2006年12月
ダニエル・フットNTT出版このアイテムの詳細を見る |
日本の「国のかたち」を考える場合、重要なのは「大きな政府か小さな政府か」といった問題ではなく、明治以来の行政中心の国家システムを改め、立法や司法とのチェック・アンド・バランスを機能させることだ。この点で日本と対照的なのは、英米の司法中心のシステムである。本書は、この違いをアメリカ人の著者が実証的に検証したものだ。
法社会学では、日本のように裁判所が行政の裁量を広く認めるのを「司法消極主義」、英米のように裁判所がしばしば行政の決定をくつがえすのを「司法積極主義」と呼ぶが、本書ではこれを「裁判所による政策決定」と呼ぶ。本書では通説と異なって、日本の裁判所も公害事件や雇用関係訴訟では司法的な救済の道を開いたとしているが、これは行政をチェックするというよりはそれを補完する役割に近い。
この原因は、日本では実質的に官僚が立法機能も果たしているため、内閣法制局で法律の整合性や違憲立法の審査が行われることにある。法制局長官をつとめた高辻正巳氏は、「もしも私が長官として認めた法案を最高裁が違憲と判断したら、私は切腹しなければならぬ」と語ったという。このように法律が集権的につくられるため、そのコードは相互に強く依存し、つくった者にしかわからないスパゲティ状になってしまう。
それに対してアメリカでは、法律は議会でつくられるので、独立な「モジュール」になっており、現在のネット中立性をめぐる法案のように、互いに整合性のない法案が6本も出るといったことも珍しくない。こうした法律の有効性や整合性は、最後は裁判所で決まる。このため、1996年通信法の場合には、FCCが決めたアンバンドル規制を裁判所が否定し、最終的には96年通信法は法廷によって葬られてしまった。
このように司法の力が強すぎることもアメリカでは問題になっており、どっちがいいかは一概にはいえない。一般的にいえば、日本のような集権型国家は、正しい目標がわかっていてそれを効率的に達成することだけが問題であるような場合には適しているが、目標がわからないときや、既定の政策を根本的に変更するときには向いていない。そして今、日本に求められているのは、こういう変化なのである。この意味で、司法の役割を強め、行政の裁量権を縮小することが日本の本質的な改革である。
私のインタビューが、FACTA onlineで連載される。今日はその第1弾。
NHK問題の厄介なところは、ほとんどの人がその実態を知らないで「公共放送とは何か」とか「ジャーナリズムはいかにあるべきか」などの観念論ばかりが増殖することだ。NHK国営化のお先棒をかついだ「懇談会」の報告書を書いたとされる長谷部恭男氏などは、その典型である。今月出た武田徹『NHK問題』(ちくま新書)も、「公共性」をめぐってハーバーマスやらロールズやらを振り回しているだけの駄本だ。彼らは、いつになったらインターネットの存在に気づくのだろうか。
NHK問題の厄介なところは、ほとんどの人がその実態を知らないで「公共放送とは何か」とか「ジャーナリズムはいかにあるべきか」などの観念論ばかりが増殖することだ。NHK国営化のお先棒をかついだ「懇談会」の報告書を書いたとされる長谷部恭男氏などは、その典型である。今月出た武田徹『NHK問題』(ちくま新書)も、「公共性」をめぐってハーバーマスやらロールズやらを振り回しているだけの駄本だ。彼らは、いつになったらインターネットの存在に気づくのだろうか。
吉野次郎日経BP社このアイテムの詳細を見る |
著者もいうように、テレビはおいしいビジネスである。その理由は、アメリカのようにケーブルテレビが発達することを阻止し、地上波しか見られないシステムを守ってきたからだ。本書では、難視聴地域まで中継局を建てたという理由があげられているが、それだけではない。ケーブルテレビの免許を市町村ごとに限定させて広域局の出現を防ぎ、BSには子会社で免許を申請して電波をふさぎ、徹底して新規参入を妨害してきたのである。
その結果、日本の地上波テレビの番組は、世界にも例をみない「進化」を遂げた。1日3時間半も見られるため、なるべく長時間だらだらと見られる作りになっているのだ。民放関係者によると、この傾向は一昨年ライブドアがニッポン放送株を買収したころから、特にひどくなったという。それまではドラマや報道などに一定のバランスをとって編成していたのが、「時価総額」を高めるために、視聴率が高く制作費の低いバラエティの比重がますます高くなったというのだ。
