2006年11月
先日、海外出張から帰ってきて感じたのは、日本のテレビの異様さだった。どこの国でも、テレビニュースには基本的な順序があって、ラムズフェルド国防長官が辞任したときは、CNNのトップはいつもラムズフェルド関連ニュースだった。子供の自殺のような「町ネタ」は、取り上げるとしてもずっと下というのが常識である。ところが日本では、NHKの19時ニュースまで、最初からいじめと自殺の話。おまけに、それが学校教育と因果関係があるのかないのかよくわからないのに、校長が出てきて記者会見で頭を下げる。朝日新聞は1面で「いじめられている君へ」というシリーズを連載する。
これは日本のメディアの特殊性と関連する。たいていの国では、全国メディアと地方メディア、あるいは高級紙と大衆紙は歴然とわかれていて、前者には子供の自殺のようなニュースはほとんど出ない。後者(数の上では圧倒的多数)には大きく出るが、それはその国の世論の代表だとは思われない。ところが日本では、全国紙が数百万部も出ているので、高級紙と大衆紙の性格が混在しているのである。
その違いは、社内では政治部・経済部・社会部という日本独特の区分にあらわれる。社会部は、記者の数では全体の半分以上を占めるが、政治部・経済部は社会部を一段下に見ている(朝日新聞の社長は、政治部と経済部の出身者が交替でつとめているほどだ)。メディアの「顔」になるのは政治記事だが、視聴率が取れるのは「社会ネタ」だ。社会ネタが政治ネタに勝てるのは、人が死ぬニュースである。それも異常な死に方ほど大きく扱われる。大人の鬱病による自殺はベタ記事にもならないが、子供の自殺は大ニュースになるから、社会部記者は張り切るのだ。
しかしニュース価値は稀少性で決まるので、絶対的な重要性を必ずしも反映しない。水よりダイヤモンドのほうが高価だからといって、ダイヤモンドを公的に供給すべきだということにはならないように、鬱病で毎年1万人以上が自殺していることは深刻な問題であり、対策が必要だが、年間数十人しかない子供の自殺はマイナーな問題だ。その理由も不明であり、いじめ云々というのは大人が後からつけた理屈にすぎない。
もういいかげんに、この「祭り」はやめてほしい。自殺する子供を英雄扱いすることが、自殺の連鎖をまねいていることは明らかだ。他人の不幸を商売にするメディアが騒ぐのはまだわかるが、政府まで出てきて、教育再生会議で「いじめはやめろ」などと緊急提言するのは、スタンドプレーとしても滑稽である。
これは日本のメディアの特殊性と関連する。たいていの国では、全国メディアと地方メディア、あるいは高級紙と大衆紙は歴然とわかれていて、前者には子供の自殺のようなニュースはほとんど出ない。後者(数の上では圧倒的多数)には大きく出るが、それはその国の世論の代表だとは思われない。ところが日本では、全国紙が数百万部も出ているので、高級紙と大衆紙の性格が混在しているのである。
その違いは、社内では政治部・経済部・社会部という日本独特の区分にあらわれる。社会部は、記者の数では全体の半分以上を占めるが、政治部・経済部は社会部を一段下に見ている(朝日新聞の社長は、政治部と経済部の出身者が交替でつとめているほどだ)。メディアの「顔」になるのは政治記事だが、視聴率が取れるのは「社会ネタ」だ。社会ネタが政治ネタに勝てるのは、人が死ぬニュースである。それも異常な死に方ほど大きく扱われる。大人の鬱病による自殺はベタ記事にもならないが、子供の自殺は大ニュースになるから、社会部記者は張り切るのだ。
しかしニュース価値は稀少性で決まるので、絶対的な重要性を必ずしも反映しない。水よりダイヤモンドのほうが高価だからといって、ダイヤモンドを公的に供給すべきだということにはならないように、鬱病で毎年1万人以上が自殺していることは深刻な問題であり、対策が必要だが、年間数十人しかない子供の自殺はマイナーな問題だ。その理由も不明であり、いじめ云々というのは大人が後からつけた理屈にすぎない。
もういいかげんに、この「祭り」はやめてほしい。自殺する子供を英雄扱いすることが、自殺の連鎖をまねいていることは明らかだ。他人の不幸を商売にするメディアが騒ぐのはまだわかるが、政府まで出てきて、教育再生会議で「いじめはやめろ」などと緊急提言するのは、スタンドプレーとしても滑稽である。
経産省の日の丸検索エンジンの正式名称は、「情報大航海プロジェクト」という。その心は、人々が情報の大海で迷わないように針路を示す羅針盤になるということらしい。明日のICPFセミナーでは、これについて経産省の久米さんに話してもらうが、このついでに大航海時代について調べてみた。最初に、この入試問題を解いてみてほしい:
それよりも問題なのは、このメタファーが、征服すべき「新大陸」の存在はあらかじめわかっており、正確な羅針盤と国家の資金援助さえあれば、コロンブスのような大発見が保証されていると示唆していることだ。重要なのは、大陸を発見することよりもそれを経営することである。初期に新大陸を発見したスペインやポルトガルは、結果的には衰退し、北米はイギリスの植民地になった。それは欧州の戦争でイギリスが勝ち、植民地経営を国内経済に組み込む資本主義というシステムをつくったからである。
情報の海も、ただ大航海するだけでは何の意味もない。グーグルの本質的なイノベーションは、数十億ページを検索する技術ではなく、それによって年間1兆円近い広告収入を上げるビジネスモデルである。検索広告のような「すきまビジネス」がここまで大きくなることは、誰も(おそらくグーグルの創業者たちも)予想していなかった。やみくもに検索の効率を上げているうちに「新大陸」にぶつかっただけだ。
情報大航海プロジェクトも、国営検索エンジンをつくれば、いくらでも検索はできるだろう。しかし重要なのは技術開発ではなく、ビジネスモデルを開発することである。政府が関与すると、収益が上がるかどうかという肝心の問題が検証できない。いまグーグルが行っているのは、かつて物的資源を財産権で囲い込んで収益を上げる資本主義が発見されたように、情報を囲い込まないで持続可能な経済システムが存在するのかどうかという歴史的な実験である。それが存在するのかどうかはあらかじめわからないし、コロンブスのようにインドだと思ったら新大陸だったということもあるかもしれない。
要するにわれわれは、正確な羅針盤さえあれば、あらかじめわかっている答に到達するという意味での「大航海時代」にはいないのである。かつてグーグルがバナー広告を出し抜いたような「破壊的イノベーション」を見つけるには、多くの企業が(一見ばかげた)ビジネスを立ち上げるオプションを拡大し、「多産多死」によって解を見出すしかない。そのための資金調達の改革などのフレームワーク政策も経産省が進めているが、日の丸検索エンジンのようなターゲティング政策は、それと矛盾するものだ。省内でも批判が多いようだから、予算がつく前にちゃんと議論したほうがいいのではないか。
議論に参加したい方は、明日のセミナーにどうぞ。席はまだあります。
「地理上の発見の時代」という用語は問題があるという理由で、「大航海時代」と言い替えられることがある。「地理上の発見の時代」という用語はどういう理由から批判されると考えるか。50字以内で述べよ。(東京学芸大・1989)答を50字以内で述べると、「アメリカ大陸には先住民がいたのだから、西洋人が新大陸に到達したことを発見と呼ぶのはおかしい」。つまり大航海時代というのは、「差別語」を避けるためにつくられた言い替えなのである。それでも、この言葉が西洋の自民族中心主義にもとづくことに変わりはない。「大航海」の時代は、先住民からみれば西洋人による「侵略の時代」であり「植民地化の時代」だった。
それよりも問題なのは、このメタファーが、征服すべき「新大陸」の存在はあらかじめわかっており、正確な羅針盤と国家の資金援助さえあれば、コロンブスのような大発見が保証されていると示唆していることだ。重要なのは、大陸を発見することよりもそれを経営することである。初期に新大陸を発見したスペインやポルトガルは、結果的には衰退し、北米はイギリスの植民地になった。それは欧州の戦争でイギリスが勝ち、植民地経営を国内経済に組み込む資本主義というシステムをつくったからである。
情報の海も、ただ大航海するだけでは何の意味もない。グーグルの本質的なイノベーションは、数十億ページを検索する技術ではなく、それによって年間1兆円近い広告収入を上げるビジネスモデルである。検索広告のような「すきまビジネス」がここまで大きくなることは、誰も(おそらくグーグルの創業者たちも)予想していなかった。やみくもに検索の効率を上げているうちに「新大陸」にぶつかっただけだ。
情報大航海プロジェクトも、国営検索エンジンをつくれば、いくらでも検索はできるだろう。しかし重要なのは技術開発ではなく、ビジネスモデルを開発することである。政府が関与すると、収益が上がるかどうかという肝心の問題が検証できない。いまグーグルが行っているのは、かつて物的資源を財産権で囲い込んで収益を上げる資本主義が発見されたように、情報を囲い込まないで持続可能な経済システムが存在するのかどうかという歴史的な実験である。それが存在するのかどうかはあらかじめわからないし、コロンブスのようにインドだと思ったら新大陸だったということもあるかもしれない。
要するにわれわれは、正確な羅針盤さえあれば、あらかじめわかっている答に到達するという意味での「大航海時代」にはいないのである。かつてグーグルがバナー広告を出し抜いたような「破壊的イノベーション」を見つけるには、多くの企業が(一見ばかげた)ビジネスを立ち上げるオプションを拡大し、「多産多死」によって解を見出すしかない。そのための資金調達の改革などのフレームワーク政策も経産省が進めているが、日の丸検索エンジンのようなターゲティング政策は、それと矛盾するものだ。省内でも批判が多いようだから、予算がつく前にちゃんと議論したほうがいいのではないか。
議論に参加したい方は、明日のセミナーにどうぞ。席はまだあります。
文藝春秋編文藝春秋このアイテムの詳細を見る |
毎年恒例の『日本の論点』に、私も執筆した(地デジについて)。この種の企画は、いつも「朝日新聞vs文芸春秋」の延長戦ばかりで興味がないのだが、さすがにそういう話題を好む読者層が高齢化してきたため、格差社会とかITとか、幅を広げようとしているようだ。執筆者も、「いかにも進歩的知識人」という人や「いかにも右翼」という感じの人は少なくなったが、そのぶん論争の温度も低くなっている。
