2007年01月
高木さんの棒グラフの話をからかったら、意外にまじめな反論が来て驚いた。テレビが中立・公正な報道をしている(はずだ)と信じている人がまだ多いようだ。日本のメディアもまだ捨てたものではないが、これは民主主義の健全な発展のためにはよくない。メディアは本質的に物事を歪めて伝えるものだからである。棒グラフの話も、その一例としては意味がある。
まず認識しなければならないのは、これまで何度も書いたように、ニュース価値は絶対的な重要性ではなく限界的な珍しさで決まるという事実である。経済学の教科書の最初に出てくるように、ダイヤモンドの価格が水よりはるかに高いのは、それが水よりも重要だからではなく、限界的な価値(稀少性)が高いからだ。同じように、人が犬に噛まれる事件よりも犬が人に噛まれる事件のほうが、重要性は低いがニュース価値は高いのである。
時系列でも同じだ。普通の人が事故死する原因として圧倒的に重要なのは交通事故だが、これは減っているのであまりニュースにはならない。ニュースになるのは、飲酒運転による死亡事故が増えた、といった変化だけだ。要するに、問題の総量(積分値)ではなく変化率(微分係数)がニュース価値なのだ。
これはメディアとして合理的な基準である。交通死亡事故をすべて取り上げていたら、紙面はそれだけで埋まってしまう。メディアは読者に読んでもらわなければならないのだから、その興味を最大化するようにニュースを順位づけするのは合理的だ。行動経済学の言葉でいうと、メディアは必然的に代表性バイアス(特殊なサンプルを代表とみなす傾向)をもっているのである。
しかしメディアがニュースを読者に見せるときは、「この話は重要ではないが珍しいから取り上げた」というわけにはいかないので、あたかも客観的に重要な情報であるかのように見せる。飲酒運転による死亡事故が10年間で4割減ったのに、昨年1.9%だけ増えた部分だけを拡大した棒グラフ(折れ線グラフでも同じこと)を描いて、いかにも激増しているように見せる。子供の自殺も1970年代の半分に減っているのに、2000年以降の統計だけを見せる。
これは、前にも書いた「関心の効率的配分」を考える経済学の事例研究としておもしろい。通常のモノの経済では、稀少性で価格が決まっても問題はない。水道料金が低くても、水道水はつねに存在しているからだ。しかし情報の世界では、情報価値が低い(アクセスされない)情報は存在しないのと同じだ。地球温暖化よりはるかに重要な(しかし地味な)感染症には、温暖化の数分の一の予算しかつかない。大気汚染としてもっとも重要なタバコを放置したまま、リスクがゼロに等しいBSEに大騒ぎする(磯崎さんの記事参照)。
だから「あるある」の問題は特殊なスキャンダルではなく、メディアの本来もっている合理的バイアスが極端な形で出てきたにすぎない。存在しない実験データを捏造したというのは、わかりやすいのでたたかれるが、もっと微妙な自殺や交通事故をめぐる誇張された報道は気づかれず、それをもとにして教育再生会議が子供の自殺についての「緊急提言」をしたり、酒気帯び運転だけで公務員が懲戒免職になったりする。
人々がすべての情報を片寄りなく認識することが不可能である以上、なんらかのバイアスは避けられない。問題はメディアがバイアスをもっていることではなく、情報が少数の媒体に独占され、十分多様なバイアスがないことである。だから必要なのは、政府が介入して監督することではなく、情報のチャンネルを多様化し、相互にチェックすることによってバイアスを中立化することだ。
要するに、市場メカニズムでは情報を効率的に配分できないのである。だからマスメディアのように関心を最大化する必要のないブログなどの非営利のメディアが、バイアスを中立化する上で重要な役割を果たしうる。2ちゃんねるにも「毒をもって毒を制する」効果はあるかもしれない。読むほうが情報を信用してないという点では、2ちゃんねらーのほうが納豆を買いに走った主婦よりもはるかにリテラシーが高い。
まず認識しなければならないのは、これまで何度も書いたように、ニュース価値は絶対的な重要性ではなく限界的な珍しさで決まるという事実である。経済学の教科書の最初に出てくるように、ダイヤモンドの価格が水よりはるかに高いのは、それが水よりも重要だからではなく、限界的な価値(稀少性)が高いからだ。同じように、人が犬に噛まれる事件よりも犬が人に噛まれる事件のほうが、重要性は低いがニュース価値は高いのである。
時系列でも同じだ。普通の人が事故死する原因として圧倒的に重要なのは交通事故だが、これは減っているのであまりニュースにはならない。ニュースになるのは、飲酒運転による死亡事故が増えた、といった変化だけだ。要するに、問題の総量(積分値)ではなく変化率(微分係数)がニュース価値なのだ。
これはメディアとして合理的な基準である。交通死亡事故をすべて取り上げていたら、紙面はそれだけで埋まってしまう。メディアは読者に読んでもらわなければならないのだから、その興味を最大化するようにニュースを順位づけするのは合理的だ。行動経済学の言葉でいうと、メディアは必然的に代表性バイアス(特殊なサンプルを代表とみなす傾向)をもっているのである。
しかしメディアがニュースを読者に見せるときは、「この話は重要ではないが珍しいから取り上げた」というわけにはいかないので、あたかも客観的に重要な情報であるかのように見せる。飲酒運転による死亡事故が10年間で4割減ったのに、昨年1.9%だけ増えた部分だけを拡大した棒グラフ(折れ線グラフでも同じこと)を描いて、いかにも激増しているように見せる。子供の自殺も1970年代の半分に減っているのに、2000年以降の統計だけを見せる。
これは、前にも書いた「関心の効率的配分」を考える経済学の事例研究としておもしろい。通常のモノの経済では、稀少性で価格が決まっても問題はない。水道料金が低くても、水道水はつねに存在しているからだ。しかし情報の世界では、情報価値が低い(アクセスされない)情報は存在しないのと同じだ。地球温暖化よりはるかに重要な(しかし地味な)感染症には、温暖化の数分の一の予算しかつかない。大気汚染としてもっとも重要なタバコを放置したまま、リスクがゼロに等しいBSEに大騒ぎする(磯崎さんの記事参照)。
だから「あるある」の問題は特殊なスキャンダルではなく、メディアの本来もっている合理的バイアスが極端な形で出てきたにすぎない。存在しない実験データを捏造したというのは、わかりやすいのでたたかれるが、もっと微妙な自殺や交通事故をめぐる誇張された報道は気づかれず、それをもとにして教育再生会議が子供の自殺についての「緊急提言」をしたり、酒気帯び運転だけで公務員が懲戒免職になったりする。
人々がすべての情報を片寄りなく認識することが不可能である以上、なんらかのバイアスは避けられない。問題はメディアがバイアスをもっていることではなく、情報が少数の媒体に独占され、十分多様なバイアスがないことである。だから必要なのは、政府が介入して監督することではなく、情報のチャンネルを多様化し、相互にチェックすることによってバイアスを中立化することだ。
要するに、市場メカニズムでは情報を効率的に配分できないのである。だからマスメディアのように関心を最大化する必要のないブログなどの非営利のメディアが、バイアスを中立化する上で重要な役割を果たしうる。2ちゃんねるにも「毒をもって毒を制する」効果はあるかもしれない。読むほうが情報を信用してないという点では、2ちゃんねらーのほうが納豆を買いに走った主婦よりもはるかにリテラシーが高い。
ところで問題の「女性国際戦犯法廷」だが、東京高裁も期待権を認める判決を出した。メディアでは、原告の要求を是認するような論調が多いが、この事件は最初からの経緯を知らないと本質を見誤る。
最大の間違いは、そもそもこの企画が通ったことである。NHKには「チャイナスクール」と呼ばれる中国べったりの一派があり、その代表である池田恵理子氏(私とは関係ない)が問題の番組の企画者だった。彼女はVAWW-NET JAPANの発起人で、「戦犯法廷」の運営委員だった(この事情は、形式的には彼女の部下が番組のプロデューサーになったことで隠蔽されている)。つまり主催者が実質的なプロデューサーなのだから、もともと中立な報道などできるはずがなかったのだ。
しかし教育テレビの提案会議は、ほとんど現場にまかせきりで、編成などがチェックするのはタイトルぐらいだから、この最初のボタンの掛け違えが気づかれなかった。教育テレビは「左翼の楽園」だし、だれも見ていないから、普通ならそのまま放送されて、あとで関係者が始末書を書かされるぐらいだったろう。ところが、この内容が事前に右翼にもれたことが第2の間違いだった。それがNHK予算審議の直前だったものだから、幹部があわてて政治家に「ご説明」に回ったことが問題をかえって大きくしてしまった。
そこで自民党の圧力を受け、番組を大幅に改竄して放送したことが第3の間違いだった。たしかに放送された番組はめちゃくちゃだが、「戦犯法廷」の中身は弁護人もつけずに昭和天皇を被告人として裁き、何の証拠もない「従軍慰安婦」を理由にして天皇に「有罪」を宣告するデマゴギーで、とてもNHKが番組を丸ごと費やして紹介するようなイベントではない。政治家に説明したりしないで、純然たる番組論として没にすべきだった。
もちろん取材された側としては、改竄しても没にしても「われわれが期待したものと違う」というだろう。しかし、それは編集権の問題だ。テレビの取材では、撮影したテープの90%以上は没にするのが普通である。没にされた相手がみんな「放送されることを期待していた」と訴訟を起こしたら、番組制作は成り立たない。
先日の「あるある」も今回のNHKの事件もそうだが、視聴者や取材相手にリテラシーがなく、テレビを信用しすぎていることが間違いのもとだ。誤解を恐れずにいえば、あるあるの実験なんて毎回ブログなどで笑いものになっていたネタである。健康にきくすごい食品が、毎週みつかって500回以上も続くわけがない。作る側も、被験者を「出演者」だと思って演技をつけていたのではないか(それがいいと言っているわけではありませんよ、念のため)。
テレビは(報道も含めて)本質的には娯楽であり、そこに出す情報を選ぶ基準は、おもしろいかどうかだ。NHKでも、番組の最大のほめ言葉は「おもしろかったね」であって、「勉強になったよ」というのは半分皮肉である。NHKを叩いた朝日新聞だって、「政治家が介入した」というストーリーにしたほうがおもしろいから、そういう話を捏造したのだろう。
今回の判決は、こういうリテラシーをもたない原告が過剰な「期待」の充足を裁判所に求め、それ以上にリテラシーのない裁判官が期待権などという変な権利を認めたもので、今後の報道への悪影響は大きい。もちろん捏造も改竄もよくないが、どこからが捏造(改竄)でどこまでが演出(修正)なのかという基準は必ずしも明らかではない。品質管理のハードルをあまりにも高く設定すると、今回のようにメディアが自分の首をしめる結果になる。少なくともメディアがメディアについて報道するときは、読者に過大な期待をもたせず、「自分だったらどうするだろうか」と胸に手を当ててみたほうがいいのではないか。
追記:小飼弾氏からTBがついている。テレビ番組はリテラシー最低の人を想定してつくらなければならないというのは、1/23にも書いたように私も同じ意見だが、それは法的責任ではない。放送法にも「業務停止命令」の規定はあるが、捏造ぐらいで発動するものではない。編集権はテレビ局にあるという原則は、理解してもらうしかない。たとえば政治家に取材したら、彼らの期待どおりの番組をつくらなければならないとしたら、報道は成り立たない。
最大の間違いは、そもそもこの企画が通ったことである。NHKには「チャイナスクール」と呼ばれる中国べったりの一派があり、その代表である池田恵理子氏(私とは関係ない)が問題の番組の企画者だった。彼女はVAWW-NET JAPANの発起人で、「戦犯法廷」の運営委員だった(この事情は、形式的には彼女の部下が番組のプロデューサーになったことで隠蔽されている)。つまり主催者が実質的なプロデューサーなのだから、もともと中立な報道などできるはずがなかったのだ。
