池田信夫 blog

Part 2

2006年12月

バブル崩壊から16年がたった。日本経済は「失われた15年」を脱却し、史上最長の景気拡大が続いていることになっているが、生活が改善された実感はない。安倍政権の「上げ潮路線」では、5年以内に名目成長率を3%台にすることが掲げられているが、GDPを拡大すればこの状況は変わるのだろうか。私は「物より心のほうが大事だ」といった議論をしているのではない。狭義の金銭的な指標だけを考えても、齊藤誠『成長信仰の桎梏』が指摘するように、GDPは政策目標ではありえないのだ。

ふつう最適成長理論などで設定される目的関数は、将来にわたる消費の積分値の最大化であって「総生産」の最大化ではない。GDPは消費と投資からなり、投資はそれによる将来の消費の割引現在価値に等しいと考えられているが、それが現在の消費と等価になる(GDPが現在と将来にわたる消費の代理変数になる)のは、経済が恒常成長経路の上にある場合に限られる。通常はGDPを「国内総消費」の近似と考えてもよいが、経済が恒常成長経路から大きくはずれた場合には、両者は量的に異なるばかりでなく、一方を増加させる政策が他方を減少させることがある。1990年代の日本が、そういうケースだった。すでに80年代から、日本経済の投資収益率は低下しており、投資額は将来の消費の現在価値を大幅に上回っていた。それがバブルである。

この差分が剥げ落ちた90年代になっても設備過剰状態は残り、それを解消するために負の設備投資(企業が貯蓄主体になる状態)が続いた。デフレは資金需要が供給を大幅に下回っている(均衡実質金利が負である)ことを示しており、資金供給を削減すべきだというシグナルだったのである。ところが90年代には、莫大な財政出動や超拡張的な金融政策によって投資水準を維持する政策が続けられた結果、市場から退場すべき古い(投資効率の低い)企業が温存され、日本の潜在成長率は大きく低下した。

政府にとってもっとも重要な指標は短期的なGDPではなく、資本効率を高めて将来にわたる総消費の価値を最大化することである。そのために必要なのはマクロ政策ではなく、老朽化した金融仲介機関を解体・再編し、資本市場によって資金(および人的資源)を収益率の高い部門に移動させることだ。しかし90年代末以降の異常な金融政策によって、実質的に破綻した銀行が延命されてしまった。資本市場を競争的にする対内直接投資も、三角合併のようなありふれたしくみさえ経団連が反対してつぶしてしまった。

負の投資が経済の効率を高める例は珍しくない。1980年代のアメリカ経済では、LBOによって成熟企業が解体・再編され、浪費されていたキャッシュフローが投資家に還元されて新しいIT産業に投下された。90年代後半の韓国でも、海外からの直接投資の引き揚げとIMFによる緊縮的な金融・財政政策のおかげで財閥が解体され、投資が効率化された。90年代の日本は、そういう政策転換によって高度成長期の産業構造を脱却するチャンスを中途半端な不良債権処理と量的緩和による銀行救済でつぶしてしまった。「失われた15年」に失ったものの大きさをわれわれが知るのは、これからである。
当ブログは私の個人的なメモで、多くの人に読んでもらおうとは思っていないし、一般受けするように書いてもいないのだが、最近は毎週10万ページビュー(35000ユーザー)を超えるようになった。gooブログのアクセスランキングでは、先週は約70万ブログのうち第6位。テクノラティのリンク数によるランキングでは、全世界の6300万ブログのうち5246位、日本では78位だ。こんな無愛想で小むずかしい「ロングテール」的なブログが「ヘッド」に位置するようになったのは意外だが、当ブログのような社会科学的な話は、日本では稀少価値があるのかもしれない。

ただ読まれている記事は、私の予想とは違う。過去1年のアクセス記録は残っていないので、「はてなブックマーク」のランキングを見ると、上位は次の記事だ:
  1. 同和のタブー
  2. 高利貸しが最貧国を救う
  3. auはなぜつながりやすいのか
  4. 効率の高すぎる政府
  5. SIMロックの解除は犯罪か
  6. 2ちゃんねる化するウィキペディア
  7. 過剰の経済学
  8. 著作権の延長は有害無益だ
  9. クリエイターに必要なのは著作権の強化ではない
  10. グーグル:迷い込んだ未来
トップが同和問題というのは意外だった。ウェブでも、こういう問題はあまりふれられないからだろうか。2のグラミン銀行も、さほど珍しいことを書いてはいないが、4とともに「長期的関係」についての記事への反響が大きい。携帯電話の話や、2ちゃんねるとかグーグルに関する記事が読まれるのは予想どおりだが、意外に著作権に関する記事への関心が強い。世の中に法律論は多いが、こういう原則論があまりないからだろうか。

リンク元では「はてな」が圧倒的に多く、そこからのリンクがトップページへのアクセスより多いことも珍しくない。日本でも、RSSが新たなメディアになりつつある感じがする。検索語では「国家の品格」が多く、コメントも200を超したが、本の内容がお粗末なので生産的な議論にはならなかった。コメントの数では、「アマチュア無線って必要なのか」が最高(264)だが、これも不毛な議論だった。アクセス元のアドレスはわからないが、IT業界以外にマスコミとか霞ヶ関の読者も多いようだ。最近は、取材などの際に「ブログに書かれていた件ですが・・・」というのが多く、説明が省けて便利だ。

来年は、このブログの記事をまとめて出版する予定だが、ブログの記事は1画面で完結するように短くしているので、そのままでは本にはならない。結局ほとんど全部書き直しになって作業が手間取っているが、来年の春には出したいと思っている。
2006年12月27日 22:20

宇宙のランドスケープ

レオナルド・サスキンド

日経BP社

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先週Smolinの本を読んで、宇宙論に興味をもったので調べてみたら、ちょうど「主流派」のリーダーの訳本が今週、発売された。もちろん結論はSmolinとは正反対で、物理学の理論としてどっちが正しいのかは私にはわからないが、話としてはこっちのほうがはるかに奇想天外でおもしろい。

ポイントは、Smolinの批判する人間原理(anthropic principle)を「物理学のパラダイム転換」と開き直って宇宙論の中心にすえたことだ。ひも理論の中身はわからなくても、人間原理はだれでもわかる。要は、この宇宙が今のような素粒子でできているのは、そうでなければ宇宙を観察する人間が存在しえないからだ。これは絶対に正しい。なぜなら同語反復だからである。