気になるのは、松原聡氏が通信・放送懇談会で「NTTのアクセス部分を本体から機能的に分離し、さらに現在、持株会社の下にぶら下がる形になっている四つの事業会社を独立させるべきとの提言をまとめた」とのべていることだ。これは事実に反する。懇談会の最終報告書では、「機能分離」と「資本分離」が両論併記になり、それも自民党の片山虎之助氏(通信・放送産業高度化小委員長)との調整で2010年に先送りされた。そもそも、この懇談会の出発点は「現在のNTTの経営形態は電話時代の区分で、インターネット時代にはそぐわない」ということだったはずだ。それを今ごろ電話時代のまま資本分離せよというのは、座長が懇談会の議論を理解していなかったことを示している。
ワースト1は、松原隆一郎氏の「民間に不要な費用負担を強いる『小さな政府』論は虚妄である」という記事だろう。彼は、当ブログでも取り上げた国民負担率などの周知のデータをあげて、「日本は小さな政府を目ざすべきではない」ことを力説する。では、どうすればいいのかといえば、「適正な政府」を目ざすべきなのだそうだ(笑)。こういう人物が、駒場では経済学を教えているというから、東大生の学力低下が心配だ。
TechCrunchで、Peter Jennerが批判されている。彼はピンク・フロイドやクラッシュなどを世に出した大物プロデューサーで、問題の発言はイギリスの音楽業界の著作権法改正への提案にそったものだ。その趣旨は「音楽産業は、このままでは絶滅する。DRMもP2Pで大量にコピーが流通している状況では役に立たないので、ISPや携帯キャリアなどに課金し、それをプールしてミュージシャンに比例配分しよう」というものだ。料金は、TechCrunchによれば、キャリアあたり1ヶ月4ユーロぐらいだという。
たしかに、この提案はかなりずさんで、TechCrunchが「音楽税」だと批判するのもわかるが、正確にいうとこれは税金ではなく、BBCのライセンス料のような私的契約である。しかもJennerの話の重点は、課金よりも包括ライセンス(blanket license)のほうにある(これは私が先日の記事で紹介した「強制ライセンス」と同じものだが、この名前はよくない)。これは1曲ごとに許諾するのをやめて流通は自由にし、大口ユーザーから定額の利用料を取る方式で、放送局では行われているが、それをインターネット配信にも拡大しようというわけだ。
おもしろいことに、音楽産業とは対極の立場にあるEFFが同じような提案をしている(彼らはVoluntary Collective Licensingと呼んでいる)。これは音楽産業がユーザーと集団的な契約を結んで、ひとり毎月5ドル徴収するものだ。アメリカでは、P2Pユーザーは訴訟の脅威にさらされているが、この契約を結ぶことによって訴訟からまぬがれるというわけだ。しかし音楽産業は、この提案に「定額料金は市場メカニズムの否定だ」と反対している。
最大の問題は、こうして集めた著作権料をミュージシャンにどう分配するかということだ。サンプリング調査をして、ダウンロードされた回数に応じて比例配分するということになっているが、そういうしくみは放送局でも機能したことがない。この点は、Jennerも「巨大なブラックボックス」ができるおそれがあることを認めているし、EFFも「透明性が重要だ」としかいっていない。日本では、これをJASRACがやるようでは、だれも信用しないだろう。
ただ重要なのは、音楽産業の側から許諾権をみずから放棄する提案が出てきたことだ。経済学的にいうと、著作権はコントロール権とキャッシュフロー権にわけられるが、ビジネスにとって重要なのは後者であって、前者は必要条件ではない。許諾権を放棄することによって多くのコンテンツが流通し、その結果多くのキャッシュが得られるならば、そのほうがビジネスとしては賢明だろう。この種の提案の最大の難点は、音楽産業が乗ってこないことだったが、P2Pが彼らを追い込んだ結果、状況が変わってきたわけだ。EFFのようなユーザー側からの提案との接点はあると思う。
追記:同様の提案は、ハーバード大学のバークマン・センターが以前から行っており、William Fisherの本にまとめられている。しかし、これは文字どおり政府が「音楽税」をとるもので、賛同者は少ない。
たしかに、この提案はかなりずさんで、TechCrunchが「音楽税」だと批判するのもわかるが、正確にいうとこれは税金ではなく、BBCのライセンス料のような私的契約である。しかもJennerの話の重点は、課金よりも包括ライセンス(blanket license)のほうにある(これは私が先日の記事で紹介した「強制ライセンス」と同じものだが、この名前はよくない)。これは1曲ごとに許諾するのをやめて流通は自由にし、大口ユーザーから定額の利用料を取る方式で、放送局では行われているが、それをインターネット配信にも拡大しようというわけだ。
おもしろいことに、音楽産業とは対極の立場にあるEFFが同じような提案をしている(彼らはVoluntary Collective Licensingと呼んでいる)。これは音楽産業がユーザーと集団的な契約を結んで、ひとり毎月5ドル徴収するものだ。アメリカでは、P2Pユーザーは訴訟の脅威にさらされているが、この契約を結ぶことによって訴訟からまぬがれるというわけだ。しかし音楽産業は、この提案に「定額料金は市場メカニズムの否定だ」と反対している。
最大の問題は、こうして集めた著作権料をミュージシャンにどう分配するかということだ。サンプリング調査をして、ダウンロードされた回数に応じて比例配分するということになっているが、そういうしくみは放送局でも機能したことがない。この点は、Jennerも「巨大なブラックボックス」ができるおそれがあることを認めているし、EFFも「透明性が重要だ」としかいっていない。日本では、これをJASRACがやるようでは、だれも信用しないだろう。
ただ重要なのは、音楽産業の側から許諾権をみずから放棄する提案が出てきたことだ。経済学的にいうと、著作権はコントロール権とキャッシュフロー権にわけられるが、ビジネスにとって重要なのは後者であって、前者は必要条件ではない。許諾権を放棄することによって多くのコンテンツが流通し、その結果多くのキャッシュが得られるならば、そのほうがビジネスとしては賢明だろう。この種の提案の最大の難点は、音楽産業が乗ってこないことだったが、P2Pが彼らを追い込んだ結果、状況が変わってきたわけだ。EFFのようなユーザー側からの提案との接点はあると思う。
追記:同様の提案は、ハーバード大学のバークマン・センターが以前から行っており、William Fisherの本にまとめられている。しかし、これは文字どおり政府が「音楽税」をとるもので、賛同者は少ない。
経済学が"dismal science"と呼ばれることはよく知られているが、その意味はあまり知られていない。普通これは、トマス・カーライルがマルサスの『人口論』を批判した言葉だと思われているが、実はカーライルの著作にそういう言及はない。彼がこの言葉を使ったのは、1849年の奴隷制に関する評論である。彼はそこで「この世界の秘密は需要と供給にあるとし、支配者の義務を個人の選択に帰着させる社会科学」をdismal science(つまらない学問)と呼んでいる。当世風にいえば「労働力を供給するには市場原理主義にまかせていてはだめで、(奴隷制のような)規制が必要だ」といっているわけだ。
憂鬱になるのは、カーライルから160年たっても、同じような「経済学批判」が繰り返されていることだ。もちろん今では奴隷制を擁護する人はいないが、市場よりも国家の力を信じる人は多い。そういう人々がいうのは、「経済学は非現実的で、役に立たない」ということだ。たしかに経済学は、実証科学といえるかどうか疑わしい。たとえば新古典派経済学のコアである一般均衡理論の主要な結論(均衡の存在や一意性など)は完全競争や完全情報などの強い条件に依存しているが、そんな状況はどこにも存在しないから、自然科学の基準でいえば、新古典派理論は棄却されてしまうのである。
70年代には、こういう限界を突破しようとして、「ラディカルエコノミックス」とか「ソシオエコノミックス」などというのが試みられたが、すべて失敗に終わった。経済学が他の社会科学に比べて見映えするのは、人間の行動を条件つき最大化問題に単純化することによって、古典力学の体系をそっくりまねることができるからであって、「学際的」に風呂敷を広げると、曖昧な「お話」になって収拾がつかなくなってしまうのである。そういう失敗の残党は、西部邁氏を初めとして、みんな国家の市場への介入を求める自称保守主義者になった。
80年代以降の経済学でもっとも成功したのは、むしろ人間の行動を徹底的な合理主義で記述するゲーム理論だった。それを応用した契約理論も、企業理論や金融理論に大きな前進をもたらした。かつて社会学的にしか語られなかった「制度」の問題を、合理的に分析するツールができてきたのである。これもよくできたお話にすぎないが、仮定が明確なので、どういう場合に成り立つのかという限界がはっきりしているだけ、政治学や社会学のお話よりもましだ。
これに対して、「市場原理主義」を批判する人々のふりかざすお話はお粗末だ。たとえば金子勝氏は単に経済学を知らないだけだし、佐和隆光氏は「収穫逓増」の概念さえ理解していない。しかし世の中的には、彼らの「グローバリズムが格差を拡大した」という類のお話のほうが受けてしまう。経済学は、実証的なチェックを欠いたまま数学的な(見かけ上の)厳密性を高めてきた結果、現実との距離が広がりすぎて、市場以外の複雑な問題について何もいえないからだ。
このように経済学は、いまだにdismal scienceの域を脱することができない。それが世の中に認知してもらうために必要なのは、数学的なお話のテクニックを競うことではなく、複雑な現象を合理的に説明する実証的な分析用具を開発することだろう。物理学の理論には、自然界の真理を解明するという本質的な意味があるが、経済学は現状分析や政策決定のための応用科学にすぎないので、理論的な「美学」を追求するのはナンセンスである。