しかし教育テレビの提案会議は、ほとんど現場にまかせきりで、編成などがチェックするのはタイトルぐらいだから、この最初のボタンの掛け違えが気づかれなかった。教育テレビは「左翼の楽園」だし、だれも見ていないから、普通ならそのまま放送されて、あとで関係者が始末書を書かされるぐらいだったろう。ところが、この内容が事前に右翼にもれたことが第2の間違いだった。それがNHK予算審議の直前だったものだから、幹部があわてて政治家に「ご説明」に回ったことが問題をかえって大きくしてしまった。
そこで自民党の圧力を受け、番組を大幅に改竄して放送したことが第3の間違いだった。たしかに放送された番組はめちゃくちゃだが、「戦犯法廷」の中身は弁護人もつけずに昭和天皇を被告人として裁き、何の証拠もない「従軍慰安婦」を理由にして天皇に「有罪」を宣告するデマゴギーで、とてもNHKが番組を丸ごと費やして紹介するようなイベントではない。政治家に説明したりしないで、純然たる番組論として没にすべきだった。
もちろん取材された側としては、改竄しても没にしても「われわれが期待したものと違う」というだろう。しかし、それは編集権の問題だ。テレビの取材では、撮影したテープの90%以上は没にするのが普通である。没にされた相手がみんな「放送されることを期待していた」と訴訟を起こしたら、番組制作は成り立たない。
先日の「あるある」も今回のNHKの事件もそうだが、視聴者や取材相手にリテラシーがなく、テレビを信用しすぎていることが間違いのもとだ。誤解を恐れずにいえば、あるあるの実験なんて毎回ブログなどで笑いものになっていたネタである。健康にきくすごい食品が、毎週みつかって500回以上も続くわけがない。作る側も、被験者を「出演者」だと思って演技をつけていたのではないか(それがいいと言っているわけではありませんよ、念のため)。
テレビは(報道も含めて)本質的には娯楽であり、そこに出す情報を選ぶ基準は、おもしろいかどうかだ。NHKでも、番組の最大のほめ言葉は「おもしろかったね」であって、「勉強になったよ」というのは半分皮肉である。NHKを叩いた朝日新聞だって、「政治家が介入した」というストーリーにしたほうがおもしろいから、そういう話を捏造したのだろう。
今回の判決は、こういうリテラシーをもたない原告が過剰な「期待」の充足を裁判所に求め、それ以上にリテラシーのない裁判官が期待権などという変な権利を認めたもので、今後の報道への悪影響は大きい。もちろん捏造も改竄もよくないが、どこからが捏造(改竄)でどこまでが演出(修正)なのかという基準は必ずしも明らかではない。品質管理のハードルをあまりにも高く設定すると、今回のようにメディアが自分の首をしめる結果になる。少なくともメディアがメディアについて報道するときは、読者に過大な期待をもたせず、「自分だったらどうするだろうか」と胸に手を当ててみたほうがいいのではないか。
追記:小飼弾氏からTBがついている。テレビ番組はリテラシー最低の人を想定してつくらなければならないというのは、1/23にも書いたように私も同じ意見だが、それは法的責任ではない。放送法にも「業務停止命令」の規定はあるが、捏造ぐらいで発動するものではない。編集権はテレビ局にあるという原則は、理解してもらうしかない。たとえば政治家に取材したら、彼らの期待どおりの番組をつくらなければならないとしたら、報道は成り立たない。
・・・といっても「女性国際戦犯法廷」の話ではない。高木浩光さんが「日常化するNHKの捏造棒グラフ」という記事で怒っているのだ。NHKの棒グラフが、数値の下の部分を省略していることが「捏造」だという。
コメントしようと思ったが、彼のブログにはコメント欄がないので、「はてな」でブックマークに「Excelもグラフを描くときは最小値をx軸にするんですけど、MSも『捏造』してるの?」とコメントしたら、「↓ikedanobuo < そんな事実はない >」というお答えをいただいたので、実験してみた。
ちょっと見にくいが、クリックして拡大すればわかるように、ExcelでもPowerPointでも、1020~1050の値のグラフのx軸は1005になる。こんなことはグラフを描くときの常識で、NHKだけじゃなく、民放だってだれだってやっている。
そもそも「捏造」というのは、『大辞林』によれば「実際にはありもしない事柄を、事実であるかのようにつくり上げること」である。グラフをわかりやすく見せることを捏造と呼ぶのは捏造、いや誇張だ。
通常国会が始まり、民主党の小沢代表は代表質問で、この国会を「格差是正国会」と位置づけた。自民党の「成長路線」に対抗して「格差是正緊急措置法案」を提出し、最低賃金の引き上げや正社員と非正規社員の同一労働・同一賃金を求めるのだという。まぁ民主党の提出する法案なんてどうせ通るはずもないので、どうでもいいといえばいいのだが、小沢氏が社民党みたいな温情主義を唱えるのは似合わないし、嘘っぽい。この対立が参院選まで続き、最大の政治的争点になりそうなのは憂鬱だ。
たしかに景気が回復しても生活が改善された実感がないことは事実だが、それは格差のせいではない。相対的な指標でみると、日本人は貧しくなっているのだ。日本の1人あたりGDPは、1993年には35,008ドルで世界第1位だったのが、2005年には35,650ドルで、OECD諸国30ヶ国中14位に転落した(国民経済計算確報)。この12年間で、所得はわずか600ドルあまりしか増えなかったことになる。
これは円が弱くなり、ユーロが強くなって欧州諸国に抜かれたことも一因だが、通貨価値も経済力の指標の一つだ。最近の1ドル=120円前後という為替レートは、購買力平価とほぼ見合う水準であり、円は過小評価されているわけではない。国内の数字で比較しても、1990年を基点として日本経済が年率2%(先進国の平均成長率)で成長を続けたと想定した場合のGDPと比べると、現実のGDPはその90%以下だ。格差以前に、所得が文字どおり50兆円以上も失われたのである。
民主党の主張するように、最低賃金の引き上げや同一労働・同一賃金の規制を行ったら、何が起こるだろうか。日本の最低賃金が国際的にみて低いことは事実だが、これを引き上げたら、非正規労働者の市場はきわめて競争的なので、企業はパートを減らして正社員に残業させるだろう。またパートの賃金を正社員と同一に規制したら(欧州で問題になっているように)非正規労働者の賃金は上がるが、彼らの失業率も上がるだろう。こういう「1段階論理の正義」は、かえって格差を拡大してしまうのである。
ただ問題なのは、最低賃金が生活保護よりも低いという状態だ。これはむしろ生活保護を改革し、勤労所得税額控除(EITC)のような労働のインセンティブをそがない制度を導入したほうがよい。いずれにせよ、労働問題を決まったパイをいかに平等にわけるかという問題ととらえるのは誤りだ。景気回復によって新卒がバブル期以来の人手不足になっているように、経済成長によってパイが大きくなれば、だれもが利益を得ることができるのである。
日本は「失われた15年」にゾンビを延命したことで、金融システムを改革するチャンスをつぶすとともに、労働市場を流動化するチャンスもつぶしてしまった。退職一時金や企業年金などでサラリーマンを囲い込む「日本的経営」が、企業収益を圧迫するとともに労働移動をさまたげ、正社員と非正規労働者の格差を拡大しているのだ。だからこういう制度の税制優遇をやめ、日本的経営を解体して労働生産性を高めることが究極の格差是正策である。「壊し屋」の小沢氏には、こっちのイメージのほうが似合っていると思うが、どうだろうか。
たしかに景気が回復しても生活が改善された実感がないことは事実だが、それは格差のせいではない。相対的な指標でみると、日本人は貧しくなっているのだ。日本の1人あたりGDPは、1993年には35,008ドルで世界第1位だったのが、2005年には35,650ドルで、OECD諸国30ヶ国中14位に転落した(国民経済計算確報)。この12年間で、所得はわずか600ドルあまりしか増えなかったことになる。
これは円が弱くなり、ユーロが強くなって欧州諸国に抜かれたことも一因だが、通貨価値も経済力の指標の一つだ。最近の1ドル=120円前後という為替レートは、購買力平価とほぼ見合う水準であり、円は過小評価されているわけではない。国内の数字で比較しても、1990年を基点として日本経済が年率2%(先進国の平均成長率)で成長を続けたと想定した場合のGDPと比べると、現実のGDPはその90%以下だ。格差以前に、所得が文字どおり50兆円以上も失われたのである。
民主党の主張するように、最低賃金の引き上げや同一労働・同一賃金の規制を行ったら、何が起こるだろうか。日本の最低賃金が国際的にみて低いことは事実だが、これを引き上げたら、非正規労働者の市場はきわめて競争的なので、企業はパートを減らして正社員に残業させるだろう。またパートの賃金を正社員と同一に規制したら(欧州で問題になっているように)非正規労働者の賃金は上がるが、彼らの失業率も上がるだろう。こういう「1段階論理の正義」は、かえって格差を拡大してしまうのである。
ただ問題なのは、最低賃金が生活保護よりも低いという状態だ。これはむしろ生活保護を改革し、勤労所得税額控除(EITC)のような労働のインセンティブをそがない制度を導入したほうがよい。いずれにせよ、労働問題を決まったパイをいかに平等にわけるかという問題ととらえるのは誤りだ。景気回復によって新卒がバブル期以来の人手不足になっているように、経済成長によってパイが大きくなれば、だれもが利益を得ることができるのである。
日本は「失われた15年」にゾンビを延命したことで、金融システムを改革するチャンスをつぶすとともに、労働市場を流動化するチャンスもつぶしてしまった。退職一時金や企業年金などでサラリーマンを囲い込む「日本的経営」が、企業収益を圧迫するとともに労働移動をさまたげ、正社員と非正規労働者の格差を拡大しているのだ。だからこういう制度の税制優遇をやめ、日本的経営を解体して労働生産性を高めることが究極の格差是正策である。「壊し屋」の小沢氏には、こっちのイメージのほうが似合っていると思うが、どうだろうか。
間抜けなことに、フィッシングに引っかかってパスワードを盗まれてしまった。amazon@teamservice.comというアドレスから
This is your final warning about the safety of your Amazon account. If you do not update your billing informations your access on Amazon features will be restricted and the user deleted. This might be due to either following reasons:というメールが来て、ちょっと変だなと思いつつ、そのURLをクリックすると、図のようにAmazon.comそっくりの画面が出てくる。ここでアドレスとパスワードを入れると、クレジットカードの番号を入力する画面が出てくる。さすがにここで不審に思ってURLを見ると、"http://www.cebessemans.be/..."となっている。これは危ないと思って入力するのをやめたら、すぐ本物のAmazonから
As a precaution, we've reset your Amazon.com password because you mayというメールが届いた。幸いカード番号は盗まれなかったので、パスワードを変更するだけですんだが、メールもウェブサイトも、デザインは本物そっくりで、URLを見なかったらだまされるだろう。このメールはAmazonのユーザーに広く出されていると思われるので、ご注意を。
have been subject to a "phishing" scam.