もちろん物理学の人間原理は、もっと洗練されている。たとえば宇宙定数(λ)とよばれる真空エネルギーの密度(多くの素粒子のエネルギーの和)は10-120だが、互いに無関係な素粒子の正負のエネルギーが偶然に相殺してちょうど0に近い値になることは考えられない。そこには何らかの理論的な理由があるはずだとだれもが考えたが、説明がつかない。そこで最後に出た結論は、これは偶然だが、人間にとっては必然だということだった。宇宙定数(物体間の斥力)が10-119より大きいと、宇宙が急速に発散し、銀河も生命も存在しえないからだ。

しかし、ひとつしかない宇宙でこのような幸運がそろう確率は0に近い。問題は、そういうありえない偶然が実現したことをどう説明するかである。ここで著者は、ひも理論の種類があまりにも多く「破綻した」といわれている状況を逆用し、むしろ莫大な数の宇宙があるからこそわれわれの宇宙もあるのだ、と主張する。私が宝くじに当たる確率は0に近いが、だれかが当たる確率は1である。ひも理論の予言するように10500種類の宇宙が存在すれば、そのひとつの宇宙定数が偶然λになる確率は高くなる(*)

問題は、宝くじが本当に発行されたのかということだ。今のところ、他の宇宙が存在するという根拠は観測では示せないが、インフレーション宇宙論によれば、インフレーションの繰り返しによって莫大な数の「ポケット宇宙」が生み出されているはずだ。実験は不可能だが、将来は宇宙の観測によって人間原理が検証されるかもしれない。ひも理論は完成には程遠いが、今のところ宇宙を説明する理論としてこれに代わるものはない。

とはいえ、この説明は憶測と状況証拠ばかりで、実証科学の理論としては心細く、まだ多くの物理学者が納得しているわけではない。ひも理論でノーベル賞を受賞した物理学者はいない(著者はその最有力候補)が、Ed Wittenは皮肉なことにフィールズ賞を受賞した。人間原理が反証不可能だというSmolinなどの批判に対して著者は、科学理論を選択するのは哲学者のこしらえた基準ではなく科学者集団の合意だと反論する。

話はほとんどSFのように荒っぽく、素人でも容易に突っ込みを入れられそうなところがおもしろい。問題が実証でも反証でもなく理論を信じるかどうかに帰着するなら、人間原理も「慈悲深い神が現在の宇宙を選んだ」と主張するインテリジェント・デザインも同列ということにならないか――という問いには、著者はその論理的な可能性を否定していない。物理学が天地創造説よりもすぐれているのは、(神という)仮説がひとつ少ないだけなのかもしれない。

(*)しかしSmolinも指摘するように、この逆は成り立たないので、人間原理は多宇宙の存在する根拠にはならない。宝くじに当たった人にとっては、発行枚数が1億枚でも1枚でも、自分が当たったという事象の確率は1だから、ひとつのサンプルから母集団の数を推定することはできないのである。
ウィキペディアの私に関する項目が、何度も削除されているらしい。いま残っているのは数行の経歴だけだが、これすら間違っている。私は「経済評論家」などと呼ばれたこともないし、名乗ったこともない。私が博士課程を中退したのは、1997年である。

前の記事でも書いたように、私は日本のウィキペディアの品質には疑問をもっているので、このブログでもほとんどリンクを張らない。大部分は英語版の質の悪いダイジェストで、日本語版オリジナルの項目には事実誤認や個人への中傷が多い。西和彦さんの項目などは、学歴や職歴まで間違いだらけで、本人が怒って編集し、大バトルが繰り広げられた末、大部分は削除されて保護されてしまった。

このようにウィキペディア日本版の質が悪い原因は、ウェブで匿名が当たり前になっていることが影響していると思われる。歌田明弘氏によれば、アメリカのブログの8割は実名だが、日本の9割は匿名だという。日本でこれほど匿名性が強い原因は、実名で発言すると会社ににらまれるとか、友人にきらわれるなど「評判」が傷つくことを恐れているからだろう。

だから2ちゃんねるは、日本社会の汚物みたいなものだが、排泄物を見れば健康状態がわかるように、そこには社会の裏面が映し出されている。匿名の世界では会社などの「ムラ社会」の抑圧から解放されるため、そのストレスを悪口や民族差別で解消する。「他人志向」で自我が弱く、何かを主張するよりも他人の評判を傷つけることに快感を覚える。自分の意見というものがないから、一方的な悪口ばかりで論争や相互批判が成立せず、議論の客観性をチェックする習慣がない。

こういう「匿名文化」のなかで言論への責任意識が希薄になっているため、ウィキペディアまで2ちゃんねる化しつつある。日本人の品質管理を支えているのは、ムラの中で評判を守る恥の意識だが、それが機能しない匿名の世界では、質を維持するインセンティヴがないのだ。私についての項目のようないい加減な記述を表示するのは「百科事典」の恥である。もっとチェック体制を強め、一定の基準を満たすまで掲載しないなど、品質管理をきびしくすべきだ。

追記:問題の項目が修正された。現職(上武大学)が抜けている点など、おかしなところはあるが、大筋では間違っていない(12/28)。

追記2:匿名IPでしつこくいやがらせを書き込む人物がいて、保護されてしまった(12/31)。日本では、匿名IPを禁止したほうがいいのではないか。

2006年12月26日 12:19

イノベーション 破壊と共鳴

山口栄一

NTT出版

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「クリステンセンの誤りを正す」などと書いてあるが、破壊的イノベーションに代わって著者が提示する「パラダイム破壊型イノベーション」の概念は実質的にほとんど変わらない。破壊的イノベーションの性能は初期には既存技術に劣っているとされるが、実際にはトランジスタなどの重要な破壊的技術の性能は最初から既存技術よりも高い、というのがその違いだが、これは本質的な問題ではない。著者のいう「パラダイム」も、クリステンセンの「バリュー・ネットワーク」の概念とほとんど同じだ。

実質的な違いは、破壊的技術が開発されても実行されない理由にある。それは第一線の研究者の物理特性についての「勘」のようなものが資金を提供する資本家や経営者にうまく伝わらないことにあるという。これは本書の扱う半導体には当てはまるのかもしれないが、あまり普遍性のある話ではない。それに対して研究者と経営者の「共鳴場」をつくれという提案も、アドホックでよくわからない。最後は2005年の総選挙など、話がとっちらかったまま終わってしまう。

