・ユダヤ系日本人のサイト

・やはり精神の旅は楽しい。
肉体はいつも同じ場所にいるが。
・現在、市場資本主義は、「資本論」の著者カール・マルクスがほぼ予想したとおりの道筋を歩んでいる。
・芸術の核は幼稚性だ!
・知性とか哲学とか芸術とは別に、また逆らうことができない生物的本能な芸術も重要だ。実は、私はそんな作品ばかり集めているような気がする。
・芸術家って言葉は選民思想な言葉だね!そういう言葉使えば、職人よりもえらくみえるのだろう。何をもって芸術家なのかさっぱりわからない。

文字が読めない人(文盲)の創造物がすべて芸術というなら、聖書が読めない野蛮人(ゴート人)に影響を与えたけばけばしいゴシック建築が芸術として傑作だ!
ルネサンスの時代「芸術家(アーティスト)」という単語に至っては当時の語彙にはない。この時代、アーティストと語る場合、それは哲学者を意味している。画家、音楽家、金銀細工師、彫刻家、建築家などは職人である。(1492 ジャック・アタリ)
そもそも、芸術家がなんで画家やモノを作る人なのだ。ルネサンス時代は、アーティストは哲学者を意味していた。たまたま、ダ・ヴィンチなど職人の中に非常に優れた知性を持った人がいたから、アーティスト=職人になっただけだ。そろそろ芸術家の概念も変化するかもしれない。ただの職人に戻るかもしれない。

職人=芸術家という概念を徹底的にいつか破壊しよう。たとえば、千利休は職人ではない。
・とりあえず現在は、今までの断片的なメモを頼りにさらに、よくわからない編集作業に没頭中で、あまりほかのことに興味がない。
合理的個人という物語 - 『人間らしさとはなにか?』
↑これいいな。合理性なんて強引な辻褄あわせである。物語というのも、バラバラの情報と情報を強引に辻褄あわせしたものだ。そこに真理などない。「合理化」という行為そのものが、フロイトでいえば自分を強く見せる、正しく見せるための人間の防御反応的な行為、芸術行為なのだ。学者というのは、合理化芸術なのだ。
エリック・ホッファーも岡本太郎もいっているが、人間は何千年も前からまったく精神面は変化していないのだ。変化しているように思えるが、それは宗教が発明される以前の原人並みの野蛮な文化レベルに戻っているだけなのだ。
●人類学

人間文化の歴史では、まずはじめに神々が発生し、それがしだいに人間社会の規範、物語、制度に使われた。

「物語」の発祥をたどると、物語とは、膨大な情報や記号を効率よく脳に記録するために作られた方法なのだ。

人類初期は、まだ断片的な記号や情報を覚えることしか覚えていなかった。しかし、記憶には限界があるため情報を物語の形式にして保存していくことで、人々は情報を覚えやすくなったのだ。また、物語という方法によって、人々に伝えることも簡単になった。


人間文化のいちばん奥には、古代神話の世界があった。これをまとめて「ミュトス」という。ミュトスには「神話世界」という意味と「筋書き」という意味がある。人間文化はこの筋書き絡んで進んでいる

それを最も推し進めたのが、ユダヤ教とキリスト教だ。

「当時人々は、この社会の周縁に生きる人たちにしかできない仕事を遂行するために、ユダヤ人を必要としていた。翻訳家、銀行家、会計係、教師、医師である。」
これが、数百年前の底辺職業なのである。
たとえば、手塚治虫が、元々医者だったことからもわかるように、当時最底辺職業の児童マンガ家と医者という何か大きなつながりがあるのだ。
「畜群」に頼らず生きていくには、医者や錬金術師のような職業しかないのである。
●近代金融

グローバル金融危機は、地球規模という点で史上初だ。人類がこれまで経験したすべての出来事のうちでも、最も破壊的であり、広範囲に影響を及ぼすだろう。危機は、まず通貨・財政・金融機関が弱体化からスタートする。

1620年頃に発生したジェノヴァの金融危機は、スペインの景気が後退したことで、その影響をまともに受けた。こうして中心都市はアムステルダムに移動した。以後、地中海に面したスペイン王国、イタリア教皇国、フランス南部は、中心都市とのコンタクトを永遠に失うことになり衰退を余儀なくした。

