定散二善の勧めと、無碍の一道
設我得仏 十方衆生
至心信楽 欲生我国 乃至十念
若不生者 不取正覚
唯除五逆 誹謗正法
(阿弥陀仏の第十八願)
この弥陀の第十八願を素直に聞くことが出来ず、
本願を疑い、雑行を持っておられた親鸞聖人が、
弥陀の名号を獲得なされた時、はじめて、
その名号のひとりばたらきによって、
一念で本願を疑う心が晴れ渡り、雑行が廃ったと同時に、
無碍の一道に摂取された。
その上で、宗祖は弥陀の「名号」を、
このようにお知りになっていられる。
一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、
穢悪汚染にして清浄の心なく、
虚仮諂偽にして真実の心なし。
ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、
不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまひしとき、
三業の所修、一念一刹那も
清浄ならざることなく、真心ならざることなし。
如来、清浄の真心をもつて、
円融無碍不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。
(教行信証信巻)
迷える一切の衆生は、
果てしない過去から今日この時に至るまで、
煩悩に汚れ、清らかな心がなく、
いつわりへつらうばかりで真実の心がない。
だからこそ、阿弥陀仏は、苦しみ悩むすべての衆生を哀れんで、
はかり知ることのできない長い間、菩薩の行を修められたとき、
その身・口・意の三業に修められた行は、
一瞬たりとも、清らかでなかったことがなく、
一瞬たりとも、まことでなかったことがない。
阿弥陀如来は、この清らかでまことの心をもって、
完全無欠で障り無き、
思いはかることも、称え尽すことも、説き尽すこともできない、
この上のない最高無上の「名号」を成就せられた。
名号を、こう知らされてこそ、他力の信心である。
果てしない過去から金輪際、例外なく、
「名号」の相手 = 十方衆生 =「善のカケラもない者」。
この第十八願の「十方衆生」とは、
釈尊の御解説の通り「諸有の衆生」すなわち「迷える一切の衆生」。
これに漏れる人はない。
今、外道を信じている人も、
聖道門を信じている人も、
弥陀の十九願にとどまっている人も、
弥陀の二十願にとどまっている人も、
みな「一切の群生海」が
第十八願の相手であり、名号の相手であり、
すなわち「善のカケラもない者」である。
正法の時機も、像法の時機も、末法の時機も、法滅の時機も、
聖道門仏教で悟りを開いた人も韋提希夫人も例外はない。
みな「善のカケラもない極重の悪人」である。
弥陀の第十八願に摂取されて、そう知らされられた宗祖は、
「弥陀が十方衆生に善を勧めておられる第十九願」と、
「釈迦が定散二善を説かれた観無量寿経」を、
このようにお知りになっていられる。
臨終現前の願により
釈迦は諸善をことごとく
観経一部にあらはして
定散諸機をすすめけり
(浄土和讃:十九の願のこころ)
弥陀の第十九願にしたがわれて
お釈迦様は一代、教え勧められた諸善をすべて
観無量寿経の中(定善・散善)に摂めて、
『定散諸機』を導かれた。
「『定散諸機』を導かれた」と言われる、この『定散諸機』とは、
果たして、『定善・散善が出来る人』なのか?
