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伊藤 正孝
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「野戦服を着た知性」の輝き
記憶とは不思議なものだ。 |
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生活のなかの切り立った断面が鮮烈なシーンとして刻み込まれていることもあれば、淡々とした日常の機微であってもなぜか想い出として残っている場面があるからだ。それはシュテファン・ツヴァイクが『昨日の世界』で描いたように、決して偶然の結果ではなく、「意識しながら整理し賢明に無駄を省く力」だ。
追われるように会社を退職した日。絶対に振り向くものかと心に決めて建物を後にした夕方の風景。受験勉強中のある日、京都の自宅で窓を開け放し、朱里エイコの「北国行き」をステレオで聴いていたときの日差しのまばゆさ。「意識」して残された記憶の数々には、それなりの存在理由があるにちがいない。死にまつわる記憶にも……。
一九九五年六月六日、私は体のなかに異物を押し込まれたように重く複雑な思いを引きずりながら、東京・信濃町にある千日谷会堂に向かっていた。午後一時から行われる伊藤正孝さんの葬儀に参列するためである。伊藤さんは『朝日ジャーナル』編集長を務めた後、朝日新聞編集委員として湾岸戦争取材などに精力的に取り組んでいた。その伊藤さんが、がんに倒れ、四百三十六日間の闘病の末、五月三十一日幽界へと旅立った。享年五十八。
葬列は長く、私は焼香することもできずに会場を去らねばならなかった。オウム事件報道のため、テレビに出演する時間が迫っていたからだ。どうすべきか。思案している私に対し、『朝日ジャーナル』編集委員を務めた千本健一郎さんが、強い言葉でこう言った。
「あなたがそういう仕事をするように育てたのは伊藤さんなんだから……行きなさい」
迷いを断ちきった私は、列を離れると人混みを縫って会場入り口まで進み、遠くに掲げられていた遺影に向かってしばし手を合わせた。
私が伊藤さんと最後に出会ったのは、九五年四月十二日のことだ。有楽町マリオン十四階にある朝日新聞談話室で午後六時から取材を受けていた私は、次の仕事に向かうべく席を立った。入れ替わるようにやってきたのが伊藤さんだった。
実はオウム真理教が強制捜査を受ける前日の三月二十一日深夜、宮崎市に出張している私に伊藤さんが電話をしてきた。オウムの危険性について意見を聞きたいというのが用件だった。伊藤さんと会話を交わすのはそれ以来のことだ。電話の続きを語る私の眼をいつものようにじっと覗き込んだ伊藤さんは、ほとんど何も語らず、静かに微笑んでいた。たった数分間の立ち話だった。
この日の伊藤さんが苦悩のなかにいたことを知ったのは、それから二年も経ってからだ。『駆けぬけて 回想 伊藤正孝』(非売品、九七年)と題された追悼集に記録されていることだが、私が最後に出会ったその日、伊藤さんは高校時代の同級生だった平木英人医師に、頭痛が続いているのは脳への転移ではないか、と不安げに語っていたそうだ。多忙な日々の高揚に流され、伊藤さんの置かれた立場に思いを馳せることが出来なかったことを、私はいまでも強く恥じている。
私が伊藤正孝さんの知遇を得たのは偶然のことだった。ある出版社を追われた私は、フリーライターとして着物雑誌の原稿や小豆相場のパンフレットなどを書くことで糊口をしのいでいた。ある日のこと、段勲さんという先輩ライターから、友人が『朝日ジャーナル』に国鉄民営化問題のルポを書くので、その取材を手伝わないか、という連絡をいただいた。生活がある。断る理由は何もない。我流の取材だったが精一杯動き回った私は、データを原稿にまとめて提出した。
担当編集者が伊藤さんだった。
十日ぐらいが経っただろうか。伊藤さんから突然電話があった。「いますぐに書けるテーマはありませんか」。印象に残る独特の口調だった。「あります」と返事をする言葉が興奮のあまり上ずっていたことをいまでも忘れない。天皇在位六十周年にかける「新京都学派」の狙いを書いたのは八六年四月はじめ。新潟県に林業の取材に出かけ、戻ってきた上野駅のキオスクで手にした『朝日ジャーナル』に署名入り原稿が掲載されていることを眼にしたときの感動もまた新鮮に記憶している。
伊藤さんからは何度も電話がかかってきた。次のテーマを書けという。だが伊藤さんから代わった担当デスクには「名前を出さないで欲しい」「フリーの人に旅費は出すが宿泊費は出さない」などと言われ、「編集部」名で原稿を書いたこともあった。この状況を改善してくれたのも伊藤さんだった。
やがて編集長に就任した伊藤さんからは、藤森研さん(現朝日新聞論説委員)と二人で取り組んでいた霊感商法批判キャンペーンに加わるよう求められた。藤森さんの徹底した取材に同行し、見よう見まねで「方法」を身に付けていったこともまた私の貴重な財産だ。伊藤さんの「電話注文」は編集長交代まで続いた。書きたいテーマはすべて書かせてくれた。
病床にあった伊藤さんは、何人かの知人に手紙をしたためている。青梅マラソンをいっしょに走った香川澄雄さんには、「一つの記事、一つの放送が遺作として恥ずかしくないように、力をこめております」と書いてきた。体力が許すかぎり記事を書き、ラジオにも出演した生への迫力。
「いま『野戦服を着た知性』が必要なときかもしれない」。編集長になった伊藤さんが巻頭言「風紋」第一回の「野戦服宣言」に書いた決意である。この精神はいまなお鮮やかに生きている。
死者をして生者を動かす。
私の仕事は、かつて伊藤さんが私に求めた道から逸れていないだろうか。私は伊藤正孝の「優しく戦闘的な知性」の眼差しにいまでも見つめられていることを深く畏れ、かつ誇りに思っている。
(『ひと、死に出会う』朝日選書)
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