1636年、アムステルダムでチューリップバブルが発生し、1637年チューリップバブルが崩壊した。しかしながら、ネーデルラントは危機を乗り越え金融市場は強化され、世界中から資本を呼び寄せた。このことにより、アムステルダムは一世紀半にわたって世界に君臨することになった。たとえ危機が発生したとしてもきちんと対処できれば、中心都市が移動することはない。

1720年、ロンドンでは、株価・通貨バブル崩壊により「南海会社」ならびに数行の銀行が破綻した。これを教訓にして、イギリス政府は「シティー」を整備し、イギリスがネーデルラント連邦共和国から権力を奪い取る土壌をつくりだした。1780年には、優秀な金融マンの後を追うように、オランダの海運業者は、オランダから抜け出し、ロンドンへと移住した。8年後、オランダの主要な銀行は破綻した。

20世紀に入る少し前、中心都市はボストンへ、そしてウォール街へと移転した。1907年、株価が暴落し、20世紀最初の金融危機が勃発する。これを教訓として、ワシントンに「連邦準備制度」が設けられた。ドルが次第にポンドに取って代わるようになった。

第一次世界大戦が近づくにつれ、J.P.モルガン、ロックフェラー、チェース、シティ、リーマン・ブラザーズ、モルガン・スタンレーといった、19世紀に設立された銀行の大半は、大規模に預金を集めて証券に投資する機関となった。

第一次世界大戦の直前、持株会社や信託業務など、新たな投資手段が、規制を受けることなく数多く登場した。預金業務と投資業務を同時に行っていたアメリカの銀行は、イギリスの銀行に取ってかわりはじめた。

1919年、アメリカ人はフロリダの不動産に目をつけはじめた。中産階級の上位に位置する人々も、フロリダに別荘を購入するためにローンをくんだ。彼らのローンは、彼らの保有する株式資産を担保する場合が多かった。株価は経済成長とともに上昇していった。

1926年、フロリダという特殊な不動産に対する需要に陰りが見え始めた。しかし、不動産価格は上昇しつづけた。そこで以下のメカニズムが作動しはじめた。

銀行は、誤った楽観主義によって、自行に預金のある顧客に軽率な投資を推奨するといった行為が蔓延し、不動産市場のバブルが株式市場に飛び火した。これが、熱狂を起こし、消費が喚起され、経済成長が促された。

仕事が忙しかったり、ほかの研究(人類学)で忙しくて何もしていないのだが、ふとここしばらくカルチャーと距離を置いてみて気づいたことに、私は、非常に単純な個人的な好みで絵を買っていることに気づいた。

そこに、芸術的な文脈的視点だったり、時代に適応したものであったり、哲学的な意味は何もにない。

本当はあまり何も考えていなくて、本能的にそのまま絵を買っているらしい。知的な芸術家が考えることぐらいであれば(村上隆や日本の現代美術家程度)であれば、自分だって考えられるので別に何とも思わないのだろう。

もっと、かわいい絵だったり普通の人間的な感情の絵が好きなのだ。少し距離を置いて初めて、ただ愛おし作品群であることが分かるようになる。至近距離過ぎると分からない。

そして、私は着々と計画を進めるのだ。
私は、その生涯を、人類の共有する(集団)幻想の破壊についやしてきました。(フロイト)」

そのために彼は、心的な世界の尊厳を犯し、その優位をおとしめる不快で不気味な思想家として、数々の非難と迫害を受けた。人々の自己愛を傷つけ、人間をより弱く、より低いものとして描きだす、しかし実は、この破壊は、直視することの不快で苦痛な自己の現実を、なおも厳しく見つめる自己認識の進歩をめざすものである。

とくにフロイトは、「わたしは、若い頃から固く結んだ多数者たちから仲間はずれにされるという運命が身にしみてしまったが、このようにして、わたしの判断(知性)のある種の独自性が準備されることになった」と。そんな仲間に入ることが望めなくても、「人類」という埒内においてならば働き場所がみつかるにちがいない」と。