ポール・クルーグマンのミルトン・フリードマンについてのエッセイがおもしろい。
このエッセイの訳者などの外野から「インフレ目標を設定しろ!」という大合唱が起きたにもかかわらず、日銀がそれを設定しなかった理由は、クルーグマンの理論がこういう「大きな弱点」を抱えていたからだ(植田和男『ゼロ金利との闘い』)。根本的な原因は自然利子率が負になっている(投資需要が極度に減退している)という異常な状態であり、デフレはその結果にすぎない。デフレを直すことによって不況を脱出しようというのは、体温計の目盛を変更して熱をさまそうというようなものだ。
要するに、短期の異常現象は短期的な変数だけでは必ずしも説明できないのである。なぜ投資需要が減退し、企業が貯蓄主体になってしまったのかは(定義によって)ケインズの枠組では説明できない。ケインズは投資需要の源泉をアニマル・スピリッツという冗談ですませてしまったが、いま日本で深刻なのは、まさにアニマル・スピリッツの低下である。
だからクルーグマンのいうように、フリードマン以降の「ケインズ反革命」を再検討する時期に来ていることは確かだが、それはケインズに戻ることを意味しない。両者がともに捨象した経済システムの生産性(TFP)を内生変数として分析し、それをいかに上げるかという問題を考えなければならないのである。
フリードマンは、自由な市場の重要性を世に知らしめた点では、アダム・スミス以来の偉大な経済学者だ。しかし彼の学問的な著作はバランスがとれているのに、一般大衆や政治家に対しては「市場はすべて善で政府はすべて悪」という単純化された話をするようになり、それが電力自由化の失敗や中南米の極端な民営化政策による経済破綻などの不幸な結果をまねいた。なるほどおっしゃる通りだが、クルーグマン自身の過去の議論との整合性はどうなるのだろうか。彼は1998年の日本経済についてのエッセイで、日銀がインフレ目標を設定して通貨をジャブジャブに供給すればデフレを脱却できると主張した。実はこのエッセイでも、彼はゼロ金利のもとではマネタリーベースを増やしても何の効果もないことを認めているのだが、
特に重要なのは、ケインズとの関係だ。ケインズは、市場にすべてゆだね、安定化政策は金融政策で行えという古典派の教義を否定し、金利がゼロに近づいた場合には金融政策はきかないと主張した。金利がゼロになると、それ以上金利を引き下げることもできないし、貨幣も債券も同じになるから、中央銀行が債券を買って通貨を供給しても効果がないのである。
フリードマンとシュワルツは、"A Monetary History of the United States"でこれを否定し、FRBが十分な通貨を供給しなかったことが結果的に大恐慌を深刻にしたことを実証した。ところがフリードマンは、一般向けの話では、FRBがデフレ政策をとったとか、さらには大恐慌を引き起こしたのはFRBだと主張するようになった。
しかし、このような極端な主張は誤りである。1990年代の日本では、日銀は民間需要をはるかに上回る通貨を供給したが、デフレを止めることはできなかった。金融政策の有効性という点では、フリードマンよりケインズのほうが正しかったのである。
もし中央銀行が、可能な限りの手を使ってインフレを実現すると信用できる形で約束できて、さらにインフレが起きてもそれを歓迎すると信用できる形で約束すれば、それは現在の金融政策を通じた直接的な手綱をまったく使わなくても、インフレ期待を増大させることができる。と主張するのだ。う~ん、マネタリーベースを増やしてもインフレは起きないのに、日銀がインフレ目標を設定すればインフレが起きる? デフレ下では金融政策は無効であり、それを民間人が知っているのに、なぜ彼らは日銀の「約束」を信用するのだろうか。日銀が「金融政策を通じた直接的な手綱」以外のどういう政策手段をもっているのか。Mr.マリックでも雇って超能力を使うのだろうか。
このエッセイの訳者などの外野から「インフレ目標を設定しろ!」という大合唱が起きたにもかかわらず、日銀がそれを設定しなかった理由は、クルーグマンの理論がこういう「大きな弱点」を抱えていたからだ(植田和男『ゼロ金利との闘い』)。根本的な原因は自然利子率が負になっている(投資需要が極度に減退している)という異常な状態であり、デフレはその結果にすぎない。デフレを直すことによって不況を脱出しようというのは、体温計の目盛を変更して熱をさまそうというようなものだ。
要するに、短期の異常現象は短期的な変数だけでは必ずしも説明できないのである。なぜ投資需要が減退し、企業が貯蓄主体になってしまったのかは(定義によって)ケインズの枠組では説明できない。ケインズは投資需要の源泉をアニマル・スピリッツという冗談ですませてしまったが、いま日本で深刻なのは、まさにアニマル・スピリッツの低下である。
だからクルーグマンのいうように、フリードマン以降の「ケインズ反革命」を再検討する時期に来ていることは確かだが、それはケインズに戻ることを意味しない。両者がともに捨象した経済システムの生産性(TFP)を内生変数として分析し、それをいかに上げるかという問題を考えなければならないのである。
本来のHTTPでは、リンクをクリックすると同じウィンドウでリンク先のページを表示するが、このごろtarget属性を使って他のウィンドウを開くサイトが増えてきた。しかしサイトによって動作が違い、混乱している。たとえばライブドアは、すべてのリンクで別ウィンドウを開く。Googleはすべて同ウィンドウで開くが、Google Readerは別ウィンドウを開く。最悪なのはこのgooブログのように無原則なサイトで、本文のリンクは同ウィンドウに表示するのに、なぜかコメントのリンクは別ウィンドウを開く。
別ウィンドウを開くのは、普通のブラウザではわずらわしいが、タブブラウザではそのほうが見やすい(前のページに戻るのは面倒)。IEもタブをサポートするようになったので、別ウィンドウを基本にしたほうがいいと思うが、すべて別ウィンドウが開くのも見にくいから、「別のサイトに飛ぶときは別ウィンドウ」「同じサイトでは同ウィンドウ」と統一してはどうだろうか。
追記:TBで指摘されたが、W3CはXHTML1.1ではtarget属性を仕様から抹消したようだ。しかし、これはタブブラウザを想定していないだろう。
別ウィンドウを開くのは、普通のブラウザではわずらわしいが、タブブラウザではそのほうが見やすい(前のページに戻るのは面倒)。IEもタブをサポートするようになったので、別ウィンドウを基本にしたほうがいいと思うが、すべて別ウィンドウが開くのも見にくいから、「別のサイトに飛ぶときは別ウィンドウ」「同じサイトでは同ウィンドウ」と統一してはどうだろうか。
追記:TBで指摘されたが、W3CはXHTML1.1ではtarget属性を仕様から抹消したようだ。しかし、これはタブブラウザを想定していないだろう。
"Skeptical Environmentalist"の著者であるBjorn Lomborgによる「不都合な真実」の映画評。はてな匿名ダイアリーに日本語訳がある(一部改訳)。
追記:意外に大きな反響があったので、コメントで少し情報を補足した。この問題についてのバランスのとれた論評としては、Economist誌のサーベイが最近の新しい数字(いわゆるスターン報告)を踏まえて政策を検討している。その結論は「温暖化のリスクは存在するが、それを防ぐためのコストも大きいので、数値目標を立ててCO2削減を急ぐよりも漸進的に対策を進めたほうがよい」ということで、私も同感である。
彼は南極の2%が劇的に温暖化している図を持ち出しますが、残りの98%がこの35年間で大幅に寒冷化していることは無視しています。国連気候パネルは、今世紀中に南極の雪の量が実際のところは増大していくだろうと予測しています。そしてゴアは北半球で海氷が減っていることを示しますが、一方で南半球で増えていることには言及しません。Easterlyが正しいとすれば、750億ドルで途上国の問題が解決すると考えるのは楽観的すぎると思うが、京都議定書がバカげているのは間違いない。
同様に、2003年にヨーロッパで起きた破壊的な熱波から、地球温暖化により今後より多くの死者が生まれるだろうとゴアは結論づけます。しかし地球温暖化のおかげで、寒さで死ぬ人は減るでしょう。多くの発展途上国において、寒さで死ぬ人は暑さで死ぬ人よりもずっと多いのです。イギリスだけでも、気温が上がれば暑さによる死者は2050年までで2000人増えるでしょうが、寒さによる死者は20000人減るはずです。
実際のところ、本当に問題とすべきなのはお金を賢く使うことなのです。[・・・]発展途上国にとって切迫した問題には、私達に容易に解決できるものがあります。国連の見積りによると年間に750億ドル、京都議定書を実行する半分の費用で、清潔な飲料水、下水設備、基本的な医療、そして教育を、地球上の全ての人に供給することができるのです。最優先すべきなのは、こっちではないでしょうか?