憂鬱になるのは、カーライルから160年たっても、同じような「経済学批判」が繰り返されていることだ。もちろん今では奴隷制を擁護する人はいないが、市場よりも国家の力を信じる人は多い。そういう人々がいうのは、「経済学は非現実的で、役に立たない」ということだ。たしかに経済学は、実証科学といえるかどうか疑わしい。たとえば新古典派経済学のコアである一般均衡理論の主要な結論(均衡の存在や一意性など)は完全競争や完全情報などの強い条件に依存しているが、そんな状況はどこにも存在しないから、自然科学の基準でいえば、新古典派理論は棄却されてしまうのである。
70年代には、こういう限界を突破しようとして、「ラディカルエコノミックス」とか「ソシオエコノミックス」などというのが試みられたが、すべて失敗に終わった。経済学が他の社会科学に比べて見映えするのは、人間の行動を条件つき最大化問題に単純化することによって、古典力学の体系をそっくりまねることができるからであって、「学際的」に風呂敷を広げると、曖昧な「お話」になって収拾がつかなくなってしまうのである。そういう失敗の残党は、西部邁氏を初めとして、みんな国家の市場への介入を求める自称保守主義者になった。
80年代以降の経済学でもっとも成功したのは、むしろ人間の行動を徹底的な合理主義で記述するゲーム理論だった。それを応用した契約理論も、企業理論や金融理論に大きな前進をもたらした。かつて社会学的にしか語られなかった「制度」の問題を、合理的に分析するツールができてきたのである。これもよくできたお話にすぎないが、仮定が明確なので、どういう場合に成り立つのかという限界がはっきりしているだけ、政治学や社会学のお話よりもましだ。
これに対して、「市場原理主義」を批判する人々のふりかざすお話はお粗末だ。たとえば金子勝氏は単に経済学を知らないだけだし、佐和隆光氏は「収穫逓増」の概念さえ理解していない。しかし世の中的には、彼らの「グローバリズムが格差を拡大した」という類のお話のほうが受けてしまう。経済学は、実証的なチェックを欠いたまま数学的な(見かけ上の)厳密性を高めてきた結果、現実との距離が広がりすぎて、市場以外の複雑な問題について何もいえないからだ。
このように経済学は、いまだにdismal scienceの域を脱することができない。それが世の中に認知してもらうために必要なのは、数学的なお話のテクニックを競うことではなく、複雑な現象を合理的に説明する実証的な分析用具を開発することだろう。物理学の理論には、自然界の真理を解明するという本質的な意味があるが、経済学は現状分析や政策決定のための応用科学にすぎないので、理論的な「美学」を追求するのはナンセンスである。
小杉 泰講談社このアイテムの詳細を見る |
イスラムというのは、わかりにくい。キリスト教の場合には、多かれ少なかれ日本人もキリスト教的な文化にふれているので、なんとなくわかった気になるが、イスラムについては、その文化的背景がまったく異質なので、あの特殊な教義がなぜこれほど広範な地域に普及したのか、よくわからなかった。しかし本書で、それがやっと少しはわかったような気がする。
イスラムがわからない一つの原因は、それをキリスト教と同じような「宗教」と考えるからだろう。実際には、それは宗教であると同時に法であり、イランの指導者ホメイニやハメネイも法学者である。イスラムが世界に広がったのは、それが宗教として深遠だったからでも現世利益があったからでもなく、この宗教=法による結束の強さが軍事的にきわめて強力であり、征服によって多くの民族をその版図に入れたからである。
戦争にとってもっとも重要なのは、著者も指摘するように「共同体のために命をかけて戦えるかどうか」である。合理的に考えれば、自分が死んでしまえば共同体がいかに栄えても意味がないので、戦争に参加するには何らかの意味での狂気が必要である。国家というのは、そうした狂気を生み出す「戦争機械」であり、もっとも強力な狂気を生み出した国家が栄える。イスラムは、人々を政治的=宗教的に「垂直統合」することによって兵士の強いコミットメントを実現したのである。
戦争に勝つもう一つの要因は、国家の規模である。戦闘では多くの軍勢を動員したものが勝つので、伝統的な村落や都市国家は軍事的には弱い。イスラムは、その普遍主義的な教義によって部族の枠を超えた帝国を実現し、他の民族を征服した。しかし、こうした宗教的統合に依存した垂直統合型の帝国は、大きくなりすぎると求心力が弱まる。末期のオスマン帝国は、宗教も言語もバラバラだった。
イスラムが衰退したのは、それよりも強力な戦争機械である西欧の主権国家に敗北したからである。主権国家は、イスラムと違って世俗的な政治・経済システムをキリスト教と「水平分離」して科学技術を発展させ、強力な武器を開発した。その兵士を駆り立てるのは、宗教に依存しない「愛国心」という狂気である。それを「郷土や伝統を愛する心」などと言い換えるのは偽善であり、愛国心は「国家のために命をかける心」にほかならない。よくも悪くも、こうした狂気の強さが国際秩序を決めているのである。
米ヤフーの株価が急落している。年初から40%も下がって、時価総額でグーグルの1/4まで落ち込み、社内では危機感が広がっている。それを示すのが、WSJが「ピーナツバター宣言」としてすっぱ抜いた内部文書だ:
追記:TechCrunch日本語版に、この宣言の和訳が出ている。これは派閥抗争にからんでいるようだ。
当社の戦略は、オンラインの世界で進化し続ける無数の機会にべったりとピーナツバターを塗りたくるようなものだと聞いたことがある。その結果、事業のすべてにわたって薄く広く投資し、どこにも特別な焦点がなくなるのだ。これを書いたのは、上級副社長のBrad Garlinghouse。彼はヤフーの欠陥として、次の3点をあげている:
- 焦点のはっきりし一貫した企業理念の欠如
- 信賞必罰と説明責任の欠如
- 意思決定の遅れ
追記:TechCrunch日本語版に、この宣言の和訳が出ている。これは派閥抗争にからんでいるようだ。
スカイプが、無線IP電話の端末と無線LANルータのセットを発売した(欧米のみの発売だが、端末だけなら日本でも発売されている)。目をひくのは、スカイプが基地局としてFONの無線ルータをバンドルしたことだ。これは無線ルータで公衆無線網を実現しようというスペインのベンチャー企業で、グーグルのサンフランシスコの実験をサポートし、スカイプとグーグルがFONに出資して注目された。
FONのシステムは、もともとソフトウェアで、これをダウンロードすればユーザーの無線ルータをFONの基地局にすることができる。これを無料で公開する代わりに他人のルータも無料で使えるLinusコースと、ルータを有料で使わせて収入をFONとシェアするBillコース、そしてルータを持たず他人のルータを有料で使うAlienコースがある。このルータも30ドルで売っており、今回のスカイプのセットは、端末とルータをあわせて160ドル。これをペアで持ち運んでインターネットにつなげば、どこでも無料で携帯電話がかけられる。
スカイプはすでにIP電話の世界標準になりつつあるので、インフラとしてFONのシステムが標準になれば、コア・ネットワークとしては有線のインターネットに「ただ乗り」でき、携帯電話は本当に「0円」になる。エリアを広げるには、グーグルがその無料パックにFONのソフトウェアを加えるだけでも十分インパクトがあるだろう(スカイプはすでに入っている)。
FONが成功するかどうかはわからないが、今のバカ高い携帯料金も固定電話のような「価格破壊」の洗礼を受けることは避けられない。今後の電話サービスは、どこでもつながるが高価格の携帯電話とエリアは限定されるが0円の無線IP電話の競争になるだろう。デュアル端末も出てくるだろうが、長期的には後者のエリアが広がれば、IPの勝利に終わる可能性が高い。最後の垂直統合モデルである携帯電話が解体されれば、音声・映像を含めてすべてのサービスはアプリケーション層で実現され、キャリアは電力会社のようなユーティリティになるだろう。
追記:アップルのiPodに無線IP電話を組み込んだiPhoneが、来年1月のMacworldで発表されるという噂もある。ただし、これは普通の携帯電話になる可能性もあるようだ。
追記2:FONの創業者Martin Varsavskyが12月4日に来日する。
ミルトン・フリードマンが死去した。NYタイムズやWSJだけでなく、日本の新聞まで1面で報じている。経済学者の死がこれほど大きなニュースになることは、おそらく空前絶後だろう。
私の学生時代(1970年代)には、日本の大学ではまだフリードマンは極右の特殊な学者という位置づけで、宇沢弘文氏などは口をきわめて批判していた(*)。しかしケインズ派とシカゴ派の論争は、理論的にも実証的にも70年代にほぼ決着し、80年代にはシカゴ派よりもさらに過激な「新しい古典派」が学問的には主流になった。ところが東大では、宇沢氏が「合理的期待一派は水際で阻止する」と公言して、そういう研究者を東大に帰さなかったため、日本ではケインズ派がながく生き残り、90年代には巨額の「景気対策」が行われた。
現実の政治でも、80年代にはサッチャー首相やレーガン大統領がフリードマンの理論を政策として実行したが、日本ではその理論さえ知られなかった。日本で「新自由主義」的な政策を提案したのは、小沢一郎氏である。1993年に細川政権が誕生したときは、日本でも10年遅れで改革が始まるかと思われたが、非自民連立政権は1年足らずで倒れ、自社さ連立という奇怪な政権ができたため、政策の対立軸が混乱した。小沢氏が『日本改造計画』で構想した改革は、小泉政権でやられてしまい、今度は小沢氏が社民的な「格差是正」を訴えるという奇妙な役回りになっている。
しかし、これは偽の争点である。日本では、英米で行われたような改革は、ほとんど行われていない。郵政や道路公団の民営化は、改革の名には値しない。政府の役割を洗い直して「福祉国家」を卒業することは、先進国が一度は通らなければならないステップだが、それを中途半端に終えたまま、自民党は昔の姿に戻ろうとしている。いま民主党は来年の参院選むけマニフェストを作成しているようだが、対立軸として打ち出すべきなのは90年代の小沢氏の原則である。
