共通善への意志は必然的にリベラルな正義をもたらし、結局リベラル化する。
となると共同体主義がリベラルの対抗理論として持ちうる独自の特徴は、「共通善を詐称する」事くらいであろう。

リベラルは多様な共同体や、共同体に大きな意義や生き甲斐を見出し、それを大切にしながら
共同体の中で幸福になる事などなどを全て認めるが、これは共同体主義の残る政治的特徴ともされる多文化主義についても同じである。
リベラルは基本的には多様な文化、多様な共同体を出来る限り尊重する。それはちょうど多様な個人を出来る限り尊重して
多様なままに共存させようとするのと同じである。リベラルは基本的にはある文化にある文化が支配され征服され
同化されるべきであるなどという事を口が裂けても言わない。だが、それにしても無節制な多文化主義は問題がある。
いくら多様な文化を認めると言っても安易に個人を抑圧し、人権を無視するような文化を多文化主義の名の下に
許容するわけにはいかない。「ある国では言う事を聞かない国民は即銃殺するという伝統が建国以来続いていて
これは大切な伝統・文化でありますので、多文化主義の精神に従って内政干渉したりせずに
この非人道な文化を快く認めてください」などという要求をリベラルは呑まない。
それは「出来る限り多様な文化を認める」という「出来る限り」の許容範囲を超えているとリベラルは見なす。
何故か。言うまでもなくそこでは文化の多様性だけが尊重された帰結として、より重要な個人の多様性が
無視され犠牲にされているからである。無節制な保守主義、無制限な伝統主義、そして共同体主義、多文化主義は
このような個人に対する非人道的抑圧を犯しうる。だがそれは共同体や文化という大きな単位に限定されない
多様性全体を出来る限り尊重し守ろうとするリベラルの正義としては許容不可能なのである。
然るに全ての多文化主義はリベラルな枠内でのみその多様性を認めるという文化的多文化主義、自由主義的多文化主義として
のみ許容される。これは共同体についても同じである。全ての共同体は如何なる伝統を持っていようとも
あくまで成員たる全ての個人に配慮し、個人の多様性を認める必要がある。共同体の共通善を唱えるならそれはそれで
そのような成員全員が本当に合意しうるような本当の共通善のみを唱えねばならない。
そうでない限り全ての共通善は不当な押し付け、抑圧となり、多文化主義の最低限のルールを破る事になるのだ。

共同体主義の共通善という夢は全く不要なものと思われるが、何にせよそれは成員の多様性、個人の多様性、
実際的な善の多様性という現実の前に挫折する。強引にその多様性を無視し、無視する事こそが共通善を唱える目的だ!
などと開き直れば、共同体主義は単なる残忍な非人道的イデオロギーに堕落する。
よく共同体主義という表面上の字面を見た人が全体主義なのでは、と思う事があるが、この時にはどう弁明しようが
完全に単なる全体主義になってしまうだろう。共通善の政治はその共通善が成員全員の善でない限りどうあっても不当な
全体の利益に不当に個人を隷従させる全体主義となるのである。

結局、共同体主義にはあまり魅力的な部分や生産的な主張があるとは思われない。
それがある人達にとって魅力的なのは所詮は共同体主義がその人達の特殊な価値観、特殊な願望、特殊な不満を
伝統や共通善の美名で都合よく正当化してくれるからに他ならないのではないか。
少なくともそれはその美名で保護されない成員にとっては迷惑極まりないし、共通善以外の共同体主義の存在論的批判などは
ほとんど意味のない、どうでもいい与太話なのである。

要約する。共同体主義は自由主義者(リベラル・リバタリアン)の人間観を
負荷なき自我であるとして批判する。これには二つの応答が出来る。
一つは、指摘されるまでもなく我々はそれを知っており、それは事実であるが、その事実が
リベラリズムの正義を根底から揺るがすとは思わない、という応答。
もう一つは、自由主義者は特殊な自称正義ではなく普遍的に妥当する正義を求めており
そういった正義しか正義を名乗るには値しないと考えるため、あえて現実の自我とは違う
負荷なき自我を想定しており、あえて現実の出来事ではない社会契約を想定して正義を導出しようとする。
それに対して負荷なき自我だ、非現実的だと批判する事は全くナンセンスである、という応答だ。

この二つの応答は然程に違ったものではない。後者もある意味で共同体主義の指摘が事実であると認めている。
だが我々が共同体的存在であり、特定の共同体に埋め込まれて存在するからといって
その特定の共同体の利益だけを考えたり、生まれた共同体の既存ルールにだけ従わねばならないという事にはならない。
その間に論理的倫理的な繋がりは存在しない。むしろリベラルからすれば存在するとされた方が不道徳である。
自分に身近な特殊な共同体の正義だけを考えるべきか、多様な共同体全てに妥当するような正義を探すべきか
どちらが賢明で道徳的かという論点で共同体主義は前者と答え、リベラルは後者と答える。