追記:意外に大きな反響があったので、コメントで少し情報を補足した。この問題についてのバランスのとれた論評としては、Economist誌のサーベイが最近の新しい数字(いわゆるスターン報告)を踏まえて政策を検討している。その結論は「温暖化のリスクは存在するが、それを防ぐためのコストも大きいので、数値目標を立ててCO2削減を急ぐよりも漸進的に対策を進めたほうがよい」ということで、私も同感である。
90年代の日本経済について、企業データまで調べた厳密な実証分析が出てきたのは、ここ1、2年のことである。去年秋の日本経済学会のシンポジウムでは、そうした研究を踏まえて「失われた10年」をめぐる議論が行われたが、「長期不況の主要な原因はデフレギャップではなくTFP(全要素生産性)成長率の低下であり、それをもたらしたのは追い貸しによる非効率な資金供給だ」ということでおおむね意見が一致した。
本書は、こうした実証研究の先駆となった編者が、専門家の研究を集めた3巻シリーズの論文集の第1巻である。どの論文も非常に専門的なので一般向けではないが、長期不況についての研究のフロンティアを示している。編者は序文で、長期不況の原因は次の3つにあるとする:
- 生産性(TFP)の成長率の低下
- 金融仲介機能の低下による投資の不振
- 公共投資の非効率性
政策の優先順位も、本来はこの順序だ。長期的な成長率を最大化することが最優先の問題で、短期的な安定化政策はそれと整合的な範囲で行わなければならない。財政のバラマキや金融の超緩和で今年のGDPが1%上がっても、それによって生産性が低下して向こう10年のGDPが10%下がるようでは、こうした安定化政策の効果はマイナスになる。90年代に起こったのは、まさにそういう近視眼的マクロ政策の失敗だった。現在のGDPは、1990年を基点として2%成長が続いた場合に比べて10%も低いのである。
経済財政諮問会議がまとめた「日本経済の進路と戦略」が「生産性倍増計画」を掲げ、「イノベーション」を強調しているのは、こうした問題意識によるものだろう。しかしマクロ政策と違って、生産性の向上について政府ができることは少ない。資本主義の本質は、非効率な企業を淘汰することによって生産性を高めるダーウィン的メカニズムである。それをマクロ政策で歪めた結果、企業の新陳代謝が阻害され、TFP成長率が低下したのだ。
だから今後の政策で重要なのは、資本主義のメカニズムを機能させることだが、それはマクロ政策のようにだれもが喜ぶとは限らない。生産性を高めるには、効率の低い部門から高い部門へ資本と労働を移動するしかなく、そのためには財界のいやがる資本自由化と労組のいやがる労働市場の規制撤廃を徹底的に進めることが不可欠である。腰砕けの目立つ安倍政権に、それができるだろうか。
当ブログが、「アルファブロガーを探せ 2006」で第29位になった。
今年は投票というより、ブックマーク数や被リンク数などを総合した指数のランキングである。ニュースサイトなどは省かれているので、これは純然たる個人ブログのランキングだが、上位にも雑報や身辺雑記が多く、プロフェッショナルな情報を提供するものが少ない。このリストの中で私がGoogle Readerで毎回読んでいるのは、第4位と第36位だけだ。
今年は投票というより、ブックマーク数や被リンク数などを総合した指数のランキングである。ニュースサイトなどは省かれているので、これは純然たる個人ブログのランキングだが、上位にも雑報や身辺雑記が多く、プロフェッショナルな情報を提供するものが少ない。このリストの中で私がGoogle Readerで毎回読んでいるのは、第4位と第36位だけだ。
きのうのICPFセミナーで、スカイプの岩田さんの話を聞いて、ちょっと考えさせられた。
最初こちらで決めたタイトルは「スカイプが変えるIP電話の世界」だったが、先方からの注文で「スカイプが変えるインターネット・テレフォニーの世界」と変更した。その理由は、チャットやSkypecastと呼ばれる不特定多数の人が参加できる多人数電話(アマチュア無線ユーザーが多いという)など、さまざまな形のコミュニケーションが可能になり、スカイプは今では「多機能コラボレーション・ツール」ともいうべきものになっているからだ。
フュージョンと提携して050番号もとれるようになったし、携帯端末への組み込みも進んでいるので、今後はスカイプのアカウントさえあれば固定でも携帯でも送受信できるFMCが可能になるだろう。ドコモなどは端末でアプリケーションを動かせないように囲い込みをしているが、ノキアのE61のようなSIMロック・フリーの端末ならスカイプも使えるようになる(まだベータ版)。
さらにP2Pでトリプル・プレイも可能になろうとしている。創立者のZennstromたちは、JoostというプロジェクトでP2Pによるビデオ配信を始めた。これは今のところスカイプとは別の会社だが、Zennstromたちは両方の株主なので、将来は音声・映像を総合したP2Pプラットフォームになるかもしれない。何のことはない。原型であるKazaaに先祖返りしているのである。
このようにP2Pが向かっている方向はNGNとよく似ているが、そのアーキテクチャは対照的だ。NGNでは、すべての通信をSIPサーバでキャリアが管理し、仮想的なコネクションを張って通信品質を管理するのに対し、スカイプはほとんどの制御を端末で行う(アドレスの管理はスーパーノードと呼ばれる中継サーバを使う)。NGNはインフラに巨額の投資をしてFMCを行うのに対して、スカイプはアプリケーション層で通信を行うので、設備投資はゼロだ。
スカイプはキャリアのインフラに「ただ乗り」しているので、それを止めることは技術的には可能だ。アメリカで激しい論争になっている「ネットワーク中立性」は、この問題をめぐるものだが、今のところスカイプを止めたキャリアはない(*)。それはインターネットへの不介入という大原則を破ることになり、世界中のユーザーの批判を浴びるだろう。
さらに今後、FONのようなWi-Fiベースのインフラが普及すると、携帯電話もP2P化が進むだろう。固定電話がIP化によって消滅しつつあるのと同様、音声通話サービスとしての携帯電話が消滅するのも時間の問題だ。むしろ競争は、インフラがWi-Fi経由のインターネットになるか、それとも携帯電話(のデータ網)になるかだろう。
NGNとP2Pの関係は、ほとんど絵に描いたような持続的技術と破壊的技術の関係である。ユーザーは、高品質・高価格のNGNと中品質・ゼロ価格のP2Pのどちらを選ぶだろうか。
(*)コメントで指摘されたが、これは間違い。UAEなど国営キャリアが独占している国では、スカイプが禁止されている。
最初こちらで決めたタイトルは「スカイプが変えるIP電話の世界」だったが、先方からの注文で「スカイプが変えるインターネット・テレフォニーの世界」と変更した。その理由は、チャットやSkypecastと呼ばれる不特定多数の人が参加できる多人数電話(アマチュア無線ユーザーが多いという)など、さまざまな形のコミュニケーションが可能になり、スカイプは今では「多機能コラボレーション・ツール」ともいうべきものになっているからだ。
フュージョンと提携して050番号もとれるようになったし、携帯端末への組み込みも進んでいるので、今後はスカイプのアカウントさえあれば固定でも携帯でも送受信できるFMCが可能になるだろう。ドコモなどは端末でアプリケーションを動かせないように囲い込みをしているが、ノキアのE61のようなSIMロック・フリーの端末ならスカイプも使えるようになる(まだベータ版)。
さらにP2Pでトリプル・プレイも可能になろうとしている。創立者のZennstromたちは、JoostというプロジェクトでP2Pによるビデオ配信を始めた。これは今のところスカイプとは別の会社だが、Zennstromたちは両方の株主なので、将来は音声・映像を総合したP2Pプラットフォームになるかもしれない。何のことはない。原型であるKazaaに先祖返りしているのである。
このようにP2Pが向かっている方向はNGNとよく似ているが、そのアーキテクチャは対照的だ。NGNでは、すべての通信をSIPサーバでキャリアが管理し、仮想的なコネクションを張って通信品質を管理するのに対し、スカイプはほとんどの制御を端末で行う(アドレスの管理はスーパーノードと呼ばれる中継サーバを使う)。NGNはインフラに巨額の投資をしてFMCを行うのに対して、スカイプはアプリケーション層で通信を行うので、設備投資はゼロだ。
スカイプはキャリアのインフラに「ただ乗り」しているので、それを止めることは技術的には可能だ。アメリカで激しい論争になっている「ネットワーク中立性」は、この問題をめぐるものだが、今のところスカイプを止めたキャリアはない(*)。それはインターネットへの不介入という大原則を破ることになり、世界中のユーザーの批判を浴びるだろう。
さらに今後、FONのようなWi-Fiベースのインフラが普及すると、携帯電話もP2P化が進むだろう。固定電話がIP化によって消滅しつつあるのと同様、音声通話サービスとしての携帯電話が消滅するのも時間の問題だ。むしろ競争は、インフラがWi-Fi経由のインターネットになるか、それとも携帯電話(のデータ網)になるかだろう。
NGNとP2Pの関係は、ほとんど絵に描いたような持続的技術と破壊的技術の関係である。ユーザーは、高品質・高価格のNGNと中品質・ゼロ価格のP2Pのどちらを選ぶだろうか。
(*)コメントで指摘されたが、これは間違い。UAEなど国営キャリアが独占している国では、スカイプが禁止されている。
「発掘!あるある大事典Ⅱ」の捏造問題で、関西テレビは放送の打ち切りと社長の減給などの処分を決めた。映像はGoogleからもYouTubeからも削除されているが、番組サイトのキャッシュがまだ残っており、そこに台本の大筋が掲載されている。今週の『週刊朝日』にも詳細な記事が出ているので、それをもとに事実関係を検証してみた。
最大の問題は、関西テレビの謝罪文に書かれている
民放の制作体制は孫請け・曾孫受けで複雑になっており、特に海外については英語のできるリサーチャーに丸投げになっていることが多い。この番組のディレクターは英語ができなかったようだから、リサーチャーが間違えたか、そのレポートの内容をディレクターが取り違え、現地に行ってから人違いに気づいたが、今さらフィラデルフィアからセントルイスまで行く時間も予算もない。え~い、吹き替えればわからないや・・・となったのではないか。「アメリカで行った研究者への取材が難航し、制作会社サイドが追い詰められた」という記者会見の答は、そういう事情をうかがわせる。
正直にいうと、これに近いことは海外取材ではよくある。思ったとおりコメントが取れなかったとき、吹き替えで「作文」した経験のないディレクターはほとんどいないだろう。これが国内ならばれるが、海外ならその心配もない。特に今回のように専門的な話だと、内容に疑問をもつのはごくわずかの専門家だけだ。ハコフグマンのブログによれば、取材したのは日本テレワークの孫請けのアジトという零細プロダクションらしいが、「海外取材は人違いでした」などといったら、二度と仕事は来ないだろう。一か八かで捏造しようと考えても不思議はない。
しかし、この番組の骨格である「DHEAに腹部脂肪を減らす効果がある」という事実は、前述のVillareal教授らの研究で発表されており、嘘ではない。それをイソフラボンと結びつけ、さらに納豆と結びつけたのは医学的にはナンセンスらしいが、この程度のことは、DHEAというわかりにくい物質の話をおもしろく見せる演出の一種だろう(許される範囲かどうかは微妙だが)。もう500回を越えて、健康食品のネタも尽きていたのではないか。