40年前の『資本主義と自由』を読み返すと、そこでフリードマンが提案している政策が、今でも新しいことに驚く。変動相場制は、この本で提案されたときはほとんど笑い話だった。公的年金の廃止は年金改革のなかで論じられ、法人税の廃止はブッシュ政権の政策として提案された。負の所得税は、アメリカでは勤労所得控除として部分的に導入されはじめた。教育バウチャーは、ようやく安倍政権で検討が始まっている・・・こう列挙すると、彼の提案はほとんど未来的である。
日本は市場志向の改革の洗礼も受けていないのに「市場原理主義」を罵倒する自称エコノミストがいるが、そういう人々にはフリードマンの本を読んでほしいものだ。『選択の自由』は、内容的には『資本主義と自由』の二番煎じだが、文庫で出ているので、この機会に一読をおすすめする。
(*)宇沢氏がいつも言っている「フリードマンがポンドの空売りを試みたので、フランク・ナイトが彼を破門した」というゴシップは嘘であることを田中秀臣氏が検証している。
私の学生時代(1970年代)には、日本の大学ではまだフリードマンは極右の特殊な学者という位置づけで、宇沢弘文氏などは口をきわめて批判していた(*)。しかしケインズ派とシカゴ派の論争は、理論的にも実証的にも70年代にほぼ決着し、80年代にはシカゴ派よりもさらに過激な「新しい古典派」が学問的には主流になった。ところが東大では、宇沢氏が「合理的期待一派は水際で阻止する」と公言して、そういう研究者を東大に帰さなかったため、日本ではケインズ派がながく生き残り、90年代には巨額の「景気対策」が行われた。
現実の政治でも、80年代にはサッチャー首相やレーガン大統領がフリードマンの理論を政策として実行したが、日本ではその理論さえ知られなかった。日本で「新自由主義」的な政策を提案したのは、小沢一郎氏である。1993年に細川政権が誕生したときは、日本でも10年遅れで改革が始まるかと思われたが、非自民連立政権は1年足らずで倒れ、自社さ連立という奇怪な政権ができたため、政策の対立軸が混乱した。小沢氏が『日本改造計画』で構想した改革は、小泉政権でやられてしまい、今度は小沢氏が社民的な「格差是正」を訴えるという奇妙な役回りになっている。
しかし、これは偽の争点である。日本では、英米で行われたような改革は、ほとんど行われていない。郵政や道路公団の民営化は、改革の名には値しない。政府の役割を洗い直して「福祉国家」を卒業することは、先進国が一度は通らなければならないステップだが、それを中途半端に終えたまま、自民党は昔の姿に戻ろうとしている。いま民主党は来年の参院選むけマニフェストを作成しているようだが、対立軸として打ち出すべきなのは90年代の小沢氏の原則である。
40年前の『資本主義と自由』を読み返すと、そこでフリードマンが提案している政策が、今でも新しいことに驚く。変動相場制は、この本で提案されたときはほとんど笑い話だった。公的年金の廃止は年金改革のなかで論じられ、法人税の廃止はブッシュ政権の政策として提案された。負の所得税は、アメリカでは勤労所得控除として部分的に導入されはじめた。教育バウチャーは、ようやく安倍政権で検討が始まっている・・・こう列挙すると、彼の提案はほとんど未来的である。
日本は市場志向の改革の洗礼も受けていないのに「市場原理主義」を罵倒する自称エコノミストがいるが、そういう人々にはフリードマンの本を読んでほしいものだ。『選択の自由』は、内容的には『資本主義と自由』の二番煎じだが、文庫で出ているので、この機会に一読をおすすめする。
(*)宇沢氏がいつも言っている「フリードマンがポンドの空売りを試みたので、フランク・ナイトが彼を破門した」というゴシップは嘘であることを田中秀臣氏が検証している。
NHKの和田郁夫氏が、マイクロソフトやIIJなどあちこちのイベントで、NHKの過去の番組をネット配信する「NHKオンデマンド」を2008年から始めると宣伝している。関連業界が期待するのも無理はないが、現実にはこのサービスにはほとんど中身がない。川口市にある「NHKアーカイブス」に行ってみればわかるが、60万本以上ある番組の中で、見られるのは6000本足らず。それも館内で(無料で)見られるだけで、有料でネット配信するには別途また許諾と著作権料の支払いが必要だ。
その原因は、番組のネット配信について著作権の処理ができていないからだ。番組の著作権はNHKにあるが、脚本家、出演者、さらにBGMのレコード会社などにも著作者隣接権があり、これらの関係者がすべてOKしないと再送信できない。特にNHKの場合には、ドキュメンタリーで取材した人々の肖像権をクリアしなければ配信しないという独自の基準を設けているため、処理コストは禁止的に高い。たとえば水俣病を扱った有名なドキュメンタリー「奇病のかげに」を再放送するため、この番組をつくったスタッフの取材メモを見て登場人物(ほとんど死亡)ひとりひとりの家族に了解をとったという。これではマイナーなオンデマンド配信では、とても採算はとれないだろう。
ケーブルテレビ(有線放送)の場合には、CATV局が著作権者(放送局)と包括契約を結べば隣接権者との契約は必要ないのに、通信(ネット配信)ではBGM1曲ごとに許諾が必要だというのは、制度として非対称である。電気通信役務利用放送法ではIPマルチキャストを放送と規定しているのに、著作権法(の文化庁による解釈)では通信(自動公衆送信)に分類しているのは、縦割り行政の弊害だ。知的財産戦略本部でさえ、これを是正するよう提言したが、文化庁は権利者の抵抗を理由にして、IPマルチキャストによる放送の同時再送信に限って有線放送と同じ扱いにする中途半端な著作権法改正を決めた。オンデマンド配信については、包括契約は認められない。
だから問題は配信技術でもなければ、NHKのネット配信規制でもない。和田氏は、来年この規制が廃止されれば自由にオンデマンド配信できると思っているのかもしれないが、最大のボトルネックは著作権なのだ。オンデマンド配信で採算がとれるようにするには、著作者(および隣接権者)に拒否権を認めないで定額の料金を支払う強制ライセンスの制度を導入し、肖像権などの「権利のインフレ」に歯止めをかける必要がある。そもそも「創造のインセンティブ」という観点から考えると、肖像権などというものは認めるべきではないのだ。
一部の音楽評論家などが「著作権保護期間の延長問題を考える国民会議」なるものを設立したようだが、「アンチ延長派ではない」という人物まで発起人になっているこの団体は、いったい何なのか。テーマを保護期間の延長というマージナルな問題に限って、今ごろから両論併記で「国民的な議論」を呼びかけるという腰の引けた姿勢では、とても闘いにはならないだろう。著作権がネット配信のボトルネックになっている現状を打開するには、強制ライセンスを創設することを含めて、現在の著作権法の枠組そのものを考え直すことが必要だ。
その原因は、番組のネット配信について著作権の処理ができていないからだ。番組の著作権はNHKにあるが、脚本家、出演者、さらにBGMのレコード会社などにも著作者隣接権があり、これらの関係者がすべてOKしないと再送信できない。特にNHKの場合には、ドキュメンタリーで取材した人々の肖像権をクリアしなければ配信しないという独自の基準を設けているため、処理コストは禁止的に高い。たとえば水俣病を扱った有名なドキュメンタリー「奇病のかげに」を再放送するため、この番組をつくったスタッフの取材メモを見て登場人物(ほとんど死亡)ひとりひとりの家族に了解をとったという。これではマイナーなオンデマンド配信では、とても採算はとれないだろう。
ケーブルテレビ(有線放送)の場合には、CATV局が著作権者(放送局)と包括契約を結べば隣接権者との契約は必要ないのに、通信(ネット配信)ではBGM1曲ごとに許諾が必要だというのは、制度として非対称である。電気通信役務利用放送法ではIPマルチキャストを放送と規定しているのに、著作権法(の文化庁による解釈)では通信(自動公衆送信)に分類しているのは、縦割り行政の弊害だ。知的財産戦略本部でさえ、これを是正するよう提言したが、文化庁は権利者の抵抗を理由にして、IPマルチキャストによる放送の同時再送信に限って有線放送と同じ扱いにする中途半端な著作権法改正を決めた。オンデマンド配信については、包括契約は認められない。
だから問題は配信技術でもなければ、NHKのネット配信規制でもない。和田氏は、来年この規制が廃止されれば自由にオンデマンド配信できると思っているのかもしれないが、最大のボトルネックは著作権なのだ。オンデマンド配信で採算がとれるようにするには、著作者(および隣接権者)に拒否権を認めないで定額の料金を支払う強制ライセンスの制度を導入し、肖像権などの「権利のインフレ」に歯止めをかける必要がある。そもそも「創造のインセンティブ」という観点から考えると、肖像権などというものは認めるべきではないのだ。
一部の音楽評論家などが「著作権保護期間の延長問題を考える国民会議」なるものを設立したようだが、「アンチ延長派ではない」という人物まで発起人になっているこの団体は、いったい何なのか。テーマを保護期間の延長というマージナルな問題に限って、今ごろから両論併記で「国民的な議論」を呼びかけるという腰の引けた姿勢では、とても闘いにはならないだろう。著作権がネット配信のボトルネックになっている現状を打開するには、強制ライセンスを創設することを含めて、現在の著作権法の枠組そのものを考え直すことが必要だ。
5年間にわたって「長期休暇」をとっていた奈良市の元職員が、職務強要の容疑で逮捕された。この事件の本質は、問題の男が部落解放同盟の支部長だったという点につきる。一方、同和事業をめぐる不祥事があいつぐ大阪市では、関市長が「(部落を)特別扱いはしない。過去のやり方とは決別する」として同和事業の大幅な整理を打ち出した。この種の事件を黙殺してきたメディアも、この問題を取り上げるようになった。ようやく同和のタブーが破られはじめたのだろうか。
関東に住む人には、なぜ解放同盟がそんなに強いのか想像できないかもしれないが、関西に住む人にはたいてい何か思い当たる経験があるだろう。私の出身は京都で、高校の学区の中には日本最大の被差別部落があったので、校内で解放同盟と対立組織の乱闘が起こったり、教師が生徒の面前で「糾弾」されるなどの事件は珍しくなかった。