▼ユダヤ教
言語や宗教、あるいは国や都市の出現、さまざまな民族同士の戦争や侵略といったことが、非常に複雑になり、それがある量まで達した。

人間の欲望や煩悩が、それまでとはちがう現実味をもって人間社会をおびやかしはじめ、それが臨界値に達していたのだという。そして、それをコントロールしていく新しい技術や方法が求められた。

そのため、物語を伝承しているだけでは足りず、「未来」というものを考え始めた。ここで「預言」という方法が発生した。また「契約」が発生した。この「預言」と「契約」が重要なのだと。

ソロアスターは「善」と「悪」という二分法を発明した。また、ユダヤ教から一神教的世界観が誕生した。ヤーウェとユダヤ人との間で「契約」が結ばれた。ユダヤ人に「イスラエル」という国を保証する約束だ。背景には、ユダヤ教が一神教を信仰しはじめたのばバール信仰との対立や葛藤があった。

結局、イスラエルは滅ぼされた。そのあと「メシア思想」が生まれた。次に「ディアスポラ(民族離散)」が発生した。しかしユダヤ人たちは、国をおわれ、世界中に離散し、弾圧されながらも文字や言語を統一し、ユダヤ教を確実に広げていった。
二分法と一神教の信仰により、バール信仰のようなものを「闇」として排除し、自分たちを「善」とする立場の確立があった。また、宗教によって民族の優劣を主張したり、多民族を差別するという人間文化上の重大な問題が、刻印された。これは今日まで続いてる。

一方、インドに入った選民思想のアーリア人は先住民族を徹底的に差別していった。そしてカースト制ができた。ちなみに、ヒトラーの思想はアーリア人の選民思想である。


▼キリスト教
キリスト教の思想の根本は、「知」と「愛」と、そして「罪」、この3つだ。人間が生まれながらにしてもっている「罪」というものを認め、アウグスティヌスが言うように「神の国」にいたるための修行をすることによって、神の「知」と「愛」を得ることができるということだ。しかい、「神」と同時に「悪」というものもある。なぜなら「善」というものは「悪」があることによって、それに対するものとしてしか名指しできないからだ。憎むべき敵、思いとおりにならない存在、忌むべきものがあったときに、それらを「悪」と見なすことによってのみ、「善」なる知や愛というのを重視していくことができたからだ。


ユダヤ人たちは「モーセ五書」を次々に編集する。これによって初めてユダヤ教は文字になった。さらに紀元前2世紀ごろのヘレニズム時代、アレキサンドリアに住むユダヤ人たちが結集して、ヘレニズムの共通言語である「コイネー」によって聖書を翻訳するという大事業を無した。これでユダヤ教はヨーロッパに広まっていった。

キリスト教は、ユダヤ教徒たちのなかでも、最も信心深いエッセネ派「クムラン宗団」の死海文書に記されていた「救世主信仰」を換骨堕胎することで成り立った。ユダヤ教よりも先に救世主というわかりやすいヒーローを強調すること、つまりイエス・キリストを立てることで成立した。

パウロがイエスを編集したのだ。

ユダヤ教では、あくまで神の言葉である「律法」を重視していたのを、パウロは、神の子であるイエス・キリストの教えを守ることこそが神への道であるとした。

キリスト教は、もっぱら異教徒たちを相手に広めていった。パウロによって、完全にユダヤ教から分離されて、新宗教としてひとり立ちした。とくに「キリストの死と復活」という劇的なドラマを強調することによって、救世主願望をうまくひきだした。

ローマ時代、キリスト教が辺境の民族や下層の人々に受けいられるようになると、キリスト教の迫害が始まった。そこで、キリスト教はローマ帝国に敵対する組織ではなく、ギリシア時代から続くローマの理想にこそ尽くす宗教なのだ、という弁護活動がはじまった。ローマ人に受け入れられるには、ギリシア哲学に匹敵する理論武装をする必要があったのだ。

ギリシア哲学以来の「ロゴス」にもとづく原理と、キリスト教の原理を重ねあわせて論理的に体系化したのがオリゲネスだ。ちょうどローマは衰退時期へと向かっていた。そこで、キリスト教こそが、ローマの心理、ローマのビジョンを満たしてくれる期待が高まった。313年、コンスタンティヌス帝が、ついにローマ帝国として初めてキリスト教を正式に認める。