実験データの捏造も、それほど深刻なものではない。もともとテレビ番組の実験なんて学問的に厳密なものではないし、大事なポリアミンの実験データの解析だけはしていたようだから、100%捏造というわけではない。これがだめなら、「超能力」と称してやっているいかがわしい「実験」や、占い師のおばさんが2時間にわたって根拠不明の「予言」をする番組はどうなるのか(**)。
こうみると、今回の番組はそう突出した例外ではない。異常なのは人違いのインタビューを吹き替えでごまかしたことだが、それも運悪く週刊誌の取材を受けたからばれただけで、実験データの捏造は過去にも疑惑が指摘されていた。納豆業界に事前に情報が流れていたというのも、別に問題になるようなことではない。だから不二家みたいに「総懺悔」にならないで、どうやって品質管理するか、どこまで演出が許されるかを冷静に考えたほうがよい。
私は番組を発注する側にも受注する側にもいたことがあるが、発注元のテレビ局がこういう捏造をチェックすることは不可能である。試写でチェックするのは、客観的に見て辻褄のあわない部分やわかりにくい部分だけだ。下請けプロダクションは制作の過程から関与しているので、事実関係の誤りなどはチェックできるが、それでも捏造されたらだめだ。ディレクターが嘘をつくということは想定していないのである。
捏造を事前に防ごうと思えば、すべての取材過程に管理職が同行してチェックする「内部統制」が必要になるが、それでは仕事にならないので、チェックは人事でやるしかない。捏造がばれたら業界から永久追放される、という社会的制裁(ゲーム理論でいうtrigger strategy)が最後の歯止めだ。長期的関係で固定された下請け構造が、強力な品質管理装置になっていたのだ。
しかしこういう「村八分」的なペナルティは、下請け関係が流動化するとあまりきかなくなる。零細プロダクションはしょちゅうつぶれ、フリーのディレクターはプロダクションを渡り歩いているので、「前科」が残らない。給料も安いので、クビになってフリーターになっても失うものはあまりない。これは雇用流動化のコストであり、問題ディレクターについての「評判データ」を各社が共有するなど、モニタリングのしくみを考える必要がある。
(*)関西テレビの謝罪文では、誤って「デニス教授」と書いている。
(**)言葉が足りなかったようで、たくさんコメントがつき、高木浩光さんなどからもTBがついたので、補足しておく。私は捏造を擁護しているのではなく、民放の番組が事実を軽視する傾向はこの問題に限らないといっているのである。技術者からみれば、実験を冒涜するのはけしからんと思うかもしれないが、視聴者への悪影響という点では超能力や占い番組のほうが罪深いと私は思う。それは科学をあからさまに否定しているからだ。今回の事件は特殊なケースではなく、事実よりおもしろさを優先し、コストを徹底的にたたいて品質管理に手を抜く民放の体質が、たまたま表面化しただけだ。この体質を改めない限り、同様の問題はなくならない。
最大の問題は、関西テレビの謝罪文に書かれている
テンプル大学アーサー・ショーツ教授の日本語訳コメントで、「日本の方々にとっても身近な食材で、DHEAを増やすことが可能です!」「体内のDHEAを増やす食材がありますよ。イソフラボンを含む食品です。なぜならイソフラボンは、DHEAの原料ですから!」という発言したことになっておりますが、内容も含めてこのような発言はございませんでした。という点だ。しかし『週刊朝日』によれば、Arthur Schwartz教授がDHEAの研究者であり、彼がDHEAについてコメントしたことは事実のようだから、このインタビュー自体はまったくの捏造というわけではない。致命的なのは、このインタビューの前に出てきた56人の実験をしたのがワシントン大学のDennis Villareal教授らの研究(*)なのに、番組では実験の映像に続けて
そこで、調査のためスタッフは緊急渡米~!!情報の発信源である、ペンシルバニア州立テンプル大学へ駆け込み、アメリカ生物学の権威、アーサー・ショーツ博士を直撃した!と、まったく別人の研究をSchwartz教授の実験として紹介し、彼がそれについてコメントしたかのように構成していることだ。これは不可解である。どうして最初からVillareal教授に取材しなかったのか。『週刊朝日』によれば、彼は「日本のメディアの取材は受けていない」といっているそうだから、最初のリサーチ(下調べ)の段階で勘違いした疑いがある。
民放の制作体制は孫請け・曾孫受けで複雑になっており、特に海外については英語のできるリサーチャーに丸投げになっていることが多い。この番組のディレクターは英語ができなかったようだから、リサーチャーが間違えたか、そのレポートの内容をディレクターが取り違え、現地に行ってから人違いに気づいたが、今さらフィラデルフィアからセントルイスまで行く時間も予算もない。え~い、吹き替えればわからないや・・・となったのではないか。「アメリカで行った研究者への取材が難航し、制作会社サイドが追い詰められた」という記者会見の答は、そういう事情をうかがわせる。
正直にいうと、これに近いことは海外取材ではよくある。思ったとおりコメントが取れなかったとき、吹き替えで「作文」した経験のないディレクターはほとんどいないだろう。これが国内ならばれるが、海外ならその心配もない。特に今回のように専門的な話だと、内容に疑問をもつのはごくわずかの専門家だけだ。ハコフグマンのブログによれば、取材したのは日本テレワークの孫請けのアジトという零細プロダクションらしいが、「海外取材は人違いでした」などといったら、二度と仕事は来ないだろう。一か八かで捏造しようと考えても不思議はない。
しかし、この番組の骨格である「DHEAに腹部脂肪を減らす効果がある」という事実は、前述のVillareal教授らの研究で発表されており、嘘ではない。それをイソフラボンと結びつけ、さらに納豆と結びつけたのは医学的にはナンセンスらしいが、この程度のことは、DHEAというわかりにくい物質の話をおもしろく見せる演出の一種だろう(許される範囲かどうかは微妙だが)。もう500回を越えて、健康食品のネタも尽きていたのではないか。
実験データの捏造も、それほど深刻なものではない。もともとテレビ番組の実験なんて学問的に厳密なものではないし、大事なポリアミンの実験データの解析だけはしていたようだから、100%捏造というわけではない。これがだめなら、「超能力」と称してやっているいかがわしい「実験」や、占い師のおばさんが2時間にわたって根拠不明の「予言」をする番組はどうなるのか(**)。
こうみると、今回の番組はそう突出した例外ではない。異常なのは人違いのインタビューを吹き替えでごまかしたことだが、それも運悪く週刊誌の取材を受けたからばれただけで、実験データの捏造は過去にも疑惑が指摘されていた。納豆業界に事前に情報が流れていたというのも、別に問題になるようなことではない。だから不二家みたいに「総懺悔」にならないで、どうやって品質管理するか、どこまで演出が許されるかを冷静に考えたほうがよい。
私は番組を発注する側にも受注する側にもいたことがあるが、発注元のテレビ局がこういう捏造をチェックすることは不可能である。試写でチェックするのは、客観的に見て辻褄のあわない部分やわかりにくい部分だけだ。下請けプロダクションは制作の過程から関与しているので、事実関係の誤りなどはチェックできるが、それでも捏造されたらだめだ。ディレクターが嘘をつくということは想定していないのである。
捏造を事前に防ごうと思えば、すべての取材過程に管理職が同行してチェックする「内部統制」が必要になるが、それでは仕事にならないので、チェックは人事でやるしかない。捏造がばれたら業界から永久追放される、という社会的制裁(ゲーム理論でいうtrigger strategy)が最後の歯止めだ。長期的関係で固定された下請け構造が、強力な品質管理装置になっていたのだ。
しかしこういう「村八分」的なペナルティは、下請け関係が流動化するとあまりきかなくなる。零細プロダクションはしょちゅうつぶれ、フリーのディレクターはプロダクションを渡り歩いているので、「前科」が残らない。給料も安いので、クビになってフリーターになっても失うものはあまりない。これは雇用流動化のコストであり、問題ディレクターについての「評判データ」を各社が共有するなど、モニタリングのしくみを考える必要がある。
(*)関西テレビの謝罪文では、誤って「デニス教授」と書いている。
(**)言葉が足りなかったようで、たくさんコメントがつき、高木浩光さんなどからもTBがついたので、補足しておく。私は捏造を擁護しているのではなく、民放の番組が事実を軽視する傾向はこの問題に限らないといっているのである。技術者からみれば、実験を冒涜するのはけしからんと思うかもしれないが、視聴者への悪影響という点では超能力や占い番組のほうが罪深いと私は思う。それは科学をあからさまに否定しているからだ。今回の事件は特殊なケースではなく、事実よりおもしろさを優先し、コストを徹底的にたたいて品質管理に手を抜く民放の体質が、たまたま表面化しただけだ。この体質を改めない限り、同様の問題はなくならない。
ことほど左様に構造改革というのは多義的な言葉であり、特に「リフレ派」を自称する人々は「構造問題は幻想だ」などと批判した。しかし著者のいう構造改革の意味は、それほど曖昧ではない。1990年代末には、数十兆円の財政出動によって日本の財政赤字が世界最悪になったにもかかわらず、経済は回復しなかった。それに対して、マクロ政策に頼らないで産業構造の改革で生産性(潜在成長率)を高めることが大事だ、と著者が総裁候補だった小泉氏に説いたことが始まりである。
だから構造改革のコアは不良債権問題だが、著者の専門は金融ではないので、その政策はかなり荒っぽいものだった。特に、彼が「金融再生プログラム」で打ち出した「繰り延べ税金資産」についての査定の厳格化は大きな論議を呼び、自己資本の大半を繰り延べ税金資産が占めていたりそな銀行は債務超過の危機に直面した。
このため破綻の責任を追及されることを恐れた金融庁(つまり竹中氏)は、債務超過ではないことにして、「破綻ではなく再生だ」と称して、破綻処理をしないでりそなに合計3兆円の公的資金を注入した。この経緯についての本書の説明は、非常に苦しい。他の部分では明快に「抵抗勢力」を批判する著者が、ここだけは「資産査定は監査法人のやったこと」などと官僚答弁のようになってしまう。
結果的に、りそな救済によって株価は上がったが、それは著者のいうように構造改革の成果が上がったからではなく、市場が「竹中は銀行を救済する」というシグナルを読み取ったからだ。事実これを最後に都銀の破綻や国有化はなくなったが、オーバーバンキングは残り、ゾンビ企業も延命されてしまった。
そして今、著者はふたたび潜在成長率に注目する。一時は成熟したと思われたアメリカ経済は、1990年代後半以降、IT産業へのシフトによって生産性を高め、最近では潜在成長率は3%台後半に達するといわれる。これに対して日本は「失われた15年間」に平均1%しか成長しなかったため、1人当たりGDPはOECD30ヶ国中14位に転落してしまった。この停滞の最大の原因が、著者が中途半端に終結した不良債権処理なのである。
だから今後の日本経済の最大の課題は、積み残された産業構造の問題にあらためて着手することだが、90年代のような「非常時」にもできなかった改革を「平時」に行うことはむずかしい。著者が議員を辞職したのも、小泉氏のような「変人」でなければ改革はできないと見切りをつけたのだろう。いま必要なのは、狭義の経済政策というよりも、政治・行政も含めた文字どおり構造的な改革かもしれない。
映画「それでもボクはやってない」が昨日から公開され、話題になっている。私は見てないが、ちょうどそのストーリーを裏書するように、強姦事件で有罪判決を受けて服役した人が実は無実だったと富山県警が発表した。まるで日本では、無実の人がバンバン犯罪者にされてしまうみたいだが、これは本当だろうか。