メディアの差別語を作り出した責任も、解放同盟にある。あるときNHKのニュース解説で「片手落ち」という言葉を使ったのはけしからん、と部落解放同盟の地方支部の書記長がNHKに抗議にやってきた。協議の結果、この言葉は放送で使わないことに決まった。ところが、この年の大河ドラマが忠臣蔵で、赤穂浪士が集まって「吉良上野介はお咎めなしで大石内蔵助だけを切腹させるのは片手落ちだ」と言う有名なシーンがあった。そのときすでに収録は終わっていたが、撮りなおすことになり、「片落ち」という言葉で代用した。ドラマでは、浪士が次々に立ち上がって「片落ちでござる」と訴える珍妙なシーンが放送された。
関西で起こる大型の経済事件には、たいてい同和か在日がからんでいる。最近で有名なのはハンナンの浅田満元会長で、彼は解放同盟の地方副支部長だった。イトマン事件の主犯だった許永中も、同和対策事業に食い込んだことが裏社会でのし上がるきっかけだった。そしてこうした事件には、組織暴力がからんでいる。かつて山口組の構成員の7割は被差別民だといわれた。
しかし差別によって正業につけない人々が、こういうやり方で生活を支えようとしたのは、ある意味では自衛手段だった。問題は、それに対決することを避け、金でごまかしてきた役所の事なかれ主義である。2002年に「部落問題は基本的に解決した」として国の同和対策事業が打ち切られた後も、自治体では同和利権が存続し、奈良のように解放同盟が土木事業などを仕切ってきた。これは解放同盟が組織を維持するために差別語キャンペーンのような形で新たな問題を作り出し、行政がそれに迎合してきたからだ。しかし解放同盟の政治力の源泉だった社民党が凋落した今、同和事業の見直しは不可避である。
メディアも、この問題から逃げてきた。ほとんど解放同盟のいいなりに差別語が追加され、「カトンボ」や「四つ足」(いずれも一部の地域で部落民を示す隠語)まで放送禁止になった。「片手落ち」や「足切り」のみならず、最近では「身体にかかわる比喩はすべて禁止」という状態だ。このタブーを見直すと同時に、同和利権の実態を明らかにすることが彼らの責任だろう。
追記:NHKは、就職差別で有名だった。私が就職したころも身元調査をしており、実家の近所の家まで興信所が行って、奥さんが驚いていた(今は禁止)。人事担当者は「NHK職員には部落出身者はひとりもいない」と誇らしげに語っていた。メディアの側にもこういうやましいことがあるから、解放同盟に対決できないのだ。
関東に住む人には、なぜ解放同盟がそんなに強いのか想像できないかもしれないが、関西に住む人にはたいてい何か思い当たる経験があるだろう。私の出身は京都で、高校の学区の中には日本最大の被差別部落があったので、校内で解放同盟と対立組織の乱闘が起こったり、教師が生徒の面前で「糾弾」されるなどの事件は珍しくなかった。
メディアの差別語を作り出した責任も、解放同盟にある。あるときNHKのニュース解説で「片手落ち」という言葉を使ったのはけしからん、と部落解放同盟の地方支部の書記長がNHKに抗議にやってきた。協議の結果、この言葉は放送で使わないことに決まった。ところが、この年の大河ドラマが忠臣蔵で、赤穂浪士が集まって「吉良上野介はお咎めなしで大石内蔵助だけを切腹させるのは片手落ちだ」と言う有名なシーンがあった。そのときすでに収録は終わっていたが、撮りなおすことになり、「片落ち」という言葉で代用した。ドラマでは、浪士が次々に立ち上がって「片落ちでござる」と訴える珍妙なシーンが放送された。
関西で起こる大型の経済事件には、たいてい同和か在日がからんでいる。最近で有名なのはハンナンの浅田満元会長で、彼は解放同盟の地方副支部長だった。イトマン事件の主犯だった許永中も、同和対策事業に食い込んだことが裏社会でのし上がるきっかけだった。そしてこうした事件には、組織暴力がからんでいる。かつて山口組の構成員の7割は被差別民だといわれた。
しかし差別によって正業につけない人々が、こういうやり方で生活を支えようとしたのは、ある意味では自衛手段だった。問題は、それに対決することを避け、金でごまかしてきた役所の事なかれ主義である。2002年に「部落問題は基本的に解決した」として国の同和対策事業が打ち切られた後も、自治体では同和利権が存続し、奈良のように解放同盟が土木事業などを仕切ってきた。これは解放同盟が組織を維持するために差別語キャンペーンのような形で新たな問題を作り出し、行政がそれに迎合してきたからだ。しかし解放同盟の政治力の源泉だった社民党が凋落した今、同和事業の見直しは不可避である。
メディアも、この問題から逃げてきた。ほとんど解放同盟のいいなりに差別語が追加され、「カトンボ」や「四つ足」(いずれも一部の地域で部落民を示す隠語)まで放送禁止になった。「片手落ち」や「足切り」のみならず、最近では「身体にかかわる比喩はすべて禁止」という状態だ。このタブーを見直すと同時に、同和利権の実態を明らかにすることが彼らの責任だろう。
追記:NHKは、就職差別で有名だった。私が就職したころも身元調査をしており、実家の近所の家まで興信所が行って、奥さんが驚いていた(今は禁止)。人事担当者は「NHK職員には部落出身者はひとりもいない」と誇らしげに語っていた。メディアの側にもこういうやましいことがあるから、解放同盟に対決できないのだ。
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村上=ライブドア事件の捜査にも影響を与えたといわれる『ヒルズ黙示録』の続編。冒頭で、ライブドアがソニーの買収を考えていたことを明らかにして驚かせるが、本書の最大の価値は、堀江・村上被告などの公判をフォローして事件と捜査の全容を明らかにしたことだろう。
公判の過程でもっとも驚いたのは、宮内亮治・中村長也被告が1億5000万円あまりを横領していたという疑惑だ。弁護側も指摘するように、検察がこれを隠すことと引き換えに彼らに検察の「堀江主導」説に沿った供述をさせていた疑いは強い。一種の「司法取引」といえばいえなくもないが、横領や特別背任は証取法違反よりも重い犯罪であり、これは本末転倒の取引である。
しかし被告側の戦いも拙劣だ。特に「逮捕前会見」でインサイダー取引の容疑を進んで認めた村上被告が、逮捕されてから無罪を主張しはじめたのは支離滅裂で、彼が「プロ中のプロ」ではないことを露呈してしまった。ライブドアの被告も分裂しており、このままでは堀江被告の完全無罪はむずかしいだろうと著者は予測する。
著者がもっとも強く批判するのは、「初めに筋書きありき」の杜撰な見込み捜査で事件を作り出した検察である。日本経済をだめにした銀行の兆単位の粉飾には目をつむり、それに挑戦するベンチャー企業の数十億円の粉飾を大々的に摘発する検察は、既得権の用心棒だといわれてもしょうがない。今回の事件の根幹にあるのは、派手な事件の摘発で地盤沈下を食い止めようとする検察首脳と、それに迎合した東京地検の大鶴特捜部長の出世主義だという見立ては辛辣だが、私も同感だ。
最近、官民共同で検索エンジンの研究開発を行おうという「情報大航海プロジェクト」が設立され、「日の丸検索エンジン」として話題になっています。 Web2.0と呼ばれるインターネットの新しい動きに日本企業が立ち遅れていることは明らかですが、これによって日本は立ち直れるのでしょうか。このような政府主導の産業政策はもう時代遅れだという批判もありますが、経済産業省は日の丸検索エンジンというのは誤解だといっています。
日本のIT産業を活性化するために政府は何をすべきなのでしょうか? また何をすべきでないのでしょうか? 経産省の政策の真の狙いはどこにあるのでしょうか? 11月の情報通信政策フォーラム(ICPF)セミナーでは、情報大航海プロジェクトを進めている経産省の久米孝さんをお招きし、IT産業と政府の役割について議論します。
スピーカー:久米孝(経済産業省 商務情報政策局 情報政策課 課長補佐)
モデレーター:原淳二郎(ジャーナリスト)
日時:11月30日(木)18:30~20:30
場所:「情報オアシス神田」
東京都千代田区神田多町2-4 第2滝ビル3F(地図)
入場料:2000円 ICPF会員は無料(会場で入会できます)
申し込みはinfo@icpf.jpまで電子メールで氏名・所属を明記して(先着順で締め切ります)
日本のIT産業を活性化するために政府は何をすべきなのでしょうか? また何をすべきでないのでしょうか? 経産省の政策の真の狙いはどこにあるのでしょうか? 11月の情報通信政策フォーラム(ICPF)セミナーでは、情報大航海プロジェクトを進めている経産省の久米孝さんをお招きし、IT産業と政府の役割について議論します。
スピーカー:久米孝(経済産業省 商務情報政策局 情報政策課 課長補佐)
モデレーター:原淳二郎(ジャーナリスト)
日時:11月30日(木)18:30~20:30
場所:「情報オアシス神田」
東京都千代田区神田多町2-4 第2滝ビル3F(地図)
入場料:2000円 ICPF会員は無料(会場で入会できます)
申し込みはinfo@icpf.jpまで電子メールで氏名・所属を明記して(先着順で締め切ります)
先週は、出張のためにブログの更新が滞ってしまった。といっても、普通は出張先でもウェブが見えるので、環境はほとんど変わらないのだが、今回は後半、ローマに入ってからまったくインターネットが使えなくなった。ホテルには「Wi-Fi完備」という表示があり、最初はつながったのだが、3回目から何度アクセスしてもつながらない。どうもWi-Fiを接続しているテレコムイタリアのプロクシサーバが容量不足かダウンしたようで、ローマ中で同じ現象が起きているはずだから、そのうち修復されるだろう・・・と思ったのが甘かった。1日たっても直らないのだ。おまけにダイアルアップもつながらない。
現地で仕事を手伝ってもらったミカさんによれば、こんなことはイタリアでは日常茶飯事だという。日本ではNTTのIP電話が止まったら大騒ぎになるが、イタリアではだれも驚かない。ホテルや電話会社に抗議しても、何もしないことがわかっているので、みんなあきらめて自衛策をとる。私も、ホテルのモーニングコールが当てにならないので、警戒してラジオのタイマーと二重にかけたが、両方とも鳴らなかった(危険を感じて目が覚めた)。