ただ、イノベーションをパラダイム論と接合する著者の発想(数ページしか展開されていないが)は悪くない。一昨日の記事でも書いたように、誤った理論は反証によって葬られるとか、よい技術は必ず成功するといったナイーブな科学(技術)信仰を克服し、技術が選ばれる社内の意思決定やマーケティングなどの政治的プロセス(著者のいう「場」)を分析することがイノベーション論の課題だろう。

破壊的イノベーションを企業が容易に受けつけないのは、それなりに合理性がある。既存の技術に埋没したサンクコストが大きい場合、設備や組織をすべて取り替える破壊的イノベーションを採用することはリスクが大きいからだ。このような「局所最適化」の淘汰圧は大きな組織ほど強いので、重要なのは既得権の少ない小組織で開発を行い、バリュー・チェーンを短くして要素技術に特化した「突然変異」を市場に出すことだろう。この点で「モジュール化」が重要だという結論に本書も行きついているが、これは新しい提言とはいえない。
2006年12月24日 03:59

The Trouble With Physics

Lee Smolin

Houghton Mifflin

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私は物理学はよく知らないので、本書のひも理論(string theory)に対する批判が正しいのかどうかは判断できない。しかし専門家の書評をざっと見た限り、本書の内容が学問的にナンセンスということはないようだ。

1980年代に登場したひも理論は、最初は白眼視されていたが、そのうち理論物理学の主流になり、今ではひも理論の専門家でなければ一流大学で理論物理のポストは得られないという状態になっている。しかし提唱されてから20年以上たっても、ひも理論を検証する実験データはない。他方、理論は複雑怪奇になるばかりで、最近のバージョンでは、なんと10500種類もの異なるひも理論がありうるという。このアポリアに対する理論家の答は、人間原理である。無数の可能な宇宙の中から、人間の生存に適した宇宙だけが選ばれたのだ。なぜなら、そうでなければ人間に観測されえないからだ――という同語反復の論理(もちろん反証不可能)が、素粒子物理学の最先端の学会でまじめに論じられているというのは驚いた。

本書は、物理学に関心のない人にも「科学社会学」の事例研究としておもしろく読める。著者は、若いころファイヤアーベントに師事したことがあり、彼の「共約不可能性理論」が本書のベースになっている。今でも少なからぬ科学者が信じているポパーの「反証可能性理論」によれば、科学かどうかは理論が実験や観測データで反証できるかどうかで決まることになっているが、ひも理論の現状はこういうナイーブな科学論への反証だ。ひも理論は検証も反証もできないが、科学者はこの理論を放棄しない。それは美しく、数学的に難解で、これを駆使することが能力のシグナルになるからだ。ファイヤアーベントが指摘したように、科学もイデオロギーの一種であり、それを動かすのは政治なのである。

しかし物理学に要求される厳密性の水準は高い。実験で証明できない理論は、いくら美しくてもアリストテレスのように「あるべき宇宙」を主観的にのべているだけだ、という著者の基準でいえば、経済学の理論はすべて失格である。たとえば合理的期待モデルでは、すべての経済主体が集計的な需要関数を正確に予測すると仮定するが、これは容易に反証できる(というより絶対にありえない)。しかし、いまだに合理的期待は教科書に載っている。それが経済学者の考える「あるべき世界」像に一致するからだ。経済学は、いまだに天動説の段階を出ていないのである。

追記:訳本が出たようだ。
2006年12月22日 14:03
IT

NGNはインターネットではない

NGNのトライアルが、華々しく始まった。これまで、その「キラー・アプリケーション」が何なのか、はっきりしなかったが、どうやらアクトビラらしい。家電メーカーがテレビ局主導の「サーバー型放送」に見切りをつけ、IPベースのサービスに重心を移したのは結構なことだ。しかし問題は、これがインターネットではないということである。

インターネットの必要条件は、TCP/IPを採用するだけではなく、それが全世界のホストとオープンに相互接続(internetworking)可能だということだ。私はアクトビラのようなビジネスを山ほど見てきたが、こういう「インターネットもどき」のwalled gardenが成功したことは一度もない。家電メーカーが「検閲」し、YouTubeも2ちゃんねるも見られない人畜無害のサービスが、ただでさえむずかしいSTBベースのビジネスで勝ち残ることは不可能である。

さらに大きな問題は、NGNもインターネットではないことだ。NGNの基本的な考え方は、SIPでセッションを張って通信品質を保証するものである。SIPは、もとはVoIPのためのプロトコルで、いわばインターネットの中に仮想的な電話網をつくるものだ。インターネットの基本思想であるE2Eでは、すべてのホストは同格で特権的なサーバは存在しないが、SIPは呼制御をSIPサーバで行うため、ここにトラブルが起こると、先日の「ひかり電話」の事故のようにネットワーク全体がダウンする。このアーキテクチャを継承するNGNは、自律分散型のインターネットではないのである。

もともとNGNは、携帯電話の3GPPで策定されたIMSが発展してできたものだ。これは没落する固定電話網を(電波で独占を守れる)携帯電話網に統合してコモンキャリアの収益を守ろうという発想で、ユーザーにどういうメリットがあるのかはっきりしない。FMCとかquadruple playというのも、携帯と固定で同じ電話番号が使えるという程度では意味がない。

ユーザーにとって意味があるのは電話代がタダになることであり、それはすでにスカイプで実現している。その構造はSIPとは違い、端末ですべての情報を処理するP2P=E2Eである。スカイプの通信品質が今のところ十分ではないことは確かだが、帯域が広がれば品質の問題も解決できるし、ほとんどのユーザーは現在のベスト・エフォートのインターネットで満足している。品質保証型サービスを企業向けに提供するのはいいとしても、ネットワーク全体を取り替える意味があるのだろうか。

映像伝送も、NGNを使えばHDTVが伝送できるというが、そんなことはインターネットでもできる。映像伝送のボトルネックはパイプではなく、サーバである。Winnyのようにキャッシュ伝送で負荷を分散しないと、設備投資の負担で映像伝送サービスは行き詰まるおそれが強い。ところが日本の警察はP2Pを非合法化してしまい、NGNもすべての負荷をキャリアに集中するシステムだ。

いま世界でNGNの導入がもっとも進んでいるのは、BTである。その「21世紀ネットワーク」計画では、「2008年9月までにコストを年間10億ポンド節約する」という具体的な目標を掲げている。ここではNGNとは交換機をルータに置き換えることでコストを節約するプロジェクトであり、物理的なインフラは主としてDSLを想定している。このコスト節約が料金の低下に結びつくなら、ユーザーにとってのメリットも明確だ。