先日も、民主党の政調会のヒアリングで「民放の番組が下らないのは何とかならないか」ときかれたので、私は「民放が下らないことは問題ではない。それ以外に選択肢がないことが問題なのだ」と答えた。だれも民放にすぐれた番組を期待してはいないだろう。IP放送で多様な番組が見られればいいのだ。ところがテレビ局は、再送信同意をしないでIP放送に意地悪している。本書でも、その経緯は書かれているが、全体に取材が甘く、こうした動きの中でだれがどう政治的に動いたのか、といった背景が描かれていないため、業界ルポとしては物足りない。
電力線通信(PLC)がアマチュア無線の電波を妨害するとして、アマ無線ユーザーがPLC解禁の取り消しを求めて行政訴訟を起こすという。この問題については、もう10年近くいろいろな検討が行われてきた。実用上は問題がないことはわかっていたが、アマ無線側の主張する「航空・船舶無線で、もしものことがあったらどうするのか」などの脅し文句で解禁が遅れていた。
日本のアマ無線は55万局あるが、実際に稼動しているのはその半分以下と見られている。ハム人口はここ10年で半減し、平均年齢は50歳以上だ。それなのに、アマ無線には60MHz近い周波数が割り当てられている。これは数千万人が加入する携帯電話1社分とほぼ同じだ。特に1260-1300MHz帯はほとんど使われていないが、携帯電話なら4社ぐらい収容できる帯域だ。アマ無線衛星も、これまでに世界中で70も打ち上げられている。
このようにアマチュアの団体が大きな政治力をもっているのは、それが無線技術の生みの親だからである。もともと無線技術は、マルコーニが発明したころにはアマチュアのもので、初期の技術開発はアマチュアによって行われた。日本でも、アマ無線にはNHKより古い歴史がある。日本アマ無線連盟の原昌三会長は、80歳の今も36年間会長を続けている。既得権を無条件で認める電波行政にとっては、100年近い歴史をもつアマ無線は不可侵の世界なのである。
行政訴訟で原告側は、「無線LANなどのインターネット接続が普及し、PLCを解禁する必要性がない」と主張しているが、インターネットで必要なくなったのはアマ無線のほうである。法廷で争えばはっきりするが、彼らのもっている周波数は不可侵の財産権ではなく、5年間の免許で与えられた暫定的な権利にすぎない。免許を更新しないことも、行政の裁量の範囲内である。総務省は、この機会にアマ無線への周波数割り当てを抜本的に見直し、特に1.2GHz帯を開放すべきだ。
日本のアマ無線は55万局あるが、実際に稼動しているのはその半分以下と見られている。ハム人口はここ10年で半減し、平均年齢は50歳以上だ。それなのに、アマ無線には60MHz近い周波数が割り当てられている。これは数千万人が加入する携帯電話1社分とほぼ同じだ。特に1260-1300MHz帯はほとんど使われていないが、携帯電話なら4社ぐらい収容できる帯域だ。アマ無線衛星も、これまでに世界中で70も打ち上げられている。
このようにアマチュアの団体が大きな政治力をもっているのは、それが無線技術の生みの親だからである。もともと無線技術は、マルコーニが発明したころにはアマチュアのもので、初期の技術開発はアマチュアによって行われた。日本でも、アマ無線にはNHKより古い歴史がある。日本アマ無線連盟の原昌三会長は、80歳の今も36年間会長を続けている。既得権を無条件で認める電波行政にとっては、100年近い歴史をもつアマ無線は不可侵の世界なのである。
行政訴訟で原告側は、「無線LANなどのインターネット接続が普及し、PLCを解禁する必要性がない」と主張しているが、インターネットで必要なくなったのはアマ無線のほうである。法廷で争えばはっきりするが、彼らのもっている周波数は不可侵の財産権ではなく、5年間の免許で与えられた暫定的な権利にすぎない。免許を更新しないことも、行政の裁量の範囲内である。総務省は、この機会にアマ無線への周波数割り当てを抜本的に見直し、特に1.2GHz帯を開放すべきだ。