こういうとき、よく引き合いに出されるのが、有罪率99%という数字である。たしかに日本の裁判で無罪になる率(無罪件数/全裁判件数)は94件/837528件=0.01%(2004年)で、たとえばアメリカの27%に対して異常に低いように見える。だが、アメリカの数字は被告が罪状認否で無罪を申し立てて争った事件を分母にしており、同じ率をとると日本は3.4%になる(ジョンソン『アメリカ人のみた日本の検察制度』)。
これでも十分低いが、これは日本では「逮捕されたらすべて有罪になる」ということではない。送検された被疑者が起訴される率は63%で、国際的にみても低い。多くの国では、犯罪の疑いのある者を起訴することは検察官の義務とされているが、日本では起訴するかどうかは検察官の裁量にゆだねられているからだ。したがって有罪件数を逮捕件数で割ると、国際的な平均水準に近い。
この違いの原因は、大陸法と英米法の違いにある。英米法では陪審員がおり、彼らは職業裁判官に比べて無罪の評決を出す確率が高く、検察官にとって予測がむずかしい。これに対して、日本では裁判官と検察官の間に有罪となるかどうかについてのコンセンサスがあるので、無罪になりそうなものは検事があらかじめふるい落としてしまうのだ。
このように司法手続きが実質的に行政(警察・検察)の中で完結しているので、その「成果」としての起訴案件が無罪になることは、深刻なスキャンダルとなる(メディアもそういう扱いをする)。これは検察官の昇進にも影響するので、彼らはきびしい「品質管理」を行って起訴の条件をきわめて保守的に設定する。その認識は警察も共有しているから、政治家などのむずかしい事件は逮捕もしない。
裁判官も罪状についての認識は検察官と同じだから、無罪にすることは勇気が必要だ。無罪判決を多く出す裁判官は「変わり者」とみられて、処遇も恵まれない。弁護士も確実に負ける刑事裁判はやりたがらないので、いい弁護士がつかない。したがってますます無罪になりにくい・・・という悪循環になってしまうのである。
冤罪の原因としてよく問題になる警察の「自白中心主義」も、このように行政の力が強いことが一つの原因だ。英米法では、裁判は対等なプレイヤーのゲームと考えられているから、司法取引や刑事免責など、捜査する側が被疑者と駆け引きするツールがたくさん用意されている。これに対して日本では、司法の主要部分は行政官が行うので、被疑者と駆け引きするのではなく「お上」の決めた罪状を被疑者に認めさせるという捜査手法になりやすい。
つまり問題は有罪率が高いこと自体ではなく、司法が実質的に行政官によって行われ、裁判以前の段階で事実上の「判決」が下されることにある。これは立法行為を実質的に官僚が行い、国会がそれを事後承認する機関になっているのと似ている。こういう行政中心のシステムは、交通事故のような定型化された犯罪を処理するのには向いているが、疑獄事件のようなむずかしい事案は、検察が恥をかかないために見送る結果になる。この状況をジョンソンは、ジョナサン・スイフトのいう蜘蛛の巣にたとえている。小さなハエは捕まるが、スズメバチやクマバチは巣を突き破って逃げてしまうのである。
こういうとき、よく引き合いに出されるのが、有罪率99%という数字である。たしかに日本の裁判で無罪になる率(無罪件数/全裁判件数)は94件/837528件=0.01%(2004年)で、たとえばアメリカの27%に対して異常に低いように見える。だが、アメリカの数字は被告が罪状認否で無罪を申し立てて争った事件を分母にしており、同じ率をとると日本は3.4%になる(ジョンソン『アメリカ人のみた日本の検察制度』)。
これでも十分低いが、これは日本では「逮捕されたらすべて有罪になる」ということではない。送検された被疑者が起訴される率は63%で、国際的にみても低い。多くの国では、犯罪の疑いのある者を起訴することは検察官の義務とされているが、日本では起訴するかどうかは検察官の裁量にゆだねられているからだ。したがって有罪件数を逮捕件数で割ると、国際的な平均水準に近い。
この違いの原因は、大陸法と英米法の違いにある。英米法では陪審員がおり、彼らは職業裁判官に比べて無罪の評決を出す確率が高く、検察官にとって予測がむずかしい。これに対して、日本では裁判官と検察官の間に有罪となるかどうかについてのコンセンサスがあるので、無罪になりそうなものは検事があらかじめふるい落としてしまうのだ。
このように司法手続きが実質的に行政(警察・検察)の中で完結しているので、その「成果」としての起訴案件が無罪になることは、深刻なスキャンダルとなる(メディアもそういう扱いをする)。これは検察官の昇進にも影響するので、彼らはきびしい「品質管理」を行って起訴の条件をきわめて保守的に設定する。その認識は警察も共有しているから、政治家などのむずかしい事件は逮捕もしない。
裁判官も罪状についての認識は検察官と同じだから、無罪にすることは勇気が必要だ。無罪判決を多く出す裁判官は「変わり者」とみられて、処遇も恵まれない。弁護士も確実に負ける刑事裁判はやりたがらないので、いい弁護士がつかない。したがってますます無罪になりにくい・・・という悪循環になってしまうのである。
冤罪の原因としてよく問題になる警察の「自白中心主義」も、このように行政の力が強いことが一つの原因だ。英米法では、裁判は対等なプレイヤーのゲームと考えられているから、司法取引や刑事免責など、捜査する側が被疑者と駆け引きするツールがたくさん用意されている。これに対して日本では、司法の主要部分は行政官が行うので、被疑者と駆け引きするのではなく「お上」の決めた罪状を被疑者に認めさせるという捜査手法になりやすい。
つまり問題は有罪率が高いこと自体ではなく、司法が実質的に行政官によって行われ、裁判以前の段階で事実上の「判決」が下されることにある。これは立法行為を実質的に官僚が行い、国会がそれを事後承認する機関になっているのと似ている。こういう行政中心のシステムは、交通事故のような定型化された犯罪を処理するのには向いているが、疑獄事件のようなむずかしい事案は、検察が恥をかかないために見送る結果になる。この状況をジョンソンは、ジョナサン・スイフトのいう蜘蛛の巣にたとえている。小さなハエは捕まるが、スズメバチやクマバチは巣を突き破って逃げてしまうのである。
「さよならマルクス」と題したブログの記事がある。何の話かと思ったら、学校教育に「弱肉強食」の競争原理を持ち込むな、という教育再生会議の批判だ。その論旨はともかく、問題は『資本論』の児童労働に関する記述が引用され、まるでマルクスが内田樹氏と同じことを主張したかのように書かれていることだ。たしかにマルクスは児童労働の悲惨な状況を描いたが、「競争原理から子供を守れ」などと主張したことはない。それどころか、彼は次のように書いているのだ:
運動会で着順をつけるのが「差別」だからみんな同着にしよう、というように子供を競争原理からずっと保護し続けることができるなら、それもいいだろう。しかし彼らは、いずれ社会に出て弱肉強食の現実に直面する。競争原理から保護されているのは、業績に関係なく給料のもらえる教師だけだ。彼らのセンチメンタリズムを子供に押しつけることは、「子供を守る」どころか、社会で闘えず、現実に適応できないニートを増やすだけである。
マルクスは競争原理を否定したこともないし、平等を実現すべきだと主張したこともない。戦後の日本社会を毒してきたのは、こういう少女趣味的なマルクス解釈であり、それを清算することが現代の「思想」的課題である。「さよなら」をいう前に、内田氏はちゃんとマルクスを読んだほうがいいのではないか。
この[ロバート・オーウェンの]教育は、一定の年齢から上のすべての子供のために生産的労働を学業および体育と結びつけようとするもので、それは単に社会的生産を増大するための一方法であるだけではなく、全面的に発達した人間を生み出すための唯一の方法でもある。(『資本論』第1巻 原著p.508)内田氏は「現代思想」の研究者ということになっているようだが、マルクスが肉体労働と精神労働の対立を止揚するものとして児童労働を積極的に評価したということは、思想業界の常識である。後年の『ゴータ綱領批判』では、もっとはっきり書いている:
児童労働の全般的な禁止を実行することは――もし可能であるとしても――反動的であろう。というのは、いろいろの年齢段階に応じて労働時間を厳格に規制し、また児童の保護の為にその他の予防措置をするなら、生産的労働と教育とを早期に結合する事は、今日の社会を変革するもっとも強力な手段の一つであるからである。文献学的には、内田氏の主張は問題にならないとして、彼とマルクスの主張のどちらが正しいだろうか?もちろん後者である。子供を特別な保護すべき存在とするようになったのは「ブルジョア社会」になってからであり、歴史的には(途上国では今でも)子供は労働力である。公教育は(内田氏の主張するように)子供を保護するためではなく、工場の規律に合わせて労働者を規格化するためにつくられたものだ。学校だけが、社会のルールから保護された楽園であるはずもない。
運動会で着順をつけるのが「差別」だからみんな同着にしよう、というように子供を競争原理からずっと保護し続けることができるなら、それもいいだろう。しかし彼らは、いずれ社会に出て弱肉強食の現実に直面する。競争原理から保護されているのは、業績に関係なく給料のもらえる教師だけだ。彼らのセンチメンタリズムを子供に押しつけることは、「子供を守る」どころか、社会で闘えず、現実に適応できないニートを増やすだけである。
マルクスは競争原理を否定したこともないし、平等を実現すべきだと主張したこともない。戦後の日本社会を毒してきたのは、こういう少女趣味的なマルクス解釈であり、それを清算することが現代の「思想」的課題である。「さよなら」をいう前に、内田氏はちゃんとマルクスを読んだほうがいいのではないか。
こんな広告が出ていた:
キヤノンも、同じような活動を宣伝している。こういうあからさまな偽善を得々と語る企業の社長が日本経団連の会長になる(しかもそれを経産省が表彰する)のだから、日本の企業の「社会的責任」なるもののお里が知れる。
エプソンは、使用済みカートリッジの回収率を向上し環境活動をより強く推し進めるべく、プリンタの使用済みカートリッジ回収でベルマーク運動に参加いたします。[・・・]これにより、資源の有効活用と廃棄物の減少による地球環境保全を図ることができるだけでなく、教育支援という社会貢献活動への参画を実現します。エプソンは「環境活動」に熱心らしいから、もっと環境保護に役立つ活動を教えてあげよう。それは回収したカートリッジを「分解・粉砕して再利用」するのではなく、そのままインクを詰め替えて再利用することだ。再生品が「品質を落とす」というなら、自分でやる必要はない。せめて再生カートリッジ・メーカーの仕事を妨害しないことだ。再生品メーカーに対して訴訟を起こす一方でカートリッジを熱心に回収するのは、それが再生品メーカーに渡るのを妨害するのが目的と思われてもしょうがない。
キヤノンも、同じような活動を宣伝している。こういうあからさまな偽善を得々と語る企業の社長が日本経団連の会長になる(しかもそれを経産省が表彰する)のだから、日本の企業の「社会的責任」なるもののお里が知れる。
NHK受信料の支払いを義務化する放送法の改正案が、通常国会に提出されることが決まった。菅総務相は「受信料を2割下げろ」と言い出して、NHKの橋本会長は「それは無理だ」と当惑しているようだが、今の体制のままで2割以上値下げする簡単な方法がある。
NHKでいちばんコストのかかる番組は何かご存じだろうか?それは大河ドラマでもNHKスペシャルでもなく、ローカル番組である。NHKスペシャルの番組単価は、平均して1本5000万円(人件費こみ)ぐらいだが、1時間のローカル番組は最低でも200万円ぐらいかかる。全国に約50ある県域局(及び北海道の管内局)がすべてローカル放送をやったら、1億円以上かかる計算だ。