ところがNTTの中期経営戦略では、「3000万世帯に光ファイバーを提供する」という目標が掲げられ、料金については何も書いてない。むしろISDNのような「高品質・高料金」をめざしているように見える。すべてのインフラを光に取り替えれば保守コストが減るというが、銅線が残る限りコストは増えてしまう。あとの3000万世帯はどうするのだろうか。光のいらないユーザーの設備も、無理やり取り替えるのだろうか。疑問はつきない。ICPFでは、NGNについて議論を行う予定(調整中)である。
先日の「著作権は財産権ではない」という記事には、意外に多くのアクセスがあったが、わかりにくいという批判もあったので、もう少しわかりやすい例で補足しておこう。

私は、かつてテレビ局で番組を発注・契約する立場にいたこともあるし、フリーで番組制作を請け負ったこともある。その経験からいうと、日本のコンテンツ産業の最大の問題は、著作物の利益が法的に保障されないことではなく、それが仲介業者に搾取され、クリエイターに還元されないことである。クリエイターの大部分は、フリーターとして低賃金・長時間労働で酷使されている。著作権の強化は、彼らにとっては意味がない。もともと権利は企業側に取られるしくみになっているからだ。

極端なのが映画である。かつては映画の興行収入は映画館がまず50%取り、残りの半分を配給会社が取り、あとの25%を制作会社が取るという配分が不文律になっていた。テレビの場合にはもう少しばらつきがあるが、この映画館が民放、配給会社が広告代理店と考えればよい。出版では、この比率はもっとひどく、印税は一律に10%だ。つまり日本では、仲介業者が売り上げの75%から90%を取るのである。

このように流通マージンが大きいのは日本の流通機構に広くみられる特徴で、その代わりマーケティングや在庫などのリスクは仲介業者が負うことが多い。他方クリエイターは、前払いで制作費をもらう一方、その売れ行きには責任を持たない。これはファイナンス理論でいうと、「売れた場合の利益は得るが、売れなかった場合の損失は負担しない」というオプションを仲介業者がクリエイターに売っている(制作費から差し引く)ことになる。仲介業者がリスクとリターンをすべてプールする下請け型の構造である。

こういう構造が成立しているのは、映画館やテレビの電波などの流通チャネルがボトルネックになっていたからである。映画館のようにシネコンなどでチャネルが多様化すると、収益の配分が変わり、新しいクリエイターが参入するようになる。プラットフォームの側からみても、仲介業者が売り上げの75%以上も取る配分は異常であり、新しいチャネルを提供して鞘取りする余地は大きい。インターネットは、そういう新しいプラットフォームの可能性をひらいている。

この場合、新しいプラットフォームは透明なE2E型になってリスクをプールせず、クリエイターがリスクもリターンも取ることになろう。Google/YouTubeのようなプラットフォームでビデオが流通するようになれば、日本のコンテンツ産業の構造も変わり、クリエイターに利益が還元されるようになる可能性がある。これに対して著作権の保護を口実にしてIP放送を妨害し、P2Pを犯罪に仕立てようとする仲介業者は、クリエイターの利益を守ると称して、仲介のボトルネック独占を守っているのである。コンテンツ産業を活性化するために必要なのは、著作権(という名の既得権)をこれ以上強化することではなく、競争政策を厳格に運用してこうした古い仲介業者を解体することだろう。
日経コミュニケーション

日経BP社

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本書はいわゆる業界もので、通信業界に関心のない人には何の意味もないが、業界関係者にとっては今年の動きを要領よくまとめてあって便利だ。特に重点を置いて描かれているのが、総務省の通信・放送懇談会がなぜ失敗したかという話である。特に新しい情報はないが、あらためてあきれるのは、竹中平蔵氏も松原聡氏も通信産業を理解しないでこの懇談会をやっていたということだ。

本書によれば、彼らのねらいは最初から「NTTの資本分離」だったという。松原氏も、そういう意味のことをインタビューでのべている。こういう「NTT解体論」が、日本の通信業界を混乱させている元凶である。インターネット時代に、市内電話の会社と長距離電話の会社を分離してどうするのか。こういうナンセンスな議論がいつまでも蒸し返されるおかげで、NTTは経営形態論議そのものを封殺しようとし、改革が進まないのだ。

もう一つのテーマは、NGNである。インターネットがもたらした本質的な変化は、コモンキャリアが通信を管理する20世紀型の通信アーキテクチャを否定したことだ。通信をコントロールするのはユーザーであり、ネットワークはdumb pipeになるというのがE2Eの基本思想である。今後のインターネットはP2Pのような超分散型になり、有線・無線にかかわらず物理的なインフラに依存しない仮想的なネットワークになろう。ところがNGNは、キャリアがすべてを統合しようという思想であり、特にNTTの場合には光化と一体になって進められている。それがユーザーにとってどんな魅力あるサービスを実現するのか、そして通信料金がどうなるのかもよくわからない。

これには、NTTの社内でも対応がわかれているようだ。特に「グローバルIPカンパニー」であるNTTコムがインフラを持たない上位レイヤーだけの会社になり、NGNから外されたことに不満をもっているという。他方、東西会社も「増収につながるのかどうかはっきりしない」と設備投資に消極的で、ドコモは「FMCなんて携帯の収入で固定の赤字を補填することになるだけ」と非協力的だ。今後のネットワークは、NGNが想定しているように垂直統合されるのではなく、NTT各社の実態が示すように水平分離され、有線と無線の「プラットフォーム競争」が進むのではないか。
政府税調の本間正明会長の「官舎入居問題」で、退陣論が強まっている。これには「愛人問題」もからめられ、ワイドショーでは連日、批判が強まっているが、本間氏は公務員であり、官舎に入居していたことは違法行為ではない。このようなプライベートな問題で、政府税調というきわめて重要な機関の長を代えるべきではない。そんな前例をつくると、今後ますます週刊誌のスキャンダル報道が増幅され、本筋と関係のない問題で政策が左右されることになろう。

週刊誌がこの手のスキャンダルを報じることは珍しくないが、自民党内で辞任論が強まっているのは、本間氏に対する反感が強いからだろう(週刊誌にリークした情報源も、その筋である可能性がある)。本間氏は、小泉政権で官邸主導の政策決定のブレーンをつとめ、竹中平蔵氏の財政政策は実質的には(恩師である)本間氏によるものだった。かつては実質的な力のなかった政府税調の権限が大きくなったことについても、党内の不満は強い。