しかし世界の中で見ると、こういう事件に普段まったく遭遇しない日本のほうが例外である。今回も最初のワシントンのホテルでは、Wi-Fiがつながったりつながらなかったり不安定だったし、ダレス空港では荷物が迷子になった。当たり前のことが当たり前に動くありがたさに日本人は気づいていないが、こういう社会的な信頼性の高さ(取引費用の低さ)が日本の製造業の高い効率を支えているのである。
こうした社会的インフラを社会学でsocial capitalと呼ぶが、イタリアはそのショーケースとして有名だ。同じ国の中でも、ミラノなど北部は信頼性が高く工業化が進んでいるが、南部のシチリアなどは今でもマフィアが地域を支配し、産業も立ち遅れている。この原因は、中世にスペインがイタリア南部を支配下に置いたとき、住民の反乱を防ぐため、地域を分断して住民を互いに反目させたことにあるという。その結果、イタリアでは統一国家の成立が遅れ、「私的な警察」としてのマフィアが登場したのである。彼らにとっては、治安サービスの「需要」を作り出すために犯罪を起こし、社会の信頼性を破壊することがビジネスになるわけだ。
これは旅行者にとっては笑い話ですむが、ローマに住んでいるミカさんにとっては深刻な問題だ。インフラが当てにならないので、同じ仕事をするにも日本の倍ぐらい手間がかかる。他人が信用できないため、借金は家族や親戚からしかできず、大企業が成立しない。賄賂や地下経済も蔓延しているが、裁判所が機能しない(ちょっとした裁判も10年ぐらいかかる)ので、だれも不正をただそうとしない。欧州でも他の国との経済格差が拡大して、こういう腐敗の親玉であるベルルスコーニは政権から追放された。
・・・などと書くと、イタリア人は不幸な顔をしているみたいだが、レストランは果てしなくおしゃべりする人々で満員だ。みんなコンピュータなんか使わないで、人生を楽しんでいるのである。私もWi-Fiと格闘して疲れたあと、近所のレストランで安いスパゲティを食ったら、今まで食ったスパゲティのなかで一番うまかった。「貧弱な通信インフラとうまいスパゲティ」と「高速の通信インフラとまずいスパゲティ」のどちらをとるかと問われたら、私も前者をとるような気がする。
現地で仕事を手伝ってもらったミカさんによれば、こんなことはイタリアでは日常茶飯事だという。日本ではNTTのIP電話が止まったら大騒ぎになるが、イタリアではだれも驚かない。ホテルや電話会社に抗議しても、何もしないことがわかっているので、みんなあきらめて自衛策をとる。私も、ホテルのモーニングコールが当てにならないので、警戒してラジオのタイマーと二重にかけたが、両方とも鳴らなかった(危険を感じて目が覚めた)。
しかし世界の中で見ると、こういう事件に普段まったく遭遇しない日本のほうが例外である。今回も最初のワシントンのホテルでは、Wi-Fiがつながったりつながらなかったり不安定だったし、ダレス空港では荷物が迷子になった。当たり前のことが当たり前に動くありがたさに日本人は気づいていないが、こういう社会的な信頼性の高さ(取引費用の低さ)が日本の製造業の高い効率を支えているのである。
こうした社会的インフラを社会学でsocial capitalと呼ぶが、イタリアはそのショーケースとして有名だ。同じ国の中でも、ミラノなど北部は信頼性が高く工業化が進んでいるが、南部のシチリアなどは今でもマフィアが地域を支配し、産業も立ち遅れている。この原因は、中世にスペインがイタリア南部を支配下に置いたとき、住民の反乱を防ぐため、地域を分断して住民を互いに反目させたことにあるという。その結果、イタリアでは統一国家の成立が遅れ、「私的な警察」としてのマフィアが登場したのである。彼らにとっては、治安サービスの「需要」を作り出すために犯罪を起こし、社会の信頼性を破壊することがビジネスになるわけだ。
これは旅行者にとっては笑い話ですむが、ローマに住んでいるミカさんにとっては深刻な問題だ。インフラが当てにならないので、同じ仕事をするにも日本の倍ぐらい手間がかかる。他人が信用できないため、借金は家族や親戚からしかできず、大企業が成立しない。賄賂や地下経済も蔓延しているが、裁判所が機能しない(ちょっとした裁判も10年ぐらいかかる)ので、だれも不正をただそうとしない。欧州でも他の国との経済格差が拡大して、こういう腐敗の親玉であるベルルスコーニは政権から追放された。
・・・などと書くと、イタリア人は不幸な顔をしているみたいだが、レストランは果てしなくおしゃべりする人々で満員だ。みんなコンピュータなんか使わないで、人生を楽しんでいるのである。私もWi-Fiと格闘して疲れたあと、近所のレストランで安いスパゲティを食ったら、今まで食ったスパゲティのなかで一番うまかった。「貧弱な通信インフラとうまいスパゲティ」と「高速の通信インフラとまずいスパゲティ」のどちらをとるかと問われたら、私も前者をとるような気がする。
WSJによれば、VerizonがYouTubeと提携して、携帯電話やテレビでクリップを配信するという。Verizonといっても日本ではなじみがないが、AT&Tが分割されてできた地域電話会社(ILEC)が合併をくり返してできた社員21万人の巨大企業である。だからこのニュースは、日本でいえばNTT東日本が2ちゃんねると提携するような、ちょっと考えられない組み合わせだ。
この記事が出た7日、ちょうど私はワシントンでVerizonのエコノミストと話していて、このニュースを彼から聞いた。私が「YouTubeは訴訟まみれになるのではないか?」と質問すると、彼は「RIAAと当社の(P2Pをめぐる)訴訟を覚えているかい?あのころ音楽・映画業界とわれわれは敵同士で、ディズニーの首脳が『Verizonはナチだ』と発言したんだよ」と笑った。「そのディズニーが今や当社の最大のパートナーだ。問題は訴訟ではなく、ビジネスなんだよ。訴訟を起こすのは弁護士ではなく顧客なんだから」。
VerizonはFiOS TVという光ファイバーの映像配信サービスを去年から始めたが、この業界では全米の視聴者の8割がケーブルテレビを見ており、ILECは挑戦者だ。ケーブルと同じ番組を流してもだめなので、ビデオ・オンデマンドやダウンロードなどのメニューを用意して、ロングテールの部分にコンテンツを広げようとしている。YouTubeは、そういうILECのねらいに合致したのだ。そしてハリウッドも、ケーブルより高画質で多くのチャンネルの流せる光ファイバーに商機を見出している。
「しかしYouTubeはハリウッドの敵になるのでは?」と聞くと、彼は「いや違う。ハリウッドにとって大事なのは、作品であってパイプではない。プロデューサーの評価は、一つの作品からいかに多くの収益を上げるかで決まるので、パイプはいくらあっても足りないのだ」という。「ケーブルはたかだか300チャンネルしかないが、インターネットには無限のチャンネルがある。ハリウッドはネットを選ぶだろう。彼らは強欲すぎてYouTubeを殺すことができないのだ(They are too greedy to kill YouTube)」。彼は具体的には語らなかったが、「コンテンツの送り手が合意すれば、著作権なんて障害ではない」と、ILECとハリウッドの間でP2Pのときのような「取引」が進行していることをにおわせた。
「通信と放送の融合」といえば、日本では地デジのIP再送信を認めるとか認めないとか石器時代みたいな話をしているが、アメリカでは「滅びゆく恐竜」とバカにされていたILECが、すっかりネット企業に変身しているのには驚いた。「象が踊れないと誰がいったのか」というのは、IBMを倒産の危機から救ったルイス・ガースナーの回顧録の原題だが、株式市場からプレッシャーをかけられると、恐竜も踊り始めるのがアメリカ資本主義のおもしろいところだ。
この記事が出た7日、ちょうど私はワシントンでVerizonのエコノミストと話していて、このニュースを彼から聞いた。私が「YouTubeは訴訟まみれになるのではないか?」と質問すると、彼は「RIAAと当社の(P2Pをめぐる)訴訟を覚えているかい?あのころ音楽・映画業界とわれわれは敵同士で、ディズニーの首脳が『Verizonはナチだ』と発言したんだよ」と笑った。「そのディズニーが今や当社の最大のパートナーだ。問題は訴訟ではなく、ビジネスなんだよ。訴訟を起こすのは弁護士ではなく顧客なんだから」。
VerizonはFiOS TVという光ファイバーの映像配信サービスを去年から始めたが、この業界では全米の視聴者の8割がケーブルテレビを見ており、ILECは挑戦者だ。ケーブルと同じ番組を流してもだめなので、ビデオ・オンデマンドやダウンロードなどのメニューを用意して、ロングテールの部分にコンテンツを広げようとしている。YouTubeは、そういうILECのねらいに合致したのだ。そしてハリウッドも、ケーブルより高画質で多くのチャンネルの流せる光ファイバーに商機を見出している。
「しかしYouTubeはハリウッドの敵になるのでは?」と聞くと、彼は「いや違う。ハリウッドにとって大事なのは、作品であってパイプではない。プロデューサーの評価は、一つの作品からいかに多くの収益を上げるかで決まるので、パイプはいくらあっても足りないのだ」という。「ケーブルはたかだか300チャンネルしかないが、インターネットには無限のチャンネルがある。ハリウッドはネットを選ぶだろう。彼らは強欲すぎてYouTubeを殺すことができないのだ(They are too greedy to kill YouTube)」。彼は具体的には語らなかったが、「コンテンツの送り手が合意すれば、著作権なんて障害ではない」と、ILECとハリウッドの間でP2Pのときのような「取引」が進行していることをにおわせた。
「通信と放送の融合」といえば、日本では地デジのIP再送信を認めるとか認めないとか石器時代みたいな話をしているが、アメリカでは「滅びゆく恐竜」とバカにされていたILECが、すっかりネット企業に変身しているのには驚いた。「象が踊れないと誰がいったのか」というのは、IBMを倒産の危機から救ったルイス・ガースナーの回顧録の原題だが、株式市場からプレッシャーをかけられると、恐竜も踊り始めるのがアメリカ資本主義のおもしろいところだ。
当ブログを丸ごとキャッシュしたサイトがあらわれた(アクセスすることはおすすめできない):
http://blog.goo.ne.jp.tz.mine.nu/ikedanobuo