だが共同体主義の反普遍主義的側面は謙虚と出るよりは不寛容として表現されやすい。
何故なら共同体主義がものを考える視野、その単位は常に共同体単位であり個人単位ではない。
従って共同体主義が多様性を認める場合にもそれはあくまで共同体の多様性、文化の、国の多様性であって
決して個人の多様性ではない。全ての個人は自分の所属する共同体に縛られてしまう。
そこではその共同体のルール、伝統、常識といったものに配慮し自由を制限すべきであり
共通善という曖昧かつ耳障りのいいものを判断の指標にすべきとされる。
しかし言うまでもなく、その共通善は「共通という意味での普遍を装った特殊」である。
言えば、共同体で個人が配慮ないし隷従すべしとされるルール、伝統、常識なるもの自体が既に特殊な
恣意的に決定されるものである。共同体主義は保守主義などと同じくその恣意性を隠し
伝統や共通善という立派なレッテルを貼る事で絶対化し、共同体の成員全員に強引に押し付ける。
それが共同体主義の実態であり、これはリベラルな正義とは決して相成れない。
リベラルと共同体主義には大した差異はないとか本当は対立していないと言う向きもあるが
この意味ではリベラルと共同体主義はやはり熾烈に対立するものであると言える。

だがリベラルは共同体を軽視するわけではない。ただそれが個人を抑圧するのを問題とする。
多文化主義についても同じで、多様な文化が認められる事、ある文化がある文化を否定しない事は
道徳的に必要な事だが、だからといって安易に個人を抑圧する非人道的な文化を容認する事は出来ない。
文化単位で多様性を認めても個人単位で認めなければ多文化主義の名の下に、個人の多様性を抑圧する文化が正当化される。
そのためリベラルにとっては無制限な多文化主義ではなく、リベラルな制度、人道的な制度、近代主義の枠内でみ
多様な文化を認める多元多文化主義が正当とされる。これは共同体についても同じである。
共同体はあくまで個人に配慮し、個人の多様性を認める必要があり、それを抑圧してはならないし
抑圧を共通善や伝統の名で飾ってはならない。

この問題は実は現実の我々が多様な共同体を自由に移動する事が困難である事に起因する。
もしその共同体が完全に参脱自由な共同体であるなら、そこではどんなルールが敷かれいてもいい。
そこで抑圧される個人は別の共同体に移動すればいいだけであり、そのルールを好む人間だけが住めば誰も不幸にはならないからだ。
その意味でリベラルと共同体主義に妥協が可能だとすれば、リベラルな共同体主義がありうるとすれば
それはそこで想定される共同体が参脱自由な共同体となる場合である。
しかし現実にはそれは困難であり、少なくとも今現在十分には成立していない。
我々は様々な事情により必ずしも望まない特定の共同体に拘束されてしまう。
従ってそのような事情全てが国に解決されでもしない限り、この方法をとる事は出来ず、従って共同体主義は採用できない。
我々はリベラルな共同体で多様な個人に配慮しながら共生する他ないのである。

長い要約になったが手短に言えば、負荷なき自我批判は無意味であるか有害。
無意味であるのは現実の人間には負荷があるからといって、共同体的存在だからといって
共同体に隷従せねばならないわけではないはずだから。有害なのはもし共同体主義が
特定の共同体に生まれた個人は特定の共同体に隷従すべしと考えるなら、それは明らかに有害であるから。
そしてそもそも共同体主義はリベラルや契約論者の仮想的な人間想定の意図を理解していない。
共通善なる概念は共同体内にも多様な価値観の多様な個人がいるという現実を無視し
強引に一つの善を押し付ける最悪なもの。リベラルとは相成れない。
リベラルな共同体主義があるとすればそれは全ての共同体が参脱自由な共同体となり
その共同体の共通善とかいうものを難なく受け入れられ、なんら抑圧を受けない人だけが
寄り集まるような仕組みが整った場合に限られる。私もそれはそれが実現したなら理想的だと考えるが
残念ながら現実にはそんな仕組みは整っていない。なので各種共同体は共同内に存在する多様な人々
積極的に望んでいるわけではないが諸事情により在住している成員という現実を考慮して
個人の多様性に配慮したルールだけを形成せねばならない。以上である。




※参加民主主義的特徴、共和主義的特徴については別節で別個に批判しているため省略するものとする
posted by Moral Minority at 17:15| 京都 晴れ| Comment(0) | TrackBack(0) | 思想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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