経費を節約するには、各県の放送局機能を拠点局に集約し、たとえば東北の番組はすべて仙台から放送すればよい。県域局には中継機能と取材拠点だけを残し、素材を仙台に送って東北ローカルの番組として放送すればよいのである。拠点局は8局しかないから、これによってローカル番組予算は今の1/5ぐらいにでき、地方局の要員も半分以下に削減できよう。NHKの職員の半分は地方局にいるから、2割ぐらい値下げするのは容易である。
横浜市民のうち何割が、NHK横浜(UHF)の存在を知っているだろうか?首都圏と近畿圏でも県域放送はやっているのだが、内容は東京や大阪とほとんど同じで、誰も見ていないので集約が進められていた。ところが海老沢元会長は、逆に地上デジタルでは(免許を取るために)首都圏と近畿圏も県域で独自放送を拡大する方針を決めてしまった。この方針を白紙に戻し、首都圏と近畿圏のNHK県域局を廃止して、その電波を携帯電話や無線MANなどに開放すれば、競争促進にもなる。
NHKは「地域放送強化」を掲げ、ローカル放送の時間帯を大幅に増やしているが、生活が広域化し、グローバル化している時代に、これは時代錯誤である。現在の都道府県が行政単位として狭すぎるので、道州制にすべきだという議論も多い。そのパイロットケースとして、NHKを「道州化」してはどうだろうか。
NHKでいちばんコストのかかる番組は何かご存じだろうか?それは大河ドラマでもNHKスペシャルでもなく、ローカル番組である。NHKスペシャルの番組単価は、平均して1本5000万円(人件費こみ)ぐらいだが、1時間のローカル番組は最低でも200万円ぐらいかかる。全国に約50ある県域局(及び北海道の管内局)がすべてローカル放送をやったら、1億円以上かかる計算だ。
経費を節約するには、各県の放送局機能を拠点局に集約し、たとえば東北の番組はすべて仙台から放送すればよい。県域局には中継機能と取材拠点だけを残し、素材を仙台に送って東北ローカルの番組として放送すればよいのである。拠点局は8局しかないから、これによってローカル番組予算は今の1/5ぐらいにでき、地方局の要員も半分以下に削減できよう。NHKの職員の半分は地方局にいるから、2割ぐらい値下げするのは容易である。
横浜市民のうち何割が、NHK横浜(UHF)の存在を知っているだろうか?首都圏と近畿圏でも県域放送はやっているのだが、内容は東京や大阪とほとんど同じで、誰も見ていないので集約が進められていた。ところが海老沢元会長は、逆に地上デジタルでは(免許を取るために)首都圏と近畿圏も県域で独自放送を拡大する方針を決めてしまった。この方針を白紙に戻し、首都圏と近畿圏のNHK県域局を廃止して、その電波を携帯電話や無線MANなどに開放すれば、競争促進にもなる。
NHKは「地域放送強化」を掲げ、ローカル放送の時間帯を大幅に増やしているが、生活が広域化し、グローバル化している時代に、これは時代錯誤である。現在の都道府県が行政単位として狭すぎるので、道州制にすべきだという議論も多い。そのパイロットケースとして、NHKを「道州化」してはどうだろうか。
このところのケータイ業界の話題はiPhoneで持ち切りだが、日本で今ひとつ盛り上がらないのは、それが電話として使えないからだろう。「アジアでは2008年に発売」となっているが、これは日本と韓国を除くアジアという意味だ。日本で使うには3G(W-CDMAかEV-DO)をサポートしなければならないが、今のところ"3G iPhone"は噂の域を出ていない。
アップルが3GではなくGSMを採用したことに驚いている向きもあるようだが、グローバルな企業としては、この選択は当たり前だ。世界の市場シェアをみれば、GSM/EDGEが83%あるのに対して、W-CDMAとEV-DOは合計しても12%しかない。特にiPhoneはWi-Fiを搭載しているので、ブロードバンドのサービスはインターネットでと割り切れば、携帯電話はGSMで十分だ。ジョブズは「将来は3Gもサポートしたい」と言ったそうだが、過剰品質の日本で使えるようにするには数年かかるという見方もある。
しかしアップルが、世界第2の市場である日本でiPhoneが使えない状態を続けるとは思えない。そのためには、3Gとのデュアル端末を開発するよりも簡単な方法がある。日本の携帯キャリアがGSMをサポートすればいいのだ。
そんなことできっこない、という人が多いだろうが、実はソフトバンクの端末はすべて(海外ローミング用に)GSMとのデュアル端末になっており、ドコモにもそういう端末が増えてきた。問題は、基地局がGSMをサポートしていないことだが、これも解決策がある。1.7GHz帯の帯域のうち、ソフトバンクに割り当てられた5MHzは、同社がボーダフォンを買収した際に返却し、空いたままになっている。これがiPhoneも使える世界共通のGSM帯なのだ。
基地局でGSMをサポートするには、それほど大きな設備投資は必要ない。既存の基地局のラックにGSMの基板をさすだけである。これによって世界中のGSM端末が使えるようになるので、外国人ユーザーの需要も見込めるし、端末メーカーも世界共通規格の機種を開発することで競争力を高めることができる。GSM端末の原価は数十ドルなので、SIMロック・フリーにして通話料金を大幅に下げることもできる。
最大の問題は総務省が免許を出すかどうかだが、貴重な帯域をいつまでも空けておくわけにもいくまい。免許を取れる至近距離にいるのは、端末でほぼ100%GSMをサポートしているソフトバンクだろう。iPhoneをローカライズしたいという引き合いは日本の各キャリアからアップルに行っていると思うが、ソフトバンクが「改造なしで使える」という条件を出せば、孫社長とジョブズとの関係から考えても、勝てる可能性は高い。
日本の携帯電話メーカーが「パラダイス鎖国」で国際競争から落伍していることは、総務省も経産省も深刻な問題と受け止めている。裁量的な産業政策よりも、電波の開放による国際競争の導入こそが究極の競争力強化策だ。ソフトバンクも、既存のビジネスモデルの中で消耗戦を続けるより、SIMロック・フリーにして、GSMとiPhoneで一発逆転をねらってはどうだろうか。
アップルが3GではなくGSMを採用したことに驚いている向きもあるようだが、グローバルな企業としては、この選択は当たり前だ。世界の市場シェアをみれば、GSM/EDGEが83%あるのに対して、W-CDMAとEV-DOは合計しても12%しかない。特にiPhoneはWi-Fiを搭載しているので、ブロードバンドのサービスはインターネットでと割り切れば、携帯電話はGSMで十分だ。ジョブズは「将来は3Gもサポートしたい」と言ったそうだが、過剰品質の日本で使えるようにするには数年かかるという見方もある。
しかしアップルが、世界第2の市場である日本でiPhoneが使えない状態を続けるとは思えない。そのためには、3Gとのデュアル端末を開発するよりも簡単な方法がある。日本の携帯キャリアがGSMをサポートすればいいのだ。
そんなことできっこない、という人が多いだろうが、実はソフトバンクの端末はすべて(海外ローミング用に)GSMとのデュアル端末になっており、ドコモにもそういう端末が増えてきた。問題は、基地局がGSMをサポートしていないことだが、これも解決策がある。1.7GHz帯の帯域のうち、ソフトバンクに割り当てられた5MHzは、同社がボーダフォンを買収した際に返却し、空いたままになっている。これがiPhoneも使える世界共通のGSM帯なのだ。
基地局でGSMをサポートするには、それほど大きな設備投資は必要ない。既存の基地局のラックにGSMの基板をさすだけである。これによって世界中のGSM端末が使えるようになるので、外国人ユーザーの需要も見込めるし、端末メーカーも世界共通規格の機種を開発することで競争力を高めることができる。GSM端末の原価は数十ドルなので、SIMロック・フリーにして通話料金を大幅に下げることもできる。
最大の問題は総務省が免許を出すかどうかだが、貴重な帯域をいつまでも空けておくわけにもいくまい。免許を取れる至近距離にいるのは、端末でほぼ100%GSMをサポートしているソフトバンクだろう。iPhoneをローカライズしたいという引き合いは日本の各キャリアからアップルに行っていると思うが、ソフトバンクが「改造なしで使える」という条件を出せば、孫社長とジョブズとの関係から考えても、勝てる可能性は高い。
日本の携帯電話メーカーが「パラダイス鎖国」で国際競争から落伍していることは、総務省も経産省も深刻な問題と受け止めている。裁量的な産業政策よりも、電波の開放による国際競争の導入こそが究極の競争力強化策だ。ソフトバンクも、既存のビジネスモデルの中で消耗戦を続けるより、SIMロック・フリーにして、GSMとiPhoneで一発逆転をねらってはどうだろうか。
一昨日の記事にはすごい反響があり、昨日は当ブログで過去最高の2万アクセスを記録したので、少し学問的な付録を付け足しておく。
「自由度」とは何のことかわかりにくいというコメントがあったが、この元ネタは実はハイエクである。彼は、個人が効用を最大化するという新古典派経済学の功利主義を斥け、「パレート最適」のような福祉最大化を政策目標とすることも否定した。彼が法秩序の原則として掲げたのは、「任意のメンバーがその目的を達成するチャンスをできるかぎり高めること」である(cf. Gray)。その結果として所得が最大化されることは望ましいが、それは副産物にすぎない。これは効用を最大化する自由度(オプション価値)を最大化する「メタ功利主義」ともいうべきものだ。
ハイエクは社会で特定の目的を実現しようとする「ユートピア社会工学」を否定したが、制度(ルール)の設計を否定したわけではない。重要なのは、人為的に決めた目的に人々を従わせるテシス(実定法的秩序)ではなく、伝統の中から自然に進化するノモス(自生的秩序)である。それはコモンローのように多くの紛争処理の積み重ねの中から自然に生まれてくる常識のようなものだが、ハイエクは伝統を絶対化するのではなく、自由を基準にして制度を評価し、自由を阻害する法は廃止すべきだとする。この意味で、彼はみずからいうように保守主義者ではない。
資本主義が成功したのは、資源を効率的に配分したからではない。計画的に資本を蓄積するという点では社会主義のほうがすぐれており、1940年代まではソ連の成長率は西側よりも高かった。それが失敗したのは、資本蓄積が飽和し、技術革新(TFP)が成長率を決めるもっとも重要な要因となった60年代からである。つまり資本主義は、与えられた目的を最大化することではなく、目的をもたない自生的秩序であることによって柔軟な進化を実現したのである。
この考え方は、ビジネスにも応用できる。普通の会社で情報を生産するのは労働であり、この場合の目的は所得だから、生産を高めるには所得を高めればよい。ところがウェブの参加型サービスの場合には報酬はなく、情報の生産・交換そのものが目的だから、これを高める簡単な手段はなく、参加するユーザーがサービスの中に目的を見出すよう仕向けるしかない。
しかしサービスを設計した人の設定した目的が、ユーザーと一致することはまずない。たとえば携帯電話は、初期にはビジネスマン用の高価な事務機として設計されたが失敗し、料金を下げて女子高生のおもちゃになって成功した。NTTドコモのiモードが当初、発表されたときの売り物も、銀行振り込みなどのセキュリティだったが、実際にはそのサイトの大部分は娯楽系だ。だがサービス提供者が間違えても、ユーザーが勝手に目的を設定できるようになっていればよい。それが目的を持たない汎用技術(enabling technology)であるインターネットの強みだ。