上述の通り、弥陀にとって、そんな人は存在しない。
だから勿論、答えは否であり、
釈迦が第十九願にしたがわれて観経で導かれた相手『定散諸機』は
『定善・散善が出来る人』ではなく、
『定善・散善ができると自惚れている人』である。
ところが飛●氏はおっしゃる。
「『定散諸機』とは定善・散善のできる善人のことです。」
また、そんなことは言っていない 断章取義だ
と、お決まりのパターンだろうか。
困ったときの誤魔化し文句としては都合のいい言葉である。
弥陀の第十九願は、
設我得仏 十方衆生
発菩提心 修諸功徳
至心発願 欲生我国
臨寿終時 仮令不与大衆囲繞
現其人前者 不取正覚
間違いなく、
弥陀が「十方衆生」を相手に善を勧めておられるお言葉であるが、
その「十方衆生」とは、
「定善・散善ができる善人」などではない。
弥陀は、「定善・散善ができる善人」など一人もいないと
見抜いておられるのだから、
「定善・散善ができる善人」を相手に善を勧められたのではない。
第十九願の相手も、第十八願の相手に漏れないのだから当然である。
間違いなく、第十九願の相手も「善のカケラもない極重の悪人」である。
ところが、当人はそうは思えない。自惚れている。だから助からない。
「定善・散善ができるという”自惚れ”」
この”自惚れ”とは、
”善のカケラもない我が身とは思えない自惚れ”であり、
これこそが、流転輪廻の根元、自力の迷情なのである。
弥陀は、それら十方衆生を、
機の真実を知らせ、他力の名号に向かわせる為に、
「善のカケラもない我が身とは思えず自惚れている疑心の善人」を相手に、
善を「やってみよ」と勧めておられるのだ。
これが、随他意の願である。
それにしたがって説かれた釈尊の教えに、
したがっている人が、聖道門の人や、定散諸機である。
では、浄土門の人は、その対象にならないか。
浄土門には、
「善のカケラもない我が身とは思えない自惚れた疑心の善人」はいないのか。
形の上では浄土門であっても、未信ならばみな、
「善のカケラもない我が身とは思えない自惚れた疑心の善人」である。
生まれおちるなり浄土門の家で育ち、
「わたしたちは一生悪を造り続ける極重の悪人だから
ただ念仏より助かる道はないのだよ」
と繰り返し聞いて、「そうだそうだ」と合点し、
定善や散善がどんなものかを説明されても
「あ、それは無理。そんな善など、できるはずがない。」
と納得しただけで、阿弥陀仏の本願を信じたつもり。
もうそれで
「私は、定善・散善ができるなどとは思っていない」と言いたいだろう。
もうそれで
「速やかに雑行が廃ったのだ」と言うのならば、
取るに足らぬ異安心である。そんな程度なら、雑行はまだまだ出てくるであろう。
そんな自分で意識的にそうだと合点した信仰では、
「善のカケラもない我が身」とは露知れない。
弥陀願力のひとりばたらきで雑行が一念で廃った聖人の他力の信心とは、
天地雲泥の開きがある。
弥陀の第十九願・要門の相手は、
「善のカケラもない極悪人であるにもかかわらず、
善のカケラもない我が身とは思えない人」
すなわち第十八願を疑っているすべての人である。
だから、決して聖道門の人だけではない。
浄土門でも、未信の人はみな入る。
親鸞聖人は、
然れば『大経』には、
「如来所以興出於世 ・欲拯群萌 ・恵以真実之利」
とのたまえり。
この文の意は、「如来」と申すは諸仏を申すなり。
「所以」はゆえという語なり。
「興出於世」というは仏のよにいでたまうと申すなり。
「欲」はおぼしめすと申すなり。
「拯」はすくうという。
「群萌」はよろずの衆生という。
「恵」はめぐむと申す。
「真実之利」と申すは弥陀の誓願を申すなり。
然れば諸仏の世々に出でたまう故は、
弥陀の願力を説きて、
よろずの衆生をめぐみすくわんと思召すを本懐とせん
としたまうが故に、「真実之利」とは申すなり。
然ればこれを「諸仏出世の直説」と申すなり。
凡そ八万四千の法門はみなこれ浄土の方便の善なり、
これを「要門」という、これを「仮門」と名けたり。
この要門・仮門というは、すなわち
『無量寿仏観経』一部に説きたまえる定善・散善これなり。
定善は十三観なり、散善は三福・九品の諸善なり。
これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいう。
この要門・仮門よりもろもろの衆生を勧めこしらえて、
本願一乗・円融無碍・真実功徳大宝海に
教えすすめ入れたまうが故に、
よろずの自力の善業をば「方便の門」と申すなり。
(一念多念証文)
ハッキリと、
この要門・仮門より
「もろもろの衆生」を勧めこしらえて、
本願一乗・円融無碍・真実功徳大宝海に教えすすめ入れたまう
と仰せである。
或いはまた、
しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、
いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、
真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。
偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。
ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、
阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。
(教行信証化土巻)
ここでも、聖人はハッキリと、
阿弥陀如来、本誓願(第十九願)を発して
「あまねく諸有海」を化したまふ。
と仰せである。
「もろもろの衆生」を勧めこしらえて
「あまねく諸有海」を化したまふ
釈迦が勧めこしらえて、弥陀が化したまふ相手は、
「定善ができる人」ではなく、「聖道門の人だけ」でもなく、
文字通り、
「もろもろの衆生」「あまねく諸有海」
すべての迷える人々であり、それはみな、
「善のカケラもない我が身であることを知らず自惚れている疑心の善人」なのだ。
第十九願が、「聖道門の人」を導いておられるというのは、その通り。
しかし、「聖道門の人”だけ”」ではない。
そもそも聖道門の人とは、
釈迦が説かれた因果の道理を信じ、
善のカケラもない我が身とは知らずに
釈迦が説かれた善行を実行しようと励んでいる人である。
そこまで導かれたのは、間違いなく、釈迦の教えである。
そしてそれらの人を更にその先へ、
弥陀へと導かれているのも釈迦である。
それは釈迦の独断ではないことを、聖人は、
「臨終現前の願により」 阿弥陀仏の第十九願にしたがわれて
と教えておられる。
すなわち、弥陀がすべての人を相手に
なんとしても無碍の一道に出させてやりたいと
第十八願をお建てになられて、
その願いを果たす為だけに
弥陀が第十九願・第二十願を建立せられ、
その第十九願にしたがわれて、
善のカケラもない我が身とは知らぬ自惚れた疑心の善人を相手に
定善散善を説かれて弥陀へと導いておられるのが観無量寿経である。
ならば第十九願の相手は、浄土門であっても、未信ならば含まれる。
第十九願、第二十願、第十八願の、
「対機」が異なるという主張は、
仮にそんな行ができる人があるとするならば、という前提で見た時のこと。
どんな行為をした人が、どんな結果を得るか、という時の相違である。
それぞれの行信に対して、それぞれの往生の結果を得る。
それは、弥陀の誓願がどれも、ウソではない、虚仮ではない
ということを示されている。
なればこそ、いよいよ弥陀のお言葉は真実であり、
そのお導きがホンモノの御方便となっているのである。
名号を獲得し、第十八の願を心得て、
十方衆生に、善人は一人もいないと、露チリほども疑いなく知らされた上は、
「出来る人があるならば」という前提が打ち破られている。
弥陀の御心によって鮮明であり、
19願の相手が「善ができる人」そんな解釈はあり得ないのだ。
19願・20願の行信は、どれもみな自力でできる人など存在しない。
だからこそ、どれもみな、疑心の善人を18願へ導いておられると、
ハッキリ知らされるから、
「もろもろの衆生を勧めこしらえて」
「あまねく諸有海を化したまふ」
「この要門・仮門よりもろもろの衆生を勧めこしらえて、
本願一乗・円融無碍・真実功徳大宝海に
教えすすめ入れたまうが故に、
よろずの自力の善業をば『方便の門』と申すなり」
聖人はそうおっしゃるのだ。疑う余地が全くない。
第二十願の相手も、
それ濁世の道俗、すみやかに円修至徳の真門に入りて、
難思往生を願ふべし。
(教行信証化土巻)
聖道門の人でもなければ、定善や散善ができる人でもない。
第十八願の相手に漏れる人ではない。
「濁世の道俗」が相手。
「すべての人」が相手だと、親鸞聖人がおっしゃっている。
弥陀の第十九願も、第二十願も、
「迷えるすべての人」を第十八願へと導いておられるお言葉であることは、
歴然としているのだ。
そんなことさえ分からないから、
法然上人の「予ごときは、さきの要門にたゑず」
のお言葉の心が分からず、
法然上人でさえ出来ぬ要門を勧めている親鸞会は、
法然上人よりも偉いのかと、チグハグな非難まで飛び出てくる。
「獲信のために定散二善を勧めていますが、
それが根本的な間違いであることを
法然上人は指摘されています」
こんなことまで、大胆にも言ってのける。
この大きな大きな誤りに、いつ気づくか。
しかもそれを法然上人の責任にしているのである。
恐るべし恐るべし。
一念多念証文で明らかなように、
この要門・仮門というは、すなわち
『無量寿仏観経』一部に説きたまえる定善・散善これなり。
定善は十三観なり、散善は三福・九品の諸善なり。
これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいう。
この要門・仮門よりもろもろの衆生を勧めこしらえて、
本願一乗・円融無碍・真実功徳大宝海に
教えすすめ入れたまう
無碍の一道に出させる(獲信)のために、
定散二善を勧めておられるのは、ほかならぬ釈尊である。
その釈尊に向かって、
「獲信のために定散二善を勧めていますが、
それが根本的な間違いであることを
法然上人は指摘されています」
とは何と恐ろしいことを。
「いやいや、浄土門の人に勧めるから、根本的に間違いだと言っているのだ」
そんな声が聞こえてきそうだが、それは違うことは、すでに述べた通りだ。
やりもしないで、
できるとも、できないとも、知らされないよ。
やりもしないのに、言葉だけ聴いて、あるいは読んで、
できないのだと思っているのは、合点であって信心ではないよ。
やりもしないのに、知らされるなら、
18願に入れてやりたい一心の阿弥陀様は、
善をやらせる願を建てられないし、
お釈迦様は、善をやらせる教えも説かれないよ。
親鸞会では、そのように教えられる。
因果の道理を信じず、善に励むこともない人は、
善のカケラもない我が身とは知らぬ自力の迷情を持ちながら、
雑行を持たぬ人だから、持たぬ雑行が廃ることがない。
雑行が廃らないなら、第十八願へ転入することは夢物語。
それなのに転入したつもりならば、夢のまた夢、幻である。
「浄土門の人に第十九願は不要」との邪説はここに破滅している。
三願転入は弥陀のお計らいであり、
今さら言うまでもない当たり前の事なのだが、
否定する者があれば、言わねばならない訳である。
それにしても、飛●氏は、
根拠もない、実にいい加減なことを断言してしまえる人だ。
「19願を勧められた根拠として誡疑讃を出して、
完膚無きまでに論破された人物が、
その悔しさから断章取義と詭弁で組立てた新たなブログを作って、
喜んでいるようです。
敢て当ブログを狙っていることや、
文体及びこれまでの主張を見れば同一人物であることは明らかです。
(当然否定するでしょうが)」
思わず笑ってしまう。誰のことかさっぱり分からぬ。
私は当事者だから、ウソであることがハッキリ分かる訳である。
飛●氏は、間違ったことを堂々と断言してしまえる人である
ということだけは確かだ。
だから、「井の中の蛙である親鸞会講師部員には、
理解できないのも仕方がないでしょう。」
私を、親鸞会の講師だと思っているようだが、間違いである。
本当に違うから、否定するしかない。
「19願に留まったままの人物に言われても説得力は全くありません。」
飛●氏は、スゴイ。阿弥陀様よりも偉い。仏様よりも偉い。
相手が19願にとどまっている、などと分かるのだから。
わたしは19願に留まってはいない。
無碍の一道に出させて頂いたものである。
これも当事者だからよく分かる。
いい加減なことを断言する人だということだけは確かである。
「親鸞聖人の教えを信じて、18願での救いを願いながら、
19願を勧められて、それについていけずに親鸞会を去った人は
これまで数万人、もっと多いかも知れません。
また、親鸞会に籍は置きながら、親鸞会で勧めるところの
”善”をしようとしない会員が大半です。
親鸞会から”善”を勧められてその”善”をしようと自惚れているのは、
親鸞会の幹部のことでしょう。」
いい加減なことを次々に言いなさる。
”負け犬の遠吠え”の悲しさである。
「『教行信証』の解説書を何十冊も読んだと言いながら、
信心正因称名報恩批判論者の信楽峻麿氏の論文をわざわざ
出してくるところがなんとも滑稽です。」
誰のことであろうか?
本当に思い込みの激しさが半端じゃないことだけは確かである。
ちなみに
「信楽氏の論文の内容と、親鸞会の教えていることが違っていますが、
それも判らないのでしょうか?」
「親鸞聖人の仰った根拠が出せないから、
関係ありそうな論文は誰のものでも出しておけ、
という発想なのでしょう。」
弥陀の三願が孤立したものではなく、
すべての人が通過させられる道であると説く親鸞会を、
まるで独自であるかのように非難なさるから、
他にもそういう主張はあるよ(当たり前だが知らない人の為に)
”弥陀の三願が孤立したものではなく、
すべての人が通過すべき道であるという意見としての参考”
と書いた通りである。
参考に挙げた信楽氏の文章がすべて正しいなどと少しも述べていない。
批判するのなら、ちゃんと読んでからにしてもらいたいものである。
「宗教」カテゴリの記事
- 定散二善の勧めと、無碍の一道(2010.06.13)
- 定散諸機の誤解(2010.06.10)
- ”三願転入の教えはない”という邪説(2010.05.27)
- 善の勧めと、信心獲得(2010.05.24)
- 信仰の幼稚園(2010.05.12)