アウグスティヌスが「告白録」を綴ることで徹底して自分自身をみつめ、それによって人間がいかに神の国へいたることができるのかということを「神の国」で問い続け、その方法論として三位一体を徹底的に解明していった。

「神の国」の伝達機関として、教会があらわれた。人間の「原罪」をのりこえるには教会が必要なのだ。教会はヒエラルヒー化して中央のローマ教皇が統括することになった。

信仰を日々の生活や活動の中で実践するために「修道院」ができた。教会が教皇をトップとするヒエラルキー型の組織で拡張していったのとは異なり、修道院はそれぞれが独立したネットワーク型の組織だった。この時代のヨーロッパの人間文化はほとんどこの修道院によって維持・管理されてた。ベネディクトゥス会ははリーダー的な存在だった。

7世紀のはじめにイスラム教が成立した。世界ではじめて最初から文字を持った宗教だった。マホメット死後、わずか24年で、イスラムは西アジア全域に拡大した。勢いはさらに拡張して、8世紀になるとイベリア半島に侵入して、ヨーロッパの脅威となった。フランク王国のカール・マルテルがトゥール・ポワティエの戦いでイスラム軍を撃退した。これはヨーロッパ史上最大の危機である。

11世紀、イスラム勢力か聖地エルサレムを奪還するために十字軍が編成された。十字軍の目的は失敗におわるが、イスラムという大きな敵と闘うことによってヨーロッパにはじめて連帯感がもたらされた。というのも、それまでヨーロッパは王国とか帝国というたったひとつの、あるいはいくつかのアイデンティティで表せるようなものではなく、無数の都市や都市国家が群雄しているような状態だったからだ。ヨーロッパにとっては、イスラム世界はいわば自分たちの姿を映し出してくる鏡のようなものだった。


中世ヨーロッパでは次第に、異端のキリスト教文化が目立ち始めた。キリスト教に改宗したゴート人のゴシック文化が12〜13世紀ごろの教会の建築様式となった。キリスト教は、「異」なる外部者たちによってもたらされた異教的な文化システムをとりこんでいった。ルネサンスは、ヨーロッパ全体がこの異教趣味にかなり傾いたところから出てきた。こうしたなかで、イスラムによって保存されいてた古代ギリシアやローマの文化を学び始めた。

トマス・アクィナス、ロジャー・ベーコン、ドゥンス・スコトゥスといった修道僧たちが、キリスト教的な信仰とギリシア・ローマ的な哲学や理性とをなんとか調和させるために、ラテン語という特殊な言葉を用いて、独自の学問体系をつくろうとした。これは、どうやってキリスト教とアリストテレス体系を両立させるか、融和させるかということに挑んだ特別の学問だった。ラテン語はそのために作られた。

13世紀なかばにもなると、キリスト教的な哲学とプラトン・アリストテレスの哲学を、かなりの点でうまく融合できるようになっていった。このスコラ哲学の時期が「ゴシック」に対応していた。

こうして、ゴシックからグレコ・ローマン様式、すなわちギリシア・ローマ様式と呼ばれるものに変化する。

ルネサンスでおこっていたヨーロッパ近世全体の背景は「キリスト教権力の弱体化」「各国の国王の強化」「商人の活躍」だ。また、1450年にグーテンベルクが活版印刷術を発明したことも大きい。人々が聖書を身近に手にとることができるようになると、これまでのローマ教会のありかたに疑問を持つ人々が現れるようになる。そこへ、マルティン・ルターが出てきた。こうして宗教改革と印刷革命があわさってルネサンスの時代に入っていった。

その次はバロック時代だ。バロック時代の特徴は「物語性の強調」だ。また必ず2つ以上の焦点がある。ルネサンスの世界観は宇宙はたった1つだったが、バロックではマクロコスモスとミクロコスモスが2つながら対比してくる。かつ、2つの世界は必ずしも完全に対照しあっていない。このころ実は、科学革命が起こっていた。コペルニクスが地動説を発表し、17世紀後半になるとニュートンが万有引力の法則を発表した。