そして小泉政権の終わりとともに、政府税調の力が弱まり、党税調主導に戻りつつあるといわれる。ここで党の圧力で会長が更迭されると、昔のように政府税調が形骸化してしまうおそれが強い。もともと非公式の機関にすぎない党税調が実質的な政策決定を行うのは異常であり、税制が利益誘導の道具に使われる原因となってきた。今回の退陣論も、こうした「昔の自民党」に戻そうとする力が働いているものと思われる。

私は、かつて本間氏と仕事で何回もつきあったことがあるが、彼は財政については原理主義者で、現在の税制を抜本的に是正すべきだという信念の持ち主である。ここで彼がやめると、もっと自民党のいうことをよく聞く人が会長になるだろう。それによってまたバラマキ税制が始まったら、国民のこうむる損失は何兆円にものぼる。7万円の官舎の家賃とは比較にならないのである。安倍首相は本間氏を徹底的にバックアップし、党内の圧力には屈しないという指導力を見せるべきだ。
私は法律の専門家ではないが、著作権の延長問題やWinnyに関する議論をみていると、賛否いずれの立場にしても、著作権に関する基本的な知識(素人でも持っておくべき知識)が共有されていないように見受けられる。そこで「法と経済学」の立場から、実定法にはこだわらず著作権の基本的な考え方について簡単にメモしておく。

まず確認しておかなければならないのは、著作権法は憲法に定める表現の自由を制限する法律だということである。これはもともと著作権法が検閲のために設けられた法律であることに起因するが、複製を禁止することは出版の自由(freedom of the press)の侵害であり、自然権としては認められないという見解もある。著作権の根拠として創作のインセンティヴという自然権として自明ではない理由があげられるが、これを認めるとしても保護の範囲は最小限にとどめるべきである(森村進『財産権の理論』弘文堂)。

第2に、著作権は財産権ではないということである。「知的財産権」という言葉がよく使われるが、これは特許権など雑多な権利の総称であり、著作権が憲法第29条に定める不可侵の財産権として守られるわけではない。著作権は、譲渡とともに消尽する財産権とは違い、譲渡された人の行為も契約なしで拘束する無制限の複製禁止権である(私のDP参照)。さらに権利を譲渡された人も複製禁止権をもつので、権利者が際限なく増え、一つの対象を多くの所有者がコントロールする「アンチコモンズの悲劇」が生じる。

表現にとって第一義的ではない複製という行為に着目したのは、かつては本を印刷・複製するにはコストがかかり、それを禁止することで著作物の利用をコントロールできたからだが、だれでも容易にデジタル情報を複製できる現在では、これは国民全員の行動を監視しなければ執行不可能であり、制度として効率が悪い。それよりも複製は自由にし、著者には報酬請求権だけを与えることが制度設計としては望ましい(田村善之『著作権法概説』有斐閣)。経済学的にいえば、コントロール権なしでキャッシュフロー権を確保する方法はいくらでもある(Shavell-Ypersele)ので、両者をアンバンドルすることが効率的である。

著作物が以前の著作を引用・編集することで成立する累積的効果も大きいので、複製を禁止するネットの社会的便益は負だという見解もある。この立場からは、狭義の財産権(著作者が情報を1回だけ譲渡する権利)のみを認め、複製禁止権は廃止すべきだということになる(Boldrin-Levine)。現在の無方式主義(権利の登録を必要としない)では、複製を広範に禁止することによる外部不経済を著作者が内部化しないので、登録制度によって著作者にもコストを負担させるべきだという意見もある。また前にも紹介したように、包括ライセンスを導入せよという意見は著作者の側から出始めている。

いずれにせよ、現在の著作権制度が抜本的な見直しを必要としているという意見は専門家に多いが、ベルヌ条約などで国際的に決められているため、「よその国も権利を強化したのだから、横並びで強化することが『文化先進国』の証しだ」といった幼稚な議論が横行しているのが現実だ。三田誠広氏や松本零士氏のいう「遺族の生活」がどうとかいう話は論外である。著作権法は著作者のインセンティヴのための法律であって、遺族の生活保障のためのものではない。そもそも彼らは、どういう資格があって著者の代表のような顔をしているのか。Time誌もいうように、文芸家協会に所属する小説家だけが特権的な著作者であるような時代はとっくに終わったのである。

追記:このほど改正された著作権法について解説するホームページが、文化庁のサイトにできた。IP放送を放送とみなす当たり前の改正に2年もかかり、しかもローカル局の電波利権を守るために「放送対象地域」に限ってIP再送信を認める及び腰の内容だ。文化庁は「ベルヌ条約を踏み出す思い切った改正だ」と自画自賛しているが、そもそも「IP放送は放送ではない」などというバカげた定義をしていたのは日本だけだ。これは文化庁が「自動公衆送信」なる概念で通信と放送を差別した結果である。

追記2:「著作権は財産権である」というTBがついているが、ここで論じているのはこういう解釈論ではなく、著作権の経済的な性格が有体物の財産権とは違うということである。Richard Stallmanも指摘するように、知的財産権という言葉は、自然権として疑わしい特権(privilege)を不可侵の財産権と混同させるために捏造された幻想である。

2006年12月17日 19:49
メディア

Person of the Year

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Time誌の今年の人は「あなた」だ。表紙には、あなたの顔が映るように印刷されている。内容はYouTubeやブロガーの話。要するに、世界を変えるのは無数のユーザーだという話である。

記事にはそれほど新しいことは書いてないが、Time誌がYouTubeをここまで肯定的に描いた影響は大きい。同誌は1982年にパーソナル・コンピュータを今年の人に選び、これがコンピュータ業界がPCに舵を切るきっかけになった。同じ年、日本は「第5世代コンピュータ」プロジェクトで人工知能を国策として推進した。そして今年はWinny判決で、YouTubeのような企業は犯罪に問うという国家意志を明確にした。かつて技術者の圧倒的多数はPCよりもAIを選んだが、それは袋小路だった。今回は、どちらの道に未来があるかは明らかだと思うのだが・・・
84227edd.jpg佐々木俊尚

文春新書

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本書の前半は、いま話題のWinnyに関する話だ。ほとんどは知られている話だが、1次情報に取材している点で信頼性が高い。特に著者が指摘するように、2ちゃんねるで、金子氏と目される「47」氏が
個人的な意見ですけど、P2P技術が出てきたことで著作権などの
従来の概念が既に崩れはじめている時代に突入しているのだと思います。

