私は123便の事故のとき取材班の一員だったが、山崎氏の描いているように小倉貫太郎(小説では恩地元)が救護の指揮を取った事実はない。彼は当時から「アフリカ生活10年」の有名人だったが、それは山崎氏の描いているようなヒーローとしてではなく、「日共系組合の委員長として極左的な方針をとり、労使関係をめちゃめちゃにした元凶」としてだ。ところが山崎氏は彼を小説では徹底的に美化し、9年前のインタビューではこう語っている:
彼だって人間ですもの、つらかったと思いますよ。仲間も言います。「僕らは仕事が終われば家族がおり、友人と語れる。あなたは365日、24時間孤独ではないか」。でも、自分が節を曲げたらこの組合はだめになる、「空の安全」は守れなくなるという思いがあるのですね。これに対して、小倉の前の委員長だった吉高諄氏は、日経新聞の高尾記者のインタビューで、彼の人間像を次のように語っている:
[小説の取材で]山崎氏は「小倉さんてどういう人ですか」と聞いたので、吉高氏は「連合赤軍の永田洋子を男にしたような人物です」と答えた。山崎氏が「それはどういうことですか」と聞くと、「頭は切れて人を取り込むのはうまいが、目的のためには手段を選ばず、冷酷非情な人物です」ときっぱり答えた。その時、吉高氏は一つのエピソードを紹介した。映画化が難航したのはJALが妨害したからだが、小説にもこのように大きな問題があった。公平にみて、JALの経営がでたらめだったという山崎氏の見方は正しいが、その原因は彼女の描くように、正義の味方である労組を経営陣が弾圧したからではない。歴代の経営陣が自分の派閥のために組合を利用し、おかげで8つも組合ができて労使関係が崩壊したことが最大の原因だ。
松尾社長の長女は長らく白血病で入院していた。団交中「社長の御長女危篤」の知らせが入ったので、労務課長だった吉高氏は団交を先延ばしするように要請したが、小倉委員長は「相手の弱みに付け込んで要求を獲得するのが組合の闘争。こういう時がチャンスだ」と団交継続を指示した。結局、松尾社長は長女の死に目には会えなかった。 このエピソードを聞いた時、山崎氏は「どうしよう。これじゃ、小説が成り立たない。もうやめましょう」と動揺を隠せなかったという。
この小説で同じく美化されている伊藤淳二元会長も、組合を利用して経営の主導権を掌握しようとし、派閥抗争に巻き込まれて失脚した。JALの労組は、伊藤氏のように政治力のある経営者にもコントロールできない「怪物」になっていたのだ。もちろん現在の危機をもたらした第一義的な責任は、派閥抗争に明け暮れた経営陣と、JALを食い物にしてきた政治家と運輸官僚にあるが、労組の罪も同じぐらい重い。小説も映画も、JALとは無関係なフィクションとして楽しむことをおすすめする。
コメント一覧
フィクションというよりは、サヨク達による悪質なプロパガンダと言う方が正しいかもしれません。
映画、見てきました。小説も昔読んだ口です(ディテールは忘れましたが)。
この作品はフィクションだとは判っていても、見終わった後の妻との話題は「123便墜落のあの日に何をしていたか」になるし、無意識にノンフィクションとして記憶に織り込まれちゃいそうです。御巣鷹の現場の映像も迫力があるし。
大河ドラマなども史実だとつい思っちゃいますが、そんなことはない。
作品を楽しみつつ懐疑的に見るのは骨の折れる作業ですね。
スレ違いです。ご容赦ください。
省益学者がなんかまたヅラヅラ書いているようですが、池田さんは「絶対に反応しないほうがいい」と思います。
俺は池田さんは省益学者に利用されていると思う。だから池田さんは蛇男の影響を受けないように全力で「逃げる」べきです(ブログは今後は絶対に読まないで、焚書する、その他)
完全に余計なお世話だ!とおっしゃりたいでしょうが、どうしても諫言したくて投稿しました。
こんにちは。
原作も映画もまだですが、それほどバイアスがひどいですか!