![]() | 大森 彌東京大学出版会このアイテムの詳細を見る |
戦後改革で、日本の政治・経済システムはほとんど解体されたが、官僚機構だけは(軍と内務省を除いて)残った。それはマッカーサーが占領統治を円滑に進めるため、天皇と「天皇の官吏」だけは残そうと考えたためだ――と一般には考えられているが、実は官僚機構も解体される寸前だったのである。それを明らかにするのが、本書の第1章に描かれた「職階法」をめぐる顛末だ。
これはGHQによって導入された米連邦政府などで採用されている人事制度で、公務員を職能ごとの「官職」で分類し、その職務の中で果たす「責任」を明示的に記述し、それに応じた「職級」に適合するかどうかの試験によって昇進させるものである。これはアメリカの大企業で一般的な「科学的人事管理」の手法を政府に導入し、政治任用にともなう猟官運動を抑止しようというものだった。
職階制は、1948年に施行された国家公務員法と1950年の職階法で規定されたが、当時の大蔵省給与局を中心とする官僚機構は、これに徹底的に抵抗した。建て前としての職階法は守りながら、戦前からの高等官/判任官という身分制度を守るため、職階に付随する給与制度として15段階の「給与等級」を定めた。これは戦前の15段階の身分制度と実質的に同じもので、そのうち6級に編入する試験に「上級職試験」という通称をつけ、戦前の高等文官と同じ昇進制度を守ったのである。
今でも職階法は存在するが、それは50年以上も執行されないまま放置されている。キャリアと呼ばれる上級職(現在のⅠ種職)も、上述のように法的根拠はないにもかかわらず、昇進ルールから退職後の天下りに到るまで戦前とほとんど同じだ。昇進試験も行われず、戦前と同じ厳密な年功序列が守られている。ここに見られるのは、戦犯を絞首台に送ったGHQの絶対的権力に対しても面従腹背で生き延びた、日本の官僚機構の恐るべき生命力である。
ただ職階制のようなアメリカ型の組織原則を日本に移植しても、うまく行ったとは思えない。本書も指摘するように、霞ヶ関の行動単位は「大部屋」による人的な結合であり、キャリアは多くの職務を転々とするジェネラリストだからである。本書は、行政の実態について多くの興味深い実態を紹介しているが、その提案する改革は、ノンキャリアの登用や政治任用の拡大など平凡だ。そういう改革が、何十年も前から提案されながら実現しない原因こそ真の問題である。それは本書のような行政学の範囲を超え、日本の「国のかたち」の根幹にかかわるのだろう。
ジョセフ・スティグリッツ徳間書店このアイテムの詳細を見る |
前の訳本のタイトルもひどかったが、今回はさらに醜悪だ。"Making Globalization Work"がなぜこんな邦題になるのか。著者のような一流のアカデミシャンが、こんな三流の版元と契約するのが間違っているのだ。ある編集者によると、前著は「当社も版権を買おうとしたが、徳間が常識はずれの値段を出してきた」という。著者の批判する「市場原理主義」が、彼自身の(日本での)名誉を台なしにしているのは皮肉なものだ。まぁ前著のような自称エコノミストの「解説」がないだけましだが。
残念ながら内容も、前著に比べるとかなり落ちる。かつてはグローバル化の重要性を説きつつ、その問題点を指摘していた著者が、本書ではグローバル化が必然的に格差を拡大し、途上国を搾取し、環境を汚染するかのように説いている。彼がノーベル賞を受賞した理由である情報の経済学によると、情報の非対称性(この訳本では「不均衡」と誤訳している)がある場合、「見えざる手は存在していないから、政府が適切な規制と介入を行わなければ、市場における経済効率の向上は望めない」(p.28)という。
いくら大衆向けの本でも、これはミスリーディングである。情報の非対称性がマクロ経済的にどういう効果を及ぼすかは、ほとんどわかっていない。それは確率的な最大化問題に帰着しやすいので、1970年代に流行したが、経済全体としてはマイナーな問題だというのが現在のコンセンサスだろう。政府が介入すれば、情報の非対称性が解決するという根拠もない。ノーベル賞を錦の御旗にしてアドホックな話を乱暴に一般化し、市場原理主義を攻撃するのは、学問的に誠実な態度とはいえない。彼がそれを信じているとすれば、なお悪い。