ヤフーのブログ検索で当ブログを検索すると、トップにこのキャッシュサイトが本物と並んで出てくる(14:20現在)。この偽サイトからリンクをたどると、驚いたことに外務省からヤフーやウィキペディアに至るまで、あらゆるサイトが、このZettAgentなるサイトにキャッシュされている。ところが、このサイトにトップページはなく、グーグルでもヤフーでも、ZettAgentはまったく引っかからない。非常に新しいのかもしれない。
大規模なフィッシングの疑いがあるが、IE7のフィッシング検出機能では(かなり考えている様子があるが)引っかからない。この.nuというドメインは、怪しげなサイトに使われているようだ。グーグルの検索広告がリンクされているが、本物かどうかはわからない。危険なので、クリックしないほうがよい。もちろん、この偽ページにコメントやTBをつけてはいけない。
少なくとも当ブログの記事と、そこからリンクを張った記事は、すべてキャッシュされているようだ。ここで言及された人は、チェックしてみてください。念のため、サイトで使っているパスワードは(他で使っている場合も)変えたほうがよい。私のページでは、管理者画面まではキャッシュされていない(偽ヤフーにリダイレクトされる)が、パスワードを取得したことを隠していることも考えられる。
アドホックに検索した限りでは、ITMediaがキャッシュされているがCNETはなかったり、梅田望夫さんのブログはさっきまでキャッシュされていたが消えたりしている。ヤフーが検索結果から削除している最中かもしれないが、偽サイトそのものが残っている限り、いずれ他の検索エンジンでも出てくるだろう。この記事を読んでいるブログ管理者と運営企業は、早急に対策を講じたほうがよいと思う。
追記:この記事を投稿した直後にリロードすると、もう偽サイトもアップデートされている! しかも偽リンクもすべて張られている。
追記2:コメントで教えてもらったが、これはDynamic DNSを使って同一のIPアドレスにドメインを二重に登録しているらしい。サイトを登録しているのはNIFTYのユーザーで、国内の有名なブログの多くに偽サイトができているようだ。HTMLファイル自体は本物なので、フィッシングに使われるおそれはないようだが、NIFTYはこのサイトを削除すべきだ。
追記3:サイトが削除されたようだ(13日01:00)。
http://blog.goo.ne.jp.tz.mine.nu/ikedanobuo
ヤフーのブログ検索で当ブログを検索すると、トップにこのキャッシュサイトが本物と並んで出てくる(14:20現在)。この偽サイトからリンクをたどると、驚いたことに外務省からヤフーやウィキペディアに至るまで、あらゆるサイトが、このZettAgentなるサイトにキャッシュされている。ところが、このサイトにトップページはなく、グーグルでもヤフーでも、ZettAgentはまったく引っかからない。非常に新しいのかもしれない。
大規模なフィッシングの疑いがあるが、IE7のフィッシング検出機能では(かなり考えている様子があるが)引っかからない。この.nuというドメインは、怪しげなサイトに使われているようだ。グーグルの検索広告がリンクされているが、本物かどうかはわからない。危険なので、クリックしないほうがよい。もちろん、この偽ページにコメントやTBをつけてはいけない。
少なくとも当ブログの記事と、そこからリンクを張った記事は、すべてキャッシュされているようだ。ここで言及された人は、チェックしてみてください。念のため、サイトで使っているパスワードは(他で使っている場合も)変えたほうがよい。私のページでは、管理者画面まではキャッシュされていない(偽ヤフーにリダイレクトされる)が、パスワードを取得したことを隠していることも考えられる。
アドホックに検索した限りでは、ITMediaがキャッシュされているがCNETはなかったり、梅田望夫さんのブログはさっきまでキャッシュされていたが消えたりしている。ヤフーが検索結果から削除している最中かもしれないが、偽サイトそのものが残っている限り、いずれ他の検索エンジンでも出てくるだろう。この記事を読んでいるブログ管理者と運営企業は、早急に対策を講じたほうがよいと思う。
追記:この記事を投稿した直後にリロードすると、もう偽サイトもアップデートされている! しかも偽リンクもすべて張られている。
追記2:コメントで教えてもらったが、これはDynamic DNSを使って同一のIPアドレスにドメインを二重に登録しているらしい。サイトを登録しているのはNIFTYのユーザーで、国内の有名なブログの多くに偽サイトができているようだ。HTMLファイル自体は本物なので、フィッシングに使われるおそれはないようだが、NIFTYはこのサイトを削除すべきだ。
追記3:サイトが削除されたようだ(13日01:00)。
安倍首相は、「侵略戦争」を認めた1995年の村山首相談話や「慰安婦」について謝罪した93年の河野官房長官談話を認めるなど軌道修正が目立ち、「自虐史観」を批判する支持者から批判を浴びている。他方、下村官房副長官が河野談話について「事実関係を研究し、客観的に科学的な知識を収集して考えるべきではないか」とのべたことが野党の反発を呼んでいる。しかし、これは靖国参拝のような「心の問題」でなはく、検証可能な歴史的事実の問題であり、政治的配慮で封印するのはおかしい。
私は、かつて慰安婦騒ぎがつくられた現場に立ち会ったことがある。1991年にNHKの終戦関連企画で、私は強制連行をテーマに、同僚は慰安婦をテーマに取材した。韓国で数十人の強制連行経験者に取材したが、軍が連行したという証言は得られなかった。強制連行とよばれるものの実態は、朝鮮半島で食い詰めた人々が高給にだまされて日本の炭鉱や軍需工場に出稼ぎに行き、ひどい条件で労働させられて逃げられなかったという「タコ部屋」の話にすぎない。慰安婦も、売春でもうけようとする民間の業者が、貧しい農村の女性をだまして戦地に連れて行った公娼であり、「従軍慰安婦」という言葉も当時は使われなかった。
河野談話のいうように「甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多く」あり、軍がそれに関与したことは事実だが、公権力で徴用した事実はない。談話でも「官憲等が直接これに加担した」という表現にとどめている。実をいうと、私も当初は軍の強制の証拠をさがしたのだが見つからなかったので、戦争ものとしてはインパクトの弱い番組になってしまった。ところが、ほぼ同時に放送された慰安婦のほうは「私は慰安婦だった」と韓国女性が証言し、その後、日本政府を相手どって訴訟まで起こしたため、国際的にも大きな反響を呼び、政府が謝罪するに至った。
私は、最初からこの「証言」には疑問をもっていた。証言者を連れてくるところから話の中身まで福島瑞穂弁護士がお膳立てし、彼女の売名に利用されている印象が強かったからだ(のちに彼女は社民党から出馬して参議院議員になった)。実際には、元慰安婦の証言以外には、軍が連行したという証拠は当時も今もない。しかし史実に忠実につくった私の番組よりも、センセーショナルに慰安婦問題を暴いた同僚の番組のほうが「おもしろかった」ため、話が次第に一人歩きし、演出が事実になってしまったのである。
河野談話の根拠とされたのは、「軍が済州島で慰安婦狩りを行った」と証言する吉田清治氏の『私の戦争犯罪』(三一書房)という本だが、この内容は捏造であることが後に判明した。これについて、安倍氏は97年に「河野談話は前提が崩れている」と国会で質問し、その見直しを迫った。これと首相答弁の矛盾を追及されると、彼は「狭義の強制には疑問があるが、その後広義の強制に議論が変わった」と苦しい答弁をしているが、公権力を執行していないのに政府が謝罪するのは無原則である。これは安倍氏の政治家としての矜持にかかわる問題だ。
事実関係に疑問があるのに、閣議決定を継承するという手続き論で「科学的な知識の収集」も許さないのはおかしい。もちろん韓国と友好的な関係を結ぶことは重要だが、誤った歴史認識のもとで一方的に謝罪しても、真の友好関係は築けない。日本軍がアジアで行った侵略行為について政府が謝罪するのは当然だが、事実でないことはそう指摘するのが、成熟した日韓関係の基礎だろう。中韓の反日教育の実態もひどい。靖国という「非問題」がようやく後景に去った今、日中韓が率直に対話して、客観的に歴史を検証する必要があるのではないか。
私は、かつて慰安婦騒ぎがつくられた現場に立ち会ったことがある。1991年にNHKの終戦関連企画で、私は強制連行をテーマに、同僚は慰安婦をテーマに取材した。韓国で数十人の強制連行経験者に取材したが、軍が連行したという証言は得られなかった。強制連行とよばれるものの実態は、朝鮮半島で食い詰めた人々が高給にだまされて日本の炭鉱や軍需工場に出稼ぎに行き、ひどい条件で労働させられて逃げられなかったという「タコ部屋」の話にすぎない。慰安婦も、売春でもうけようとする民間の業者が、貧しい農村の女性をだまして戦地に連れて行った公娼であり、「従軍慰安婦」という言葉も当時は使われなかった。
河野談話のいうように「甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多く」あり、軍がそれに関与したことは事実だが、公権力で徴用した事実はない。談話でも「官憲等が直接これに加担した」という表現にとどめている。実をいうと、私も当初は軍の強制の証拠をさがしたのだが見つからなかったので、戦争ものとしてはインパクトの弱い番組になってしまった。ところが、ほぼ同時に放送された慰安婦のほうは「私は慰安婦だった」と韓国女性が証言し、その後、日本政府を相手どって訴訟まで起こしたため、国際的にも大きな反響を呼び、政府が謝罪するに至った。
私は、最初からこの「証言」には疑問をもっていた。証言者を連れてくるところから話の中身まで福島瑞穂弁護士がお膳立てし、彼女の売名に利用されている印象が強かったからだ(のちに彼女は社民党から出馬して参議院議員になった)。実際には、元慰安婦の証言以外には、軍が連行したという証拠は当時も今もない。しかし史実に忠実につくった私の番組よりも、センセーショナルに慰安婦問題を暴いた同僚の番組のほうが「おもしろかった」ため、話が次第に一人歩きし、演出が事実になってしまったのである。