お上の圧力で規制するというのも一つの手ですが、技術的に可能であれば
誰かがこの壁に穴あけてしまって後ろに戻れなくなるはず。
最終的には崩れるだけで、将来的には今とは別の著作権の概念が
必要になると思います。
などと述べ、著作権で情報を守るビジネスモデルを崩壊させる目的で開発したと受け取れる発言をしている点は重要である。デジタル情報が自由にコピーできる時代に、それを警察力で禁止することによって辛うじて支えられているビジネスモデルは時代錯誤ではないか。かつてWWWがアンダーグラウンドで世界中に広がり、国家がそれを規制しようとしたときにはもう後戻りできなかったように、P2Pも「壁に穴」をあければ、あっという間に普及して後戻りできなくなるだろう――そう考えた彼のねらいは、少なくとも前半は正しかった。

しかし国家権力は、全力を挙げて後戻りさせようとした。それが今回の訴訟である。金子氏が(47氏だとすれば)自説の正当性を信じるなら、「著作権法は表現の自由を侵害する憲法違反の法律だ」と主張すべきだったのではないか(そういう学説もある)。ところが公判では、被告側は「47は金子氏ではない」と否定し、Winnyの公開の目的は「技術的検証」だったと主張した。これは訴訟戦術としてはやむをえなかったのかもしれないが、被告側の主張の説得力を弱めたといわざるをえない。

本書の後半は、インターネット・ガバナンスやiPodや日の丸検索エンジンなど脈絡のない話が出てきて、内容にも新味がない。それを「ネットvsリアルの衝突」というテーマでまとめたのも無理がある。問題はネットとリアルの対立ではなく、著作権のような工業社会の遺制が情報社会に持ち込まれて混乱を引き起こしていることである。それをリアルな世界一般の問題だと思い込むから議論が空回りし、最後は「Web2.0の覇権をグーグルが握るか政府が握るか」というナンセンスな話で終わってしまう。Winnyとオープンソースの話だけで「著作権」をテーマにして、200ページぐらいの本にまとめたほうがよかったと思う。
2006年12月14日 22:03

今年の本ベスト10

「週刊ダイヤモンド」で、もう7年も書評をやっている。おまけに、来年からは「アスキー・ドットPC」でも書評をやることになってしまった。池尾和人さんには「日本一の書評の達人」とほめてもらったが、うれしいようなうれしくないような・・・

というわけで、今年もなかば義務でたくさん本を読んだが、他人にすすめられるものは本当に少ない。今年このブログで紹介したものの中からリストアップしてみた。ただし私の専門的な興味に片寄っているので、あまり一般向けではない。
  1. コルナイ・ヤーノシュ自伝
  2. The Theory of Corporate Finance
  3. Institutions and the Path to the Modern Economy
  4. セイヴィング キャピタリズム
  5. ロングテール
  6. Microeconomics
  7. 行動経済学
  8. ヒルズ黙示録
  9. Who Controls the Internet?
  10. 開発主義の暴走と保身
1は20世紀の歴史を経済学の目で語った、文句なしの名作。2は、経済学の研究者には必読の企業理論のスタンダードだ。3は、日本社会のムラ的構造を考える役にも立つ。4は「市場原理主義」を攻撃する通俗的な議論が既得権の保護にしかならないことを歴史的に実証する。6は、学生にはおすすめできない非正統的なミクロ経済学の教科書。8は、その後の村上=ライブドア事件を予告するようなルポルタージュ。10の「開発主義」という言葉にはちょっと引っかかるが、当ブログでいう「集権的国家」の破綻を金融の側面から論じたもの。

こう並べてみると、日本人の書いた本が下位に3冊あるだけということに気づく。ここにあげた本は、みんな著者の訴えたいことが伝わってくるのだが、日本の専門書(特に経済学)は最近テクニカルになるばかりで、著者のメッセージがない。時代は大きな転換期にあるのに、それを社会科学が正面から受け止めていないのだ。『国家の品格』のような幼稚な間違いだらけの本(もちろん今年のワースト1)が200万部以上も売れるのは、日本人が国家について真剣に考えてこなかったおかげだろう。
2006年12月14日 00:52

バラエティ化する新書

座談会という形式は、日本独特のものである。菊池寛が『文藝春秋』で始めたといわれ、しゃべるほうも文章を書くより楽だし、読むほうも流し読みできる。いわばテレビのバラエティショーみたいなものだ。これは従来はあくまでも雑誌の企画だったが、新書ブームになってから、座談会や対談、語り下ろしというのが増え、しかもそれがベストセラーになる。『バカの壁』も『国家の品格』も語り下ろしである。これは本が作品ではなく消耗品になってきたことを示すのだろう。

最近では、中沢新一・太田光『憲法九条を世界遺産に』(集英社新書)がベストセラーだが、これは今年のワースト3ぐらいに入る意味不明の本だ。今月も、手嶋龍一・佐藤優『インテリジェンス 武器なき戦争』(幻冬舎新書)、梅田望夫・平野啓一郎『ウェブ人間論』(新潮新書)というのが出た。それぞれ単独の著者としては悪くないのに、おしゃべりになると緊張感がなくなり、情報量が格段に落ちる。それでも手嶋・佐藤本のほうはまだ新しい情報があるが、梅田・平野本のほうは中身の薄い「ウェブ世間話」が延々と続く。平野氏が持ち出す消化不良の「ポストモダン」的な問題提起に梅田氏の話が噛み合わず、議論がまったく深まらない。

バラエティのように楽に読める本を読者が求めるのなら、それを供給するのは営業的には当然だが、こういう安易な企画で読者をバカにしていると、そのうちしっぺ返しを食うだろう。私にも「語り下ろしで新書を書かないか」という話があったが、お断りした。著者にとっても自殺行為だと思うからだ。バラエティによって民放の視聴率は上がったが、社会からバカにされる企業になったことに出版社も学んだほうがいい。
2006年12月13日 20:55
法/政治

Winny事件の社会的コスト

Winny事件の一審判決が出た。私は法律の専門家ではないので、判決の当否についてのコメントは控えるが、こういう司法判断がどういう経済的な結果をもたらすかについて少し考えてみたい。

今回の事件の特徴は、P2Pソフトウェアの開発者逮捕され、著作権(公衆送信権)侵害の幇助が有罪とされたことである。これは世界的にみても異例にきびしい。たとえばアメリカで起こったGrokster訴訟では、P2Pソフトを配布した企業の民事責任が問われただけで、刑事事件としては立件されていない。ドイツでは、P2Pソフトのユーザーが大量に刑事訴追されたが、開発者は訴えられていない。

