会社概要
 『いちい』という変わった社名は屋号の「一イ」からきている。明治25年創業の海産物問屋伊藤商店は長い間「にんべんさん」として親しまれてきていたが、商標権の問題から「いちい伊藤商店」に、そして昭和48年(株)いちいに名称変更したものだ。
 この『いちい』、材質が堅く、また木目がキメ細かくしっかりしていることから神主が持つへらの材料となる針葉樹「一位」にもつながり、縁起がいいことから社のシンボルマークにもしている。
 スーパーマーケットを開業するようになったのは、昭和42年10月の山下店から。今年2月副社長に就任した伊藤六郎氏が、「スーパーを始めるから」と父親(故人)に呼び戻されて最初に配属されたのがこの山下店。そして、買参権の印でもある帽子を渡され、青果市場に放り込まれるハメに。右も左も全くわからないズブの素人が仕入れを任されたのだ。
 「人に教えられるのが嫌いな性格ですから、見様見真似で一から勉強しました。朝3時に起きて市場に出かけ、店に戻って品物を並べ、社員やパートに作業の指示をするなど大忙しの毎日。1カ月ほど店で寝泊まりしたのですが、布団の代わりに段ボールをかぶって寝てました」と伊藤副社長。

近くに店がない小団地から要請を受け赤字覚悟で出店

 郡山市に本拠を置く県下最大のリージョナルチェーンストアも、当時はまだ福島市には進出しておらず、『いちい』の活躍が注目されていた。
 昭和50年わずか50世帯しかいない団地(今では人口1万3,000人、3,500世帯に膨れ上がっている)から「ぜひ出店してほしい」と要請され、赤字覚悟で蓬菜店を出店するまで、SMと呼べるのはこの山下店1店だけだった。
 (株)いちいが多店化を意識し始めたのは昭和58年、今は福島西店になっている八島田店をオープンした頃から。中期5カ年計画に出店計画を盛り込み、出店エリアも宮城県や福島県南部へ拡大しようという意欲的な計画だった。
 「バブル経済の崩壊で、この計画は根本から見直さざるを得なくなりましてね。当時店舗開発の責任者となっていた私は、計画解消をめぐって地権者と折衝する日々が何日も、あるいは何カ月、何年も続き、体を壊して通院することも1度や2度に限らなかった。それほど苦しい日々が続きました」と伊藤副社長は当時を振り返る。
 その間、新規事業として外食産業に進出したり、ドラッグストアやリカーショップを手掛けたり、今は1番の稼ぎ手となっている新業態「パワーデポ食品館」を開業したりと、不況に強い企業体質を活かして、着実に企業規模を拡大している。
 「平成12年の須賀川東店(次号で紹介)で新規出店は一段落したので、今年1年は既存店の改装に力を入れていく予定にしています」(伊藤副社長)という。が、来年度は4店舗新規出店を計画している。
 それに備え、再度SMの基本原則である「クレンリネス」を徹底して社員に浸透させる。名付けて「クリーン作戦」。自分達で日常の清掃作業を行うことでその意識を高めようというもので、3カ月間店舗単位で競わせる。「1位から5位までに入賞した店舗には、それに準じた報賞を出すことにしています」(伊藤副社長)と、社員にハッパをかけている。