フィクションとしての映画はやめときます、余りにも記憶に新しいので。
左翼的組合が経営的観点なく、部分的な最適化をすることで、全体の最適化を阻害するというのはよくあることですよね。
特につぶれる心配がない公務員やそれに準じる人たちは最悪の方針をとりやすいが、これが困ったことにある種の「真面目さ」が駆動力になります。
ある種の真面目さからくる部分的な最適化を目指している人をなかなか攻撃できない。とくに経営的に問題がない時期であればなおのことです。
しかし、これはGMにもフランスの暴動騒ぎにも見られる現象で、いまのところ解決策は世界中開発できていない。あるとすると極左的要求がのまれて労働者の権利が拡大すればするほど、破綻は近づくということを定式化するくらいかな。とはいえ、あまりに緊張関係のない使用者はあまりに人を使い捨てにするという面もあり、適度な緊張関係を持続するのはおそらく極めてむつかしいのでしょう。
小倉氏がどういう人かは知りませんが、ひょっとしたら何らかの関係の中でネガティブな印象を抱く立場にいた人の見解が述べられているだけかもしれず、「労使関係をメチャクチャにした」のかどうか、より詳細な検討が必要ですね。
真実を語ることの難しさ
数年前に観た映画 ”パンズ・ラビリンス” は、映像が奏でる美しさとは裏腹に、スペイン内戦下の人々の苦難を、ダーク・ファンタジーの様式で描いた、ギレルモ・デル・トロ監督の名作である。映画を観ながら、もはや、ファンタジーでしか、現実世界の真実を語ることができなくなったのかと、驚嘆させられた。
山崎豊子氏の作品に見られる、限りない現実のように見せる非現実の空々しさは、人気作家である、多くの読者を抱えた、自然主義的手法で現実を描ききろうとする表現方法の限界を示すものであり、現代においては、過去へのノスタルジーの表明でしかない。
かつて、ファンタジーが、現実逃避と揶揄されたように、現代においては、この作家の用いる手法が、明らかに現実逃避であり、ノスタルジーであり、ファンタジーなのである・・・・・・・。
不毛地帯
テレビドラマの不毛地帯を部分的に拝見しました。もちろん、現実社会の陰惨さ、過酷さは、ドラマでは描く訳にはいけませんね。俳優陣の好演に比して、昔ながらの、政治物に対する演出方法が用いられているのが、気になります。
しかしながら、エンデイングの映像(降りしきる雪のなかのシベリアの収容所の傍らに、主人公がスーツ姿で屹立している)と、トム・ウエイツの曲のマッチングがとても気になりました。若干のずれは、あるかもしれませんが、エンターテインメントとしては、すばらしい。
私は、中学・高校の頃に、山崎豊子の有名ないくつかの小説(不毛地帯、女系家族、華麗なる一族、白い巨塔)を読んで以来、ストーリーテラーとしてのこの人の力量には感服することしきりです。
ただ、度重なる盗用問題に象徴されるように、「マナー」の悪い作家である事もまた事実でしょう。事実とフィクションをないまぜにした手法は、読者に様々な想像をさせて面白い事この上ないですが、実在の関係者の気持ちを考えると、面白いでは済まないかもしれません。旧神戸銀行や旧同和火災のオーナー家だった岡崎一族などは、「華麗なる一族」のモデルとされている為、妻妾同衾のイメージを持たれて迷惑している事でしょう(苦笑)。(続く)
(承前)
そうした作品群の中でも、主人公とそのモデルとされる人物の実像との違いが最も際立っているのが「沈まぬ太陽」ではないかと思います。
小説が出た当時、週刊新潮等で、関係者が怒っているという記事を読んだ記憶もありますが、何よりも、偶然、池田先生も紹介されている論談のHPの文章
↓
http://www.rondan.co.jp/html/ara/yowa3/
を目にした時に、ここまで現実を「改竄」(そもそも、フィクションだと著者自身が言っている訳で、こういう表現も変ですが)しているのか?と驚いたものです。
皆さんにも、この日経記者の文章の一読をお勧めします。
この度ようやく映画を見ました。
小説も以前より読んでいたため、楽しくみることができました。
バイアス云々とありますが、こういった話はだいたいお互い自分を正当化するもので、お互いの話の真ん中ぐらいが真実ではないでしょうか。