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言論や表現の自由にとって、深刻な事態がまた起こった。
和歌山県太地町のイルカ漁を告発した米国のドキュメンタリー映画「ザ・コーヴ」の上映を予定していた東京、大阪の3映画館が中止を決めた。作品を「反日的」と糾弾する団体が「抗議活動」を予告したため、近隣への迷惑を考え「自粛」するという。
問題は、この映画の内容が妥当かどうか、質が高いかどうかとはまったく別のことだ。たとえ評価が割れたり、多くの人が反発したりする作品や意見であっても、それを発表する自由は保障する。それが表現や言論の自由であり、自由な社会の土台である。
「客に万一のことがあっては」という映画館の不安はわかる。しかし、こういう形での上映中止を、自由な民主主義社会が見過ごしてはいけない。
この映画は、太地町でのイルカ追い込み漁の様子を隠し撮りして作った。今年のアカデミー賞長編ドキュメンタリー賞を受けたが、地元などからは、その手法も含め強い批判が出ている。
同町と同町漁業組合は、登場する住民の肖像権を侵害し、虚偽の事項を事実のように示しているとして、配給元に上映中止を求めた。このため配給元は住民の顔にモザイクを入れたほか、町側の主張を作品の末尾に字幕として加える対応をした。
作品のクライマックスでは、漁師がイルカを殺し、海が赤く染まるシーンが映し出される。イルカ保護の観点から「残虐」行為として描こうとしたのは明らかだ。太地町のイルカ漁は長い伝統がある。もちろん合法だ。地元出身でなくとも、作品に抵抗を感じる日本人は少なくないかもしれない。
だが、イルカについてまったく異なった見方があることはわかる。何がどう違うのか。なぜアカデミー賞を受けるほど評価されたのか。
強い反発を覚えながら、自分と異なる価値観と向き合う。そして、自分はなぜこの作品に批判的なのかも考えてみる。それは自身の価値観を相対化したり、どんな偏見や誤解が異文化間の理解を阻んでいるのかを考えたりするきっかけになるだろう。
だからこそ、人々が多様な意見に接する機会を封じてはならないのだ。
同じような事態は一昨年、中国人監督によるドキュメンタリー映画「靖国 YASUKUNI」をめぐっても生まれ、上映中止が相次いだ。
今回も上映中止の連鎖が懸念されるが、上映予定の全国の約20館には踏ん張ってほしい。万一、業務を妨害する行為があれば、警察は厳重に取り締まるべきだ。
上映の「自粛」が続くことは、日本が自由社会を自任するなら恥ずべき事態である。上映館を孤立させないよう声をあげていきたい。
80歳を超える元兵士たちが、国会に通い詰めながらため息をつく。朗報を心待ちにする全国の仲間が1人、また1人と旅立っているという。
終戦直後、旧満州からシベリアに連行され、旧ソ連により過酷な労働を強いられながら賃金や補償を得られなかった抑留被害者の生存者に、最高150万円を給付する特別措置法案が、成立を目前に足踏みをしているのだ。民主党を中心とする議員立法で、すでに野党とも合意。参院を通過した後、首相交代劇に巻き込まれた。
日本の侵略戦争とソ連の収容所体制が引き起こし、両政府が放置してきた問題だ。政治がこれ以上非情であってはならない。なんとかこの国会で成立させられないか。
約60万人が抑留され、酷寒の地で最長11年を過ごし、6万人が絶命したとされる。全容は今もはっきりしない。
1956年の日ソ共同宣言で両国は賠償請求権を放棄し、未払い賃金をソ連に求めるすべはなくなった。元抑留者は日本政府を訴えたが、最高裁は97年、「国民は戦争被害を等しく受忍すべきだ」と請求を退けた。
元抑留者には、10万円分の国債や同額の旅行券が配られてきたが、いずれも「慰労」名目だ。「この問題での戦後処理は終わった」というのが政府の一貫した態度だった。
法案はそうした原則を転換するものだ。金額は抑留期間に応じて決まり、実質は補償に近い。元抑留者らは「尊厳回復の証しだ」と受け止める。
見過ごせぬ問題点もある。終戦時「日本兵」だった朝鮮・台湾出身者は国籍で線引きされ、対象から外された。政府内に「他の戦後補償問題に波及する」との懸念があり、今後の検討を定めた条項も削られた。植民地支配と抑留の二重の被害者を切り捨てるとしたら本末転倒だ。成立後、彼らへの措置も早急に検討すべきである。
法案には、抑留の実態調査や体験を継承する事業が盛り込まれた。忘れてならないのは、悲劇の背景に日本の大陸侵略があったという視点だ。朝鮮・台湾人を含む関東軍がなぜそこにいたか。なぜ大量の兵力が引き渡されたのか。労苦を伝えるだけでなく、歴史の実相を解明し反省を未来につなげる。最大の責任があるロシアも、せめてその協力はするべきだろう。
この問題に限らず、戦争が引き起こした被害を訴える声が国内外から続く。東アジア共同体構想なども浮上し、自分たちだけが満足できる歴史観や世界観に閉じこもっているわけにはいかなくなっている。今、過去についての和解は一段と重要な意味を帯びる。鳩山由紀夫前首相が表明していた「歴史をまっすぐ見つめる」姿勢を、菅直人首相も引き継いでもらいたい。
シベリア特措法はその一歩になる。