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〈追悼企画〉
己の信ずるままに、おもねらず、なびかず(1)

-- 忘れてはならない日本人の肖像
平成21年4月14日に死去された上坂冬子さんに哀悼の意を表し、「21世紀日本人への伝言」として綴られた珠玉の一文をここに再録します。


ノンフィクション作家 かみさか・ふゆこ 上坂冬子

■あるインドネシア残留日本兵の死

 二十一世紀への伝言として、何はさておき筆頭にとりあげておきたいことがある。人間の姿勢の問題だ。二十世紀最後の十二月十二日に、インドネシアのジャパン・クラブから一通のファックスが届いた。

「乙戸さんが亡くなりました」

 添付された同日付の「じゃかるた新聞」によると、十日の午前五時にメンテンの病院で八十二歳の生涯を終えた乙戸氏の遺体は、その日の午後二時にインドネシア国軍の儀仗兵に抱えられて、南ジャカルタのカリバタ英雄記念墓地に手厚く埋葬されたとある。さらに乙戸氏が「日本へ今年四回目の里帰り」をしたあと体調を崩し、十二月一日に入院したと書かれてあったのを読んで、私は入院十日目ならさほど苦しむ間もなかったのだろうかと、ここで少し気の静まる思いを味わっている。

 乙戸昇氏は早稲田大学専門部の出身で一九四三年に近衛歩兵三連隊に入隊し、翌年ジャワ南方軍予備士官学校を卒業したかつての日本陸軍少尉である。本来なら日本の敗戦とともに復員(帰国)すべき立場だったのを、日本が戦時中に「戦勝の暁には、かならず独立に協力する」といって、インドネシア義勇軍の士気を鼓舞してきた様子を知っていた彼は、独立を目指す義勇軍を見殺しにして復員する気になれず、現地に残って独立戦争に協力したのであった。日本側から見れば、軍の命令にしたがわず現地に残ったのだから、いわば脱走兵ということになろう。しかも「戦勝の暁には」という前提だから、敗戦を機に復員しても約束を反古にしたことにならない状況下にあった。

 だが、日本にとってインドネシアはもともと敵国ではない。当時、インドネシアはオランダの支配下にあったため、オランダ軍と日本軍との戦いの犠牲となって被害を受けたのである。このまま日本軍が引き揚げれば再びオランダの植民地になるのは明らかで、それを見捨てて帰国するわけにいかないという日本兵が千人ほどいたという。千人のうち、七百人がインドネシア独立戦争に参加して戦死したといわれている。乙戸氏は、その生き残りであった。

「じゃかるた新聞」のトップ記事の見出しに「元日本兵の乙戸さん逝く」とあるのは、以上の経緯からである。しかも乙戸氏はこのあと、生き残りの日本兵に呼びかけて「福祉友の会」を創設した。かつての仲間の一人が椰子酒を浴びるように飲んで、あばら屋でひっそりと死んでいった様子を目撃したのが友の会創設の動機だったと私は本人から聞いている。同志が日本から遠く離れて名もなく朽ちてゆくのに耐えられず、乙戸氏はせめて仲間うちの組織として病気、老齢化、子供の進学などに関して相互扶助組織をつくりたいと考え、一九七三年の創設にこぎつけたのであった。

 いま、創設二十七年目を迎えて「福祉友の会」は旧日本兵の子供たちに受け継がれている。乙戸氏の口から「何時まで会の世話人役がつづけられるか分かりませんので、若い人に任せることにしました」と聞いたのは、いまから三、四年前のことだったろうか。世話人という一言が示すように、乙戸氏は自ら中心となって友の会を創設しながら、決して自分は理事長の座につかずつねに他の人を立てた。万事にわたって、そういう人なのである。乙戸氏の死によって、独立戦争に参加した日本兵はいまや二十五人になった。一握りの例外を除いて、彼らはほとんどインドネシア国籍を取得している。スカルノ大統領時代に独立戦争に参加した旧日本兵は、死後、証明書を見せれば遺体は金モールの制服を着た儀仗兵の手でインドネシアの英雄としてカリバタの墓地に埋葬すると決められ、ほぼ全員がそのように扱われてきた。英雄墓地に埋葬された日本兵の大半は現地の婦人を娶り、妻と同じくイスラム教徒になっているから、教義にしたがって遺体は土葬されていた。もちろん仏教徒は火葬にされる。それぞれの宗教にそって形のちがった墓標を立て、墓標の根元に一様に銀色の鉄兜が飾ってあった。東京・青梅出身の乙戸氏は、イスラム教徒「クンプル乙戸」として英雄墓地の一角に身を埋めたのである。

 インドネシア独立後に旧日本兵は、土地勘があってインドネシア語に堪能なところを重宝がられ日本企業のインドネシア進出の水先案内人として協力した。その仕事をしながら貿易関係のノウ・ハウを身につけて、それぞれが独立したが乙戸氏も例外ではなく、大阪のメーカーとタイアップした自動車の内装品工場と、アメリカの会社とタイアップした磁器人形の工場を創業して成功し、いまはこれを二人の息子が継いでいる。長男は日本に留学して日本語に不自由ないから、大阪との連絡に便利だろう。

 日本で大阪万博が行われたころ、企業はすでに軌道にのっていたから乙戸氏は夫人同伴で万博見物に来日している。だが、帰国後に夫人はかねてから病んでいた胃病をこじらせて急死した。夫人の父親はインドネシア名産のバティックの職人で、寡黙なその人と乙戸氏はとりわけウマが合い、妻亡きあと乙戸氏は二人の息子の子育てを老夫婦に任せ再婚せずに半生を過ごした。義母に先立たれた義父は孫が成人するまで家を守ったが、ある朝、乙戸氏が会社に出かけるときに「今日は、電気代の支払い日だが承知しているか」と問いかけ、乙戸氏が「有り難う。忘れずに支払いますよ」というのを聞きとどけてから、まるで湯潅(ゆかん)の手間をかけまいとしたかのように水浴をすませ、ベッドに横たわって一時間ほどで息絶えたという。乙戸氏の死も義父の死を見習ったかのような、おだやかな死だったことを祈りたい。

 続く

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 【略歴】上坂冬子氏
 昭和5(1930)年東京都生まれ。名古屋文化学園卒。34年『職場の群像』で思想の科学第1回新人賞を受賞。54年頃からノンフィクションの戦後史に執筆の力点を置き、数々の話題作を発表する。著書に『生体解剖-九州大学医学部事件』『巣鴨プリズン13号鉄扉』『慶州ナザレ園?忘れられた日本人妻たち』『我は苦難の道を行く?汪兆銘の真実』『戦争を知らない人のための靖国問題』など。平成5年第41回菊池寛賞、第9回正論大賞を受賞。平成21年4月14日、入院中の都内の病院で肝不全のため死去。享年78。