だから制度設計でもサービスの設計でも重要なのは、なるべく意思決定をユーザーにゆだね、自由に改造できるようにすることだ。ユーザーの行動も大部分は間違っているだろうが、間違い(突然変異)の多さは進化の原動力であり、それを事後的に淘汰するメカニズムさえあればよい。もちろん、2ちゃんねるのようなアナーキーに転落しないように最小限度のルールを設定する必要はあるが、その場合も重要なのは自生的秩序を尊重し、目的を設定しないことだ。ハイエクが強調したように、自由とは「~を禁止しない」という消極的な概念であって、特定の目的を達成することではないからである。
「自由度」とは何のことかわかりにくいというコメントがあったが、この元ネタは実はハイエクである。彼は、個人が効用を最大化するという新古典派経済学の功利主義を斥け、「パレート最適」のような福祉最大化を政策目標とすることも否定した。彼が法秩序の原則として掲げたのは、「任意のメンバーがその目的を達成するチャンスをできるかぎり高めること」である(cf. Gray)。その結果として所得が最大化されることは望ましいが、それは副産物にすぎない。これは効用を最大化する自由度(オプション価値)を最大化する「メタ功利主義」ともいうべきものだ。
ハイエクは社会で特定の目的を実現しようとする「ユートピア社会工学」を否定したが、制度(ルール)の設計を否定したわけではない。重要なのは、人為的に決めた目的に人々を従わせるテシス(実定法的秩序)ではなく、伝統の中から自然に進化するノモス(自生的秩序)である。それはコモンローのように多くの紛争処理の積み重ねの中から自然に生まれてくる常識のようなものだが、ハイエクは伝統を絶対化するのではなく、自由を基準にして制度を評価し、自由を阻害する法は廃止すべきだとする。この意味で、彼はみずからいうように保守主義者ではない。
資本主義が成功したのは、資源を効率的に配分したからではない。計画的に資本を蓄積するという点では社会主義のほうがすぐれており、1940年代まではソ連の成長率は西側よりも高かった。それが失敗したのは、資本蓄積が飽和し、技術革新(TFP)が成長率を決めるもっとも重要な要因となった60年代からである。つまり資本主義は、与えられた目的を最大化することではなく、目的をもたない自生的秩序であることによって柔軟な進化を実現したのである。
この考え方は、ビジネスにも応用できる。普通の会社で情報を生産するのは労働であり、この場合の目的は所得だから、生産を高めるには所得を高めればよい。ところがウェブの参加型サービスの場合には報酬はなく、情報の生産・交換そのものが目的だから、これを高める簡単な手段はなく、参加するユーザーがサービスの中に目的を見出すよう仕向けるしかない。
しかしサービスを設計した人の設定した目的が、ユーザーと一致することはまずない。たとえば携帯電話は、初期にはビジネスマン用の高価な事務機として設計されたが失敗し、料金を下げて女子高生のおもちゃになって成功した。NTTドコモのiモードが当初、発表されたときの売り物も、銀行振り込みなどのセキュリティだったが、実際にはそのサイトの大部分は娯楽系だ。だがサービス提供者が間違えても、ユーザーが勝手に目的を設定できるようになっていればよい。それが目的を持たない汎用技術(enabling technology)であるインターネットの強みだ。
だから制度設計でもサービスの設計でも重要なのは、なるべく意思決定をユーザーにゆだね、自由に改造できるようにすることだ。ユーザーの行動も大部分は間違っているだろうが、間違い(突然変異)の多さは進化の原動力であり、それを事後的に淘汰するメカニズムさえあればよい。もちろん、2ちゃんねるのようなアナーキーに転落しないように最小限度のルールを設定する必要はあるが、その場合も重要なのは自生的秩序を尊重し、目的を設定しないことだ。ハイエクが強調したように、自由とは「~を禁止しない」という消極的な概念であって、特定の目的を達成することではないからである。
2ちゃんねるの閉鎖が秒読みに入ったようだ。世の中では民事の差し押さえが話題になっているが、私の印象では、ひろゆきが「年収は日本の人口より多い」などと公言していることのほうが引っかかると思う。国税がこういう発言を放置するとは思えないし、警察も裁判所の命令を公然と無視し続ける人物を見逃さないだろう。
ひろゆきは「賠償金を取る方法はない」と高をくくっているようだが、バブルの処理のときは、同様に開き直る不動産業者を警察は「競売妨害」などの罪で大量に投獄した。要は「あいつは悪い奴だ」というコンセンサスができるかどうかが問題で、そういう「国策」があれば犯罪は(よしあしはともかく)いくらでもつくれるのだ。ライブドアやWinnyには擁護論が高まったが、2ちゃんねるが閉鎖されても同情する人はほとんどいないだろう。
私も2ちゃんねるはほとんど読まないので、閉鎖されたとしても惜しむ気にはまったくならない。その功罪を精算すれば、日本で匿名性を悪用する習慣が定着し、Wikipediaまで汚染した害毒のほうがはるかに大きい。しかし世のビジネスマンが、2ちゃんねるから学ぶべきことが一つだけある。それは、ウェブでサービスが軌道に乗るにはシステムの自由度を高めることが必要条件だということである。
オープンソースや「ユーザー生成コンテンツ」を支えているのは、金銭的なインセンティヴではなく、ユーザーが情報を提供するモチベーションである。インセンティヴは報酬によって引き上げることができるが、モチベーションを上げる決まった方法はない。個人が情報を生産する目的は多様であり、その成果の尺度も決まっていないからだ。しかし一つだけいえることは、こうした多様な目的を許容する自由度が高いほどモチベーションを高めやすいということだ。だから、なるべくオープンにして参加の障壁を下げることが不可欠である。
自由度を上げると、ノイズも大きくなるが、LinuxやWikipediaのように母集団が大きくなれば、フィードバックも大きくなる(*)。「みんなの意見は正しい」とは限らないが、「集団の知恵」でノイズを事後的に修正することも可能になる。この場合に重要なのは、間違いをおかさないことではなく、ちょっとぐらい間違えてもシステム全体に影響が及ばないよう冗長性をもたせ、過渡的な間違いは許容することだ。それがインターネットのbest effortの思想である。
日本の企業が情報産業で失敗するのは、この点を理解していないからだ。製造業では、欠陥車で人が死んだらあとで直しますというわけには行かないので、事前に品質管理をしなければならないが、情報の世界では間違いを事後的に修正するしくみさえしっかりしていればよい。ところが個人情報保護法をめぐる騒動をみればわかるように、日本の企業は(政府やメディアも)一つの間違いも許さないという製造業のカルチャーがいつまでも抜けない。
もちろん、自由は必要条件であって十分条件ではない。ただ自由なだけでは、いくらアクセスが集まってもビジネスとして生き残れないから、自由をそこなわない範囲で秩序を維持する設計が必要だ。しかし両者は単純なトレードオフの関係にはない。最初から厳重に品質管理して参加を制限するとユーザーが集まらず、サービスそのものが成り立たないので、いくら品質が高くても意味がない。自由と秩序は、前者なしで後者がありえない辞書的順序になっているのである。
この問題は、今後ITの主戦場が家電に移ると、さらに深刻になるだろう。BML、イーピー、コピーワンス、サーバー型放送など、テレビ業界と家電メーカーの鎖国型ビジネスモデルは死屍累々なのに、またアクトビラのようにコンテンツを事前に「検閲」するシステムが出てくる。多くの大企業が資金や技術を結集したサービスがみんな失敗したのに、1人の不良青年がつくったシステムがこれほど大きなインパクトを社会に与えたのはなぜなのかを、日本の企業は真剣に考えるべきだ。
(*)栗原潔氏のブログによれば、Wikipediaの前身としてJimmy Walesは最初にNupediaというのをつくったそうだ。これは参加を博士号取得者に限り、7段階ものピア・レビューで審査するもので、3年間で24項目しかできなかった。これを閉鎖し、Ward CunninghamのWikiWikiWebのアイディアを取り入れたのが現在のWikipediaである。
ひろゆきは「賠償金を取る方法はない」と高をくくっているようだが、バブルの処理のときは、同様に開き直る不動産業者を警察は「競売妨害」などの罪で大量に投獄した。要は「あいつは悪い奴だ」というコンセンサスができるかどうかが問題で、そういう「国策」があれば犯罪は(よしあしはともかく)いくらでもつくれるのだ。ライブドアやWinnyには擁護論が高まったが、2ちゃんねるが閉鎖されても同情する人はほとんどいないだろう。
私も2ちゃんねるはほとんど読まないので、閉鎖されたとしても惜しむ気にはまったくならない。その功罪を精算すれば、日本で匿名性を悪用する習慣が定着し、Wikipediaまで汚染した害毒のほうがはるかに大きい。しかし世のビジネスマンが、2ちゃんねるから学ぶべきことが一つだけある。それは、ウェブでサービスが軌道に乗るにはシステムの自由度を高めることが必要条件だということである。
オープンソースや「ユーザー生成コンテンツ」を支えているのは、金銭的なインセンティヴではなく、ユーザーが情報を提供するモチベーションである。インセンティヴは報酬によって引き上げることができるが、モチベーションを上げる決まった方法はない。個人が情報を生産する目的は多様であり、その成果の尺度も決まっていないからだ。しかし一つだけいえることは、こうした多様な目的を許容する自由度が高いほどモチベーションを高めやすいということだ。だから、なるべくオープンにして参加の障壁を下げることが不可欠である。
自由度を上げると、ノイズも大きくなるが、LinuxやWikipediaのように母集団が大きくなれば、フィードバックも大きくなる(*)。「みんなの意見は正しい」とは限らないが、「集団の知恵」でノイズを事後的に修正することも可能になる。この場合に重要なのは、間違いをおかさないことではなく、ちょっとぐらい間違えてもシステム全体に影響が及ばないよう冗長性をもたせ、過渡的な間違いは許容することだ。それがインターネットのbest effortの思想である。
日本の企業が情報産業で失敗するのは、この点を理解していないからだ。製造業では、欠陥車で人が死んだらあとで直しますというわけには行かないので、事前に品質管理をしなければならないが、情報の世界では間違いを事後的に修正するしくみさえしっかりしていればよい。ところが個人情報保護法をめぐる騒動をみればわかるように、日本の企業は(政府やメディアも)一つの間違いも許さないという製造業のカルチャーがいつまでも抜けない。
もちろん、自由は必要条件であって十分条件ではない。ただ自由なだけでは、いくらアクセスが集まってもビジネスとして生き残れないから、自由をそこなわない範囲で秩序を維持する設計が必要だ。しかし両者は単純なトレードオフの関係にはない。最初から厳重に品質管理して参加を制限するとユーザーが集まらず、サービスそのものが成り立たないので、いくら品質が高くても意味がない。自由と秩序は、前者なしで後者がありえない辞書的順序になっているのである。
この問題は、今後ITの主戦場が家電に移ると、さらに深刻になるだろう。BML、イーピー、コピーワンス、サーバー型放送など、テレビ業界と家電メーカーの鎖国型ビジネスモデルは死屍累々なのに、またアクトビラのようにコンテンツを事前に「検閲」するシステムが出てくる。多くの大企業が資金や技術を結集したサービスがみんな失敗したのに、1人の不良青年がつくったシステムがこれほど大きなインパクトを社会に与えたのはなぜなのかを、日本の企業は真剣に考えるべきだ。
(*)栗原潔氏のブログによれば、Wikipediaの前身としてJimmy Walesは最初にNupediaというのをつくったそうだ。これは参加を博士号取得者に限り、7段階ものピア・レビューで審査するもので、3年間で24項目しかできなかった。これを閉鎖し、Ward CunninghamのWikiWikiWebのアイディアを取り入れたのが現在のWikipediaである。