著者の議論の欠陥は、よくも悪くも政府の役割を過大評価していることだ。途上国が貧しいのは(先進国の)政府のおかげ。アジア通貨危機が拡大したのはIMFのおかげ。そして貧困を救えるのは(どこにあるのかわからない)賢明な政府の介入だという。IMFや世界銀行を呪う彼が、途上国を救済する「グローバルな協調行動」を提案するとき、その行動は具体的にどういう組織によって協調されるのだろうか。彼が賞賛する「反グローバリズム」のデモ隊だろうか。こういう本の実際的な効果は、そのタイトルだけを見た政治家が「グローバリズムは格差をもたらすのでよくない」といって、農業保護の維持に利用することだろう。
きのうのICPFセミナーでは、「情報大航海プロジェクト」をめぐって、経産省の久米さんの話を聞き、討論を行った。当ブログも読んでいただいているようで、「ユーザー主導の開発」「戦略的な開発ポートフォリオの運用」など、かつての大プロの轍を踏まないように工夫した形跡が見られる。今週の『日経ビジネス』では、肥塚雅博商務情報政策局長が「IT産業を牽引するのはFNHなどの大手ベンダーではなく、ユーザー企業だ」と発言している。コンソーシアムには、トヨタやイオンなども入っていて、製造業などの「日本の強み」を生かそうということらしい。
この場合のユーザーは、消費者ではなく財界系の企業だが、彼らが未来の産業を牽引できるだろうか。クリステンセンも指摘するように、持続的イノベーションが没落するのは、顧客を無視するからではなく、むしろその要求を聞いたために(顧客とともに)没落するのである。グーグルのような破壊的イノベーションは、新しい(今は存在しない)企業によってまったく新しい市場(たとえば検索広告)を作り出すことが多いので、いくら既存企業の話を聞いても生まれてこない。この点について久米さんは「エンドユーザーからのフィードバックの方法を考えたい」とのことだった。
「開発ポートフォリオ」という考え方には、リアルオプション的な発想が生かされているようだが、究極の問題は情報大航海プロジェクトそのものの「撤退オプション」を認めるかどうかである。かつての第5世代プロジェクトも、かなり柔軟に軌道修正したが、プロジェクトそのものはやめることはできず、結局10年続いた。今度のプロジェクトは3年計画が終わった段階で見直すそうだから、ここで撤退することも可能だろう。
グーグルのような新しい産業が育たないことが日本経済の最大の問題だという点は、私も同感だ。しかし、それを邪魔しているのは技術の不足でもなければ、企業を方向づける「羅針盤」の欠如でもなく、製造業に過剰適応した古い産業構造である。必要なのは、それを破壊する「負の産業政策」ではないか。それは経産省というより公取委の仕事かもしれないが・・・
この場合のユーザーは、消費者ではなく財界系の企業だが、彼らが未来の産業を牽引できるだろうか。クリステンセンも指摘するように、持続的イノベーションが没落するのは、顧客を無視するからではなく、むしろその要求を聞いたために(顧客とともに)没落するのである。グーグルのような破壊的イノベーションは、新しい(今は存在しない)企業によってまったく新しい市場(たとえば検索広告)を作り出すことが多いので、いくら既存企業の話を聞いても生まれてこない。この点について久米さんは「エンドユーザーからのフィードバックの方法を考えたい」とのことだった。
「開発ポートフォリオ」という考え方には、リアルオプション的な発想が生かされているようだが、究極の問題は情報大航海プロジェクトそのものの「撤退オプション」を認めるかどうかである。かつての第5世代プロジェクトも、かなり柔軟に軌道修正したが、プロジェクトそのものはやめることはできず、結局10年続いた。今度のプロジェクトは3年計画が終わった段階で見直すそうだから、ここで撤退することも可能だろう。
グーグルのような新しい産業が育たないことが日本経済の最大の問題だという点は、私も同感だ。しかし、それを邪魔しているのは技術の不足でもなければ、企業を方向づける「羅針盤」の欠如でもなく、製造業に過剰適応した古い産業構造である。必要なのは、それを破壊する「負の産業政策」ではないか。それは経産省というより公取委の仕事かもしれないが・・・