日本の警察が、さほど凶悪犯罪ともいえない著作権法違反事件に、なぜこうも熱心なのかよくわからないが、その結果、日本では著作権にからむリスクがもっとも大きく、したがって萎縮効果も大きくなった。先日、話題になった検索サーバが日本に置けないという事態なども、警察が検索エンジンを摘発したわけではないが、そういうリスクを恐れる企業が自粛しているのだろう。

企業が違法行為かどうかを文化庁に問い合わせれば、官僚は「キャッシュを置くのは違法です」などと答えるだろう(法的根拠はないが)。普通の企業は、これに逆らって逮捕されるリスクを冒したりはしない。アメリカでは、企業が行政の判断に不服なら、行政訴訟を起こして司法の場で最終判断が出るが、日本ではお上にたてつく企業はない。だからGoogleやYouTubeのようなベンチャーは、日本にはあらわれないだろう。それでもYouTubeのように自分のリスクで起業したら、民事ではなく刑事で摘発されるおそれが強い。日本の刑事訴訟の有罪率は99%だから、これは犯罪者になるのとほぼ同義である。

この種の事件の社会的コストというのは、直接的な差し止めによる損失よりも、このように人々のインセンティヴをゆがめることによる機会損失のほうがはるかに大きい。JASRACなどは「Winnyによる著作権侵害の被害は100億円」という怪しげな推計を出しているが、Google1社の時価総額だけでも18兆円だ。日本は、昔のコンテンツを守る代償に新しい企業による富の創出を阻害し、莫大な損失をこうむっているのである。

著作権の侵害は目に見えるが、過剰規制の社会的コストを負うのはすべての消費者なので、被害はわかりにくく、文芸家協会のようなロビー団体もつかない。しかし当ブログで何度も書いているように、こうした行政中心の集権的国家システムが新しい分野への挑戦をはばみ、日本経済の停滞をもたらしているのだ。「日本になぜGoogleが生まれないのか」と嘆く官僚は、自分たちがその原因をつくっていることに気づくべきである。
住基ネットをめぐって大阪高裁が危険性を認める一方、名古屋高裁は危険性を否定するなど、判決がわかれている。大阪で控訴を断念した箕面市が住民データを削除する費用を計算したら、ひとり最大3500万円もかかるという笑えない話まで出てきた。

裁判で問題になっている安全性なるものは、検索エンジンで個人情報が丸見えになっている現代ではナンセンスである。グーグルで私の名前を検索すると、51万件以上の個人情報が出てくるが、その中に住基データは1件もない。行政の中だけのクローズドなネットワークだからである。住基データを悪用した詐欺などが、ごくまれにあるようだが、そんなことをいったらウェブ上に流れている個人情報を使った違法行為は山ほどある。だからといってグーグルを禁止せよという人はいないだろう。その有用性のほうがはるかに大きいからだ。

住基ネットの問題は、それが危険なことではなく、役に立たないことだ。朝日新聞の記事でも指摘するように、住基カードの利用率は0.7%。住基データは、全国民あわせても10GB足らずだ。DVD1枚にも収まるようなデータを「コンピュータ・センター」に収容し、24時間体制で監視して、維持費は年間180億円かかる。それで行政経費が節約になるどころか、外務省のパスポートシステムのように40億円かけて利用者が2年間に133人しかおらず、運用を停止した例もある。国民全員に強制的に通し番号をつけるのは、納税者番号しか意味がないが、住基ネットは納税者番号には使われない。まったく有害無益なネットワークなのである。

愚劣な安全性論争が始まったのは、櫻井よしこ氏などが、システムの中身も知らないで「住基ネットは国民を裸で立たせるものだ」などとヒステリックに騒ぎ、これに左翼の残党が乗って「監視社会」なるものに反対する運動を始めたからだ。特に責任が重いのは、伊藤穣一氏である。彼はこの運動の中心になり、長野県の「侵入実験」などで住基ネットの危険性をアピールした。この実験と称するものは、村役場に入ってラックを開けてサーバに侵入したというのだから、単なる泥棒である。

もういい加減にこういう無意味な法廷論争はやめ、住基ネットを廃止してはどうだろうか。だれも使っていないのだから、失うものはない。物理的なサーバは普通の行政事務に使い、自治体間の連絡は普通のインターネットで(必要ならデータを暗号化して)やればよい。法律でがんじがらめになった住基データを使わなくても、たとえば電話番号を使ってもよいのである。
2006年12月11日 22:09
IT

負の産業政策

日の丸検索エンジンを批判すると、「対案を出せ」といわれることがある。こういうとき「役所は何もしないのが一番いいんだ」という答もありうるが、私はそうは思わない。いま発売されている『諸君!』にも書いたことだが、日本経済の問題は、高度成長期にうまくいった製造業型の産業構造が情報産業に適応できないことにある。これは企業組織や系列関係などの問題なので、市場メカニズムで是正することはむずかしい。この古い産業構造を解体する負の産業政策が必要ではないか。

製造業と情報産業の最大の違いは、リスク管理の性質である。製造業の場合には、不良品のリスクを最小化するために、品質管理を行うことがもっとも重要だ。一つでも品質の劣った部品があると全部だめになるので、すべての部門や下請けが緊密に連携して品質の水準をそろえる必要がある。このような関係を、工程に補完性があるという。ここでは各工程の不良品リスクは掛け算になるので、全体の質が平均的に高いことが重要で、一つの工程だけ突出して高くても意味がない。

日本企業の長期的関係にもとづくシステムは、こうした製造業ではうまく機能した。社員は長期雇用で会社にしばりつけられているので、一度でもミスをしたら人生が台なしになるから、あらゆる問題を事前にチェックしてリスクを排除する。横並びで出世して平均的なレベルを高め、問題を起こす異分子は「村八分」にして、組織から排除する。製品の目的(小さく速くなど)はわかっており、問題はそれを実装することだけなので、特に天才的な人材は必要としない。

これに対して、情報産業では工程はモジュール化され、各モジュールのリスクは他に影響しないので、不良品リスクは足し算にしかならない。質の悪いモジュールが見つかったら、他のモジュールに交換すればいいので、工程全体で品質管理をする必要はない。その代わり、ここで問題なのは有望なプロジェクトが埋もれるリスクである。ソフトウェアやウェブの世界では、何が成功するかは前もってわからないので、GoogleやYouTubeのように、最初はほとんどの人にバカにされる突飛なプロジェクトの芽を摘まないことが重要である。ここでは平均的に質が高いことには意味がなく、ひとりでも天才的なアイディアを出せば、それをビジネスとして実現できる身軽さが重要だ。