河野談話の根拠とされたのは、「軍が済州島で慰安婦狩りを行った」と証言する吉田清治氏の『私の戦争犯罪』(三一書房)という本だが、この内容は捏造であることが後に判明した。これについて、安倍氏は97年に「河野談話は前提が崩れている」と国会で質問し、その見直しを迫った。これと首相答弁の矛盾を追及されると、彼は「狭義の強制には疑問があるが、その後広義の強制に議論が変わった」と苦しい答弁をしているが、公権力を執行していないのに政府が謝罪するのは無原則である。これは安倍氏の政治家としての矜持にかかわる問題だ。
事実関係に疑問があるのに、閣議決定を継承するという手続き論で「科学的な知識の収集」も許さないのはおかしい。もちろん韓国と友好的な関係を結ぶことは重要だが、誤った歴史認識のもとで一方的に謝罪しても、真の友好関係は築けない。日本軍がアジアで行った侵略行為について政府が謝罪するのは当然だが、事実でないことはそう指摘するのが、成熟した日韓関係の基礎だろう。中韓の反日教育の実態もひどい。靖国という「非問題」がようやく後景に去った今、日中韓が率直に対話して、客観的に歴史を検証する必要があるのではないか。
無料VoIPシステム、Jajahが携帯電話からも使えるようになった。Symbianの入っている携帯なら、Jajahのホームページにアクセスしてソフトウェアをインストールすれば、メンバー同士であれば世界のどこでも無料でかけられる。
もちろん固定電話でも使える。Skypeより便利なのは、ヘッドセットなしで使えることだ。発信する電話番号を登録してJajahからかけると、こちらと相手の電話を呼び出し、受話器をとれば、あとは普通の電話と同じように通話できる。通話品質はSkypeよりよい。料金は、相手がメンバーでなくても、アメリカにかけて1分3円ぐらい。クレジットカードでいくらか料金を前払いする必要があるが、最低額の250円でも1ヶ月は使えるだろう。
ちょっとあやしげな感じがあるが、収入源はグーグルの検索広告で、別にあやしいものではない。スパイウェアの類の問題もない。私の職場では半年以上使っているが、たまに切れたり音質が落ちたりする以外は、何もトラブルはない。これが携帯電話からも使えれば、パケット料金だけで通話できる。固定電話の市場は、すでにVoIPによって急速に縮小しているが、これからは携帯電話の市場も、こうした無線VoIPによって縮小するだろう。
もちろん固定電話でも使える。Skypeより便利なのは、ヘッドセットなしで使えることだ。発信する電話番号を登録してJajahからかけると、こちらと相手の電話を呼び出し、受話器をとれば、あとは普通の電話と同じように通話できる。通話品質はSkypeよりよい。料金は、相手がメンバーでなくても、アメリカにかけて1分3円ぐらい。クレジットカードでいくらか料金を前払いする必要があるが、最低額の250円でも1ヶ月は使えるだろう。
ちょっとあやしげな感じがあるが、収入源はグーグルの検索広告で、別にあやしいものではない。スパイウェアの類の問題もない。私の職場では半年以上使っているが、たまに切れたり音質が落ちたりする以外は、何もトラブルはない。これが携帯電話からも使えれば、パケット料金だけで通話できる。固定電話の市場は、すでにVoIPによって急速に縮小しているが、これからは携帯電話の市場も、こうした無線VoIPによって縮小するだろう。
一昨日の「プリンタのカートリッジはなぜ高いのか」という記事には、「携帯電話こそ悪魔的だ」というコメントがたくさん寄せられた。もちろんその通りだが、いわずもがななので少ししかふれなかった。ただ最近のソフトバンクをめぐる不当表示騒動について、いささか疑問を感じたので、少し補足しておく。
ソフトバンクの「0円キャンペーン」に不当表示の疑いがあることは確かだが、それを他社が非難できるのか。ドコモやKDDIの端末も「0円」と表示して売っているし、料金体系が複雑でわかりにくいのも似たようなものだ。もちろん消費者の負担はゼロではなく、端末価格の割引分は販売店へのインセンティブとしてキャリアが負担し、それを月々の通話料金に転嫁しているのである。
このしくみが消費者側からみて問題なのは、第一に端末の価格が本来よりも安く見せかけられ、しかも通話料金への上乗せはどの機種でも同じだから、過剰機能の端末が売れる傾向が強いことだ。その結果、キャリアの負担が大きくなって、結局は料金が高くなるのである。
第二に、長期間使う消費者ほど損することだ。端末1個あたりのインセンティブは平均4万円ぐらいだといわれるが、これは料金に上乗せして1年半ぐらいで回収される。その後は、ユーザーは高い料金だけを負担することになり、それが他の端末のインセンティブの財源になる。いいかえれば、長期ユーザーから短期ユーザーへの所得移転が数千億円規模で行われているのである。
実はキャリアにとっても、販売費用は大きな負担になっている。特に最近、彼らが困っているのは、デジタルカメラを買う代わりにカメラ付携帯を安く買ってすぐ解約する新規即解約という現象が広がっていることだ。これだとインセンティブは無駄になるばかりか、こういう「ただ乗り」を奨励する結果になる。そもそも端末の割引は、新規ユーザーには意味があっても、買い替えユーザーには必要ないのに、買い替えにも漫然と適用されている。
ベンダーも、キャリアが開発から流通まで支配するしくみには不満をもっている。前の記事のコメントにも書いたが、日本の携帯端末に国際競争力がないひとつの原因は、端末メーカーがキャリアの「下請け」になっているため、最終財市場の国際競争が働かないことだ。キャリアの側もコスト意識がないから過剰品質を求め、1端末に100億円といった異常な開発費がつぎこまれ、世界に通用しない超高機能・高価格の端末ばかり開発される。
これに比べれば、ソフトバンクが「新スーパーボーナス」で打ち出した割賦販売のほうが透明性が高い。これは端末の正規の価格を表示し、月々の分割払い分を通話料金から返済するものだ(*)。初期負担を「0円」にする点は従来と同じだが、端末の種類によって返済額が違う。さらに重要な違いは、端末を販売店が値引きするのではなく、分割払い分をソフトバンクモバイルが負担することだ。これなら販売店にインセンティブを出す必要はない。
割賦販売に移行したら、SIMロックもやめるべきだ。27ヶ月以内に端末を変更すると、割賦販売の残額を支払わなければならないのだから、端末を物理的に拘束する必要はない。むしろ積極的にSIMカードをアンバンドルして海外の端末が使えるようにすれば、ラインナップも一挙に増える。ソフトバンクの最終兵器は、こうした「流通革命」をしかけることだろう。それは消費者にとっても歓迎すべきことだ。
(*)いうまでもなく、この返済分を差し引く前の料金が端末価格を織り込んでいるので、「ソフトバンクが端末価格を負担する」ように見えるのもトリックである。
ソフトバンクの「0円キャンペーン」に不当表示の疑いがあることは確かだが、それを他社が非難できるのか。ドコモやKDDIの端末も「0円」と表示して売っているし、料金体系が複雑でわかりにくいのも似たようなものだ。もちろん消費者の負担はゼロではなく、端末価格の割引分は販売店へのインセンティブとしてキャリアが負担し、それを月々の通話料金に転嫁しているのである。
このしくみが消費者側からみて問題なのは、第一に端末の価格が本来よりも安く見せかけられ、しかも通話料金への上乗せはどの機種でも同じだから、過剰機能の端末が売れる傾向が強いことだ。その結果、キャリアの負担が大きくなって、結局は料金が高くなるのである。
第二に、長期間使う消費者ほど損することだ。端末1個あたりのインセンティブは平均4万円ぐらいだといわれるが、これは料金に上乗せして1年半ぐらいで回収される。その後は、ユーザーは高い料金だけを負担することになり、それが他の端末のインセンティブの財源になる。いいかえれば、長期ユーザーから短期ユーザーへの所得移転が数千億円規模で行われているのである。
実はキャリアにとっても、販売費用は大きな負担になっている。特に最近、彼らが困っているのは、デジタルカメラを買う代わりにカメラ付携帯を安く買ってすぐ解約する新規即解約という現象が広がっていることだ。これだとインセンティブは無駄になるばかりか、こういう「ただ乗り」を奨励する結果になる。そもそも端末の割引は、新規ユーザーには意味があっても、買い替えユーザーには必要ないのに、買い替えにも漫然と適用されている。
ベンダーも、キャリアが開発から流通まで支配するしくみには不満をもっている。前の記事のコメントにも書いたが、日本の携帯端末に国際競争力がないひとつの原因は、端末メーカーがキャリアの「下請け」になっているため、最終財市場の国際競争が働かないことだ。キャリアの側もコスト意識がないから過剰品質を求め、1端末に100億円といった異常な開発費がつぎこまれ、世界に通用しない超高機能・高価格の端末ばかり開発される。
これに比べれば、ソフトバンクが「新スーパーボーナス」で打ち出した割賦販売のほうが透明性が高い。これは端末の正規の価格を表示し、月々の分割払い分を通話料金から返済するものだ(*)。初期負担を「0円」にする点は従来と同じだが、端末の種類によって返済額が違う。さらに重要な違いは、端末を販売店が値引きするのではなく、分割払い分をソフトバンクモバイルが負担することだ。これなら販売店にインセンティブを出す必要はない。
割賦販売に移行したら、SIMロックもやめるべきだ。27ヶ月以内に端末を変更すると、割賦販売の残額を支払わなければならないのだから、端末を物理的に拘束する必要はない。むしろ積極的にSIMカードをアンバンドルして海外の端末が使えるようにすれば、ラインナップも一挙に増える。ソフトバンクの最終兵器は、こうした「流通革命」をしかけることだろう。それは消費者にとっても歓迎すべきことだ。
(*)いうまでもなく、この返済分を差し引く前の料金が端末価格を織り込んでいるので、「ソフトバンクが端末価格を負担する」ように見えるのもトリックである。
私の勤務している上武大学が、来年4月から東京駅の前に社会人向けのサテライト大学院を開校する。ビジネスの現場で活躍する人々を教授に招いて、学問とともに最新の情報を伝えるのが特長だ。私もコーポレート・ガバナンスなどの講義を担当する。
願書の受付は今月14日(火)まで。くわしいことはホームページで。
願書の受付は今月14日(火)まで。くわしいことはホームページで。