つまり製造業では、悪い因子を排除する(分散を最小化する)ことが重要だが、情報産業ではよい因子を排除しない(オプション価値を最大化する)ことが重要なのだ。日本のITゼネコンのように大組織にエンジニアを囲い込むと、不良品のリスクは最小化できるが、社内の稟議で突飛なアイディアは埋もれてしまう。とりあえずやってみて、失敗したらやめるということができないからだ。

仙石浩明氏のブログで、日本のソフトウェア振興策は「大企業の一つをつぶして、死蔵していた優秀な人材を放出させることである」と結論しているのがスラッシュドットなどで話題になっているが、同じ趣旨は彼が当ブログへのコメントでも書いていた。政府が企業を文字どおりつぶすことはできないが、FNHのうちFには経営危機説が流れたことがあるし、Nにはいま流れている。Hは大赤字だ。かつての通産省のようにこういう企業を救済するのではなく、政府系金融機関がLBOを行って会社整理し、コア部門以外は売却してはどうだろうか。
政府は、天下りの斡旋を禁止する一方、所管する民間企業への再就職を退官後2年間、禁止する現行の規制も暫定的に残す国家公務員法の改正案を自民党に報告し、了承された。ブログ界では「天下りあっ旋全廃に反対したらもう自民党には票を投じない」バトンなるものが盛り上がっているようだが、こういうポピュリズムは危険である。

私も以前から、天下り斡旋の禁止を提案してきたが、これは現在の再就職規制を廃止することとセットである。斡旋もだめ、再就職もだめでは、官僚が民間で能力を発揮するチャンスが失われる。日本経済の最大の問題は、もっとも優秀な人材が霞ヶ関・銀行・ITゼネコンのような衰退産業にロックインされていることだから、重要なのは天下りをなくすことではなく、官僚が自発的に霞ヶ関を脱出するための受け皿をつくることである。

その受け皿の候補はある。これも私が前に提案したことだが、法律職を一定期間以上つとめたキャリア官僚には弁護士資格を与えてはどうだろうか。税務署のOBに税理士資格を与えるのと同じだ。これについては、「準弁護士」という資格を創設してはどうかという案もある(リンク先の「池尾氏」は私の間違い)。

これに対して霞ヶ関のインサイダーからは、そういうことをしたら優秀な人材から先に抜けていって、官僚の質が下がるという反論があるが、それでいいのである。ほんらい行政というのは、法を執行するだけの仕事だから、優秀な人物が行う必要はない。官僚の質が落ちたら、それに見合って許認可権も減らし、将来は政策立案は政治家が行い、モニタリングは司法で行って、キャリア官僚は全廃することが望ましい。
著作権保護期間の延長問題を考える国民会議が、11日にシンポジウムを開くそうだ。私のところにもお誘いが来たが、お断りした。著作権の延長に賛成だからではない。逆に延長が有害無益であることは自明であり、今さら「国民的な議論」をする必要なんかないからだ。延長派の人々は論理的な根拠にもとづいて主張しているのではなく、既得権を拡大しようとしているだけなので、彼らを説得するのは無駄である。

このあたりの基本的な論理が、延長反対派の人々にも理解されていないようだ。「国民会議」の発起人のひとりである田中辰雄氏は、「延長の効果についての調査は行われていないので、これからやろう」などととぼけたことを言っているが、以前にも紹介したミッキーマウス訴訟の意見書でも明らかなように、経済学では著作権の延長が有害無益であることは100%のコンセンサスである。これは「著作者の権利と消費者の権利にはトレードオフがある」という一般論ではなく、著作者の保護はすでに過剰なので、これ以上強化することは害しかないのである。

具体的にみてみよう。PCJapanのコラムにも書いたように、平均的な著者(たとえば私)の得る印税の割引現在価値は、年利5%と仮定すると、死後50年から70年に延長しても約1.7%(*)しか増えない。しかも50年後に印税が発生しているような古典の著者は1%もいないだろう。したがって社会全体では、延長によるインセンティヴの増加は1/10000以下であり、これが創作活動を高める効果は考えられない。過去の作品の複製や、それを利用した創作が禁止されることによる社会的な損失のほうがはるかに大きい。

延長によって利益を得るのは本源的な著作者ではなく、いま過去の作品の版権をもっている出版社やレコード会社などの流通業者である。たとえば「ローマの休日」の版権を20年延長することで、彼らは500円の廉価版を禁止し、4000円以上の「正式版」を売りつけることができる。この差額の3500円が彼らの独占利潤だが、これは創作のインセンティヴにはならない。したがって「文化を守るために出版社などの権利も強化すべきだ」というのは誤りである。彼らの収益構造は通常の流通業と同じであり、特別扱いする必要はない。

著作者に複製禁止権を認めるのは、彼らが媒体の所有権をもっていないため、作品が自由に複製されると、創作への投資(固定費)が回収できなくなるからだ。複製を禁止して独占価格を設定することで、固定費を回収できるようにしているのである。しかし流通業者の投資は物的な媒体の所有権で守られているので、固定費を乗せた価格をつければ通常の売買で回収できる。500円の廉価版でもDVDをプレスする費用はカバーしており、著作権が切れても流通業者は利益を上げることができるのだ。

要するに、流通業者に独占権を認めることは、競争を制限する弊害があるだけで、創作への投資を促進する効果はない。したがって、その独占権を延長することはなおさら望ましくない。肖像権やプライバシー権の類も、それを認めることによるインセンティヴ効果はなく、表現の自由を阻害するだけなので、認めるべきではない。この「国民会議」も、こうした権利のインフレに歯止めをかけるなど、テーマを広げたほうがいいのではないか。

(*)「1.5%ぐらい」という表現はアバウトなので、修正した。著者(私)があと25年(平均寿命まで)生き、その死後50年まで(つまり75年間)一定の印税を得るとする。年利5%とすると、その割引現在価値は
74
Σ1/1.05n
n=0
この答をAとし、同じ式で74を94にした答をBとすると、B/A=1.0173となる。

追記:イギリスでは、ポール・マッカートニー、サイモン・ラトルなど4000人の音楽家が著作権の延長を求める意見広告をFTに出した。レッシグも指摘するように、この名簿には死んだ音楽家まで含まれており、レコード会社がつくったものであることは明白だ。これはもう力と力の対決である。「みんなで考えよう」などと中立を装っている場合ではない。



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